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2021/01/10

奥州ばなし 柳町山伏

 

     柳町山伏

 

 本《もと》、柳町《やなぎまち》といふ所に住《すむ》、つかまき師夫婦の者有き。代々有德にして、ほどにつけたる調度やうの物までも、ともしからで、實心《じつしん》の者なりし。

 娘、二人、もちしが、とりどり、相應の生れなりしを、祕藏して有し。

 姊娘、十三ばかりの時、庭におりて、あそびて有しが、春のことにて、

「凧(たこ)の上《のぼ》りを、みおくる。」

とて、石につまづき、くつぬぎ石にて膝を打しが、つよく痛《いたみ》、はれて直らず、終《つひ》に足なへに成《なり》て、二、三年わづらひて、死《しし》たりき。

 妹娘も、ほどなく十三と成しが、同じく庭におりて、同じ石につまづき、膝を打たりしかば、二親《ふたおや》、心にかゝりて、醫師《くすし》をもとめ、いろいろ、藥用をくはへしかども、いゆることなく、又、足なえになりて、十六までながらへしかば、其間、たからをつくして、祈禱・まじなひにいたるまで、よしとあるかぎりのことはせしかども、いさゝか、印《しるし》、なし。終に息引とりしかば、水なども手向《たむけ》て、屛風、引𢌞して置《おき》しに、うなる聲の聞えしかば、

「すは、息吹《いきふき》かへせし。」

と悅《よろこび》て、母の行《ゆき》て見つれば、娘が云樣《いふやう》、

「扨、至極、快《こころよく》寢入《ねいり》て有しが、今、何方《いづかた》へやら行《ゆく》所を夢に見たりし。又、ねむたく成し故、寢《いね》んと思ふが、よく寢入てあらば、夜具をはぎてみ給へ。」

と、いひて、ねむりしかば、二親、うちゑみ、

「もし、快氣にもやなる。」

と、思ひいさみて、少し程をへて、夜具をまくりて見たれば、こはいかに、其面《おもて》、むすめにはあらで、鬼のごとし。

 色、赤黑く、眼中、

「きらきら」

と光《ひかり》て、いたく、いかれるおもざしの、おそろしさ、云《いふ》ばかりなかりしかば、思はず、とびのきて、夫にその由をつげて、兩人して行《ゆき》てみしに、前に、かはらず。

 夫婦、あきれてゐたる時、かの變化《へんげ》、おき直りて、眼をいからし、聲たてゝ云やう、

「汝等二人に、いひきかすべきこと有《あり》て、あらはれたり。そこさらずして、吾《わが》云ことを、よく、きけ。われは是、此家の七代先の祖に金をとられて、殺害(さつがい)せられし山伏の㚑《れい》なり。我、昔、官金をもちて上方へゆきし時、先祖の男と、ふと、道づれに成《なり》たりしが、茶屋に入《いり》て、ともにのみ食《くひ》してのち、『あたひを、はらはん』と、懷中より金入《かねいれ》をとり出せしを、【此山伏のふるまひ、油斷のやうなれ、凡(およそ)百五六十年か、又は二百年に近きほどのむかし故、人の心もおだやかにて、金などみせしなるべし。】此家のあるじの見て、山中にいたりし時、無躰(むたい)に打擲(てうちやく)して、終に切ころし、官金をうばひとりて、出世をなせしぞや。其時の無念さ、骨髓にとほるといへども、代々、運、さかんにして、たゝりをなしがたかりしが、やうやう、七代にいたりて、運かたぶきし故、うらみをはらすなり。かくいふことを僞《いつはり》と思はゞ、外《ほか》にたしかなる證據、有。たんすの引出しに入て有《ある》、太刀こしらへの大小は、わが、さし料なり。」

 尺は何寸、銘は何々といふことを、つまびらかに云《いひ》て、【此大小の尺と銘を、女の言《こと》にて、おぼえぬぞ、くちをしき。】

「いそぎ出《いだ》し、みよ。是、たがはぬ證據ぞ。」

と、いひしとぞ。

 夫婦は夢のこゝちして、おそろしさに手もふるう、ふるう、大小をとり出して見しに、變化のいふに露(つゆ)たがはざりしとぞ。

 此大小は、先祖よりのつたはりものとて、代々、仕𢌞《しまはし》てのみ置しことにて、銘も寸も、夫婦、しらで有しを、まして、娘子共《こども》のしるべきよし、なし。

「實《げ》に、昔、さることや、有つらん。」

と、あやまり入《いり》て有しに、又、變化の曰《いはく》、

「此娘の命、たすけたく思はゞ、我、のぞみし官位のほどの供𢌞りにて、この家より葬禮を出《いだ》すべし。【そうしき[やぶちゃん注:ママ。]・供𢌞り、いくたりといふことも、たしかにしらず。】さあらば、命、たすくべし。さなきにおきては、これ限りぞ。」

と、いはれて、二親は、ふしまろび、

「いかやうのことにても、仰《おほせ》にそむくまじ。娘が命、たすけ給へ。」

と願しかば、

「いそぎ、葬禮の仕度せよ。」

とて、夜具、引かづきしが、又、もとの娘の面《おもて》にぞ成たりし。

 變化《へんげ》は、かくいへど、かゝる大病人《たいびやうにん》の有《ある》家より、葬禮を出さんは、外聞《ぐわいぶん》、かたがた、きのどくに思ひて、寺へ其よしを談じて、法名をもらひ、人をやとひて、寺の門前より、したくして、はふりのていをなしたりしに、その人々の、寺の門に入《いり》たるころ、變(へん)化、あらはれ、母をよびて曰、

