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2021/01/01

新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)

 

[やぶちゃん注:只野眞葛(ただのまくづ 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)は私の好きな江戸中・後期にあって稀に見る才能を開花させた女流随筆家である。仙台藩医で「赤蝦夷風説考」の著者でもあった工藤平助の娘で、名は綾子。江戸生まれ。明和九(一七七二)年二月、十歳で「明和の大火」(目黒大円寺から出火、麻布・京橋・日本橋に延焼、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くした。死者は一万四千七百人、行方不明者は四千人を超えた)に遭遇し、苦しむ貧民に心を寄せ、後々まで続く経世済民の志を抱いた。荷田蒼生子(かだのたみこ:国学者で伏見稲荷神官であった荷田春満(あずままろ)の弟高惟(たかのぶ)の娘で、春満の養女となった女流歌人。紀州藩に仕えた)に古典を学び、国学者で歌人の村田春海(はるみ)に和文の才を認められ、また、滝本流の書もよくした。仙台藩に奥勤めした後、家へ帰り、母亡き後の家政を見た。三十六歳で、落魄れた工藤家復興を期し、仙台藩士千二百石取りの只野伊賀行義の後妻となり(彼女はその前に望まない老人と、一度、短期間、結婚し、離縁している)、仙台へ下る。江戸勤めの多い夫の留守を守りながら、思索に耽り、文政二(一八一九)年、五十五歳の時、胸の想いを全三巻に纏め、「独考」(ひとりかんがへ)と題して江戸の滝沢馬琴に送り、批評と出版を依頼したが、馬琴は禁忌に触れる部分があるとして出版に反対し、自ら「独考論」を著し、真葛の論に反撃し、手紙で知り逢ってから一年余りで絶縁した。しかしまた、真葛の事跡が、現在、ある程度まで明らかとなっているのも、馬琴が「兎園小説」に書き留めたからででもあった(第十集の最後にある著作堂(馬琴の「兎園小説」での号)作の「眞葛のおうな」)。真葛は体系的な学問をしたわけではないが、国学・儒学・蘭学などの教養を身に着け、その上にオリジナルな思想を築いていった。「独考」には一種の偏頗な部分もあるものの、江戸期の女性の手になる社会批判書であり、当時としては稀有の女性解放を叫ぶ書として評価できる。著作には他に・「むかしばなし」・「奥州ばなし」などが残る(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠りつつ、オリジナルに補足を加えた)。「いそづたひ」(「磯通太比」「磯つたひ」とも表記する)は、文政元(一八一八)年に宮城郡七浜(現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)へ彼女が仲間と旅した際の紀行文で、途中で採取した海辺の珍しい話も挟まり、まことに優れたものである。既に一部を南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」で言及された「海龜」及び「鮫(サメ又フカ)」の私の注で電子化しているが、これは、その全文である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四二(一九〇九)年博文館刊の岸上質軒校訂「續紀行文集」(「續帝國文庫」第二十四編)に所収する「磯つたひ」(正字正仮名版)を視認して示す(底本は何を底本としたかは示されていない)。上記の既に電子化したものを加工用にしたものの、再度、検証してある。但し、読み易さを考え、独自に段落を成形し、句読点・記号等を追加し、読みは必要と思われる箇所に留めた。踊り字「〱」は正字化した。途中に見られる丸括弧表記の平文のそれは原本の割注である。必要と思われる箇所に注を施した。歴史的仮名遣の誤り(非常に少ない)はママ。なお、所持する一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂)所収の「いそづたひ」(曲亭馬琴自写本底本)と校合した。また、向後、彼女の著作の電子化を纏めて行うことを企図し、ブログ・カテゴリ「只野真葛」を創始した。]

 

磯 つ た ひ

    只 野 眞 葛 女   

 

 葉月はじめの頃、磯づたひせんと思ふこと有て、鹽竃(しほがま)の浦より舟にのりて、東宮濱を過ぎて、代(よ)が崎(さき)につきて、むねむねしう見ゆる所に寄(より)て、憇ひたれば、あるじ出(いで)て物語す。

[やぶちゃん注:「葉月はじめ」文政元八月一日はグレゴリオ暦で丁度、一八一八年九月一日に当たる。

「鹽竃の浦……」「今昔マップ」のこちらで、中央西部附近が「鹽竃の浦」(真葛の住んでいた仙台城下からは、東北に直線で約十四キロメートル)で、東部に「東宮濱」があるのが判る。「代が崎」はそこから浦伝いに西浜の岬を回り込んだ西に「代ヶ崎」を見出せる。]

「今は汐の湛(たゝ)へたる時に侍れば、海の樣、同じくて、興、薄し。十一日より、汐かはり候(さぶら)へば、滿干(みちひ)の侍り。水中の大魚ども、其輩(ともがら)を集(つど)へて、爭ひ戰ふこと、侍り。鯨は味よく、肉(み)がちなる故、諸魚、取食(とりはま)むことを願ひ侍れども、大魚にして、力、强く、容易(たやす)くは捕得(とりえ)はべらず。先年、鯨の、諸魚に逐(おは)れて、濱に逃上(にげあが)りしこと侍りし時、續きて飛ぶが如くに逐來(おひき)て、眞砂の上に落(おつ)るはづみに、鰭を深く突込(つきこみ)て、根(もと)より、ふつと、折れ候へば、即ち、死したる魚の候ひし。總身(さうしん)の鰭、針の如(ごと)尖りて、鎌の形したる鰭、兩腋に生(おい)て候し。是に裂(さか)れては、如何なる者も、耐(たま)り得つべしとも、思はれ侍らず。この魚(いを)、濱人さへ始めて見候らへば、名は識り侍らず。鎌形の鰭、折れて即死侍しは、大事の物なるべし。文月(ふみづき)[やぶちゃん注:陰暦七月。]半(なかば)のことに候ひしかば、一の宮[やぶちゃん注:鹽竈神社(グーグル・マップ・データ)。同社は陸奥國一之宮である。]の邊へ持行(もちゆき)て、諸人に觀せて後、服(ふく)し[やぶちゃん注:夏場で、腐敗が速いので、その場で「食べた」の意であろう。]侍つれど、障(さは)りたる人も候はざりき。水中に大魚の爭ひ戰ふ時は、沖に恐ろしき波立ち、水上に跳上(はねあが)りて、落る拍子に、下なる魚(いを)を搏(うた)んとにや、鯨の如(しか)ふるまふこと候(さぶら)ふ。魚には根魚(ねを)・浮魚(うきいを)、侍るなり。鯨は浮魚なる故、根魚の攻むる時は、水を離れて跳上り侍る也。鯱(しやち)に懸けられて、隕魚(おちいを)と成て、浦々に寄り侍ることは、珍らしからず候。一つ鯨に、鯱、多くつき候らはねば、捕得ぬ物に侍り。懸(かけ)られたる跡は、深さ七寸許(ばかり)に長さ、二、三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]ほどの疵、幾筋もつきて、肉は左右に割(われ)て、最(いと)恐ろしげなる者に侍り。鯱は海中第一の荒魚に侍れば、諸々の魚共、恐れて逃去(にげさ)り候也。和(なぎ)たる時、釣しても、さらに魚を得ぬ時は、『鯱の通りしならん』と、申侍れど、其形を見しことは侍らざりしに、一年[やぶちゃん注:「ひととせ」。ある年。]、鯨に搏(う)たれて死したる鯱、此濱に浮み寄(より)しことの侍し。初めて見し事ながら、頭勝(あたまがち)に[やぶちゃん注:頭がやけに大きく。]、口、濶(ひろ)く、牙は、尖(とが)りて長く、齒、太く、背、そりて、劍(つるぎ)を植(うゑ)し如くの鰭、生(お)ひ、尾の上下に分れて、巍(いらゝぎ)たる[やぶちゃん注:高く突き出ている。]狀(さま)、最(いと)りゝしく、又、恐ろしげなるものに候ひし。大城の棟(むね)なる鯱の形(かた)に、少しも違(たが)はざりし故、鯱とは定め侍りし。齒も、皆、具して持(もち)侍しを、濱見に來(こ)し旅人の中(うち)、香具屋(かうぐや)どもの見侍りて、『角細工(つのざいく)によし』とて、强(あなが)ちに求め侍るによりて、與へつゝ、今は一つだになくなり侍り。坪[やぶちゃん注:この語る老人の庭の意と思われる。]の内なる石に交りて有るは、其鯱の頭(かしら)の骨にて侍り。」

