南方熊楠 小兒と魔除 (5)
[やぶちゃん注:以下冒頭のページ数は出口米吉の論文(前のリンクは私の電子化)の以下の当該譚の初出ページ(PDFの「7」コマ目上段)を指す。そこで出口は「鬼車鳥」のことを、民間の国学者で狂歌師・随筆作者であった梅園静廬(うめぞのせいろ 明和二(一七六五)年~嘉永元 (一八四八) 年:和漢の書を読破してその博識を謳われた)の「梅園日記」から引いている。「日本古典籍ビューア」のこちらの「七草」に「鬼車鳥」が語られてある。以下に電子化しておく。句読点や記号を打ち、漢文部は訓読し、推定で一部の読みや送り仮名を添えた。
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七草 十五
「世說故事苑」に七草を搥(う)つ事、「事文類聚」に歲時記を引きて曰はく、『正月七日、鬼車鳥(きしやてう)の度(わた)ること多し、家〻、門を搥ち、戸を打ち、燈燭を滅(け)し、之れを禳(はら)ふ。和俗、七種の菜を打つ唱(となへ)に、「唐土(もろこし)の鳥、日本の鳥、渡らぬさきに」と云へるは、此の鬼車鳥を忌む意なり。板を打ち鳴(なら)すは、鬼車鳥、止(と)まらざるやうに禳(はら)ふなり』といへり。按ずるに、此の說、是(ぜ)なり。「桐火桶」【定家卿の作と稱す】に、『正月七日、七草をたゝくに、七づゝ、七度、四十九、たゝく也。七草は七星なり。四十九たゝくは、七曜、・九曜・廿八宿・五星合せて、四十九の星をまつる也。唐土の鳥と日本の鳥と、わたらぬさきに、七草なづな、手につみいれて、亢觜斗張(こうしとちやう)』とあり。「亢觜斗張」は、廿八宿の中の星の名なり。【また、「旅宿問答」に、『七日の七草は、天に在る七星、地に在る七草』とあり。】星の名を書きて、鬼車鳥の類の夭鳥(えうてう)[やぶちゃん注:妖鳥。]を逐(おふ)事は、「周禮」の「秋官」に、『硩蔟(てきぞく)氏、夭鳥の巢を覆ひ掌(も)ちて、方(かた)を以つて【注に「方は版なり」と。】十日の號・十有二辰の號・十有二月の號、十有二歲之號・二十有八星の號を書き、【注に「角より軫に至る」と。[やぶちゃん注:星座の位置情報を指す。]】其の巢の上に縣(かか)れば、則ち、之れ、去れり』と云へり。夭鳥は鬼車の類ひなり。元の陳友仁が序ある無名氏の「周禮集說」に、『劉氏曰はく、「夭鳥は陰陽の邪氣の生ずる所、故に、妖怪、人間をして不祥(ふしやう)せんと欲し、夜、則ち、飛騰(ひふつ)し、至る所、害を爲す。鬼車の類のごとき、皆、是れなり」』【「書錄解題」に、『「周禮中義」八卷、祠部員外郞長樂劉彝執中撰』とあり。劉氏は、これにや。】と見えたり。三善爲康の「掌中歷」に、永久三年【「三年」の二字、「拾芥抄」に據りて補ふ。】七月の比、都鄙に鵼(ぬえ)ありしに、十日・十二辰・十二月・十二歲・廿八星の號を、方(いた)に書きて、懸けたる事、見えたれば、こゝにも「周禮」の說、行れたるを知るべし。後世の書にも、「淸異錄」に、『梟は見聞く者、必ず殃禍(わざはひ)に罹(かゝ)る。急に梟に向ひ、連(つゞけ)て唾(つばきす)る、十三口。然る後、靜坐し、北斗を存(そん)すること、一時許り、禳ふべし。また、「埤雅」の「釋鳥」に、『傳へ曰ふ、「梟、星の名を避く」』と。これ亦、星の惡鳥を禳ふ事を知るべし。彼の鳥、夜中、飛行すといへる故に、六日の夜より、七日の朝まで、七草を打つなり。「七草雙紙」に、『七草を柳の木の盤に載せて、玉椿の枝にて、六日の酉の時に芹をうち、戌の時に薺(なづな)、亥の時にごげう、子の時にたびらこ、丑の時に佛の座、寅の時に鈴菜、卯の時にすヾしろをうちて、辰の時に七草を合せて、東の方より、岩井の水をむすびあげて、「若水」と名づけ、此水にて、はゝが鳥[やぶちゃん注:「はくが鳥」かも知れぬ。孰れにせよ不詳だが、流れからは、鬼車鳥を指している。鬼車鳥は姑獲鳥(うぶめ)の別名とされることも多く、さすれば「うぶめ」は「産女」と書き、これは「母が鳥」と親和性があると言えるように思う。]のわたらぬさきに、服するならば、一時に十年づヽの齡(よはひ)をへかへり[やぶちゃん注:「經返り」で、時間が戻る・若返ることであろう。]、七時には七十年のとしを忽(にはか)に若くなりて』云々、此の「はゝが鳥」の事は、いふにもたらぬ作りごとなれど、今も、六日の酉の時よりたゝく也。【亦、根芹の謠(うた)にも云へり】「桐火桶」に、『七度たヽく』とある、證とすべし。
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(一四一頁)(鬼車、小兒を害する事)酉陽雜爼十六に云、鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬、秦中天陰有時聲、聲如力車鳴、或言是水鷄過也、水鷄[やぶちゃん注:「すいけい」。何故、「くひな」と読まないかは、後注を参照されたい。]は Vanellus cristatus Mey. et Woif. (Möllendorff, “The Vertebrata of the Province of Chichi,” The Journal of the North China Branch of the Royal Asiaic Society, New Series ⅩⅠ, Shanghai,1877, p. 97)其鳴聲怪きより斯る訛語を生ぜしこと、吾邦の鵺[やぶちゃん注:「ぬえ」。]。の如きにや、錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。]にも似たる話有るは Knox,‘An Historical Relation of the Island of Ceylon,’ 1681, p. 78 に、島の高地部に魔鳴く事有り、低地には無し、其聲、犬の鋭く吠るが如く、忽ち一方にあると思へば、忽ち他方に聞ゆること常の鳥類に異なる、故に魔の所行たるを知る、此聲聞ゆるすぐ又後に、王人を刑死するを奇とす、犬之を聽ば戰慄す、シンガリー人之を聞く每に、惡言を放て罵れば、暫く止め遠く去るものゝ如しと云り、一三三〇年頃の書 Fr.Jordanus,‘Mirabilia descripta,’ trans.Yule, 1863, p. 37 にも、錫蘭にて夜屢ば魔人と語ると云り、ユール之を其地に只今所謂魔鳥に充て、褐色の梟なりと云れども、ミトフヲードは、魔鳥は夜鷹の一種、其聲童子が經せられて息絕ゆるまで苦吟する如く、悽愴極りて聞くに堪ずといひ、テンネントは、村近く之を聞ば不祥の兆とて、民之を惱むと云り、(Tennent, ‘Sketches of Natural History of Ceylon,’ 1861, pp.246-8)、而して古え錫蘭を虐治せし兄王キスツアカン、鬼車と同く十頭ありしと云は奇遇頗る妙也(James Low,in the Jouynal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol.iv. p. 203, Singapore, 1850)、ミンチラ人が信ずるハンツ、サブロ(獵師鬼)は、湖及川の淵に棲み、體黑く、黑口と名たる三犬を隨ふ、此犬人家に近けば、住人は木片を打ち大噪ぎしてこれを驅り、小兒を緊く抱いて其去るを俟つ、マレー人が傳ふるソコム鬼、行くときは「ベリベリ」鳥先づ飛ぶ、此鳥、家に近くとき、家内聲限りに喧呼して之を厭す[やぶちゃん注:「まじなひす」。](Ibid.,vol.ⅴ, p. 308)、是れ鬼車と事は酷だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]相肖たり[やぶちゃん注:「にたり」。]、姑獲が事は、倭漢三才圖會に本草綱目を引て、一名夜行遊女、又天帝少女鬼神類也云々荆州多有之、衣毛爲鳥、脫毛爲女人、是產婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子、養爲己子、凡有小兒家、不可夜露衣物、此鳥夜啼、以血點之爲誌、兒輙病云々謂之無辜癇也、蓋此鳥純雌無雄、七八月夜飛害人、而して著者寺島氏之を西國海濱に多してふ「ウブメドリ」に宛て、九州人謂云、小雨闇夜、不時有出、其所居必有燐火、遙視之狀如鷗而大、鳴聲亦似鷗、能變爲婦、携子、遇人則請負子於人、怕之迯則有憎寒、壯熱甚至死者、强剛者諾負之、則無害、將近人家、乃背輕而無物、未聞畿内近國狐狸之外如此者と述ぶ、吾國には例無き事なれど、實際梟族が嬰兒を殺すこと世にあると見ゑ[やぶちゃん注:ママ。] Hasselquist, op. cit., p. 196 に據ばシリアの鵂鶹[やぶちゃん注:「きうりう」。底本では「鶹」の部分は活字が無く、「▲」というひどい処理となっている(右ページ五行目)。初出・選集に従ったが、「鶹」の(へん)は「留」が正しい。] Strix otus 貪戾[やぶちゃん注:「たんれい」。欲深(よくぶ)かにして人の道に背くこと。]にして、夜窻を閉るを遺れたる[やぶちゃん注:「わすれたる」。]に乘じ、室に入て孩子[やぶちゃん注:「をさなご」。]を殺す、婦女之を怖るゝこと甚し、梟の巢に時として羽毛を混ぜる異樣の塊物あるを G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’ に記せるを見れば、其成分等は別に硏究する事として、兎に角倭漢共、梟が土を化して其子と成す(陸佃爾雅新義一七、古歌にも「梟の暖め土に毛がはえて、昔の情今の寇也」)と云るに、核子[やぶちゃん注:「たね」。]