奥州ばなし 上遠野伊豆
上遠野伊豆
上遠野伊豆《かどのいづ》と云し人、明和・安永[やぶちゃん注:一七六四年~一七八一年。]の頃、つとめし人なり。【祿八百石。】武藝に達せしうへ、分《わき》て、工夫の手裏劍、妙なりし。針を一本、中指の兩わきにはさみて、なげいだすに、その當《あたり》、心にしたがはずといふこと、なし。元來、この針の工夫は、
「敵(てき)に逢《あひ》し時、兩眼をつぶしてかゝれば、いかなる大敵にても、おそるゝにたらず。」
と、思ひつきしことゝぞ。
常に針を兩の鬢(びん)に、四本づゝ、八本、かくしさして置《おき》しとぞ。【此世の頃までは、いまだ、こわき敵も有《あり》つらんによりて、かくは思《おもひ》よりつらん。今の世人の弱きこと、たとへに取《とり》がたし。】
先々《さきざき》國主の御このみにて、うたせられしに、御杉戶の繪に、櫻の下に駒の立《たち》たる形、有《あり》しを、
「四ツ足の爪を、うて。」
と有しかば、二度に打《うち》しが、少しも、たがはざりしとぞ。
芝御殿類燒の前は、その跡、たしかに有し。
昔、富士の御狩《おんかり》には、仁田の四郞、猪にのりし、といふより、工夫にて、御山追《おんやまおひ》[やぶちゃん注:藩主による鳥獣の山狩り。]の度每《たびごと》に、いつも、猪に乘し、と云《いひ》傳ふ。
正左衞門繼母(けいぼ)は、上遠野家より來りし人なり。【この伊豆には[やぶちゃん注:にあっては、の意。]、また、甥なり。】この人のはなしに、
「伊豆は、狐をつかひしならん、あやしきこと、有《あり》。」
と云しとぞ。
手裏劍と、猪にのるとの工夫など、あやうきことなり。さるを、
「なるや、ならずや。」
といふことを、とひあはするもの有《あり》て、
「思立《おもひたち》しことなり。」
と語《かたり》しとぞ。されば、正左衞門も、飯綱(いづな)の法、習はんとは、せしなるべし。
八弥、若年の頃迄は、伊豆も老年にてながらへ有しかば、夜ばなしなどには、猪にのることを、常に語りて有しとぞ。
「逃てゆく猪にはのられず、手追《ておひ》[やぶちゃん注:「手負ひ」。]に成《なり》て、人をすくはん[やぶちゃん注:「掬(すく)はん」であろう。鼻と牙で下から掬うように襲うことであろう。]とむかひ來る時、人の本《もと》[やぶちゃん注:直前。]にいたりては、少し、ためらふものなり。その時、さかさまに、とびのるなり。猪は、肩骨、ひろく、尻のほそきもの故、しり尾にすがりて、下腹にあしをからみてをれば、いかなる藪中《やぶなか》をくゞるとても、さはらぬものなり[やぶちゃん注:背にある自分のことを襲うことは出来ぬものなのである。]。扨(さて)、おもふまゝ、くるはせて、少し弱りめに成たる時、足場よろしき所にて、わきざしをぬきて、しりの穴に、さし通し、下腹の皮をさけば、けして[やぶちゃん注:決して。]、仕とめぬことなし。」
と云しとなり。
「手利劍は[やぶちゃん注:ママ。]、一代切《いちだいぎり》にて、習《ならふ》人、なかりき。尤(もつとも)人のならはんといふこと有ても、元來、人にをしへられしことならねば、何と、つたふべきこともなし。たゞ、氣根(きこん)よく[やぶちゃん注:根気よく。]、二本の針を手につけてうちしに、おのづから得しわざなり。」
と答しとぞ。八弥にも、
「とせよ、かくせよ。」
と、其はじめをつたヘられし故、少しはまねびしが、終《つひ》に、なし得ざりし、とぞ。
[やぶちゃん注:「上遠野伊豆」上遠野広秀(かどのひろひで 生没年不詳)は江戸中期の兵法家で剣客。願立(がんりゅう)流剣術・上遠野(かどの)流手裏剣術の使い手で、特に手裏剣の名人として「手裏剣の上遠野」と称された。伊豆守は通称。参照したウィキの「上遠野広秀」によれば、『上遠野氏は旧姓』は『小野氏』で、応永一一(一四〇四)年に『磐城国菊田庄(菊多郡、現いわき市)上遠野に住んだことから』、『この地名を名乗るようになった。第』十『代上遠野高秀(伊豆守)が伊達政宗に招かれて家臣となり』八百四十三『石を扶持された。広秀は明和、安永』『の頃の人で、仙台藩で』三『千石取りとなっていた。家伝の願立』流剣術(正しくは単に「願立剣術」と呼ぶ)『のほか、独自に手裏剣術を工夫した』。『広秀が手裏剣の技を工夫したのは、相手の眼を潰してしまえば』、『いかなる大敵でも恐るるに足りない、という考えからであったといわれる。広秀はいつも両の鬢に』四『本ずつ、計』八『本の針を差しており、この針を指の脇にはさんで投げると』、『百発百中といわれた。広秀は「手裏剣の技は一代限りのもので、教えてもらって上達するものではない。根気よく自分で工夫して針』二『本打つことを習得すれば、自然に上手になる。」と語ったという』。『あるとき、仙台藩』七『代当主、伊達重村』(在職は宝暦六年(一七五六)年七月から寛政二(一七九〇)年(隠居)まで)『が江戸・芝の上屋敷で、御杉戸の絵に、桜の下に馬が立っている図を見て、この馬の足の爪に針を打ってみよ、と命じたところ』、二『本打って』二『本とも』、『命中した。