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2021/01/25

芥川龍之介書簡抄4 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(3) 山本喜譽司宛五通

 

明治四三(一九一〇)年九月十六日(推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

水曜日から授業有之、一週獨語九時間英語七時間と云ふひどいめにあひ居候 敎科書はマカウレイのクライブ カーライルのヒーロー ウオーシツプ及ホーソーンの十二夜物語の拔萃に御坐候 存外平凡なもののやうに候へどもそれを極めて正確に且極めて文法的に譯させ候まゝ中々容易な事には無之候 殊にクライブを講ずる平井金三氏の如きは every boy を「どの小供でも」と譯すを不可とし必ず「小供と云ふ小供は皆」と譯させ I have little money を「あまり金を持つてない」と譯すを不可とし「金を持つ事少し」と譯させる位に候へば試驗の時が思ひやられ候

Class の人々は流石に皆相當な abilityのある人ばかりに候 殊に僕の兩隣にゐる二人の如き共に哲學科の人に候ヘども學力の正確(豐富ならざるも)なると比較的廣く讀み居るとに於て 中々話せる人たちに候 四日ばかりの中にもう「です」語をやめて「だ」語を使ふくらいになり候へば Class の人々とも大かた話しをする程度までに親み來り候

され共他人の中へ出たる心細さはまだ中々心を去らず候 折にふれて何となくなさけなくなり頭をたれて獨り君を思ひ候 あまりのしげく御訪ねするもあまりたびたび手紙をさし上げるのも何となく氣が咎め候へば心ならずも差ひかへ居候へども 獨語の拗音のこちたきに 思ひまどへる時などには すぐにも君に逢ひたくなり候

豫備校に御通ひに相成候ひてよりは定めし御忙しき事とは萬々承知致候へども折々の御たより下さらばうれしかるべく されどそもそも御復習を妨げてまでには及ばず候

新宿へうつるは來月に相成り候ふべく目下二度目の通學願書をさし出し居り候猶フイルハアモニツクソサイテーの演奏の時には御一緖に聞く事が出來候や 此頃は無精をして新聞をよまない事が多く從つて同會の演奏がいつあるやら知らず候 新聞にて御見つけの折は御知らせ願度候

此手紙はたゞ一高の狀況と用事とのみを記すつもりにて認め候

しかも筆のすゝむにつれて心絃幾度かふるひて君を思ふの心いつか胸に溢れ候

正直な所を申せば僕は君の四圍にある人に對して嫉妬を惑じ候、僕の君を思ふが如くに君を思へる人の僕等のうちに多かるべきを思ふ時此「多かるべし」と云ふ推察は「早晚君僕を去り給はむ」の不安を感ぜしめ此不安は更にかなしき嫉妬を齎し來り候

恐らくは 僕のおろかなるを哂ひ給ふ事と存候へども折にふれて胸を掠むる[やぶちゃん注:「かすむる」。]此かなしき嫉妬はしかも僕をして淋しき物思に沈ましめ候 かゝる物思のさびしさは此頃になりてはじめてしみじみ味はひしものに候

されども其さびしさの中に熱きものは絕えまなく燃え居候 あゝ僕は君を戀ひ候 君の爲には僕のすべてを抛つを辭せず候

人は僕の白線帽を羨み候へども君と共にせざる一高の制帽はまことに荊もて編めるに外ならず候 哂ひ給はむ嘲り給はむ 或は背をむけて去り給はむ されども僕は君を戀ひ候 戀ひざるを得ず候

君の爲には僕は僕の友のすべてにも反くをも辭せず候 僕の先生に反くをも辭せず候 將[やぶちゃん注:「はた」。]僕の自由を抛つをも辭せず候 まことに僕は君によりて生き候 君と共にするを得べくんば死も亦甘かるべしと存候

何となく胸せまり候 思、乱[やぶちゃん注:字体はママ。]れて何を書いていゝのやらわからなくなり候

唯此ふみよみ給はむ時 願くは多くの才人の間に伍して鼠色の壁の寒げなる敎室の片隅に黑板をのぞみつゝ物思にふけれる愚なる男の上を思ひ給へ、これにて筆を擱くべく候 夜も更け候へば 心も亂れ候へば