なきに非ず、鳥の形色を以て容易に雌雄を別つ可らざるや多し、故に一種の夜鳥、胸前の斑紋兩乳に似て、多少女人の相有るを純雌無雄とするも尤もにて(歐人「ヂユゴン」を遠望して海女となし Tennent, p. 68 兎の陰部異常なるより悉く兩性を兼ぬとし C. de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americaines,’ Cleves, 1772, p. 92 異物志、靈猫一體、自爲陰陽と謂ふ抔見合すべし)、之に件の鵂鶹嬰兒を食ふ事、土梟抱塊爲兒の語抔を和して、姑獲養人子の迷信を生ぜるやらん、邦土により、鳥が毛羽を人家中庭に落し、兒の衣中に置く位の事は屢なるべく、家外に露せる衣布、忽ち黴菌等を生じて、血點に酷似せる斑を生ずるは予も親く見たり、夜啼點血爲誌の語も、爪哇[やぶちゃん注:「ジヤワ」。]に、男女の魑魅、檳榔噬し[やぶちゃん注:「かみし」。]赤唾を人の衣に塗り汚す(Ratzel, ‘History of Mankind,’ trans. Butler, 1896, vol. i, p. 474)といふも之に基くならん、兎に角、支那の鳥類の精査遂られん日、必ず此誕[やぶちゃん注:「はなし」。]の由來を明知すべしと信ぜらる、ダイヤツク人、カミヤツク魔、鳥の如く飛で孕婦を害し子生まるゝを妨げ、クロアー魔は、胸の正中に一乳房のみ有り、兒產まるゝや否、來て其頸を摑み、之を不具にすと信ぜるも似た事なり(T. F. Beeker, “The Mythology of the Dyaks,” The Journal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol. iii, pp. 106, 113, 1849)、而して、鬼物が人の子を隱し養ひ、或は之を不具にし、或は醜くし、或は痴にするは此他例多し、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]等のフユヤリース希臘のネレイヅ(Hazlitt, vol. ⅰ, p.102 ; Bent, p. 14)、本邦の天狗(老媼茶話十七章、著聞集アコ法師の事)等也、惟ふに[やぶちゃん注:「おもふに」。]婦女が產褥に苦むは、所謂宍食た[やぶちゃん注:「ししくふた」。]報いで、誰を怨みん樣なしとは申せ、人間繁殖てふ大義務の爲に粉骨するものなれば、たとひ事遂ずとも、其社會の爲に盡すの功は、たしかに燦爛たる勳章を値す、以是、苗氏コラヷンバスクの諸民、產每に夫「クーヷード」して、妻と苦樂を俱にするの意を示し、北ボルネヲには、產死の女、極樂え[やぶちゃん注:ママ。]直ぐ通りとす(Ratzel,ⅱ,p.479)、但し男の身は苦まずして女のみ生死の境に出入すとは、至て割の惡い儀なれば、之が爲に命を殞せる[やぶちゃん注:「おとせる」。]者姑獲となり、「ウブメドリ」となり、啾々として夜哭し、他の安く子を擧たる婦人を羨んで、其母子に禍せんと欲すとは、理の詰んだ所も有る也、パンジヤブにて產死の女、チユレル魔となり、顏は女ながら甚怖しく、乳長くして肩上にかゝげ、反踵黑衣、長くて黑き兩牙あり、廢壘墓塚に住み、小兒を食ふ(Panjab Notes and Queries, vol. i, note 334)と傳え[やぶちゃん注:ママ。]、安南にて、吾兒を續け亡ひ、第六兒產んとて死せる女、白衣にして樹上に死兒を抱き、他の產室に入て流產せしむ(Landes, “Notes sur less Mœurs et Superstitions Populaires des Annamites,” Cochinchine Francaise, vol.ⅰ, p. 448, Saigon, 1880)と信ず、吾國又古くより產女靈の迷信ありしは、今昔物語卷十三、平季武之に値ふ[やぶちゃん注:「あふ」。]話あり、倭漢三才圖會卷六十七、鎌倉產女寶塔の談あり、耳袋中編に、產後死せる女、人に預たる嬰兒を抱きに來りし事を載す、肥後の人に聞けば、其地に「安からう」といふ怪あり、產婦の靈にして、雨夜に安かろうと呼ぶとこは難產を心配せし執念の殘りしと云ふ意か、蒼鷺など夜燐光を放つを、上に引ける倭漢三才圖會の文とくらぶるに、何にか、九州には夜燐光有て鳴聲宜しからぬ鳥あるを、產死の女靈に附會して「うぶめ」鳥の話を生ぜるにや有ん、小兒の衣類、何なりとも戶外に遺るゝときは、夜其兒安眠せず、又それに鳥糞掛るときは、出世を妨ぐとは、此邊にもいふことにして Bent, op.cit, p. 181 にも希臘のシキノス島にて、夜戶外に乾せし衣は、香爐にて薰べし[やぶちゃん注:「ふすべし」。]後ならでは、決して產婦と嬰兒に着せず、此島濕氣甚ければ、全く無稽の冗談に非じ、と云り、
[やぶちゃん注:底本はここで珍しく改行されている。これは初出でも同じである。但し、次の頭の字下げはご覧の通りないし、話として、ここで敢えて改行すべき理由も、私は見出せない。敢えて言うなら、話が夜泣きの咒(まじない)に少しずれるからであろう。パートとしては独立しているわけではないので、電子化は一緒にする。]
此邊にて小兒夜驚き啼くを防がんとて、今も玄米を撒く人あり、豆粒樣とて、甲冑着たる小き者來り襲ふが米を畏れて去ると也、昔よりの風と見えて、今昔物語二十七卷三十章[やぶちゃん注:底本は「卷十四十七章」であるが、全くの誤認であるので、「選集」で訂した。]に、「今は昔、ある人方違え[やぶちゃん注:ママ。]に、下京邊に幼兒を具して行けり、其家に靈有しを彼人は知ざりけり、幼兒の枕の上に火を近くとぼして、側に二三人計り寢たり、乳母は目をさまして、兒に乳を含めて居たりけるに、夜半計りに塗籠の戶を細目に開て、長[やぶちゃん注:「たけ」。]五寸許の男の裝束したるが、馬に乘て十人計り、枕の邊を渡りければ、乳母怖しと思乍ら、打撒[やぶちゃん注:「うちまき」。]の米を摑んで擲懸[やぶちゃん注:「なげかけ」]けるに、此渡る者共颯と[やぶちゃん注:「さと」。]散て失けり、打撒の米每に血付けり、幼き兒どもの邊りには、必打まきを置事也となん、語り傳たると也」と見ゆ、御伽草子の「一寸法師」に、一寸法師「或時みつ物のうちまきとり、茶袋に入れ、姬君の臥しておはしましけるに[やぶちゃん注:底本「おはじましける」。初出で訂した。]、謀[やぶちゃん注:「はかりごと」。]を運らし[やぶちゃん注:「めぐらし」。]、姬君の御口にぬる」ことあり、みつ物の打ちまきとは、姬君の父の領分より收むる貢米の落散たるをいひしにて、今俗にいふ「つゝを」米を指すか、然ば、米を打ちまきと云に、「つゝを」米と鬼に擲ち[やぶちゃん注:「なげうち」。]撒く二原意有りと思はる、豆穀を擲て鬼魅を奔らす事 Frazaer,‘Golden Bough’ 其他に、例多く擧げ、理由をも辨じたればこゝに繰り返さず、
[やぶちゃん注:「酉陽雜爼十六に云、鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬、秦中天陰有時聲、聲如力車鳴、或言是水鷄過也」原文はもっと続く。
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鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬。秦中天陰、有時有聲、聲如力車鳴、或言是水雞過也。
「白澤圖」謂之蒼鸆、帝嚳書、謂之逆鶬、夫子、子夏所見。寶歷中、國子四門助敎史逈語成式、嘗見裴瑜所注「爾雅」言、鶬糜鴰是九頭鳥也。
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鬼車鳥、相ひ傳ふ、「此の鳥、昔、十首有り、能く人の魂(たましひ)を收す。一首、犬に噬(か)まれたり。秦中、天、陰(くも)れば、時、有りて、聲、有り、聲、力車の鳴るがごとし」と。或いは是れ、「水雞(すいけい)の過ぐるを言ふなり」と。
「白澤圖」は、之れを「蒼鸆(さうぐ)」と謂ふ。帝嚳の書は、之れを「逆鶬(げきさう)」と謂ふ。夫子(ふうし)[やぶちゃん注:孔子。]、子夏と見らる。寶歷[やぶちゃん注:八二五年~八二六年。中唐末期。]中、國子四門助敎史たる逈(けい)、成式[やぶちゃん注:筆者段成式。]に語るに、『嘗つて見し裴瑜(はいゆ)の注せる「爾雅」に言ふに、「鶬は糜鴰(びかつ)、是れ、九頭の鳥なり」と』と。
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ここに出る「白澤圖」の「白澤」は聖獣の名。人語を操り、森羅万象に精通する。麒麟・鳳凰同様、有徳の君子ある時のみ姿を現すという。一般には、牛若しくは獅子のような獣体で、人面にして顎髭を蓄え、顔に三個、胴体に六個の眼、頭部に二本、胴体に四本の角を持つとする。三皇五帝の一人、医薬の祖とされる黄帝が東方巡行した折り、白澤に遭遇、白澤は黄帝に「精気が凝って物体化し、遊離した魂が変成したものはこの世に一万千五百二十種ある」と教え、その妖異鬼神について詳述、黄帝がこれと白澤の姿を部下に書き取らせたものを「白澤圖」という(偽書以外の何物でもない)。因みに、本邦では江戸時代、この白澤の図像なるものは、旅行者の護符やコロリ(コレラ)等の疫病退散の呪いとして、甚だ流行した。さて。私は実はこの十の頭(但し、一つは犬に食われて欠損しているか)を持つという如何にも中国大陸然とした過剰なハイブリッド妖鳥に、ある種の呆れを感じ(多けりゃ怖い的な物量至上主義はアメリカ軍と同じで心底、馬鹿にしたくなるのである)、あまり注する気が起こらないでいる。しかし、それでは今までのやっぱりマニアックになってしまった注と比して、ここのバランスが悪くなるので、やはり、注せずんばならずなのである。
