出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)
[やぶちゃん注:南方熊楠の「小兒と魔除」を電子化注するに際して、こちらも前の論考と同じく、別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。
その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、『東京人類学会雑誌』の明治四二(一九〇九)年一月十二日発行の第二百七十四号に載った、出口米吉氏の「小兒と魔除」である。在野の民俗学研究者であった出口米吉(明治四(一八七一)年~昭和一二(一九三七)年)は石川県金沢市生まれで、元教師(各地の中学校・各種学校等)で、概ね、学校関係職(最後は大阪府福島商業学校主事)に就いていた。明治三四(一九〇一)年頃から、民俗学関係の論文を発表し始めており、その初期の投稿先は、この『東京人類学会雑誌』であり、明治三七(一九〇四)年十二月(当時は奈良県立畝傍(うねび)中学校教諭)には、人類学への大きな貢献を成したとして、まさにこの「東京人類学会」から表彰されてもいる。しかし、現在、彼の存在はあまり知られているとは言えない。詳しくは、Theopotamos(Kamikawa)氏の「忘れられた民俗学研究者・出口米吉の生涯」がよい。そこでは、彼が排除されていった経緯には民俗学のアカデミズム化が挙げられているが、今一つ、そこに書かれてある、彼の研究の大きな柱の一つが「性器崇拝」であったことが、アカデミズム側からの排除対象の餌食になったものだろうと私は思う(リンク先の年譜を見ても、彼の知られた論考には「日本における生殖器崇拝」・「地蔵尊が道祖神を併合せし一類例――欧州に於ける耶蘇教の生殖器崇拝併合――」・「陰崇拝より陽崇拝へ」が認められる)。柳田國男と折口信夫は恐らくある時期に秘密裏に性的民俗事例はなるべく扱わないようにしようという非学術的な密約が成され、それがアカデミックな民俗学では主流化されて学問的にも変形・変質してしまったと私は考えているからである。
底本は「J-STAGE」のこちらとこちら(後者は別画像で本文最終ページがある)の原本画像を視認した。踊り字「〱」は正字化した。【 】は底本では二行割注。基本、ここでは極力、必要と思われた部分以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。]
○小兒と魔除
出 口 米 吉
下世話に「弱味に附け込む厄病聯」といふことあり。獨り厄病の神に限らず、總て惡魔は人の弱點に乘して害惡を人類に及ぼさんと慾すと想像せられたり。特に小兒の如きは、身體薄弱にして精紳神固ならず、外部の勢力に抵抗する力少くして、比較的疾病に罹り易く、死亡する者多きが爲に、彼等は惡魔の乘ずべき機會を甚多く有すと考へられたるが如し。故に父母たる者は其發育を希ふ心より、あらゆる厭勝咒禁を利用して其侵害を防遏[やぶちゃん注:「ばうあつ」。防き止めること。]せんことを企てたり。而して其禁厭ある者は、亦これ古人が惡魔に對する思想の一端を窺知[やぶちゃん注:「きち」。]すべき好材料たれば、左
に其二三を擧げて聊說明を試みんと欲す。
岡西惟中の消閑雜記に、
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。前後を一行空けておく。]