と云故、よりてみれば、白き岩のさまにて、苔むしたり。わたり、七、八寸ばかりに、まろき穴のふたつ有は、鼻の穴なりと敎るぞ、いとけしからぬものと思はる。

身の丈も、六、七間[やぶちゃん注:十・九~十二・七メートル。]は有つること、しるし。

[やぶちゃん注:「この魚、濱人さへ始めて見候らへば、名は識り侍らず」これだけの表現から特定は不能だが、前脚鰭が鎌状に有意に突き出ており、他のクジラ類と全体の様子が違うのだとすると、一つ、哺乳綱鯨偶蹄目ヒゲクジラ亜目セミクジラ科セミクジラ属セミクジラ Eubalaena japonica を挙げることが出来ようか。

「鯱」鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca 。ヒトを例外とするなら、自然界での天敵は存在しない、海洋系食物連鎖の頂点に立つ肉食獣である。

「香具屋」所謂、「香具師(やし)」。人の集まる所で日用品や食品或いは奇体な怪しげな物などを並べ、大声で品物の説明・宣伝をしながら売る大道商人。或いは見世物興行などもする人。]

 家主(いへあるじ)、案内(あない)して、「はちが森」といふ所に登りて見れば、來(こ)し方の舟路を、淸し、めづらし、とおもひしは、數ならず、おもしろき崎々(さきさき)に波の打寄(うちよ)る狀(さま)、果もなき海原に、釣舟のうらゝに浮かべるなど、云ふ由なし。嶋ども、數多(あまた)ある中に、牛島といふは、實(げ)に大牛の居たる形(かた)たり。

[やぶちゃん注:現在、宮城県宮城郡七ヶ浜町代ヶ崎浜八ヶ森(グーグル・マップ・データ)の地名があり、多門山(標高五十六メートル)は景勝地として知られる。

「牛島」不詳であるが、思うに、多門山から眺望したとすれば、北北東の塩竃湾に浮かぶ大きな馬放島(まはなしじま)を指しているようには思われる。但し、別称を確認は出来ない。]

 爰を離れて、よし田濱を過て、花淵にいたりて[やぶちゃん注:「今昔マップ」のここの旧地図に孰れも浜名その他で見える。]、宿りとれり。此家は、昔し、沖に流寄(ながれよ)りし大木を拾ひて、唯一本、挽割(ひきわ)りて建(たて)たる家なれば、「珍らし」とて、人の見に來る所なりき。

 あくる日、家あるじ、出(いで)て、事の由を語る。

「爰より三十里沖に(小道なり[やぶちゃん注:「坂東道(ばんどうみち)」などと呼ばれる単位の短い「里」。一里を六町とする。十九・六三キロメートル相当。])、凪(なぎ)たる時も、汐の折返(をれかへ)る所、侍り。海底に深く沈みて、宮殿の形したる岩の候ふが、宮岩・拜殿岩・鳥居岩と、三つ、並びて侍り。これを『大根[やぶちゃん注:「おほね」。]の神社』と申て、舟人ども、恐れて、此上は、舟、乘(のり)侍らず。もし、誤りて、乘ることの候へば、必ず、過失(あやまち)し侍り。海を司り給ふ御神に侍り。こゝによき鮑(あはび)が候(さぶら)へば、海士(あま)ども、かづきして、取(とり)候へども、最(いと)深く、然(しか)も荒き所故、尋常(よのつね)の海士は入り難し。こゝにかづきするを、水の上手と、定め侍り。舟の行交(ゆきすが)ふ時に、鈴ふる音の聞ゆること、常に侍り。むかし、此家ぬし(天正年中[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。]の事也)、村長(むらをさ)にて有りしに、不圖(ふと)、家を燒失(やきうしな)へることの侍りき。さる折りしも、大根のわたりに、黑く大きなる物、浮きて有しを、『鯨ならめ』と思ひて、徃(ゆき)て見侍しに、類(たぐひ)もなき大木の懸りて候ひしかば、舟、數多(あまた)催(もよふ)して、引寄せ侍しに、磯邊までは寄侍らざりし故、海中にて挽割(ひきわり)て、舟に積(つみ)て運びつゝ、家を作り侍りき。敷板・緣板・建具迄も、只、一本の木にて、し侍りし。根は幾許(いくら)侍しや、及びがたさに、量り侍らざりき。先のふとさ、二丈餘(あまり)八尺(やさか)[やぶちゃん注:「江戸文庫」版はここに原割注があり、『弐丈八尺』(八メートル四十八センチメートル)とする。]、長(たけ)は千尺[やぶちゃん注:三百三メートル。]、と計(はかり)侍しとなん(十七間半[やぶちゃん注:約三十一メートル。])。挽割るべき刄物、さぶらはざりし故、瓜(うり)の皮を剝(と)る如く、能(よき)程に段(きだ)を付(つけ)て、裂取(さきと)りつゝ、柱に造り侍りつれば、半(なかば)を過(すご)して、流し遣(やり)さふらひつると、申傳へ侍り。此木、今は本淵唐木[やぶちゃん注:「江戸文庫」版では『花淵唐木』とあり、地名から考えてその方が正しいようには思われる。但し、この非常に興味深い伝承、ネットでは確認出来ない。]と申し侍り。僕(やつがれ)まで十一代、恙なく、渾(すべ)て家内に惡病を患(うれ)ひしこと、なし。疱瘡(もがさ)・產の怪我(けが)も、なし。他(ほか)の家にて、熱病・瘧(おこり)、其外、難病あるときは、此木を削り、煎じて飮ませ侍れば、免(まぬが)れ侍りし由によりて、[やぶちゃん注:「江戸文庫」版はこの部分は『まぬがれ侍り。此木拾侍りしよりによりて、』とある。]代々(よゝ)御國(みくに)知(しろ)しめす君の、一度はよらせ給ひ、諸(もろもろ)の役を御免(ゆる)しあるのみならず、屋(いへ)の損ずれば、上(かみ)より、葺換(ふきかへ)て給はりぬ。」

