怪談登志男 八、亡魂の舞踏
八、亡魂の舞踏
玉華子(ぎよくくはし)が「江戶鹿子(かのこ)」を見るに、鐡砲洲・つく田嶋・八左衞門殿嶋・西本願寺の邊は、江都の東南、海邊の致景、雨の夜は苫(とも)覆ふ舩に湘瀟(しやうせしやう)[やぶちゃん注:底本は「潮滿」であるが、原本で判読したものを採った。]の景を思ひ、なみ靜(しづか)なる遠浦(とほうら)に安房・上總の歸帆を詠[やぶちゃん注:「ながめ」。]、秋の夕は、入日の、浪の底にうつる、洞庭の磯うつ潮に鬱氣(うつき)を洗、俗塵をへだてたる境地なり。
此邊に、棟(むね)門高き弓馬の家、岩崎氏とて隱なき人、致仕(ちし)して、閑(かん)をたのしみ、齡(よはい)すでに古稀におよべど、甚、堅固の老人にて、常に謠をすき、仕舞(しまい)を好み、坐臥徑行(けいかう)、獨、唱(うた)ひ、夜、高歌して、謠(うたい)罷(やん)で後、睡(ねふり)を甘(あまん)じて、又、夢中にあつても[やぶちゃん注:底本は「向ても」であるが、原本で判読した。]、うたふ。日用、都(すべ)て、是、謠裏(ようり)にあり、かゝるすき人も、又、世にたぐひ、すくなかりける。
すでに、夕陽(せきやう)、西にうつり、鐘の聲、かすかに、物すごきゆうべ、じやくまくたる隱居の柴の戶に音づるゝ聲は、小網町に住居する彥兵衞といふ町人なり。
是は、岩崎翁の若き頃より、出入して、月にも花にも、友なひ、語らひ、しかも、謠(うたい)・舞(まい)、達者(たつしや)にて、心をへだてず、是も、其年、耳順(じじゆん)[やぶちゃん注:数え六十。]に越へつれど、共に、一曲をかなで、樂みけるが、いかゞしたりけん、此程、久しく打絕て、來らず。
『かねて、京都へあつらへたりし舞扇(まいあふぎ)も、出來つらんか。』
と、ゆかしかりしに、
「よくこそ來りける。」
と、手づから、扉をひらき、まねきいれて、
「いかにや、久しく尋こざりし。一別以來、一日千秋のごとし。」
と、手を取て、安否を問(とい)れければ、彥兵衞も、
「久々、御目見も不ㇾ仕候處、先、以、御堅勝の躰を見奉、恐悅仕候。されば、春の頃、御賴あそばしつる扇の事、心ならず、道中の間違(ちがひ)にて、疾(とく)、出來(でき)ては、さふらひしが、幾(いく)たびか、江戶へ下しては、京へ歸り、今迄、遲參(ちさん)におよび、御用事、疎畧(そりやく)に致したる樣にて、千萬、氣の毒に奉ㇾ存候。若き時より、老の今迄、御憐(あはれみ)下され候御恩(おん)にそぶき、其苦しき病より、猶、切(せつ)なかりし處に、今日、京都の荷物、到着、御あつらへの御扇、是を持參し、長々、積る物がたり、御慰(なぐさみ)に申上、且は、御詫(わび)の爲ながらと、日はくれかゝり候へども、只今、參上仕候。」
と、いと恐れ入たるさま、日ごろの活氣と、打て、かへたり。
「さて、堅(かた)過たり、氣づまりかな。夫程に詫(わぶ)る事にてもなし。此程の噂には、病氣のよし、聞へしが、先(まづ)、無事なるぞ、うれしけれ。久々にての一會、あつらへの扇、好(このみ)より、彌(いや)增(まさ)りて、模樣も一入(ひとしほ)の出來。満足々々。」
と、表より、若侍共、呼あつめ、酒宴、刻をうつし、主(あるじ)、
「いで、一さし。」
と、
〽水に近き樓臺(らうだい)は 先(まづ)月を得るなり 陽(やう)にむかへる花は木[やぶちゃん注:「花木」は「くはぼく(かぼく)」と読む。]
と、たちまふ袖も、こよひの月も、主(あるじ)の髮(かみ)も、客(きやく)のあたまも、皆、白妙(しろたへ)に、氷のころも、霜のはかま、まだ、あしもとも、よはからず。