人の名に丸といふ字をつく事。まるは不淨を入るゝ器なり。不浮は鬼魔のたぐひも嫌ふものなり。されば鬼魔の類近かつかざる心を祝して、名の下につく心なり。古今集の作者に屎といひ、貫之か幼名をあこくそといふ類多し。今も穢多の子にして其名を穢多とつけ、又い綴と付くること皆同し。是玄旨法印の古今にて沙汰し給ふとぞ。
[やぶちゃん注:「古今集の作者に屎といひ」巻第十九の「雑体」に源屎(みなもとのくそ生没年不詳)の一首が載る(一〇五四)。女性で源作(つくる)の娘とされ、源久曾とも表記される。姓は源朝臣であるものの、詳しい系譜は全く不明である。]
といへり。是甚奇說あるが如くなれども、他の諸種の風習に照合して考ふれば、決して首肯し難き妄說にあらず。俗に重病の時に病者の知らざる間に馬糞を其寢床の下に入れ置けば効驗ありと云ひ、東京にて癲癇病の發せし時に泥草鞋を患者の頭上に戴かすれば卽治すといひ、世事百談「鬼魔たるものゝ治療」の中に、「扨病人の眼をあけたらば、あつき小便一ぱい口に入るべし。しばしありて正氣になるなり。」とあるも、皆汚穢物を以て病魔妖鬼の類を除んとの考より出てたる風習なり。又小兒の夜泣を防ぐには牛の糞を床の下に入れをくも良しといふ。迷信の日本夜泣の事は後に云ふべかれとも、固より同一趣意の風習なり。本草綱目に刮屎柴木を燒て魔病を薰し邪氣を除くの効能を載せたり。此等を以て見れば、幼名を不淨物の名に取るは惡魔を避けん爲なりとの說必ずしも根據なりと云ふべからず。
[やぶちゃん注:「本草綱目に刮屎柴木を燒て魔病を薰し邪氣を除くの効能を載せたり」巻三十八の「服器之二」の終わりの方に、「厠籌」(しちう(しちゅう):紙が普及する以前、排便の際に肛門附近の汚れを掻き落とすために用いた細長い木製片。籌木(ちゅうぎ/ちゅうぼく)のこと。糞箆(くそべら)。があり、その「附方」の「小兒驚竄」(小児性の癲癇或いは痙攣発作のことのようである)の下りに(下線太字は私が附した)、「兩眼看地不上者皂角燒灰以童尿浸刮屎柴竹用火烘乾爲末貼其𩕄門卽甦 王氏小兒方」(兩眼、地を看て、上らざる者は、皂角(さいかち)を燒灰にし、童の尿を以つて刮屎柴竹(かつしさいちく)を浸し、火を用ひて烘乾(こうかん)[やぶちゃん注:炙り乾かすこと。]し、末と爲し、其の𩕄門(ひよめき:幼児の頭蓋骨の泉門 (せんもん) 。骨がまだ癒合していないため、脈動に合わせてヒクヒクと動く、頭頂部の柔らかい部分)に貼ず。卽ち、甦(よみがへ)る。【「王氏小兒方」。】)とはあった。「刮屎柴竹」は「厠籌」「籌木」「糞箆」の同義であろう。]
小兒婦人が守刀を帶ふるにつきて、松屋筆記九十二に、
[やぶちゃん注:同前。]
和泉式部草子に、道命が持けるまもう刀を、などやらん心にかけ給ふけしきにて、おほせけるやうは、女房の身こそあれ、男の守刀をかけたるためしはいかにとおほせければ、云々。按に、かくては女にかぎるやうなれど、吾妻鏡二卷同十二卷などに、若君御誕生の時御家人等御護刀を奉る事見ゆ。
といへり。小兒の生れたる時、守刀を贈ること古くより行はれしと見え、後拾遺集拾九雜に、「三條院春宮と申ける時、式部卿敦儀[やぶちゃん注:「あつのり」。]親王生れてはへりけるに、御はかし奉るとて結つけてはべりける。」とあり。守刀は婦人小兒に限らず、男子も之を携へしことは、既に和泉式部草子に云へる道命が之を持ちけるにても知るべく、猶他の書にも其證あれども、和泉式部草子に記せる所にて見れば、主として小兒婦女子の携ふる者と思はれたることを察すべし。依て按するに、此守刀なる者は其目的敵を防ぐ爲よりも、寧ろ主として鬼魅に對して其身を衞るが爲に之を帶ぶるにあらざりしか。古來鬼神も刀劍を恐ると想像せられし例證諸書に散見せり。源氏夕顏の卷に、源氏が夕顏を率ゐて河原の宿に到りしことを敍して、
