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2021/01/30

奥州ばなし とら岩 /(富塚半兵衞)/(貞山公鶉の話) / 「奥州ばなし」~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:以下、最終標題パートであるが、前段と同じく連関性のない二話(但し、後ろの二話は和歌関連で親和性がある)が「とら岩」の標題下以下に、底本では一行空けで組まれてあり、最後に馬琴の写本した旨の辞と署名がある。ところが、「目錄」を見ると、「とら岩幷ニ冨塚半兵衞 貞山公鶉の話」となっている。されば、仮に「富塚半兵衞」及び「貞山公鶉の話」としておいた。]

 

     とら岩

 

 とらいは道辨《だうべん》と云し、外療《げりやう》、有《あり》き。寬政年中のことなるべし。大力・大男の元氣ものなりし。甥の若生(わかう)、時ならず、麻上下《あさかみしも》を着して來りしをとがめ、

「何故の禮服ぞ。」

とゝふ。若生曰、

「今日、劍術の傳授すみし、かへりがけなり。」

といふを聞《きき》て、道辨、打わらひ、

「我は長袖のことゆゑ、武藝はかつてまねばねども、その方如きの、小ひやう・非力の者に、まけてはをられじ。傳授と有《ある》は、こと、をかし。」

と、あざけりしかば、若生も、さすが、傳授もうけし身の、かくあざけられては、聞《きき》のがしがたし、とや思《おもひ》つらん、

「さあらば、こゝろみに、立合《たちあひ》て御覽あれ。我方《わがかた》よりは、そなたを打《うち》申《まうす》まじ。われを、一打、うたれなば、まけとせん。」

と、いひしかば、道辨は、

「いざ。おもしろし。」

と庭にとびおり、棒をふつてかゝるに、さすが、傳授をゆるされしほど有《あり》て、うけやう、しごく巧者《かうしや》にて、うてども、うてども、身にあたらず、

「まつかう、みぢん。」

と打《うつ》棒を、隨分、よくうけとめけるを、道辨、

「こゝぞ。」

と力をいだし、かさにかかゝりて、おしたりしかば、こらへかねて、ひしげしとぞ。

 道辨、悅《よろこび》、

「さぞあらんと、思ひしことよ。」

とて、上《あが》りしとぞ。

 

[やぶちゃん注:「とらいは道辨」不詳。「虎岩」か。とすると、岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)3」に「虎岩吉兵衛」・「虎岩善兵衛」・「虎岩八兵衛」という名を見出せるから、この虎岩一族の者ではあろう。次男以下で、武士をやめて、医師となったものか。

「外療」外科医。

「寬政」一七八九年~一八〇一年。

「若生(わかう)」岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)1」に、「執槍隊小人」の中に「若生作蔵」が、「周旋方」の中に「若生文十郎」の名が見える。前者か。

「麻上下」麻布で作った単(ひとえ)の裃(かみしも)。江戸時代の武士(或いは庶民)の出仕の際の通常の礼装である。

「長袖」袖括(そでぐく)りをして鎧を着る武士に対して、長袖の衣服を着ているところから公卿・神官・僧・医師・学者などを指す。長袖者 (ちょうしゅうしゃ)という謂い方もある。

「まつかう、みぢん。」「眞向(まつかう)、微塵(みぢん)。」。「額の真ん中を粉微塵にしてくれるわ!」。

「かさにかかゝりて」「嵩(かさ)に懸かりて」一瞬の優勢に乗じて攻めかかって。

「ひしげし」「拉(ひ)げし」体を押されて地面に倒れて潰されてしまった。]

 

    (富塚半兵衞)

 

 忠山公の御代に、富塚半兵衞といふ人、有し。親は寄人《よりうど》にて、あまた、よみつめたりしを、子なる半兵衞は不精ものにて、常にはよまねど、花のをり、月見の夜《よ》などには、