まず、熊楠に物申したいのは、この「酉陽雜爼」に出る「水雞」は鳥のクイナ(鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ Rallus aquaticus或いはそれに似た同じ水辺にいる水鳥。次注参照)なんぞではないということである。「水」の中にいる「雞」(にわとり)のような味のする蛙のことである。則ち、この部分は、俗伝の中には「鬼車鳥なんていやしないよ! 蛙が鳴いて通り過ぎたのを化鳥の声と思っただけさ!」という否定論も含まれているということなのである(と私は読む、ということである)。
「鬼車鳥」及びそれと同類と思われる鳥の他の漢籍記載は、概ね、以上と変わらない。所持する東洋文庫訳注(今村与志雄訳。一九八一年刊。上の訓読は今村氏の現代語訳を参考にして独自に読んだものである)の注によれば、他の特異点は出口米吉のかの論文にも「梅園日記」の孫引きの形で引かれてある「北戸録」(「酉陽雑爼」の作者段成式の甥段公路の作)の「孔雀媒」記載で(原文全文を「中國哲學書電子化計劃」から丸ごと引いておく。但し、同書の影印画像で視認して電子化されたそれを敢えて字を正しておいた。下線は私が附した)、
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孔雀媒
雷羅數州收孔雀雛養之使極馴擾致於山野間以物絆足傍施網羅伺野孔雀至卽倒網掩之舉無遺者或生折翠羽以珠刀毛編爲簾子拂子之屬粲然可觀眞神禽也【又後魏書龜兹國孔雀羣飛山谷間人取養而食之字乳如鷄鶩其王家恒千餘隻】一說孔雀不【必疋】偶但音影相接便有孕如白鶂雄雌相視則孕或曰雄鳴上風雌鳴下風亦孕見博物志【又淮南八公相鵠經曰復百六十年變止雌雄相視目睛不轉而孕千六百年形定也又稽聖賦豪豕自爲雌雄缺鼻曾無牝牡卽雌兔䑛雄而孕是矣】又周書曰成王時方人獻孔鳥方亦戎別名山海經南方孔鳥郭璞注孔雀也宋紀曰孝武大明五年有郡獻白孔雀爲瑞者噫象以齒而焚麝因香而死今孔雀亦以羽毛爲累得不悲夫愚按說文曰率鳥者繫生鳥以來之名曰㘥字林音由今獵師有㘥也淮南萬畢術曰鴟鵂致鳥注云取鴟鵂折其大羽絆其兩足以爲媒張羅其旁衆鳥聚矣博物志又云鵂鶹休【留鳥】一名鴟鵂晝日無所見夜則目至明人截手爪棄露地此鳥夜至人家拾取視之則知有吉凶凶者輒更鳴其家有殃也莊子云鴟鵂夜撮蚤察毫末晝出冥目而不見丘山言性殊也陳藏器引五行書除手爪埋之戸內恐爲此鳥所得其鵂鶹卽姑獲鬼車鴞鵩類也姑獲玄中記云夜飛晝藏一名天帝少女一名夜行遊女一名隱飛好取人小兒食之今時小兒之衣不欲夜露者爲此物愛以血點其衣爲誌卽取小兒也又云衣毛爲鳥脫毛為爲女人昔豫章男子見田中有六七女人不知是鳥扶匐往先得其所解毛卽藏之卽往就諸鳥各走取毛衣飛去一鳥獨不去男子取爲婦生三女其母後使女問父知衣在積稻下得之衣而飛去後以衣迎三女兒得衣亦飛去鬼車一名鬼鳥今猶九首能入人屋收魂氣爲犬所噬一首常下血滴人家則凶荊楚歲時記夜聞之捩狗耳言其畏狗也白澤圖云昔孔子子夏所見故歌之其圖九首今呼爲九頭鳥也毛詩義䟽曰鴞大如鳩惡聲鳥入人家凶其肉甚美可爲炙漢供御物各隨其時唯鴞冬夏施之以美也禮内則曰鴞胖莊子云見彈求鴞炙陳藏器又云古人重其炙尙肥美也又按說文曰梟不孝鳥至日捕梟磔之如淳曰漢使東郡送梟五月五日作梟羮賜百官以其惡鳥故食之愚謂古人尙鴞炙是意欲滅其族非爲其美也又淮南萬畢術甑瓦止梟鳴取破甑向梟抵之輙自止也
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で、「毛詩義疏」(恐らく「隨志」の引用)には、鬼車鳥と同類と考えられる鴞(きょう)は鳩ぐらいの大きさで、『悪い声を出す。人家に入ると、凶である』としながらも、『その肉は、たいへん美味で、焼肉にしてよい』と俄然、実在する鳥の様相を示し、漢代に既に冬も夏も鴞の肉を供物として用意したが、それは一年を通して、『美味だからである』とあり、唐代の本草学者で明の李時珍の「本草綱目」にもよく引かれてある、陳蔵器は古人がこの鳥の炙り肉を好んだのは、脂が乗って『美味であることを尊んだのである』とあり、それは以上の原文からも判る。
さても! ここでは、もう禍々しい首だらけの怪鳥なんぞではない、鳴き声が厭な感じだけれど、実在する鳥であることが判る。それは「彼らに外ならない」でないか! 一応、ウィキの「鬼車」を引いてみようか。『中国に伝わる怪鳥』で、『東晋の小説集『捜神記』には「羽衣女」として、以下のように記述されている。江西省のある男が、数人の女を見つけた』。一『人の女の脱ぎ捨てた毛の衣があったので、男がそれを隠して女たちに近寄ると、女たちは鳥となって飛び去ったが、毛衣を隠された』一『人だけは逃げられなかった。男は彼女を妻とし、後に子供をもうけた。後に女が隠されていた毛衣を見つけ、鳥となって飛び去り、さらに後に別の衣を持って子供たちを迎えに来て、皆で鳥となって飛び去った』。『西晋代の書『玄中記』によれば、この羽衣女が後に「鬼車」と呼ばれるようになったという』(いやいや! 何で私の好きな「捜神記」の羽衣伝説マンマのしみじみした話が、何で! 九頭の醜い凶鳥になるんでしょうか? と聴きたいのだよ!)。『『太平御覧』には、斉の国(現・山東省)に頭を』九『つ持つ赤い鳥がおり、カモに似て』、九『つの頭が皆』、『鳴くとある』。『唐代の『嶺表録異』によれば、鬼車は』九『つの頭を持つ鳥で、嶺外(中国南部から北ベトナム北部かけて)に多くいるもので、人家に入り込んで人間の魂を奪う。あるとき』、『頭のうちの一つを犬に噛まれたため、常にその首から血を滴らせており、その血を浴びた家は不幸に苛まれるという』。『『正字通』では「鶬虞(そうぐ)」の名で記述されている。「九頭鳥(きゅうとうちょう)」ともいい、ミミズクの一種である鵂鶹(きゅうりゅう)に似たもので、大型のものでは』一『丈あまり(約』三『メートル)の翼を持ち、昼にはものが見えないが、夜には見え、火の光を見ると目がくらんで墜落してしまうという』(いやいや! それって! フクロウ・ミミズク類、そのマンマでしょうが!?!)『南宋代の書『斉東野語』では、鬼車は』十『個の頭のうちの一つを犬に噛み切られ、人家に血を滴らせて害をなすという。そのために鬼車の鳴き声を聞いた者は、家の灯りを消し、犬をけしかけて吠えさせることで追い払ったという』。『また、鬼車とはまったく別の伝説として、人の子供を奪って養子にするといわれる神女「女岐(じょき)」がある。『楚辞』には「女岐は夫もいないのになぜ』九『人もの子供がいるのか」とあり、この言い伝えが前述の『捜神記』での鬼車と子供にまつわる話と習合し、さらに「九子」が「九首」と誤って伝えられたことから、鬼車が』九『つの頭を持つ鳥として伝えられたものと見られている』。『前述の『玄中記』では、これらの鬼車、羽衣女、女岐の伝承を統合した形で「姑獲鳥(こかくちょう)」という鬼神として記載されているため』、『書籍によっては鬼車が姑獲鳥の別名とされていることもある』。『頭の』一『つは犬に噛まれたのではなく、周王朝の宰相・周公旦の庭師に撃ち落されたという説もある』とある。
私の憤懣は増大するばかりである。私が不満たらたらなのは、とどのつまりは、こうした中国で形成された畸形醜悪の「鬼車鳥」が何で我らの「七草粥」の穏やかな習俗に強引に結合してしまいったのかという点にあり、しかも、その凶鳥の声も姿も古文では語られていない不審(鬼車鳥が本邦の妖怪伝承の潮流の中で全く進化していない点)にあるわけだ。私はその原因こそが、「多頭」性にあると睨んでいる。日本人には、この手の「コレデモカ・ハイブリッド」系妖怪は人気が出ないのである。正直、鳥の本体に十も九つも頭があっては、怖いどころか、滑稽なだけだからだ。しかも、犬に弱いときたもんだってえの!
小学館「日本国語大辞典」には、「鬼車」を立項するも、『頭が九つあり、幼児をさらうとされる想像上の妖鳥。「易経―睽卦[やぶちゃん注:「けいけ」。]」の「載二鬼一車一」の句による名という。鬼車鳥。』とあるだけだ。この解説、何も我々に有益な情報を与えて呉れてはいない。「何でそうなるの?!?」という痛切な期待を完全に裏切っている。
しかし、賢明な諸君は、もう、お判りだろう、「鬼車鳥」の正体、その実在が。
私の乏しい知識から考える「鬼車鳥」論を示す。
「鬼」は元来、中国語では既に示した通り、幎冒(べきぼう)を被せた「死者」の姿を表わす。死者以上でも以下でもない。本来は人の遺体である。しかし、されば、それは冥界の存在をシンボルライズする。「車」は「廻(めぐ)る」物である。人の死者の顔のように見えるもので、人の頭部とは異なり、ぐるりと車のように背後の方まで廻るのである。冥界は夜の闇に通ずる。夜の闇の中に跳梁し、不気味な人の顔のようなもので、ぐるりと回る顔のような「鳥」である。そ奴は家の中にも侵入する。家の中は屋根裏を含む。そうだ――これはフクロウやミミズクに他ならないのだ。十の首とは、古代人には足を動かさないで首だけを動かすとは思うことが出来ないから、十方に顔があるとしたのだ。しかし実際には彼らは真後ろは流石に向けない。そんな背後からの彼らを見た者が、そこに全数からマイナス一が生じた。それがしょぼくも犬に食われたとする一つの首だ。また、或いは、その妖鳥の魔力を事前に封ずる手だてとして、弱点としてのマイナス一を加え、而して絶対最大の陽数である「九」を「鬼車鳥」そのもののなかに負のシステムとして組み込んだのだとも言えるのかも知れない。彼らの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」及び、続く「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照されたい。
最後に、鬼車鳥を吸収合併して、本邦では消失させてしまった、張本人と思われる強力な日本の妖鳥のそれを示して、終わりとする。本文前の冒頭注でも触れた、そう、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」である。私の言いたいことはそちらで言い尽くしている。まさか「オオミズナギドリ」がモデル鳥というのも、誰も考えちゃあ、いないだろうから、どうぞ! そちらをお読みあれかし!!!