    十六日夜          龍弟

   喜譽司兄

  追伸 近き日の夜御訪ね致したく候 何曜日がよろしく候や伺上候

 

[やぶちゃん注:山本への、読者がちょっと身を引くような、強い同性愛感情が吐露されている一篇である。

「水曜日から授業有之、……」この当時の入学期は九月で、同年は入学が九月十一日(日曜日)で、入学式は十三日であった。宮坂覺氏の新全集年譜によれば、同級には石田幹之助・菊池寛・倉田百三・成瀬正一・井川恭・松岡譲・久米正雄・山本有三・土屋文明(最後の二人は落第による原級留置)らがおり、一級上には豊島与志雄・近衛文麿らがいた。授業はこの二日前の九月十四日(水曜日)であった。なお、この九月十一日には実姉ヒサが葛巻義定と離婚している。

「マカウレイ」イギリスの歴史家・詩人で政治家のトーマス・バビントン・マコーリー(Thomas Babington Macaulay 一八〇〇年~一八五九年)。

「クライブ」英領インドの基礎を築いたイギリスの軍人・政治家ロバート・クライヴ (Robert Clive 一七二五年~一七七四年)。マコーリーの随筆に「Lord Clive」(クライヴ卿一:八四〇年)がある(没後の一八四三年刊の彼の「Critical and Historical Essays: Contributed to the Edinburgh Review」の中に収録されてある)

「カーライル」イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 一七九五年~一八八一年)。

「ヒーロー」カーライルが一八四一年に行った講義の集成「On Heroes, Hero-Worship, and The Heroic in History.」であろう。

「ウオーシツプ及ホーソーンの十二夜物語」「ホーソーン」はアメリカの作家ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne 一八〇四年~一八六四年)であろうと思われ、「十二夜物語」は、シェイクスピアの喜劇(Twelfth Night, or What You Will)であろうが、「ウオーシツプ」は不明(綴りは Ossip 或は Osip か?)。ロシア出身の劇作家オーシップ・ディーモフ(Осип Дымов:Ossip Dymov八七八年~一九五九年(本名は Иосиф Исидорович Перельман で、ラテン文字転写すると、Iosif(=Joseph) Isidoroviych Perelman(イョーシフ・イシドーローヴィチ・ペレルマン)でペン・ネーム名との近似性が確認出来る)がいるが、但し、彼がアメリカに移住して英語圏で活躍するのはこの後の一九一三年である。或いは、この「ウオーシツプ及」(および)「ホーソーンの十二夜物語」という少し引っ掛かる謂いは、或いはロシア語の英訳注を指すのかも知れないとも思ったことは言い添えておく。私が彼を思い出したのは、後に龍之介が書いた「骨董羹 ―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載されたもの)に「オシツプ・デイモフ」の名が出ることを覚えていたからである。リンク先は私の電子テクストで、因みに、私は『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん』という特殊な口語翻案テクストをも、ものしてある(孰れも私の注附きである)。

「平井金三」(ひらいきんざ 安政六(一八五九)年~大正五(一九一六)年)京都生まれの英文学者。反キリスト教論者として仏教復興運動の最高潮を齎し、明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「世界宗教会議」では「不平等条約」に関して雄弁を揮い、満場の喝采を浴びた。後には心霊研究や禅的瞑想法を実践するなど、さまざまな領域で活躍した(以上は主にこちらの論文採録を参考にした)。「世界宗教会議」での彼の一人勝ち様子は、京都・宗教系大学院連合二〇〇七年一月発行『京都・宗教論叢』の『「京都・宗教系大学院連合」設立記念シンポジウム』内の「パネルディスカッション」の中の同志社大学神学部神学研究科教授森孝一氏の「平井金三とシガゴ万国宗教会議」の採録(26コマ目以降)が圧巻である。ネット上の諸記載を見ると、かなりの「変人」の部類に入る感じがする人物で、芥川龍之介がかく具体に書いているのも頷ける気がした。

