南方熊楠 小兒と魔除 (4)
讀者予に、何を以て日本にも邪視と視害との蹤[やぶちゃん注:「あと」。]有りといふかと問はゞ、予は答て言ん、書紀皇孫天降の條に一書を引て[やぶちゃん注:以下、底本には錯字がある。初出で訂した。]、先驅者還曰、有一神天八達之衢、其鼻長七咫背長七尺云々且口尻明耀、眼如八咫鏡、而赩然似赤酸醬也、卽遣從神往問、時有八十萬神、皆不得目勝相問、天鈿女乃露其胸乳、抑裳帶而臍下、咲噱向立、其名を問て猿田彥大神なるを知り、天鈿女復問曰、汝將先我行乎、將抑我先汝行、對曰吾先啓行云々因曰發顯我者汝也、故汝可送我而致之矣とて、伊勢の狹長田五十鈴川上に送られ行くとあるは、前出埃及のラー神同樣、猿田彥の邪視、八十萬神の眼の堪え能ざる所なりしを、天鈿女醜を露して之に打勝ち、之をして皇孫の一行を避て自ら遠地に竄れ[やぶちゃん注:「かくれ」。]しめたる也、今は知らず三十年ばかり前迄、紀州那賀郡岩手の大宮の祭禮、神輿渡御の間、觀者例として閉眼せしは、原と印度人と同く、神も邪視を忌むと思ひしを示す(Dubois,‘Hindu Manners,’ 1897, p. 151)、而して此等にも優りて、邪視の信、曾て我邦に存ぜしを證する最好例は、近松門左の戲曲「大織冠」に、忠臣山上次官有風、逆臣入鹿と眼力を角る[やぶちゃん注:「すまへる」。]を述て、前者睥めば一雙の鴉、念力の眼に氣を打たれ落て死し、後者睨めば南門の棟瓦、作り据たる赤銅の唐獅子搖ぎ鎔け湯と成り、軒に滴り流れしは恐しかりける眼力也と作られ、予も幼時常に、不文至極なりし母が、入鹿大臣能く人を睨み殺せりと語るを聞たれば、かゝる俗話古く行はれし事なりやとおぼし、又柳原紀光の閑窻自語に、裏辻公風少將、姿艷に、男女老若悉く之を慕ひ、參内の日を計りて街に出て待ち見る人も有けるが、漸く二十歲にて元文三年四位にも陞らず[やぶちゃん注:「のぼらず」。]死せり、戀したる人々の執念付るにやと人言りとあるは、詞こそかわれ[やぶちゃん注:ママ。]、視害に中て[やぶちゃん注:「あたりて」。]早世せりと謂るに非ずや、印度の禮、いかに壯健の友に逢ふも、之をほめず、反て卿は一向瘦せて來た、餘程惡いんぢやないか、氣の毒千萬でござる抔いふが常式にて、他人の子供、邸苑、牛羊の美にして繁榮するを見るも、其人の仕合せよきを知るも、一言なりとも譽たが最期卽座に妬念及視害の嫌疑を受くるを參考せよ(Dubois, p. 331) さればちと故事附けならんも、西鶴の胸算用卷四に載る、祇園殿にて、除夜に詣衆左右に分れて惡口言合ひ、松浦侯の武功雜記に出る、同夜千葉寺に諸人集り、執權奉行等の邪儀を云出て哄笑せるなど、詮じ詰れば、言はるゝ者の幸福を增進せん爲にて、結局其人に邪視を避しめん爲、傷を付るものに非るを保し難しとやいはまし、然し乍ら、支那の邪氣、釋敎の執念の思想到來してより、判然たる邪視、視害の迷信は蚤く[やぶちゃん注:「はやく」。]殆ど消失しと見え、一汎俗傳に大澤主水、又佐久間盛政、人馬共に秀吉の眼光に敗られしとか(片廂後篇、懲毖錄に秀吉容貌矮陋、面色黧黑、無異表、但微覺目光閃々射光とありと聞)、和田賢秀を斬し湯淺某、其末期の眼ざしを怖れて、病付き死んだとか(太平記廿六)、眼其物よりも、專ら其人の威勢、怨念の强大なるを指せる樣也、降て[やぶちゃん注:「くだつて」。]、本町二丁目の糸屋の娘、姊が二十一妹が廿、此女二人は眼元で殺すといふ唄文句は、支那の蛾眉伐性之斧の類で、譬辭[やぶちゃん注:「ひじ」。比喩。]なり、別嬪共の爲に累をなすに足らず、是より邪視と視害を予防する本意に起れりと思はるゝ本朝風習を列示せんに、先づ嬉遊笑覽卷八云、「中古陰陽家の說行はれて、物忌を付る事有、男子は烏帽子、女房は頭に付し事、古物語に往々有、拾芥抄に、迦毘羅國に桃林有、其下に一人の鬼王有、物忌と號す、其鬼王の邊に他の鬼神寄ず、鬼王誓願して云々我名を書持ん人には、如願守護すべしと儀軌に出たりと有、此物忌二字を細紙に書て付る也、河海抄に昔は忍草に物忌を書て、御簾にも冠にもさしける、事無草と云に付て也、又柳の枝三寸許り簡[やぶちゃん注:「ふだ」。]に作りて、物忌と書て御冠の纓[やぶちゃん注:「えい」。]に付られ、又白紙に書て付らるゝ事有、是は禁中の事也と有」類聚雜要抄三「五節の童女頭物忌付事、二所に有之、左は耳の上程、右は頰後に寄て付之云々、物忌の薄樣は弘三分に切之(紅一重、短手をば後に結之)、云々」、滿佐須計裝束抄一に筆せるは之より詳にて、末に「本は物忌は左を先として[やぶちゃん注:初出も「左」だが、「選集」は『右』とする。そこで、原本に当たったところ(国立国会図書館デジタルコレクション。草書写本。ここの左頁五行目以下)、これは明らかに「左」である。]、後にも付け、三つ付たれども、此家の習にてかく二を附る也、左の前に寄て、物忌の首の差出たるを、くゝり[やぶちゃん注:「選集」は『ひねり』。原本(同前左頁八行目末)も「ひねり」である。]反して赤く見せて付る人あり云々されども今は白かしらに成りにたり云々常に人知ず、幼なからん者の額髮抔透きなどしたらんに、物忌を附ん折隱すべし、人知ず祕すべし」、是にて、或は顯著なる色を用て邪視を惹き、其力を消すこと、印度の田園に外を白く塗れる大碗を高竿に揭げて、專ら惡眼力を吸收せしむる如くせると(Dubois, p. 152)、或は前述パンジヤブの文人紙を卷て字を汚す如く、故らに[やぶちゃん注:「ことさらに」。]辟邪の具を設けたるを悟られて、更にその備えの巧なるを羨まるゝを避んとて、却て之を目立たぬ樣に裝しと、二風俱に並び行はれたるを見るべし、又笑覽卷八に、嚔る[やぶちゃん注:「はなひる」。]時結ぶ糸(產所記に長一尺三寸許と云りと)を長命縷の類ならんと云、今小兒の衣の背に守り縫とて付る是にやと云り、熊楠案ずるに、酉陽雜俎卷一、「北朝婦人五月云々又長命縷、宛轉繩、皆結爲人像帶之」とあれば大に守縫と異なる[やぶちゃん注:行末で句読点がないが、ここで文は切れている。初出は「り、」で、「選集」は『異なり。』であるが、思うに、どちらもこれは「異(ことな)れり」の脱字で文が切れていると断ずるべきで、どちらの仕儀も不全であるのに対して、底本は口語で「異(こと)なる」で終わって抵抗がないように読めてしまう、不幸中の幸いと言うべき、珍しいケースである。] 守り縫此邊(紀州田邊)にて背縫ひ、背紋などいひ、衣に固著して結び得る物ならず、近世風俗志十二編に、何とも名をいはずに之を記せり、云く、「兒服に一つ身四つ身と云有、一幅を身として左右を兼るを一つ身と云、背縫目なき故に一つ身といふ、衣と異色の糸を以て縫之、或は[やぶちゃん注:図は底本はこちら(右ページ四行目)で、初出では「12」コマ目(上段中央二行)であるが、「選集」の図も、これら皆、どれも図のタッチが微妙に異なる。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗志」の当該部(同書は刊期によって巻数に異同が生じており、そこでは確かに十二巻なのだが、私の所持する岩波文庫版では巻十三である)はここ(右ページ下段後部)である。最終的に熊楠の模写したものに基づく図ではなく、原拠のものを掲げるのが最良と考え、最後の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を最大でダウン・ロードして、以下にトリミング(汚損も除去した)して改行して中央に示した。次の図も同じ仕儀で挿入した。]
