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« 芥川龍之介 書簡抄 始動 /1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より | トップページ | 奥州ばなし 澤口忠大夫 »

2021/01/19

芥川龍之介書簡抄2 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(1)山本喜譽司宛2通

 

明治四三(一九一〇)年四月・芝発信・山本喜譽司宛

 

Dear Sir

とうとう英文科にきめちやつたもう動かないつもりだ

文科の志望者は年々少くなつて今では一高が辛うじて定員だけもしくは定員を少し超過する位で地方には殆ど定員だけの志望者がないといふ、これと同じ運命にあるのが理科だ相だ[やぶちゃん注:「さうだ」。当て漢字。]

何處迄所謂 lndustrial になるンだかわからない農科は近來秀才を吸收する新傾向を生じた相だ其一人が君なンだよ、

大に得意になつていゝ

音樂がきゝたくなつた大へんきゝたくなつた今目日も靑年會館に音樂會がある行きたいなと思つたけれどやめにした、

一寸變な氣がして思切つて出掛る勇氣がない、何時かもつときゝたくなつたら君に賴むから一緖に行つてくれ給ヘ

獨ぢや何年たつたつて行けつこはない

勉强してるだらうね僕は矢張やれさうもないタイイスだけは讀ンでる

來られたら來ないか義理でいやいや來たンぢやアいやだ來てもかたくなつて遠慮しちやアいやだ遠慮しなくつても來てすぐ歸るやうに忙しいンぢやアいやだ

中々來かたが六づかしいンだよ大門行へのつて宇田川町で降りる(新橋――源助町――露月町――宇田川町)降りて少し先へ行くと道具屋と湯屋との間に狹い橫町があつて湯屋の黑い羽目に耕牧舍の廣告がある其橫町を向うへぬけると廣い往來へ出るさうすると直[やぶちゃん注:「すぐ」。]耕牧舍の看板がある狹い橫町があるからそれをはいると右側に[やぶちゃん注:ここに以下の看板の図。底本の岩波旧全集からトリミングした。改行して示すが、原本文は前後が続いている。]

Gyunyu

が立つてるその向うの右側に花崗石を二列に敷いた路次があるそれをはいるとつきあたりに門があるその門の内へはいるとどこかの代議士の御妾さんの家へはいるから其門をくゞつちやアいけない門の左に格子戶がある格子戶をあけると左に下駄箱があつて其上にロツキングの馬がのつかつてる

此處迄來ればもう間違なく僕の机の所へ來られる筈だ芝の家の玄關がこれだから

平塚の所から手紙が來て肋骨はぬかずにすンだとかいてある當分寢てゐるさうだ序があつたら見舞に行つてやるといゝ

あの黑犬さえ居なければ僕も行くンだけれど。

さぞ細くなつたらうと思つたら淚が二しづくこぼれたでも二しずくきりつきやこぼさなかつた

本當に來られたら來給へ來る前にはハガキで知らせて吳れ給へ待つてるから

これからちよいちよい手紙をかく淋しくなれば方々へ手紙を出す其度に返事はいらない此方から出した手紙も讀ンでも讀まなくってもいゝ用がある時は狀袋に特にしるしをつけるから

末ながら皆さんによろしく 匆々

    四月花曇の日         龍

  喜   兄

  川やなぎ薄紫にたそがるゝ汝の家を思ひかなしむ

  ヒヤシンス白くかほれり窓掛のかげに汝をなつかしむ夕

  夕潮に春の灯(ヒ)うつる川ぞひの汝の家のしたはしきかな

 

[やぶちゃん注:旧全集より(以下同じ)。「灯」の「(ヒ)」はルビ。芥川龍之介満十八歳。ここにある通り、第一高等学校一部乙類の英文科への進学を決め、一日十時間もかけて受験勉強に精を出した。但し、実際には、この年から一高は成績優秀者の推薦による無試験入学を開始しており、芥川龍之介は、その無試験合格で入学することとなった。無試験合格組の中では龍之介は最上位から四番目であった。本人は合格したことは同年八月五日の官報で知った(新全集の宮坂覺(さとる)氏の年譜に拠る)。芝発信で本文に実父の牧場への案内があるのは、この四月から翌五月にかけて、龍之介は芝にある実父の牧場「耕牧舎」(東京府豊多摩郡内藤新宿二丁目七十一番地(現在の新宿区新宿二丁目)にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。)にある新原家で生活していたことによる。恐らくは落ち着いて試験勉強をするためと思われる。なお、この年の十月に、芥川家は一家でこの牧場の脇にあった敏三の持ち家に本所から転居している。

