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2021/01/03

南方熊楠 小兒と魔除 (1)

 

[やぶちゃん注:初出は明治四二(一九〇九)年五月発行の『東京人類學雜誌』二百七十九号で、初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」である(指示論考は本文内後注参照)。「j-stage」のこちらで初出が読める。長いので、ブログ版では分割して示す。段落に附した注の後は一行空けた。なお、欧文書誌データの不審部分は平凡社「選集」に拠って修正した。但し、それは原則、注記しない。また、本篇では熊楠は外国の地名のカタカナ表記の場合に右傍線、同前の人名の場合、左傍線という区別をつけているのだが、そうなっていない部分もあり、これをいちいち注するのは五月蠅いだけなので、本電子化では総て下線で統一する。地名か人名かが判り難いものは、当然の如く、私が注を附すはずであるからである。

 

         小兒と魔除

 

 人類學會雜誌二七四號出口君の所篇を讀み、思ひ中りし事ども書き留て送呈すること左の如し、

(一三七頁人名を穢物もて附る事)瀧澤解の玄同放言卷三上、姓名稱謂の條に國史を引て、押坂部史毛屎、錦織首久僧、倉臣小屎、阿部朝臣男屎、卜部乙屎麿[やぶちゃん注:やぶちゃん注:底本は「卜部」が「下部」となっている。原本と確認、特異的に訂した。まあ、下の話だからねぇ。]、節婦巨勢朝臣屎子、下野屎子等の名を列し、いとも異なる名なれども、時俗の習ひ亦怪むに足ずと云り、今案ずるに Panjab Notes and Queries, vol. i. note 219, Allahabad, 1883 に云く、印度パンジヤブの俗、小神輩が兒童の美を嫉むを避けんが爲め、之に命ずるに卑蔑の意ある名を以てす、例せば一兒痘を病で死すれば、次に生まるゝ兒に名附るに、「マル」(惡)「ルブリア」(漂蕩人)「クリア」(掃除人)「チユラ」(探塵人)「チハジユ」(篩ホド賤キ奴)等の諸名の一を以てするなりと、吾國の丸の語に惡の意なければ、パンジヤプの「マル」と同原ならで、偶合ならんも、邪鬼を避けんがために、人名に屎、丸等の穢きを撰べりと云る消閑雜記の說は、件ん[やぶちゃん注:「くだん」。]の印度の例に因て强味を增すなり。

[やぶちゃん注:「人類學會雜誌二七四號出口君の所篇」出口米吉の論考。先だって『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』として電子化済み。

「一三七頁人名を穢物もて附る事」上記リンク先及び初出の当該ページを参照されたい。

「瀧澤解の玄同放言」「瀧澤解」は「たきざはかい」で曲亭馬琴の本名。「玄同放言」は考証随筆。全三巻。瀧澤琴嶺(馬琴の長男)・渡辺崋山画。文政元年から同三年(一八一八年~一八二〇年)刊。天然・人事・動植物等に就いて和漢の書から引用し、考証を加えたもの。以下、所持する平凡社「南方熊楠選集」と、吉川弘文館随筆大成版と、「日本古典籍ビューア」の原本画像(当該部)によって読みを示す。後二者では読みの送り仮名の「ノ」を一部で本文に出した(読みを添えていない部分があるため)。

「押坂部史毛屎」「随筆大成」版及び原本では「押(オシ)坂ノ史毛屎(フヒトケソ)」。選集では「おしさかべのふびとくそ」。

「錦織首久僧」同前で「ニシコリノオホトクソ」。選集は「にしこりのおびとくそ」。

「倉臣小屎」同前で「倉ノ臣小屎(オミヲクソ)」。選集「くらのおみおくそ」。

「阿部朝臣男屎」同前で「阿部ノ朝臣男屎(ヲクソ)」。選集「あべのあそみおくそ」。

「卜部乙屎麿」同前で「卜部乙屎(ウラベノオトクソ)麿」。選集「うらべのおとくそまろ」。

「節婦」(節操を堅く守る)女性。

「巨勢朝臣屎子」同前で「巨勢ノ朝臣屎子(クソコ)」。選集「こせのあそみくそこ」。

「下野屎子」同前で「下野ノ屎子(クソコ)」。選集「しもつけのくそこ」。

「Panjab Notes and Queries」索引は「Internet archive」で見つけたが、原本を見出せなかった。「印度パンジヤブ」インド北西部からパキスタン北東部に跨る地域。インド・パキスタンの分割の際にインド側とパキスタン側に分割されており、現在の行政区分ではパンジャーブ州(インド、パキスタン)・ハリヤーナー州・ヒマチャル・プラデーシュ州付近の広域に相当する。この付近(グーグル・マップ・データ)。

