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2021/01/18

芥川龍之介 書簡抄 始動 /1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の書簡から編年順に電子化する。底本は岩波旧全集(一九七八年刊)及び葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)を用い、正字正仮名で示す。注では所持する筑摩書房全集類聚版(昭和四六(一九七一)年刊)及び岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)を一部で参考にする。なお、意外に思われるかも知れぬが、私は岩波の新全集の書簡巻は所持していない。金がないから買わなかったのでもなく、旧全集にないどうしても確認したい作品が載る三巻ほどは、仕方なく買い求めてはある。ともかくも、私はあの芥川龍之介の作品を新字に変えてしまった新全集が身近にずらりと並んでいるのを想像しただけで、生理的に堪えられないと感じられるから持っていないだけなのである。

 私が気になる書簡を選んで示す。踊り字「〱」「〲」は正字化する。字下げや字配は必ずしも再現していない(ブログ・ブラウザでの不具合を考えてである)。添えられたスケッチや自筆画などは出来る限り、採録したいと思っている。底本では、「候」の草書体を活字化して示してあるが、表示出来ないので正字で示した。定型詩・自由詩・短歌を含む書簡は戯詩や狂歌っぽいものも含め、総て採用する(相似作品で大きな変化のないものは初出を選び、注で相似作品を添える)。何故なら、私が嘗て行った、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」は書簡を対象としなかった(する余裕がなかった)からである。

 さても、今回のこの記事の書簡当時、芥川龍之介は府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の三、四年次生(満十六、七歳)であった。私は、とても、この年の頃、こんな豊かな読書歴を持っていなかったことを慚愧とともに告白しておく。の前年明治四十年中に、龍之介は後に妻となる塚本文(ふみ)と出逢っている(その当時の文は七歳)。以下に出る龍之介と頻繁に書簡をやりとりしている親友山本喜譽司(きよし)が文の母鈴(すず)の末弟であった関係に由るが、当時の龍之介にはそうした思いは、まだ、なかった。【2020118日始動 藪野直史】] 

 

明治四一(一九〇八)年十二月二十四日東京本所発信・葉書・表に『狂兒龍之介拜』と記す・芥川ふき宛

肅啓 本日成績發表、小生は第一番に御坐候間乍憚御休神下され度候 猶中原君二番、西川君三番、依田君四番、宮崎君五番、砂岡君六番、筒井君七番、平塚君八番、山本君十三番に候 廿四日

先は取りあへず御知らせ迄

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」から。

「肅啓」(しゆくけい(しゅく‐けい)。頭語。「謹んで申し上げる」の意。

「芥川ふき」は龍之介を育て、彼の人格形成に大きな影響を与えることになった母方の伯母(実母フクの姉で、養父芥川道章の妹)であり、龍之介の作品や随筆にも、しばしば登場する。生前の龍之介と最後に言葉を交わした相手は彼女であった。一般には「フキ」とカタカナ書きする。なお、この時、既に龍之介は芥川道章の養子問題が解決しており、本所の芥川家に一緒にフキも龍之介も住んでいたから、この葉書というのは以前から不審であった。しかし、これは、思うに、養母である道章のトモを遠慮して、学期末成績を養母よりも恐らくは遙かに――芥川家担う龍之介のそれを心配してした彼女に――言葉でなく、葉書で報告したのであって、妙なところでシャイな龍之介特有の気配りなのではないかと私は推察する。

「御休神」御安心。

「西川君」次の書簡に出る西川秀次郎。

「山本君」前注で述べた山本喜譽司。] 

 

明治四二(一九〇二)年三月六日・本所発信・廣瀨雄宛

肅啓 御手紙難有奉誦致し候ジヤングルブツクは嘗て其中の二三を土肥春曙氏の譯したるを讀み(少年世界にて)幼き頭腦に小さき勇ましきモングースや狼の子なるモーグリーや椰子の綠葉のかげに眠れる水牛や甘き風と暖なる日光とに溢れたる熱帶の風物の鮮なる印象をうけしものに御座候原作に接したきは山々に御座候へども目下の樣子にては到庭手におへなささうに候へばまづまずあきらめて Rosmersholm をこつこつ字書をひき居り候

