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2021/01/27

奥州ばなし 佐藤浦之助

 

     佐藤浦之助

 

 高山公とせうし奉る國主の御代に、「布引」と云し、すまひとり有しが、其かうむりし由來は、ある時、

「ちからを、ためさん。」

とおもひて、日本橋へいでゝ、車うしの、はしり行《ゆく》を引《ひき》とゞめしに、牛は、はしりかゝる、いきほひ、此方《こなた》は、大力《だいりき》にて引とめしを、車、中よりわれて、左右へ、わかれしとぞ。

 それより後《のち》は、牛の胸へ、布をかけて引しに、いつも、とゞまりし故、「布引」とはつきしとぞ。

 天下にまれなる力士といはれしを、「松浦《まつら》ちんさい」と申《まうす》【六萬石大名。】、茶の湯好の大名のかゝへと成《なり》て、「日の下かいざん」と名のり、殊の外、祕藏せられしとぞ。【解云、布引は、烏獲《うかく》が奔牛《ほんぎう》を曳駐《ひきとど》めしといふ故事と、同日の談なり。】[やぶちゃん注:以上は馬琴の頭注。]

 さるを、かねて國主にも、松浦家と御じゆこん[やぶちゃん注:「入魂」。「昵懇」と同じで、歴史的仮名遣はこれで正しい。]なりしうへ、この御家中にも、茶之湯・御弟子、かれ是、有て、しげく御出入被ㇾ成(なられ)しとぞ。

 國主、おほせ出さるゝは、

「布引をなげむと思ふほどのもの、國中にあらば、申出《まうしいで》よ。」

と、ひそかに、ふれ、有しに、村方の役人をつとめし人に、佐藤浦之助といひし男、小兵(こひやう)にて、大力の「やはらとり」にて有しが、

「私《わたくし》も、ひしと鍛練いたしなば、なげ申べし。」

と申上たりしを、

「さあらば。」

とて、けいこ、仰《おほせ》付く。其内は、日々、鴨二羽を食料に給はりしとぞ。【鴨を食料に給はりしは、隨分、油のつよき物を食うへ、身にも油を引て、其日は出《いで》しとぞ。少し手のさはりても、油にすべりて、とらまへられぬ工夫、とぞ。つげごとにや、人の語し。】

 日《ひ》、有《あり》て、

「わざも熟したり。」

と思ひしかば、その由を申上し時、松浦家へ仰入らるゝは、

「手前(てまへ)家中(かちゆう)に、『「布引」と力をこゝろみたし』と願《ねがふ》ものゝ候が、をこがましきことながら、御慰《おなぐさみ》に勝劣を御一覽候はんや。」

と仰《おほ》せつかはされしに、もとより、すまふ好《ずき》の松浦殿なりければ、

「興有ること。」

と、悅(よろこび)給ひ、[やぶちゃん注:この引用の格助詞「と」は底本では「ゝ」。]

