怪談登志男 四、古屋の妖怪
四、古屋の妖怪
備後の鞆(とも)の浦は、九州・中國にならびなき繁華の津[やぶちゃん注:「みなと」と当て訓しておく。湊。]にして、分(わけ)て時めく有曾町(ありそまち)は、艷冶(ゑんや)の少艾(しやうがい)に船をつながれ、茲を去(さる)順風を恨む、旅客の思ひ、皆、此湊(みなと)に焦(こが)れ來(く)るにぞ、商家、日夜に冨を重(かさね)たり。
此所に、金屋嘉平治といふ酒屋あり。家、冨榮(さかへ)けるが、このいへのうちの一間に、最(いと)あやしき事あり。
嘉平治は元來、所久しき者なり。人にも員(かず)まへらるゝものから、
「かゝる事あり。」
と、たまたま、もれ聞(きゝ)たるものも、口を閉(とち)しが、次第に城下に咄傅(はなしつた)へて、怪(あや)敷沙汰、取々なりし。
其仔細は、かれが座敷三間四方、昔普請(むかしふしん)の物好(ものすき)もよく、奇麗に構へし一間なるが、何(いつ)の頃よりか、目なれぬ調度、取ちらしたる時もあり、十二、三のわらべの、美目・形、淸げなるが、文[やぶちゃん注:「ふみ」。手紙。]など見入て居たるときもあり、又は、座敷に應(おう)ぜざる俵物(たはらもの)、數おゝくつみ重て、半時斗、置時もあり、或は、武具・馬具、きらびやかに飾り並べ、又は、小法師、二、三人、出、戲(たはふ)れあそぶ事もあり。
先の嘉平治、甚、怪しび、其座敷を打敗(やぶ)らんと、大工をかり催して、已に毀(こぼ)たんとせしに、工匠(こうしやう)、皆、目を開くこと、あたはず、あるひは、足、すくんで、起(たつ)こと、あたはず。
禰宜(ねぎ)・山伏を招(まね[やぶちゃん注:原本のママ。])て、祈念すれぱ、貴僧・高僧、顯れ出て、其ものどもより、はるかに嚴重に法を修(しゆ)する故、はづかしくなりて、迯(にげ)さる程に、今は術計(しゆつけい)、盡て、其儘に差置たるに、さして家内のものに、さはることもなく、今に至て災(わざはひ)も、なし。家内、見馴て、誰(たれ)も皆、恐ろしとも思はねば、後は、つれすれを慰む種とぞ、なしける。
當嘉平治も、幼時より見馴たれば、彌、怪ともおもはで過ぬ。
此事、誰(たれ)申上けん、領主、聞(きこ)し召、
「左樣の事、城下にありと聞ては捨置(すておき)がたし。」
と、俄に此評議、事募(ことつの)りて、侍、大勢、金屋が家に至り、金屋が座敷に詰(つめ)て、樣子を伺ふ所に、今まで見へざる臺子、飾(かざり)て、しほらしき老法師が、手前、見事に、あいしらひたる茶の湯に、上客(しやうきやく)を見れば、領主、御入にて、日頃、御側(そば)をはなれぬ橋本右膳(うぜん)とかや云し出頭、御つめに出たるさま、各、
「はつ。」
と驚、恐れ入て、覺へず、飛退(とびしさり)、頭(かうべ)を地に付たる内に、臺子(だいす)も、老人も、一座の客も、跡かた、なし。
「こは、口をしや、化物めに、たぶらかされし。左もあれ、殿の御姿に、みぢんも違(たが)はず。一盃喰(く)ふまじきものにも、あらず。」
と、はせ歸りて、此だん、つぶさに言上しければ、領主、甚、驚き給ひ、
「其方共、はせむかいし刻限に、我、汝等が見たる所の衣服にて、島倉了閑といふ茶の湯者(しや)を、始(はしめ)てまねき、會席(くわいせき)過るとひとしく、汝等が注進。其見つる老人が形(かたち)も衣服も、了閑が今日の出立(でたち)に少(すこし)も、たがはず。そも、かゝるふしぎなる事こそ、なけれ。」
と、金屋が宅を外へ移し、替地(かへち)を下し給はり、所替せし跡は、「金屋が古屋(ふるや)」と名に立(たち)、間口九間の大肆(みせ)、いつの頃より荒地となりしや。
此時代、さだかならず、いかさま、文祿・天正のいにしへなるらし。今は其跡を知る人もなし。
[やぶちゃん注:「備後の鞆(とも)の浦」現在の広島県福山市鞆町鞆(ともちょうとも)の鞆の浦(グーグル・マップ・データ)。同ウィキによれば、『戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど備後国の拠点の一つとなっていた。室町幕府』十五『代将軍足利義昭は』元亀四(一五七三)年に『織田信長により京を追放された後、毛利氏などの支援のもと渡辺氏の援助で』天正四(一五七六)年に『鞆に拠点を移し』、『信長打倒の機会を窺った。伊勢氏や上野氏・大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り』、『鞆に下向していたとされる。