怪談登志男 十一、現在墮獄 / 怪談登志男卷二~了
十一、現在墮獄(げんざいたごく)
今はむかし、武陽、豐島郡の商家に、米屋與兵衞といへる者ありける。男子二人あり、兄を甚兵衞といゝしが、きはめて吝(しは)きおのこなり。次男を佐兵衞と云しが、大なる婬氣(たはけ)ものなりける。
ある時、與兵衞が庭の中に、一夜の中に、穴、出來て、わたり四尺ばかりの口なるが、覗見れば、閽して、其深きこと、限り知れず。
夜に入て、此穴の底より、哀(あはれ)に悲しき聲にて、與兵衞夫婦が名を、呼(よふ)事、ひまなければ、家内、何となく物冷(すさ)まじく、日暮ては、
「此聲を聞(きか)じ。」
と、夫婦、はなれ家の幽(かすか)なる所にうつれば、下部も、各、臥所(ふしど)に閉籠(とぢこも)りて、商賣の事も、おのづから、うとくなり行ぬ。
「斯(かく)ては、いかゞ。」
と、樣々の祈念などせしが、さらに其しるしもなかりけり。
かゝることありて、
「家も、やゝ衰へたり。」
と、きゝて、靑山に住けるものの、與兵衞にしたしみ深きおのこ、來りて、始終の物語を聞、
「左樣のこと、見とゞけずんば、あるべからず。」
と、腰に長き繩を付、大勢、下部どもにひかへさせ、無二無三(むにむざん)に飛入たるに、
『十丈[やぶちゃん注:約三十メートル。]もや、あらん。』
と思ふ所の橫に、拔道(ぬけみち)あり。
かしこに至りて見れば、猿のごとくなるもの、數十、居並(ゐなら)びたるが、各、言葉を揃て、
「我々は、與兵衞夫婦が父母をはじめ、祖父母・曾祖父母、みなみな、先祖の輩なるが、いづれの與兵衞が代にも稀なる、今の與兵衞が邪(よこしま)、世人(よひと)、皆、うとみ、にくむ。其子甚兵衞は利慾をもつぱらにし、一點の信義も、なし。次男左兵衞は、あけくれ、大酒・淫亂にして、さらに善事をなすこと、なし。先祖考妣(かうひ)は、昏々(こんこん)たる冥途に有て、猶、罪業(ざいごう)に重苦(じうく)を受得て、各、無間(けん)に落入たり。是、皆、與兵衞が利慾に他を苦しむる故なり。〆賣(しめうり)・〆買(しめがい)、二升(ます)の罪にて、我等、皆、かくのごとし。此むね、與兵衞に、つぶさにきかせよ。」
といふ言葉の下より、手に手に、筆を取て、此男の脊中(せなか)に、面々の戒名・俗名、つまびらかに書付、穴の中より、突(つき)出す。
繩の動[やぶちゃん注:「うごく」と読んでおく。]を見て、下部共、繩を手ぐりて、引あげければ、與兵衞夫婦をはじめ、皆々、圓居(まとゐ)して、彼(かの)男を中に取まき、
「いかにや、いかにや。」
と樣子を問ければ、はじめ終(おはり)を、くはしく語り、脊中の文字を見せけるに、あらそふべき言葉も、なき。
みなみな、先祖代々の法名・俗名、其中に、いまだ、きかざる俗名など、一家の老人にきけば、いかにも疑ひなき先祖なれば、與兵衞夫婦も、一念發起して、甚兵衞に家を讓り、剃髮受戒し、武州越谷(こしがや)に、庵をむすびて、後世を勤む。
甚兵衞は志(こゝろざし)をあらため、つき米やを改て、小間物賣に仕替(しかへ)、年久しき住居は、あき家となりて、荒はてしが、穴もふさがり、怪しき事も、やみける。
[やぶちゃん注:これは私は今まで類話を見たことがない特異点の怪談である。現在地獄に苦しむという設定は数々あれど、背中に戒名・俗名を逐一書き出して証拠とするというのは、何んとも凄まじいものを感ずる。或いは芳一話の経文を体中に書くという辺りにヒントを得たものではあろうが、ともかくも面白い一篇である。
「武陽、豐島郡」「としまのこほり」。「豊嶋郡」とも表記した。武蔵国の中でも非常に古くから栄えていた郡の一つであり、多摩郡に次ぐ大きな郡であった。その郡域は現在の練馬・豊島・板橋・北・荒川・台東・文京・新宿の各区と千代田・港・渋谷区の一部を含むものであった。されば、逆にロケーションを限定することは出来ない。但し、手広くあくどい米商いを展開していたことを考えれば、現在の東京都豊島区内(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を考えてもよかろうかとは思う。後に出る「青山」(東京都港区青山)ともここならば、近い。
「婬氣(たはけ)」当て訓。愚か者。しかし、後の祖先の批判を見れば、特に大酒呑みの淫乱であったことが判る。
「閽して」原本にもルビがない。「くらくして」と読んでおくが、実はこの漢字にはその意味はなく、「門番」・「宮門」・「宦官」・「足切りの刑を受けた者」の意である。「昏」の字を含むために、「闇」などと通字と誤解したものであろう。
「幽(かすか)なる所」普請の粗末な離れ屋の意でとっておく。如何にこの声が空恐ろしいものであったことを示す効果がある。
「考妣(かうひ)」「考」は「亡父」、「妣」は「亡母」の意。亡き父母のこと。
「無間(けん)」無間(むげん)地獄。阿鼻(あび)地獄とも呼ぶ。地獄の最下層にある最悪の地獄とされる。剣樹・刀山・熱湯などの苦しみを絶え間なく、しかも想像を絶する永い間、受け続けるとする。
「〆賣(しめうり)」江戸時代の商行為に於いて、品物を買い占めて(こちらが「〆買(しめがい)」)、供給量を意図的に制限した上で、高値を設定し、やおら売り出して、ぼろ儲けをすること。
「二升(ます)の罪」与兵衞は米屋であるから、それに掛けて、地獄の罪の裁量のそれを、米を実計量する最大の計量具たる「升」に喩え、それがさらに「〆買」と「〆賣」とで、ダブルでダメ押ししたものである。
「圓居(まとゐ)して」「まどゐして」。穴から帰還した男を中心に車座になって。
「越谷(こしがや)」埼玉県越谷市。
「後世」私は常に「ごぜ」と読む。
「つき米や」「搗米屋」。搗米は精米する作業を指し、近世にはこれを専業とするものが現われ、「搗米屋」と呼ばれて、米穀流通の最終過程を担当した。江戸には延享元(一七四四)当時で十八組、凡そ二千百人の搗米屋が存在し、臼五千五百基ほどを使って営業していた。このほか、搗米を営むものとして「大道搗(だいどうつき)」が、享保一二(一七二七)年当時で千百人ほどいた。「搗米屋」・「大道搗」は、ともに玄米を河岸八町米仲買(二十五人)、脇店八ヶ所組米屋(二百七十五人)から買い入れて白米にして消費者に売っていた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。因みに本書の刊行は寛延三(一七五〇)年であるから、「今はむかし」と始まるものの、読者の時代は上記の延享元年頃と近い。
「仕替(しかへ)」やり直し。転職し。]
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