[やぶちゃん注:同前。]
宵過ぐる程に、少しく寢入り給へる御枕上に、いとをかしげなる女居て、おのがいとめでたしと見奉るをば、尋ねもおもほさで、かくことある事なき人をゐておはして、時めかし給ふこそいとめざましくつらけれ、とて、此御傍の人をかき起さむとすと見給ふ。物におそはるゝ心地して驚き給へれば、火も消えにけり。うたておほさるれば、大刀を引き拔きて、うち置き給ひて、右近を起し給ふ。
と記せり。今昔物語第二十七卷には鬼魅に劃する刀劍の德を示す話二三條あり。就中雅通中將家在同形乳母二人話[やぶちゃん注:「話」はママ。「語」の誤植が疑われる。「雅通中將家在同形乳母二人語第二十九」(雅通の中將の家に同じ形の乳母(めのと)二人在る語(こと)第二十九)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。]は、鬼魔が乘ずべき機會だにあらば、小兒に害を加へんと欲すと信ぜられたることを示す者なれは、左に之を引用せんと欲す。
[やぶちゃん注:同前。]
今昔源の雅通の中將と云ふ人有き。丹波中將となむ云ひし。其家は四條よりは南、室町ようは西也。彼の中將其家に住ける時に、二歲許の兒を乳母抱て、南面也ける所に、只猫う離れ居て、兒を遊ばせける程に、俄に兒の愕たゞしく[やぶちゃん注:「おびただしく」。]泣けるに、乳母も喤る[やぶちゃん注:「ののしる」。叫ぶ。]音のしければ、中將は北面に居たらけるが、此を聞て何事とも不知て[やぶちゃん注:「しらで」。]、大刀を提て走り行て見れば、同形なる乳母二人が中に此兒を置て、左右の手足を取て引しろふ、中將奇異く思て[やぶちゃん注:「あさましくおもひて」。]、吉く[やぶちゃん注:「よく。]守れば、共に同乳母の形にて有り、何れが實の[やぶちゃん注:「まことの」。]乳母ならむと云ふ事を不知ず。然れば一人は定めて狐などにこそは有らめと思て、大刀をひらめかして走り懸ける時に、一人の乳母搔消つ標に失にけり。(中略)然れば人離れたらむ所には幼き兒共をば不遊[やぶちゃん注:「あそばす」。否定の「不」を残して示すのは同書の常套。]まじき事也となむ人云ける。狐の□[やぶちゃん注:原本の欠字。「すかし」或いは「ばけ」に相当する漢字表記を期した意志的欠字。]たりけるにや、亦物の靈[やぶちゃん注:「りやう」。]に有けむ、知る事无して止にけりとなむ語り傳へたるとや。
猶鬼現板來人家致人語及通鈴鹿山三人入宿不知堂語の中にも鬼帥の刀に恐れたることを述べたり[やぶちゃん注:「今昔物語集」同巻の「鬼現板來人家殺人語第十八」(鬼、板と現じ人の家に來りて人を殺す語第十八)と「通鈴鹿山三人入宿不知堂語第四十四」(鈴鹿の山を通る三人(みたり)、知らざる堂に入りて宿る語第四十四)。リンクはやはり「やたがらすナビ」の原文。但し、後者は太刀の効果例としては如何にもしょぼい。太刀を引く抜くと、鬼神どもは去るが、その際に一度にどっと大笑いして消えているからである。]。又謠曲紅葉狩の結末に、
[やぶちゃん注:同前。]
維茂すこしもさわぎ給はず、南無や八幡大菩薩と、心に念じ、劒を拔いて待ちかけ給へば、微塵になさんと飛んでかゝるを、飛び違ひむずと組み、鬼神の眞中さしとほす所を、頭を摑んであからんとするを、切り拂ひ給へば、劒に恐れて巖へのぼるを、引き落し、さし
