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2021/01/23

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作品には、明確にドッペルゲンガー(ドイツ語:Doppelgänger:二十身/自己像幻視/離魂病)を扱ったものとしては、「二つの手紙」(大正六(一九一七)年九月発行雑誌『黒潮』初出)と「影」(大正九(一九二〇)年九月発行『改造』初出)がある(リンク先は孰れも「青空文庫」。新字新仮名)二作があり、言及では「路上」(『大阪毎日新聞』大正八(一九一九)年六月から八月まで三十六回連載。未完。リンク先は同前)の「十六」に(引用は独自に岩波旧全集に拠った)、

   *

 俊助はかう云ふ問答を聞きながら、妙な事を一つ發見した。それは花房(はなぶさ)の聲や態度が、不思議な位(くらゐ)藤澤に酷似してゐると云ふ事だつた。もし離魂病(りこんべう)と云ふものがあるとしたならば、花房は正に藤澤の離魂體(ドツペルゲンゲル)とも見るべき人間だつた。が、どちらが正體でどちらが影法師だか、その邊の際どい消息になると、まだ俊助にははつきりと見定めをつける事がむづかしかつた。だから彼は花房の饒舌つてゐる間も、時々胸の赤薔薇を氣にしている藤澤を偸(ぬす)み見ずにはゐられなかつた。

   *

とあり、また、自己告白体の遺作(但し、「一 レエン・コオト」のみは死の前月六月一日発行の雑誌『大調和』に発表済み)の「齒車」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 まだ?」で小説執筆のために借りているホテルの部屋に戻った「僕」は、新らしい小説にとりかかっていたが、

   *

 けれども僕は四五分の後(のち)、電話に向はなければならなかつた。電話は何度返事をしても、唯何か曖昧(あいまい)な言葉を繰り返して傳へるばかりだつた。が、それは兎も角もモオルと聞えたのに違ひなかつた。僕はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]電話を離れ、もう一度部屋の中を步き出した。しかしモオルと云ふ言葉だけは妙に氣になつてならなかつた。

 「モオル――Mole………

 モオルは鼴鼠(もぐらもち)と云ふ英語だつた。この聯想も僕には愉快ではなかつた。が、僕は二三秒の後、Mole la mort に綴り直(なほ)した。ラ・モオルは、――死と云ふ佛蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姊の夫に迫(せま)つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の爲に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前(まへ)に立ち、まともに僕の影と向(むか)ひ合つた。僕の影も勿論微笑(びしやう)してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第(だい)二の僕のことを思ひ出した。第(だい)二の僕、――獨逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亞米利加の映畫俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、當惑したことを覺えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚(かたあし)の飜譯家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に來るのかも知れなかつた。若し又僕に來たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ歸つて行つた。

   *

とある。因みに、彼がかなり以前からドッペルゲンガーに強い関心を抱いていたらしいことは、龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」(しょうずしい:リンク先は私が二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクスト)の「呪詛及奇病」の「3 影の病」で、

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

とあることから見ても判然とするのである。【追記】本篇公開後の直後に、私は真葛の「奥州並奈志」の全文をPDF縦書版でオリジナル注を附して公開した。こちらの69コマ目が当該話である。是非、全文を読まれたい。

 さて、ネット上には、「芥川龍之介が自殺した原因は彼が自分のドッペルゲンガーを見たからである」などという無責任極まりない非科学的な糞都市伝説が横行している(龍之介がドッペルゲンガーを見たと感じたのは事実であるが、それは晩年とは限らない。但し、晩年に限るならば、そういう体験に漠然とした自身の死や致命的な災厄が近いという感じを持ったこと(これは洋の東西を問わず、民俗社会でよく普通に言われることである。私は三十代の頃に一度だけ、行きつけだった鎌倉のドイツ料理店の女主人から、「あなたと同じ顔をした同じ名前のセールスマンが、先日、来たよ」と言われてゾッとしたことがある)は「齒車」の一節から看取は出来る)。而して、そこでは大概、「ある座談会で芥川龍之介が自分のドッペルゲンガーを見たと言っている」と記してあり、その「ある座談会」という謂いに胡散臭いものを感じられる向きもあろうかと思われる。実はこのネタ元はウィキの「ドッペルゲンガー」の記載で(但し、これは河合隼雄「コンプレックス」(岩波新書・一九七一年十二月)のp.51を原拠としている。私は刊行当時に買って読み所持するはずであるが、流石に中三の時のもので書庫の底に沈んで発掘出来なかった)、多くの野次馬連中はそれを無批判に手軽に転用しているに過ぎない(縦覧した限りでは、この糞都市伝説を記しながらも、以下に示す原拠を正確に語っているのは、たった一件のみであった)。