「水鷄は Vanellus cristatus Mey. et Wolf. (Möllendorff, “The Vertebrata of the Province of Chihi,” The Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society, New Series ⅩⅠ, Shanghai,1877, p. 97)」熊楠が参考にしたのは、ドイツの言語学者で外交官であったパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff 一八四七年~一九〇一年:十九世紀後半に朝鮮の国王高宗の顧問を務め、また、中国学への貢献でも知られ、満州語のローマ字表記を考案したことでも知られる。朝鮮政府での任を去った後、嘗ての上海で就いていた中国海関(税関)の仕事に復し、南の条約港寧波の関税局長官となり、そこで没した)が書いた、河北省の脊椎動物についての論文である。「Vanellus cristatus」はチドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属タゲリ Vanellus vanellus のシノニムである。全長約三十二センチメートル。長い冠羽をもった大型のチドリで、ヨーロッパからシベリア南部にかけてのユーラシア大陸の中緯度地方で繁殖し、冬は少し南へ移動する。日本には主に冬鳥として渡来するが、石川・新潟・福井・茨城などでは少数が繁殖している。頭上・後頸・背・翼は黒く、光沢がある。上尾筒は橙栗色で、尾は基部が白く、先が黒い。翼の下面は風切が黒く、雨覆は白色で対照が著しい。鳴き声は猫のように怪しい。サイト「サントリーの愛鳥活動」の「タゲリ」で聴くことが出来る。そこには、『翼は金属光沢のある緑黒色。頭には後方へ伸びるかざり羽があり』、『「ミューウッ」あるいは「ミャーッ」と聞こえる猫の鳴き声に似た声を出』すとし、『冬鳥として北方から渡って来て、積雪のない地方で冬枯れの田んぼの刈りあとや』、『湖沼畔に群れを』作り、『飛ぶときは丸みのある翼をフワフワとはばたかせ、白と黒の模様をあざやかに浮き立たせ』るとある。私は熊楠のように「鬼車鳥」の正体がタゲリだとは思わない。しかし、この鳴き声、空中をふわふわと人魂のように飛ぶ白黒のそれは、不吉な霊魂の象徴、冥界の禍々しい鳥と名指されても、必ずしも違和感は抱かないとは言っておこう。因みに、イギリスでは本種群を不吉な鳴き声の鳥として「wandering jew」(彷徨えるユダヤ人)という差別的呼称が残っている。
「鵺」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)」を参照されたい。なお、ここで熊楠は、文脈上は妖獣としてのそれを念頭に置いている。
「Knox,‘An Historical Relation of the Island of Ceylon,’ 1681, p. 78」イギリス東インド会社に属したイギリス海軍大尉ロバート・ノックス(Robert Knox 一六四一年~一七二〇年)が現地に赴いた際の記録に基づくもの。原本を綺麗に電子化したものが「gutenberg」にあるのを発見、少し手間取ったが、その「The Devil’s Voice often heard.」と頭書する条に、
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This for certain I can affirm, That oftentimes the Devil doth cry with an audible Voice in the Night; ’tis very shrill almost like the barking of a Dog. This I have often heard my self; but never heard that he did any body any harm. Only this observation the Inhabitants of the Land have made of this Voice, and I have made it also, that either just before or very suddenly after this Voice, the King always cuts off People. To believe that this is the Voice of the Devil these reasons urge, because there is no Creature known to the Inhabitants, that cry like it, and because it will on a sudden depart from one place, and make a noise in another, quicker than any fowl could fly: and because the very Dogs will tremble and shake when they hear it; and ’tis so accounted by all the People.
This Voice is heard only in Cande Uda, and never in the Low Lands. When the Voice is near to a Chingulaye’s house, he will curse the Devil, calling him Geremoi goulammah, Beef-eating Slave be gone, be damned, cut his Nose off, beat him a pieces. And such like words of Railery, and this they will speak aloud with noise, and passion, and threatning. This Language I have heard them bestow upon the Voice; and the Voice upon this always ceaseth for a while, and seems to depart, being heard at a greater distance.
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とあるのが、当該部である。
「Fr.Jordanus,‘Mirabilia descripta,’ trans.Yule, 1863, p. 37」著者はインドに於ける最初の司教カタラーニ・ジョルダヌス(Catalani Jordanus 一二八〇年頃~一三三〇年頃)。当該書の「Internet archive」のここの右ページに、
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- What shall I say then? Even the Devil too there speaketh to men, many a time and oft, in the night season, as I have heard.
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とある。
「ユール」前書の英訳者で、イギリスの軍人にして東洋学者であったヘンリー・ユール(Henry Yule 一八二〇年~一八八九年)。以下のそれは、上記のページにある彼の注の後半に現われる。
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The notion of catching Shaitan without any expense to Government was a sublime piece of Anglo-Indian tact, but the offer was not accepted. Our author had, however, in view probably the strange cry of the Devil-bird, as it is called in Ceylon. "The Singhalese regard it literally with horror, and its scream by night in the vicinity of a village is bewailed as the harbinger of impending calamity." " Its ordinary note is a magnificent clear shout, like that of a human being, and which can be heard at a great distance, and has a fine effect in the silence of the closing night. It has another cry like that of a hen just caught ; but the sounds which have earned for it its bad name, and which I have heard but once to perfection, are indescribable, the most appalling that can be imagined, and scarcely to be heard without shuddering; I can only compare it to a boy in torture, whose screams are stopped by being strangled." Mr. Mitford, from whom Sir E. Tennent quotes the last passage, considers it to be a Podargus or night-hawk, rather than the brown owl as others have supposed. (Tennenfs Nat. Hist. of Ceylon, 246-8.)
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「ミトフヲード」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)か。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在した人物としても知られる。
「童子が經せられて」「選集」でも『経(けい)せられて』とあるが、これは上記原文の「I can only compare it to a boy in torture」の部分で、「torture」は「折檻・拷問」であるから、「經」ではおかしい。これは思うに、熊楠の誤記か誤植(但し、初出も「經」ではある)であって「縊(くびくくり)せられて」で「首を絞められること」の意ではあるまいか? 「縛」でも何でもいいが、「息絕ゆるまで苦吟する如く、悽愴極りて聞くに堪ず」なのだから、私はそれで採りたいわけである。
「テンネント」「Tennent, ‘Sketches of Natural History of Ceylon,’ 1861, pp.246-8」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る。「THE "DEVIL BIRD"」の挿絵もある。そのフクロウの絵の前後に、
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The Singhalese regard it literally with horror, and its scream by night in the vicinity of a village is bewailed as the harbinger of impending calamity.
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「古え錫蘭を虐治せし兄王キスツアカン、鬼車と同く十頭ありしと云は奇遇頗る妙也(James Low,in the Jouynal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol.iv. p. 203, Singapore, 1850)」作者は正しくはジェームス・リチャードソン・ローガン(James Richardson Logan 一八一九年~一八六九年)で、イギリスの弁護士で民俗学者。インドネシアやマレー半島の民俗を調べ、「インドネシア」という語を広めた人物でもある。「Internet archive」の原本のここ(右ページの改行された段落の冒頭部)に、