彥兵衞も、
「久々にて、御前(ごぜん)の仕舞(しまい)、拜見いたし候。はゞかりながら、拙者も御扇出來の御祝儀なれば、其曲(くせ)の次(つぎ)、切(きり)へかけて、舞納(をさむ)べし。」
と、是も、
〽ばせをのは 袖を返し ひらく扇の 風ばうばうと 物すごき夜の にはのあさぢふ おもかげうつろう 露もきへしか ぱせをば破(やぶれ)れて
殘るは、主人(あるじ)と、酌(しやく)取(とり)し若侍・小坊主ばかり。
「こは、ふしぎや。」
と障子を明(あけ)、椽側(えんがは)より、庭の隅々(すみずみ)、隈々(くまぐま)をさがせど、彥兵衞の影も形もあらばこそ、表にも、此ふしぎを聞て、上下、ひしめきあひ、
「狐などの入來りしならんか。若もの共、心得よ。」
と、用心きびしく、くまぐま、狩(かり)たつる程に、夜も、あけぬ。
家中の上下、
「宵の怪しみ、心得がたき。」
と語り居たる折ふし、若き町人、來りて、
「拙者儀は、小網町彥兵衞がせがれ、藤七と申もの。此間、彥兵衞、病氣ゆへ、久々參上不ㇾ仕、兼て被二仰付一候御扇、漸(やうやう)、出來仕候間、持參いたし候。」
と、扇を、さし出せば、取次の侍も不審ながら、主人に、此よし、披露しけるに、主(あるじ)も大きに驚き給ひ、
「扇は、昨夜、見し所に、たがはず。宵の扇、いづくにかある。」
尋ぬれど、さらに、なし。
主、
「扨は。」
と、藤七を近くまねき、過し夜、彥兵衞が來りし有增(あらまし)を語り給へば、藤七、泪(なみだ)を、
「はらはら」
と流して、
「今は、つゝむべくもなし。有躰(ありてい)に申上侍らん。父彥兵衞は、久々、病氣にてさふらひしが、次第に重(おも)り、昨日、身まかり侍り。すでに末期(まつご)にいたる時、京都より、荷物、到着、御扇出來の書狀。日ごろ、たゞ、此御用の延引(えんいん)に罷成候を、朝暮、苦勞仕候處、いまはの際(きは)に『御扇出來』と聞(きく)とひとしく、起直(おきなを)り、御扇を拜見し、逐一、吟味をとげ、にこにこと、打ゑみ、『我、死したりとも、まづ、佛事・供養をさし置(おき)、是を持參し、此通り、殿樣へ申上、平生(へいぜい)、等閑(なをざり)に打捨置(うちすておき)はいたさねど、折ふし、間違・延引の段、くれぐれ申て、得さすべし。是、第一の供養にて、我も佛果(ぶつくは)に至るべし。』と申聞て、昨日、暮時、相果(はて)候。親が遺言(ゆいごん)、默(もだ)し難(がた)く候へば、持參は仕ながら、忌(いみ)ある身の憚(はゞか)りもなく、御屋敷へ推參(すいさん)の段、重々(じうじう)、恐れ入候。」
と、平伏(へいふく)したり。
岩崎殿、これを聞て、落淚(らくるい)、とゞめかねて、
「扨々。不便(びん)の心入。其一念、たちまち、幻に顯(あらは)れ來りしか。昨夜、酒くみかはし、一さしの舞、あはれ、今は、形(かた)見となりけるよな。若きより、今、此老の身にいたりても、「友鶴(ともつる)」、とたのしみてありしを、片翅(かたつばさ)なる老鶴(おいつる)の、何をか、たのしみとせん。」
と、藤七に、金(こがね)・白銀(しろがね)、取出しあたへて、迫善の料(りやう)に得させ、
「藤七も、永く、出入せよ。」
と、あつく憐(あはれ)み、父が在世にかはらず、勤けるよし。
彥兵衞が實儀、誠に世の人の鑑(かゞみ)なり。
人は皆、信義あつきこそ、「人の人」といふべし。
いつはり、かざれるべんぜつもの、りかう・さいかくはありとも、人の道には、あらじかし。