此類を縫も有、又江戶は緋縮緬等の小裁[やぶちゃん注:「こだち」。]を以て袷にくけ
如此結び背に付るも有、共に定紋の座に付る也、漸[やぶちゃん注:「やうやく」。]長じて四つ身を著す、四つ身は背の縫目有故に不製之」此邊の俚傳に、一つ身は縫目なくて不祥なれば、その厭勝[やぶちゃん注:「まじなひ」。]に背紋を縫付る、菊桐松葉鶴兜などを衣と異色の絲もて、女兒十二男兒十三針にぬひ付く、又舌と稱し、長方形の切れを背紋の代りに縫ひ付け、一端自在に動き得ること舌の如くす、今は色々なれども、予の幼時は主として赤を尙べり[やぶちゃん注:「たつとべり」。]、古老謂ふ、小兒躓き倒れんとするを、神此舌を援て[やぶちゃん注:「ひきて」。]起立せしむるに便せるとは、何かで見たる、後印度の民、頭頂に長髮束を留るは、地獄に墮ちかゝる時、神に牽上もらう爲といふと同規にて、隨分面白いが、中古歐州諸名族の紋章に、諸獸舌を出す像多きは邪視を避くるため(E. Peacock, in Notes and Queries, March 14, 1908)なると支那に赤口日凶神百事不宜用(倭漢三才圖會五)抔いふを參して、背縫も邪視を防がんとて創製せりと見るが優れり、又佛敎入て後、印度の神も邪視に害せらるとて、其予防具を捧ぐる風を輸入しながら、原意を忘却せりと思はるゝは庚申、淡島等の神前に美しき浮世袋を掛る事にて、印度の王公、「アラツチ」(不幸の義)とて避邪視式を行んが爲、特に妓女を蓄え、神廟にも一日二度、妓女神の爲に此式を行ふなど思合すべし、用捨箱中卷(十三)に、「友人曰、眞云の檀門の金剛橛[やぶちゃん注:「こんがうけつ」。](四方の柱也)に掛る金剛寶幢[やぶちゃん注:「こんがうはうとう」。]と云物有、錦を以て火形を象り、三角に縫ひ、裏[やぶちゃん注:「うち」。]に香を入るゝ、又入れざるも有、浮世袋其形に似たる故、寶幢になぞらえて[やぶちゃん注:ママ。]神佛に捧るなるべしと云々」上に云える、パンジヤブで三角袋を小兒の守りとする事參看すべし、また下卷(四)に、「昔は遊女に戯るゝを浮世狂ひと云し也、傾城の宅前には云々布簾を掛、それに遊女の名を書て、下に三角なる袋を自分の細工にして付し也、是を浮世袋と云習したる也と載せられたり、是れ匂ひ袋なるべし云々、昔は云々遊女は云々伽羅を衣に留ざるはなき樣なれば、斯る餘情も成たるにや有ん、其れが云々後には香類を入れず、布簾の縫留と成しなるべし」妓女に緣多き印度神より轉化せる金剛の爲に、邪視を防がん本意もて捧げし三角袋が、吾邦遊女屋の裝飾と成たる也、推古帝の時、支那に摸して始て行える藥獵に伴ゑりてふ、續命縷卽ち藥玉(久米氏日本古代史八一五頁)は、歐州諸民も之を仲夏の式事とし、邪氣を除き古病を癒し好夢を招き牛畜を安んず(Lloyd, ‘Peasant Life in Sweden,’ 1870, p. 267 seqq.; Gubernatis, tom.i, p. 181 seqq.)と云ば、多分は例の邪視の用心に發端せるならん、此邊の若き男女、不慮に煤など飛び來たり、顏を汚すを戀墨と名け、艷福の兆とするも、もとは邪視、邪害の迷信より出たるにて、奴の小萬が、顏に墨ぬり、痣作りて、貌を見盡されぬ樣計ひしと、趣は歸一す、
[やぶちゃん注:本文の太字は底本では傍点「ヽ」。ここでやっと「邪視・邪害」の話が終わる。
「書紀皇孫天降の條に一書を引て」「先驅者還曰、有一神天八達之衢、其鼻長七咫背長七尺云々且口尻明耀、眼如八咫鏡、而赩然似赤酸醬也、卽遣從神往問、時有八十萬神、皆不得目勝相問、天鈿女乃露其胸乳、抑裳帶而臍下、咲噱向立、其名を問て猿田彥大神なるを知り、天鈿女復問曰、汝將先我行乎、將抑我先汝行、對曰吾先啓行云々因曰發顯我者汝也、故汝可送我而致之矣とて、伊勢の狹長田五十鈴川上に送られ行くとある」猿田彦が天孫の降臨を迎える以下のシークエンス。訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和八(一九三三)年岩波書店刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 上卷」を参考にした。
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已而且降之間。先驅者還白。有一神。居天八達之衢。其鼻長七咫。背長七尺餘。當言七尋。且口尻明耀。眼如八咫鏡、而赩然似赤酸醬也。卽遣從神往問。時有八十萬神。皆不得目勝相問。故特敕天鈿女曰。汝是目勝於人者。宜往問之。天鈿女乃露其胸乳。抑裳帶於臍下。而笑噱向立。是時、衢神問曰。天鈿女、汝爲之何故耶。對曰。天照大神之子所幸道路。有如此居之者誰也。敢問之。衢神對曰。聞天照大神之子、今當降行。故奉迎相待。吾名是猿田彥大神。時天鈿女復問曰。汝將先我行乎。將抑我先汝行乎。對曰。吾先啓行。天鈿女復問曰。汝何處到耶。皇孫何處到耶。對曰。天神之子則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。因曰。發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。天鈿女還詣報狀。皇孫、於是、脫離天磐座。排分天八重雲。稜威道別道別、而天降之也。果如先期。皇孫則到筑紫日向髙千穗槵觸之峯。其猿田彥神者。則到伊勢之狹長田五十鈴川上。
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已にして降(あまりくだ)り且(ま)さんとする間(ところ)に、先驅者(さきはらひのかみ)還りて白さく、
「一つの神、有り。天八達之衢(あめのやちまた)に居り、其の鼻の長(たけ)七咫(ななあた)[やぶちゃん注:手の親指と中指を開いた際の長さ単位。一メートル二十六センチメートル。]、背(そびら)の長七尺(ななひろ)餘り。當に七尋[やぶちゃん注:両手を左右に伸ばした際の長さ単位。十一~十二メートル。]と言ふべし。且(また)、口、尻(かく)れ、明(あか)り耀(て)れり。眼、八咫鏡のごとくにして、赩然(てりかかや)けること、赤酸醬(あかかがち)[やぶちゃん注:熟した酸漿(ほおずき)の実。]に似れり。」
と。卽ち、從(みもと)の神を遣し、往(い)いて問はしむ。
時に八十萬の神、有り。皆、目勝(まが)ち[やぶちゃん注:相手の持つ眼力が激しく、眼が眩んでしまって相手を見ることが出来なくなることを指す。]にて、相ひ問ふことを得ず。
故(かれ)、特に天鈿女(あめのうづめ)に敕して曰(のたま)はく、