ロスメルスホルムと云へば此篇ほどメレジユコウスキの所謂「死の苦痛卽ち生の苦痛」の空氣の痛切にあらはれたるは見ざる樣に思はれ候英譯一册にてイブセン通になる譯には無之候へどもボルクマンの懊惱。ゴーストの主人公の死。ドールスハウスのヒロインの決心。ザ、レデー、フロム、ザ、シーのヒロインの復活。皆この境に新生命の產聲をあげむとして叫び居り候へども殊に此ロスメルスホルムの男主人公と女主人公との最後ほど强く描かれたるは無之候ハウプトマンの「寂しき人々」は此作の感化を蒙る事多きよしに候へども嘗てよみたる「寂しき人々」の和譯にくらべてロスメルスホルムの方がはるかに力のつよき樣に感ぜられ候

恨らくは泰西の名著も東海の豎子には中々の重荷にて字書をひきて下調べをするときは何の事やら少しも判然せず代る代る譯をつける時に辛うじて事件の一部が明になり三度獨りでよみ返して見てはじめて全事件を望み得る次第に御座候殊に序幕にては暗示的な言の連發をうけて一方ならず閉口致し候クオバデスもロスメルスホルムの間に繙き居り候へども中々捗らず時々先の頁を勘定してがつかり致し候

今日はクオバデスとロスメルスホルムとの難解の個所を伺ひに上る豫定の所朝より客來にて一日中榮螺の如蹲りて且談り且論じ候まゝ遂に參上致し兼ね候此分にては雅邦會を訪ふも覺束なく相成目下は復活の後篇をよみ居り候談話部の龍頭蛇尾に陷りたる委員諸君の遺憾はさこそと察せられ候へども小生にとりては少くも天祐に御座候ひき、「批評の態度」の愚稿に先生の玉斧を請ひて御迷惑をかけ候夜は、歸宅後書いては消し書いては消し遂には筒井君の所へ電話をかくるに至り候「果斷ありと自ら誇りしが此果斷は順境にのみありて逆境にはあらず」其夜ひるがヘして見たる「舞姬」の言我を欺かず候

これより學年試瞼の完るまでは一週間禁讀書禁遠步の行者と相成る筈に候遠足は散步にて間にあはせ候へども禁書は兎も角も難行にて讀みたくてたまらぬ時は何となく氣のとがめ候まゝうそつと化學の敎科書などの下にかくしてよむを常と致し候今度も此滑稽を繰返す事と思へば何となく滑稽らしくなく感ぜられ候あまり自分の事ばかり長々しく書きつらね候イゴイストは樗牛以來の事と御宥免下さるべく候 匆々

    三月六日夜   芥川龍之介

   廣瀨先生 硯北

 

[やぶちゃん注:岩波旧全集第十巻から。

「廣瀨雄」(ひろせたけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)は芥川龍之介の東京府立第三中学校英語科教諭で龍之介の一年次の担任。石川県生まれ。東京高等師範学校英語専修科卒。芥川の才能を見出し、卒業までの五年間、親身になって教授し、第一高等学校を受験の際には、自宅へ呼んで講義するなどし、積極的に文学書も貸与した。広瀬は小石川に住んでいたが、後の芥川の斡旋で住居も田端に移している。英語教育者として知られ、龍之介とは自死するまで終生、交流があった。後の大正八(一九一九)年には府立三中の第二代校長となった。大正一二(一九二三)年五月には、府立三中を卒業して一高へ入学していた堀辰雄を、家が隣り合わせで交流が深かった室生犀星に紹介している(堀が龍之介の弟子となるのは、この年の終わり頃である)。後、昭和五(一九三〇)年に東京府立第三高等女学校(現在の都立駒場高等学校)へ第三代校長として転任した。英和辞典の編纂者としても知られる。

Rosmersholm」「ロスメルスホルム」(ロスメル家)。知られたノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)が一八八六年に発表した戯曲。中学時代、親友の西川英次郎(えいじろう 後に農学博士となる)と読んだことを、龍之介は「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)で、以下のように記している。