とほし、忽ち鬼神をしたがへ給ふ、威勢の程こそおそろしけれ。
と謠ひたり。大祓の時、東西の文忌式部[やぶちゃん注:「やまとのふみのいみきべ」と読む。現在は祝詞(呪文)名として残る。]より橫刀を獻る時の咒にも、捧以銀人、請除禍災、捧以金刀、請延帝祚と云へり。現時に於ても、志摩の國にては、產婦の枕許に稻荷除けとて短刀を置き、【日本奇風俗】死人の上に拔きかけたる刀を載せ置くも、皆惡魔の害を避けんが爲なり。此の如く刀に避邪の德ありと思考せられしを以て見れば、件の守刀も小兒婦女子に對しては、主として鬼魔の類を防がんが爲なりしか如く思はるゝなり。此德は刀劒のみ に限らず、弓矢の類にも存すと想像せられたる者にして、續古事談武勇部に、白河院御寢の後、物に襲れおはしける比、義家朝臣より眞弓の黑塗なるを一張進らせ、御枕上に置かせられたることを載せ、今昔物語二十七挑薗柱穴指出兒手招人語に、寢殿の辰已の母屋の柱に、開きたる木の節の穴より、夜每に小き兒の手を指出して人を招きけるを防がんが爲に、征箭を一筋其中に指し入れたることを云へり[やぶちゃん注:引用標題の「挑」は「桃」の誤植であろう。「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」(桃薗の柱の穴より兒の手を指(さ)し出だして人を招く語第三)である。これは私が超弩級に偏愛する一篇で、私のブログ・カテゴリ『「今昔物語集」を読む』の『「今昔物語集」巻第第二十七 本朝付靈鬼 桃薗柱穴指出兒手招人語 第三』で原文とオリジナル訳注を示してある。]。又出產の時に蟇目を射、鳴弦せしことは中世上流社會の風習にして、近松作天鼓には、山路判官梅豊か蟇目を以て狐の女に取り付きたるを落さんとすることを敍せり。其他俗に瘧病を治する厭勝として剃刀を病者の知らぬ間に枕の下に入れ置くも、【○本誌一〇六號[やぶちゃん注:明治二八(一八九五) 年一月発行の第一〇六号に収録されている田中正太郎氏の飛驒を中心とした民俗風習採取リストである「妄信材料集」(「j-stage」の当該論文原本。PDF)の一六五ページの「三一」条を参照。]】婦人が寢ぬる時に大蛇の寄らぬ禁咒なりとて胸に針を刺しをくも、【迷信の日本】皆同一の思想に由來する風習なり。
伊勢貞陸の產所之記に「御伽の犬箱あるべし」とあり。犬箱とは犬張子の事なり。雌雄二個を供へ、小兒誕生の時守札などを之に入る。犬は魔性を退くる者なれば其形を作ると云ひ傳へたり。恐らくは、犬は夜間家を守護し、怪しき者を見て之に吠ゆる能あるより、小兒に對しても等しく之を衞り、惡魔を退くるとの俗信を生ずるに至りたるなるべし。凡そ未開時代に於ては、夜間を以て鬼魅の橫行跋扈する時間と考へたるを以て、夜に至れば一般に惡魔を警戒し、殊に小兒に對しては厚く保護を加へたり。昔は加賀金澤にては。暮六ッになれば、逢ふ魔が時なりとて小兒をして悉く家に歸らしめたり。播磨姬路にても、日暮を逢ふ魔が時といひ、此時小兒を外出せしむれば魔が隱くすといへり。【本誌一〇六號[やぶちゃん注:前に注した論考の前にある同種のリストで、播磨姫路の和田千吉氏の「妄信材料」(同じく「j-stage」の当該論文原本。PDF)の「一三」条。]】甲斐にては、日沒後カクレンボウをして遊べば、カクレ神にかくされるとて恐るといふ。