[やぶちゃん注:本作中の傑作の一つとして私は推す。江戸の風情をロケーションとして、致仕隠居した老武士岩崎と商人と思われる彦兵衛との分け隔てなき親交を描き、そこに謡曲の複式無限能の世界を以って、亡魂の来たって舞うシークエンスは、まっこと、味わい深い。雰囲気を壊さぬよう、今回は特異的に原本の読みの一部の清音表記に濁点を打ってあり、謡曲の章詞にも「〽」を用いた。また、漢文表記箇所も孰れも平易なものばかりなので、五月蠅い訓読文は附さなかった(原本には返り点さえない)。訓読なお、上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の傑作「菊花の約(ちぎり)」と似ていると思われる方もいようが、言っておくが、本作は寛延三(一七五〇)年板行で、二十六年も前の作品である。
『玉華子(ぎよくくはし)が「江戶鹿子(かのこ)」』江戸前期の貞享四(一六八七)年十一月に板行された藤田利兵衛(事績不詳)作の江戸地誌「江戸鹿子」を奥村玉華子なる人物が寛延四(一七五一)年に改訂増補した「再板增補 江戶惣鹿子名所大全」のこと。編者の奥村玉華子の事蹟も不詳であるが、ウィキの「江戸鹿子」によれば、『医術や宗教への深い造詣が伺え、それらの職業に携わっていたとも考えられる』とある。
「鐡砲洲」現在の隅田川右岸の中央区湊附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。鉄砲洲稲荷や「鉄砲洲通り」などの名を確認出来る。「江戸名所図会」の「銕炮洲」の項には、『銕炮洲 南北ヘ凡八町ばかりもあるべし。傳云(つたへいふ)、寛永[やぶちゃん注:一六二四年~一六四四年。]の頃、井上・稲冨等(ら)大筒(おほづゝ)の町見(ちやうけん)を試し所なりと。或(あるひは)、此出洲(です)の形状、其器(き)に似たる故の号なりともいへり』(以下略)とある。
「つく田嶋」東京都中央区佃(つくだ)。隅田川河口の二つの中州であった石川島と佃島(現在は月島とともに一体化しているが、思うに、推定される隅田川の河口変遷からみて、元はごく小さな石川島が原河口に形成された最初の洲らしく、そこから南西方向に佃島が形成されたようである)とから発展した街。現在は埋立地の拡大により、隅田川河口は約三キロメートル南西に移動している。現在の佃地区の北が旧「石川島」で「森島」「鎧(よろい)島」などとも称された。その南隣りが旧中州としての本来の「佃島」であった。
「八左衞門殿嶋」辞書を見ると、前の石川島の異名とされるが、どうも気になるので別な辞書を見ると、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に、この砂州である原石川島が江戸幕府船手頭石川八左衛門重次の所領となって、「石川島」と呼ばれ、別名「八左衛門(殿)島」とも呼ばれたことが判り、さらに、寛政二(一七九〇)年、老中松平定信が火付盗賊改の、かの長谷川平蔵に命じて、この島を埋め立てさせ、南西方向に拡張し、そこの「人足寄場」を建設させたという記載を見出した。ところが、別に調べると、この人足置場は石川島と佃島の間にある「鉄砲洲向島」(鉄砲洲の向かいにある島の意)に設置したとする記載に出くわす。そこで別な切絵図を見てみると、確かに、石川島はまず、北西方向で切れ込みがあって、そこから南部分が人足置場となっており、しかも、そのまた南西には、細い運河状の切れがあって島としては分れて、二つの島となっており(小橋で繋がれてはいる)、そこには漁師町屋が並んでいるのである。因みに、「人足置場」は、よく時代劇に出るが、「寄場(よせば)」とも呼ばれ、無宿者に手業(てわざ)を習得させる目的で設けられた隔離施設で、後には追放者なども収容されて自由刑の執行場所としての機能も果たしたものである。