「父の子なれば。」

とて、うた人《びと》の内に入《いり》て、題を給はれば、とがめなく、よみて出《いだ》したりしを、かたはらより、

「父の、おほくよみたる中《うち》を見出《みいだし》て、さし出すならん。」

と云《いひ》あへりしとぞ。

 或としの秋、十五日、例の如くよみて、さしいだせしを、そこなる人の中《うち》より、

「そこのよまれしといふうたは、父のよみ置《おき》しふる哥《うた》にはあらずや。」

と云出《いひいだ》したりければ、半兵衞、取あへず、其人の袖をひかへて、

  かゝる時思ひぞ出《いづ》る大江山いくのゝ道の遠きむかしを

といひし故、人々のうたがひ、はれて、まことによめるうたなることゝは思ひしとぞ。

 時にとりては、よく思《おもひ》よりたりし。

 この人、いつたい、おどけものにて、打《うち》むかへば、おのづから、人にゑみをふくませしとぞ。

 身まづしく、物にかまはぬかたより、居《ゐ》やしきのめぐりも、荒《あれ》がちなりしを、さることを、いましむる役人の方《かた》より、

「垣《かき》、ようせよ。」

と、たびたび、いはれしとぞ。其いひふるゝ人も、したしう、きかよふ中《なか》なりつれど、おほやけのこと故、しばしば、ことあげせし事にぞ有ける。

 ある日、わたくしに、其人の來りし時、酒などのみて、扨《さて》、あるじ、書《かき》て出《いだ》したりき。

  わがやどのくものすがきもあらがきも貧のふるまひかねてしるしも

 

[やぶちゃん注:「忠山公」既出既注。第六代藩主伊達宗村(むねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。在任は寛保三(一七四三)年から亡くなるまで。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。

「富塚半兵衞」岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)3」に「富塚半兵衞」の名が見出せる。

「寄人《よりうど》」ここは藩主付きの和歌担当の者(右筆や諸雑務も行ったか)の謂いであろう。

「取あへず」すぐに。

「取あへず、其人の袖をひかへて」「かゝる時思ひぞ出《いづ》る大江山いくのゝ道の遠きむかしを」「小倉百人一首」にある和泉式部の娘の小式部内侍の一首、

 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立

に関わるエピソードを、動作とともに、オツに返したものである。この話は説話集「古今著聞集」(伊賀守橘成季編。(建長六(一二五四)年頃に原型成立)の「巻第五 和歌」に抄入された「小式部内侍が大江山の歌の事」や、作者不詳の「十訓抄」(じっきんしょう)の「第三 不可侮人倫事」(「人倫、侮(あなど)るべからざる事」)に載るすこぶる知られた話で、ここは先行する後者(「十訓抄」の一本の序には建長四(一二五二)年のクレジットがある)で示しておく。底本は一九四二年岩波文庫刊永積安明校訂を用いた。一部に句読点と推定で読みを追加し、段落を成形した。

   *

 和泉式部、保昌(やすまさ)【右大臣致忠(むねただ)息、大納言民部卿元方(もとかた)孫。】が女にて、丹後に下りけるあとに、歌合どものありけるを、小式部内侍、歌よみにとられて、歌をよみけるに、定賴【公任卿子。】の中納言、たはぶれて、小式部内侍有(あり)けるに、

「丹後へ遣はしける人は參りたりや。いかに心もとなくおぼすらむ。」

と云入(いひいれ)て、つぼねの前を過(すぎ)られけるを、御簾(みす)より、なから計(ばかり)出(いで)て、わづかに袖をひかへて、

   大江山いくのゝみちのとをければ

   まだふみもみずあまのはしだて

と、よみかけゝる。

 おもはずに、あさましくて、

「こはいかに。かゝるやうやは、有(ある)。」

と計(ばかり)いひて、返歌にもおよばず、袖をひきはなちて、にげられけり。

 小式部、これより、歌よみの世に、おぼえ、出來(いでき)にけり。

 これは、うちまかせて、理運(りうん)のことなれども、彼(かの)卿の心には、『これほどの歌、たゞいま、よみいだすべし』とは、知られざりけるにや。

   *

注するのも失礼乍ら、老婆心で言い添えておくと、定頼の台詞は「代わりにお母上に歌を詠んで貰うために、丹後にお遣わしになった者は、もう、帰って参られましたか。いやいや、使いが帰るのが、さぞかし、待ち遠しく、じれったくお思いのことでしょうなぁ。」という厭味である。一首については、「いくのゝみち」が現在の京都市福知山市の「生野(いくの)」或いは「幾野」で「幾つもの野」に掛けられており、さらに「行く」にも掛けられていると読むべきであり、「ふみ」は「文」(手紙)と「踏み」の掛詞となっており、「踏み」の方は橋の縁語とされる。正確な歌枕や地名の読み込み及び下句の倒置表現などを以って、定頼の戯言(ざれごと)を一撃のもとに退けた彼女の才覚は驚異的である。