と、いさまし、かたるを聞くにも、大根の、御神より給はりし寳(たから)の木也けりと思はるゝ。

[やぶちゃん注:「宮岩・拜殿岩・鳥居岩」この根の呼称は現在、残っていないようである。少なくともネット検索の網は引っ掛からない。或いは、或いは漁師の間では今もよく知られているのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]

 こゝを立(たち)て、菖蒲田濱を經て、松が濱にいたる。爰は濱々の中に、分(わき)て愛(めで)たき所なりき。松が浦島などいふは、ここの分名(わけな)[やぶちゃん注:「別名」。別称。]なりけり。海中まで、程よくさし出たる岩山有り、四方の能く見遣(みやら)るゝ故、代々御國知(しろ)しめす君の、出(いで)ます所に定められしかば、御殿崎[やぶちゃん注:「ごてんざき」。]とはいふ也。暫し休みて見渡せば、水際(みぎは)、やゝ遠く聳えたる岩に、松、ほどよく生たり。向ひ(南)は、空も一つに、際(きは)なき海なり。左(東)の方に、金花山の寶珠(ほうじゆ)の形して、浮たり。右(西)の方に遠く見ゆるは、相馬の崎、其前に黑う、木立の引續きたるは、蒲生(がまふ)の松原也けり。其處(そこ)より此わたりまで、磯つゞきたる直濱に、絕(たえ)ず波の打寄(うちよす)るは、白布を曝(さら)せるとぞ思はる。海の水面に、日の影さし移りたるは、黃金白銀(こがねしろがね)の浮べる樣にて、橫折れる松の葉越(はごし)に見ゆるも、目(ま)ばゆし。面白き岩どもの多く有るに、打かゝる波の、白沫(しろあは)をきせ流し、あるは、玉と成て、砕けつゝ散るも、いと淸し[やぶちゃん注:「すずし」。]。底の深さは七丈有りとぞ。

[やぶちゃん注:「菖蒲田濱」「松が濱」「今昔マップ」のこちらを参照されたい。

「蒲生の松原」ここ(「今昔マップ」であるが、少し時代が新しい。古いものは欠損があるのでこちらを示した)。

「直濱」「なほはま」と読んでおくが、これ、思うに、現在の「長浜」(「今昔マップ」)ではあるまいか? アプローチからここを指していることは間違いなく、「ながはま」と聴いたのを、「なをはま」と聴き違えた可能性もある。或いは浜名ではなく、真っ直ぐな浜という意味で一般名詞として「直濱」(ぢきはま)と読み書いたのかも知れない。]

 昔、西の方の國より、海士人夫婦(あまびとふうふ)、男子[やぶちゃん注:「をのこ」。]一人(ひとり)伴ひて、此處(こゝ)に留(とゞ)まりて、かづきしつゝ、鮑とりしに、日每に、最(いと)大きなるを獲(え)て、鬻(ひさ)ぎしほどに、幾程(いくほど)もなく、富(とみ)たりき。

 此海には、鰐鮫(わにざめ)などいふ荒魚[やぶちゃん注:「あらいを」。]の栖(す)めば、こゝなる海士は、恐れて、底迄は入らで、小(さゝ)やかなるをのみ、取(とり)て有りしを、此海士は、然(さ)る事も知らざりし故、水底に入て取りつるを、

「危(あやふ)き事。」

と、此處なる人は思ひ居しに、果して、大鰐(おほわに)、見つけて追ひし故、

「命を、はか。」[やぶちゃん注:「はか」は「計・量・果・捗」などを当て、「目当て・当て所(ど)」の意であろう。「命あっての物種!」の謂いである。]

と、眞手かた手[やぶちゃん注:「利き手とそうでない手の両の手を使って全力で」の意であろう。]、暇(いとま)なく、浪、搔分(かきわ)けつゝ逃(にげ)つれども、最(いと)速くおひ來て、こゝなる岸に登りて、松が根に取縋(すが)りて、上(あが)らんとせし時、鰐、飛付て、引おくれたる方(かた)の足を食たりしを、海士は上らん、鰐は引入れんと、角力(すま)ふほどに、足を付根より引拔(ひきぬ)かれて、狂ひ死(じに)に死(しに)にけり。鰐は、荒波、卷返(まきかへ)して、逃去りけり。

 子は、まだ廿(はたち)に足らぬ程にて有りしが、岸に立て見つれども、爲(せ)ん術(すべ)なければ、唯、泣きに泣きけり。

 其骸(から)を納めて後、

「父の仇(あだ)を報ひん。」

とて、日每に、斧・鉞(まさかり)を携へて、父が縋りし松が根に立て、瞬(まじろ)ぎもせず、海を睨(にら)みて、

「鰐や、出づる。」

と、窺(うかゞ)ひ居(ゐ)けるを、人々、

「孝子也。」

とて、哀(あはれ)がりけり。

 扨、年、半計(なかばゞか)りも過(すぎ)たる頃、釣の業(わざ)を能(よ)うせし海士の、修行者(すぎやうざ)に成て、國巡(くにめぐ)りするが、爰に舍(やど)りけり。

 かゝることの有といふ事は、人每に語りつれば、其修行者も聞知りて、最(いと)哀れがりて、敎へけらく[やぶちゃん注:「けらく」は過去の助動詞「けり」の「ク語法」。「けり」の未然形「けら」に接尾語「く」が付いたもので、「~であったこと:~であったことには」の意を作る。]、