ability」能力。

「こちたき」「言痛し・事痛し」「こといたし」の音変化。「煩わしい」・「大袈裟だ」・「沢山ある。程度が甚だしい」の意。

「豫備校に御通ひに相成候ひてよりは……」既注通り、山本は、この年に同じく旧制第一高等学校を試験受験したが、不合格となった。以下、幾つかの解説は――慶應義塾大学理財科予科に進学したものの、翌年、一高を再受験し、第二部乙類(農科)に合格した――とするのであるが、所持する二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼の項によれば、一高不合格となった後、『一時は慶應の理財科へ進学を決意するが、芥川と恩師広瀬雄の勧めにより翻意、しかし試験にも失敗、翌年一高を再受験して果たす事となる』とあるので、そちらが正しいと私は、とる。

「新宿へうつるは來月に相成り候ふべく目下二度目の通學願書をさし出し居り候」転居の件は「2」で既注済み。ただ、そこでは書かなかったが、この実父新原敏三の新宿の耕牧舎牧場の脇にあった家というのは、実は敏三が葛巻義定と娘ヒサの新居として建てたものであったのだが、先に注で示した通り、二人の離婚によって空家となっていたのであった。なお、当時の一高は三年制で、各学年約三百名の学生がおり、原則、一・二年生は全員が寮に入らなければならなかった。しかし、龍之介は入寮を嫌い、校外からの「通学願書」を提出して、一年次は遂に寮に入らずに済んだのであった。この「二度目の」というのは、その転居に関わっての再提出願書ということであろう。なお、そのあがきも流石にそのままでは許されず、二年次には龍之介も一年間入寮している。

「フイルハアモニツクソサイテー」Philharmonic Society。実業家で三菱財閥四代目総帥であった岩崎小弥太が、イギリス留学時代(彼は一九〇五年(明治三十八年)ケンブリッジ大学卒である)の友人を誘って、音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」を設立している。その企画公演であろう。この後に続く山本宛書簡に『明日は休みに候へば切符は僕が行つて君のとも二人分貰つて來てもよろしく候 勿論君に貰つて來て頂いてもよろしく候 同時に別々に行て貰つて來てもよろしく候』『どれに致すべき乎伺上候』(月不明・日付十一日)とあったり、『日比谷の演奏が土曜日になりました 芝でお待ち申します』(月不明・日付八日)とあるのは、この団体の音楽会のそれなのかも知れないが、孰れも年次推定で不確かである。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)九日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)・岩波旧全集書簡番号三九

 

昨日平塚來り候 君を訪ひ候ひしも御不在なりし由申居り候

明夕は本所に居るべく候 御誘ひ下さらば幸甚 唯天氣模樣が心配に御坐候 御手紙は難有拜讀仕候

 

   いつ知らず戀知りそめぬいつ知らず大野に草の靑ばむが如

    九日朝 雨ふらむとしてふらず雲低し

                   龍生

   あぽろの君

  追伸 之より芝へ行く所に御坐候

 