   *

西川英次郞 中學以來の友だちなり。僕も勿論秀才なれども西川の秀才は僕の比にあらず。東京の農科大學を出、今は鳥取の農林學校に在り。諢名[やぶちゃん注:「あだな」。]はライオン、或はライ公と言ふ。容貌、榮養不良のライオンに似たるが故なり。中學時代には一しよに英語を勉强し、「獵人日記」、「サツフオ」、「ロスメルスホルム」、「タイイス」の英譯などを讀みしを記憶す。その外柔道、水泳等も西川と共に稽古したり。震災の少し前に西洋より歸り、舶來の書を悉く燒たりと言ふ。リアリストと言ふよりもおのづからセンティメンタリズムを脫せるならん。この間鳥取の柿を貰ふ。お禮にバトラアの本をやる約束をしてまだ送らず。尤も柿の三分の一は澁柿なり。

   *

「ジヤングルブツク」イギリスの小説家・詩人でイギリス統治下のインドを舞台にした児童文学等で知られる作家・詩人のジョゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling 一八六五年~一九三六年:ボンベイ (ムンバイ) 生まれ。四十一歳という史上最年少で、イギリス人としては最初にノーベル文学賞を一九〇七年に受賞した人物として知られる)が一八九四年に出版した短編小説集。赤ん坊の頃から狼に育てられた少年モウグリ(Mowgli)が主人公の連作「The Jungle Book」。

「土肥春曙」(どい しゅんしょ 明治二(一八六九)年~大正四(一九一五)年)は、本名庸元 (つねもと)。東京専門学校 (現在の早稲田大学) 文科の第一期生として入学し、卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、明治三四(一九〇一)年に川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧し、明治三十八年、坪内逍遙の脚本朗読会に加わり、「易風会」を興し、翌年、「文芸協会」が設立されると、技芸監督と代表俳優として活躍し、端麗な容姿と凛とした調子で新劇の二枚目、立役の第一人者と讃えられた。当り役はハムレットで、第二次「文芸協会」の解散の後,「無名会」を興したが、旗揚げから一年後に病没した。彼は明治三二(一八九九)年から二年かけて雑誌『少年世界』黒田湖山との共訳で同書を連載し、これが同作の本邦最初の紹介となった。

「モングース」「ジャングル・ブック」の「リッキ・ティッキ・タヴィ」(Rikki-Tikki-Tavi)の譚に出る、哺乳綱食肉目ネコ型亜目マングース科エジプトマングース属 Herpestes のインドに棲息するマングースのこと。

「モーグリー」同前で、インドのジャングルで虎のシア・カーンにより追われた、人間の赤ん坊(樵人(きこり)の子供)が、クマのバルーと黒豹のバギーラの提案により、狼の一家により、「モウグリ」と名付けられて育てられる。十年余りの後、シア・カーンは、モウグリを狼の群から追い出せと迫る。モウグリを受け入れたリーダー狼の「アケーラ」は老いて弱くなり、狼の群れは、シア・カーンに同意する。モウグリは、火を見せつけ、自分の賢さを動物たちに示し、ジャングルから人間の村に向かう、というストーリーとなる(以上はウィキの「ジャングル・ブック(小説)」に拠った)。

「メレジユコウスキ」ロシア象徴主義草創期の詩人にして当時最も著名な思想家であったディミトリー・セルギェーヴィチ・メレシュコフスキー(ラテン文字転写:Dmitry Sergeyevich Merezhkovsky 一八六六年~一九四一年) 。ペテルブルクに流行のサロンを開いて、「頽廃主義の巣窟」の異名をとった人物である。

「英譯一册にてイブセン通になる」しかし、筑摩全集類聚版脚注には『当時広く読まれたスコット、ハイネマンの英訳イプセン集のいずれにも、ここに挙げられた全作品が一巻に収められているのは見当たらない』とある。

「ボルクマン」「ヨーン・ガブリエル・ボルクマン」(John Gabriel Borkman )。一八九六年にイプセンが晩年書いた戯曲。一八九七年にヘルシンキで初演された。