「汝(いまし)は、是れ、人に目勝(まか)つ者(かみ)なり。宜しく往いて之に問ふべし。」
と。
天鈿女、乃(すなは)ち、其の胸乳(むなち)を露(あら)はかきたて、裳帶(もひも)を臍(ほそ)の下に抑(おした)れて、笑噱(あざわら)ひて向ひ立つ。
是の時、衢の神、問ひて曰はく、
「天鈿女、汝(いまし)、之(か)く爲るは何の故ぞや。」
と。對へて曰はく、
「天照大神の子(みこ)の幸(いま)す道路に、此くのごとくにして居り有るは誰(た)そ。」
と、敢へて之れを問ふ。衢の神、對へて曰はく、
「天照大神の子、今、當に降行(いでま)すべしと聞きまつる。故、迎へ奉りて相ひ待つ。吾(あ)が名は、是れ、猿田彥大神(さるたひこのおほんかみ)。」
と。時に天鈿女、復た問ひて曰はく、
「汝、將に我に先(さきた)ちて行かんや。將-抑(はた)、我れ、汝に先ちて行かんや。」
と。對へて曰はく、
「吾、先ちて啓(みちひら)き行かむ。」
と。天鈿女、復た問ひて曰はく、
「汝は何處(いづこ)に到りまさんぞや。皇孫(すめみま)、何處に到りまさんぞや。」
と。對へて曰はく、
「天神(あまつかみ)の子は、則ち、當に筑紫の日向の高千穗の槵觸(くしふる)の峯に到りますべし。吾は、則ち、應に伊勢の狹長田(さながた)の五十鈴(いすず)の川上に到るべし。」
と。因りて曰はく、
「我を發-顯(あらは)しつるは、汝(いまし)なり。故、汝、以つて我を送りて致るべし。」
と。
天鈿女、還りて詣で、報狀(かへりごとまふ)す。
皇孫、是に、天磐座(あまついはくら)を脫(お)し離ち、天八重雲を排し分け、稜威(いつ)[やぶちゃん注:神の威光。]の道別(ちわ)きに道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)のごとく、皇孫、則ち、筑紫の日向の高千穗の槵觸の峯に到りまし、其の猿田彥神は、則ち、伊勢の狹長田五の十鈴の川上に到ります。
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「紀州那賀郡岩手の大宮の祭禮、神輿渡御の間、觀者例として閉眼せし」和歌山県岩出市宮にある大宮神社(グーグル・マップ・データ)。和歌山県企画部企画政策局文化学術課作成の「和歌山県ふるさとアーカイブ」の「大宮神社のよみさし祭」に、地元では「よみさしまつり(齋刺祭)」「ヨミサシ」「イミサシ」と呼ばれ、十月に今も行われている。そこに、『昔は、深夜渡御の御榊(ミサキ)は、直接見てはいけない、見ると目がつぶれるといわれ、その枝をいただくと、東の枝は、上半身の、西の枝は下半身の病が治ると言われている』とあった。
「Dubois,‘Hindu Manners,’ 1897, p. 151」作者はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)。
『近松門左の戲曲「大織冠」』室町後期に成立した作者未詳の幸若舞の一曲で、藤原鎌足が、八大竜王に奪われた宝珠を、海士(あま)を使って取り返すという「玉取伝説」に取材したものなどを素材とし、近松門左衛門が書いた浄瑠璃「大織冠」(歴史的仮名遣「たいしよくわん」。正徳元(一七一一)年大坂竹本座初演)。鎌足の蘇我入鹿討伐に玉取伝説を配して脚色してある。第一部の終曲部で、サイト「音曲の司」内のこちら(PDF。「有朋堂文庫 近松浄瑠璃集 下」(昭和五(一九三〇)年刊)の当該外題全篇) の「一一」から「一二」頁で当該部が読める。
「柳原紀光の閑窻自語」江戸時代中・後期の公卿柳原紀光(やなぎわらのりみつ/もとみつ 延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆(成立は寛政五~九年)。ネットで写本を見つけ、探してみたが、当該話は見つけられなかったものの、この本、かなりの量の怪奇談を載せており、なかなか面白そう。
「裏辻公風少將」正五位下右近衛少将であった羽林家の当主裏辻公風(享保四(一七一九)年~元文三(一七三八)年)。事実、確かに享年二十歳で若死にしている。
「西鶴の胸算用卷四に載る、……」井原西鶴作の全二十章の短編から成る浮世草子町人物の代表作の一つ「世間胸算用」(せけんむねさんよう)。元禄五(一六九二)年に京の板行。当該部は巻四の「一 闇の夜のわる口」の一節。岩波古典文学大系版と新潮日本古典集成を参考に、正字で示す。
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又都の祇薗殿に、大年の夜、「けづりかけの神事」とて、諸人詣でける。神前のともし火、くらふして、たがひに人の見えぬとき、參りの老若男女、左右にたちわかれ、惡口のさまざま云ひがちに、それはそれは、腹かゝへる事也。
「おのれはな、三ケ日の内に餅が喉につまつて、鳥部野へ葬禮するわいやい。」
「おどれは又、人賣(ひとうり)の請(うけ)でな、同罪に粟田口へ馬にのつて行わいやい。」「おのれが女房はな、元日に氣がちがふて、子を井戶へ、はめおるぞ。」
「おのれはな、火の車でつれにきてな、鬼のかうのものになりをるわい。」
「おのれが父は、町の番太をしたやつぢや。」
「おのれがかゝは、寺の大こく[やぶちゃん注:坊主の隠し妻。]のはてぢや。」
「おのれが弟はな、衒云(かたりいひ)の挾箱(はさみばこ)もちじや。」
「おのれが伯母は子おろし屋をしをるわい。」
「おのれが姉は、襠(きやふ)[やぶちゃん注:腰巻。]せずに味曾買ひに行くとて、道でころびをるわいやい。」
いづれ口がましう、何やかや取まぜていふ事、つきず。中にも廿七、八なる若い男、人にすぐれて口拍子よく、何人出ても云すくめられ、後には相手になるもの、なし。時にひだりの方の松の木の陰より、
「そこなおとこよ、正月布子(ぬのこ)[やぶちゃん注:晴着用の木綿の綿入れ。]したものとおなじやうに、口をきくな。見れば此寒きに、綿入着ずに何を申ぞ。」
と、すいりやうに云ひけるに、自然と此男が肝にこたへ、返す言葉もなくて、大勢の中へかくれて、一度にどつと笑はれける。
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この「けづりかけの神事」というのは、現在の八坂神社の新年の行事。新潮版の松原秀江氏の頭注によれば、『おけら祭とも。大晦日の夜、子の刻に神前以外のすべての灯を消し、参詣人は暗闇の中でお互に悪口を言い合い、丑の刻になると、係の者が読経』し、『東西の欄に立て』置かれてあった各『六本の削掛の木を焼き、煙の』立つ方向から、丹波・近江『両国の豊凶を占う』神事を指す。但し、現在は悪口を言い合うそれは行われていないようで、実につまらぬ。