[やぶちゃん注:前に示した書簡の間に九月二十三日附と十月十四日附の山本宛書簡を挟んで旧全集に載る。或いは注意深い方は、「これはこの年次としても、ここよりも前に配されるべきではないか?」と考えるかも知れない。「この年の秋には芥川家は本所から新宿の先に示した家へ転居しているのだから」という理由からである。しかし、必ずしもそうとは言えないのである。宮坂覺氏の年譜によれば、この年の『秋』(月などの特定がない)に転居した旨の記事を記された後に、十『月に龍之介とフキが移り、翌年』二『月頃までに一家が移った、とする記述もある』とあるからである。この記述によるなら、彼が「明夕は本所に居るべく候」というのは何ら齟齬を生じないのである。にしても――芥川龍之介の生涯は生誕から自死まで――テツテ的に親族・姻族に振り回された生涯であったことを、私はしみじみ感ずる。私なら、それだけで自殺したいと思う精神状態に向かうような気さえするほど、その外的(これに関しては龍之介自身責任は殆んど全くない点で「外的」なのである)圧迫は晩年へ向けて波状的に生じているからである。因みに、山本の家は本所にあった。恋しんだったら、「自分から逢いに行けばよかろうに」という御仁は配慮が足りない。山本は再受験への猛勉強中なのだから。なお、私がこの短文書簡を選んだのは、以上のようなことを言いためでは――ない。添えられた短歌一首を採録するためである。私は「心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇 縦書完備」で「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)」や、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」、及び、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」をものしているが、例えば私の詩集と歌集では、書簡までは手を出していない。従って、この一首も始めて電子化するものである。されば、少なくとも、私が詩(定型・自由詩・戯詩を問わない)と和歌(俳句は書簡も総て検証したので、原則、外す)と判断したものについては、ここで電子化しようというのである(但し、新全集書簡部は所持しないのでそれは、原則、漏れることとなる)。私の「芥川龍之介 書簡抄」は気儘な覗き見趣味の変態的仕儀なんぞではないということを、ここでお断りしておくものである。

「平塚」既注

「あぽろの君」底本の「後記」を見るに、この宛名は、これ以前から『お互いの間で使われていたものと思われる』という旨の記載がある。

「芝」実父新原敏三家は芥川龍之介誕生(明治二五(一八九二)年三月一日。芥川家へ預けられたのは、はっきりしないが、母フクの精神不安定の発現が同年十月末(翌年一月ともされる)で、恐らくそれと時を同じくして出されたものと考えられる)の翌年に入船町から芝に転居している。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)五日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

酒ほがひを御貸し申します 中でいゝと思つた歌に色鉛筆でしるしをつけて置いて下さい、

是非願ひます、

    五日夜

 

[やぶちゃん注:「酒ほがひ」「さかほがひ」(現代仮名遣「さかほがい」)と読む。歌人吉井勇(明治一九(一八八六)年~昭和三五(一九六〇)年:龍之介より六歳年上)は第一歌集。この明治四三(一九一〇)年九月(昴発行所)。短歌嫌いの私が特異的に偏愛する歌集である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本が読める。舌も干ぬ間だが、この書簡は全くの私の趣味で採った。但し、書簡との関連で載せてよかろうとも思ったものである。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)七日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

芳墨拜誦

「さぞく御忙しき事と察上候」は恨めしく候

五日の夜は全寮茶話會にて五時より翌曉二時に及び候 當夜舊一高選手長濱先輩の一高對早慶の勢力を比較し勝算殆我手にあらざるをつげ今や輸贏の法唯應援の如何に存するのみなるを云ひ近く高師の運動會に於て早慶の豎兒が大塚台上「一高恐るゝに足らず」と傲語したるを叫ぶや一千の兒皆悵然として聲なき事石の如く中に感極まつて嗚咽するものあり 僕亦覺えず双淚の頰を濕すを感じ候

而して昨日は駒場に大白幡を飜して應援に赴き候ひしも命運遂に非也「時不利騅不逝」桂冠をして空しく竪兒の頭に載かしむるの恨事を生じ候

來む[やぶちゃん注:「こむ」。]土曜日は大學對一高の綱引に候而して再一高の選手が敵を待つの日に候

此頃柳田國男氏の遠野語[やぶちゃん注:ママ。]と云ふをよみ大へん面白く感じ候

タイイスに御かゝりの由大慶に存候 タイイス御讀了後は何を御讀みなさる豫定に候や

酒ほがひ本所にあり未御選歌をよむの光榮に接せず明朝こつちへ送つてもらふ豫定に候

歌(歌と名づけ得べくんば)二つ三つかくつもりに候ひしもやめに致し候 拜晤の機を待つべく候

御暇の折は御光來下され度せめては折々の御たより願上候 不馨

   七日夜

  喜譽司兄

 

[やぶちゃん注:「五日の夜は全寮茶話會にて五時より翌曉二時に及び候」既に述べた通り、彼は入寮せずに特別に許可を得て(その理由を私は知りたく思うのだが)自宅通学であったわけだが、恐らくはその引け目もあって、これに参加したものであろう。

