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2021/01/18

南方熊楠 小兒と魔除 (7) / 南方熊楠「小兒と魔除」正字正仮名版全電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:冒頭の「一四四頁狼を魔除とする事」は出口米吉の「小兒と魔除」の初出論考の末尾部分(PDFの2コマ目)。私の電子化から引くと、『狼は和名オホカミ(大嚙)と稱して、一般に恐怖する所なりと雖も、未だ魔除として用ゐられたることを聞かす[やぶちゃん注:「聞かず」の初出の誤植。]。恐らくは虎を呼ぶの本意忘却せられ、俗に小兒を威嚇するが如く解するに至りて、更に狼をも添ふるに至りしならんと思はる。張遼來も鬼魔を逐ふが爲に唱せし者にして、鐘馗石敢當加藤淸正等の武勇絕倫の豪傑の名を借りて惡鬼を驅逐すると趣旨を同くするなり。』の部分。思わず、そこで私が割注を入れたように、これは、しかし、埼玉県秩父市三峰にある三峯神社の狼を描いた護符を知らない出口氏の不勉強と言わざるを得ない。南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」を見られたい。]

 

(一四四頁狼を魔除とする事)此邊に、今もさびしき所にて、狼來たとて小兒ををどす[やぶちゃん注:ママ。]こと多し、歐州にも有りと覺ゆ、世事百談に言る、虎狼來るとて小兒をすかすも、上の張遼麻胡と同く、單に啼ば狼來り噬む[やぶちゃん注:「かむ」。]といふに過ず、但し出口氏、狼は一般に恐るゝ所なれど、未だ魔除として用られたるを聞ずとはいかゞ、狼に大噬[やぶちゃん注:「おほかみ」。]の意あると同時に又大神の義を具ふ、書紀卷十九、秦大津父[やぶちゃん注:「はだのおつち」。]、山中に狼の血鬪するを解くとき、下馬口漱手、祈請曰、汝是貴神云々今も此邊に送り狼とて、人を害せず、守衞せし狼の古語殘り、大臺原山に、神使の狼現存すと云、突厥高昌二國の祖は、人と狼と、狼と人との間種と稱し(淵鑑類函四二九卷)、歐州にも狼の子孫といへる人ある事、ハーバート、スペンサー[やぶちゃん注:底本では読点部で下線が切れるが、繋げた。]の社會學原理に見え、北米の印甸[やぶちゃん注:「インデアン」。]族、造世主を狼形とするもの多し(Ratzel, op. cit., vol. ii, p. 148)、此地(紀州田邊)に寡聞なる吾輩名を聞きしことなき物語繪を藏する人あり、土佐繪にて屛風に貼せるが[やぶちゃん注:「ちやうせるが」。]、前半計りのみ存し、山神なる狼、海中の「オコゼ」魚の美なるに懸想し、之を娶るに臨み、鮹の入道大に之を憤り、烏賊などを賴んで軍を起し、「オコゼ」姬の駕を奪んとする話なり、大和本草に見ゆる通り、舟師山神を祈て風を求むるに、今も「オコゼ」を捧ぐること、希臘海島の山神に捧るとて、麪包[やぶちゃん注:「パン」。]を海に投じ、以て漁を乞ふに同じ(Bent, p .65)、近頃迄熊野地方にて、狼を獸類の長とし、鼠に咬れて重患なる時、特に狼肉を求て煮喫せしを參するに、古え吾邦に狼を山神とする風有しならん、虎骨虎爪と等く、狼皮狼牙狼尾辟邪の功ありといふ支那說、上の邪視と視害の序に言へり、大和吉野郡十津川の玉置山は海拔三千二百尺と云、予も昨秋末詣しが、紀州桐畑より上るは、道頗る險にして水無く、甚き難所也、頂上近く大なる社あり、其神狼を使ひ者とし、以前は狐に附れしもの、いかに難症なりとも此神に祈り蟇目を行ふに退治せずと云事なく、又狐人を魅し[やぶちゃん注:「ばかし」。]、猪鹿田圃を損ずるとき、この社に就て神使を借るに、或は封の儘或は正體のまゝ渡しくれる、正體のまゝの場合には、使の者の歸路、之に先ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]神使狼の足跡を印し續くるを見、其人家に達する前、家領の諸獸悉く逃畢るといふ、又傳ふるは、夜行する者自宅出るに臨み、「熊野なる玉置の山の弓神樂」と歌の上半を唱ふれば、途上恐ろしき物一切近かず、扨志す方え着したる時「弦音きけば惡魔退く」とやらかす也と、前述送り狼の譚は、之を言へるか、社畔に犬吠の杉あり、其皮を削り來て、田畑に插み[やぶちゃん注:「さしはさみ」。]惡獸を避けしと云、守禦の功犬に等しといふ意か、事體斯の如くなれば、虎狼を以て小兒をすかすは、魔除と何の關係なきと同時に、吾邦從來狼を魔除に用る風有しは、疑を容れずと斷云し置く、

 