「鰐を捕らんと思ふに、斧・鉞は不要ならめ。良き鋼(はがね)にて、兩刄(りやうば)にとげたる[やぶちゃん注:「硏(と)ぎたる」の意。]、尺餘の大釣針を鍛(うた)すべし。夫(それ)に五尺の鐡鎖(かなぐさり)を付(つけ)て、肉を餌(ゑ)に串(さ)して、沖に出て、釣すべし。鰐、必ず、寄來(よりき)ぬべし。」

と傳へけり。

 孝子、甚(いた)く悅(よろこ)びて、敎へし如くに設(まう)け成(な)して、釣せしに、鯨の子を獲(ゑ)しこと、二度、あり。

 幾年、往回(ゆきか)へりて、父がくはれし時を算(かぞ)ふれば、十餘三(み)とせに成にけり。

 其日の回(めぐ)り來(こ)し時、法(のり)のわざ、慇(ねも)ごろにして、來集(きつど)ひたる浦人にむかひ、

「今日ぞ、必ず鰐を獲(ゑ)て、父に手向(たむけ)ん。」

と誓ひて、

「力(ちから)戮(あは)せ給はれ。」

と語らひつゝ、年比(としごろ)飼置(かひお)きし白毛なる犬の有りしを喚びて、

「父の仇を討たんと、汝(いまし)が命を、乞ふなり。我と、一つ心に成て、主(しゆ)の仇(あだ)なる鰐を、捕れ。」

と言聞(いひき)かせつゝ、淚を拂(はら)いて、首、打落し、肉(しゝむら)を切裂(きりさ)きて、釣針につき串(つらぬ)きて、沖に出て、針、卸(おろ)せしに、孝子の一念や、屆きつらん、誤たず、大鰐、針に懸りしかば、

「思ひし事よ。」

と悅びつつ、浦人にも、

「かく。」

と告げて、設置(まうけお)きたる、「か□らさん」[やぶちゃん注:不詳。「囗」なのかも知れぬが、恐らくは判読不能だったのではないか。国書刊行会「江戸文庫」版(曲亭馬琴自身の写本)では『かつらさん』とあるが、これも不詳。桟を葛で組み縛ったものか? 識者の御教授を是非とも乞うものである。]と云物(いふもの)に懸(かけ)て、父が食(くは)れし斷岸(きりきし)に引寄せて、遂に鰐を切屠(きりはふ)りけり。

 其鰐の丈は七間半[やぶちゃん注:十三・六三メートル。]有りしとなん。

 かゝる事の聞え、隱れなかりし故、國主にも聞(きこ)し召付(めしつけ)られて、

「松が濱の孝子」

と、賞(ほめ)させ給へる御言書を給はりて、

「鰐を釣(つり)し針は、永く其家の寳(たから)にせよ。」

と仰せ下りつれば、今も持(もち)たり。

 鰐の頭(かしら)の骨は、海士人(あまびと)を埋(うめ)し寺の内に置(おき)たり。獅山公の御代の事なりき。此の二つの物は、今も正(まさ)しう有て、道ゆく人は、寄りて見つ。

[やぶちゃん注:「獅山公」(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)のこと(戒名の「續燈院殿獅山元活大居士」に拠る)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書の作品内時制は文政元(一八一八)年。]

 かゝる事も有けり、と思へば、畏(かしこ)し。

  人とりし鰐に增(まさ)りてたくましや

     仇をむくひし孝の一念(おもひ)は

 海士人のすがりしといふ松、今も枯れずて、たてり。

 此島の周圍(めぐり)を離れぬ小舟ありき。

「人を乘せてんや。」

と、問はせつれば、

「二人、三人は可(よし)。」

といふ故、乘(のり)て見れば、蛸釣る舟には有し。今、捕(とり)たるを、膝の下(もと)に打入るゝは、珍らかなるものから[やぶちゃん注:逆接の接続助詞。「のであるけれども」の意。]、心よからず。

 此釣人の語るやう、

「今よりは、七、八年前(さき)に、龜の持來(もてこ)し、『浮穴(ふけつ)の貝』といふものを、持はべり。我家は、道行く人の必ず過ぎ給ふ所なれば、立寄(たちよ)らせ給ひて、見給へかし。今、僕(やつがり)も參りてん。」

とぞ、言ひし。

 舟より上るとて、今、捕りたる蛸を乞求(こひもと)めて、家苞(いへづと)にしたり。

 釣人の家にいたりて、

「浮穴(ふけつ)の貝てふもの、持(も)たりと聞くを、見せてんや。」

と乞へば、内なる女、足高き折敷(をしき)に白き箱を据(すゑ)て、持出たり。

 この磯屋(いそや)の樣(さま)、板敷(いたしき)にて、引網(ひきあみ)・たく繩[やぶちゃん注:「たくなは」。「栲繩」で楮(こうぞ)の繊維で作った繩。]など、多く積入(つみい)れて、折敷などは有(あり)げにも見えぬに、斯(か)く振舞ふは、いみじき寳と思へる樣也。

 執りて視るに、目馴れぬ貝の形也。徑(わたり)一束半(四寸五分)に過ぎぬべし。貝、最(いと)厚く、外の色は白くて、茶色に虎斑(とらふ)の如き文(かた)あり。中は夜光貝(やくわうがひ)に似て、濃(こまやか)なることは、甚(いた)く增(まさ)れり。内に、汐、籠りて、打(うち)振れば、

「こをこを」

と鳴(な)りながら、聊(いさゝ)かも、こぼれ出でず。

「是を得て、八歲(やとせ)になれども、乾きもせず。」

とぞ言ひし。

 兎角する中に、釣人、歸り來りて、事の由(よし)を語る。

「今よりは十年許(ばか)り前(さき)、沖に出(いで)て釣し侍りし時、四尺餘の龜をえ侍りき。乘合(のりあ)ひし釣人も、六、七人候ひしが、

『龜は酒好む物と聞けば、飮ませてん。』

と、僕(やつがり)申したりしを、海士(あま)共も、

『よからん。』

と申して、飮ませ侍りしに、一本許り、飮み候ひき。扨、放ち遣(やり)候ひしに、翌(あく)る年の夏、又、沖中にて釣せし時、龜の出て候ひつれば、捕へて、酒を飮ませて放ち侍りしに、一年有て、此度(こたび)は此貝を背に負ひて、磯より半道許り隔てたる所に、浮(うか)び寄(より)て候ひき。僕(やつがり)は、每(いつ)も、朝、とく、磯邊(いそべ)を見回(みめぐ)り侍りつれば、見怪しみて、汐をかつぎ分て、往(ゆき)て見侍りしに、例の龜にぞ候ひし。初め放ち侍りし時、目印(まじるし)を付(つけ)侍りつれば、見る每(ごと)に違(たが)はずぞ候ひし。