「時にとりては」その時に当たって。絶妙のタイミングで。

「いつたい」副詞。元来。

「いひふるゝ」「言ひ觸るる」。ここは「かなりしつこく何度もそのことに言及する」の意。

「したしう、きかよふ中《なか》」「親しく、來通ふ仲」。

「おほやけのこと」藩中での公の場の中で、しばしば彼の家の荒れ方が武家の面目上、問題であるとして批判されていたことを示す。

「ことあげ」「言上げ」。殊更に言葉に出して言い諌めること。

「わたくしに」公務としてはなく、プライベートに遊びに来たことを言う。

「わがやどのくものすがきもあらがきも貧のふるまひかねてしるしも」「我が宿の蜘蛛の巢搔き荒垣も貧(ひん)の振舞ひ予(か)ねて著(しる)しも」「巢搔き」は「蜘蛛が巣を掛けること」或いは「その蜘蛛の巣」を指す。「荒垣」に応じて「素垣(すがき)」(竹などで編んだ隙間の多い粗末な垣根)も掛けていよう。――私の蜘蛛の巢だらけの家、荒れ果てた粗末な素垣も垣根も、皆、予てよりの吾らの清貧の標(しるし)に外ならぬのです――の謂いか。和歌嫌いの私でも、いい感じがする。]

 

    (貞山公鶉の話)

 

 貞山公、昔、戰《いくさ》の有し頃、京におはせしに、鳥屋《とりや》の見世《みせ》に立《たち》よらせ給《たまひ》て、よき「うづら」の有しを、

「これは、いかほどのあたひぞ。」

と問《とは》せられしかば、鳥屋のをとこ、『今ぞ、高直《かうじき》に申《まうす》べき時』とや思つらん、

「五十兩なり。」

と申上《まうしあげ》りしを、聞《きか》せ給て、

  立《たち》よりてきけば鶉の音《ね》はたかしさてもよくにはふけるものかな

と、たゞごとに、のたまはせしを、鳥屋、聞て、大《おほき》にはぢて、あたひなしに奉りしとぞ。【解云、このうづらの歌を、あるものには、堀田侍從のよし、いへり。いまだ孰《いづれ》か是(よき)をしらず。「藩翰譜」、堀田の譜を參考すべし。】[やぶちゃん注:馬琴の頭注。]

 

   天保壬辰歲杪立春五日、以原本比校畢

                蓑笠漁隱

 

[やぶちゃん注:「貞山公」かの戦国大名にして仙台藩初代藩主伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)のこと。彼の戒名は「瑞嚴寺殿貞山禪利大居士」。

「戰の有し頃、京におはせしに」知られた上洛は、文禄二(一五九三)年、豊臣秀吉の「文禄の役」に従軍した折りである。ウィキの「伊達政宗」によれば、『従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった』。三千名或いは千五百名の『軍勢であったとの記録がある。ほかの軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来、派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった』といういわく付きの出来事であった。

「鳥屋の見世」鳥を売る店。知ったかぶって「鳥屋」(「塒」とも書く)を「とや」と読んではいけない。「とや」は「鳥小屋」・「鶇(つぐみ)などの小鳥を狩りの際に罠を仕掛けて待つために山中や谷間に設けた小屋」・「鷹の羽が夏の末頃から抜け始めて、冬までに生え替ること(これはその時期に巣に籠るところからかく言う)」・「歌舞伎の劇場で花道の揚げ幕の内部にある花道への出入りの際の控えの小部屋」・「旅回りの役者などが不入りなどで次の土地に出発出来ずに今の場所に居続けになること」・「遊女が梅毒で引き籠ること(転じて「梅毒」をも指す)」といった意味の語で、これだけ多様な意味がありながら、「小鳥屋」の意はないからである。

「うづら」鶉。キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。今はあまり馴染みのない鳥であるが、古く「古事記」や「万葉集」の歌に詠まれ、卵だけでなく、成鳥自体を食用にした(平安時代に既に本種の調理法を記した書物があるという)のみならず、ペットとして飼育された歴史も古い。「言繼卿記」(ときつぐきょうき:戦国期の公家山科言継の日記。大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の凡そ五十年に渡るもの。但し、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能及び戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料とされる)によれば、室町時代に既に籠を用いて本種を飼育していた記載があり、江戸時代には、武士の間で、鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長(一五九六年~一六一五年)から寛永(一六二四年~一六四五年:慶長との間には元和(げんな)が挟まる)をピークとして、実に大正時代まで流行した。また、別に鳴き声を日本語に置き換えた「聞きなし」として「御吉兆」などがあって、珍重されることもあった。されば、ここで政宗が鶉を求めようとしたこと、法外の吹っ掛けとは言え、小鳥屋の主人が「五十兩なり」と言ったのも、真実味を持って受け取れよう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照されたい。