[やぶちゃん注:「世事百談に言る、虎狼來るとて小兒をすかす」(6)で既出で当該部を電子化してある。但し、「世事百談」では「虎狼來(ころこん)」とルビしている。そこから考えれば、少なくとも南方熊楠も「ころくる」と読んでいると考えなくてはなるまい。平凡社「選集」では『虎狼来たる』としているが、これは如何にも発音として「ころきたる」は脅し賺す語として私は間が抜けているし、発音し難いと思うのである。ここで遂に言っておくと、平凡社の「南方熊楠選集」の書き変えは、かなり編者による恣意的な、言わせて貰うなら、「読み易けりゃ、どう操作したって構わない」的な、読みや送り仮名が頻繁に見られ、確かに総体としては原本よりも現代人には読み易くなっているものの、実際には熊楠はそんな読み方はしていないと断言出来る部分が、もう今までの電子化での比較対象にあっても、腐るほど、あるのである。私が今回、熊楠の正字正仮名の底本で電子化しようと考えた意図の中には、たとえ読み難くても、熊楠の肉声を電子的に再現すべきではないか、という強い思いがあるからである。

「書紀卷十九、秦大津父、山中に狼の血鬪するを解くとき、下馬口漱手、祈請曰、汝是貴神云々」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」の私の注で電子化済み。

「大臺原山に、神使の狼現存すと云」奈良県と三重県の県境にある大台ヶ原山(おおだいがはらやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)は標高千六百九十五・一メートル。大台ヶ原から北の高見山(たかみやま)にのびる台高(だいこう)山脈は、事実、ニホンオオカミが最後まで棲息していたと言われる山域で、人跡稀な森であった。

「突厥高昌二國の祖は、人と狼と、狼と人との間種と稱し(淵鑑類函四二九卷)」「淵鑑類函」は清の聖祖(康熙帝)の勅撰により編纂された類書(百科事典)。一七一〇年成立。四百二十九巻に、

   *

後周書曰突厥之先匈奴之别種也爲鄰國所破其族有一小兒棄草澤中有牝狼以肉飼之及長與狼交合遂有孕焉逃於高昌國北山洞穴生十男其後各爲一姓阿史那卽其一也

とあり、その少し後の「嚙宮人 配二女」の条にも、

   *

江都昜王非卒子建立宮人有過縱狼嚙殺之觀以爲樂爲北史單于二女甚美置高堂上有老狼守臺遂狼妻産子後遂爲高昌國

   *

とあった。「突厥」はモンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民で、五五二年にユーラシアの東西にまたがる突厥帝国(第一帝国)を建設し、西ではササン朝、東では隋・唐帝国と同時期であったが、五八三年に東西に分裂し、東突厥は隋の支配を受けた。一方の高昌は隋・唐と突厥の間に挟まれたオアシス都市国家で、中国の南北朝から唐にかけて現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在した。

「歐州にも狼の子孫といへる人ある事、ハーバート、スペンサーの社會學原理に見え」南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜」(9:梟)で既出既注。但し、調べた限りでは、同第三巻の、

   *

Hence when we read “that the ancestor of the Mongol royal house was a wolf,” and that the family name was Wolf; and when we remember the multitudinous cases of animal-names borne by North American Indians, with the associated totem-system; this cause of identification of ancestors with animals, and consequent sacredness of the animals, becomes sufficiently obvious.

   *

しか見当たらない。しかも、これは前後で熊楠が指摘する内容に酷似したモンゴル人及びアメリカ・インディアンの伝承であって、ヨーロッパにおけるそれではない。容易に想起されるのは、ローマの建国神話に登場する双子は狼によって育てられた双子の兄弟ロムルスとレムスが浮かぶ限りで、後代の所謂、「狼男」(人狼)、「ウェアウルフ」(英語:werewolf)・「ヴァラヴォルフ」(ドイツ語:Werwolf)や「ルー・ガルー」(フランス語:loup-garou)は多分に悪魔的な色づけがなされ、しかも多分に、異常なモンスターどころか、古くから多くの学者たちから、精神疾患や妄言として早くに退けられてさえいるもので、狼の血の持つ強力な超自然のそれは、欧州の伝承ではそれほどメインに登場していないようである。

「北米の印甸[やぶちゃん注:「インデアン」。]族、造世主を狼形とするもの多し(Ratzel, op. cit., vol. ii, p. 148)」既出のイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の「‘History of Mankind,’ trans. Butler, 1896」とあった英訳本の第二巻で、「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページの本文の(三行の脚注を除く)下から11行前にある、

   *

Where beasts appear as the makers of men, a creator-god is hidden in them ; manifesting himself by preference in the form of a wolf or a dog.

   *

が相当する。あぁっつ! 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(Dances with Wolves:一九九〇年・アメリカ/監督・主演・製作ケビン・コスナー)は良かったなあ!