「ゴースト」イプセンの一八八一年の戯曲「幽霊」(Gengangere )。筑摩全集類聚版脚注に、『主人公オスワルが発狂して「太陽を」とつぶやくのをさす』とある。後に芥川龍之介は「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行の『新潮』掲載)の中で(リンク先は私の電子テクスト)、

   *

 内容が本で形式は末だ。――さう云ふ說が流行してゐる。が、それはほんたうらしい譃だ。作品の内容とは、必然に形式と一つになつた内容だ。まづ内容があつて、形式は後から拵へるものだと思ふものがあつたら、それは創作の眞諦に盲目なものの言なのだ。簡單な例をとつて見てもわかる。「幽靈」の中のオスワルドが「太陽が欲しい」と云ふ事は、誰でも大抵知つてゐるに違ひない。あの「太陽が欲しい」と云ふ言葉の内容は何だ。嘗て坪内博士が「幽靈」の解說の中に、あれを「暗い」と譯した事がある。勿論「太陽が欲しい」と「暗い」とは、理窟の上では同じかも知れぬ。が、その言葉の内容の上では、眞に相隔つ事白雲萬里だ。あの「太陽が欲しい」と云ふ莊嚴な言葉の内容は、唯「太陽が欲しい」と云ふ形式より外に現せないのだ。その内容と形式との一つになつた全體を的確に捉へ得た所が、イブセンの偉い所なのだ。エチエガレイが「ドン・ホアンの子」の序文で、激賞してゐるのも不思議ではない。あの言葉の内容とあの言葉の中にある抽象的な意味とを混同すると、其處から誤つた内容偏重論が出て來るのだ。内容を手際よく拵へ上げたものが形式ではない。形式は内容の中にあるのだ。或はそのヴアイス・ヴアサだ。この微妙な關係をのみこまない人には、永久に藝術は閉された本に過ぎないだらう。

   *

と述べている。

「ドールスハウス」最も知られたノラ(Nora:カタカナ音写は本来は「ノーラ」が正しい)を主人公とするイプセンの戯曲で、一八七九年に書かれた戯曲「人形の家」(Et dukkehjem )。

「ザ、レデー、フロム、ザ、シー」イプセンの一八八八年発表の戯曲「海の夫人」(Fruen fra havet)。筑摩全集類聚版脚注には、龍之介の言う『復活とは最後の男女両性の新しい結合をさしている』とある。イプセンは写実主義的近代戯曲の確立者などと評されるが、私はごく若い頃、役者のなろうと思い、特に彼の作品を好んで、訳で多くを読んだが、彼には錬金術的な嗜癖が甚だしく認められると感じており、これはまさにその理論に頗る合致するものと考えている。

『ハウプトマンの「寂しき人々」』ノーベル文学賞を受賞したドイツの劇作家・小説家。詩人のゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann 一八六二年~一九四六年)の一八九一年作の「Einsame Menschen 」。筑摩全集類聚版脚注に、『新しい時代思想に揺』す『ぶられる知識人を描いている点で、「ロスメルスホルム」と共通している』とある。

「豎子」(じゆし(じゅし))。卑称の漢語で「小僧っ子」の意。

「序幕」筑摩全集類聚版脚注に、『ロスメルがの妻の死の秘密が事件の背後に隠されている』とある。

「クオバデス」ポーランドのノーベル賞作家ヘンリク・アダム・アレクサンデル・ピウス・シェンキェーヴィチ(Henryk Adam Aleksander Pius Sienkiewicz 一八四六年~一九一六年)の名作歴史小説「クォ・ヴァディス――ネロの時代の物語」(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)。西暦一世紀のローマ帝国暴君ネロの治世下を舞台とし、若きキリスト教徒の娘リギアと、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスの間の恋愛を中心としつつ、当時のローマ帝国の上流階級に見られた堕落と享楽に耽ったそれや、キリスト教徒への残虐な迫害の様子を描いたもの。標題はラテン語で「どこへ行くのか?」の意。新約聖書の「ヨハネによる福音書」の第十三章第三十六節で、使徒ペトロが最後の晩餐に於いてイエスに投げかけた問い、「Quo vadis, Domine?」(クォ・ヴァディス、ドミネ:主よ、どこへ行かれるのですか?)という問いに由来する。