「篩ほど賤しき奴」「篩」は「ふるひ(ふるい)」。篩は穀物文化圏では大切な農具であるが、或いは、カースト制度の中では、塵を選別する道具であることから、前後の蔑称と類感するのであろうか? 或いは、それを製造する民が差別される階級に属したからであろうか? 篩には竹や馬の毛が用いられ、本邦でも古くは竹細工をする放浪民(サンカなど)や、動物に関わる職業が差別されてきた経緯があるのと、軌を一にする部分があるのか? 原文に当たれないので、詳しくは判らない。

「邪鬼を避けんがために、人名に屎、丸等の穢きを撰べりと云える『消閑雜記』の說」出口が冒頭で引いている「消閑雜記」は西山宗因門の談林の俳人岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年:因幡鳥取生まれ。本姓は松永。名は勝。談林派の理論家として知られ、井原西鶴一門とともに宗因一門の双璧となったが、宗因没(天和二(一六八二)年没後は同門の反感を買い、俳諧自体から離れた。後、晩年には、明から来日した黄檗僧南源性派(しょうは)から漢詩を学んだり、儒者菊池耕斎に教えを受けたりし、若き日の俳論(「俳諧蒙求」等)以外にも多くの著作がある)の考証随筆。「新日本古典籍総合データベース」のこちらで原本の当該部が読める。]

 

 又右に引るパンジヤプ隨筆質問雜誌 note 447 に、父母其子の爲に視害(ナザル)を豫防せんとて、「マラ」(死人)「サラ」(腐物)「ルラ」(不具)「チヨツツ」[やぶちゃん注:底本は「チヨソツ」であるが、初出は「チヨツツ」であり、選集では「チョッツ」とするので、特異的に訂した。](盜賊)、「ビカ」(乞丐)等の惡稱を以て之を呼ぶ由を載す、神代に、葦原醜男あり(書紀卷一)、延曆の頃美濃國人村岡連惡人(玄同放言三類聚國史を引く)あり、今日視害を懼るゝこと最も印度に行なわれ、邪視(Evil Eye)の迷信は極て南歐、西亞、北アフリカに盛んにて、本邦には此等に相當する詞すら存せずと雖も古書を閱し俚俗を察するに、二者の蹤[やぶちゃん注:「あと」。]と覺らるゝもの全く無きに非ざれば、醜男惡人等の名は、日本にもいと古く視害又邪視を避んとて、故らに子に惡名を命ずる風有りし跡を留めしものと思はる(今も厄年生れの兒に捨の字を名とする抔似ゆ)。