『此地(紀州田邊)に寡聞なる吾輩名を聞きしことなき物語繪を藏する人あり、土佐繪にて屛風に貼せるが、前半計りのみ存し、山神なる狼、海中の「オコゼ」魚の美なるに懸想し、之を娶るに臨み、鮹の入道大に之を憤り、烏賊などを賴んで軍を起し、「オコゼ」姬の駕を奪んとする話なり』所持する一九九〇年八坂書房刊の「南方熊楠アルバム」(中瀬嘉陽・長谷川興蔵編)の中に、七枚あるその屏風の四つの箇所がモノクロで掲載されており、その屏風は田辺の熊楠の友人湯浅富三郎の家にあったもので(屏風絵と詞書があった)、熊楠はそれを材として、この二年後の明治四四(一九一〇)年二月発行の『東京人類学会雑誌』二十六巻二百九十九号に「山神オコゼ魚を好むということ」ことを発表している(リンク先は私の「選集」版で電子化した古いもの。初出はこれ(「J-stage」のPDF)。近い将来、新たに正字正仮版をここで公開する)。そのキャプションによれば、土佐絵で、彩色もなかなかに精密で、『狼神とオコゼ姫の祝言の宴会を中心に』『山や海のさまざまな動物が描かれて』あるもので、私も甚だそそられる逸品である。原屏風は、現在は東京に移転した湯浅家の所蔵になるものとある(熊楠は知人の画家広畠幾太郎に模写させたともある。そちらでよいから、是非見たい、まっこと、面白い絵なのである)。なお、「オコゼ」は条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科(又はオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus で、同種は単に「オコゼ」とも呼ぶ。

『大和本草に見ゆる通り、舟師山神を祈て風を求むるに、今も「オコゼ」を捧ぐる』「大和本草卷之十三 魚之下 をこぜ (オニオコゼ)」に、

   *

をこぜ ふぐに似て、かど、あり。背には、はり、あり。赤色まだらなり。其の長さ一寸ばかりなるを、海人、用ひて、山〔の〕神を祭り、日和〔(ひより)〕と得ものあらん事を祈る。

   *

とある。そこで私が注したものを引いておく。

   *

「得もの」は獲物。民俗学的記載を入れてくれた益軒に拍手をしたいが、ただ、「海人」というのはちょっとまずい。これは「山人」、山林を仕事場とする猟師や伐採に従事する者たちがこの儀式をするのである。山の神は女神とされるが、容貌が醜いとされ、しかも山の幸を持ち去る者には厳しい。そこで、醜悪なオコゼの顔を見ると、安心して静まり、仕事を許して守って呉れるとされるのである。現在でも、地方によっては、山入りの際に、実際のオコゼの類を仕入れて奉納し、山の神に許諾と安全を祈願している。

   *

「希臘海島の山神に捧るとて、麪包[やぶちゃん注:「パン」。]を海に投じ、以て漁を乞ふに同じ(Bent, p .65)」既出のイギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここで、右ページ中央の以下の段落の最後に現われる。

   *

   Accordingly next morning we set off in a boat to cross the harbour.  As we went we had a better opportunity of realising its beauty and extent: it could hold all the navies of the world within it, and it is protected by an island at its mouth. On the western point is a mountain called the Vanis, a wild, bleak spot, on which our boatman told us that it was the custom to throw bread when they sailed out, that Vanis might eat and send them fish in return.

   *

「虎骨虎爪と等く、狼皮狼牙狼尾辟邪の功ありといふ支那說」(3)の本文と私の注を参照。

「大和吉野郡十津川の玉置山は海拔三千二百尺と云」奈良県吉野郡十津川村にある大峰山系の最南端の玉置山(たまきやま)。標高千七十六・四メートル(「三千二百尺」は九百六十九・七メートルで違いが甚だしい。当時の測量技術が低かったか)。

「紀州桐畑」和歌山県田辺市本宮町切畑の誤りであろう。玉置山の南西山麓に当たる。

「大なる社」玉置神社。サイド・パネルの神社画像でリンクさせた。公式サイトを調べたが、狼信仰は払拭されているようである。しかし、調べてみると、玉置山の北山麓の奈良県吉野郡十津川村高滝にある高滝神社が狼信仰を伝えていることが判った。サイト「十津川探検~瀧洞夜話」のこちらに「十津川村字高瀧神社使狼のこと」として、『高瀧神社は昔より狼を使狼となす傳へあり。明治に至るまで、所々の部落民、猪の害に困憊すれば、この宮に至り、神主に祈らせ、幣を入れた箱を白布に包み〔何人か人員を要す、途中大小便を忌む〕負はせてもらひ、帰村して之を祭る。忽ちにして、次の朝あたり、所々に猪の屍ありたるよし。中作市老に聞く』とあった。ニホンオオカミを絶滅させてしまった今、せめても、彼らを神の一員として後代に伝え残すべき義務が我々には、ある。

「以前は狐に附れしもの、いかに難症なりとも此神に祈り蟇目を行ふに退治せずと云事なく」玉置神社公式サイト内の解説に、境内内の摂社三柱神社について、『玉置神社境内に古くより鎮座されております三柱神社については謎が多く、説明が難しい』としつつ、『三柱神社は別名「稲荷社(いなりしゃ)」とも呼ばれ』るものの、『稲荷信仰が盛んになる前から地主神(じぬしのかみ)としてお祀りをされており、厄除けや心願成就さらに精神の病(ノイローゼなど)また海上安全にも特別の霊験があるとされてい』るとある。私は、ここに狼の臭いを嗅ぎ取った。

