奥州ばなし 砂三十郞
砂三十郞
鐵山公と申せし國主の御代には、「ちから持」といはれし人も、かれ是、有《あり》し中に、砂(いさご)三十郞と云《いひ》し士、男ぶりよく、大力にて、知惠うすく、みづから力にほこりて、大酒なりしが、酒に醉《ゑひ》て歸る時には、夜中、通りかゞり次第に、辻番所を引《ひき》かへすが、得手物にて、度々のことなりし。寺にいたりては、つき鐘をはづしてこまらせなど、大の徒人(いたづら《びと》)なり。
「細橫町《ほそよこちやう》といふ所に、あやしきものゝ出《いづ》る。」
と聞《きき》て、三十郞、行しが、餘り歸のおそき故、跡より、行《ゆき》てみたれば、塀(へい)かさ[やぶちゃん注:「塀笠」。]の上に、またがりて居たり。
「何故、そこにはのぼりし。」
と、聲かけしかば、
「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ。」
と云て有しとぞ。
「とく、ばかされしぞ。」
とわらはれて、心付しとなり。
其ころ、淸水左覺と云し人も、大男に大力なりしが、おとなしき人にて、さらにいたづらはせざりしが、三十郞と、常に力をあらそひて、たのしみしとぞ。
左覺、三十郞にむかひ、
「その方、力自慢せらるれど、尻の力は、我にまさらじ。先《まづ》、こゝろみよ。」
とて、尻のわれめに、石をはさみて、三十郞にぬかせしに、拔《ぬき》かねて有しとぞ。
左覺は、我《わが》おもふ所に、一身のちからを集《あつむ》ることを、得手《えて》たりし。
三十郞、男だてに、いろいろの惡食《あくじき》をせしとぞ。
「何にても、食《くひ》たるものを、はかん。」
といふに、心にしたがひて、はかれしとぞ。
是、一藝なり。昨日、食《くひ》たるこんにやくのさしみを、味噌とこんにやくと、別々に、はきてみせなど、したりき。
さかやきをすらせる時、頭中《あたまぢゆう》にちからをあつむれば、髮そり、をどりて、すられざりし。
ある時、酒の肴《さかな》に、うなぎを、生《いき》ながら、食《くはん》とせしに、早く、手をくゞりて、腹中《はらなか》ヘ一はしりに入《いり》しとぞ。腹中にてうなぎのあばれしこと、やりにて、つかるゝ如く、さすがの三十郞も、大《おほい》によはり、鹽壱升を、なめつくしても死せず、にごり酒二升、たてのみに仕《し》たりしかば、是にて、うなぎ、しづまりしとぞ。
この惡食にて、四、五日、腹の病《やまひ》にふしたりし。見廻《みまはり》に、左覺、來りて、やうす見合《みあはせ》、
『又々、なぶらん。』
と思ひて、
「いや、そこもとは、いろいろ、惡食せらるれども、犬の糞(くそ)は、くはれまじくや。」
と、とふ。三十郞、
「いや、是は、一向、氣なしなり。」
と、こたふれば、
「われらは、たて引《びき》なれば、食《くふ》てみせやう。いざ、ゆきて、みられよ。」
と、すゝめて、うす月夜のことなりしが、かねて、麥こがしをねりて、きれいなる石の上に、糞のごとく、つきかけて置しを、
「むさ」
と、つかみて食《くひ》てみせしかば、三十郞、大あやまりなりしとぞ。【昨日、當作饗《まさにつくれるあへ》、食物、既に腹内《はらうち》に入れば、半時にして消化せざること、なし。さるを、昨曰くらひしものを、一夜歷《ひとよへ》て、そがまゝに吐くこと、理《ことわり》のなき所なるべし。解[やぶちゃん注:曲亭馬琴の本名。]、云《いふ》。】
度々、江戶づめもしたりしが、新橋の居酒屋へ入《いり》て、酒をのみてゐたりし内、はき物を、とられしとぞ。【此頃までは、みだりに履物をとらるゝことも、なかりしなり。この時より、江戶中、客のはき物を、しまつすること成《なり》し、とぞ。大あばれして、町人に仕置せしは、三十郞が手柄なり。】歸らんとおもひて見るに、はきものなければ、亭主をよびて、
「はきものゝしまつせぬこと、あしゝ。」
と、りくつ、云《いひ》かゝる。亭主は、
「しらぬ。」
よし、こたへしかば、大《おほい》にいかりて、