『例の如く、酒を飮ませて、放たん。』

と、し侍しに、左の手を物に囓取(くひど)られんと思(おぼ)しく、甚(いた)き疵(きづ[やぶちゃん注:ママ。])を負ひて、動くべくもあらず見え侍りつれば、人を集(つど)へて、舟に擔載(かきの)せて(四人して漸持たり。)、沖に漕出(こぎい)でゝ、放ちて歸り侍りしに、夕つ方、又、元の所に來て死(しに)侍りき。

『言葉こそ通(かよ)はね、酒飮ませられし酬(むくひ)に、貝を持(も)て來しならめ。』

と、最(いと)哀れに悲しまれ侍りつれば、骸(から)を陸(くが)に擔上(かきあ)げて、小高き所の地を掘(ほり)て、埋(うづ)め候ひて吊(とふら)ひ侍りき。今は、公より仰せ蒙りて、「亀靈明神」と申し侍る。此貝を、初めよりよき物と識り侍らば、斯(かく)は仕(し)候らはじを、只、珍らしとのみ思ひ侍りしかば、海士乙女(あまおとめ)共の、

『亀の持(も)て來(こ)し貝、得させよ。』

と言ひつゝ、手々に[やぶちゃん注:「てんでに」。]打缺(うちか)き打缺きして、取らるゝ程は取り侍りつれば、斯く損(そむ)じ侍る。此半(なかば)にて、脹切(はりきり)たる所にも、針もて突きたる程の穴、あきて候ひしを、

『汐をぬきて、孫共に與へん。』

と思ひ侍りて、角(かど)ある鐵箸(かなばし)もて、突抉(つきくじ)りなどし侍し故、穴も崩れ侍り。されど、聊(いさゝ)かも汐の出侍らねば、其儘にて半年許、翫弄物(もてあそびもの)として置候ひしを、ふと、休みたる旅人の、執見(とりみ)て、

『是(こ)は。正(まさ)しう「浮穴(ふけつ)の貝」といふものなり。如何にして得し。』

と、其故を問聞(とひき)き侍りて、且、感じ、且、缺損(かけそん)じたることを、惜(あたら)しみ[やぶちゃん注:「あたらしむ」は「惜(を)しむ」の意の上代の古形。]侍りて、

『得がたき物なるを、今よりは寳とせよ。』

と、教へ侍りしによりて、俄(にはか)に尊(たふと)み候ひぬ。」

とぞ語りし。

 こゝをはなれて山路にかゝるは、心づきなかりしを、出離れて、海のみおもの、ふと、見えたるは、晴やかにて、際(きわ[やぶちゃん注:ママ]。)なく快(こゝろよ)し。又、居たちて、磯づたひの道にかゝる。湊濱のわたりは、殊に淸し。眞砂の中に、黃金(こがね)の箔を敷(しき)たらん様(やう)に見ゆるが交りて、波の打寄るにつれて、下り上りするが、打上げられたるは、蒔繪に異なることなし。

 かゝるを、愛(めで)つゝ、磯づたひし行けば、湊藥師(みなとやくし)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]の立たせる邊(わたり)は、よそに過行きたり。後、思出て悔(くゆ)るも、かひなし。

『千鳥は冬ならでは、居(を)らじ。』

と思へりしを、十羽許り、群居て、水際を去らず、求食(あさる)は、最(いと)めづらし。人のちかづけば、遠く居つゝ、每(いつ)も同じ樣(さま)也。繪に書(かき)たるを見しとは異なり、身は細りて長く、「をしへ鳥」[やぶちゃん注:セキレイの異名。「日本書紀」で伊耶那岐・伊耶那美に交合を教えたことに由来する。海辺にもいるが、同種であるかどうかは、怪しい。シギの類は飛翔様態がツバメに似る種がいる。]の形、したり。飛立(とびた)てば、羽勝(はがち)にて、燕に似たり。小波の寄する時は、步みながら逃行き、退(ひ)く時は、又、隨ひて、あさり、大浪の打かゝれば飛立(たち)て、即ち、水際(みぎは)にゐる樣(さま)、波に千鳥とは、いはまほし。

  磯千鳥みぎは離れずあさりつゝ

      淸き渚によをやつくさん

日の斜(なゝめ)に成ぬれば、家路に歸らんことの、煩(わづら)はしく思はるゝを、所得がほに、心おだしうて[やぶちゃん注:「気持ちが自ずと落ち着いてきて」の意か。]、

『あれは、うらやまし。世に千どりがけといふことのあるは、何の故ぞ。』

と思ひしを、

『打波(うつなみ)、引波に連(つれ)て、步む樣を以(も)て、准(よそ)へしことぞ。』

と、思ひ合せられし。此磯は、御殿崎より見し時だに、程あるやうなりしを、下立(おりた)ちては、最(いと)測りなし。

「家づとに貝拾ふ。」

とて、時移しつゝ、蒲生(がまふ)の濱[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルを見ると、現在もチドリだけでなく、野鳥の楽園のようである。]行く頃は、心あはたゞしくなりぬ。

                (かえ子)[やぶちゃん注:この旅に同行した友人女性と思われる。]

  かへりゆく道もわすれて打寄する

       眞砂にまじる貝ひろひけり

いと飽かねども、濱を離れて、先に遠く見し松原を經て、家路へと赴きたりし。

    おもひはかるおしあてごと

『此貝を、龜の、痛手負ひながら、持(も)て來(こ)しをもて考ふれば、此貝の在る所は、海の底にして、恐ろしき荒魚(あらいを)ども栖(すみ)て、中々、人の及び難き所故、取得(とりう)ることもなきを、此龜、海士(あま)に捕られて、死すべき命、助けられしのみならず、珍らしき酒を飮ませられしも、度々故、此報ひに、龜も、『珍らしき物を贈らん』と、强(しひ)て求むとて、海底の荒魚と戰ひ、身を傷(あや)められながら、辛き思ひに取得て來りしとにや。』

と思へば、哀(あはれ)なり。

 世に强き例(ためし)に引く龜の、弱り果(はて)たるをもて思ふに、海の底にて、甚(いた)く戰ひしとは、知られたり。命(いのち)盡きなんとするに依りて、貝を持(も)て來(こ)しには非じ、貝を獲(え)んとして、命、失ヘるなるべし。