「松浦侯の武功雜記」肥前平戸藩第四代藩主松浦鎮信(重信・天祥)が記した天正から元和年間に活躍した諸将の武勲を記した武辺咄集。元禄九(一六九六)年頃成立。恐らくは現在の千葉市中央区千葉寺町にある真言宗海上山千葉寺(せんようじ/ちばでら:グーグル・マップ・データ)の特異行事である。同寺のウィキによれば、『開始年代は不明であるが、江戸時代には名の知れた行事として千葉寺で行われていた奇習』で、『類似の風習が「悪口祭」「悪態祭」として全国各地に存在する』。『毎年の大晦日の深夜から元日の未明まで、面や頬かむりなど素性が分からないように仮装をして千葉寺に集い、権力者の不正や人の良くない行いなどを罵り合い、笑って年を越すという風習』で、『徳川家康が黙認して「声の目安箱」として意見を取り入れていたともされている』。『この習俗を題材にし』て『小林一茶が』、
千葉寺や隅に子どもゝむり笑ひ
の一句を残している(文政六(一八二三)年の句帳所収)。『千葉笑い復興会・千葉笑い実行委員会ではこの伝統ある地域文化を継承するために、笑い納めや初笑いとして』二〇一〇年『度より活動している』とある。
「大澤主水」「太閤記」によれば、美濃の斉藤家の忠臣大澤主水(もんど)正之。信長を刺殺せんとして、秀吉と槍の大試合をしたとされるが、怪しい。
「佐久間盛政」(天文二三(一五五四)年~天正一一(一五八三)年)は織田信長及びその嫡孫秀信の家臣。官途及び通称は玄蕃允。勇猛さから「鬼玄蕃」と称された。ウィキの「佐久間盛政」によれば、『尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれ』、『「身長六尺」』(約一メートル八十二センチメートル)『とあり(『佐久間軍記』)、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える』。永禄一一(一五六八)年の「観音寺城の戦い」『(対六角承禎)で初陣』し、いろいろな戦闘に参加して『戦功を挙げた』。天正三(一五七五)年、『叔父柴田勝家が越前一国を与えられた際にその与力に配され、柴田軍の先鋒を務めた』。『以後、北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った』。天正四年には『加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の救援に成功』し、翌五年に『越後の上杉謙信が南下してきた際には』、『信長の命令で加賀に派遣され、御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築いて在番した』。天正八(一五八〇)年、『加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代の城主となり、加賀半国の支配権を与えられた』。しかし、『柴田勝家は清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め』、天正一一(一五八三)年の「賤ヶ岳の戦い」で激突し、一時は賤ヶ岳砦を陥落手前まで追い詰めたが、丹羽長秀の増援と秀吉の「美濃大返し」に『よって盛政は敵中に孤立してし』まい、『前田利家らの部隊が撤退したため、盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれた』。『結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀国に落ち延びようとした』が、『落ち延びる途上、盛政は越前府中付近の中村の山中で郷民に捕らえられた』。『命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言った(盛政を引き渡した郷民は直ちに処刑された)。引き渡されたとき、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されたが、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返し、周囲をうならせたという』。『秀吉は盛政の武勇を買って』、『九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘った。しかし盛政は信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、秀吉の好意を感謝しながらも』、『「生を得て秀吉殿を見れば、私はきっと貴方を討ちましょう。いっそ死罪を申し付けて下さい」と願った。秀吉は盛政の説得を諦め、その心情を賞賛して』、『せめて武士の名誉である切腹を命じたが、盛政は敗軍の将として処刑される事を望んだ。そのため、秀吉に「願わくば、車に乗せ、縄目を受けている様を上下の者に見物させ、一条の辻より下京へ引き回されればありがたい。そうなれば秀吉殿の威光も天下に響き渡りましょう」と述べた』という。『秀吉はその願いを聞き届けて盛政に小袖二重を贈るが、盛政は紋柄と仕立てが気に入らず、「死に衣装は戦場での大指物のように、思い切り目立ったほうがいい。あれこそ盛政ぞと言われて死にたい」と大紋を染め抜いた紅色の広袖に裏は紅梅をあしらった小袖を所望し、秀吉は「最後まで武辺の心を忘れぬ者よ。よしよし」と語って希望通りの新小袖』二『組を与えた』。『盛政は秀吉により京市中を車に乗せられて引き回されたが、その際に「年は三十、世に聞こえたる鬼玄蕃を見んと、貴賤上下馬車道によこたわり、男女ちまたに立ち並びこれを見る。盛政睨み廻し行く」とある(『佐久間軍記』)。その後、宇治・槙島に連行されて同地で斬首された』。『秀吉は盛政の武辺を最後まで惜しみ、せめて武士らしく切腹させようと連行中に密かに短刀を渡す手配もしたが、盛政は拒否して従容と死に臨んだという』。私は大の秀吉嫌いで盛政好きである。
「片廂」(かたびさし)「後篇」国学者斎藤彦麻呂の考証随筆(嘉永六(一八五三)年自序)。古来の制度・風俗・古言古歌その他の考証的記事に及ぶも、学問的な内容を扱った条は杜撰な説が多いとされ、後に岡本俊孝によって「片廂糾謬」が書かれるに至っている。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。
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○秀吉公の御目のひかり
秀古公いまだ木下藤吉といふ時に、大澤主水と鎗合(やりあはせ)せし給ひしに、主水、眼(まなこ)くらみて、向ふ事、能はず。うつぶしたる事、又、羽柴筑前守の時に、志豆(しづ)が嶽(たけ)にて、佐久間玄蕃允をにらみ給へば、人馬ともに、まばゆくて、跡じさりしつる事など、人のしりたる事なり。「懲毖錄(びひつろく)」[やぶちゃん注:誤字誤読。次注参照。]に、『秀吉、容貌矮陋(わいろう)、面色(めんしよく)黧黑(りこく)、無二異表一(いへう、なし)。但(たゞ)、微(すこし)覺二目光閃々射一ㇾ人(めのひかり、ひかひかとして、ひとをいるを、おぼふ)』とあり。