 しかし、小説「齒車」に出現した「僕」の語るそれは、芥川龍之介自身が実体験であることを語っている活字物が存在するのである。「活字物」としたのは、彼の書いたものではなく、ウィキに記す通り、「座談会」記録であるからである。

 これは、自死する丁度二ヶ月前の、昭和二(一九二七)年五月二十四日に旧制新潟高等学校で講演(演題「ポオの一面」)を行った後の夕刻、宿泊先であった篠田旅館で行われた座談会の席上での他者による記録である。現在は岩波の新全集の第二十四巻に「芥川龍之介氏の座談」として掲載されているが、私は所持していない(新全集の新字体採用を嫌ったからであるが、この巻は買う必要があったのに、在勤していた高校の図書館にあったそれで済ませてしまった。この巻だけは未購入を甚だ後悔している)。しかし、この座談記録はもっと以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(一九六九年岩波書店刊)に収録されている。「芥川龍之介氏の座談」自体は勉誠出版「芥川龍之介作品事典」(平成一二(二〇〇〇)年刊)の奥山文幸氏の解説によれば、初出は雑誌『藝術現代』(昭和二(一九二七)年八月発行)で、記事の起筆者は恐らくは出席し、発言もしている精神科医式場隆三郎(明治三一(一八九八)年~昭和四〇(一九六五)年:新潟県中蒲原郡生まれ。。新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)卒業。新潟医科大学にて昭和四(一九二九)年に医学博士。多くの作家・芸術家らと交流を持ち、病跡学も手掛け、文化人としても知られる)と推定している。出席者は発言している長谷川一男(私は事蹟未詳。しかし問いや、発言から見て、相当な芥川龍之介のファンであると同時にかなりの文学通である。「ケタ平」は笑っちゃうけれど)・八田三喜(はったみき 明治六(一八七三)年~昭和三七(一九六二)年:当時の新潟高等学校校長。芥川龍之介の東京府第三中学校時代の同校校長であり、彼からこの講演要請があり、恩師のそれに快く答えたものである。しかし、龍之介は改造社の「現代日本文学全集」の宣伝講演旅行(里見弴と同社宣伝班と五月十三日に出発、講演終了は五月二十一日。新潟着はその翌日)からの帰途で、かなり疲弊していた)・式場隆三郎・伴純(生没年未詳だが、坂口安吾(新潟市生まれ)の「風と光と二十の私と」に、『今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ』(「ちくま文庫」版全集によった)とある人物と断定してよい。ウィキの「新潟新聞」に、大正一四(一九二五)年、当時の社員の『親友の弁護士で『改造』に文章を発表していた伴純』『が編集主事となった』とあり、これらの情報から、この座談会に出席しているのは彼だとほぼ断定出来るように思われる)の他に、『発言はないが、出席者として掲載されているのが、井深圭太郎、中川孝、安藤宅也、羽鳥芳雄』(奥山氏解説)とある。問題は長谷川一男と伴純で、没年が判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。

 なお、上記のような次第で、新全集版との校合は出来ない。しかし、初めて芥川龍之介の「ドッペル・ゲンゲル」の発言がったあったとして広く知られるようになったものであり、正字で電子化してある点で、相応の価値があると考えている。

 底本は先に示した葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に拠ったが、そちらでは、「新潟の座談會」となっているものの、題名は同じく示した「芥川龍之介作品事典」での、初出誌のそれと思われるものに代えた。個人の話が二行以上に亙る場合は、底本では二行目以降は一字下げになっているが、無視した。踊り字「〱」は正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。禁欲的に注を附した。