「いそぎ、此方《こなた》へ、つかはされよ。」

と挨拶有しかば、浦之肋をつかはされしかば、廣庭《ひろには》にて立合《たちあひ》しに、

『あなたは、名にあふ、關とりなり。こなたは、勝れて小兵(こひやう)なり。いかでか、是が勝《かつ》べきぞ。』

と、思召《おぼしめさ》るゝ風情《ふぜい》なりしが、浦之助は、こなたへ、くぐり、かなたヘ、くゞり、さらに布引が手にのらず、いかゞはしけん、大男をかつぎて、

「ひらり」

と、なげしかば、どよめき興じ給ふこと、しばしは鳴《なき》もやまざりたり。

 松浦殿、浦之助を、

「すぐすぐ、是へ、是へ。」

と、めされしかば、

「女中なみゐし奧座敷へ、いなかそだちの無骨もの、はだかのまゝにて立出《たちいで》しは、布引との立合より、かへりて臆したり。」

とぞ。

 松浦殿、そばちかくめされて、

「今日のふるまひ、誠におどろき入《いり》たり。これはいかゞしけれど、つかはすぞ。」

とて、二重切《にぢゆうぎり》の花いけ【名器なり。】を、手づから給はり、

「扨《さて》。この坐に有《ある》女《をんな》の内、いづれなりとも望《のぞみ》次第、其方が妻に得さすべし。」

と有ければ、浦之助おもふやう、

『無骨ものゝ妻には、よき女はのぞみても、末、とげまじ。』

と思ひて、一番、みにくき女に、盃《さかずき》をさしたりとぞ。

 浦之助がくふうは、

『とても、大力・大ひやうの角力《すまひ》につかまれては、かつこと、あたはず。たゞ、ぬけくゞるうち、かつぎなげにせん。』

と、多日、くふうしたりしが、うまく、其手に行《ゆき》しなり。

 布引は、殘念に思ひ、

『今一度、たちあはゞ、みぢんになさん。』

と、ひらに立合のこと、願《ねがひ》しかど、勝劣さだまるやいな、此方《こなた》より、

「ひし」

と、警護の者、つき添《そひ》、早々、浦之助をつれて引《ひき》とり、一生、他行《たぎやう》、相《あひ》とめられし、とぞ。

 布引が遺恨に思ひて、もしあやめやせん、との、心づかひなりし。

 布引も、「やはら」の手にてなげられしを、

「一生、この無念はれず。」

と、いかりて有しとぞ。

 このこと、此國人《こくじん》は誰《たれ》もしりて語れど、江戶人は、たえて沙汰せぬことなり。

 いかばかりか、興《きやう》有《ある》ことなりつらん。

 

[やぶちゃん注:この話、サイト「エキサイト・ニュース」の「相撲の褒美は結婚? 江戸時代の結婚観が凄い」に二回に亙って本篇を現代語訳したものがある。しかし、この程度の古文で直ちに訳に頼るようでは、日本の未来は、何の夢も希望もない、と私は思うことしきりである。リンク先のそれはよく訳されているが、怪奇談に領域では、古文の初級レベルの知識も欠いたとんでもない語訳が有象無象転がっている。まっこと、嘆かわしい限りである。

「佐藤浦之助」仙台藩士として実在し、主に元禄時代(一六八八年~一七〇四年)には相撲名人として「紅(くれなゐ)浦之助」の四股名で知られた人物。宮城県仙台市青葉区通町(とおりちょう)にある全玖院(ぜんきゅういん:グーグル・マップ・データ)に墓が現存する。相撲絡みの古文献の電子化などで緻密な内容を持つ、古くから好きなサイトで、坪田敦緒氏の作成になる「相撲評論家之頁」のこちらに(実は流石は同サイト、こちらに次の「丸山」(冒頭の大男丸山(相撲絡み有り)の話のみ)とともに本篇がちゃんと載っている)、彼の墓所を確認された記事があり、『戒名・円光宗室信士(旧墓正面・新墓左側面)。 紅浦之助は、「古今相撲大全」』(宝暦一三(一七六三)年叙)『の「古キ名人之部」に「紅井浦之助」としてその名を出す、仙台藩抱えの力士で、出身は宮城県北部の志波姫というところ、いまでいう大崎市である。本名を佐藤権三郎、のち浦之助に改め、当時の』第四代『藩主伊達綱村』(万治二(一六五九)年~享保四(一七一九)年:藩主在位は万治三(一六六〇)年七月から隠居した元禄一六(一七〇三)年まで)『によって紅の四股名をつけられたという。江戸にある平戸藩松浦鎮信』(これは初代藩主であるから誤りで、綱村と重なるのは第五代藩主松浦棟(まつらたかし 正保三(一六四六)年~正徳三(一七一三)年:藩主在位は元禄二(一六八九)年七月から隠居した正徳三(一七一三)年二月までであるから、綱村と被るのは棟の在任期の十三年の間となる)『侯の屋敷に招かれ、西国斎蔵(または布引ともいう)と取って勝ち、天下一と名乗れ』、『と褒めそやされたと伝えられている。また、日下開山を称した鬼巌という巨人力士が全国を歩き、仙台で相手を募ったところ、紅は鴨肉を食べ続けて体表に脂を浮かせ、千変万化と讃えられるその取り口で鬼巌を倒し、紅の名を全国に知らしめたという伝説まで残っている。しかも鬼巌はその場で死んだというから、俄かには信じがたいが。相撲をやめてからは』、『地元で郡』(こおり)『奉行と』しての藩の御役目の傍ら、『算盤塾を開いていたという。晩年は仙台で御破損方役人となり』、享保一二(一七二七)年六月七日に亡くなった(なお、この記載は、真葛の話をしっかり裏付けている。相撲の相手にやや異同があるが、問題とすべき内容ではない)。『佐藤家墓域の右奥、真ん丸の石が台座の上に乗っている。高さは台とあわせて』六十六センチメートルで、『中央に「円光宗空信士 松室妙貞信女」と彫られてある。無論、この「圓光宗空信士」が『紅のことで、右には「佐藤浦之助景次 享保十二未年六月七日 行年七十歳」とある』(これが正確であるとすれば、佐藤浦之助は明暦四・万治元(一六五八)年生まれとなる。但し、以下に続いて食い違う資料が有る)。『墓域中央には、いつの建』立『か分からないが』、『新墓「佐藤家之墓」があり、棹石』(さおいし:墓の一番上に配される石。墓標部分のメインの石)『左側面から背面に亙って多くの戒名がある。一番最初に「円光宗空信士 享保十二年六月七日 浦之助 七十二歳」とある。年齢に喰い違いがみられるが、紅をスタートとして江戸から昭和まで、丹念に彫られてある。 さて、新墓には紅のとなりに「霊光不味信女 天保三年十一月二日 妻」と彫られてあるのだが、天保』三年は西暦一八四二年で、『いくらなんでも夫婦で』百十五『年も歿年が開くはずはない。とすれば、やはり旧墓の「松室妙貞信女」が紅の妻なのだろう。どうして新墓では消えてしまったのか?』とある。ともかくも、この「松室妙貞信女」こそがこの話柄で彼が貰った妻の戒名であるのである。