「立よりてきけば鶉の音《ね》はたかしさてもよくにはふけるものかな」前の「富塚半兵衞」の末尾の清「貧」と対称となっていて面白い。言わずもがな、「ね」は「音」と「値」に掛けてあるわけだが、ふと思うたのは、上の句の掛詞の面白さを考えると、下の句で、「さても欲には耽るものかな」そのままでは芸がないことになる。これは――ふと、さる御屋敷に立ち寄って、鶉の高く鳴く声を聴いたが、さてもさても、音(ね)のみでその姿が見えない。いやいや、そうか、能(「よく」)ぞ庭(「には」)に「ふけ」(「ふける」には「身を隠す」の意がある)たものであることよ――の意を表に装っているのではないかと考えた。鶉の特に♀は叢に溶け込みいやすい保護色をしている。また、叢の根元に産む卵もまた、その表面の色や模様が外敵から卵を守る多様な保護色となっていることはよく知られており、「身を隠す」と鶉には縁語的関係が成立するからでもある。但し、真葛は「たゞごとに、のたまはせし」とは言っているのだけれども(「ただごと」(徒言・只言)は古くは「ただこと」で、技巧などを用いずに有りの儘の言葉・歌語でも比喩でもない日常の言葉の意。しかし「鶉の音」としたところは最早「ただごと」ではないし、この話柄そのものが後世の捏造された話とすれば、ヒネリが入っていると読んだ方がいいし、面白いと思う)。

「堀田侍從」不詳。話と前後の記載(特に「藩翰譜」)から見ると、江戸前期の大名で、下総佐倉藩第二代藩主・堀田家宗家第二代にして、堀田正盛の長男である堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)のことかと思われたが、彼は侍従ではない。彼は後の「藩翰譜」にも記されてあるが、彼のウィキから引用すると、万治三(一六六〇)年十月八日、突如として『「幕府の失政により人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之・阿部忠秋宛てに提出し、無断で佐倉へ帰城し』てしまい、『まもなく、幕法違反の無断帰城について幕閣で協議が』なされ、『正信の上書や行動に同情的意見もあったが、老中・松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解(本来なら「三族の罪」に当たるが、狂人ならば免除できるという理屈)で合意がなされ』、同年十一月三日に『処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主』『脇坂安政に預けられた。正信が佐倉へ無断帰城した動機については、信綱との確執や正室の叔父の松平定政が起こした出家遁世事件との関係も指摘されるが、不明』である。その後、『安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主』『酒井忠直に預け替えられる。しかし』、延宝五(一六七七)年六月、『密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝し』、『これにより嫡男』『正休』(まさやす)『と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。配流中には「忠義士抜書」「楠三代忠義抜書」「一願同心集」などを著し』ている。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍『徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島にて鋏で喉を突き』、『自殺した。遺骸は江戸へ入ることを許され、菩提寺の金蔵寺に葬られた』という数奇な生涯を送った人物として私が興味を持っている人物である。なお、彼の孫で藩主に返り咲いた江戸中期の大名にして老中首座であった出羽国山形藩第三代藩主・下総国佐倉藩初代藩堀田正亮(ほったまさすけ 正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)がおり、彼の官位は従四位下・侍従であるが、「藩翰譜」の記載より後代の人物である。この堀田正亮を指して真葛が書いていると読むことは特に無理はないとは思うものの、伊達政宗と話を混同するには後代に過ぎるから、違う。政宗と同時代人の堀田家となると、堀田正吉や、その子で正信の父堀田正盛であるが、彼らは孰れも「侍従」ではない。お手上げ。

「藩翰譜」は江戸時代の家伝・系譜書。新井白石著。全十二巻。元禄一五(一七〇二)年成立。元禄十三年に甲府藩主徳川綱豊の命を受けて編纂したとされる。諸大名三百三十七家の由来と事績を集録し、系図を附したもの。慶長五(一六〇〇)年から延宝八(一六八〇)年までの内容が収録されている。短期に仕上げたため、事実誤認があり、白石自身が後に補訂を加えている。

「堀田の譜」ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの大槻如電校訂明治二九(一八九六)年刊の当該箇所(第六巻)の画像)だが、馬琴は明らかに正信の記事を読めと言っているようには見える。

「天保壬辰」(みづのえたつ/じんしん)「歲」は天保三年。

「杪」「すゑ」。「終わり」の意。従って以下の「立春五日」とは天保三年十二月二十五日を指す。因みに、この日はグレゴリオ暦で一八三三年二月三日で定気法による計算でこの日に立春が合致する(いつもお世話になる、かわうそ@暦氏のサイト「曆のページ」の「二十四節気計算」のページで確認した)。

「以原本比校畢」「原本を以つて、比校(ひかう)、畢(をは)んぬ」。「比校」比較校訂。

「蓑笠漁隱」「さりふぎよいん(さりゅうぎょいん)」。馬琴は文政七(一八二四)年五十八歳の時剃髪したが、これは、それ以後の馬琴の号である。]

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