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2021/01/28

怪談登志男 十、千住婬虵

 

   十、千住婬虵(せんじゆのいんじや)

 

Injya

[やぶちゃん注:挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像をトリミングした。]

 

 人、化(け)して、物となりし例(ためし)、唐(もろこし)の書にも、かずかず、しるしたれど、まさしく目に見たるといふ人もなく、遠き昔の事なれば、いかゞと疑ひけるに、近く聞つたへしは、慶長の頃にや、武州千住の在鄕に、一人の百姓の娘、眉(み)目容(かたち)、世に稀なるのみか、心ばへまで、やさしく、下ざまにも、かゝる女もあればあるものかは、茨(いばら)の枝(えた)に花咲ぬる心地、泥を出たる、はちすのごとし。あたりの人は、いふもさらなり、徃還(おふくわん)の貴賤、是が爲に足をとゞめ、かへり見ざるものもなかりける。

 それが中に、粕壁(かすかへ)の里に住(すむ)、弥一郞とかや聞へしおのこ、女を戀はたりけれど、宿(しゆく)世の契りこそ、うすかりけん、千束(ちつか)の文も、手にさへ、ふれざりければ、

「戀死(こひし)にせし。」

と聞て、娘が親共、いと心憂き事に思ひけれど、せんかたもなく、打過しけり。

 かくて後、相應の者ありて、聟に取、今宵、婚禮とて、一家、集(あつま)り、にぎにぎしく祝て、兩親も、心、落(おち)つき、

「寢覺(ねさめ)もやすくなりし。」

と、よろこびける。

 二日めの朝、夫婦、いまだ起(おき)出ざるを、

「餘り、日たけて、音もなし。」

と、家に久しき老女、部屋に入て見るに、娘は、何ともわきまヘず、泣臥(ふし)して居(ゐ)たるさま、心得がたく、立寄見れば、無慘や、聟は、息、絕(たへ)、死骸の眼(め)鼻に入たる、細虵(くちなは)、幾つともなく、身をしめ付たり。

 見るめも淺ましく、

「斯(かく)。」

といふより、家内、大きに驚き、聟が親も駈(かけ)附、よべまで、ことぶきし家の、忽(たちまち)、うれへ歎く。

 まことに、人界(がい)の習(ならい)とはいゝながら、榮枯、手のうらを翻すがごとし。

 歎暮(なげきくれ)てもゐられず、寒林に送りて、一堆(たい)の土饅頭、見る人、泪、落して、あはれびける。

 其頃、此あたりの溢者(あふれもの)に、「生鐡(かね)細金」なんど、いふめる無賴の惡少年、

「此娘を、うばひとらん。」

と、雨風烈しき夜のまぎれに、難なく、忍び入たりしが、一味同志の奴原(やつばら)、

「今や、今や。」

と待居たれど、夜も更ゆけど、先に忍び入し、豆腐屋の長助、一向に出ざれば、皆々、氣味あしくなりて、立去りし跡に、娘が方には、人、立さはぎ、

「いかなるものか忍び入て、死し居たり。」

と、あはて、まよふ。

 隣家(りんか)の人、立寄見るに、大の男の腹を、蛇(へび)、二筋(すじ)まで、まとひつき、色、かはりて、死してありしを、大路(ぢ)に出し、是を曝(さら)しけれど、元來(もとより)、忍入たるが、極めて越度(おつど)なれば、たれ、咎むる人もなく、事、濟ぬ。

 娘が親ども、いろいろ、祈禱せしが、いさゝか、しるしもなく、蛇(へび)は、娘がかたはらを、しばらくも、立さらず。

 ある人の、いはく、

「是、此娘をおもひ懸(かけ)し者の、死したる一念の、婬蛇(いんじや)なるベし。若[やぶちゃん注:「もし」。]、此蛇を喰盡(くいつき)たらん人を、むこがねにせよかし。」

と、おしへぬ。

「さらば。」

とて、此事を、あまねく、人に告(つげ)けれど、たれ、來りて喰べし、といふ者もなく、娘も瘦衰(やせおとろ)へけるが、其後、此娘が事、たれ、いふともなく、

「蛇(じや)に成て、鱗(うろこ)、生(せう)ぜし。」

と風聞せしが、次第に流布(るふ)して、江戶までも、其沙汰、もつぱらなりしに、娘は、いつの頃よりか、親にさヘまみへず、引込、打ふしけるが、ある時、雨風はげしき夜、岩渕(いはふち)の深き池に飛入て、跡かたもなく、なりぬ。

「おそろしきは、人の一念なり。これ、まつたく、粕壁の弥一郞が執念なるべし。」

と、古き人の語りし。

 

[やぶちゃん注:「蛇」「蛇」の混用は原本によって改めたもの。底本は総て「蛇」表記である。

「慶長」は一五九六年から一六一五年までであるが、慶長八(一六〇三)年二月十二日の江戸幕府を開府(徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた)以後のこととしてよかろう。

「千住」現在の東京都足立区千住(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を始めとした旧千住町一帯。隅田川の左岸で、江戸御府内の辺縁に接する。文禄三(一五九四)年に隅田川に千住大橋が架けられて五街道の整備が進められたことで、慶長二(一五九七)年に奥州街道・日光街道の江戸から一番目の宿駅に指定された。芭蕉の「奥の細道」で、

   *

千じゆといふところにて舟をあがれば、前途三千里のおもひ、むねにふさがりて、幻のちまたに離別のなみだをそゝく

 行(ゆく)はるや鳥啼(なき)うをの目は泪(なみだ)