このことから「鞆幕府」と呼ばれることもある』。『また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家頼山陽は“足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた”と喩えた』。『尼子氏滅亡に際しては』、『播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ』、『足利義昭や毛利輝元により』、『実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている』とある。なお、ウィキの「鞆城」によれば、『戦国時代になると』、『備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は』天文一三(一五四四)年に『村上水軍の村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され、村上氏の本拠は大可島城に置かれた。このため』、『亮康は「鞆殿」と呼ばれた』。『織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が、毛利氏を頼って』『鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ』、『義昭の居館があったとされている。義昭の警護は一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康があたっていたという』。天正六(一五七八)年になると、『毛利氏は、信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には、山中幸盛の首級が鞆に運ばれ、義昭と毛利輝元が共に実見を行ったと伝えられる。義昭は』六『年間』、『鞆に留まり』、天正一〇(一五八二)年に『津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる』とある。筆者自体が時制を朧ろにしてしまっており、創作怪談であるから、あまり意味はないとは思うが、一応、以上の知れる史実だけは示しておく。
「有曾町(ありそまち)」サイト「鞆物語」のこちらによれば、現在、当地にある「鞆ノ津ギャラリーありそ楼」(グーグル・マップ・データ)のある附近は、『江戸時代の頃は「有磯(ありそ)」と呼ばれる、全国有数の遊郭街だったといいます。この建物自体も』、五十『年ほど前までは、実際に遊郭として営業していたらしく、今日にも、その遊郭建築の妙味が色濃く保存されています』とある。
「艷冶(ゑんや)」艶(なま)めいて美しいこと。
「少艾(しやうがい)」歴史的仮名遣は「せうがい」が正しい。「艾」は「美しい」の意で、若くて美しい女を指す。ここでは風待ちの鞆の浦の遊女である。
「人にも員(かず)まへらるゝものから」鞆の浦の町人の代表者に数えられる大家(たいか)であったから。
「三間」五・四五メートル。
「昔普請(むかしふしん)の物好(ものすき)もよく」古い職人の丁寧な趣向を凝らした優れた普請で。
「應(おう)ぜざる」相応しくない。
「俵物(たはらもの)」江戸時代には狭義には、長崎貿易に於いて、対清貿易向けに輸出された煎海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑(ほしあわび))・鱶鰭(ふかひれ)の海産物(乾物)のことを指した。俵に詰められて輸出されたことに由る。
「臺子」後で原本に振られてある通り「だいす」と読む。茶道具の棚物の一つで、風炉(ふろ)・釜・水指などの一式を飾るもの。入宋した南浦紹明(なんぽじょうみょう)が帰朝の際、仏具として齎したと伝えられる。
「橋本右膳」不詳。
「出頭」筆頭家老相当か。
「御つめ」「御詰」。茶会に於いて亭主を助けて正客への茶碗などの取次、待合、その他の後始末等に気を配り、茶事を円滑に進める役。末客。
「一盃喰(く)ふまじきものにも、あらず」「いっぱい食わされたのでないとも、言えまい!」。
「島倉了閑」不詳。
「九間」十六・三六メートル。
「文祿・天正」天正が先で、一五七三年から一五九六年まで。]