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2021/01/22

奥州ばなし 狐火

 

     狐 火

 

 七月半頃、年魚《あゆ》しきりにとらるゝ時、夕方より、雨、いとまなくふりければ、

「こよひは、川主《かはぬし》も魚とりには出《いで》じ。いざ、徒《いたづら》ごとせばや。」

と、小性《こしやう》共《ども》兩人、云あはせて、孫澤の方へ、河つかひに行しに、狐火のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、下り、いくそばくてふ、數もしれざりしとぞ。

『此《これ》、狐共等が、魚を食《くひ》たがりて。』

と、心中に惡《にく》みながら、だんだん、河をのぼるに、魚(うを)とらるゝこと、おびたゞし。

「大ふごにみてなば、やめん。」

と、いひつゝ網うつに、【川主の家の方《かた》なり。】河上にて、大かゞりをたく、影、見えたり。

 兩人、みつけて、立どまり、

「もしや、この雨にもさはらず、川主の出やしつらん。」

と、あやぶむ、あやぶむ、

「今少しにて、ふごにも、みちなん。」

とて、魚をとりつゝ、くらき夜(よ)なれば、

『河中までは、かゞり火には、てらされじ。』

と思ゐしに[やぶちゃん注:ママ。]、かゞり火のもとより、人、獨(ひとり)、たいまつを照して、川におり來りたり。

 「夜ともし」の躰《てい》なり。【「夜ともし」とは、よる、川中へかゞりをふりて、魚をとるなり。】

『すはや。』

と、心、さわぎしかど、

『あなたは一人、こなたは二人なれば、見とがめられても、いかゞしても、のがれん。』

と、心をしづめて、見ゐたりしに、【河右衞門がいふ。】

「あれは、人には、あらじ。持《もち》たる松の火の、上にのみ、あがりて、下におつる物、なし。化物のせうなり。」

と、見あらはしたり。

 いま一人も、此ことに心づきて、よく見しに、實《げ》に、火のさまのあやしかりしかば、兩人、川中にたちて、おどろかで有しかば、一間ばかりまぢかく來りて、立《たち》ゐしが、

『ばかしそこねし。』

とや思ひつらん、人形《ひとがた》は、

「はた」

と消《きえ》て、あかしばかり、中《ちゆう》をとびて、岡へ、上りたり。

「まさしく狐の化《ばか》したるを、近く見しこと、はじめてなり。」

と語《かたり》き。

 この見あらはせしは、梅津河右衞門と云ものなりし。

 眞夜に、ひとり、川をつかひて、更に、ものにおどろかぬものなりし。

 

[やぶちゃん注:「川主」恐らくは現在のアユの漁業権や漁期規定と同じで、特定の流域・特定の時期は、川漁をする漁師が限定的に決められていたものであろう。

「徒《いたづら》ごと」暇潰しの意で「つれづれごと」とも読めなくもないが、ここは川主の目を盗んでという前振りから、かく読んでおいた。

「孫澤」宮城県加美郡加美町(かみまち)孫沢か(グーグル・マップ・データ)。田川という川の左岸であるが、すぐ下流で鳴瀬川に合流しており、この鳴瀬川ではアユが獲れることが確認出来たし、この孫沢には、北部分に大きな「孫沢溜池」(但し、これは小さな灌漑専用のダムで昭和一二(一九三七)年の竣工である)があり、附近には、ここからも含めて、南に下る小流れが、三本ほど、現認出来る。

「河つかひ」ちょっと聴いたことがないが、プライベートな川漁のことであろう。

に行しに、狐火のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、下り、いくそばくてふ、數もしれざりしとぞ。

「魚(うを)とらるゝこと」やや使い方がおかしく感ずるが、「らる」は可能で、意想外に多く獲ることが出来たというニュアンスであろう。

「ふご」「畚」。ここは釣った魚を入れる魚籠(びく)のこと。「大」とあるから、竹で編んだものかも知れない。

「川主の家の方なり」そこの川主の家の近くで、明確にその主人専用の漁場にまで侵入していたのである。

「夜ともし」鵜飼を考えれば、納得が行く。長良川上流の郡上市美並町や中流の美濃市で今も行われている「夜網漁」がある。夜の川に網を張っておいて、舟上の篝火の明るさと、櫂を使って舟縁(ふなべり)や川面を叩く音で、鮎を網へ追い立てる、昔ながらの漁法である。また、海辺・河口附近での漁であるが、千葉の稲毛海岸の干潟での「夜灯(よとぼ)し漁」が知られる。夜の干潟や刈田で、海老・蟹・鯊・鰈・泥鰌などを概ね新月の時に灯りをつけて獲る伝統漁法である。

「化物のせう」「せう」は「性(しやう)」であろう。火の性質が通常の物理的な現象としてはあり得ない様態であることから、魔性の妖火と見切った(最後の「見あらはせし」がそれ)のである。この河右衛門の言葉を魔性の「もの」は聴き、その「言上げ」によって自身の正体がバレた故に、退散せざるを得なかったのである。このセオリーは本邦の民俗社会に於ける古くからの呪的システムなのである。但し、言っておくと、標題や話の中での彼らが見た妖火を「狐火」と呼んでいる結果として、読者は誘導されているのであって、「人」ではないことがバレたのであって、その物の怪が果たして真に狐であったかどうかは、定かではないわけである。

「兩人、川中にたちて、おどろかで有しかば」ここは特異点の用法で、「驚かなった」のではない(最後の「ものにおどろかぬものなりし」は今の「驚く」と同じでよろしいのだが)。この「おどろく」は「気がつく」の意。闇の中で、しかも安定の悪い川の中に立っていたために、距離感をちゃんと感ずることが出来ず、気づかないうちに、ごく近く(「一間」=一・八一メートル)まで人影が近づいてくるのに気づけなかったというのである。或いは、火と人影は実は別々にあったのかも知れない。大きな松明(たいまつ)のような火を、見た瞬間に人間が手にもって掲げて持っている松明と誤認して刷り込んでしまったとすれば、別にごく近くまできていた人影様(よう)のものに気づかないとしても、さらに不自然ではない。しかもそれは人ではなく化生(けしょう)の「あやかし」であったのだから、なおさらである。

「あかし」「灯(あかし)」。ここはその怪火。

「岡」川の岸の意味で「陸(をか)」ともとれるが、ここは川岸近くの有意に高さのある「岡」ととった方が、怪奇のクライマックスとして効果的である。]

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