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The freed soul of Nontheok fell down to the earth, and was born again under the form of a Rakhsha. In process of time he was horn again as Kistsakan or Ravan, the ten handed tyrant of Ceylon styled Lanka.
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と確かにある。
「ミンチラ人が信ずるハンツ、サブロ(獵師鬼)は、湖及川の淵に棲み、體黑く、黑口と名たる三犬を隨ふ、此犬人家に近けば、住人は木片を打ち大噪ぎしてこれを驅り、小兒を緊く抱いて其去るを俟つ、マレー人が傳ふるソコム鬼、行くときは「ベリベリ」鳥先づ飛ぶ、此鳥、家に近くとき、家内聲限りに喧呼して之を厭す(Ibid.,vol.ⅴ, p. 308)」「Internet archive」の当該巻を調べたが、見つからない。他の巻も縦覧してみたのだが、お手上げ。ちょっと癪に触っている。
「姑獲が事は、倭漢三才圖會に本草綱目を引て、一名夜行遊女、又天帝少女鬼神類也云々荆州多有之、衣毛爲鳥、脫毛爲女人、是產婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子、養爲己子、凡有小兒家、不可夜露衣物、此鳥夜啼、以血點之爲誌、兒輙病云々謂之無辜癇也、蓋此鳥純雌無雄、七八月夜飛害人、而して著者寺島氏之を西國海濱に多してふ「ウブメドリ」に宛て、九州人謂云、小雨闇夜、不時有出、其所居必有燐火、遙視之狀如鷗而大、鳴聲亦似鷗、能變爲婦、携子、遇人則請負子於人、怕之迯則有憎寒、壯熱甚至死者、强剛者諾負之、則無害、將近人家、乃背輕而無物、未聞畿内近國狐狸之外如此者と述ぶ」まあ、結局、こうなるとは思っていた。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」から私の訓読を全部引いておく。
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うぶめどり 夜行遊女
天帝少女
乳母鳥 譩譆(いき)
姑獲鳥 無辜鳥(むこてう)
隱飛(いんひ)
鬼鳥(きてう)
鉤星(こうせい)
タウフウニヤ◦ウ
「本綱」、鬼神の類なり。能く人の魂魄を收(をさ)む[やぶちゃん注:捕る。]。荊州[やぶちゃん注:湖北省。]に多く、之れ、有り。毛を衣(き)て飛鳥と爲り、毛を脫(ぬ)げば、女人と爲る。是れ、産婦、死して後(のち)、化して作(な)る。故に胸の前に兩乳、有り。喜(この)んで人の子を取り、養ひて己(わ)が子と爲す。凡そ、小兒有る家には、夜(よる)、兒の衣物(きもの)を露(あら)はにするべからず。此の鳥、夜、飛び、血を以つて、之れに㸃じ、誌(しるし)と爲す。兒、輙(すなは)ち、驚癇及び疳病を病む。之れを「無辜疳(むこかん)」と謂ふなり。蓋し、此の鳥、純(もつぱ)ら、雌なり。雄、無し。七、八月の夜、飛びて、人を害す。
△按ずるに、姑獲鳥は【俗に云ふ、「産婦鳥(うぶめ)」。】、相ひ傳へて曰はく、「産後、死せば、婦、化する所なり」と。蓋し、此れ、附會の說なり。中華にては荊州、本朝にては西海の海濵に多く、之れ、有りといふときは、則ち、別に、此れ、一種の鳥たり。最も陰毒の因りて生ずる所の者ならん。九州の人、謂ひて云はく、「小雨(こさめふ)り、闇(くら)き夜、不時に[やぶちゃん注:不意に。]出づること、有り。其の居(を)る所、必ず、燐火[やぶちゃん注:鬼火。青白い妖しい火。]あり。遙かに之れを視るに、狀(かたち)、鷗(かもめ)のごとくにして、大きく、鳴く聲も亦、鷗に似る。能く變じて婦と爲り、子を攜(たづさ)へて、人に遇ふときは、則ち、人に子を負(をは)せんことを請ふ。之れを怕(おそ)れて迯(に)ぐれば、則ち、憎(にく)み、寒・壯熱、甚だしくして死に至る者、有り。强剛の者、諾(だく)して、之れを負ふときは、則ち、害、無し。將に人家に近づくに、乃(すなは)ち、背、輕くして、物、無し。未だ畿内・近國には、狐狸の外、此くのごとき者を聞かず。
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「吾國には例無き事なれど、實際梟族が嬰兒を殺すこと世にあると見ゑ」当然です。フクロウは猛禽類ですから。
「Hasselquist, op. cit., p. 196」(2)に既出既注。
「鵂鶹」(きゅうりゅう)」「ふくろう(梟)」の古名として本邦でも古くから用いられ、古語では「いひどよ(いいどよ)」とも訓じた。なお、現代中国では、フクロウ目フクロウ科フクロウ目スズメフクロウ属ヒメフクロウ Glaucidium brodiei の異名にこの漢字を当てている。されば、分布域その他は中文の同種のウィキを参照されたい。本邦には棲息しない。
「Strix otus」フクロウ科トラフズク属トラフズク Asio otus のシノニム。本邦にも基亜種トラフズク Asio otus otus が棲息する。名前で判る通り、耳角を持つ。
「梟の巢に時として羽毛を混ぜる異樣の塊物ある」鳥類学用語の「ペレット・ペリット」(pellet)のこと。猛禽類や一部の鳥類などが、消化出来ない骨・羽・毛などを纏めて吐き出した塊り。ウィキの「ペリット」がよい。
「G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’」イギリスの牧師で博物学者のギルバート・ホワイト(Gilbert White 一七二〇年~一七九三年)が書いた、私の愛読書の一つである「セルボーンの博物誌」。彼はハンプシャーの小村セルボーンに生まれ、そこで副牧師を務める傍ら、少年時代から興味を持っていた博物学の研究に殆どの時間を費やし、その成果を約二十年間に亙って、博物学者トマス・ペナント(Thomas Pennant 一七二六年~ 一七九八年)と動物学者デインズ・バリントン(Daines Barrington 一七二七年~一八〇〇年)に送り続けた。彼らとの親交は、ホワイトの弟ベンジャミン(Benjamin)が博物学書の出版を手掛けていたことによるものであった。後に両者に送られた書簡を纏め、一七八九年にベンジャミンの手で出版された。ウィキの「ギルバート・ホワイト」によれば、『流麗な文体と鋭い観察眼とを兼ね備えた『セルボーンの博物誌』は、博物誌の古典として今日まで受け継がれており、「たとえ英国が滅びても本書は永遠に残るだろう」と称えられることもあった』。『その特徴は、当時の標本主義の博物学とは対称的に、鳥や植物、昆虫などの生態や自然景観の観察を、当地の歴史や山彦、日時計、田舎の迷信といった風土とともに記録した点にある』。十八世紀から十九世紀にかけて『牧師らが』、『その居住地域の博物誌をまとめる習慣が流行したが』、その中でも『ホワイトの著作だけが古典となった所以でもある』とある。
「陸佃爾雅新義一七」陸佃(りくでん 一〇四二年~一一〇二年)は北宋の博物学者で、王安石の弟子。主に動植物について解説した博物辞書「埤雅」(ひが)で知られる。当該書の指示するそれは、以下(「中國哲學書電子化計劃」の原本画像から起こした。そこに電子化されている文字列(機械判読で話にならないひどいものである)は致命的に誤っている)。
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怪鴟梟鴟
長而食母悖類反倫可謂怪塞曩梟首木上一名土梟土梟抱塊爲兒其遭食有以也所謂酉莒人滅鄙鄶如此一名土梟[やぶちゃん注:以下略。]
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「梟の暖め土に毛がはえて、昔の情今の寇也」天明期を代表する文人で狂歌師として知られる大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)が著したものを、後に文宝堂散木が補した、南畝没後の文政八年に刊行した随筆「仮名世説」(かなせせつ)の「上」に(吉川弘文館「日本随筆大成 第二期 第二巻」を所持するが、ここでは「古典籍ビューア」のこちらで視認して起こし、句読点や記号を施し、段落を成形した)、
*
支唐禅師は、源子和が父の方外の友なり。諸國行脚の時、出羽國より同宗の寺あるかたへゆきて、其寺にしばし滯留ありしに、庭前に椎の木の大なるが朽て、半より、をれ殘りたり。一日、住持、此木を、人して、掘とらせけるに、朽たるうつろの中より、雌雄の梟、二羽、出て、飛さりぬ。其跡をひらきみるに、ふくろふの形を、土をもて作りたるが、三つ、有。
其中に、ひとつは、はやくも、毛、少し生て、啄(クチバシ)、足(アシ)ともに、そなはり、すこし、生氣も、あるやうなり。三つともに、大さは、親鳥程なり。
住持、ことに怪しみけるに、禅師のいはく、
「これは、聞及びたる事なりしが、まのあたり見るは、いと、めづらし。古歌に、
ふくろふの あたゝめつちに 毛がはへて
昔のなさけ いまのあだなり
と、此事を、いひけるものなるべし。梟は、みな、土をつくねて、子とするものなり。」
と。
住持も、禅師の博物を、感ぜり。
*
私はこの古歌の出典を知らぬ。ただ、ここで注する以前に、以上は知っていた。それは、私の芥川龍之介の手帳の電子化注の「芥川龍之介 手帳3―7」で以上を示したことがあるからである。原拠を御存じの方は是非、お教え願いたい。
『歐人「ヂユゴン」を遠望して海女となし Tennent, p. 68』既注の「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る。ジュゴン(哺乳綱海牛(ジュゴン)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon )の挿絵も添えてある。
「兎の陰部異常なるより悉く兩性を兼ぬとし C. de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americaines,’ Cleves, 1772, p. 92」ウサギの♂♀の生殖器が幼年の場合に判別が至難であることは、かなり知られている(ウサギを飼ったことがない私でも聴き及んでいるから)。「アニコム損害保険株式会社」公式サイト内の「みんなのどうぶつ病気大百科」の「うさぎさんの繁殖生理学」によれば、『慣れた人であれば生後』二『ヶ月頃で生殖器の形から』、『うさぎさんの性別の判断も可能ですが、一般的にはとても難しいといわれています』。『男の子の場合は、女の子に比べると』、『肛門と陰部の距離が離れていて、陰部の形が丸く見えます。一方、女の子は肛門と陰部の距離が男の子に比べると近く、陰部が丸ではなく、やや細長く見えます』。『生後』三『ヶ月を過ぎると、男の子は包皮をお腹側にやさしく押すことでペニスを確認できますが、やはり慣れていないと難しいので、動物病院などで確認していただくと良いでしょう』。『なお』、六『ヶ月を過ぎると』、『睾丸が降りてくるので、はっきりと区別がつきます』とある。コーネリアス・フランシスクス・デ・パウ(Cornelius Franciscus de Pauw 一七三九年~一七九九年)はオランダの哲学者・地理学者で外交官。書名は「アメリカ人に関する哲学的研究」か。
「異物志、靈猫一體、自爲陰陽と謂ふ」「異物志」は後漢の広東出身の政治家楊孚(ようふ 生没年未詳)の書いた地誌。但し、これは明の李時珍の「本草綱目」の孫引き。その巻五十一上の「獸之二」にある「靈貓」の「集解」に、
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藏器曰、靈貓生南海山谷。狀如貍自爲牝牡、其隂如麝。功亦相似。按「異物志」云、「靈貓一體自爲隂陽、刳其水道連囊以酒洒隂乾、其氣如麝。若雜入麝香中罕能分别用之亦如麝焉」。
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とある。「靈貓」は食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae のジャコウネコ類。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を見られたい。但し、熊楠はアンドロギュヌス(雌雄同体)に惹かれて、ここに出したものと思われ、あんまり関係ない気がする。
「家外に露せる衣布、忽ち黴菌等を生じて、血點に酷似せる斑を生ずるは予も親く見たり」粘菌の王者南方熊楠ならではの実体験! いいね!!!