【本誌二〇九號[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年八月発行の第二〇九号の山中笑(えみ)氏の「甲斐の落葉」(同前)の四六二ページ上段中央附近にある。】故に此時小兒の外出して歸宅せざる者ある時は、魔が隱くしたとて之を搜索したり[やぶちゃん注:これは前記の山中氏の論考には記されていないので注意。まあ、探すに決まってるんだが。]。俚言集覽に「迷ひ子をたづぬるに、江戶にては鉦と太鼓を鳴して、五六人も同行して、呼に其名をいふ。大阪にては太鼓ばかりを鳴して、是も五六人以上にて、一人先に立ち、カヤセカヤセと呼び步くとなり。これを俗にかやせ太鼓といふといヘり。」と見ゆ。大和にては此の如き塲合には「ジーサヤバーサや子がかわい」とて一升桝の底を叩きて呼びあわき、金澤にては天狗の棲處と思ほしき松樹の下に至りて「サバ食た某」と叫びたりと聞けり。俗に死人に供ふる飯をサバ飯と云へば、「サバ食た某」と云へば、天狗は之を稼れたる者として直に其者を戾すと想像せられしならん。此の如く夜は妖魅の類橫行して、害を小兒に加へんとすと考へられたるより見れは、犬張子は夜間小兒を守護せしむる意にて其傍に置きたるなるべし。又夜中小兒を抱きて他行する時は、紅指にて小供の額に犬の字を書き、是をインノコと云ふ。斯の如くすれば狐狸妖猫の類小兒を脅かすことなしとぞ。【貞丈雜記】常陸龍ヶ崎にては、出生後二十一日未滿の子を戶外に連れ行く時は、狐狸に魅せられさる爲に
とて、犬の字を額に書くこと近頃までも行はれたる由なり。【本誌一〇九號[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年四月発行の第一〇九号の常陸龍ケ崎の川角寅吉氏の「妄信録第二」(同前)の二七三ページの「二五」条。但し、生後二十一日未満の子という条件が附けてある。]】此事は古く行はれたる習慣にして、年山紀聞一に左の如く云へり。
[やぶちゃん注:同前。]
大府記。【爲房卿日記】康和五年入月廿七日云。東宮遷二御高松第一。戌四刻御出。宗通卿御額奉ㇾ書二犬字一。先日女房奉仕。爲房卿の子息【顯隆卿】日記には、戌刻行啓。依下可ㇾ奉ㇾ書二阿也都古人一事上。以ㇾ予爲二御使一。被ㇾ申ㇾ院。爲章按するに、犬字をかく事を阿也都古人をかくともいひけんかし。【北愼言は依下可ㇾ奉ㇾ書二阿也都古一人事上云々と讀むべしといへり】[やぶちゃん注:高貴な階級では新生児の宮参りの際に「阿也都古」(あやつこ)と呼んで額に犬の字を書いたのである。]
又此習慣の起源につきては、梅園日記卷之三に、
[やぶちゃん注:同前。]
考ふるに、是小兒を守護の爲の厭勝なり。其證は菟玖波集に、「犬こそ人の守りなうけれ【といふ句に】良阿法師「みとり子のひたひにかける文字を見て」とつけたるにて知るべし。さて此もとは前條にいへる鬼車鳥(同し卷七草の條に說きたり)は犬を畏るれば彼鳥を禳はん[やぶちゃん注:「はらはん」。]とてのわざなり。犬をおそるゝ事は、北戶錄に、鴟鵂卽姑獲、鬼車、鴟鵂類也。姑獲玄中記云。好取人小兒食之。今時小兒之衣。不欲夜露者。爲此物愛。以血點其衣爲誌。卽取小兒也。鬼車今猶九首。能入人屋收魂。爲犬所噬。一首常下。血滴人家。則凶。荊楚歲時記。夜聞捩狗耳。言其畏狗也。太平廣記【四百六十三】に酉陽雜爼を引て、杜鵑。厠上聽其聲不祥。厭法當爲犬聲應之。方以智が通雅に、蒼鸆有九首。智在松江。親聞之。市人爭作犬聲相逐。相傳一頭流血。著人家卽凶。と見え、又千金方に、姑獲喜落毛羽於人中庭。置兒衣中。便令兒作癇病必死。是以小兒衣被不可露。