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「懲毖錄」(ちょうひろく:現代仮名遣)は十七世紀前後に書かれた李氏朝鮮の史書で、著者は同王朝の宰相柳成龍。「文禄・慶長の役」を記録したもの。
「和田賢秀を斬し湯淺某、其末期の眼ざしを怖れて、病付き死んだとか(太平記廿六)」「楠正行(まさつら)最期の事」の一節。和田賢秀(けんしゅう/和田賢快 ?~正平三/貞和四(一三四八)年)は楠木正成の甥。「四條畷の戦い」で敗れ、正行らが自刃した後、高師直の陣に潜入していたところを、嘗て味方であった湯浅本宮(ほんぐう)太郎左衛門に討たれた。討死の際、敵将の首に噛み付き、睨んで放さず、本宮太郎左衛門はそれが元で病んで死んだとされており、土地の人々は賢秀の霊のことを「歯噛様(はがみさま)」「歯神様」として祭っている。
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和田新發意(しんぼち)[やぶちゃん注:賢秀の異名。]如何(いかが)して紛れたりけん、師直(もろなほ)が兵の中に交りて、武藏守[やぶちゃん注:師直。]に刺し違へて死なんと近付きけるを、この程、河内より降參したりける湯淺本宮太郎左衞門と言ひける者、これを見知つて、和田が後(うしろ)へ立ち囘り、諸膝(もろひざ)切つて倒るるところを、走ろ寄つて首を搔かんとするに、和田新發意、朱(しゆ)をそそぎたる如くなる大の眼(まなこ)を見開いて、湯淺本宮を、
「ちやう」
ど、睨む。その眼、終(つひ)に塞(ふさ)がずして、湯淺に首をぞ取られける。大剛(たいかう)の者に睨まれて、湯淺、臆してやありけん、其日より、病(やま)ひつきて、身心、惱亂しけるが、仰(あふの)けば、和田が怒りたる顏、天に見え、俯(うつぶ)けば、新發意が睨める眼、地に見へて、怨靈(をんりやう)、五體を責めしかば、軍(いくさ)散じて七日と申すに、湯淺、あがき死にぞ死にける。
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「本町二丁目の糸屋の娘、姊が二十一妹が廿、此女二人は眼元で殺すといふ唄文句」サイト「大垣つれづれ」の『星巌は「糸屋の娘」で起承転結を説いたか』が本邦域内での考証として面白い。
「蛾眉伐性之斧」伐性之斧」(ばつせいのふ(ばっせいのふ))は「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう:戦国末の秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書。紀元前二三九年完成。天文暦学・音楽理論・農学理論などの論説が多く見られ、自然科学史上、重要な書物とされる)の「孟春紀」の「本生」が出典。
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貴富而不知道、適足以爲患、不如貧賤。貧賤之致物也難、雖欲過之奚由。出則以車、入則以輦、務以自佚、命之曰招蹙之機。肥肉厚酒、務以自彊、命之曰爛腸之食。靡曼皓齒、鄭、衛之音、務以自樂、命之曰、「伐性之斧」。三患者、貴富之所致也。故古之人有不肯貴富者矣。由重生故也、非夸以名也、爲其實也。則此論之不可不察也。
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「伐性」は「人としての心身を害すること」で、熊楠が「蛾眉」と添えた如く、女性・淫乱なる音楽に溺れたり、たまたま起こったに過ぎない良い出来事に過度に期待する悪弊を諌めたもの。
「嬉遊笑覽卷八云、……」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。以下、当該部(「忌諱」のパート内)を所持する岩波文庫版第四巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)を基礎データとし、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(正字)の当該部で校訂し、読点・記号等を変更・追加し、一部の漢文脈を訓読した。また、送り仮名を増やして、歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。熊楠の引用は省略がある。
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中古陰陽家(おんやうか)の說、行はれて、物いみを付(つく)る事あり。男子は烏帽子(ゑぼし)、女房は頭に付けし事、古物語に徃々あり(又、物いみとて、家に籠り居て深くつゝしみてある事もあり)「拾芥抄」、「物忌」の條に、『迦毘羅國(かびらこく)に桃林あり、其の下に一人の鬼王あり、「物忌」と號す。其の鬼王の邊に、他の鬼神、寄らず。鬼王、誓願して、「六趣有情(うじやう)を利益す云々、我名を書きて持たむ人には、願のごとく、守護すべし」と、「儀軌(ぎき)」に出たり』と有る。この「物忌」二字を細紙(ほそがみ)に書きて著(つ)くる也。「河海抄」に、『昔は忍草(しのぶぐさ)に「物忌」を書きて、御簾(みす)にも冠にもさしける也。「事無草(ことなしぐさ)」と云ふに就いて也。又、柳の枝、三寸許り、簡(ふだ)に作りて、「物忌」と書きて御冠の纓(えい)に著けられ、又、白紙に書きて付けらるゝこと有り。是は、禁中の事也』といへり。
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・「拾芥抄」(しゅうかいしょう)鎌倉中期に原型が成立し、南北朝期に改訂編纂された類書(百科事典)。
・「迦毘羅國」現在のインド・ネパール国境付近に存在した国で、釈迦の出身地として知られる。
・「六趣有情」六道を輪廻せねばならない有情の衆生。
・「儀軌(ぎき)」バラモン教・仏教などに於いて、神々や仏・菩薩を対象に行う儀式や祭祀の法式を規定した書。
・「河海抄」室町初期に四辻善成が著した「源氏物語」の注釈書。
・「纓(えい)」冠の付属具で、背後の中央に垂らす部分。古くは、髻 (もとどり) を入れて巾子 (こじ) (「こんじ」の撥音無表記。冠の頂上後部に高く突き出ている部分。髻を入れ、その根元に笄(こうがい)を挿して冠が落ちないようにするもの。元来は、これをつけてから、幞頭(ぼくとう:上部前頭を覆う部分) を被ったが、平安中期以後は冠の一部として一体型の作り付けとなった)の根を引き締めた紐の余りを後ろに垂らした。後には、幅広く長い形に作って巾子の背面の纓壺 (えつぼ) [やぶちゃん注:頭部全体を平面的に覆う部分の後頭部の中央にある纓を差し込むための溝状の部分。]に差し込んで付けた。時代により、形状が異なる。なお、平凡社「選集」はこれに「よう」と振っているが、「瓔」と誤ったものか、甚だしい誤りである。