「文科の志望者は年々少くなつて今では一高が辛うじて定員だけもしくは定員を少し超過する位で地方には殆ど定員だけの志望者がないといふ、これと同じ運命にあるのが理科だ相だ」一九九二年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の鷺氏に解説によれば、『当時の高校の文化や理科は人気がなくて学生が集まらず、一高だけはどうやら定員を満たすという状況で、地方の高校は軒並み定員割れの状態が続いたため、この年から中学校で優秀な成績をおさめた者は無試験で高等学校への入学を許可するという制度が新しく』この年から『発足することにな』ったのであった。この制度は同年から『大正二年』(一九一三年)『まで四年間続けられた』とある。

「何處迄所謂 lndustrial になるンだかわからない」これは「日本がどこまで高度に発達した産業優先国家になろうとしているのか、私にはよく判らない」という謂いである。因みに、語りかけている大の親友で同い年の、東京生まれの山本喜誉司(明治二五(一八九二)年~昭和三八(一九六三)年)は、この年に同じく旧制第一高等学校を試験受験したが、不合格となり、翌年、一高を再受験し、第二部乙類(農科)に合格した。その後、東京帝国大学農学部に進学、大正六(一九一七)年に卒業し、三菱合資会社に入社、社長岩崎久弥から海外での農場経営の任務を与えられ、中国北京に滞在して綿花事業に携わった後、大正一五(一九二六)年にコーヒー栽培事業のためにブラジルに派遣され、サンパウロ郊外のカンピナス丘陵に岩崎彌太郎の号である「東山」を冠した東山農場を開設、翌年、三菱資本で合資会社「カーザ東山」を設立し、コーヒーを取り扱ったが、その他の産物や加工などにも事業を展開させて多角経営化を図った。第二次世界大戦中と戦後は、強いリーダーシップで日系ブラジル人の「勝ち組」と「負け組」の抗争終結と、日系人の権利回復に奔走した。大戦中に東山農場は敵国資産として、一時期、ブラジル政府に接収されたが、初代農場長だった山本のコーヒー害虫駆除・ユーカリ植林等の功績が評価され、戦後、比較的早い時期に返還されている。かく日系ブラジル人社会で活躍した農業家として、戦後混乱期のブラジル日系人社会「日系コロニア」を纏め、「コロニア天皇」とまで称された実力者となり、ブラジル日系人社会で彼を知らない人は、いない。コーヒー栽培の害虫駆除に有効なウガンダ蜂の研究で母校東京大学から農学博士を授与されている(以上は概ね彼のウィキに拠ったが、一部に疑問があるのでカットした。その部分(一高不合格と翌年合格の間)については、後に注することとする)。

「タイイス」フランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)が一八九〇年に発表した長編小説「タイス」(Thaïs)。四世紀頃の原始キリスト教時代のエジプトを背景に、舞姫タイスを救おうとした修道僧パフニュスが、彼女の魅力に惹かれて、地上の恋を叫ぶに至る過程を描く。フランスの作曲家ジュール・マスネ(Jules Massenet 一八四二年~一九一二年)によって三幕七場の「抒情劇」(comédie lyrique)と題されてオペラ化され(初演は一八九四年)、特に第二幕第一場と第二場の間の甘美な間奏曲「タイスの瞑想曲」(Méditation)は名曲としてとみに知られる。

「湯屋」江戸っ子の芥川龍之介なら、確実に「ゆうや」と読んでいるはずである。

「ロツキングの馬」Rocking Horse。欧米ではお馴染みの前後に揺らせる子供用の「揺り木馬」のこと。小型のミニチュアであろう。

「平塚」府立三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。この後、岡山の第六高等学校に進学したが、ここで「肋骨はぬかずにすンだ」(気胸術式を指す)で判る通り、結核で戻ってきて、千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。

「あの黑犬さえ居なければ僕も行くンだけれど」龍之介は大の犬嫌いであった。]

 

 

明治四三(一九一〇)年四月二十三日・芝発信・本所区相生町山本喜譽司宛

 

喜兄

朝から來給へ

平塚にも來るやうにさう云つてやりました、[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集では、この下方に以下の龍之介の手書きのイラストがある。当初、「青い鳥」の中の光の妖精かと思ったが、耳がやや長いものの、しっかり首輪と尻尾があるから、以下の台詞の直前でチルチルを助ける犬を描いたものであろう。]

Yousei

今日は家中妙華園へ何とか云ふ花を買ひにゆきました 僕にも行けと云つたのを斷つりましたがこの手紙をかきながら「行けばよかつたつけ」と思つてます、[やぶちゃん注:底本では「斷つ」の「つ」の脇にママ注記がある。]

チユリツプが四つともさきました一つ鉢へうえたので少し變ですが紅い奴が一つ黃色い奴が一つしぼりが二つ 紅い奴は甘い香がします、

   You see that man is all alone against all in the world.