 なお、底本では葛巻氏が注する中で、『その「講演」は大変力のこもったもので、盛況であったらしいが、それに比較して、この「座談」会での彼は、主催者側も案外と思ったのでないかと思う程、元気がなく、憂鬱そうな彼が出て来ている。少くも、この「記録」に残った限りでは、註に「(皆な暫く沈黙。)」となっている暗い話題に、話が発展しがちであったらしい。――只、これは新潟から家族宛の便りにも、「をととひの夜新潟着。八田さんにいろいろ御厄介になる。」とある様に、この十数年前の恩師八田校長が、いろいろこの「座談」会の中でも、彼の気を引き立てる様に話を持って行こうとしているが、――これは編者のみではなく、この深い心づかいがなかったなら、彼は青森から、羽越線の列車をたどって、中学時代の校長八田三喜氏が、いまは校長をしている新潟高等学校迄、わざわざ「講演」をしに行かなかったに違いない。――又、帰京後、彼の言葉として、編者はこの事を聞かせられた様にも記憶する。なお、これは余事ながら、この北海道講演旅行中の彼は、青函連絡線で、乗船の際履きかえた上草履のままで、函館の往来で気づいたり、――時計をどこかに置き忘れるかと思うと、つれの里見弴氏の伴れ人を驚かそうとして、樺太長官夫人の寝台の真上の船窓をいきなり外からこじ明けて、首をつっこんでしまったり、いろいろ彼の、ふだんの家庭での一面も発揮している。(これは、里見弴氏の「追憶」に詳しい。)編者はいま、それらを想い出している。同時に、「羽越線の中で作る……」と書かれた、「山吹」の詩と一しょに。-―』と記しておられる。最後の部分は私の芥川龍之介「東北・北海道・新潟」を見られたいが、そこの私の冒頭注が異様に偏執的であるのは、この直後の行動に芥川龍之介のある重大な秘密が隠されていると私が考えているからである。それは……それ……私の注のリンク先を見られれば……よろしい……

 

 芥川龍之介氏の座談

 

長谷川 「河童」と「玄鶴山房」とどちらがお好きですか。

芥川 兩方好きです。(間)貴方はどつちが好きです。

長谷川 「玄鶴山房」です。あの調子でお進みになるのかと思つてゐたら「河童」が出たので驚きました。これからどうお進みになるのです。

芥川 僕は兩方へ進むつもりです。

長谷川 「點鬼簿」からすぐ「玄鶴山房」でしたか。

芥川 いゝえ。あの間に「春の夜」、「彼」、「彼(第二)」などありますよ。

式場 「河童」には何かリアルがあつたのですか。

芥川 ありません。[やぶちゃん注:以下の改行はママ。]

「玄鶴山房」は看護婦にきいた話です。「春の夜」もさうです。「玄鶴山房」であんなに惡く書いて了つたので何處かで恨んでゐるでせう。

長谷川 先生は何時か『人間』か何かに「お律とその子ら」と云ふ小說をお書きになりましたね。

芥川 書きました。『中央公論』です。

長谷川 あれは如何なさいました。單行本にもお入れになりませんね。

芥川 書き直さうと思つて、そのまゝになつてゐます。

長谷川 「俊寬」も單行本にお入れになりませんね。

芥川 あれも書き直さうと思つて書いたのが『文藝春秋』に載つた奴です。それも完成出來なくつてあのまゝになつてゐます。

長谷川 「春」はお續けにならないのですか。

芥川 そんなことはありません。然しどうなりますか。

長谷川 「邪宗門」も未完でせう。

芥川 (微笑)あれはたうとう駄目でした。書き直さうと思つてゐるのや、先をつゞけられなくなつたのが、こんなに(手で厚さを示しつゝ)あるんです。書き直しは案外骨が折れますね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。一字下げのままである。]

 夏目先生は書き直しなどする努力で新しいものを書けといつていられましたが、書き直しは全く大變ですね。

長谷川 「羅生門」をお書きになつたのはおいくつの時でした。

芥川 さあ二十三四でしたかね。[やぶちゃん注:満二十三の時である。]

長谷川 あれから少しも手をお加へにならないのですか。

芥川 えゝ加へません。書くのは書いたが何處でも出して吳れませんでね。方々賴んで步いたけれど駄目でした。やうやう『帝國文學』に載つたのでしたが、それを賴みに行つたのは靑木健作君の家でした。小石川で日は暮れる、雨は降る、犬には吠えられる、それに家が見つからず、全く心細かつたです。やうやう靑木君の家を見つけたんですが、引越した許りで取りこんでゐたので玄關で渡して來ました。始めは原稿料などを貰ふことよりも活字になることが嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「靑木健作」(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年)であろう。山口県都濃(つの)郡(現在の周南市)生まれ。小説家・俳人。東京帝国大学哲学科を卒。明治四三(一九一〇)年に「虻」を夏目漱石に賞賛され、「お絹」「錆たる鍬」などを発表した。この座談当時は法政大学教授。]