「類聚雜要抄三……」平安時代に書かれた寝殿造の室礼と調度を記した古文献「類聚雑要抄」(るいじゅうぞうようしょう)は摂関家家司であった藤原親隆が久安二(一一四六)年頃に作成したと推定されているもの。国立国会図書館デジタルコレクションの写本画像のこちらで当該部(「五節の童女頭物忌付事、二所に有之、左は耳の上程、右は頰後に寄て付之云々、物忌の薄樣は弘三分に切之(紅一重、短手をば後に結之)、云々」)が読める。「一 同頭物忌付事」の条の抄出である。
「滿佐須計裝束抄」(まさすけしょうぞくしょう:現代仮名遣)は平安後期の貴族で有職家であった源雅亮(まさすけ 生没年不詳:醍醐源氏。従五位下伊賀守。平清盛の長男重盛と次男基盛とは親戚筋)作の仮名文の平安装束の有職故実書。甲斐守・源雅職の子。本文内注で原本写本にリンクさせた。
「笑覽卷八に、嚔」(はなひ)「る時結ぶ糸(產所記に長一尺三寸許と云りと)を長命縷」(ちやうめいる)「の類ならんと云」「方術」のパートの冒頭。同前の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。「嚔(はなひる)の頌(じゆもん)」の中の一節。かなり長いが、重要なので、同前の仕儀で引く。但し、漢文部は底本通り、白文で示し、後に岩波版の訓点を参考に訓読したものを添えた。
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「萬葉集」十一、「眉根(マユネ)搔鼻火(カキハナビ)紐解待八方(ヒモトキマテリヤモ)何時毛(イツカモ)將見蹟(ミント)戀來吾乎(コヒコシワレヲ)」。集中、はなひることをよめる歌、この外にもあり。「詩」、「邶風(はいふう)」に、「寤言不寐、願言則嚔」(寤(さめ)て言ふに寐(ね)れず、願ひて言ふに、則ち、嚔る)といへると同じくて、人におもはるれば、はなひる、となり。後には、其意、うつりて、我事を後言(しりうごつ)[やぶちゃん注:陰口を言う。]ものあれば、嚔るとて、わろき事とす。又、天竺には、もとよりよからぬ事とするにや、「四分律」に、「世尊嚔。諸比丘呪願言長壽」(世尊、嚔(てい)す。諸比丘、呪願して「長壽」と言ふ)とあり。「古今集」雜、「出て行む人をとゞめむよしなきにとなりのかたにはなもひぬかな」。「袖中抄」に、「はなひる事、いかにもよからぬこと也。年の始(はじめ)に鼻ひりつれば、祝ひごとをいひて、祝ふ也。されば、人の所へゆかんずる初めに、隣の人、嚔らむを聞きても、くせぐぐせしからん人は、立ちどまるべき也」と有り。「枕草子」、「にくき心の、はなひて誦文する人云々」。又、宮に初めて參りたる頃といふ條、「物など仰られて、我をば思ふやと問はせ給ふ御いらへに、いかにかは、と、けいするにあはせて、臺盤所(だいばんどころ)のかたに、はなを、たかく、ひたれば、『あな、心う。そらごとするなりけり』云々(こは、淸少が我をおもふといひしは僞(いつはり)ならん、隣に、はなをひつれば、との御戲(おたはむれ)なり)。わが願ふこと・おもふことある時、人のはなひるだに、そのこと、かなはず、とする習ひ、と、みゆ。「徒然草」、くさめくの段、「文段抄」に云、「乳母がたのならはしに、其兒(そのちご)の嚔る時、かたはらの人、『はなを合す』とて、又、『くさめ』といふ也。もし、はなを合せざれば、其嚔したる兒に害あり、といひ習はせり。其故に、今も、守り刀などに、「鼻の糸」とて、靑き糸をつけて、兒の嚔る時、かのはなを合す代りに、其糸をむすぶなり」とあり。伊勢守貞陸(さだみち)が「產所記」、『御はなのむすび糸、長さ一尺三寸許り、かずをとるもの也」と、云へり。糸は「長命縷」の類ひなるべし[やぶちゃん注:岩波版には熊楠が引くこの大事な『糸は「長命縷」の類ひなるべし』の部分がない。]。今、小兒の衣の背に、「守(まも)り縫(ぬひ)」とて付くる、是にや。「拾芥抄」、『嚔時頌、休息萬命急々如律令』(嚔る時の頌、「休息萬命急々如律令(きふそくばんめいきふきふによりつれい」)と有り。この頌文は、佛家(ぶつけ)に「呪願言長壽」と、いへるより出(いで)しなるべし。「袖中抄」に「四分律」の文を引きて、「今俗、正月元日、若早旦嚔、卽稱曰千秋萬歲急々如律令是緣也。何只在元日哉、尋常禱之」(今、俗、正月元日若しくは早旦、嚔れば、卽ち、稱して、「千秋萬歲急々如律令」と曰ふ。是れ、緣(ゆかり)なり。何ぞ、只だ、元日のみに在らんや、尋常、之れを禱(いの)る)といへり。「帝京景物略」、『正月元旦五鼓時、不臥而嚔。々則急起、或不及衣曰、臥嚔者病也。不臥而語言、或戶外呼、則不應曰、呼者鬼也云々』(正月元旦の五鼓時、臥しては嚔(はなひり)せざるに、嚔するときは、則ち、急ぎ、起きて、或いは、衣(ころもき)るに及ばすして曰はく、「臥して嚔る者、病ひなり。臥して語り言(ごと)せず」と。或いは戶外に呼ぶあらば、則ち、應ぜずして曰はく、「呼ぶ者、鬼なり。」と[やぶちゃん注:私はこの辺り、岩波の訓点(送り仮名)に大いに不審を持っているそのままでは意味が通るように到底思えないからである。されば、かなり自由に訓じた(後も同じ)。なお、以下、岩波では別な引用がかなり入る。岩波を少しだけ使用してジョイントする。])。今兒女など、くさめをすれば、「德萬歲(とくまんざい)」といひ、下賤は「くそをくらへ」といへり。「休息萬命」のひゞきに似たるも、おかし。「寬永發句帳」、『くつさめや德萬歲のはなの春』(志滿)。「鷹筑波集」、『人々や我身の上をそしるらんひたものはなをひる刀鍛冶」「嬾眞子錄(らんしんしろく)」に、『俗說以人嚔噴、爲人說。此蓋古語也。終風之詩曰云々。漢藝文志、雜占十八家三百一十卷内、嚔耳鳴雜占十六卷。然則嚔耳鳴皆有吉凶。今則此術亡矣』(俗說に「以つて、人、嚔り噴(ふけ)れば、人、說(はなし)を爲(な)す」と。此れ、蓋し、古語なり。終風の詩に曰はく、云々。漢の「藝文志」に、「雜占十八家」三百一十卷の内、嚔・耳鳴の雜占は十六卷あり。然れば、則ち、嚔・耳鳴、皆、吉凶有り。今、則ち、此の術、亡ぶ)。」。
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以上の私の引用に語注を附し始めると、またまたエンドレスになるので附さない。悪しからず。熊楠の引用している部分の以下の二つだけに注する。
・「產所記」は室町中期から戦国にかけての有職家にして山城守護で政所執事を務めた伊勢貞陸(さだみち 寛正四(一四六三)年~永正一八(一五二一)年)が書いた「産所之記」。産所で用いられる用具についての解説書。「国文学資料館」の写本の最後(三行目)に引用された原文が見える。
・「長命縷」古代中国以来、端午に飾る五色の糸飾りで、長寿を祈る祭具である。本邦の祝儀の薬玉 (くすだま) は、その流れを汲んだものである。
『酉陽雜俎卷一、「北朝婦人五月云々又長命縷、宛轉繩、皆結爲人像帶之」』巻一「禮異」の一条に、
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北朝婦人、常以冬至日進履襪及靴。正月進箕帚長生花、立春進春書、以靑繪爲※、刻龍像銜之、或爲蝦蟆。五月進五時圖、五時花、施帳之上。是日又進長命縷、宛轉繩、皆結爲人像帶之。夏至日進扇及粉脂囊、皆有辭。