「夜啼點血爲誌」「本草綱目」の巻四十九の「禽四」「姑獲鳥」の項の「集解」にある、
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凡有小兒家不可夜露衣物。此鳥夜飛以血㸃之爲誌、兒、輒病驚癎及疳疾謂之無辜疳也。
(凡そ、小兒有る家、夜、衣物(きもの)を露(さら)すべからず。此の鳥、夜、飛(とびきた)つて、血を以つて、之に㸃じて、誌(しるし)と爲(な)す。兒、輒(すなは)ち、驚癎及び疳疾を病む。之れを「無辜の疳」と謂ふなり。)
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の一節であるから、「啼」ではなく、「飛」が正しい。「選集」では訂してある。「無辜の疳」とは言い得て妙だ。小児自身の内因性・心因性の疾患ではなく、子に責任のない、干しっぱなしにした親に重大な責任がある外因性の「疳の虫」だという優れた鑑識だからである。さても、この際だから、この「姑獲鳥」の項の次の次(間に「治鳥」(私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 治鳥(ぢちやう) (実は妖鳥「冶鳥(やちょう)」だ!)」を是非、参照されたい)とその附録の「獨足鳥」という妖鳥が入る)に出る、今まで抜粋だった「本草綱目」の「鬼車鳥」も全文をちゃんと示しておこうじゃないか。原文(句読点・記号は私が附した)・訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)風月莊左衞門板行版の画像を視認し、参考にした(訓読では従っていない部分も多い。また、読みは独自に推定で歴史的仮名遣で附した)。太字は底本では囲み罫。
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鬼車鳥【「拾遺」。】
釋名 鬼鳥【拾遺「拾遺」。】九頭鳥【同上。】蒼鸆【「白澤圖」。】竒鶬【時珍曰、鬼車妖鳥也。取周易載鬼一車之義。似鶬而異。故曰竒鶬。】
集解【蔵器曰、鬼車晦暝則飛鳴。能入人家收人魂氣。相傳、此鳥昔有十首、犬囓其一猶餘九首。其一常滴血。血着人家則凶。荆楚人夜聞其飛嗚但滅燈打門捩狗耳以厭之。言其畏狗也。「白澤圖」、蒼鸆有九首。及孔子與子夏見竒鶬。九首皆此物也。「荆楚歲時記」、以爲姑獲者非矣。二鳥相似故同名鬼鳥。時珍曰。鬼車狀如鵂鶹而大者翼廣丈許。晝盲夜瞭。見火光輒墮。按劉恂「嶺表錄」云、鬼車出秦中而嶺外尤多。春夏之交稍遇陰晦、則飛鳴而過。聲如刀車鳴。愛入人家鑠人魂氣。血滴之家必有凶咎。「便民圖」云、冬月鬼車夜飛鳴。聲自北而南。謂之出巢。主雨。自南而北、謂之歸巢。主晴。周密「齊東野語」云、宋李壽翁守長沙。曾捕得此鳥。狀類野鳬赤色、身圓如箕。十頸環簇有九頭、其一獨無而滴鮮血。每頸兩翼、飛則霍霍並進。又周漢公主病。此鳥飛至砧石卽薨。嗚呼、怪氣所鍾、妖異如此。不可不知。
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鬼車鳥【「拾遺」。】
釋名 「鬼鳥」【拾遺「拾遺」。】・「九頭鳥」【同上。】・「蒼鸆」【「白澤圖」。】・「竒鶬」【時珍曰はく、鬼車は妖鳥なり。「周易」に鬼一車の義を載すといふ。鶬に似て異なり。故に「竒鶬」とも曰ふ。】
集解【蔵器曰はく、鬼車、晦暝なるときは、則ち、飛び鳴く。能く人家に入りて人の魂氣を收(をさ)む。相ひ傳ふ、此の鳥、昔、十首、有り、犬、の其一を囓みて、猶、九首を餘す。其の一、常に血を滴らす。血、人家も着くときは、則ち、凶なり。荆楚の人、夜、其の飛び嗚くを聞けば、但だちに、燈を滅(け)し、門を打ち、狗(いぬ)の耳を捩(ねぢ)りて、以つて之れを厭(まじな)ふ。言(いは)く、其れ、狗を畏るるなりと。「白澤圖」に、蒼鸆、九首有りと。及び、孔子、子夏と竒鶬の九首あるを見ると。皆、此の物なり。「荆楚歲時記」に、以て姑獲と爲すは、非なり。二鳥、相ひ似たり。故に同じく鬼鳥と名づく。時珍曰、鬼車、狀(かたち)、鵂鶹のごとくして、大なる者の翼の廣さ、丈許り。晝、盲(めしひ)し、夜、瞭なり。火光を見て、輒(すなは)ち、墮つ。按ずるに、劉恂が「嶺表錄」に云はく、鬼車、秦中に出づ、嶺外に尤も多し。春夏の交にして稍(やうや)く陰晦(いんかい)に遇ふときは、則ち、飛び鳴きして過(よ)ぐ。聲、刀車[やぶちゃん注:時珍の「力車」の誤記か誤写ではあるまいか?]の鳴るがごとし。人家に入ることを愛(この)みて、人の魂氣を鑠(とか)す。血の滴れる家、必ず、凶咎(きようきう)有り。「便民圖」に云はく、冬月、鬼車、夜、飛び鳴く。聲、北よりして、南す。之れを「出巢」と謂ひ、雨を主(つかさど)る。南よりして北す。これを「歸巢」と謂ひ、晴を主る。周密が「齊東野語」に云はく、宋の李壽翁、長沙に守となる。曾(かつ)て此の鳥を捕へ得(う)。狀、野鳬(のげり)に類(るゐ)して赤色、身、圓(まどか)にして、箕(み)のごとし。十頸、環簇(くわんぞく)して[やぶちゃん注:輪のように連なって群がり。]、九頭有り、其の一、獨り無くして鮮血を滴らす。頸每(ごと)に兩翼あり、飛ぶときは、則ち、霍霍(かくかく)として[やぶちゃん注:砥石でシュッシュッと音を立てて研ぐような音を立てて、或いは鋭角になって、の意か。]並び進む。又、周漢の公主、病ひす。此の鳥、飛びて砧石(きぬたいし)に至りて、卽ち、薨ず。嗚呼(ああ)、怪氣の鍾(あつま)れる所や、妖異、此くのごとし。知るべからず。
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「檳榔」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の実。長楕円形を成し、長さ五センチメートル前後で熟すとオレンジ色・深紅色となる。ウィキの「ビンロウ」によれば、『檳榔子を噛むことはアジアの広い地域で行われている。檳榔子を細く切ったもの、あるいはすり潰したものを、キンマ』(双子葉植物綱クレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属キンマ Piper betle )『の葉にくるみ、少量の石灰と一緒に噛む。場合によってはタバコを混ぜることもある。しばらく噛んでいると、アルカロイドを含む種子の成分と石灰、唾液の混ざった鮮やかな赤や黄色い汁が口中に溜まる。この赤い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので吐き出すのが一般的である。ビンロウの習慣がある地域では、道路上に赤い吐き出した跡がみられる。しばらくすると軽い興奮・酩酊感が得られるが、煙草と同じように慣れてしまうと感覚は鈍る。そして最後にガムのように噛み残った繊維質は吐き出す』。『檳榔子にはアレコリン(arecoline)というアルカロイドが含まれており、タバコのニコチンと同様の作用(興奮、刺激、食欲の抑制など)を引き起こすとされる。石灰はこのアルカロイドをよく抽出するために加える』。『檳榔子には依存性があり、また国際がん研究機関(IARC)はヒトに対して発癌性(主に喉頭ガンの危険性)を示すことを認めている』。地面や『床に檳榔子を噛んだ唾液を吐き捨てると、血液が付着したような赤い跡ができ、見るものを不快にさせる。そのためか低俗な人々の嗜好品として、近年では愛好者が減少している傾向にあ』り、『台湾では現在、道路に檳榔子を噛んだ唾液を吐き捨てると罰金刑が課せられるため』、公道は概ね清潔になった、とある。
「Ratzel, ‘History of Mankind,’ trans. Butler, 1896, vol. i, p. 474」ドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本。「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページにある、
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The countless portents of death point to a life passed in a state of fear ; to these belong, among the Dyaks, the sight or the cry of an owl, snakes coming into the house, the falling of a tree in front of any one, a singing in the left ear, but most especially an abrupt change of mood.
Invisible spirits fill up the gaps which intervene in the substances of visible things. To them belongs in Javanese superstition the great race of the Jurigs ; when the other spirits have left a spot unoccupied you may be certain of finding Jurigs. They become visible only occasionally as tigers or fiery serpents, actually they are evil spirits. A milder form is found in the Ganderuva and Veves, who are equally indigenous to Java; mischievous cobolds, male and female, who torment men invisibly, most commonly by throwing stones, but also by bespattering their clothes with saliva dyed red by betel-chewing. Resembling both these the Begus are conspicuous among the Battaks, all the more that their spirit world is otherwise completely embodied. They are like a breath or bodiless air, to them belong the invisible spirits of disease, the only visible Begu is the dreaded Nalalain, the spirit of strife and murder, who may be seen creeping about in the evening with fiery eyes, long red tongue, and claws on his hands. Apparently resembling him is Swangie the most dreaded of the Burungs of Halmahera, the evil one who creeps on the earth. The Begus even try to take possession of corpses, and the incessant word -strokes of the Ulubelang or champions who surround the coffin in a funeral procession, are directed against them.