長谷川 初めて原稿料をお貰ひになつたのは「虱」でしたか。[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年五月発行の雑誌『希望』に発表。「鼻」が『新思潮』(第四次。同年二月十五日発行の創刊号に発表)に載って以来、初めての依頼原稿であった。龍之介満二十四歳。]

芥川 さうです。あれで參拾錢貰ひました。[やぶちゃん注:これは原稿一枚の稿料単位額を指す。「虱」は原稿用紙十二枚で三円六十銭であった。以下、改行はママ。]

 志賀さんの「淸兵衞と瓢簞」も參拾錢だつたといふ事です。あの頃は今のやうに書いたものがすぐ印刷になるといふわけには行かなかつたやうです。[やぶちゃん注:志賀直哉の「淸兵衞と瓢簞」は大正二(一九一三)年一月一日発行の『讀賣新聞』に発表された。この時、志賀は満二十九歳で、同月には初の短編集「留女」(るめ)を刊行。後にこの集は夏目漱石に賞賛された。]

長谷川 雜誌が少かつたのでせうか。

芥川 いや相當にあつたのです。たゞ編輯者が中々出して吳れぬのです。

長谷川 初めて『中央公論』へお書きになつたのは何でした。

芥川 「手巾」でした。『中央公論』へ出たものゝあれの原稿料は九拾錢でした。とても澤山貰つたやうな氣がして嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「手巾」(はんけち)は同じ大正五年十月一日発行の同誌に発表された。]

長谷川 久保田万太郞さんは先生の一年上[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]

芥川 いや二年先輩です。その上が後藤末雄君です。

八田 後藤君は今どうしてゐるね。

芥川 慶應で博士論文を書いてゐます。

八田 僕はいつか東京で遇つて一緖に夕飯を食べた事があるが、その頃もう文壇を離れてあゝいふ學究生活へ入らうとしてゐた頃と見えて、文壇て厭な奴ばかりゐるといつてこぼしてゐたね。

作川 さうでせう。今でもさういつてます。先日も東洋文庫で一寸逢ひました。勿論文壇だつていゝ所ではありませんがね。

長谷川 赤木ケタ平といふ人はどうしてゐます。

芥川 ケタ平といつちや氣の毒だな。は、は、は、(笑) コウ平といふのですよ。池崎忠孝のペンネエムですよ。今、大阪でメリヤス屋をやつてゐます。

長谷川 先生の飯田蛇笏のことを書いた中に出て來ますね。

芥川 えゝ久米の通俗小說で「赤光」といふのがあるでせう。あれは赤木の父の事を書いたのです。

長谷川 ではあの息子といふのが赤木氏ですか。

芥川 さうです。今でも發作的に時々何か書きたくなるさうですが、久しく筆を執らないと臆病になつて中々書けないものださうです。先日も仙臺で木下杢太郞君と遇つて話したんですが、木下君など文壇に遠ざかつてゐるので、下らない批評家に惡口を云はれても書く氣がなくなるらしいのですね。赤木は實に實に雄辯な男でした。あんな能辯の男は他に知りませんね。久米の戀愛事件の時なども、久米に『ガンペキの如く毅然として居れ』と云ふんです。その『ガンペキ』が盛んに出るが何の事か解らんので訊いたら『岩の壁さ』と答へたので笑つた事がありました。

長谷川 恆藤さんも雄辯家ださうですね。

芥川 いやあれは雄辯といふものではないのです。物を言ふ時理路整然としやべる丈けなのです。

長谷川 佐藤春夫さんは先生より早い人ですか。

芥川 あの男は十一二からものを書き出してゐますから書き出しは僕よりずつと早いです。佐藤は僕にもつとくだけろといつてゐます。喋舌るやうにしてどんどん書けといふのです。例へば港ヘ船が入るのを描寫するのに三十枚は書けるといふのです。その佐藤が田山花袋氏にもつとくだけていゝと云はれてゐるのですから、上には上がありますね。

