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« 怪談登志男 五、濡衣の地藏 | トップページ | 奥州ばなし てんま町 »

2021/01/12

奥州ばなし 乙二

 

     乙 二

 

 片倉小十郞、領地なる白石に、「千壽院」と言《いふ》山伏、有《あり》き。元來、風流をこのみ、雅情に心をなげうちて、祈禱・守札《まもりふだ》などのことは、「わけもなきもの」と思《おもひ》ながして、「乙二《おつに》」といふ俳諧師なりしが、其やど守《もり》に、越後より來りし夫婦の者、おきたりし。心だてあくまで正しく、身をゝしまず、人の爲にはたらくをもて、心のたのしみとし、たぐひなき慈悲心の者なりしが、さる故にや、はじめ來りし時は、夫婦ともさしつゞりたる袢纏(はんてん)を着て有しが、次第に仕合《しあはせ》よく、今は、馬をも、たておくほどになりし。其ほとり、娶《よめ》とり・聟《むこ》とり、又、凶事等にて、いそがしきことの有折りは、しる・しらぬをわかたず、未明に行《ゆき》て、夫は薪《たきぎ》をわり、婦は水を澤山にくみ入《いれ》、手つだひて、すぐにかへり、野かせに[やぶちゃん注:連字するこの「に」の右手に編者による衍字指示と思われるママ注記がある。]にかゝり、ふるまひには、あづからず。是、常の諸業なり。稀代(きたい)の夫婦とて、人々、ほめものにしたり。

[やぶちゃん注:本話は本書の中でも長いもので、特異的に段落ごとに注を附した。

「片倉小十郞」伊達家の古くからの名臣の家系片倉家の直系子孫。初代は伊達政宗の近習にして後には軍師的役割を務めたとされる片倉景綱で、通称の「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。

「白石」現在の宮城県白石(しろいし)市。白石城(グーグル・マップ・データ)は景綱が政宗から下賜されている。

「千壽院」後は『「乙二」といふ俳諧師』と(脱字が疑われる)「なりしが」で、同一人物である。この人物、奥州白石の俳人として実在し、しかも小林一茶や夏目成美と親しい友人でもあった。中田雅敏氏の筑波大学学位論文「小林一茶の生涯と俳諧論研究」(二〇一六年。PDFでダウン・ロード可能)によれば、本名・通称を岩間清雄(宝暦五(一七五五)年~文政六(一八二三)年)で、俳人としては松窓乙二と称した。論文の注「57」に(下線は私が附した)、『陸奥国白石の亘理山千手院権大僧都岩間清馨の息の修験者として京都、江戸、蝦夷地函館、松前、東北、北陸を行脚している』とあり、俳『風は「芭蕉よりもなお悄然としてわびに徹し」とされた(『白石市史』、一九八一年)。中村真一郎の『蠣崎波響の生涯』(新潮社、一九八九年)に詳述されている』とあり、論文内にも書かれてある通り、当時、拿捕されたゴローニンを函館で目撃するなど、ただ者ではない。平凡社「世界大百科事典」では、生年を宝暦六年とし(諸辞書も同じ)、『江戸後期の俳人。姓は岩間,通称は清雄,松窓と号す。奥州白石の人』で、享和三(一八〇三)年に『江戸に出』、成美・巣兆・道彦らと交わり「はたけ芹(せり)」を刊行し、文化七年から十年(一八一〇から一八一三年)にかけては、『北海道滞在をはじめとし』て、『越後などに旅を重ね』たとする。芭蕉・『蕪村を慕った化政俳壇の雄で』、『誠を重んじ』、『作風は感覚的また重厚閑寂である。没後』に「乙二七部集」が編まれた』と記し、「夏霧にぬれてつめたし白い花」の一句を引いている。

「やど守」留守番。以上の通り、若き頃より乙二は各地を行脚して、家を空けていたのである。後で出るが、乙二には嫁はいる。

「馬を」「たておく」馬を飼い養う。

「野かせ」「野良稼ぎ」の略であろう。農耕。

「ふるまひには、あづからず」所持手伝いの御礼や報酬は一切、受け取らなかった。]

 

 扨、その所の足輕に、大のあばれもの有て、諸人、もてあましたりし。又、百姓にも、同じたぐひのもの有、兩親もなし、妻に成(なる)人もなくて、心まかせにあぶれありきしが、この兩人、酒醉(さけゑひ)のうへ、口論におよび、兩方、名におふあくたれどし[やぶちゃん注:「同士」。]、おそろしさに、よりつく人もなかりしに、終に刄傷にいたりて、足輕を、百姓の切ころして有し。折節、他より來りゐし野良山伏、通《とほり》かゝり、このていを見るより、百姓をたすけて云《いはく》、

「其方、人をころしては、命たすかるべからず。我は見のがし得さすべきまゝ、早くこの地を立されかし。」

と、をしへたりしに、百姓は、いまだ酒きげんや、さめざりつらん、

「かほどの惡人をころせしに、いかで、にげかくることのあらん。いらざる山伏の心ぞへや。」

と、ほこりゐたり。

 山伏は、云かけしことも、どかれて[やぶちゃん注:「退(ど)かれて」。退(しりぞ)けられて。]、『にくし』とや思つらん、

「爰を立さらばこそ、見のがさんとはいひつれ、その儀ならば、われも通《とほり》かゝりて、たゞには、過《すぎ》がたし。いざ、我にしたがひ來れ。」

とて、役所へつれゆき、有しこと共《ども》を云《いひ》あげしに、足輕を、まさしう、ころせしうへは、所仕置《ところしおき》とて、論なく、首をはねられたりし。

[やぶちゃん注:「所仕置」仙台藩内にあった支配・法制度で、罪科が判然としていて、「所仕置」と確定するや仙台から当該地に速やかに引き戻された上、当地のまさに足軽組の者が罪人の刑執行を行ったもののようである(諸論文を参照)。]