   *

とあるのに、あなたは違和感を持ったことはないか? 芭蕉庵から九キロメートルに満たない上流にあったのが千住大橋であったのに、芭蕉、というより、当時の「江戸っ子」にとっては、「千住」は「といふ」と記しても違和感がないほどに、江戸の外れの外の田舎町(実際には宿として繁華であっても)として認識されていたことを意味するのではないか。これは江戸御府内の北北東の境界認識が、一つ、まさにこの「千住大橋」にあったからに他ならないと私は思う(但し、厳密にその範囲を公的に幕府御府内として提示したのは、ずっと後の文政元(一八一八)年の「文政江戸朱引図」であった。因みに、そこには狭義の「御府内」と、その外縁(朱引きと黒引きの間)が示されてあり、南千住付近でさえ、その外縁に当たるとしたのである。サイト「ビバ!江戸」の「江戸の範囲」を参照されたい)。因みに、その内側にある現在の南千住の近くには、小塚原刑場があったことからも、ここが民俗社会としても江戸の日常の辺縁であったことを示す証左であると言えるように私は思う。そうでなくてどうして最後に「次第に流布(るふ)して、江戶までも、其沙汰、もつぱらなりし」と書けようか?

「粕壁(かすかへ)」表記は原本のママ。埼玉県春日部(かすかべ)市或いは同地の粕壁(かすかべ)

「弥一郞」底本は「彌一郞」であるが、原本に従った。

「戀はたりけれど」「はたる」は「徴る・債る」で「強く求める」の意。

「宿(しゆく)世」「すくせ」とも読み、前世からの因縁・宿縁のこと。

「千束(ちつか)の文」「文」は「ふみ」。千通もの(「多量」の意)恋文。

も、手にさへ、ふれざりければ、

「戀死(こひし)に」「こひじに」。

「打過しけり」「うちすぐしけり」。

「娘は、何ともわきまヘず、泣臥(ふし)して居(ゐ)たるさま、心得がたく、立寄見れば、無慘や、聟は、息、絕(たへ)、死骸の眼(め)鼻に入たる、細虵(くちなは)、幾つともなく、身をしめ付たり」描写は娘が立って泣いており、眼鼻に蛇は入っていないものの、挿絵はこちらを描いている。本文の描写の方がぬめぬめとして細部まで凄絶であり、娘もその横で泣いていてこそ、真正のホラーと言える。その「淺ましさ」に挑戦し得なかった絵師の限界であったことを私は惜しむ。

「見るめ」垣間見た目の一瞬。

「斯(かく)。」

「よべまで」「昨夜(よべ)」。

「まことに、人界(がい)の習(ならい)とはいゝながら、榮枯、手のうらを翻すがごとし」こんな過剰な(というより、状況も判らぬのに場違いな)文飾は、話が現実から離れて如何にも嘘臭くなるだけで、失敗である。

「寒林」(かんりん)はインドのマガダ国にあった林のサンスクリット名の漢訳。山が深く、気温が低い所であったために死体を捨てる場所であったされることから「尸陀林(しだりん)」とも呼ぶ。転じて「墓地」の意となった。

「溢者(あふれもの)」「あぶれもの」。無法者。というより半グレの方が相応しい感じだ。

「生鐡(かね)細金」自称の通名であろう。「しやうがねのほそかね」とでも読んでおく。意味はよく判らぬ。「生鐡」(なまがね)なら、精錬するまえの鍛えていない鉄を言うが、以下の「細金」と意味の継ぎ具合が悪い。或いはこれはそうした愚連隊の総称か、その複合名なのかも知れぬ。その場合は「生鐡(しやうがね)」族・「細金(ほそがね)」族(「がね」は同族連帯意識で共通とした)と分離出来るのかも知れない。

「難なく、忍び入たりしが」屋敷内に。

「死してありしを、大路(ぢ)に出し、是を曝(さら)しけれど」「此あたりの溢者」であるからには、一目で、彼が「生鐡細金」の一味である、「豆腐屋の長助」であることは分かっていたから、かく公道に放置したのである。父母か親族が足早にやってきて、引き取ったものであろう。「生鐡細金」の悪たれには、おのれらの悪事が暴露されてしまう危険があるから、そんな情けも度胸もあるまい。

「元來(もとより)、忍入たるが、極めて越度(おつど)なれぱ、たれ、咎むる人もなく、事、濟ぬ」本来は不法侵入者の不審死であるから、お上に届けねばならない。しかし、当時の習いとしては、こうした処置が普通に行われたのであろうことが判る。おまけに、訴え出れば、奇怪な蛇巻きの変死の事実が問題となり、娘とその父母に嫌疑が掛かって、かえって面倒だ。因みに、変死体の蛇は、先の夫のケースも同じであるが、大路に出す前に総て抜け出た(娘の近くへ戻るために)と考えねばならぬ。彼女を慕う蛇なればこそ。

「若、此蛇を喰盡(くいつき)たらん人を、むこがねにせよかし」この提案自体が、おぞましいホラー・シーンと言える。

「雨風はげしき夜」先の愚連隊の侵入時も全く同じ天候であった。これは蛇=龍の伝承習俗から理解出来る。

「岩渕(いはふち)の深き池」「岩渕」は原本に従った。底本は「岩淵」である。さて、東京都北区岩淵町が現存する。ここは実は千住から川沿いに九キロメートル弱遡った場所にあり、それほど遠くない。現行では地区内や周辺に池は見当たらないものの、そもそもがこの岩淵地区は現在の隅田川が荒川から分岐する直近上流部分に当たり、現行でも新河岸川と荒川の二本が並走しているから、河川の蛇行による三日月湖が形成されやすい場所であることが判るから、この地区附近にあった池として何ら問題はない。直線で七キロメートル離れるが、蛇=龍=見入られた美女という図式には「淵」への入水がキメに必要ではあろう。]

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