「此家よりいださば、娘が命たすけんと思ひしが、餘りに略過《りやくか》たる仕方なり。是にては、命ごひは叶《かなふ》まじ。」

と、いかりて有しとぞ。

 父は、葬式とゝのへて、

「是にて、娘が命、たすかるや。」

と、心悅《こころよろこび》、かつ、案じながら、歸りしに、有しことどもを聞て、おぢ恐れ、又、家より葬式をとゝのへて出《いだ》したりしかば、山伏の㚑も、しづまりや、したりけん、あらはれずなりし。

 むすめも、一度、引とりし息の、かへりしこと故、怨靈、たち去《さり》ては、へたへたと、よわりて、消《きえ》うせしとぞ。

 このほどの心盡しは、むだごとゝ成て、月のうちに、三度、葬式を出したるとぞ。

 むこ養子なども有しが、此變化に恐れて、家をいでゝ、をらず。二親も氣ぬけして、家をもうりつ、數代《すだい》の富家《ふけ》も、長病中《ながわづらひのうち》の物入《ものいり》につかひはたし、やれ衣《ごろも》一重ならで身に添《そふ》ものもなく、ゆくへ、しれず、なりしとなん。

 山伏は七代までたゝるとは聞つれど、かく、たしかに見聞しことも稀なれば書置《かきおく》。

 娘の、うなり、くるしみし聲は、近邊の人、

「聞《きく》に、たへがたかりし。」

とぞ。二親のおもひ、まして、いかならん。【このはなしも、はやく聞て有しが、「もし、僞《いつはり》にや」と、心もとめざりしに、召つかふ女の、筋むかひなる家にて、娘のやうす、變化《へんげ》の有し次第も、くはしくかたるを聞て、しるしぬ。】

 

[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 大山伏」の注で、一度、本文のみを正字化して電子化しているが、再度、零からやり直した。

「柳町」「本柳町」ウィキの「柳町(仙台市)」が町の歴史について、非常に詳しく書かれてあり、本篇の当時のロケーションを想起する上で甚だ有益である。是非、読まれんことをお勧めする。『柳町(やなぎまち)は、日本の宮城県仙台市青葉区に位置した町である。伊達氏に従って米沢から岩出山に、次いで仙台に移転し』、『さらに移転して現在地に落ち着いた』六『つの御譜代町の一つで』、二十四『の町人町の中では』五『位につけたが、江戸時代から現在まで』、『豪商や大店舗を見ない庶民的な商工業地である』とあり、一九七〇年の『住居表示で一番町一丁目に属して地図から消えたが、町内会が柳町でまとまり、街路に歴史的町名の表示がなされ、存在感を残している』して、以下、より細かな変遷が記されてある。ここ(グーグル・マップ・データ。仙台駅の南西直近)。

「つかまき師」「柄巻師」。貧しい守備範囲外の注を附すより、サイト「刀剣ワールド」の『日本刀職人「柄巻師(つかまきし)~日本刀の柄を仕上げる」』を読まれるのがよかろうと存ずる。

「有德」富裕。「いうとく」「うとく」孰れの読みでも、この意味も持つ。

「ほどにつけたる調度やうの物までも、ともしからで」ほどほどに設けた家内の調度品といったものに至るまで、貧相なものはなく。

「實心」誠実。

「とりどり、相應の生れなりし」二人とも、相応の美形の生まれであった。

「よしとある」何らかの効果があるとされる。

「此山伏のふるまひ、凡(およそ)……」ここは「此山伏のふるまひこそ、油斷のやうなれ、」(已然形)「凡そ……」の「こそ」を省略した逆接用法である。

「百五六十年か、又は二百年に近きほどのむかし」本書の成立は文政元(一八一八)年であるから、一六六八年から一六一八年となり、寛文八年から元和四年の江戸前期となる。

「官金」この山伏は、後で「我、のぞみし官位のほどの供𢌞りにて」と述べているから、何らかの官職を金で求めるか、幕府の隠密の職務に就かんとしていた者であったようである。さすれば、大金を所持していてもおかしくない。

「仕𢌞《しまはし》てのみ置しことにて」大事に仕舞っておいただけであったために。

「むすめも、一度、引とりし息の、かへりしこと故、怨靈、たち去《さり》ては、へたへたと、よわりて、消《きえ》うせしとぞ」山伏の怨霊によってではなく、一度、仮死した後、怨霊が憑依したことによって、弱り切っていて、そのまま空しくなったというのである。

「月のうちに、三度、葬式を出したるとぞ」山伏の略式葬儀と、やり直しのそれに、娘の葬儀で、三度である。

「山伏は七代までたゝる」全国的に「猫を殺すと七代祟る」とか、「坊主(山伏)殺せば(或いは「騙せば」)七代(或いは「八代」「百年」「末代」)祟る」と言う伝承は広く分布しており、文芸でも怪奇談から落語まで、かなりメジャーな祟りとして使用されている。山伏は修験者であり、本来は古くから祟りを成すものを調伏することを重要な生業としていたが、さればこそ、魔道との接点も濃密であるが故に、彼自身が執拗(しゅうね)き怨霊と化するというのは頗る腑に落ちはする。上記の通り、「七」は確定数ではなく、単に長いことを意味するもので、「七」自身には限定的な由来はあるまい。

「召つかふ女」只野家の下女。]

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