「湘瀟(しやうしやう)」中国で、洞庭湖及びそこに流入する瀟水(しょうすい)と湘江の合流する周辺を古くより「瀟湘八景」と呼び、風光絶佳とされ、山水画の伝統的な画題とされた。私はその反転字と採った。底本の「潮滿」(左ページ上段二行目)なら、「潮汐」の意でそれらしく意味もとれなくもないが、原本は御覧の通り(左頁三行目)、「潮」よりは「湘」により近いし、そもそもがルビが「しやう」に踊り字「〱」であることが判然とするのである。だいたいからして、ここに「瀟湘」と出してこそ、直後の「洞庭の磯うつ潮」の比喩が生きてくるのである(ここで「瀟湘」「洞庭」を江戸の海景の比喩に持ち出すのに違和感があるかも知れない。しかし、だったら、「金沢八景」「湘南」などという地名がそれに基づくのはもっと滑稽で場違いな謂いとなる。いや、ここで筆者が敢えて「瀟湘」「洞庭」を出したのは確信犯なのだ。後で注で示すが、本篇で重要な役割を成す謡曲「芭蕉」の舞台はまさに楚の国の「小水」(水の少しあるの意の地名)であり、そこの山中に住む僧こそがワキ僧なのである。さればこそ、この「小水」は「湘水」或いは「瀟水」に直ちに響き合うのだ。則ち、既にしてこの何気ない前振り自体が、綿密な伏線として機能しているということなのである)。写本の誤りかも知れぬが、もし誤判読とすれば、底本「德川文藝類聚」の本作の校訂者は無粋と言わざるを得ぬ。なお、最後に言っておくと、「湘瀟」の文字列の正しい歴史的仮名遣は「しやうせう」である。
「徑行(けいかう)」思うとおりにしたいことをすること。直情径行。
「夢中にあつても」本文で示した通り、底本では「向ても」であるが(左ページ上段九行目)、そもそもが「夢中に向(むかひ)ても」という言い方はこなれていない。原本はここ(右頁一行目)。失礼ながら、同前で不審極まりないのである。
「日用、都(すべ)て、是、謠裏(ようり)にあり」日々の如何なる瞬間も、総て、これ、謡曲世界の中に生きている。
「じやくまくたる」「寂寞たる」。
「小網町」現在の日本橋小網町(こあみちょう)。同ウィキによれば、江戸『初期、慶長年間に江戸城が築城された頃には、小網町の付近は』、『日本橋川の河口洲の小さな中島であったとされ』、『八丁堀・霊岸島など、江戸の前島の埋立てが進むにつれて、日本橋川沿いの河岸の街へと姿を変えた。日本橋川に面した土地柄、水上交通の面で重要な場所として発展した町で』、『江戸に入ってくる米を扱う商店・問屋があったほか、行徳で産生する塩の扱いが多かった』とある。
「好(このみ)より」私はこれで一単語として採った。趣向。作りの風雅。
「表より、若侍共、呼あつめ」屋敷表に岩崎に従う家来がいるのである。屋敷内に長屋を作って住んでいるのであろう。されば、この岩崎氏は旗本ではないかと私は推測している。
「水に近き樓臺(らうだい)は 先(まづ)月を得るなり 陽(やう)にむかへる花木は」世阿弥の娘婿となった金春善竹作の謡曲「芭蕉」の終わりの方に現われる章詞。同曲のシテは「芭蕉の精」。唐土(もろこし)楚国の水辺に修行のために隠居するワキ僧のもとに、年たけた女性(前ジテ)が来って、仏縁に結ばれんことを願うによって、読経の聴聞を許す。女は、「法華経の経文によれば、草木も成仏できることが頼もしい」と喜び、「実は自分は庭の芭蕉の仮りの姿である」と言って、消え失せる。