長谷川 『改造』では谷崎氏と議論がお盛んですね。

芥川 二人で共謀して『改造』から原稿料をとつてゐるといふ評判ですよ。は、は、は、(笑)谷崎君は一番議論しやすい先輩なのと、近頃の谷崎君の書くものに不滿を持つてゐるのであんな議論をつゞけてゐるのです。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 世界で日本の文壇ほど文學者が色々書く所はないのです。僕など去年は仕事をしないしないと云はれてゐるが六つも書いてゐるのです。もう僕も百篇ばかり小說をかきました。ゴオグなど繪を描いたのは三年ださうですからね。

式場 さうです。一番盛んに描いたのはアール・サンレミイですからね。死んだオーヴルは二三ヶ月しかゐなかつたやうですね。

芥川 あの一度死にかけた時にかつぎ込まれた玉突屋でゴオグが寐せられた玉突臺が今も殘つてゐるさうですね。

式場 オーヴルのですか。

芥川 えゝ。齋藤茂吉君がさういつてましたよ。その玉突臺で平氣で今も玉を突いてゐるさうで、毛唐は隨分呑氣だと齋藤君は笑つてゐました。齋藤君はゴオグの病氣はメニヤだといつてましたがどうなんです。[やぶちゃん注:「メニヤ」偏執病。パラノイア(Paranoia)。内因性精神病の一病態。偏執的になり、妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序は保たれているものを指す。妄想の内容には血統・発明・宗教・嫉妬・恋愛・心気などが含まれ、持続し、発展する。判りやすく言うと、高機能型の妄想症であるが、少なくとも本邦では最近は病名として殆んど使用されないようである。因みに、フロイトは「精神分析学入門」でパラノイアは医師に対してラポートの状態を形成し得ないから、精神分析療法では治療は出来ない、と投げている。]

式揚 中々議論が多いのです。それは私の仕事の一部なのですが、といふ說が一番有力のやうです。何しろ癲癎の遺傳は濃厚にあるのですから。リーゼなどと云ふ人はクライストが記載してゐる癲癎の一異型に當てはまるといつてゐますが、ヤスパースは早發性癡呆だといつてますし、麻痺性癡呆だといつてゐる人もあるのです。[やぶちゃん注:「リーゼ」不詳。「クライスト」ドイツの精神科医カール・クライスト(Karl Kleist 一八七九年~一九六〇年) であろう。「早發性癡呆」現在の統合失調症。「麻痺性癡呆」脳が梅毒スピロヘータに侵された様態を指す語。梅毒にかかって数年から数十年をかけて後に発症する。知能に障害が出現し、末期には痴呆状態となる。「進行麻痺」「脳梅毒」と同義。]

芥川 さうですか。ストリントベルヒは何だつたんです。

式揚 パラノイアだといつてゐる人がありますが。

芥川 モオパツサンは立派な麻痺性癡呆だつたさうですね。

式場 さうです、病症日記が出てゐます。

芥川 ニイチエも精神病でしたね。

式場 えゝ。天才には隨分あります。

芥川 さうすると精神病など豫防どころか大いに養成すべきですね。齋藤君も自分は早發性癡呆になりさうでなど云つてました、ロンブローゾの說はおかしいですね。[やぶちゃん注:「齋藤」斎藤茂吉。]

八田 いや、ロンブローゾの說は天才は狂人に過ぎぬからつまらぬといふのではないだらう。

芥川 島田淸次郞など齋藤君に云はせると「地上」に既に早發性癡呆の症狀が現はれてゐるといつてますがね。[やぶちゃん注:「島田淸次郞」(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)小説家。石川の生まれ。大正八(一九一九)年に刊行した長編小説「地上」がベストセラーとなったが、統合失調症を病み、異常行動を起こして保養院に収容された。統合失調症の方は回復したとも伝えられるものの、結核と栄養失調に苦しみ、しかも執筆を継続したが、肺尖カタルが悪化して療養中に病死した。]

伴 僕はもつと先きからだと思ひます。金澤にゐる頃僕は時々逢つたのですが、大言壯語して何百枚書いたと意張つてゐたものです。それが十五六の少年なんで變な氣がしてゐました。私はあの頃から病氣が始まつたのだと思ふのです。

