奥州ばなし 白わし
白わし
近きころまで、此國の家老をつとめたりし、中村日向といふ人の在所、岩が崎といふ所の百姓に、山狩をこのみて、春夏秋冬ともに、山にのみ、日をおくるもの有し。外に「狩人(かりうど)」といはれて世をわたるともがらも、四、五人ありつれど、山路の達者、およびがたくて、友とする人なく、いつも壱人にて、かりありきしに、ある夕方、うしろより、しう【「ウ」、引(ひく)。[やぶちゃん注:原割注。シュウー!。]】といふ音して、
『頭をはたかれし。』
と思ひしが、のけさまに、たふれたりき。耳のわきより、血、出(いで)しかば、
『こは、たしかに、鷲にかけられたるならん。』
と、氣ばやくさとりて、終(つひ)に出合(いであひ)しことはなけれど、
『かゝる時はうごかぬぞよき、と聞(きく)を。』
と思ひて、卽死のていにて、もてなしてゐたりしは、ものなれしふるまひなりき。
眼をほそく明(あけ)て、あたりを見めぐらせば、ほど遠からぬ木の枝に、白羽(しらは)なる大わしの、すは、ともいはゞ、飛(とび)かゝらんず、と思へるさまにて、尾羽をひらきて、とまりゐたり【鷲の、一あて當てうごかねば、打ころしたりと思ひて、又、かゝらず。「うごく時は死なず」とて、又、かけらるゝ故、終に命うしなふものとぞ。[やぶちゃん注:原割注。]】。
『扨こそ、かれめが、なすわざなれ、につくし、につくし、とおもへども、うごかば、かけんのおそれ有(あり)。さりとて、むなしく見過(みすご)さんや。』
と、ひそかに、鐵砲を𢌞(めぐら)せしに、鷲の運や、つきつらん、さらにおどろかで有し故、一うちに打おとしてみれば、世に稀なる大鷲にて、足のふとさ、一束(いつそく)有しとぞ。
此羽《は》を、國主に奉りしかば、
「天下一の羽なり。」
とて、ことにめでさせ給ひしとぞ。
鐵山公御代のことなり。
この男は、一年に、熊、十の餘(あまり)を、いつも、えたり。
すべて、鐵砲をかつぎて山を行(ゆく)時は、鳥獸も懼(おぢ)おそれて、影かくすを、この鷲、あまり猛意にほこりて、狩人にあだなせし故、かへりて、やすくうたれしぞ、こゝちよき。
[やぶちゃん注:「中村日向」中村家は仙台藩重臣の家系であるが、真葛が直接に話を聴き得る人物とすれば、中村景貞(宝暦五(一七五六)年~天保四(一八三三)年:別名に「日向」がある。真葛より七つ年上)であろう。明和二(一七六五)年に家督相続、安永元(一七七三)年には第七第藩主伊達重村の同母妹を娶っている(但し、彼女は三年後に二十七歲で亡くなっている)。近習番頭から小姓頭を経、天明二(一七八二)年に奉行職(他藩の家老職相当)に就任、第八代藩主伊達斉村(なりむら:二十三歲で病没)の末期養子として幼少で相続した第九代藩主伊達周宗(ちかむね)を補佐した。しかし、その周宗も疱瘡で十四歳で死去してしまう。ところが、幕府によって大名の末期養子は相続時の当主の年齢を十七歳以上五十歳未満に規定していた。そこで景貞は幕府はもとより、藩内に於いても、周宗の死を三年間秘匿し、末期養子の規定抵触することなく、伊達斉宗の藩主就任に貢献したとされる(ここまでは主に彼のウィキに拠った)。真葛はこの前後に仙台藩江戸上屋敷に奥女中として奉公しており(安永七(一七七八)年九月十六歳に始まり、天明三(一七八三)年まで。その後は重村娘詮の嫁ぎ先であった彦根藩井伊家上屋敷に移ってさらに五年勤めている)、重貞との接点を充分に考え得るからである。
「一束」握り拳の親指を除いた指四本の幅。通常は矢の長さの単位に用いる。ここは後で矢羽になってしまうことから、謂いとしては自然である。
「鐵山公御代」仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。]