[やぶちゃん注:「※」=「革」+「識」の(つくり)のみ。]
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北朝の婦人、常に冬至の日を以つて、履襪(りべつ)[やぶちゃん注:現在の靴下相当のもの。]及び鞾(くわ)[やぶちゃん注:靴。]を進ず。正月は箕帚(きさう)[やぶちゃん注:塵取りと帚(ほうき)。]と長生花[やぶちゃん注:花持ちのよい生花のアレンジ物の謂いと思われる。]を進ず。立春は春書[やぶちゃん注:春を言祝いだ色紙であろう。]を進じ、以つて靑繪(せいさう)で※を爲(つく)り[やぶちゃん注:この一句は意味不明。]、龍の像を刻みて、之れを銜(くは)はす。或いは蝦蟆(がま)に爲る。五月は、「五時圖」・「五時花」を進じ、帳の上に施す。是の日、又、長命縷・宛轉繩(えんてんじやう)を進ず。皆、人の像(かたち)に爲りて結び、之れを帶ぶ。夏至の日は、扇及び粉脂の囊(なう)を進ず。皆、辭(ことば)有り。
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段成式の書いた「酉陽雑俎」は晩唐の作品であるが(八六〇年)、これはずっと前代の隋の前の南北朝期の記録を引っ張り出して言っている特異点の記載であることに注意する必要がある。則ち、少なくとも、ここの書かれた習俗は、同書の完成の遙か二百八十年も前の、中国北部の習俗の古記録であるということである。熊楠が「大に」日本の「守縫」(まもりりぬひ)「と」中国のそれは「異なる」と言う時、その記載の時間差を理解しているようには、私には思われないし、況や、読者も無批判に「中国と日本は全然、違うね」と思うのは、これまた、早計であると私は思うからである。
「近世風俗志」(2)で既出既注。
「兒服に一つ身四つ身と云有」幼児用の「一つ身」とは乳児から二歳位までの幼児用の着物で、並幅の布を使い、背縫いをぜずに仕上げる。特に乳児の間は肩揚げや腰揚げをせずに衿に付け紐をして、帯の代わりにする。手を動かし始めたら肩揚げを施し、歩き始めればm腰揚げをする。「四つ身」は四歳から十二歳までで汎用された子供用の着物で、並幅の反物の、身長の四倍の長さの布を裁断して作る。子供の成長に合わせ、肩揚げ・腰揚げにより、丈や幅を調整する。七歳程度までの子供であれば、一反の布から長着と羽織の対を作ること可能である。なお、他に「三つ身」と呼ぶ両者の中間型のもの(二歳から四歳の子供用着物)があり、これは並幅の反物の半反を使って仕立てる。乳児用の「一つ身」に比して、全体のバランスが取れているものの、身幅が、多少、狭いので、着られる期間は短くなる。この「三つ身」は三歳児の祝い着として用いられることが多い(以上はサイト「着物買取ガイド」のこちらの解説を参照した)。
「E. Peacock, in Notes and Queries, March 14, 1908」「Internet archive」の原本のここの左ページ右下から右ページ左上にある EDWARD PEACOCK 氏の投稿「THE EVIL EYE IN ITALY」に書かれてある。
「支那に赤口日凶神百事不宜用(倭漢三才圖會五)」巻第五「曆占類」の「赤口日(しやつくにち)」。所持する原本から電子化する。図は阿呆臭いので(私は一切の占いに関心がないため)、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の当該部の画像をリンクさせるに留める。
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按赤口日凶神百事不宜用而三才圖會亦不出圖今以圖備便覽順廻六宮照月正與七相合【余月亦如圖】三月上起朔日逆廻六宮照日則知
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按ずるに、赤口日は、凶神にして、百事。用ふるに宜しからず。「三才圖會」にも亦、圖を出ださず、今、圖を以つて便覽に備ふ。順に六宮(りくきう)を廻(くわい)して、月を照(しやう)す[やぶちゃん注:各月に照応させるの意。]。正(しやう)と七とは相ひ合(がつ)す【余月、亦、圖のごとし。】。三月の上に、朔日(ついたち)を起し、逆に六宮を廻る。日と照らせば、則ち、知る。
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「庚申」庚申信仰に基づく庚申堂や庚申塔。
「淡島」淡島神(あわしまのかみ)。和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神。神仏習合期の名残から同神を祀る淡島堂を持つ寺も各地にある。参照したウィキの「淡島神」によれば、『婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った』ことから、『信仰が全国に広がった』。しかし、明治の神仏分離によって、多くの神社では祭神を少彦名神などに勝手に置き変えられてある。こういう子供でさえ鼻白む馬鹿げたことをするから、近代神道はダメだ。
「浮世袋」近世初期に流行したもの(袋)で、絹を三角に縫って中に綿を入れ、上の角(かど)に糸を附けたもの。遊女屋の暖簾に飾として附けたり、匂い袋にしたり、針仕事の縁起物などにしたが、早くに廃れてしまい、後には単なる子供の玩具となった。正月の屠蘇袋はこれに由来するとされる。
『印度の王公、「アラツチ」(不幸の義)』不詳。識者の御教授を乞う。
「用捨箱中卷(十三)に、「友人曰、眞云の檀門の金剛橛(四方の柱也)に掛る金剛寶幢と云物有、錦を以て火形を象り、三角に縫ひ、裏に香を入るゝ、又入れざるも有、浮世袋其形に似たる故、寶幢になぞらえて神佛に捧るなるべしと云々」上に云える」「用捨箱」は(2)で既出既注。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの原本の「地」(中巻・PDF)の「七色賣(なないろうり)」(この前の部分も庚申信仰との関係があって非常に興味深い)の最後の「18」コマ目八行目以下に出現する。また、同コマの二~四行目の部分には、中目黒(私は大学時代そこに三年下宿した)の庚申塔の青面金剛(せいめんこんごう:原本には「靑靣金剛」で「かうしん」とルビしてある)の石像が狭苦しい雨覆いに入れられてあるものに、「浮世袋(うきよふくろ)にくゝり、猿を釣(つり)たるが納めありしを十年ばかり前に実たり」とあって、案外、この記載が熊楠の前述の謂いの本来の震源地ではないかと読める(熊楠の本篇執筆時には庚申信仰も淡島信仰も神社合祀に向けて急速に廃れていたからである。或いは、それに大反対者として立ち向かった彼にして、これは言っておくべき信仰の形だったのかも知れない)。