「此みせに有《ある》うちは、旦那なり。『だんなの、はき物、しらぬ』といはゞ、よし。その過怠(くわたい)に、酒代、はらはじ。」
と云《いふ》を、
「それは、いかにも、御無理なり。」
といふ時、醉《ゑひ》きげんのあばれぐさに、
「さあらば、食《くひ》しものは、吐《はき》て、かへすぞ。」
と、いひながら、かの得手ものゝ分《わけ》ばきに、酒は、ちろりに、肴は、鉢に、味噌は、猪口《ちよく》と、其《その》入《いり》たりし器々《うつはうつは》へ、吐《はき》ちらすを見て、
『あばれもの。』
と思ひ、かやうの時、とりしづむる爲、かねて、たのみおきし若きもの、五、六人、つれ來《きたり》、かゝらせしに、片手につかみて、人つぶてに、打《うち》し故、
「すは、こと、有《あり》。」
とて、むらがる人を、なげのけ、なげのけ、屋敷をさしてもどる道筋、
「あばれもの、あばれもの。」
と聲かけしかば、何かはしらず、棒を持《もち》て出《いづ》る人あれば、とりかへして、なぐりのけ、
「はしごをもちて、とゞめん。」
とすれば、又、とり返して、むかふの人を、兩方へ、なぐり、なぐりて、おしとほる故、木戶を打《うち》しも[やぶちゃん注:閉じたところが。]、おしやぶり、むらがる人中《ひとなか》を、平地《ひらち》の如く、大わらはに成《なり》て、かへり、白晝に、はだしにて、御門《ごもん》へ入《いり》しかば、早々、仙臺へ、追《おひ》くだされたりき。
さりながら、
「氣味よき、あばれやうなりし。」
と、人々、かたりき。
三十郞、娘兩人、有しが、とりどり、美女、大力《だいりき》なりし。
姊、七ツなりしころ、大根漬《つけ》るに、
「おもはしき、おし石、なし。」
と云しを聞《きき》て、川近き家なりしかば、河原にいたり、
「是や、よからん。」
と思ふ石を、ひとり、とり持て、家に來り、
「此石が、よかろふ。」
と云しを見るに、子共《こども》の持《もつ》べしとも思はれぬ大石《おほいし》なりしかば、見る人、おどろき、
「其やうな大石を、子共はもたぬもの。」
と、しかりしかば、『ほめられん』と思ひし、心、たがひて、いそぎ、手をはなせしに、足の上に當《あたり》て、ゆび、壱本、ひしげし、とぞ。
其石を、かたづけんとせしに、大男、兩人して、やうやう、うごかしたりき。
外《ほか》に嫁しては、力は、かくして、さらに出《いだ》さゞりしが、ある年のくれに、年始酒《ねんしざけ》を作りて有しが、置所《おきどころ》、あしかりしを、
「置直《おきなほ》すには、皆、とり分《わけ》て、せねばならぬ。」
と云し時、
「このまゝにて、もたるゝや、いなや、心みん。」
とて、手も𢌞《まは》らぬほどの大桶《おほをけ》に、酒の、なみなみと入《いり》たるを、かろがろと、外の所へもち行《ゆき》て、すゑたりし、とぞ。
次の娘は、八才より、江戸の御殿につとめて有しが、誰《たれ》も力の有《あり》とはしらざりしに、御風入《おんかざいれ》有しころ、俄《にはか》に夕立して、雨の落かゝりたれば、外に出して有し長持を、片手打《かたてうち》に、上へなげ入《いれ》たりしを見て、
「力、有《あり》。」
とは、人、しりたりし。葉賀皆人《はがみなと》といふ人の妻と成《なり》て終りし。
[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年実業之日本社刊の熊田葦城(くまだいじょう:文筆家で歴史学者。報知社(現在の報知新聞社)の編集局長などを務めた。徳富蘇峰と親交し、彼と同じくジャーナリストとして歴史に関わる著作物を多く出版した)著「少女美談」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に、本篇の後半部がやや表現に手を加えた形で載っている。流石に、この標題の本に「犬の糞云々」の話のカットは仕方ない。なお、「葉賀皆人」の読みは、そのルビに従った。