メーテルリンクの中で「光」の精が森の樹の精にいぢめられた小供にかう云つて敎へるのですが面白いから御覽に入れます、こンな風に深奧な自然觀の片鱗が御伽芝居の中にちらばつてゐるのを見ても單なる御伽芝居でなくシムボリカルな所の多いのがわかります、來月は丸善へ來ますから獵人日記をよンだら是非よンで見給へ、匆々

 

[やぶちゃん注:「妙華園」現在の品川区西品川一、二丁目(グーグル・マップ・データ)にあった一万坪もの一大植物園。アメリカで園芸を学んだ河瀬春太郎(明治五(一八七二)年生まれ)が明治二八(一八九五)年に開園したもの。河瀬は、かのアメリカに贈られてワシントンのポトマック河畔に植えられたソメイヨシノの選定者でもある。

You see that man is all alone against all in the world.」ベルギー象徴主義の詩人で劇作家モーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の童話劇「青い鳥」(L'Oiseau bleu)の第三幕第五場の妖精の「光」の台詞。所持する講談社文庫の新庄嘉章氏の訳で示す。

   《引用開始》

 これでよくわかったでしょう。人間はこの世ではたったひとりで万物(ばんぶつ)とたたかってるんだということが……

   《引用終了》]

 

 

明治四三(一九一〇)年五月二十五日・消印二十六日・『二十五日松邊の寒村にて 龍之介』・東京市本所區相生町三ノ六・山本喜譽司宛・葉書

 

今朝は御見送り下され難有御礼申し上げ候大原より馬車にのり候處馬車馬が天下の名馬にて猪進少しも止らず馬車の覆らむとするもの屢少からず閉口仕候

午後一時半當地着 濤聲をきゝつゝこれをしたゝめ申し候 

Endousyoken 

[やぶちゃん注:「沿道所見」のスケッチともに旧全集より。この五月二十五日に芥川龍之介は千葉県勝浦(グーグル・マップ・データ)に出かけ、翌六月の初旬まで滞在していた。六日には西川英次郎及び山本喜譽司と三人で一高へ願書を出しに行っているので、恐らく前日夜には帰宅しているかと思われる。それにしても、芥川龍之介は三中・一高・帝大時代を通じ、頻繁に泊りがけの旅をしている。龍之介は河童で、水泳が得意であったから、中に海辺の避暑地が多いことが腑に落ちはするが、私など、三十二で結婚するまで、泊りがけの一人旅など、大学一年に鹿児島の病床にある祖父を見舞い、帰りに広島原爆記念公園を訪い、卒論に向けて尾崎放哉の墓のある小豆島西光寺に墓参したのと、教員になってから芭蕉・杜国の跡を偲んで伊良湖岬へ行った、たった二度しかない。妙に羨ましい気がした。]

 

 

明治四三(一九一〇)年六月一日勝浦発信・東京市本所區相生町三ノ六 山本喜譽司宛・繪葉書

 

晴れたる日 麥畑の黃ばめる丘の裾に橫はりて常夏月の暖き光をあびつゝ靑き海に小さき帆の蝶の如く群れたるを見卯の花の白くちりぼへる下に Thais の一卷を繙きつゝはるかに岩赤く水靑き南イタリーの橄欖の花の香を思ふ、彷弗としてヴエニス乙女らの奏づるマンドリンの響をきく心地致し候 匆々

  一日朝            靑萍生

  歸心日夜憶咸陽 龍

 

 

明治四三(一九一〇)年六月二十二日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

肅白

今晚はあがれなくなつた 海邊にゐて早く寐て早く起きた習慣で六時をうつともう寐くなる おまけに今日は朝から芝に行つてゐたので猶ねむい 寐るのであがらないのは甚失禮だが君は僕のよく寐るのを知つてゐるし君自身もすうすう寐るンだからまけて下さる事だらうと思ふ、

明日は芝へ行く明後日は醫者へゆく明後日の夜か明日の夜に君を訪ふかもしれぬけれどもたしかな事は云へない、

今度醫者に駄目だつて云はれたら書劍を抱いて舊都に放浪するつもりだ此頃はこンな事を考へると無やみにさびしくなる

今日のやうな雨の黃昏にあの柳若葉の滴の音のする部屋で勉强してゐる君の事を思つたら猶淋しくなつた、少し察してくれ

西川から「廿四日が早く來ないかな」と云ふ手紙が來た 廿四日も少し僕には食パンのやうに味がなくなりかけた、

冷笑と漱石近什と六人集とを御覽に入れる 雨の音をきゝながら讀ンでくれ給へ本も喜ぶだらう

六人集の中でアンドレエフの「霧」はうまく書かれてると思ふ 讀者をして讀者自身の生活を顧させる力があるやうな氣がする

アルツイバーセフの「妻」もいゝ

バリモントも面白かつた 全編を通じて伏字が多いのには恐れる、冷笑を僕が好むのは云ふ迄もない、漱石近什の中では夢十夜を最も愛すね 殊に第一夜と第六夜と第七夜がいゝ 最屢くりかへしてよンだのは三册の中で漱石近什だつた