七八月尤忌。とあれば、七八月は殊にまじなふあるべし。(中略)外臺秘要【三十五】に小兒夜啼方。取犬頭下毛。以絳囊盛。繫兒兩手。立效。とあり。婦人養草に、犬はりこといふ物は產屋に用ゆる器なり。產衣を先此犬箱に著せはじめて、其後子に著する。箱の内へは守札等又は產屋にて用ゐる白粉疊紙又は眉はらひなど入るなり。」といへり。此犬はり子も亦まじなひなり。さて額にかくは、荊楚歲時記に、八月十日。四民竝以朱墨。點小兒頭額。名爲天灸。以厭疾。と見えたる說をも合せたるにや。養生類纂に瑣碎錄を引て、小兒額上。寫八十字。此乃栴壇王[やぶちゃん注:ママ。]押字。兒崇見則廻避。とあり。是も似たる事なり。
[やぶちゃん注:「鬼車鳥」元来は中国由来の妖鳥。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「鬼車鳥(きしゃどり)」によれば、『唐土の嶺南山に鬼車鳥という毒をもった鳥がおり、夜中は人家の軒下にいて、捨てた人の爪を食べるという。この鳥は子供の乾いた着物に毒を掛け、それを知らずに着ると疳の病を患うという』とある。「鴟鵂」は「みみづく」。ミミズク。]
と詳論せり。之を以て見れは、兎に角此習慣は支那より移り來り、中世以後我國の上下に流行せし者にして、犬箱は更に犬に樹する此習慣を基として起り、足利時代に古來出產の時に用ゐられたる虎頭などに傚ひて製作せられたるにもやと思はる。外臺秘要に云へる小兒の夜啼を止むる方も我國に傳はり、犬の色を紅木綿の袋に入れて小兒の背に縫ひ付て置けば小兒の夜泣を防く【迷信の日本】といふ。上述の如く衣間[やぶちゃん注:「夜間」の誤植であろう。]は鬼神惡魔の活動する時間と考へられたるを以て、小兒の夜泣を以て惡魔の所爲と推定せしは無理ならぬ歸着と云ふべし。伊勢四日市地方にて夜中襁褓を戶外に露せば小兒夜啼す【風俗𤲿報】といひ、常陸龍ケ崎にてオシメを失ふ時は子供が夜泣す【本誌一〇九號[やぶちゃん注:既注の川角寅吉氏の「妄信録第二」の二七三ページの「二六」条。]】
といひ、其他の地方にても同樣の傳說存する所多し。此等は其昔惡魔が有らゆる機會を利用して害を小兒に加へんとすと考へられたること、及小兒の夜啼を以て惡魔が何等かの害を小兒に加へつゝありと考へられたることを示す者なり。未開人の思想する所に依れば、甞て其人の身躰の一部をなしたる者、例せば髮若しくは爪の如き者、又は其人の身躰に觸接したる者、例せば衣服の一片を得れば、惡魔は其物に依りて、其人に勢力を及ぼすを得べき譯なれば、此塲合に於ても、鬼魔の橫行する夜間に小兒の襁褓を戶外に暴露すれば、惡魔は直に之を利用して害を其小兒に加ふと考へられたるべし。此說の支那より流傳せし者あることは、上に引ける梅園日記卷三の中なる玄中記及千金方の述ぶる所に依りて之を見るべし。然れども以血點其衣爲誌といひ、喜落毛羽於人中庭置兒衣中といふが如きは、固より後世の附說に過ぎざるべし。既に夜啼を以て惡魔の所爲に歸する上は、夜泣を止むる法は卽ち惡魔を防ぐ法ならざるべからず。之に關する厭法種々ありて其一二は上文に既に之を云へり。猶其一二を添記せんに、鏡の紳靈視せられたることは我邦に限らず、支那にても古より之を奪重し、避邪の用に供せしことは、西京雜記上に、
[やぶちゃん注:同前。]
宣帝被收繋郡邸獄。臂上猶帶史良娣合釆婉轉絲繩。繫身毒國寳鏡一枚。大如八銖錢。舊傳。此鏡見妖魅。得佩之者。爲天神所福。故宣帝從危獲濟。及卽大位。每持此鏡。感咽移辰。常以號珀笥盛之。緘以戚里織成錦。一日斜文錦。帝崩不知所在。