 

 所にては、

「二人の惡者、一度にうせたり。」

とて、悅《よろこび》ゐしに、かのやど守夫婦、その夕方かせぎも仕廻《しまはし》て、家にくつろぎゐて、たばこのみながら、ふと、語いでゝ、

「人には、もてあまされし人々なりしが、誰それの御仕置になりしこそ、思へば、ふびんなれ。跡とふ人も、なきに。」

と、夫のいへば、婦も、

「げに。さなり。心がらとはいひながら、今更、いとほしきことなり。いざ、我々兩人して、なきがらを納《をさめ》つかはさばや。」

といふを、夫も、

「されば、仕事もしまひたれば、それ、よからん。」

と、いひ合せて、やどをたち出しは、七ツ半[やぶちゃん注:午後五時。]頃なりしと。

 棺箱をとゝのへて、仕置場迄は、【大道[やぶちゃん注:通常の里単位。]。】壹里餘も有所を、夜にかゝりて行て、【深切のいたり極れば、きたなし、おそろしとも、思はざるものなるべし。なみなみの人の思《おもひ》よりがたきこと共なり。】から[やぶちゃん注:「骸」。]を納《をさめ》、夫婦、さしになひて、其ほとりの寺にいたりて、

「かくかくの次第なり。餘りふびんに存《ぞんぜ》らるゝまゝ、わたくし共夫婦にて、からを納參りたり。法號をさづけ給はらん。」

と、こひしとぞ。

 俗さへ、かほどの功德をおこなふこと故、法師は一言もいふことなく、何とか書《かき》てとらせしを、とりをさめ、

「さて。とてもに、御さしつかへなくば、此寺中へ、此からを、かくしたし。」

と願し故、住持も感じ入《いり》て、

「さほど思はゞ、藪の際《きは》になりとも、をさめよ。」

と云《いひ》し故、兩人して、穴を堀《ほり》[やぶちゃん注:漢字はママ。]て埋《うづ》め歸りき。

 扨、法號は、佛壇へも入《いれ》がたければ、出入口の柱にはりて、あかしをかゝげ、飯を備へなどして置《おき》しとぞ。

[やぶちゃん注:「俗」この場合はこの奇特な夫婦(の行い)を限定して指す。

「何とか」戒名を聴き及んではいたが、真葛が忘れたものであろう。]

 

 此妻女、あしき積(しやく)[やぶちゃん注:差し込み。]ぞ、もちて、おこる時には、本性《ほんしやう》なく成《なり》て、のけさまに、たふれて、くるしむ、となり。月には兩三度[やぶちゃん注:何度も。]、きはめて[やぶちゃん注:激しく。]、おこりしを、このから、はうむりて後、絕ておこらねば、

「心やすし。」

と悅ゐたりしとぞ。

 ある日、かの野良山伏、守札《まもりふだ》を持《も》て來りしを、とりいれて、壁に張《はり》しに、【のら山伏、みだりに札を引《ひく》ことも、乙二がおこたりより、おこりしことなり。】其夜、例の積《しやく》つよくおこりて、くるしみ、たへがたく、乙二が嫁も行《ゆき》て、介抱して有しに、次の夜夫婦の夢に、からを納《をさめ》られし百姓みえて、しめすやう、

「我身こと、誠に思ひよらぬ御とぶらひにあづかり、御かげにて成佛いたせしこと、重々有がたく、御禮盡しがたし。されば、我は何もいたすべきこともなし。婦人の身に、あしき積をもたれしを、せめての御禮に、御一生おこらぬやうに守らんと思ひしに、このほど、參りし山伏の爲に、ころされし身にさふらへば、あの山伏の引《ひき》たる守札の候《さふらふ》ては、われは此所に居《をる》ことあたはず、立《たち》さりし故、又々、御積はおこりしなり。守札をだにとりすて給はらば、又もとの如く、御積をまもるべし。」

と、つげしとぞ。

 夫婦は奇異の思《おもひ》をなし、翌朝、早々、守札をとりすてつれば、積は、跡もなく直りしとぞ。

「かゝる野良山伏の引し守札も、かほどのしるし有《ある》からは、けなすべき事、ならず。」と、乙二も大《おほい》に感心して、不動尊を祈《いのり》奉りしとぞ。

 野良山伏も、

「のらものゝ分《ぶん》として、百姓を引立《ひきたて》、しまつせしこと、あし。」

とて、所を拂はれたりき。

 伊勢の尼は、俳人の便《たより》によりて、乙二が方に逗留せしなり。乙二が娘は、松井其甫《きほ》といふ醫師の妻なりし故、尼も此所にては其甫が方を、やどゝせしなり。

[やぶちゃん注:「のら山伏、みだりに札を引《ひく》ことも、乙二がおこたりより、おこりしことなり」本来なら、乙二も修験者であるからして、彼が咒(じゅ)した守り札を屋敷に張るべきであるところを、修験者のくせに祈禱も守り札も効果は怪しいと常日頃考えている乙二が、そうした心遣いを怠って全くしなかったことを指す。

「伊勢の尼」不詳。女流俳人で、しかも真葛の知り合いであったのであろう。則ち、この話も、直接にはこの伊勢の尼なる人物より親しく聴いたものだったのであろう。彼女が医師の娘であったとする点からも(真葛の父は仙台藩江戸詰医師であった工藤周庵平助(享保一九(一七三四)年~寛政一三・享和元(一八〇一)年)であった)、親和性が認められる。

「俳人の便によりて」俳人である乙二の俳句仲間の関係から。

「松井其甫といふ醫師」不詳。]

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