「鐵山公と申せし國主の御代」「白わし」で既出既注であるが、再掲すると、仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。【二〇二三年十二月二十八日削除・改稿】真葛の「むかしばなし」の電子化注をしている中で、「119」に「鐵山樣」と出、『日本庶民生活史料集成』版の「むかしばなし」の傍注により、これは「徹山樣」の誤記であることが判った。仙台藩第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)で、彼の戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」に基づく。彼は宝暦六(一七五六)年七月、父宗村の死に伴い、家督を相続し(但し、当時、未だ十五歳であったため、若年を理由に、幕府より、国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主田村村隆の後見を受けた)、寛政二(一七九〇)年に次男斉村(なりむら)に家督を譲って隠居した。
「砂三十郞」不詳。
「辻番所を引《ひき》かへす」「引きかへす」というのは、「引っ繰り返す」で、無体な乱暴狼藉を働くということであろう。
「細橫町」現在の仙台市中心部を南北に走る幹線道路の一つである晩翠通(ばんすいどおり)の旧称。同ウィキによれば、『かつてこの通りの大部分は細横丁(ほそよこちょう)と呼ばれていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ」塀笠に跨っている訳だから、化かされて、塀を生き馬と錯覚させられている(笠は鬣(たてがみ)で腑に落ちる)為体(ていたらく)なのである。
「淸水左覺」取り敢えず「しみづさかく」と読んでおく。
「心にしたがひて、はかれしとぞ」南方熊楠と同んなじだ!!!
「たてのみ」立て続けに休まず一気に呑むことことであろう。
「いや、是は、一向、氣なしなり。」「さても、いやいや、それは、いくら何でも、全く食う気にはならんよ。」。
「たて引《びき》なれば」「立て引く」は「達て引く」などとも書き、「義理を立て通す・意地を張り合う」の意であるから、ここは「私が、かくも言い出したからには意地がある。食うて見せよう!」と言ったものであろう。
「麥こがし」「麦焦がし」「麦粉菓子」とも書く。大麦や裸麦を炒って、挽き粉末にしたもの。関西では「はったい粉」「炒り粉」とも呼ぶ。砂糖を混ぜて粉末のまま食べたり。熱湯や牛乳を注いで練って食べたりする。和菓子の落雁の材料でもある。安土桃山時代から、湯水に点じて、「こがし」 (今日の香煎(こうせん)に同じ)として好まれた。
「ちろり」酒を燗するための容器で、酒器の一種。注(つ)ぎ口と取っ手の附いた筒形で、下方がやや細くなっている。銀・銅・黄銅・錫などの金属でつくられているが、一般には錫製が多い。容量は一合前後入るものが普通。「ちろり」の語源は不明だが、中国にこれに似た酒器があることから、中国から渡来したものと考えられている。江戸時代によく使用された。
「猪口」「ゐぐち」「ちよこ(ちょこ)」とも読める。日本酒を飲む際に用いる陶製の小さな器。上が開き、下のすぼまった小形の盃(さかずき)。江戸時代以降に用いられた陶製の杯について称する。
「人つぶてに」拳固(げんこ)で。
「平地の如く」何の障害物もないかのように。
「白晝に、はだしにて、御門へ入しかば」この酒を飲んだ果ての大立ち回り、実は真っ昼間だったわけだ! 御門は仙台藩下屋敷であろう。品川区東大井(鮫洲)にあった(グーグル・マップ・データ)。
「ひしげし」潰れた。拉(ひしゃ)げた。
「御風入」夏の土用に、虫害や黴(かび)を防ぐために、屋敷全体に風を入れたり、仕舞ってある物品などを、庭や座敷に出して陰干しすることを指す。
「片手打に」片手だけでヒョイと取り上げて。
「葉賀皆人」不詳。]