芥川 然し解りませんよ。彼の作が二三百年後にはどういふ眼で見られるかは。今の若い作家で、兎も角あれ丈け書ける人は少いと思ふですね。正宗白鳥氏が『改造』に書いてゐますが今度活動になつた「我もし王者たりせば」のフランソア・ヴョンは、十五世紀の人ですがひどい犯罪者で何年に死んだかも解らん程の男ですが今は大變な人氣で、硏究の本も出てゐるんですからね。[やぶちゃん注:「我もし王者たりせば」邦題は「我れ若し王者なりせば」(原題:The Beloved Rogue)が正しい。一九二七年公開のアメリカの無声映画。十五世紀フランスの盗賊にして詩人であったフランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以降)の生涯に基づいたもの。主演は名優ジョン・バリモア(John Barrymore 一八八二年~一九四二年)。次の改行はママ。]

然し彼が認められるまでは、三世紀もかゝつてゐます。あらゆるものを認めたアナトール・フランスまでが認めなかつたのですから、時世によつて人間の運命など變るものですね。例へば今の十人殺しとかをやる罪人も戰國時代に生れたら、どんな武將となつたか知れないし、藝術上の天 才も戰國時代などに生れたら、隨分みじめなものでせうからね。そして、さういふ天才が戰國時代に埋れてゐなかつたとは云ひ切れませんからね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 天才には隨分悲慘な最後を違げた人も多いですね。

長谷川 スウフトなどもさうだつたのでせう。「ガリバー旅行記」を書いた……。

芥川 さうです。スウフトには凄い話があります。冬の曇つた日、窓からしきりに外を眺めてゐるのださうです。『何を見てゐる』のかと家人が聞くと、一本の枯木を指しながら、『俺もあの木の樣に頭から先きに參つて了ふのだ』と云つたさうです。兎に角天才を側から凝望してゐるうちはいゝが、自ら天才になるのは悲慘ですね。その點で菊池の「屋上の狂人」などはうそですね。(皆笑ふ)夏目先生も被害妄想や幻聽があつたさうです。夏目先生はよく塀の外で誰か惡口を云つてゐると云つて怒鳴つたり、ランプを火鉢へ投り込んだりした事があるさうです。[やぶちゃん注:「スウィフトには凄い話があります。冬の曇つた日、……」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「人間らしさ」』を参照されたい。「夏目先生も被害妄想や幻聽があつた」私は夏目漱石はイギリス留学中に重度の強迫神経症に罹患したと今は思っている(嘗ては関係妄想傾向の強い統合失調症を疑ったが)。]

式場 高濱虛子が書いてゐますね。

芥川 さうです。然しもつと色々の事があつたのです。夏目先生のさういふ方面が全く傳はらないのは惜しい事です。それで近い中にさういふ方面の先生を詳しく書いた本が出る筈ですが、兎も角先生の性格には病的な所があつたのは事實ですね。或時、音樂會へ行つて隣の席にゐる毛唐の女に向つて、―― Are you wood ? ――眞面目な顏をして訊かれた事があつたさうです。

八田 然し精神病の本を頂むと、その症狀がどれも自分にもあるやうな氣がしますよ。

芥川 僕なども精神病の本を讀むと自分を疑つて來ますね。それで齋藤君にあまり讀むなと云はれました。一體ノーマルといふ事はどういふ事なんでせう。

式場 さあ、それが判つきり云ひ切れないのですね。ブレークなども子供から幻視があつたのです。

芥川 昔の赤不動の繪なども空想だけでは描けないと思ふのです。誰かにそれらの畫家はさうしたものを見たと思ふんです。

式揚 僕もブレークに幻視がなければ、あの繪は描けなかつたと思ひます。「虱の幽靈」などといふ繪も自分で見て描いたといつてますね。[やぶちゃん注:「虱の幽靈」The Ghost of a Flea。ウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の一八一九年から一八二〇年の作。親友の占星術師ジョン・ヴァーリー(John Varley)に頼まれ、降霊会のために描かれた。左手にはドングリの実で作られた杯、右手には植物の棘を持つ。サイト「MUSEY」のこちらで見られる。]

芥川 さうです。

式場 ドペル・ゲンゲルの經驗がおありですか。

芥川 あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現はれました。

八田 然し二重人格といふのは人の錯覺でせう。或はうつかりしてゐて人違ひをするのぢやないですか。

芥川 さういつて了へば一番解決がつき易いですがね。中々さう云ひ切れない事があるのです。或人の話で、自分の部屋へ入つたらちやんと机に向つてゐる第二の自分が立ち上つて出て行つたので、母に話したらいやな顏をしたさうです。そして間もなくその人は死んださうです。その家は代々さうして二重人格が現はれては人が死ぬんださうです。