[やぶちゃん注:「視害(ナザル)」(しがい)「邪視(Evil Eye)」(じやし(じゃし))後者は「邪眼」とも呼ぶ。人や物に災いを齎す超自然的な力を目・視線に持つ人・鬼神・目のシンボルを持った対象物の存在、及びその邪悪な眼力を行使することやその作用を指す。ブラック・マジックに類するこの信仰は汎世界的に広く見られるものの、特に地中海地域・中近東・南アジアに多く、他に北ヨーロッパ・北アフリカ・東アフリカでも信じられ、新大陸では邪視地域からの移民の風俗として確認出来る。東アジア・東南アジア・オセアニアでは、相対的に見ると、ごく稀である。邪視の力を持つとされる人間集団は社会によって様々であり、たとえば、インドでは王や聖職者らの地位の高い者、エチオピアのアムハラ族では低いカーストの者がこれを持ち、また、中東では人は誰でも邪視を持ち得ると考えられている(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。また、ウィキの「邪視」によれば、『世界の広範囲に分布する民間伝承の一つ。悪意を持って相手を睨みつけることにより、対象者に呪いを掛ける魔力。イーヴィルアイ(evil eye)、邪眼(じゃがん)、魔眼(まがん)とも言われる』。『様々な民族の間でこの災いに対する信仰は形成されている。また、邪視、邪眼はしばしば魔女とされる女性が持つ特徴とされ、その視線は様々な呪いを犠牲者にもたらす』。『邪視によって人が病気になり』、『衰弱していき、ついには死に至ることさえあるという』。『ちなみに邪視という言葉は博物学者南方熊楠による訳語であり、彼が邪視という概念を日本に紹介した』とある。『いくつかの文化では、邪視は人々が何気なく目を向けた物に不運を与えるジンクスとされる。他方では』、『それは、妬みの眼差しが不運をもたらすと信じられた。南ヨーロッパそして中東では、青い瞳を持つ人間には邪視によって故意に、あるいは故意ではなく呪いを人々にかける力があるとして恐れた』。『中東では、邪視に対抗するアミュレット』(英語:Amulet:お守り)『として青い円の内側に黒い円の描かれた塗られたボール(または円盤)が用いられた。同様のお守りとしてファーティマの手』(英語:Hand of Fatima。アラビア語「ハムサ」。主に中東やマグリブ地方(北部アフリカのエジプトを除いた地中海沿岸諸国とモロッコ・西サハラ・モーリタニア等)で使われる、邪視から身を守るための護符で手の形をしており、多くは五指のうちの中央の三本が山形を成し、親指と小指が同じ長さの手の形をしており、中央には目・ダビデの星・イクトゥス(ichtus:弧を成す二本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボル。初期キリスト教徒が隠れシンボルとして用いた)を配したものも多く見かける因みに「ファーティマ」とはイスラム教開祖ムハンマドの娘で、第4代正統カリフたるアリーの妻となった女性の名で、イスラーム圏に於ける理想の女性の象徴と見做されている)『がある。同様の目的で広くユーラシアでは天然石の虎目石や天眼石(縞瑪瑙)も利用される』。『ヨーロッパ人の間では、地中海沿岸が最も邪視の信仰が強い。邪視を防ぐ伝統的な方法として地中海沿岸の船の舳先に大きな目が描かれているのをしばしば目にする。また邪視の信仰は北ヨーロッパ、特にケルトの圏内へ広まった。古代ローマでは、ファリックチャーム』(phallic charm)『(陽根の魔除け)が対邪視に有効とされた』(本邦では「金精(こんせい)さま」として、また、古く『アイヌにも似た』信仰『があった』とする)。『同様に日本でも縄文時代に儀式に用いられたと考えられている男性器を模した石棒が出土している。同じく邪視から身を守る動作としてコルナ』(イタリア語:Gesto delle corna:「角の手振り」の和製略)『またはマノ・コルヌータ』(ラテン語:Mano cornuta:「角の手」)『(人差し指と小指を伸ばして後の指は握り込む動作)、マノ・フィコ』(ラテン語:mano fico:「無花果の手」)『(親指を人差し指と中指の間に挟んで握り込む動作)『で古代ローマでは男性器を表す)がある。また』、『今日』、『侮蔑の意味でつかわれるファックサインは』、『元来』、『古代ローマでは上記のサイン同様に邪視除けのサインであった』。『その一方で』、『プリアーポス』(ギリシア神話に於ける羊飼い・庭園及び果樹園の守護神にして生殖と豊穣を司る巨大なファルスを持った生殖男神のシンボルライズされたそれ)『は侮辱の意味でも使われたことから』、『両面性を持ち合わせたサインでもある可能性が残る』。『ブラジルでは、 マノ・フィコの彫刻を幸運のチャームとして常に持ち歩く。これらの風習は、邪視文様を』「ほと」(本邦の女性生殖器を指す古語)『として見たとき』、それ『に対応する男性器の象徴で対抗する、あるいは眼に対して先端恐怖症を想起させる事や、見るに堪えない見苦しいもので対抗する呪術の方法である』。『邪視の迷信はヨーロッパからアメリカ』『に持ち込まれた』。一九四六年、『アメリカ合衆国のマジシャン、アンリ・ガマシュ』(Henri Gamache (一八八九年~?))『が出版した邪視についてのいくつかのテキストはアメリカ合衆国南部のヴードゥー医に影響を与えた』とある。但し、最後に言っておくと、この後、熊楠はこの「邪視」を、またしても天馬空を翔けるが如く、延々とドライヴして語って行くことになるのであるが、そこで彼はインドの「視害」(ナザル)と「邪視」を、作用は同系統ながらも、別なものとして扱っていることが判ってくる。これは実にこの公開後も熊楠の中で燻り続け、大正六(一九一七)年二月に『太陽』に発表した「蛇に關する民俗と傳說」で、自分が本論考中で「邪視」と訳したこと、インドの「ナザール」は、当人が悪念を持たずして、何の他者を害する気もなく、逆に賞讃せんとして人や物を眺めただけで、眺められた対象が必ず害を受けるので、私は「視害」と訳しておいたが、調べた仏典の経文から見て、「見毒」(けんどく)という訳語にして「邪視」と区別するべきであると述べ、さらに燻りは続いて、遂に、昭和四(一九二九)年十月発行の『民俗学』(第一巻四号)で、短いながら、「邪視について」を再びものしているのである。この拘りについて優れた論考がなされている姜竣(カン ジュン)氏の論考「イメージとことばの近代」(日本口承文芸協会『口承文芸研究』第二十五号所収・二〇〇二年三月発行・PDF)を読まれんことを強くお薦めする。