「熊野なる玉置の山の弓神樂」「弦音きけば惡魔退く」玉置神社例大祭は、毎年十月二十四日に行われるが、そこでは男性の神子が巫女の衣装を身につけて、白い弓矢を手にし、舞楽を奏する「弓神楽(ゆみかぐら)」が奉納され、その折りの歌詞が、

 熊野なる玉置の宮の弓神樂

    弦音(つるおと)すれば惡魔退(しりぞ)く

である。強力な悪魔封じの特異的な神社として中古より知られていた。悪鬼に対抗するには、私は是非とも狼が必要だと思うのである。

「犬吠の杉」玉置神社の参道の近くに「犬吠檜」(いぬぼえひのき)という枯れた株が現存する。大昔に熊野浦を襲った襲った巨大津波を告げて亡くなった「白い犬」の伝承が、かわじー氏のブログのこちらに記されてあり、oinuwolf氏のブログ「狼や犬の、お姿を見たり聞いたり探したりの訪問記―主においぬ様信仰―」にも同じ伝承が記されてある(孰れも株の写真がある)が、後者はそれを「白い狼」と記しておられる。これであろう(スギ(裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科スギ亜科スギ属スギ Cryptomeria japonica )とヒノキ(ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa )は同じヒノキ科 Cupressaceae で、しばしば混同されやすい)。]

 

序に一言するは、今日は知ず、二十年ばかり前迄、紀伊藤白王子社畔に、楠神と號しいと古き楠の木に、注連結びたるが立りき、當國、殊に海草郡、就中予が氏とする南方苗字の民など、子產まるゝ每に之に詣で祈り、祠官より名の一字を受く、楠、藤、熊など是也、此名を受し者、病ある都度、件の楠神に平癒を禱る、知名の士、中井芳楠、森下岩楠抔皆此風俗に因て名られたるものと察せられ、今も海草郡に楠を以て名とせる者多く、熊楠などは幾百人あるか知れぬ程也、予思ふに、こは本邦上世「トテミズム」行はれし遺址の殘存せるに非るか、三島の神池に鰻を捕るを禁じ、祇園の氏子胡瓜を食はず、金毘羅に詣る者蟹を食はず、富士に登る人鰶[やぶちゃん注:「このしろ」。]を食はざる等の特別食忌と併せ攷ふるを要す、上文玉置山の狼も亦、其地に多き玉置一族の「トテム」たりしに非るか

 

[やぶちゃん注:「藤白王子社」厳密には現存しないと言うべきである。「若山県神社庁」公式サイト内の「藤白神社」を見られたい。いろいろと書いてあるが、『藤白王子社跡』とある。現在は海南市藤白にある藤白神社内に跡がある。結局、消失したのは、恐らく、神仏分離のためであろう。その解説に、『境内の千年楠を子守楠神社(熊野杼樟日命)として祀り、古来畿内各地から子が生まれた時、祈願して、楠・藤・熊の名を受けると長命して出世するといわれた』。『紀州が生んだ巨人、南方熊楠もその一人である』とあり、指定文化財の項に『藤白神社クスノキ群(市指定)』とある。しばしばお世話になるMotohiko Tanida氏のサイト「巨樹と花のページ」のこちらを見るに、五本の大楠が現認出来る。熊楠が見上げたそれは今も健在だ。楠は被子植物門双子葉植物綱モクレン亜綱クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora である。

「號し」「なづけし」。

「中井芳楠」(なかいほうなん 嘉永六(一八五三)年~明治三六(一九〇三)年)は銀行家・教育者。元和歌山藩士。明治八(一八七五)年、慶應義塾卒業。和歌山藩校にて教鞭を取り。第四十三国立銀行支配人となる。明治一三(一八八〇)年、横浜正金銀行に入行、ロンドンに派遣され、支店長となる。南方熊楠と親しくしており、ロンドンから送った文章を文庫に寄贈している。

「森下岩楠」(いわくす 嘉永五(一八五二)年~大正六(一九一七)年)は官僚・教育者・実業家・ジャーナリスト。紀伊生まれ。明治三(一八七〇)年、慶應義塾を卒業後、「三菱商業学校」を創立。大蔵省書記官となるが、明治十四年の政変で辞職し、時事新報に入社。北海道庁の後援で「帝国水産」「帝国生命保険」等に勤務。明治二九(一八九六)年に探偵社「東京興信所」の所長に就任している。

「海草郡」現在はここであるが、旧郡域は、その周辺の和歌山市の大部分・海南市の大部分・有田市の一部を含む地図画面全体に広がる広域である。

「三島の神池に鰻を捕るを禁じ」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(22:鰻)」を参照されたい。