「高山公とせうし奉る國主」これは、話の初っ端に示してある以上、仙台藩主の別称と考えねば筋が通らない。「高山公」の異名が見当たらないので、当初は直後に続く相撲取「布引」を抱えていた(或いは後にお抱えとした)「第五代平戸藩主松浦棟(たかし)の名と『高山公』は意味が通ずるかも」なんどと安易に考えていたものの、そう都合よくは行かず、松浦棟に「高山公」の異名は見当たらない。「困ったな」と思って今一度よく資料を見てみると、第四代仙台藩主伊達綱村の戒名が目に留まった。「大年寺殿肯山全提大居士」である。「肯山」は「高山」と音通だし、草書の「肯」を「高」と写し誤る可能性もある。さすれば、綱村の「肯山公」の誤り、と私は採ることとした。

「車うし」これは牛を轅の間に挟み込んだ牛曳きの小・中型の荷車(前後長は決して長くない)のことを指している(くれぐれも牛車(ぎっしゃ)なんぞを思い浮かべないことである)。大型のリヤカーに大きな農耕牛が繋げられたものを想起されれば、違和感がなくなるはずである。

「はしり行《ゆく》を引《ひき》とゞめしに」この場合は、行き過ぎたそれを、後ろから、荷車部分の後尾を、やおら、むんずと両手で摑んで、引き留めたのである。

「車、中よりわれて、左右へ、わかれしとぞ」牛の背後に接続されてある荷車が、引き留めている布引との間の、丁度、真ん中で、まず、前後に「バツン!」と割れたのである。さすれば、牛に装着されている荷車の轅(ながえ)の後ろ部分は左右に弾け、また、荷車の後尾を布引は一箇所ではなく、左右位置で摑んでいたものと思われるから、そのモーメントは今度は前後ではなく、左右方向に「ガバン!」と弾けたとするのは、理に適った描写と言える。

「それより後《のち》は、牛の胸へ、布をかけて引し」荷車が完全損壊してしまうので、持ち主から弁償を迫られて当然であるから、そうならないように、牛本体の頸部の下方の前胸部(両前足の付け根前部)に強靭な長い布を引っ掛けて、荷車に負荷がかからぬように、パフォーマンスを行ったということであろう。

「松浦《まつら》ちんさい」「六萬石大名」「茶の湯好の大名」平戸藩は元は六万三千二百石であったが、先に私が同定した松浦棟の先代の、父で第四代藩主松浦重信の藩政中に、分知によって六万千七百石になっていた。また、棟の藩政中の元禄二(一六八九)年には同じく分知により五万千七百石に減っている。「ちんさい」はまず間違いなく「鎭齋」と思われ、ここは棟の雅号ではないかと考える。その根拠は、棟の号に「履担齋」という「齋」称のそれがあること、また、何より平戸藩初代藩主は松浦鎭信(しげのぶ)で、例えば、棟の父重信も隠居後に、諱を曾祖父と同じ鎭信と改めるほどに歴代の当主が「鎭」(鎮)の字を好んだからである。なお、棟は名君で、荒廃で苦しむ農民の救済に尽力し、また、優れた文化人でもあった。彼の四代後が、かの「甲子夜話」(リンク先は私の進行中の電子化注)の松浦静山である。

「日の下かいざん」先の坪田敦緒氏の「相撲評論家之頁」のこちらに、『現在において』も『「日下開山」なる語が横綱の別称として用いられることがあるが、 これは元来は仏教語で、寺の開祖を指すものである。「開山」は、山を開いて寺院を創めた開祖を言う。「山」は寺のこと。開山を崇めて「祖師」と言い』、『開祖転じて最高者を表す称となり、双びなき優れた者を示すようになった。さらに、「開山」の頭に「日下」をつけ、最高峰の武芸者や芸能者がこれを称し、さらに芸能者(相撲は武芸に非ずして芸能の一なり。従って力士の身分は「士農工商」の「工」)の一たる力士にも用いられるようになった。「日下」は天ヶ下、これ』、『すなわち天下、世界のことである。室町時代から「天下一」なる語が使われたが、徳川将軍が「天下様」と呼ばれていたことから、江戸幕府は「天下一」呼称の禁令を発布した』(天和二(一六八二)年)。これ『以降、「天下一」と称えていた者は「日下開山」を呼称するようにな』り、『室町頃の職業相撲における最強者を「関」と言う(のちのち「大関」の語源ともなる。関所の意。「関を取って守る」の意から「関取」なる最優秀力士を指す呼称が生まれた)。この「関」を称える強豪やら、永年に亙って負け知らずの力士を「日下開山」と言った。日下開山の称を受けた力士は多数ある。幕末頃には横綱免許を受けた大関を指すようになり、さらに後には横綱力士の別称となった。初代横綱とされている明石が、日下開山の称を受けたというのは伝説であるというが、陣幕が明石を初代横綱としたのは、この伝説による。明治には日下開山の称が横綱の異称として定着していたという例証でもある。しかし、お分かりかとは思うが、元来は日下開山が』、『即ち』、『横綱を意味する語ではなく、また先に「日下開山の称を受けた」と書いたが、免許されるものではなく、単にそう呼ばれて持て囃されたというだけのことである』とある。