「乞丐」「かたゐ」「かつたゐ」「こつがい」などの読みがある。乞食。古くはハンセン病患者を「かつたいぼ」と呼んだ差別史がある。

「葦原醜男あり(書紀卷一)」多様な別名を持つ大国主命の異名の一つ。但し、「日本書紀」巻之第一の「第八段」の「一書第六」に、

   *

一書曰。大國主神。亦名、大物主神。亦號、國作大己貴命。亦曰、葦原醜男。亦曰、八千戈神。亦曰、大國玉神。亦曰、顯國玉神。其子、凡有一百八十一神。

   *

と、この一箇所だけに出る。

「延曆」七八二年~八〇六年。

「村岡連惡人(玄同放言三類聚國史を引く)」「選集」では『むらおかのむらじ』と振るが、「悪人」は読みを振っていない。「日本古典籍ビューア」の原本画像(当該部。左頁最終行)を見ても、やはり振っていない。「あくんど」と私は読みたくなるが、先に示した姜氏の論考では、この「惡人」を「マガヒト」と読んでおられる。「三」は「玄同放言」の第三巻の意。「類聚國史」は編年体である「六国史」の記事を、中国の類書に倣って、分類・再編集した歴史書。菅原道真の編纂により寛平四(八九二)年に完成した。写本を見つけたが、読みは一切振っていないので、調べるのをやめた。「玄同放言」は「類聚国史」の八十七巻の刑法部の引用と記し(訓読した)、

   *

桓武天皇延曆十七年、二月壬子の美濃國の人、村岡の連(むらし)悪人を、淡路の國に配流す。群盗を停留(とゞ)め、百姓を侵犯(をか)すを以てなり。この悪人も、悪名を賜ひしにやあらざるか。おのづからなる名にしあらば、その謫罰(てきばつ)、名詮自性(みやうせんじしやう)ならずや。

   *

以下、「惡」の字の名乗りを持った著名な人物を馬琴は挙げて、『その暴悪非義を憎(にく)みて、悪のを被(おは)せし』なんどと十把一絡げに言っているが、これは馬琴にして「何言いてけつかるッツ!?!」と突っ込みたくなる呆れた謂いである。悪源太義平や悪七兵衛(あくしちびょうえ)藤原景清、最上氏家臣で出羽国飽海(あくみ)郡朝日山城主であった名将池田悪次郎盛周(もりちか)でご存知の通り、この「悪」は「強い」の意であって、「悪い」の意ではない。自ら名乗り、同輩諸氏も親愛の意を込めてそう呼んだのだ。アホか? 馬琴!

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