「祇園の氏子胡瓜を食はず」この話はよく知られている京都八坂神社の古い習俗であるが、私にはどうもその解明を記すものに未だ出逢っていないと感じている。例として、短いながら、多くの習俗を纏めてある「祇園商店街」公式サイト内の「神紋 胡瓜、それとも瓜 祇園さんの神紋」を引く。『京の夏野菜の代表格で、もろきゅうよし、うざくよし、浅漬けよしの胡瓜が祇園社の神紋かもという説、ご存知でしょうか』。『祇園社の神さまが胡瓜の上に降臨したので』、『その切断面を模したは俗伝で、真説は、織田信長の幟印の木瓜であるなどと、こもごも』あり、『『和漢三才図会』には、「祇園神、胡瓜の社地に入る事を禁ず。産土(うぶすな)の人、これを食ふ事を忌む」との記載があり、昔の京都では胡瓜を食べる人が少なかったようです』。『「祇園会や胡瓜花さく所まで 超波」という句があるほどで、祇園祭の行列も胡瓜畑の手前で止まるのがしきたりだったようです』。『胡瓜のさなごの形と、祇園さんの棟や神輿についている瓜の紋と類似していることから、「さわらぬ神に」と食べるのを遠慮したのでしょう』。『もっとも』、『江戸時代には、牛頭天王への供物として、初なりの胡瓜は川へ流したものとか。取って食おうと天王を追いかけてきた鬼が、胡瓜の蔓に足を取られて転倒』し、『以来』、『胡瓜は祇園の神の神使となったと伝える地方もある一方、祇園神は大の好物だったが、夢で目を傷められたから、仇の胡瓜は食べませんと、きらう地方もあります』とあるのが眼を引く。ここで判るのは、ここでは、動物ではなく、食物である植物の胡瓜そのものが「トーテム」であったことになる。因みに、胡瓜を好む動物というのは、生態学的にはホンドタヌキやにニホンアナグマがおり、日本各地に人型妖獣としての河童の好物として胡瓜を食うことを禁忌とするという伝承は多いものの、祇園神と狸・穴熊・河童の関係性は全くない。但し、「トーテム」は植物の場合もあるので、これは問題ない。

「金毘羅に詣る者蟹を食はず」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(26:蟹)」参照。但し、そこで私は注をつけながら、何故、蟹なのか? という疑問の解明には至らなかったことを言い添えておく。

「富士に登る人鰶を食はざる」私の『山中笑「本邦に於ける動物崇拜」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」の執筆動機となった論文)』に、『鰶(コノシロ) 駿河山宮の淺間の氏子、鰶を食せず。鰶を身代に葬禮して病氣快復を祈願す』とあり、さらにその後の方で、『鰶(コノシロ) 子(コ)の代(シロ)として、小兒成長を祈願し、鰶を身代りに、葬式する者あり。又、駿河富士郡大宮、及、山宮淺間の氏中は、鰶を食せぬ者あり。神女の身代りになりし魚と云ふ傳說ありて、食せぬなり』とある。しかし、この禁忌は、鰶(条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus )が「トーテム」であるとは言えない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 鱅(コノシロ)」の本文及び私の考証を読まれたいが、古くから鰶を焼く臭いが人の亡骸を焼いた臭いに似ている(そんな事実は全くないが)という話から、穢れとして禁忌となっているもの、或いは、フレーザーの謂う類感呪術的なものが発生の根っこにあると私は考えるからである。山中の言う「神女の身代りになりし魚と云ふ傳說」は後付けに過ぎぬと思う。

「玉置一族」玉置氏は中世以降、紀州に強い勢力を持った一族であることは確かであるが、サイト「戦国大名研究」の「玉置氏」によれば、『玉置氏は、家伝によれば』、『平資盛の子が熊野に逃れ、大和吉野郡十津川村の玉置山上に鎮座する玉置社の神官となったと伝える。『太平記』には玉木荘司とみえ、その本拠は大和国十津川村折立付近であったといい、いまも十津川には玉置姓が多い』。『一説によれば玉置氏は尾張連の流れを汲むともいうが、確かな系図が伝来していないこともあって出自に関しては不明というしかない』とある。以下、南北朝以降の玉置氏勢力の詳しい経緯が記されているので読まれたい。]

 

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

 

 後筆、本文認め畢て後 Ulrich Schmidt, ‘The Conquest of the River Plate,’ trans. Dominguez, 1891, pp. 42,43 を繙くに、ラプラタに鰐あり、兵刄破る能はず、其氣人にかゝれば必[やぶちゃん注:「かならず」。]死す、此魚、井中に在る時、鏡を示し、自ら其影を見て、其顏の獰惡なるに驚き死せしむと有り、鰐の在る處瘴氣ある故、邪氣人を殺すと看做せしならん、(本草、鼉[やぶちゃん注:「だ」。]卽ち鰐、長一丈者能吐氣成雲致雨)、邪氣と邪眼の兩信一源なるを見るべし、但し、此話白人入らぬ先已に南米に行はれしにや、或は歐人、上文に述たる「コツカトリス」鏡を見て死する談を齎來[やぶちゃん注:「せいらい」。「もたらしきたった」の意か。]して、ラプラタの鰐に附會せるに非るを得んや、後考を俟つ、又三州奇談三、加賀白山、群梟と人と相詈て[やぶちゃん注:「あひののしりて」。]、聲先づ止む人は死する話あり、故に梟鳴に答へぬことゝ見えたりパンジヤブにも梟鳴に應ずれば必ず人死すと云(North India Notes and Queris, ap. Folklore, vol. v, p. 84, 1890)狸腹鼓打つに應じて、人火鉢をたゝき、續け勝つとき狸死すと云は之に似たり、爾雅に、市人爭作犬聲逐鬼車、本文に引るマレー人大喧呼して、ベリベリ鳥を厭[やぶちゃん注:「まじなひ」。]する抔同樣の迷信より出たるか、