「烏獲《うかく》が奔牛《ほんぎう》を曳駐《ひきとど》めしといふ故事」烏獲(生没年不詳)は戦国時代の秦の将軍で、武王に仕えた。同国の同職であった任鄙(じんひ)や孟賁(もうほん)と並ぶ大力士として知られ、千鈞(きん:当時の換算の機会計算で七・六八トン)の物を持ち上げる力が有ったとされる。参照した彼のウィキよれば、『勇士を好む秦の武王に取り立てられ、彼らと共に大官に任じられた』。『武王は紀元前』三〇七年八月に『洛陽で孟賁と鼎を持ち上げる力比べをした際、脛骨を折り』、『出血多量で亡くなったが、その際』、『烏獲も鼎を持ち上げて両目から出血した』『と言う。孟賁は罪を問われ』て『一族諸共死罪に処されたが、烏獲は』八十『歳を越える年齢で亡くなったとされる』とある。私はそちらの孟賁が生きた雄牛の角を引き抜いたという話は聞いたことがあるが。まあ、八トンを持ち上げるのなら、鉄腕アトムのように、猛牛を人差し指の上で回転させることも出来ように。

「茶之湯・御弟子」敢えて分離した。茶之湯の御弟子も、武道武術の御弟子も。

「ふれ」「觸」。お触れ。

「やはらとり」「柔取」。柔術者。

「つげごとにや」彼の話ではなく、誰かが、そう、まことしやかに言ったことも知れぬが、の意で採る。「神のお告げ」なんぞでは、おかしい。

「女中なみゐし奧座敷へ、いなかそだちの無骨もの、はだかのまゝにて立出《たちいで》しは、布引との立合より、かへりて臆したり。」この台詞は後の浦之助の回想の直話として鍵括弧書きとした。

「二重切」竹の花入れの一種。二つの節(ふし)の間に、各々、窓を開けて、水溜めも二ヶ所設けたもの。利休の創始による。

「浦之助おもふやう、『無骨ものゝ妻には、よき女はのぞみても、末、とげまじ。』と思ひて、一番、みにくき女に、盃《さかずき》をさしたりとぞ」私は思うのだが、真葛は、この浦之助の考え方に親しみを覚えたのに違いないという気がする。そこで真葛は決して美女ではなかったけれど、浦之助と幸せに添い遂げ、ともに墓に葬られた彼女を幸せだったと感じているのに相違ない。そこにまた、真葛の淋しさがある。真葛が二人の墓に手を合わせている後ろ姿が、私には見える。「松室妙貞信女」という戒名だけが知られる、浦之助の妻は、考えてみれば、決して美人ではないのだが、では、何故、松浦棟のお側に仕えていたかを考えてみれば、名君にして文化人であった彼が、特に取り立てて選んだ女性だったからだ。さすれば、彼女は知的で気配りの利く女性だったからではないか? 浦之助よ、君の選択は正しかったのだ!

「此方《こなた》より」遊びとは言え、大名同士の引き立て者同士の力比べである。浦之助が勝った場合に、何らかの不測の事態を伊達綱村は予測し、特に手練れの藩士を警護役として同道させていたのである。

「一生、他行、相とめられし」彼の命の安全を考慮して、生涯、藩外へ出ることを禁じたのである。江戸時代の藩は国家であり、別段、おかしいことではなく、苦痛なことでもない。藩外の飛地である藩領や、江戸の藩邸詰めにならなければ、藩域から一歩も出なかった藩士はごまんといる。あまり理解されているとは思われないので言っておくと、江戸幕府の幕臣である旗本は、江戸を出るには幕府の許可が必要であり、日帰りの物見遊山でも、それが親族との面会であっても、御府外に出たり、一泊したりすることは、原則上、出来なかったし、それが公に知られた場合は、相応の処罰を受けたのである。]

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