[やぶちゃん注:以下の長歌は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空け、歌は読み易いように、字空けを添えた。前書下の原割注の「川子濱」はかなり手間取ったが、当地のある古文書に「宮城郡松ヶ濱之內川子屋敷」という記載を見出せた。さすれば、現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町松ヶ浜浜屋敷(グーグル・マップ・データ)の海浜部であることは間違いないと思われる。因みに、古い時代のこの辺りの地形は、かなり現在と異なる。「今昔マップ」のそれを参考に示しておく。]

  海中のさまをよめる歌(海士人の住所は川子[やぶちゃん注:不詳。]濱也)

河子なる はまの磯屋にすむ海士の 沖に出居て例のごと 釣れる雜魚(いさな)に加はりて 四尺餘(よさかみあまり)の大龜の 浮びたりしを俱乘(とものり)の 海士(あま)とはかりて美酒(うまさけ)を 與へ飮(のま)せて 元のごと 放ち遣りしに 又の年 同じき龜のたく繩に 寄りて來ぬれば うま酒の ゆかしとにやと 飮ませつゝ 又も放ちて遣(やり)つれば 龜の思はく 死(しぬ)る命 全(また)く保ちしのみならず 美酒をさへ惠(めぐま)れし 人の情(なさけ)の報ひには 得難き物を捧(さゝ)げもて 奉らめと思ひつゝ 浮穴(ふけつ)といへる玉貝を 得めと思へど 荒魚(あらいを)の 怒りかしこみ 事なくは 取得(とりえ)がたしと 窺(うかゞ)へり 海の中には垣もなく 行易(ゆきやす)けめと 世の人は 思ひぬれども 浮(うか)ぶ魚(いを) 根(ね)に栖(すむ)魚(いを)の 別(わき)有りて 潮(うしほ)の階(きだ)も異(こと)なれば そこに有りとは知りつれど 千尋(ちひろ)に餘る 荒根(あらね)には 行觸(ゆきふ)れがたみ 容易(たやす)くも 取得られねば 悔(くや)しとは 思ひ染(しみ)つゝ荒魚の 寄來(よりこ)こぬ隙(ひま)に 大龜は 入得(いりえ)ぬ方(かた)に分(わけ)ゆきて 貝を取得て 背に負ひつ 心勇みて 荒波を いかき上りつ 搔(かき)のぼり 潮のさかひを超(こえ)ぬべく 成ぬる時に荒いをの 睨(にら)み視るより 鰭(ひれ)をふり 齒を剝出(むきい)でゝ飛ぶがごと 追(おひ)て來(き)ぬれば 荒汐は うな逆立(さかだち)て卷返(まきかへ)り 底の闇は千萬(ちよろづ)の 神鳴(かみなり)騷(さは)ぐ如くにて 聞くも畏(かしこ)く肝(きも)迷ひ 沈(しづ)まじ浮んと空樣(そらさま)に 尻を成しつゝ 逃行くを いとひかゝれば 拂ふ手を ふつと囓(くは)れて 一度に 汐の境(さかひ)は去りぬれど 重傷(いたで)にあれば 潮さへ 血しほと成(なり)て 大龜は 心消えつゝ一向(ひたすら)に 弱りてあれど やうやうに 海路(うなぢ)辿りて 海士人の 家の邊(ほとり)の磯邊まで 貝を負來(おひき)て 生命(いのち)歿(しに)けり

  萬代を經ぬべき龜はうま酒の

     あぢに命をつくしぬるかも

  龜がよはひ酒にたちけり短かる

     人の命は捨るもうべなり

  萬代の齡ゆづりしかひなれば

     手にとる人も千代はへぬべし

   文政はじめのとし葉月五十六歲にてしるす

                   眞  葛

 

[やぶちゃん注:底本では、ここで終わっているが、所持する国書刊行会「江戸文庫」版では、以下の漢文が附されてある。返り点を除去して恣意的に正字化して示し、後に私の推定訓読を附す。作者「南山大師」とは釈南山(しゃくなんざん 宝暦六(一七五六)年~天保一〇(一八三九)年)。相模国高座郡上九沢村(現在の相模原市)生まれで、俗姓笹野。学深く得道して松島瑞巌寺の住職となった人物である。彼は死後、名取郡閖上(ゆりあげ)の海に水葬されている。]

 

 松濱之漁父、網而獲一大龜、飮之酒而放之、如此者二囘矣。賤而有仁、可不賞乎。龜既洋々焉而去、後數日、負珍貝來、少焉殭矣。怪而視之、損其一足、似爲物所齕斷。意采貝重淵、與巨魚鬪、而至此乎。介而知恩以死報之、可不哀且賞乎。然而細民有仁、衆漁中蓋不數人、介族知恩、亦所希覩也。可謂奇遇耳。夫、龜以壽稱者也。而爲恩强死、爲人所哀、傳以爲美談。其不朽也、勝徒壽遠矣。[原割註―こは、かの國にいます南山禪師のそへ給へるなり。]

   *

 松濱の漁父、網にて一大龜を獲り、之れに酒を飮ませ、而して之れを放つ。此くのごとき、二囘たり。賤しくして、しかも、仁、有り。賞すべからざるか。龜、既に洋々焉(ようようえん)[やぶちゃん注:はるか遠いさま。]として去り、後、數日(すじつ)、珍貝を負ひて來り、少焉(しばし)にして殭(し)す。「怪し」として之れを視るに、其れ、一足を損じ、齕斷(けつだん)せる[やぶちゃん注:噛み切られたる。]物たるに似たり。意(おも)ふに、重淵に貝を采(と)り、巨魚と鬪ひ、而して此に至れるか。介[やぶちゃん注:広義の魚介で、亀を指す。]にして、而(しか)も、恩を知り、死を以つて之れに報ふ。哀れみ、且つ、賞すべからざるか。然して、細民、仁、有り。衆漁の中(うち)、蓋し、人を數ふべからざるに、介族、恩を知る、亦、希覩(きと)[やぶちゃん注:まれに見るものであること。]とせんや。奇遇と謂ふべきのみ。夫(そ)れ、龜、壽を以つて稱す者なり。而して恩を爲(な)し、强(しひ)て死す。人、哀れむと所と爲(な)し、傳へて以つて、美談と爲(な)す。其の不朽や、徒(いたづら)に壽とするに勝(まさ)れるに遠し、と。【こは、かの國にいます南山禪師のそへ給へるなり。】

 