 本文、兒啼が其身と父母一族の安危に大影響を及す事を述るに、次の吾邦に於る好例を引くを遺したれば爰に附記す、塙保己一の螢蠅抄卷四に云く、「日蓮注畫賛云、弘安四年五月、又蒙古高麗已下國兵軍兵、驅具七萬餘艘大船乘責來云々壹岐高麗船五百艘、自壹岐對馬下、見合者打殺、人民、不堪、脫將妻子逃隱深山、聞赤子泣聲押寄打殺、父母惜我命、刺殺赤子隱居云々、八幡愚童訓云々高麗の兵船五百艘、壹岐對馬に上て見合者をば打殺す、人民堪兼て、妻子を引具し深山に逃籠る處に、赤子の鳴聲を聞付て押寄殺しける程に、片時の命惜ければ、さしも愛する嬰兒を、我と泣々差殺してぞ隱れける、失子親計り、いつ迄有ん命ぞと、身ながらうたてしく泣歎く心中をいかにせん、世の中に、糸惜しき物は子也けり、其にまさるは我身也けりと讀置し、人のすさみを今ぞ知る云々、

(明治四十二年五月、人類二四卷) 

 

[やぶちゃん注:「Ulrich Schmidt, ‘The Conquest of the River Plate,’」ネット検索で「The Conquest of the River Plate (1535-1555)」「Voyage of Ulrich Schmidt to the Rivers La Plata and Paraguai, from the Original German Edition, 1567.」と書誌が出るが、作者ウルリッヒ・シュミットの事蹟や内容は不詳。

ラプラタ」アルゼンチンとウルグアイの間を流れるラプラタ川(スペイン語:Río de la Plata:リオ・デ・ラ・プラタ)。ここはワニ目正鰐亜目アリゲーター科 Alligatoridae のアリゲーター類の南限である。但し、以下の記載も、実際に人を襲撃していない呪力的な記載であることで判るが、アリゲーターは他のワニ類に比すと、おとなしく、人を襲う確率は比較的少ないとされる。

「瘴氣」(しやうき(しょうき))は熱病を起こさせるとされた山川の毒気のこと。実態は感染症の風土病であることが殆どである。

「本草、鼉卽ち鰐、長一丈者能吐氣成雲致雨」「本草綱目」の巻四十三の「鱗之一」の「鼉龍」の「釋名」の下線部。折角なので「集解」まで引いておく。

   *

鼉龍【「本經中品」。】

釋名 鮀魚【「本經」。】土龍 藏器曰、本經鮀魚、合改作鼉。鼉形如龍、聲甚可畏。長一丈者、能吐氣成雲致雨。既是龍類、宜去其魚。時珍曰、鼉字象其頭、腹、足、尾之形、故名。「博物志」謂之土龍。鮀乃魚名、非此物也。今依陳氏改正之。

集解 别録曰、鮀魚甲生南海池澤、取無時。弘景曰、卽鼉甲也、皮可冐鼔。性至難死、沸湯沃口、入腹良久乃剝之。藏器曰、鼉性嗜睡、恒閉目。力至猛、能攻江岸、人于穴中掘之、百人掘、須百人牽之、一人掘、亦一人牽之。不然、終不可出。頌曰、今江湖極多。形似守宮、鯪鯉輩而長一二丈、背尾俱有鱗甲。夜則鳴吼、舟人畏之。時珍曰、鼉穴極深、漁人以篾纜繫餌探之、候其吞鈎、徐徐引出。性能横飛、不能上騰。其聲如鼔、夜鳴應更、謂之鼉鼔。亦曰鼉更、俚人聽之以占雨。其枕瑩淨、勝于魚枕。生卵甚多至百、亦自食之。南人珍其肉、以爲嫁娶之敬。陸佃云、鼉身具十二生肖肉、惟蛇肉在尾最毒也。

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鼉龍【「本經中品」。】

釋名 鮀魚【「本經」。】 土龍 藏器曰はく、「本經」鮀魚、改して「鼉」に作(な)し合す。鼉、形、龍のごとし。聲、甚だ畏るべし。長さ一丈の者は、能く氣を吐き、雲を成し、雨を致す。既に是れ、龍の類なり。宜しく其の魚を去るべし。時珍曰はく、鼉の字、其の頭・足・尾の形を象る。故に名づく。「博物志」に之れを「土龍」と謂ふ。鮀は乃(すなは)ち、魚の名にして、此の物に非ざるなり。今、陳氏に依りて之れを改正す。