「雅邦會」日本画家橋本雅邦(がほう 天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)が、生まれた武蔵国川越(後の埼玉県川越。父は川越藩の御用絵師であった)の有志と作った彼の親睦会(岩波文庫の石割氏の注に拠る)。

「復活」言わずと知れたトルストイのそれ。

「果斷ありと自ら誇りしが此果斷は順境にのみありて逆境にはあらず」森鷗外の「舞姬」一節であるが、正しくは「嗚呼、余はこの書を見て始めて我地位を明視し得たり。耻かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決斷ありと自ら心に誇りしが、此決斷は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との關係を照さんとするときは、賴みし胸中の鏡は曇りたり」である。私の「舞姬」を参照されたい。

「完る」「をはる」。

「樗牛」小説家・評論家の高山樗牛(ちょぎゅう 明治四(一八七一)年~明治三五(一九〇二)年)。帝国大学在学中に小説「瀧口入道」が懸賞で入選し、卒業後は雑誌『太陽』の主幹となり、当初は日本主義を標榜したが、ニーチェの影響を受け、美的生活の提唱から「本能の満足」を唱え、個人主義を主張、果ては、日蓮へ傾倒した。私は「瀧口入道」以外は全く認めない。


「研北」けんぽく。手紙のあて名の脇に添書する敬語の一つ。] 

 

明治四二(一九〇二)年一月一日本所発信・封筒に「元旦」と記す・葛卷義定宛

肅啓 新年の御慶目出度申し納め候

先達は結構なる御歳暮を頂戴致し難有くがじ候 小弟の貧しき書庫が新しき光を放つべきも近き事と思ひ候へば此上なく嬉しく覺え候

豫て御存知の旅行は愈本夕六時半の列車にて出發の事と相成候 ロングフェローが歌の巻を懷にせる瘦軀の一靑年が靑丹よし奈良の都に其かみの榮華を忍び 藥師寺の塔を仰いで 大なる「タイム」の力を思ひ 去つて又東山のほとりに銀閣を望んで 室町將軍の豪奢を懷ひ、嵯峨野のあたりに蕭條たる黄茅を踏んで祗王祗女のむかしを床しむは近く來む七日間に御座候 小生は唯今 學校の奉賀式に列するところに候 早々頓首

              芥川龍之介

  兄上 硯北

 

[やぶちゃん注:「未定稿集」から。

「葛卷義定」(明治六(一八八三)年~昭和二三(一九四八)年)年]は、この二ヶ月後の三月四日に正式に実姉ヒサと婚姻届を出して義兄となる人物。獣医。一時、実父新原(にいはら)敏三の経営する耕牧舎新宿牧場の管理を任されていた。義敏と、さと子の二子を設けたが、一度、ヒサとは離婚した。しかし、後年、再び二度目の夫西川豊を鉄道自殺で失ったヒサと再婚している。

「奈良の都に……」この元日、芥川龍之介は府立三中の奉賀式に出席した後、午後六時半、奈良・京都方面へ、一週間の旅行に出かけている。] 

 

明治四二(一九〇二)年三月二十八日東京本鄕向ケ岡洲生町西村貞吉宛・自筆絵葉書

 

 靑海原藻の花ゆらぐ波の底に魚とし住まば悶えざらむか 

  三月廿八日    銚子にありて 芥川狂生

 

[やぶちゃん注:旧全集から(次も同じ)。この三月二十六日、芥川龍之介は山本喜譽司とともに千葉県銚子に出掛け、月末頃まで滞在している。

「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現在の東京外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に住んだ。龍之介の「長江游記」に登場する(リンク先は私の電子化注)。また、芥川が中国から帰還した直後の大正一〇(千九百二十一)年九月に『中央公論』に発表した「母」(リンクは新字新仮名の「青空文庫」)は、蕪湖に住む野村敏子と、その夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。] 

 