[やぶちゃん注:以下は底本にはなく、国書刊行会「江戸文庫」版に続けて付随する。されば、恣意的に正字化して示す。但し、これは前の眞葛の本文自体を読むに、原「いそづたひ」を完成した後、それを読んだ誰彼が、心ない批評をしたのに対して、彼女がその内容にカチンときて附したものと考え、原「いそづたひ」にはなかったもの斷ずる。しかし、読めば判るが、この毅然たる反論の仕方は、後の南方熊楠を髣髴とさせると、私は思う。そこが、如何にも面白いし、眞葛姉さんを私がかっているところでもあるのである。最後の部分は眞葛が亡くなってからの曲亭馬琴の添書である。]

 

     わにのあげつらひ

 

 近頃繪ざうしに、鳥獸魚などをも、人とひとしき樣に作りなすを、ものゝたどりふかゝらぬ、をとめのともは、まことにやとおもふから、わにゝしるしもなきを、其釣よせしは海士(あま)のくはれしわにゝや、又外のにやと、うたがふことも有べし。よりてあげつらひ置なり。

 天地の中のことは、心のかこみせばき女の、ふと思はかるとは、いたくたがへるものなり。此世界なる人のごとく、海中の大魚ども、すり違、行合などして、すむものならず。小魚は、おほくむれてあれども、七八間の大魚に至ては、いくその年を重てか、そだつことにて、人にたとへば一家の大名にひとしく、それ是とまぎるゝばかり多くはすまず、其遊ぶ所も、其魚々の領、おのづから定有て、其中へ外の魚の入來る時は、卽たゝかひおこるなり。門を守る犬の强ければ、他の犬をよせつけぬをも思ふべし。敎をうくることのあたはぬものゝ際には、又おのづからなる法有習なり[やぶちゃん注:「はふ、ならひあるなり」か。]。人にしては、領地のかこみ廣きをさして、大名といふならずや。大魚もおのづから廣く遊所を得て、すむことならでは、七間八間にそだつことはあたはじ。

 大海には、雌雄(めを)有て、子もうみつゝ、あまたすむことならめど、入海などにふとより來ることは、必一魚なり。うたがふべからず。人は地につきてすめば、爰と限らねば、みだりに行ちがふ故、垣を結て是をとゞむれども、絕てしめゆふ[やぶちゃん注:前の「垣を結」ぶに、「締め結ふ」と縁語のように使用し、そこに「占(し)め有(ゆう)」(占有する)を掛けたものか。]ことのあたはぬ、大空をかける鳥、又海中に住魚の際にいたりては、おのづから其居所おごそかなるが、天地の道理なり。人とひとしきものと思ふべからず。年每に渡る雁にまじるしなければ、人はしらねど、いつも同じ田面に落るものなりとぞ。今よりは三十年ばかり先のことなりしが、むれたる雁の中に、白雁の一羽有しを、其田主みつけて、生どりて君に奉らばやと思ひて、心をつけしに、三年迄同じ田におりしを、三年目に網をはりて、取て奉りしことも有き。此外にも、あるは羽に疵有鳥、又足を引たるなどを、まじるしとして見れば、其鳥はいつも同じ所に居ものぞと、人いへり。[原頭註―木村默老の手簡に云、「舊冬致恩借候『磯通多比』、返璧仕候。御落手可ㇾ被ㇾ下候段々、新奇の說有ㇾ之、和仁のあげつらひ抔(など)は、實に尤(もつとも)之說と奉ㇾ存候。右に付、おもひ出し候。讚城の乾の方の海に、千尋の深さもあらんと存候深淵、百年前迄有ㇾ之候よし。右深底に、八右衞門鱘(フカ)と稱候鰐サメ居申候。是は原八右衞門と申漁夫を吞候より、かく名づけ候由に御座候。後に八右衞門が幼少の男子致成長、父の仇たる鰐を、術を以擊とり候次第有ㇾ之、誠に暗合致し候事に候。然るに、桑田碧海にて、當今は右の深淵は淺瀨に成候也。」]

[やぶちゃん注:「木村默老」(きむらもくろう 安永三(一七七四)年~安政三(一八五七)年)は讃岐高松藩家老。名は通明。。通称は亘(わたる)。砂糖為替法の施行や、塩田開発などによって藩財政を再建したことで知られる名臣。和漢の学問に通じ、歌舞伎や戯作を愛好、曲亭馬琴とも親交があった。以上の書簡引用を推定訓読しておく。

   *

舊冬、借(か)るに致恩(ちおん)に候ふ、「磯通多比」、返璧(へんぺき)仕つり候ふ。御落手下さるべき候ふ段々、新奇の說、之れ有り、「和仁のあげつらひ」抔(など)は、實(まこと)に尤もの說と存じ奉り候ふ。右に付き、おもひ出し候ふ。讚城(さんじやう)の乾(いぬゐ)の方(かた)の海に、千尋の深さもあらんと存じ候ふ深き淵、百年前まで、之れ有り候ふよし。右深底に、「八右衞門鱘(やゑもんぶか)」と稱し候ふ「鰐(わに)ざめ」、居り申し候ふ。是れは、原八右衞門と申す漁夫を吞み候ふより、かく名づけ候ふ由に御座候ふ。後に八右衞門が幼少の男子、成長致し、父の仇たる鰐を、術(じゆつ)を以つて擊ちとり候ふ次第、之れ有り、誠に暗合致し候ふ事に候ふ。然るに、桑田碧海にて、當今は右の深淵は淺瀨に成り候なり。

   *

この感想も熊楠っぽくて面白い。]

 又一くだり、あげつらふこと有。いとけなき、をのわらはの、有ともしらで、みゝずにまりをしかけて、その氣にあたりて、しゝ[やぶちゃん注:「尿(しし)」。本来は「おしっこ」の幼児語・女性語であるが、ここはそれを出す「おちんちん」のことである。]のはれることあり。是をいやすには、それかあらぬか、土をうがちて、みゝずをだに、ひとつとり得て、淸水によく洗ひてはなてば、卽時にいゆ。かゝることも有をや。ましてそのわに、またく父を喰しにあらでも、父がまう㚑[やぶちゃん注:「亡靈」。亡き御霊(みたま)。]をしづむるには、たれりとすべし。

○此國にして、鯨を產とせざる故は、くじらのなきにはあらねど、海の便のあしければなり。是もあまの語しことなりき。さいつとし、沖に釣して、おほく得たる魚(いを)をふご[やぶちゃん注:「畚(ふご)」。魚籠(びく)。]に入て、舟に結つけて、汐にひたして、生ながら引てかへる時、此ふごを鯨のみつけて、二にて、うなさか[やぶちゃん注:「海境」。海神の国と人の国とを隔てると信じられていた境界。]たちて追しこと有し。大魚の水をはしるの早ことは人力の及ぬことなれば、さらに生きたりとは思はざりしを、刄物[やぶちゃん注:「はもの」。]恐ると聞し故、まな切はものゝ[やぶちゃん注:「爼切(まなぎ)り刃物の」であろう。]、よくとぎたるをこそ、舟の兩わきにさげたれば、是を恐しにや、追ことをやめたり。扨萬死をいでゝ一生にかへりしと語き。此海にして鯨をとる時は、たえて小舟にて沖につりすることの叶ぬ故、鯨をばたゞにいたはりて、あだせぬやうに願が故なりとぞ。