集解 「别録」曰はく、「鮀魚甲」、南海の池澤に生ず。取るに、時無し。弘景曰はく、卽ち、「鼉甲」なり。皮、鼔を冐(おほ)ふべし。性、至つて死し難し。沸湯、口に沃(そそ)ぎて、入ること、腹、良(やや)久しくして、乃ち、之れを剝ぐ。藏器曰はく、鼉、性、睡るを嗜(この)み、恒に目を閉づ。力、至つて猛なり。能く江岸を攻す。人、穴中に之れを掘る。百人、掘れば、須らく、百人、之れを牽く。一人、掘れば、亦、一人、之れを牽く。然らざれば、終(つひ)に出づべからず。頌曰はく、今、江湖に極めて多し。形、守宮(やもり)・鯪鯉(りやうり)[やぶちゃん注:センザンコウ。]の輩に似て、長さ一、二丈、背・尾、俱に、鱗甲、有り。夜、則ち鳴き吼え、舟人、之れを畏る。時珍曰はく、鼉の穴、極めて深し。漁人、篾纜(べつらん)[やぶちゃん注:竹を細く割って繩状にしたもの。]を以つて餌(ゑ)を繫ぎて、之れを探し、其の鈎を吞む候(ころをみ)て、徐徐に引き出だす。性、能く横飛びして、上に騰(のぼ)ること能はず。其の聲、鼔のごとし。夜、鳴きて、更に應ず。之れを「鼉鼔」と謂ふ。亦、「鼉更」と曰ふ。俚人、之れを聽きて以つて雨を占ふ。其の枕、、瑩淨(えいじやう)[やぶちゃん注:艶があって清浄なこと。]にして、魚枕に勝れり[やぶちゃん注:魚の皮或いは浮袋などで作った枕か。]。卵を生むこと、甚だ多くして、百に至る。亦、自から之れを食ふ。南人、其の肉を珍として、以つて嫁娶(かしゆ)の敬と爲す。陸佃云はく、鼉の身、十二生肖[やぶちゃん注:十二支。]の肉を具ふ。惟だ、蛇の肉は、尾に在りて最も毒あり。

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下線部はもう、龍でやんす!

『上文に述たる「コツカトリス」』(バジリスクと同じ、或いは同じ仲間)『鏡を見て死する談』(2)参照。

「三州奇談三、加賀白山、群梟と人と相詈て、聲先づ止む人は死する話あり、故に梟鳴に答へぬことゝ見えたり」私の「三州奇談卷之三 白山の梟怪」を参照されたい。金沢の伊勢派の俳諧師で随筆家堀麦水(享保(一七一八)年~天明三(一七八三)年)の「三州奇談」は加賀・能登・越中、即ち、北陸の民俗・伝承・地誌・宗教等の奇談を集成したもの。私は既にカテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終えている。

「爾雅に、市人爭作犬聲逐鬼車」「爾雅」は現存する中国最古の字書。現在は十九編が伝わる。元は四書五経を正しく読むために作られた字書とされたが、実際には「五経」に見える語は全体の三~四割に過ぎないとされる。周公の作とも伝え、遅くとも紀元前二世紀には成立していたと思われる。訓読しておくと、「市人(いちびと)、爭ひて犬の聲を作(な)し、鬼車を逐ふ」であるが、但し、この文字列は「爾雅」にはない。全く同じものも他に見出せない。敢えていうなら、「広雅」(「博雅」とも呼ぶ字書。三国時代の魏の張揖(ちょうゆう)によって編纂されたものであるが、「爾雅」の増補版に相当する。隋代に煬帝の名の「広」を避諱して「博雅」と改題されたが、後に原書名に戻った)の巻四十五に(下線太字部は私が附した。この同じ内容は前に何度か出した)、

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九頭鳥、姑獲、渠逸、皆、鬼車也。「白澤圖」之蒼鸆孔子所見之竒鶬也。「白澤圖」言、蒼鸆有九首孔子與子夏見。竒鶬九首而歌或作九尾。此鳥海上多有智在、松江親聞之、市人爭作犬聲相逐。相傳、一頭流血、著人家卽凶。「夷堅志」言、李壽翁得之呼爲渠。逸鳥十脰環簇、其一無頭、而滴血。「玄中記」、姑獲、一名天帝少女、好取人小兒養之。㸃血其衣以爲誌。「荊楚記」言以爲、姑獲、一名勾星。衣毛爲鳥、脫衣爲女。聞者、捩犬耳滅燭禳之。

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とあるのを、熊楠が合成作文したものと思われる。

「本文に引るマレー人大喧呼して、ベリベリ鳥を厭する抔同樣の迷信より出たるか」(5)を参照。

「塙保己一の螢蠅抄」「群書類従」「続群書類従」(後者は没後に弟子たちが継いだ)の編纂者として知られる盲目の国学者塙保己一(はなわ ほきいち 延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)生まれで、出自は百姓とされる。五歳の時に罹患した激しい疳(かん)の病い(胃腸疾患)に罹患したのが原因で、七歳の春に失明した。十五の時、江戸に出、歌を萩原宗固、国学を賀茂真淵・山岡明阿弥に学んだ。勾当・検校・和学講談所教授を務め、安永八(一七七九)年に国学・国史を主とする一大叢書「群書類従」の大事業に着手した。同正編の叢書は寛政五(一七九三)年から文政二(一八一九)年に板行されている。晩年は総検校となった。贈正四位。「螢蠅抄」(「けいようしょう」(現代仮名遣))は蒙古襲来を中心に、外国から本邦が受けた侵攻に関する資料を集成したもの。文化八(一八一一)年自序。書名は文末に「螢火のかゝやく神五月蠅なすあしき神のあらひにてえみしらの此國にあたすることありともやかて神風に吹やふられて遂にうれひなからむ理りを世人にしらせむとてなむ」とるのに基づく。「国文学研究資料館」のオープン・データの原本を当該部(まず「日蓮注畫賛」)を見ると、熊楠の引用はかなりのカットと引用不全があることが判った。以下に原文を示し、我流で書き下す(一部の返り点には不審があるので従っていない)。

