怪談登志男 九、古井殺人
九、古井殺ㇾ人(ふるい、ひとをころす)
武州長井は實盛が住所なりしと云傳へ、終る所は篠原なりときゝ、此頃、「江戶砂子」を見れば、端芝(はししば)法源寺に墳墓ありといふ。いぶかしき說なり。
されば、此あたり近き町に、冨裕の商家(しやうか)あり。
正德年中の頃なりしが、
「造作(そうさく)を營む。」
とて、
「あな藏(ぐら)の舊(ふり)たるを埋(うづ)め改(か)ゆる。」
とて、鋤鍬(すきくは)の末(まつ)を虧(かき)、石金(いしかね)に障(さはる)ごとくなりしかぱ、大勢、たちより、土を穿(うが)ち、其所をみるに、銅(あかゞね)の板、一枚を敷たり。
放捨(はなちすて)て見つれば、古井の涸(かれ)たる穴なり。
踏(ふむ)所の土、崩(くづれ)て、一人、此穴に落たり。深(ふかさ)は、只、二丈あまりにして、さのみ、深からず。
落たるもの、絕(たつ)て音せず。
是れを、
「たすけ出さん。」
とて、續(つゝい)て入たるものも、音せず、うごきもやらねば、又、飛入る人を、あたり近き所の老醫(らうゐ)、是をとどめ、
「古井に入て死したる例あり。率爾(そつじ)に入るべからず。」
と制し、松明(たいまつ)を燈(とほ)して入たり。
其男、井の底に至りて見るに、初め落たるも、後に入たるも、總身、色(いろ)、變じて、息、絕(たへ)たり。
「其あたりに、仔細やある。」
と、尋、見るに、其色、綠靑(ろくしやう)のごとく、氷柱(つらゝ)に似たる物ありて、石の間より流れ出たり。
是を取、件の死したる人の腰に、用意の綱を付て、引上させ、我身も、つゝがなく上りしが、あヘて毒氣に、ふれもせず。
大勢、はせ集りて見るに、かのとりて出しものは、すきとほりて、靑磁のごとし。
老醫のいはく、
「鐘乳石(しやうにうせき)なり。」
とて、取て歸りぬ。
井は、
「人の死せし穴なれば、もちゐがたし。」
とて埋(うめ)ぬ。
銅(あかゞね)の板には、數行(すかう)の文字ありしが、錆(さび)を生じて、字躰(じたい)、さらに、わきまへがたし。何人(なんひと)の舊跡(きうせき)なりしにや。
すべて、「古き井には、むざむざ、入ものにあらず」と、書(ふみ)にもしるし、語りも傳へて、今は、人も、よく心得たれど、端々(はしばし)の片田舍などには、まま、あるべき事なり。心得すべし。
其頃、
「芝(しば)邊(へん)の町にても、かゝる事のありし。」
と風聞せしが、虛實は。たゞさゞりし。
「何にもせよ、毒氣あるは、うたがひなし。うかうかと、入べからず。」
と、古き人の語り侍りし。
[やぶちゃん注:「武州長井」武蔵国幡羅(はら)郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市のこの附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「實盛」平安末期の、かの名将斎藤実盛(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)。武蔵国相模国を本拠とした源義朝(頼朝の父)は父為義と不仲で、父の命により上野国に進出してきた異母弟義賢(よしかた ?~久寿弐(一一五五)年)と抗争を続けていた。実盛は当初、義朝に従っていたものの、寝返って、義賢の幕下に伺候するようになった。それを危険視した義朝の子義平(頼朝の異母兄)が義賢を急襲し、これを討ち取った(「大蔵合戦」。武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)とされるものの、合戦地には異説もある)。その後、実盛は再び義朝・義平父子の配下に戻るも、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻であった信濃国の中原兼遠のもとに送り届けていた。この駒王丸が後の「旭将軍」木曾義仲であった。「保元の乱」・「平治の乱」にあっては上洛して義朝の忠実な部将として奮戦したが、義朝没後は、関東に落ち延び、その後、平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用された。そのため、治承四(一一八〇)年の頼朝の挙兵し際しても、平氏方に留まり、平維盛(平清盛の嫡男であった重盛の嫡男)の後見役として頼朝追討に従い、寿永二(一一八三)年に維盛らと木曾義仲追討のため、北陸に出陣したものの、加賀国の「篠原の戦い」(現在の石川県加賀市篠原町附近)で敗北し、討死した。
「住所」「すみどころ」。
「江戶砂子」江戸中期の俳人で随筆家菊岡沾涼著。全六巻。「江戸砂子温故名跡志」とも称する江戸地誌。享保 一七 (一七三二) 年刊。江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
「端芝(はししば)法源寺」現在の東京都台東区橋場(はしば)にある浄土宗帰命山薬王無量院保元寺。奈良時代の宝亀元(七七〇)年創建と伝え、法相宗・真言宗など諸宗派を経て後、増上寺開山酉誉上人の弟子であった惣誉酉公大和尚により浄土宗に改宗した。江戸時代に法源寺と名を変えたが(サイト「千葉一族」の「僧侶になった千葉氏」の「聰譽酉仰」によれば、酉仰が古刹である本地の『廃亡を嘆き、当地で二晩三晩念仏誦経に夜を明かすと、ひとりの老人が参詣に訪れたのに出会った。酉仰は老人にいずれから参られたかと問うが、その老人は無言で通り過ぎ、寺の大門の柱の影で姿を消した。それがたびたびに及んだことから、酉仰は大門の陰を覗いてみると、石塔があった。この石塔には齋藤別当実盛』『の名が彫られており、齋藤実盛の墓と知った酉仰は』、『新たに法名を授け』て『「篠原院前左金吾従五位徳山覺道眞阿大居士」と回向したところ、酉仰の夢に喜色を含んだ実盛が現れて「永く寺門法孫を守るべし」と約したという。その後、酉仰は保元寺を法源寺と改め、帰命山無量寿院と名づけてその開山となった』とある)、大正になって保元寺と戻し、現在に至る。現在も「斉藤実盛の石仏(墓・供養塔)」とされるものが存在する(以上の主文は私が古くからお世話になっている東京の寺社案内の堅実なサイト「猫の足あと」のこちらに拠った)。
「正德」一七一一年~一七一六年。
「虧(かき)」欠けさせ。
「總身、色(いろ)、變じて、息、絕(たへ)たり」これは、まず、第一には一酸化炭素中毒を想起させる。遺体がかなり鮮やかなサーモン・ピンク色になるからである。
「鐘乳石」このロケーションでは、その形成は、あり得ない。
「芝(しば)」東京都港区芝。
「毒氣あるは、うたがひなし」単純な致命的な酸欠状態や二酸化炭素充満が可能性として有り得る。奇妙な石の色からは硫化水素も疑われるが、この時代の、この場所でというのは、やはり無理がある気がする。或いは河川下水及び便所の汚水(便槽の桶の一部に亀裂が入っていたなどの可能性)などが、たまたまここの下に長い間をかけて知らぬうちに溜まって、何らかの酸欠が致死的なレベルにまで達していたと考えることも可能ではある。この古井戸が土砂と銅板で覆われており、外気と完全に遮断されいたことなどは、その傍証ともなろうか。]