『下卷(四)に、「昔は遊女に戯るゝを浮世狂ひと云し也、傾城の宅前には云々布簾を掛、それに遊女の名を書て、下に三角なる袋を自分の細工にして付し也、是を浮世袋と云習したる也と載せられたり、是れ匂ひ袋なるべし云々、昔は云々遊女は云々伽羅を衣に留ざるはなき樣なれば、斯る餘情も成たるにや有ん、其れが云々後には香類を入れず、布簾の縫留と成しなるべし」同前の下巻で「8」コマ目に、「四 蚊帳に香袋を掛」の条の「9」コマ目に、
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「赤鳥の巻」に大嶋求馬の説なりとて、「昔は、遊女にたはるゝを『浮世狂ひ』と云ひしなり。傾城の宅前(たくぜん)には柳を二本植(うゑ)て横手(よこて)をゆひ[やぶちゃん注:籬を拵えることか。]、布簾(のうれん)をかけ、それに遊女の名を書(かき)て、下に三角なる袋を、自分の細工にして付しなり。是(これ)を『浮世袋』といひならはしたるなり」といふ事を載(のせ)られたり。是(これ)、「匂袋」なるべし。風にあふつて[やぶちゃん注:「煽つて」。煽(あお)られて。]自然(おのづから)香(にほひ)を散(ちら)さん料(れう)なれば、蚊帳(かちやう)へ掛(かく)るも同事(おなじこと)のやうにおもえる。昔は太夫ととなへし遊女は更なり、格子などいひて、それに次(つぐ)者も伽羅(きやら)を衣(きぬ)に留(とめ)ざるはなきさまなれば、かゝる餘情(よぜい)もなしたるにやあらん。其れが彼(かの)誰(たが)袖(そで)の如く、後には香類(かうるゐ)を入れず、布簾(のうれん)の縫留(ぬひとめ)となりしなるべし。
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とある。
「推古帝の時、支那に摸して始て行える藥獵に伴ゑりてふ、續命縷卽ち藥玉(久米氏日本古代史八一五頁)」元佐賀藩士で近代日本の歴史学における先駆者である久米邦武(天保一〇(一八三九)年~昭和六(一九三一)年:明治政府に出仕して、明治四(一八七一)年の特命全権大使岩倉使節団の一員として欧米を視察、一年九ヶ月後に帰国して太政官吏員となり、独力で視察報告書を執筆。明治一一(一八七八)年、四十歳の時、全百巻から成る「特命全権大使 米欧回覧実記」を編集、太政官の修史館に所属して「大日本編年史」などの国史の編纂に尽力した。明治二一(一八八八)年、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任したが、明治二十五年に雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、両職を辞任した。三年後、大隈重信の招きで、東京専門学校(現在の早稲田大学)で教壇に立ち、大正一一(一九二二)年の退職まで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた)が明治三八(一九〇五)年に早稲田大学出版部から刊行した「日本古代史」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該部が読める。視認して以下に示した。太字は底本では傍点「ヽ」、下線太字は傍点「○」。
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物部氏大連敗滅し、蘇我大臣一派の改府となり、法興寺を建立したるを第一着として、多年潜養したる禮制を興隆し、二十餘年を經て隋使韓使の接待にて略成功しければ、十九年五月五日に兎田野の藥獵を擧行したり。其時諸臣の服色は冠色に隨ひ冠に髻華を着け、德は金、仁は豹尾、禮以下は鳥尾を用ゐ、雞鳴に藤原上池に集まり、黎明を以て兎田【郡の足立村】に往く。栗田細目前部領たり、額田部比羅夫後部領たり。重五の藥獵は荆楚歲時記に、五月五日、雞未ㇾ鳴時、釆艾似二人形一者、攬而取ㇾ之、用ㇾ炙有ㇾ驗、是日競採二雜藥一とあれば、支那中部に居住する南人種の風俗にして、日本にも早く行はれたるべし、後世菖蒲船(シヨウブフネ)を献ずる例は是に起る。又、藥玉(クスダマ)は延喜式に出づ、藤原明衡往來に、今朝自二或所一、給二藥玉一流一、作以二百草之花一、貫以二五色之縷一、模二草蟲形一、棲二其花房一、芳艶之美、有ㇾ興有ㇾ感、古人云、此日懸二續命縷一、則益二人命一、とある、續命縷は卽ち藥玉にて、是も藥獵より起りたる物なり。集解に太平御覽田夏正曰、五月、此月畜ㇾ藥、蠲二除毒氣一とあれど、夏小正には畜蘭[やぶちゃん注:フジバカマのことか。]とあり、傳に爲二沐浴一とある。蘭湯は北部の俗にて畜藥は南部の俗なり、大平御覽に畜藥の文あるとは疑はし。是まで貴族尙武の習氣は、山野の獸獵を最快樂の事となし、男女相會して肉を割て宴飮したる風俗は浸潤の久しき、止むベからざるものあらん。佛敎は殺生を戒しめ、慈悲を宗とす、欽明帝の時に醫藥曆筮を佛敎の前驅となして智識を聞き、三寳の崇敬始まり、天王寺は敬田の外に施藥療病悲田の四院にて成る等、傳道の初め僧徒の民衆に心を竭す[やぶちゃん注:「つくす」。]信切なりと謂べし。是に於て藥獵を始めて山野に會集し、藥草を採て鳥獸獵に代たるは、亦野民麁暴の風を去りて禮文溫和の品行を誘くの意なり、毎年々五月五日に藥獵を行ふこと是より例となれり。
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「Lloyd, ‘Peasant Life in Sweden,’ 1870, p. 267」作者はイギリス(ウェールズ)生まれでスウェーデンに二十年以上住んだナチュラリストのルウェリン・ロイド(Llewelyn Lloyd 一七九二年~一八七六年)。主にスカンジナビア地方の民俗習慣・農民生活及びその自然(特に鳥類学と狼)についての叙述が多い。
「奴の小萬が、顏に墨ぬり、痣作りて、貌を見盡されぬ樣計ひし」浪華(なにわ)の女侠客「奴の小万」(やっこのこまん 生没年不詳(亨和三(一八〇三)年没とも))。大阪長堀の豪商三好家の娘「お雪」で、婿取り娘であったが、望みあって二十歳の時、長局(ながつぼね)[やぶちゃん注:宮中や江戸城大奥などで、長い一棟の中を幾つもの局(女房の部屋)に仕切った住まい。また、そこに住む女房をも指す。]に奉公する女祐筆となったが、父の死去にあって、禁中を去って、遺産を相続し、「お亀」と「お岩」という召使を抱えて、「女伊達(おんなだて)」となり、その侠気を以って知られた。後に尼となって「正慶」と号し、「関白秀次二百年忌大追善」を天王寺で営み、折からの俄雨には雨傘五千本を集めて、参詣人を濡らさせなかったという。その居を「月江庵」と称し、生前はそこの門頭に棺桶を掛け、人を集めては宴を催し、また、遺産金を「京都大仏」に喜捨して、徳川家を憚ることなく、「豊太閤の冥福を修する」と触れるなど、その奇行で世間を大いに驚かせた(以上はウィキの「奴の小万」に拠った)。]