[やぶちゃん注:以下の一文は底本では前後一行空けで、全体が四行下げ。「※」は「黑」+「戈」。意味不明。「弆」は「去」の異体字。]

 

 天保四稔玄※執徐二陽月立春後六日、校于神田岱下東坊著作堂之南軒早梅開處。今夜又薄雪、寒風射紙門搦管不使、至四鼓方卒業。

[やぶちゃん注:「※」の漢字の読みも意味も判らぬが、無理矢理に訓読しておく。これは要するに、「磯づたひ」の写本終了の擱筆である。

   *

天保四稔[やぶちゃん注:天保四年癸巳は一八三三年。真葛の死から八年後。]、玄※[やぶちゃん注:不詳。何らかの時節(前年末?)を指すか。]に執りて、徐(おもむろ)に二陽月[やぶちゃん注:不詳。「陽月」は陰暦十月で二を足して十二月の謂いか。]、立春後六日[やぶちゃん注:前年天保三年は年内立春で十二月十五日であった。]、神田の岱下(たいか)東坊が著作堂[やぶちゃん注:馬琴の号の一つ。この頃の馬琴は神田明神下に住んでいた。]の南軒、早や、梅、開く處に、校せり。今夜、又、薄雪たり。寒風、紙門(ふすま)を射(い)搦管(じやくくわん)不使(つかはず)[やぶちゃん注:「筆を執って特に書き添えることもなく」の意か。]、四鼓[やぶちゃん注:暮れ四つ時(午後十時)のことか。]に至りて、方(まさ)に業を卒(をは)る。

   *]

 

『奧州說話』『磯通太比』二書、眞葛老姐所ㇾ著。老媼名綾子、一稱眞葛、仙臺醫官、工藤平助長女也。年至四八、遣ㇾ嫁於仙城、爲只野甲後妻云。良人沒後、娶居數年矣。性好國風和文、頗得其趣。文政元年冬月、遙寄書於余、且有ㇾ問。當日亦使其女弟萩葊楮尼[原割註-法名瑞祥院、在越前侯築地第。]淨書是二書、以問可否。余留其本藏弆梢久。友人知ㇾ之、欲ㇾ看者間ㇾ有ㇾ之、乃者又製一本、爲貸進料。灰聞、老媼文政七年某月某日物故、享歲六十二。鳴呼可ㇾ惜焉。若其往來問答載『兎園小說』卷第十。今不亦贅

  天保三年壬辰冬閏月既望

𪈐齋陳燈灯下識  

[やぶちゃん注:訓読を試みる。但し、表記自体にかなりの問題があるように見受けられる。

   *

「奧州說話(わうしふばなし)」・「磯通太比」の二書、眞葛老姐(らうそ)、著はす所なり。老媼、名は「綾子」、一稱に「眞葛」。仙臺醫官の、工藤平助が長女なり。年、四十八に至りて、仙城に嫁せしめ、只野甲の爲めに後妻となると云ふ。良人の沒後、娶居(しゆきよ)すること、數年たり。性(しやう)、國風の和文を好み、頗(すこぶ)る、其の趣きを得たり。文政元年冬月、遙かに書を余に寄こし、且つ、問ふこと有り。當日、亦、其の女弟萩葊(はぎあん)楮尼【法名、瑞祥院。越前侯が築地の第に在り。】淨書せる是の二書をして、以つて可否を問ふ。余、其の本を留め、藏し弆(さ)ること、梢久し。友人、之れを知り、看んと欲する者、之れ、有る間(あひだ)、乃(の)ちには、又、一本を製し、貸進の料(れう)と爲せり。灰聞、老媼、文政七年某月某日、物故す。享歲六十二。鳴呼(ああ)、惜しむべし。其の往來問答、「兎園小說」卷第十に載せるごとし。今、亦、贅せず。

  天保三年壬辰(みづのえたつ)冬閏月既望(きぼう)

𪈐齋陳燈灯下識  

   *

最後の署名「𪈐齋陳燈」は一応、「らいさいちんとう」と読んでおく。これは、馬琴でないとおかしい訳だが、この号は全くヒットしない。

「奧州說話」奥羽地方で伝え聞いた伝説を中心に収録した怪奇談集。近日中に電子化を始動する。

「老姐」年老いた姐(あね)さん。真葛は宝暦一三(一七六三)年生まれで、馬琴(明和四(一七六七)年)より四つ年上であった。

「只野甲」「甲」は匿名表記か。只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年)で仙台藩上級家臣。結婚当時は江戸番頭。通称は只野伊賀。

「娶居」嫁した家に未亡人として住み続けたことか。

「文政元年冬月」一八一八年から一八一九年年初(十二月)。

「遙かに書を余に寄こし、且つ、問ふこと有り」実際に半生の記とオリジナルな思想随想を合わせた稀有の著作「独考」を彼女を知らない馬琴に唐突に送りつけた(江戸在住の彼女の妹の萩尼に持参させた)のは、文政二(一八一九)年二下旬であったが、同稿の末尾には、「文化十四年十二月一日五十五歲にて記す あや子事眞葛」の署名があり、また、翌文政元(一八一八)年十二月には同書の自序を書いているので、その日付を以つて、真葛の発信の日をかく記したのである。

「其の女弟萩葊楮尼」「葊」は「庵」の意。「楮尼」は「拷尼」の誤り。彼女は出家前の名は「拷子」(たえこ)である。「楮尼」も「たへ(或いは「たえ」)に」と読んでおく。

「梢久し」「稍久」(稍(やや)久し)の誤字であろう。

「灰聞」は「仄聞」(そくぶんす)の誤字ではあるまいか? 「江戸文庫」! 六千八百円も大枚払わしといて、杜撰の極みじゃて! 補正注、つけんカイ!

『「兎園小說」卷第十に載せる』これも近い将来、このブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化する。

「天保三年壬辰冬閏月」同年には閏十一月があった。この閏十一月一日は既にグレゴリオ暦一八三二年十二月二十二日であった。さらに後の「既望」(「既に満月を過ぎた」の意)というのは、陰暦の十六日の夜を指すから、一八三三年一月六日となる。]

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