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日蓮注畫賛云弘安三年庚辰蒙古襲来於筑前州志賀嶋合戰大元兵三百七十万騎大舩七万餘艘込乘責來九州人民悉逃失【按是年襲来諸書无所見恐本書誤】同弘安四年辛巳五月又蒙古髙麗已下國ニ軍兵驅具七萬餘艘大舩乘責來爲居住世路具耕作鋤類一髙麗舩五百艘自壹岐對馬下見合者打殺人民不ㇾ堪ㇾ脫將妻子隱深山赤子泣聲押寄打殺父母惜我命殺赤子隱居

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「日蓮注畫賛」に云はく、弘安三年庚辰、蒙古筑前州志賀嶋に襲来し、合戰す。大元兵、三百七十万騎、大舩(たいせん)七万餘艘に乘り込みて、責め來たる。九州の人民、悉く逃げ失す【按ずるに、是の年の襲来、諸書に、所見、无(な)し。恐らくは本書の誤りか。】。同弘安四年[やぶちゃん注:一二八一年。]辛巳五月、又、蒙古・髙麗已下(いか)、國に軍兵を驅り具すこと、七萬餘艘、大舩に乘り、責め來たる。居住を爲(な)し、世路(せいろ)の具[やぶちゃん注:生計(なりわい)に使う農具。]を持ちて、耕作を爲し、鋤(すき)の類ひを貯ふ。髙麗舩(ぶね)五百艘、壹岐・對馬より下り[やぶちゃん注:下船して上陸し。]、見合はせる者は、打ち殺す。人民、脫(のが)るるに堪えず、妻子を將(ひきゐ)て、深山に逃げ隱る。赤子が泣聲を聞かば、押し寄せ、打ち殺せば、父母、我が命を惜みて赤子を隱居(かくれが)に刺殺すと。

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途中の「居住を爲(な)し、世路(せいろ)の具を持ちて、耕作を爲し、鋤(すき)の類ひを貯ふ」は唐突で不審。壱岐・対馬にいた農民のことと解しておく。文脈からは、攻めて来た兵が上陸後に長期戦に備えて一時的に農耕を行ったともとれなくもないが、孰れにせよ、前後の文からどうも浮いている。元々の詞書が判らないので何とも言えないが、島民の者であることを示す脱字が私には疑われる。

以下、「八幡愚童訓」の部分。原本はここ。これは、熊楠、かなりしっかりと正しく引いている。後に自己流に訓読文を添えて終わりとする。

   *

八幡愚童訓云弘安四年ノ比蒙古ハ大唐髙麗已下ノ國〻ノ兵共ヲ駈具シテ三千余艘《十万七十八百余[やぶちゃん注:上記の右傍注。「イ」は「異本」の略号。]》ノ大舩ニ數千万人乘列テコソ来ケレ其中髙麗ノ兵舩五百艘壹岐對馬ニ上テ見合者ヲハ打殺ス人民堪テ妻子ヲ引具深山ニ逃篭ル處ニ赤子ノ鳴聲ヲ聞付テ押寄殺ケル程ニ片時ノ命惜ケレバサシモ愛スル嬰兒ヲ我ト泣〻差殺シテゾ隱レケル失ㇾ子親計リイツ迄アラン命ソト身ナカラウタテシク泣歎心中ヲイカニセン世中ニ糸惜キ物ハ子成ケリ其ニマサルハ我身ナリケリト讀置シ人ノスサミヲ今ソシル

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「八幡愚童訓」に云はく、弘安四年の比(ころ)、蒙古は大唐・髙麗已下の國々の兵共(へいども)を駈(は)せ具して、三千余艘《異本「十万七十八百余」》の大舩に數千万人、乘せ列ねてこそ、来りけれ。其の中、髙麗の兵舩、五百艘、壹岐・對馬に上がりて、見合す者をば、打ち殺す。人民、堪え兼ねて、妻子を引き具し、深山に逃げ篭(かく)るる處に、赤子の鳴き聲を聞き付けて、押し寄せ、殺しける程に、片時の命、惜(を)しければ、さしも愛する嬰兒を、我(われ)と[やぶちゃん注:自ら。]泣々(なくなく)差し殺してぞ隱れける。子を失ふ親計(ばか)り、「いつ迄あらん命ぞ」と、身ながら[やぶちゃん注:我ながら。]、うたてしく、泣き歎く心中を、いかにせん。「世の中に糸惜(いとをし)き物は子成(なり)けり 其れにまさるは我が身なりけり」と讀み置きし、人のすさみを、今ぞしる。

   *]

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