明治四二(一九〇二)年 三月二十八日(年月推定)「銚子ニテ」と附記・署名「芥川狂生」・絵葉書

銚子の海は僕の戀人だ砂山に寐ころンで靑い波の雪の樣な泡をふきながらうねつてゐるのを見て限りなく嬉しかつた

宿の二階に居ると淋しい海の呟きがきこえる夜は、琴の昔が波の底の藻の花のさく國からきこへるかもしれない

                  龍生 

 

明治四二(一九〇二)年八月一日京都発信・芥川ふき及び葛巻義定宛・絵端書・『八月一日京龍之介』と記す

三十一日の夕嵐山を訪ふ、路は大堰川の流に沿うて靑葉の間をぬひながらすゝむ、川邊には筏をつないで鶺鴒が尾をふりふり其上を步いてゐる、山の崖には螢草の空色をしたのや撫子の紅なのが所々にさいたのが見える、石段を二町ばかり上ると大悲閣だ 小ぢまりした寺で川の流をはさんだ嵐山の景色が目の下に見える

春 雪のやうな落花の中を曙染の衣をきて舞つてあるいたら面白からう、寺で吉田了以の木像を見る まつ黑な像で目ばかりが「あはび」でこしらへた鈕の様に光つてゐる

 

[やぶちゃん注:「未定稿集」から。この年の七月末、芥川龍之介は再び京都方面への旅に出かけ、八月四日に帰宅している。

「大堰川」(おほゐがは(おおいがわ))は京都府中部の川。淀川水系の一部で丹波山地の東部付近に源を発し、西流した後、南東へ転じて亀岡盆地を貫流、亀岡盆地の出口から下流は「保津川」となり、さらに嵐山からは「桂川」と名が変わる。

「大悲閣」京都府京都市西京区嵐山中尾下町にある黄檗宗嵐山(あらしやま)大悲閣千光寺の別称。本尊は恵心僧都作と伝える千手観音菩薩。江戸時代の豪商角倉了以(すみのくら りょうい 天文二三(一五五四)年~慶長一九(一六一四)年:戦国末から江戸初期にかけての京の豪商。本姓は吉田氏。朱印船貿易の開始とともに安南国(ヴェトナム)との貿易を始め、山城(京)の大堰川・高瀬川を私財を投じて開削した。後、江戸幕府の命により、富士川・天竜川・庄内川などの開削も行い、地元の京都では商人としてよりも、琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎とともに「水運の父」として知られる)の木像があることで知られ、境内にある、切り立った岩肌上に建つ舞台造の観音堂(客殿とも呼ぶ)は「大悲閣」と呼ばれるため、寺そのものもかく呼ばれる。参照したウィキの了以の像画像をリンクさせておく。

「鈕」「ボタン」。] 

 

同年八月四日・ 消印五日・神奈川縣相模國高座郡鵠沼村大井別莊前加賀本樣御内・山本喜擧司宛・葉書(底本は横書)

 

啓 はるばるの御狀しみじみ難有く覺え候、

今四日小生も都に歸り四疊半の小齋に旅塵をはらひつゝ唯今本尊簡を拝頂致し候、

承れば御地に於て〝江東男兒の面目を御代表″遊さるる由いつにもなき大氣焰に恐れ入り候、小生も疲勞のなほり次第槍ケ岳登攀の行に上るべく目下は同行の諸君と共に〝江東男兒の面目を代表す″べき意氣を養ひ居り候、末ながら大兄の益〻〝江東男兒の面目を代表せ″られむこと祈申し候 勿々

    四日夕       芥川狂生

 

Yotuba

 

[やぶちゃん注:旧全集から。四葉のクローバーらしき挿絵添え。葉の中央に「敬」とある。先に示した通り、この年の七月下旬に芥川龍之介は一人で京都方面に出かけている。恐らくその旅から帰る朝、京都で投函したものと思われる。なお、この四日後には東京から、級友市村友三郎や中原安太郎らとともに槍ヶ岳登山に出発し、同十日に槍ヶ岳へ登攀しているようである。私の「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」を参照されたい。山本がこれに加わっていないのは、受け取った彼にして、恐らくは淋しかったに違いない。ここで言っておくと、山本と芥川龍之介は、ある種の同性愛的な近関係にあったと考えてよいからである。]

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