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が当該部である。「betel-chewing」が「キンマを噛むことで」の意である。
「ダイヤツク人、カミヤツク魔、鳥の如く飛で孕婦を害し子生まるゝを妨げ、クロアー魔は、胸の正中に一乳房のみ有り、兒產まるゝや否、來て其頸を摑み、之を不具にすと信ぜるも似た事なり(T. F. Beeker, “The Mythology of the Dyaks,” The Journal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol. iii, pp. 106, 113, 1849)」「Internet archive」で原本を見ることが出来、「106」はここで、丁度、右手中央の段落から下部までがそれで、「ダイヤツク人」の綴りは「the Dyaks」で「ダヤク族(Dayak/Dyak)はボルネオ島に居住するプロト・マレー系先住民の内でイスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称である。以下、「カミヤツク魔」は「第二の悪者」と称して「Kamak」とあり、「クロアー魔」の方はこちらの「113」の頭に出、「kloā」である。
「フユヤリース」fairies。妖精(英語:fairy/faery)の複数形。語源はラテン語「fata」(運命)に由来する。
「ネレイヅ」ネレイス。ギリシア神話で海に棲む女神ら或いはニュムペー(ニンフ)らの総称。
「Hazlitt, vol. ⅰ, p.102 」既出既注のイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。
「Bent, p. 14」既出既注のイギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここ頭。初行に出る「Nereids」がネレイスの英訳。
「老媼茶話十七章」作者は松風庵寒流或いは三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名が「松風庵寒流」)を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」。三坂春編は三坂大彌太(だいやた)とも称した会津藩士に比定されている。私は完全電子化注をカテゴリ「怪奇談集」で終えている。「老媼茶話巻之三 天狗」を、どうぞ。
「著聞集アコ法師の事」「古今著聞集」の巻第十七の「變化第二十七」の「御湯殿の女官高倉が子あこ法師失踪の事」。
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これも建保[やぶちゃん注:一二一三年~一二一九年。]の比、御湯殿(みゆどの)[やぶちゃん注:清涼殿の西北にあった帝の湯浴み所。]の女官(によくわん)高倉が子に、七歳になる「あこ法師」といふ小童(こわらは)ありけり。家は樋口高倉にてありければ、ちかぢかに小童部(こわらはべ)あそびともなひて、小六条へ行にけり。かいくらみ時(どき)[やぶちゃん注:夕暮れ時。]に、小六条にて、
「相撲(すまひ)とらん。」
とて、ねりあひたるところに[やぶちゃん注:ゆっくりと寄り合ったところが。]、うしろの築地(ついぢ)のうへより、なにとは見えわかず、垂布(たれぬの)のやうなるものの、うちおほふ、と見えける程に、この「あこ法師」、うせにけり。おそろしきこと、かぎりなし。かたへの童部、みな、にげぬ。恐れをなして、人にも、かくとも、いはず。
母、さはぎかなしみて、いたらぬ所もなく求むれども、見えず。
三日といふ夜の夜半ばかりに、女官が門を、ことごとく、たゝくもの、あり。恐れあやしみて、左右(さう)なくあけずして、内より、
「たそ。」
と問ふに、
「うしなへる子、とらせん。あけよ。」
と、いふ。
猶ほ、おそろしくて、あけず。
さるほどに、家の軒(のき)に、あまた、聲して、
「はあ。」
と、わらひて、廊(らう)の方(かた)に、物をなげたりけり。
おそろしながら、火をともしてみれば、げに、うしなへる子なりけり。
なへなへとして[やぶちゃん注:ぐったりとしてしまって。]、いける物にもあらず、物もいはず、ただ、目ばかり。しばたゝきけり。
驗者(げんざ)・よりまし[やぶちゃん注:「憑坐」。靈を移しとるための少女。]など、すゑて、いのるに、物、多く、つきたり。みれば、馬のくそなりけり。三たらひばかりぞ、ありける。
されども、なほ、物いふこともせず。
「よみがへり」のごとくにて、十四、五ばかりまでは、生きてありし。
「その後(のち)、いかがなり侍りけん。」
と、その時、見たりける人の、かたり侍しなり。
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「苗氏コラヷンバスクの諸民、產每に夫「クーヷード」して、妻と苦樂を俱にするの意を示し」「苗氏」はミャオ族。中国国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々はタイ・ミャンマー・ラオス・ベトナムなどの山岳地帯に住む。自称はモン族。「クーヷード」ウィキの「男のつわり」によれば、『未開社会では、妻が妊娠すると男性が産褥(出産用の寝床)につく真似をする風習をともなう地域があり、couvade』(クーバード。英語。)『(擬娩、擬産)と呼称される』とし、『妻が妊娠すると』、『夫の身体の調子が悪くなることをいう。福島県では「トモクセ」、岩手県沿岸地方では「男のクセヤミ」といい、ひどい人は妊婦と同じく汗をかいて衰弱し、嘔吐をもよおしたりもするが』、『妻の出産が終わると治る。「病んで助けられるのはクセヤミばかり」という民俗語彙もある。岩手県岩手郡では「クセヤマイ」、長野県下伊那地方では「アクソノトモヤミ(悪疽の共病み)」、奈良県高市郡地方では「アイボノツワリ」と呼ぶところがある』とあった。私は二十代の頃に読んだ、人類学の本で、ニューギニア辺りであったか、夫が実際の妻の産屋とは別に同じ形の贋の産屋を作り、そこで夫が出産の苦痛の叫びを挙げて、魔物を惑わすという同様の風習があることを読んだ(写し書きしたのだが、そのメモ帳自体が残念なことに書庫の底に沈んで出てこない)。これは、前にも書いた通り、民俗社会では、一つの人体に二つの魂が宿っている妊婦の状態は、魔物が侵入しやすい危険な状態と認識されるからで、非常に腑に落ちるのだが、本邦にも心因性の病的な状態として夫に起こるというのは初めて読んだ。興味深い。
「北ボルネヲには、產死の女、極樂え[やぶちゃん注:ママ。]直ぐ通りとす(Ratzel,ⅱ,p.479)」既出既注のドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本。「Internet archive」の英訳原本のこちらの右ページ中央やや下にある一節。
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For this reason, also, in North Borneo some sago palms are felled for every person who dies, and the wine which the living drink at the funeral feast serves equally for his refreshment. The man who commits robbery and murder without reason is punished there if he has died without undergoing a penalty, and punished too by being pierced with a lance by another soul. But the souls of all those who have lost their lives by a spear wound or in any other violent, manner, as well as women who have died in child-birth, arrive at a more desirable place, the residence of the gods. The Malagasies hold that their souls go into the air or on to the mountain, Ambongdrombe in the Betsileo country, which excites fear with its cloud-wrapped summit and the roaring of the storms. In their language we find echoes of a better hereafter; dead people are said to have gone to rest, among the Hovas indeed to have become divine.
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太字部分が当該する。
「反踵」「はんしよう(はんしょう)」。初生児に見られる概ね先天性の奇形に外反踵足(がいはんしょうそく)がある。足が外側に捩じれるように変形している。
「廢壘墓塚」「はいるいぼちよう(はいるいぼちょう)」。崩れた古い砦や墓や塚。
「安南」ヴェトナム。
「Landes, “Notes sur less Mœurs et Superstitions Populaires des Annamites,” Cochinchine Francaise, vol.ⅰ, p. 448, Saigon, 1880」フランス人でベトナムの管理官であったアントニ・ランデス(Antony Landes 一八五〇年~一八九三年)が一八八二年に刊行した「アンナンに於ける民俗と一般的迷信についての記録」。南方熊楠は「本邦に於ける動物崇拜」の「海豚(イルカ)」の条で引用している。
「今昔物語卷十三、平季武之に値ふ話あり」既に『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』の私の注で電子化してあるので参照されたい。
「倭漢三才圖會卷六十七、鎌倉產女寶塔の談あり」「相模」の部の「大巧寺(だいぎやうじ)」の一節。所持する原本から訓読して電子化する。〔 〕は私が附した読み。
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大巧(ぎやう)寺 妙隆寺近處に在り。【法華。】 寺領七貫二百文。
當寺、初めは眞言宗にて、大行寺と號す。而るに、日蓮、妙本寺に在りし時、法華と成る。日澄上人を以つて、開山と爲す。卽ち、妙本寺の院家なり。
産女(うぶめ)の寳塔 堂内に在り。一間四面、二重の塔。
相ひ傳ふ、當寺第五世日棟上人、毎夜、妙本寺の祖師堂に詣でて、或夜、夷堂橋の傍らより、産女の幽靈(ゆうれい)出でて、日棟の廻向を乞ふ。日棟、之れの爲めに廻向す。産女、䞋金〔しんきん〕一包を投じ、之れを謝す。日棟、用ひて、造立する所の塔なり。
曼荼羅 三幅。共に日蓮の筆【祈禱の曼荼羅・瓔珞〔やうらく〕の曼荼羅・星降〔ほしくだり〕の曼荼羅。皆、珍寳と爲す。】
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「䞋金」は施しのための金。ここでは、自身の廻向をして呉れたことへの謝礼の布施。この一連の説話については、大功寺公式サイトの「沿革」に詳細な現代語の「産女霊神縁起」(PDF別ファイル)がある。一読をお薦めする。しかし、この記載は、どうにも、しょぼ過ぎる。鎌倉史を手掛けている私としては大いに不満がある。私の水戸光圀の「新編鎌倉志卷之七」から、私の注も併せて丸ごと引き添えておく(リンク先は私の古い仕儀なので一部で表記を変えた)。
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〇大巧寺 大巧寺(ダイギヤウジ)は、小町の西頰(ニシガハ)にあり。相ひ傳ふ、昔は長慶山正覺院大行寺と郷し、眞言宗にて、梶原屋敷(カジハラヤシキ)の内にあり。後(ノチ)に大巧寺と改め、此の地に移すとなり。梶原屋敷の條下に詳かなり。昔し日蓮、妙本寺在世の時、此の寺法華宗となり、九老僧日澄上人を開山とし、妙本寺の院家になれり。今二十四世なり。寺領七貫二百文あり。棟札に、延德二年二月廿一日とあり。
[やぶちゃん注:「梶原屋敷の内にあり」とあるのは「後に」「此の地に移す」で分かるように、この寺は元は十二所の梶原屋敷内にあった。寺伝によれば、源頼朝がこの十二所の大行寺で軍評定をして合戦に臨んだところ勝利を得たことから寺号を大巧寺と改め、その後にこの地に移転したとある。]
產女(ウブメ)の寶塔(ホウタフ) 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を「産女の寶塔」と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、每夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(エビスダウバシ)の脇より、產女の幽魂出て、日棟に逢ひ、廻向に預つて苦患を免(マヌカ)れ度(タ)き由を云ふ。日棟これが爲に廻向す。產女、䞋金一包(ヒトツヽミ)を捧げて謝す。日棟、これを受て、其の爲に造立すと云ふ。寺の前に產女幽魂の出たる池、橋柱(ハシバシラ)の跡と云て、今、尚、存す。夷堂橋の少し北なり。