深夜になると、芭蕉の精(後ジテ)が現われ、「非情の草木も、まことは、無相真如の顕現にして、仏教の哲理を示して世の無常を現しているのだ」と言い(クセ:能の構成単元の一つで、一曲の核となる重要な部分を指す。地謡と大鼓・小鼓とのリズムの微妙さに狙いがある)、しみじみとした舞を舞って見せるが(序ノ舞)、やがて再び姿を消すというストーリーである。小原隆夫のサイト内の『宝生流謡曲「芭蕉」』が詞章が示されてあってよい。岩崎の舞って謡う部分は、そのクセの一節であるが、一気に最後まで示しておく。「新潮日本古典文学集成」の「謡曲集 下」を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。
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クセ
地〽水に近き樓臺は まづ月を得るなり 陽に向かへる花木はまた 春に逢ふ事易きなる その理(ことわり)もさまざまの 實(げ)に目の前に面白やな 春過ぎ夏闌(た)け 秋來(く)る風の音づれは 庭の荻原(をぎはら)まづそよぎ そよかかる秋と知らすなり 身は古寺(ふるてら)の軒(のき)の草 しのぶとすれど古も(いにしへ)の 花はあらしの音にのみ 芭蕉葉(ばせうば)の 脆(もろ)くも落つる露の身は 置き所なき蟲の音(ね)の 蓬(よもぎ)がもとの心の 秋とてもなどか變らん
シテ〽よしや思へば定めなき
地〽世は芭蕉葉の夢の中(うち)に 牡鹿(をしか)の鳴く音(ね)は聞きながら 驚きあへぬ人心 思ひ入るさの山はあれど ただ月ひとり伴なひ 慣れぬる秋の風の音(おと) 起き臥し茂き小笹原(おざさはら) しのに物思ひ立ち舞ふ 袖(そで)暫(しば)しいざや返(かへ)さん
詠
シテ〽今宵は月も白妙の
地〽氷の衣(ころも)霜の袴(はかま)
《序ノ舞》
ワカ[やぶちゃん注:舞の直後に謡われ、呼称は五七五七七の和歌の形をしているのものを正格とすることに拠る。但し、そうでないものも多い。]
シテ〽霜の經(たち) 露の緯(ぬき)こそ弱からし
地〽草の袂も
ノリ地[やぶちゃん注:拍子をしっかりと意識しなければならない謡部分を指す語。]
シテ〽久方の
地〽久方の 天つ少女(をとめ)の羽衣(はごろも)なれや
シテ〽これも芭蕉の 羽袖をかへし
地〽かへす袂も 芭蕉の扇(おほぎ)の 風(かぜ)茫々(ばうばう)と 物すごき古寺の 庭の淺茅生(あさぢう) 女郞花(をみなへし)刈萓(かるかや) 面影うつろふ 露の間に 山颪(おろし)松の風 吹き拂ひ吹き拂ひ 花も千草(ちぐさ)も 散りぢりになれば 芭蕉は破れて 殘りけり
*
「白妙(しろたへ)に、氷のころも、霜のはかま」前注で示した詞章を掛けたもので、月の光に冴える白い衣の清冽な表現である。
「ばせをのは 袖を返し ひらく扇の 風ばうばうと 物すごき夜の にはのあさぢふ おもかげうつろう 露もきへしか ぱせをば破(やぶれ)れて」前に示した「序の舞」のものとは、かなり変則的に異なっている。「芭蕉」は五流にあり、或いは詞章に違いがあるのかも知れぬが、亡魂の舞と扇綺譚を考えれば、寧ろ、オリジナルに変えて(特に最後の部分の断ち切り)、効果を狙ったと考えてよい。
「小坊主」小姓。年少の家来。
「こは、ふしぎや。」
「上下」私は読みがないものは「かみしも」と読むことにしている。
「狩(かり)たつる程に」ここそこを厳しく探索し尽くすうちに。]
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