歌いぶりもやめてる タイイスは皆よみきらなかつた

   うす靑き初春の空やほの白う山たゝなはり野は花葉さく

   黑土に芽ぐめる草の靑を見ていのちを思ふ、さびしき日なり

   豆の花うす紫に咲きぬらむ夕日にぬれし孤兒院の庭

右手帳から

勝浦へゆく途中のいたづらがきだから笑つちやアいけない、

醫者の方がしれ次第早速御しらせする いゝと云はれたらさぞ嬉しいだらうと思ふ 嬉しいにちがいないと思ふ

健康を祈る

    廿月二日        芥川生

    喜譽司樣

 

[やぶちゃん注:「廿月」の「廿」に底本編者のママ注記が附されてある。

「明後日は醫者へゆく」「今度醫者に駄目だつて云はれたら」「醫者の方がしれ次第早速御しらせする」「いゝと云はれたらさぞ嬉しいだらうと思ふ」諸年譜には一切記されていないが、この時、龍之介は何らかの体調不良(可能性としては肺)に悩んでいたことが判る。或いは結核の初期症状を疑うようなものだったのではないかと推察する。というより、この記載は神経症的な心気症を濃厚に感じさせる。

「書劍」ペン。

「廿四日」不詳。諸年譜に当たっても判らない。

「冷笑」ここでの筆運びへの自己韜晦か。

「漱石近什」「漱石近什四篇」この明治四十三年の五月に春陽堂から刊行された夏目漱石の作品集。収録作は「文鳥」夢十夜」「永日小品」「滿韓ところどころ」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原本全篇が読める

「近什」は最近発表された文芸作品を言う一般名詞。

「六人集」まさにこの年のこの六月に刊行されたロシア文学者昇曙夢(のぼり しょむ 明治一一(一八七八)年~昭和三三(一九五八)年)訳の「露西亞現代代表的作家六人集」。収録作品は「夜の叫」(バリモント)・「靜かな曙」(ザイツェフ)・「閑人」(クープリン)・「かくれんぼ」(ソログーブ)・「妻」(アルツイバーセフ)・「霧」(アンドレーエフ)。

「アンドレエフ」レオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев/ラテン文字転写:Leonid Nikolaevich Andreyev 一八七一年~一九一九年)。小説で「ロシア第一革命」の高揚と、その後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家となっていた。

「アルツイバーセフ」ミハイル・ペトローヴィチ・アルツィバーシェフ(Михаил Петрович Арцыбашев/Mikhail Petrovich Artsybashev 一八七八年~一九二七年)は十九世紀後半から二十世紀前半のロシア文壇を代表する作家。近代主義小説の代表的作品で、性欲賛美をした「サーニン」(Санин:一九〇七年)や、その続編となる自殺賛美をした「最後の一線」(У последней черты:一九一〇年~一九一二年)で知られる。

「バリモント」コンスタンティン・ディミトリエヴィチ・バリモント(Константин Дмитриевич Бальмонт/Konstantin Dmitriyevich Balmont 一八六七年~一九四二年)はロシア象徴主義の詩人で翻訳家。ロシア詩壇の『銀の時代』を代表する文人の一人。

「夢十夜」夏目漱石が明治四一(一九〇八)年七月二十五日から八月五日まで『東京朝日新聞』に連載した彼にして珍しいオムニバス形式の幻想小説。

「第一夜」「百年待つてゐて下さい」の話。後の芥川龍之介の「沼」(大正九(一九二〇)年三月発行の『改造』初出)は明らかにこの話のインスパイアである。個人的には「夢十夜」では好きな一篇である。

「第六夜」例の運慶の「荘子」みたような話。私個人は同前。

「第七夜」『何でも大きな船に乘つてゐる』が、『けれども何處へ行くんだか分らない』に始まり、『つまらなくなつた』自分は『とうとう死ぬ事に決心し』、『思ひ切つて海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板を離れて、船と緣が切れた其の刹那に、急に命が惜しくなった』。『けれども、もう遲い』。『自分は何處へ行くんだか判らない船でも、矢つ張り乘つて居る方がよかつたと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事が出來ずに、無限の後悔と恐怖とを抱(いだ)いて黑い波の方へ靜かに落ちて行つた』と終る話。私は昔、二十代の頃、これをイメージしながら、水上勉の「飢餓海峡」の主人公が死ぬ数時間を小説にしたことがあった。原稿の一片さえも残っていないが。]

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