五雜爼十二に、
[やぶちゃん注:同前。]
凡鏡逾古逾佳。非獨取其款識斑色之美。亦可避邪魅禳火灾。故君子貴之。庚已編載。吳縣陳氏祖。傳古鏡。患瘧者照之。見脊上一物驚去。卽瘧。
と見えたり。我國の此習慣は支那より傳りたる者なりや否や詳ならずと雖も、岩瀨京山の謂へる如く、禁中の篇又は御船に鏡を掛くるを以て魔除の爲なりし【歷世女裝考一】とせば、これ亦古く行はれたる習慣なり。
世事百談、兒啼を止むる諺の條に、籠耳といふ册子を引きて、「小兒をすかしかぶる時、虎狼來虎狼來といふこともあり。もろこしにては張遼來といへば小兒なきやむといへう。張遼といふものたけき兵にてありしとなり。」といへり。諺草五の卷、遼來遼來の條に、「魏志曰。張遼字文遠。雁門馬邑人。武力過人。數有戰功。累轉前將軍。蒙求舊註曰。江東小兒啼。怖之曰遼來々々。無不止者。日本にも些言傳はりて小兒を怖しすかすとて遼來遼來と云來れり。」と記せり。思ふに、こは後世小兒を威嚇して啼泣を止むるが爲に唱する諺の如く云傳ふと雖も、去るにては其理通せざる所あり。恐らくは、其始は小兒を襲ふ鬼魔を威し去らしめんが爲に唱せし詞にして、小兒を威嚇して啼泣を止むるが爲にはならざりしならん。虎か魔除として有効なるを信せられしことは、古より皇子降誕ありて御湯をめさせられ給ふ時に、邪魅を退けんが爲に虎頭[やぶちゃん注:「とらのかしら」或いは「とらがしら」。虎の頭骨或いは張り子の虎の頭部。]を其傍に置きたるにて之を知るべし。紫式部日記に、後一條院御降誕の時、御ふまゐらせ給ふ所に[やぶちゃん注:意味不明。これは原本を確認するに、御湯殿の儀のシーンで「御ふ」は「御ゆ」の誤りのように思われる。]、「宮は殿いたき奉う給ひて、御はかしこ少將の君、虎のかしら宮の内侍とりて、御さきにまゐる。(中略)殿の公達二所源の少將雅道などうちまきをなげのゝじり、われたからうちならさんとあらそひさはく。へんち寺の僧都護身にさぶらひ給ふ。かしらにも眼にもあたるべければ、扇をさゝげて若き人に笑はる。文よむ博士藏人弁ひろなり、高欄のもとにたちて、史記の一卷をよむ。弦うち廿人、五位十人、六位十人、ふたなみにたちわたれり。」と記したり。【榮花初花の卷に記す所もおほよそ同し】大刀も虎頭と共に魔除として携帶せられたるを見るべし。將軍家に於ても、出產の時虎頭を用ゐたることは、御產所日記に、義勝誕生の時の例を記せる中に見えたり。俗に丙寅の二字を朱にて認め、小供の枕頭に置けば夜泣を止むといふ【迷信の日本】も其由來する所一なり。虎は我國に產せざる動物なれば、恐らくは虎に對する此俗信も虎の觀念と共に大陸より移傳し來れるなるべし。風俗通卷八に、
[やぶちゃん注:同前。]
虎者陽物。百獸之長也。能執榑挫鋭。噬食鬼魅。今人卒得惡遇。燒悟虎皮飮之。擊其爪亦能辟惡。此其驗也。
と云へり。狼は和名オホカミ(大嚙)と稱して、一般に恐怖する所なりと雖も、未だ魔除として用ゐられたることを聞かす[やぶちゃん注:「聞かず」の誤植。しかし、これは全くの不勉強の極みの誤りである。南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」を見られたい。]。恐らくは虎を呼ぶの本意忘却せられ、俗に小兒を威嚇するが如く解するに至りて、更に狼をも添ふるに至りしならんと思はる。張遼來も鬼魔を逐ふが爲に唱せし者にして、鐘馗石敢當加藤淸正等の武勇絕倫の豪傑の名を借りて惡鬼を驅逐すると趣旨を同くするなり。