寺寶
曼荼羅 三幅 共に日蓮の筆。一幅は、「祈禱の曼荼羅」と云ふ。「病則消滅 不老不死」の八字を書加ふ。日蓮、房州小湊(コミナト)へ還(カヘ)り、七十餘歳の老母に逢ふ。老母、頓死す。日蓮、悲哀にたへずして祈誓す。「弘法(グハフ)の功、むなしからずば、再び母の命(イノチ)を活(イカ)し給へ」と念じ了(ヲハ)つて此を書す。たちまちに氣を吐いて、よみがへる。命延ぶること、四年也、と云傳ふ。經文は散書(チラシガキ)也。妙本寺にも、是、あり。一幅は、「瓔珞の曼荼羅」と云ふ。上に瓔珞あり。一幅は「星下(ホシクダ)りの曼荼羅」と云ふ。日證、此を庭前の靑木に掛て日天子を禮す。時に、星下る。故に名く。其の靑木、今、猶を存す。
[やぶちゃん注:「妙本寺にも是あり」私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の「曼陀羅」の項に、日蓮の「臨滅度時の御本尊」と呼称される十界曼荼羅の画像を示してある。参照されたい。「瓔珞」は珠玉を連ねた首飾りや腕輪を言う。本来はインドの装身具であったが、仏教で仏像を荘厳しょうごんするための飾り具となり、また寺院内の蓮台などの宝華(ほうけ)状の荘厳全般をも指し、ここでは天蓋からぶら下げるタイプのものを指しているか。なお、上記の大巧寺公式サイトによれば、現在この二幅は本山の妙本寺霊宝殿に寄託されており、うち一幅が日蓮聖人による御真筆とされ、大巧寺が真言宗から日蓮宗に改宗した際のものと思われる、とある。そこには弘安二(一二七九)年のクレジットがあるらしい。「星下り」流れ星の出現は日蓮の奇瑞としてもしばしば語られている。]
無邊行菩薩の名號 壹幅 日蓮の筆。
[やぶちゃん注:「無邊行菩薩」日蓮宗や法華宗で言う「法華経」に登場する四菩薩(四士とも)の一人。上行(じょうぎょう)・無辺行・浄行・安立行(あんりゅうぎょう)。彼らは特殊な菩薩で、菩薩行の修行者ではなく、既に悟達した如来が末法救済のために再び再臨した大菩薩とされている。]
日蓮の消息 壹幅
曼荼羅 壹幅 日朗の筆。
舍利塔 壹基 五重の玉塔なり。
[やぶちゃん注:これは高さ約三十センチ程の、産女霊神神骨を収めたとされる水晶の五輪塔。非公開であるが、上記大巧寺公式サイトに画像がある。]
已上
濵名(ハマナ)が石塔 北條氏政(ホウデウウヂマサ)の家臣、濵名(ハマナ)豐後の守時成(トキナリ)、法名妙法、子息蓮眞、母儀妙節、三人の石塔なり。
[やぶちゃん注:「北條氏政」(天文七(一五三八)年~天正十八(一五九〇)年)は戦国期の相模国の大名で後北条氏の第四代当主。武田信玄の娘婿で、武田義信・武田勝頼は義兄弟。父氏康の後を継ぎ北条氏の関東での勢力拡大に務めたが、豊臣秀吉との外交策に失敗、小田原の役を招いて最後には降伏、切腹した。「濵名豐後の守時成」については、ネット上に大巧寺の譜代旦那であったこと、現在の横須賀市にあった相模国三浦郡森崎郷に関わって、天正三(年二月十七日附の浜名時成証文写が現存し、「今度三浦森崎郷永代致買得候」とあり(「神奈川県史」による)、更に時成はこの森崎郷を買い取った後、鎌倉大巧寺に永代寄進しているという。さればこそ彼とその家族の墓がここにあるのも頷ける。]
番神堂(バンジンダウ) 濵名(ハマナ)時成建立すと云ふ。
[やぶちゃん注:「番神堂」とは三十番神を祀った堂のこと。三十番神は神仏習合の本地垂迹説による信仰で、毎日交替で一ヶ月(陰暦では一ヶ月は二十九か三十日)の間、国家や民を守護し続けるとされた三十柱の神仏を指す。鎌倉期に流行し、特に日蓮宗で重要視された。]
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因みに、この寺(「おんめさま」の通称で知られる)は、私の父が幼少の頃、初めて鎌倉に来た折り、この本堂に間借りさせて貰ったという貧しい時代の藪野家には甚だ因縁の深い寺なのである。さればこそ、敢えて詳しく添えた。
「耳袋中編に、產後死せる女、人に預たる嬰兒を抱きに來りし事を載す」紛らわしい書き方しておくれな、熊楠センセ! これは巻之二の「幽靈なしとも難極(きはめがたき)事」でんがな! 「耳囊」は江戸の南町奉行(寛政一〇(一七九八))年として名奉行の名の高い旗本根岸鎭衞(しづ(ず)もり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)が書いた十巻全一千話からなる随筆で、私は六年弱かけて二〇一五年に全話の電子化訳注を終わっている。
『肥後の人に聞けば、其地に「安からう」といふ怪あり、產婦の靈にして、雨夜に安かろうと呼ぶとこは難產を心配せし執念の殘りしと云ふ意か』不思議なことに、どこにも見つからない。何らかの方法で記録を残しておかないと、忘れ去られてしまう。ご存知の方は、是非、御情報を戴きたい。ここに追記したく思う。
「蒼鷺など夜燐光を放つ」「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事」の私の注で考証し、幾つかの怪談もリンクさせてあるので、そちらを読まれたい。なお、古くより怪を成すと誤認(真正の鷺の妖怪譚・怪奇譚は江戸以前のものでも――哲人の如く黙想しているかのように佇んでいる彼らにして予想外かも知れないが――実は極めて少ないのである)されたものは、「蒼鷺」とあっても、それは現在のペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi ではなくて、サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax であることが多い。
「Bent, op.cit, p. 181 にも希臘のシキノス島にて、夜戶外に乾せし衣は、香爐にて薰べし後ならでは、決して產婦と嬰兒に着せず、此島濕氣甚ければ、全く無稽の冗談に非じ、と云り」既出のイギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、原本の当該ページはここ。
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For many days to come no one is allowed to enter the house after sunset, and mother and babe are strictly forbidden to wear clothes which have been exposed to the stars unless they have been fumigated by a censer. There is something practical in this rule, for in damp Sikinos everything that is exposed to the night air becomes impregnated with moisture.
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『今昔物語二十七卷三十章に、「今は昔、ある人方違えに、下京邊に幼兒を具して行けり、……』「今昔物語集」巻第第二十七の「幼兒爲護枕上蒔米付血語第三十」(幼(をさな)き兒(ちご)、護らんが爲めに枕上(まくらがみ)に蒔く米に、血(ち)、付く語(こと)第三十)。「□」は欠字。
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今は昔、或る人、方違(かたたが)へに下邊(しもわたり)[やぶちゃん注:下京附近。]なりける所へ行きたりけるに、幼き兒を具したりけるに、其の家に、本(もと)より靈有りけるを知らで、皆、寢(ね)にけり。
其の兒の枕上に、火を近く燃(とも)して、傍らに、人、二、三人許り寢たりけるに、乳母(めのと)、目を悟(さま)して、兒に乳(ち)を含めて、寢たる樣(やう)にて見ければ、夜半許りに、塗籠(ぬりごめ)の戶を細目に開けて、其より長(たけ)五、六寸許りなる、五位(ごゐ)共(ども)の、日(ひ)の裝束[やぶちゃん注:束帯姿。]したるが、馬に乘りて、十人許り次(つづ)きて、枕上より渡りけるを、此の乳母、
『怖ろし。』
と思ひ乍ら、「打ち蒔きの米(よね)」を、多らかに搔(か)き爴(つか)みて、打ち投げたりければ、此の渡る者共、
「散(さ)」
と、散りて、□□失にけり。
其の後(のち)、彌(いよい)よ怖しく思ける程に、夜(よ)暛(あ)けにければ、其の枕上を見ければ、其の投げたる「打ち蒔きの米」每(ごと)に、血なむ、付きたりける。
『日來、其の家に有らむ』[やぶちゃん注:予定では、その家での「方違え」は数日に及ぶはずだったのである。]
と思ひけれども、此の事を恐れて、返りにけり。
然(しか)れば、
「幼き兒共(ちごども)の邊(ほとり)には、必ず、『打ち蒔き』を爲すべき事也。」
とぞ、此れを聞く人、皆、云ひける。亦、
「乳母の心の賢くて、『打ち蒔き』をばしたる也。」
とぞ、人、乳母を讚めける。
此れを思ふに、知らざらむ所には、廣量(くわうりやう)して[やぶちゃん注:うっかりとして。]、行き宿りすべからず。世には此(かか)る所も有る也、となむ語り傳へたるとや。
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実際、京の市街はおろか、内裏の中でさえも、古くからゴースト・スポットが意想外に甚だ多くあったことは御承知の通りである。しかし、私は、この枕元を過ぎて行く「小人の五位の行列」となると、即座に私の偏愛する「病草紙(やまひのさうし)」(絵巻。平安末から鎌倉初期頃に描かれた詞書附きの疾患や治療法を描いたもので、作者未詳)の、一般に「小法師の幻覚を生ずる男」と通称される一枚を真っ先に思い出してしまう(ネットにはいい画像がないね。yamasan氏の「桃山日記」の「病草子を読む その2」のこちらのブログ主のキャプション入りの画像をリンクさせておく)。さすれば、怪しくて「危険が危ない」のはマイクロ五位ゴブリンなんぞではなくして、この乳母自身である。視覚的幻覚を見るのは、かなり進行した統合失調症の可能性が高い。この童子も彼女のためにどうなったものか……判らぬぞ……
『御伽草子の「一寸法師」に、一寸法師「或時みつ物のうちまきとり、……』一寸法師の本格展開のプレ部分。岩波古典文学大系版を参考にして示す。一寸法師のゴブリン的な悪巧み部分で、元を読まれたことのない方は、結構、一寸法師が嫌いになるやも知れぬ(正直、私はこれで大学時代に「御伽草子」は嫌いになったのを思い出す。演習で一年掛かりで「物くさ太郎」だけを延々と講義されたのも別な原因の一つである)。
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かくて年月送る程に、一寸法師、十六になり、せいはもとのまゝなり。さる程に、宰相殿に、十三にならせ給ふ姬君おはします。御かたちすぐれ候へば、一寸法師、姬君を見奉りしより思ひとなり、
『いかにもして、案をめぐらし、わが女房にせばや。』
と思ひ、ある時、みつものゝうちまき取り、茶袋に入れ、姬君の臥しておはしけるに、はかりことをめぐらし、姬君の御口(おくち)にぬり、さて、茶袋ばかり持ちて、泣きゐたり。
宰相殿、御覽じて、御尋ねありければ、
「姬君の、わらはが、このほど、取り集めて置き候(さふらふ)うちまきを、取らせ給ひ、御參り候。」
と申せば、宰相殿、大きに怒らせ給ひければ、案のごとく、姬君の御口に、つきてあり。
「まことは。いつはりならず。かかる者を都に置きて何(なに)かせん。いかにも、失(うしな)ふべし。」
とて、一寸法師に仰せつけらるる。一寸法師、申しけるは、
「童が物を取らせ給ひて候ほどに、とにかくにもはからひ候へとありける。」
とて、心のうちにうれしく思ふこと限りなし。姬君は、ただ、夢の心地して、あきれはててぞおはしける。
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この「みつ物のうちまき」の「みつ物」はよく判らない。岩波では『みつきもの(貢物)の誤りか』と頭注(市古貞次校注)する。さすれば、次の注と連結する。
『「つゝを」米』現代仮名遣「つつおごめ」。「筒落米」。年貢米は「サシ米」(刺米・差米・指米)と呼ばれた品質検査を行った。竹筒の先を斜めに切った「サシ」と呼ばれる道具を用い、これを米俵へ突き挿し、その竹筒へ零れ入った米を調べた。その検査の後の、竹筒の米や、その作業の途中で俵から零れ落ちた米を「つつを米」と呼んだ。熊楠はその現実風俗としての落ち零れ散る米に、鬼を打ち払うために撒き散らす米という呪的機能が「今昔物語集」の話にも、「一寸法師」のそれにも(後者はその意味が二重に顕在化しており、このシークエンスの直後に奇体な島へ姫と二人して向かい、鬼退治が行われるのである)掛けてあるのを、甚だ興味深い、非常な古えより魔除けとして米を散布する習慣があったことを指示しているのである。この米の霊力「稲霊(いなだま)」のそれを用いた咒(まじな)いは、既に「源氏物語」にも見られるのである。
「Frazaer,‘Golden Bough’」イギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」(The Golden Bough)。私の愛読書の一つである。]