「長濱先輩」不詳。彼の檄は「感極まつて嗚咽するものあり」までであろう。

「輸贏」「しゆえい(しゅえい)」。但し、慣用読みで「ゆえい」と読むことが多いので、ここも龍之介はそう読んでいるかも知れない。「輸」は「負ける」、「贏」は「勝つ」の意。勝敗。]

「高師」高等師範学校(二年後に東京を冠した)。

「豎兒」「じゆじ(じゅじ)」。小僧っ子。卑称。

「大塚」高等師範学校と東京文理科大学は大塚校地共有していた。

「大白幡」「おほしろはた」。

「時不利騅不逝」項羽の「垓下(がいか)の歌」。楚漢戦争最後の「垓下の戦い」に於いて天運を悟った西楚の覇王項羽(項籍)が愛人虞美人に贈った詩の一節。

 力拔山兮氣蓋世

 時不利兮騅不逝

 騅不逝兮可柰何

 虞兮虞兮柰若何

  力 山を拔き 氣 世を蓋ふ

  時 利あらずして 騅(すい) 逝かず

  騅 逝かざるを 奈何(いかん)せん

  虞や虞や 若(なんぢ)を奈何せん

「騅」は項羽と命運をともにした葦毛の名馬。。

「此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ」名作「遠野物語」の芥川龍之介の誤記。佐々木喜善(明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年:名は「繁」とも称した)の語りを改変して、明治四三(一九一〇)年六月十四日に『著者兼發行者』を『柳田國男』として東京の聚精堂より刊行された。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で原本の全電子化注を完遂している。

「タイイスに御かゝりの由大慶に存候……」「芥川龍之介書簡抄2 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(1)山本喜譽司宛2通」を参照。なお、そこの「明治四三(一九一〇)年六月二十二日(年月推定)・山本喜譽司宛」で、龍之介は「タイイスは皆よみきらなかつた」と言っているのだが、私は実際には、千葉勝浦での保養中にちゃんと読了していたと考えている(新全集宮坂年譜でもそう書かれてある)。受験勉強中の山本への気遣いでそう書いたものと私は思うのである。

「不馨」「ふけい」或いは「ふきやう(ふきょう)」。手紙の脇付で、芥川龍之介はよく使用するが、辞書には見えない。但し、ある人の漢文体書信では最後の記されてあるのを見たことがある。「かんばしからざる下手な手筆・書信にて失礼」といった意味であろう。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)二十五日(年次推定)山本喜譽司宛

 

敬啓

咋夜遲く歸ると僕等が出て間もなく君の所の女中がむかへに來たと云ふ

一緖に引張りだして一緖に散步をしたのだから僕が惡い樣な氣がする

何かあつたのぢやないか

歌なんか聞いてゐて、少しのん氣すぎたと思ふ

今朝先生と山口君とからハガキが來た一枚は名古屋から一枚は伊勢から

靑空にそびへ立つ天主と松の音の響く神宮が偲ばれる 矢張旅行に出たくなつた

君の令妹の――本當は姪だね――の御快癒を祈る 不馨

    廿五日

   山喜司大兄 侍史

 

[やぶちゃん注:今まで通り、岩波旧全集版からであるが、これは書簡原本ではなく、他の印刷物からの転載である旨の注記がある。

「先生」先に出た三中の恩師廣瀨雄であろう。

「山口」山口貞亮であろう。「芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録」で一緒に登攀している。但し、そこで私は級友としたのだが、今回、改めて調べたところ、新全集の「人名解説索引」には『三中の一年後輩』で明治四四(一九一一)年卒とあった。龍之介が山本に書くのに「君」と呼んでいるところからはそれが正しいようだ。

「君の令妹の――本當は姪だね――の御快癒を祈る」本書簡を採用したのは、この一文のためである。則ち、旧全集書簡中で初めて塚本文、後の龍之介夫人が登場する瞬間だからである。山本喜誉司が彼女の母鈴の末弟であり、この時、鈴・文母子が山本家に同居していたのである。

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