このときの針の痕は、後に上屋敷が焼失するまで残っていたという』。『また』、『治承・寿永の乱(源平合戦)の昔、仁田四郎が富士の巻狩りで猪の背に乗ったという逸話を聞き、広秀も山狩りのたびに猪を見つけて飛び乗ることを得意とした。広秀は、猪の背に後ろ向きに乗り、尻の穴に脇差を刺し通せば』、『必ず』、『仕留めることができる、といったという』。『また、広秀の打針は、後に仙台侯の息女が水戸藩へ輿入れした際に笄』(こうがい)『として伝わり、これを水戸弘道館の剣術師範をしていた海保帆平(北辰一刀流)が工夫し、安中藩師範の根岸松齢に伝えたのが根岸流手裏剣術の始まりである』とある、大変な達人なのである。真葛の言っていることは、ここに書かれている事実と殆んど違わない。凄いことだ。
「芝御殿類燒」これは、恐らく明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に発生した大「明和の大火」であろう。真葛は当時十歳で、江戸にいた。父平助は仙台藩藩医として、特別に築地に邸宅を構えており、父の付き添いで上屋敷に入ることもあったに違いない。ここは、直接過去の「き」が用いられているからには、これ以前に、彼女自身、その上遠野広秀が杉戸の馬の蹄に放ち打った針の痕を実見したことを意味しているのである。なお、この「明和の大火」の庶民の惨状が僅か十歳の彼女に強く刻印され、彼女をして後に救民思想を持つに至る引き金となった回禄だったのである。
「仁田の四郞」仁田忠常(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年は『仁田伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の住人で』、治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵に加わっている。頼朝からの信任は厚く』、文治三(一一八七)年一月、『忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げ』、文治五(一一八九)年の「奥州合戦」に『おいても戦功を挙げ』ている。建久四(一一九三)年五月二十八日に発生した「曾我兄弟の仇討ち」の際には、『兄の曾我祐成を討ち取』っている。『頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父となっている』。ところが、建仁三(一二〇三)年九月二日、頼家が病いのために危篤状態に陥って「比企能員の変」が『起こると、忠常は北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員を謀殺した』。五日、『頼家が回復すると、逆に頼家から』、『時政討伐の命令を受ける。翌晩、忠常は頼家の命を受けながらも、能員追討の賞を受けるべく』、『時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に』、逆に『謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中』、『加藤景廉に殺害され』てしまった。享年三十七であった。頼朝の代に『行われた富士の巻狩りにて、手負いの暴れる大猪を仕留めたとされて』おり、頼家の代では、『富士の狩り場へ行った際、頼家の命』を受けて『静岡県富士宮市の人穴を探索し』てもいる(以上は彼のウィキに拠った)。
「橋本正左衞門」「めいしん」・「狐つかひ」に登場した、間接的乍ら、真葛の大事な情報元である人物。
「なるや、ならずや。」「修練を積めば、上達するものか? そうでないか?」。
「思立《おもひたち》しことなり」ここは少しウィキで言っていることと相違しているように見える。則ち、「ある時、思い立って始めた」ことである、と言っているのである。しかし、これは必ずしも違っているとは言えない。「ある時、自分には、その特異な能力があると、気が付いたから、鍛錬を始めた」という意味でとれば、納得がゆくのである。しかし、正左衛門はそういう意味ではなく、鍛錬すれば、誰でも、その能力を引き出せる、という意味に勝手に解釈したと理解出来るからである。だから「飯綱の法」を習おうとした。しかしそれは、小姓の軽率な使用によって和尚本人が封印してしまう結果となり、正左衛門は習得出来なかった。しかしそれも考えてみれば、「心定まらぬ人」が使えば、途轍もなく危険なものであったという点で、このケースと親和性があると言える。そうして、上遠野伊豆の手裏剣術に生来の素質無き者には習得不能であることは、最後の八弥の事実が証明しているのである。
「正左衞門も、飯綱(いづな)の法習はんとは、せしなるべし」「狐つかひ」を参照されたい。
「八弥」橋本正左衛門の養子。「めいしん」の本文を参照されたい。「弥」を正字化しなかったのもそれに準ずる。]