式場 ドペル・ゲンゲルは死の前兆だと云はれるので僕も出たのでひやひやしましたよ。

八田 さうですか。西洋にもあるんですか。

式揚 あります。そして矢張り不吉な事とされてゐるのです。ドストエフスキーの有名な小說があります。[やぶちゃん注:「ドストエフスキーの有名な小說」「分身」(Двойник)(「二重人格」とも訳される)。中編小説。一八四六年『祖国雑記』第二号に発表された。「貧しき人々」で文壇に華々しくデビューしたドストエフスキーの第二作目。]

芥川 ゲエテも現はれたといつてます。自分の馬に乘つて行くのをゲエテは見たさうです。[やぶちゃん注:私の偏愛するサイト「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」を参照されたい。そこに、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が、一七七一年頃、『ある日、フリーデリケ』(フリーデリケ・エリザベス・ブリオン(Friederike Elisabeth Brion 一七五二年~一八一三年:牧師の娘であった)『という女性と別れた』(但し、ゲーテの方から関係を断ち切った)『ショックで意気消沈して馬で帰る途中、ゲーテは馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、『実際の目ではなく、心の目で見たというのだが、その男は着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿になぜか心が穏やかになって、このことはまもなく忘れてしまった』しかし、八『年後、ゲーテがその同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、これとは別な時、『ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったままゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒがゲーテが通りで見たのと同じ服を着てそこにいた。友人は急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだという』とある。後者はドッペルゲンガーとしても特異なケースである。]

式揚 「靑い塔の中のストリントベルヒ」といふ本だつたかにもストリントベルヒの二重人格の事が書いてあつたやうです。バルコニーに現はれて帽子をとつて下を通る人に挨拶したんださうですが、事實その時ストリントベルヒは机に向つてゐたさうです。[やぶちゃん注:「靑い塔の中のストリントベルヒ」スウェーデンの劇作家・小説家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg  一八四九年~一九一二年日)晩年六十代の折りに恋人となった(四十一歳年下)スゥエーデンの画家で女優のフアンニイ・ヨハンナ・マリア・フアルクネル(Fanny Johanna Maria Falkner 一八九〇年~一九六三年)が一九一一年頃に書いたストリンドベリの回想録「青い塔の中のストリンドベリ」(邦訳「ストリンドベルクの最後の恋」秦豊吉(東京帝国大学法科大学独法科卒。翻訳家であると同時に実業家でもあり、日本初のヌード・ショー「額縁ショー」の生みの親としてとみに知られる)訳・大正一三(一九二四)年)のこと。]

芥川 齋藤君の話だと幻覺と錯覺と區別のつかぬ事があるさうですね。

式揚 時々判斷に困る事があります。

芥川 錯覺など面白い現象ですね。

式場 私は錯覺の一部分を調べたのですが、子供が一番少く、次はノーマルな成人で、精神病者は一番大きかつたです。頭のいゝ人や想像力の豐かな人ほど大きいと云つてゐる人があるのですがね。

芥川 さうでせうなあ。精神病者は最も進んだ人間だと云つていゝですね。(皆な暫く沈獸。)

長谷川 改造社の宜傳旅行に出られたんですか。

芥川 えゝ。北海道まで行つて來ました。靑森で里見君と別れて來ました。

長谷川 小學生全集も大變でせうね。[やぶちゃん注:「小學生全集」サイト「古本 海ねこ」のこちら(初級用。上級用はこちら)に写真入りで詳しい解説がある。それを見ると、龍之介の死の翌年の刊であるが、「小學生全集初級用 第十六卷 日本文藝童話集・下」に龍之介「杜子春」が収録されてある。]

芥川 あれは菊池の仕事ですよ。僕はそれを助けてゐるに過ぎないのです。

長谷川 菊池さんは創作を書かれませんね。

芥川 さうですね。事業家になつたんです。

式場 大變御邪魔をしました。ではこれで失禮します。(昭和二年五月廿四日夕 篠田旅館にて)

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。最後の署名は「長谷川」と「式場」の合成かも知れない。]

(附記。速記した譯ではなく、あとで記憶をたどつて書いたので間違つてゐる所もあると思ひます。芥川氏並びに出席された方の御寬恕を乞ふ次第です。――H・S生記)

 

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