奥州ばなし おいで狐の話幷ニ岩千代權現
おいで狐の話幷ニ岩千代權現
[やぶちゃん注:前回で述べた通り、以上の標題は目次に拠った。]
また、安永年中、江戶なる眞崎に、「おいで狐」とて、きつねの晝中(ひるなか)に出(いで)て、人に見られしことありき。
[やぶちゃん注:「安永」一七七二年~一七八一年。
「眞崎」この中央付近の旧呼称(グーグル・マップ・データ)。ドットした石浜神社内には旧「眞先稻荷明神社(まつさきいなりみやうじんしや)」、現在、真先(まさき)稲荷がある(旧地は同神社の南端部分に当たる)。]
伊勢の宮を移し奉りしかたはらに、人いかふ[やぶちゃん注:「憇ふ」。]家の有し。其家のうしろに狐の穴有しに、家なるばゞの慈悲ふかゝりしによりて、客にうりあましたる團子・でんがくやうの物を、狐穴の口に持行て、
「これくへ。」
と、いひつゝ置たりしが、いつとなく無なりしかば、
「はこび入(いれ)て食しならん。」
と、おもひて、いつも、あまりあれば、もち行ておきしに、ある年の頃よりか、ばゞのゆけば、穴の口につらをさし出して、くひなどせし故、食をもちゆきては、
「おいで、おいで。」
と、よぶに、後々は穴よりいでゝ、人の來るところまでも、ばゞにつれて行し故、大評判と成て、江戶中の人、
「狐見ん。」
とて、墨田川に小舟うかめつゝつどひしに、夏の末になりて、よべども、よべども、いで來ず。
見に來し人は、手もちなく、
「だまされたり。」
と惡口して歸るを、正直なるは、ばゞは、人にいひわけなきのみならず、
「狐のいかになりつらん、あたへし物もつみたるまゝにて、くひしてい[やぶちゃん注:「體」。様子。]にもなければ、もし、犬にや、くはれつらん。」
と、淚おとして、おもほれゐたり。
其頃、日本堤にて、駕《かご》のものゝ、狐をころせし、と、いひしは、
「それにや。」
と、よくきけば、大きなる雄狐なりし。この出(いで)しは、ちひさき雌狐にて有し。
さて、夜中に、うば、大熱いでゝ、なにやらん、ものゝつきしてい[やぶちゃん注:「體」。]なりしかば、近き稻荷の別當《べたう》に申して、
「祈禱加持。」
と、のゝしりけり。
うばのいはく、
「さ、なさわがれそ、かたがた。我はこのうばの情(なさけ)によりて、食をやすくせし狐なり。語(かたり)おくべきことの有によりて、しばし、うばの身を借(かり)たり。しづまりて、わがいふことを、きかれよ。我は、みちのおくの宮城野に、雌雄(めを)、年へてすみし狐なり。故有(ゆゑあり)て、この所に來りて住(すみ)しに、此うばの情により、心やすく年月《とし》(つき)をおくりし、大恩を報ぜんと思ふより、この家に德つけんため、日の光のおもてぶせなるをしのぎて、人にも見えしことなりし。このほど、雄狐の、人に、ころされたりき。是はさる故有て、のがれがたき命なることは、『こつ通』[やぶちゃん注:意味不明。多く、変化の妖獣は自分の逃れ難き死期を察することは多くの伝承や怪談に出る。例えば、先に示した私の偏愛する一篇『想山著聞奇集 卷の四 古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事』を是非、見られよ。]といふことのうへにてしりたれば、くやむべきならねど、千年に近き契りのほど、かく、わかれしかなしさに、たへがたく、有にもあらでをるを、ひたすらによび給ふもくるしく、またことのよし有て、今、故鄕の宮城野へ歸るなり。されば、のちの形見に書おくこと有。筆紙、給へ。」
といひし故、とりあたへつ。
「このうば、物かゝぬを、なにとかすらん。」
と、人々まもりゐたるに、いとゝ、くはしり書て、
「是ぞ、宮城野の狐なる、しるし、よ。」
といひつゝ、
「さ」
と、たちて、外の方にあゆみ行きしが、うばは、のけざまに、たふれたりき。
いき出て後、有しことどもを語るに、
「さらにおぼえず。」
と、こたふ。
今、わがかきしといふものも、手にはとりつれど、よむべきやうもしらねば、人によませたり。
草はつゆ露はくさ葉にやどかりて
それからそれへ宮城のゝはら
とぞ有し。
かくてのちは、この書たるものを寶にしつゝ、入りくる人ごとに、いだして見せし故、かはほりにうつしなどして、いぬる人も有し。【宮城野の狐の爰に來りしは、かの勝又彌左衞門を恐てなるべし。大がい、年來(としごろ)、同じ故に、爰に入(いれ)たり。彌左衞門が子、今、文化十四年、八十の翁、ながらへて有。狐は食のとぼしきものか、かく食をあたへられしを大恩と思ひ、又、油鼠(あぶらねづみ)に通(つう)を失ふも、もはら、食にまよひし故ならずや。雄狐の彌左衞門が爲に命失(うせ)ん事を恐れて、爰に來りつれど、定命(ぢやうめい)にて、人にころされしと、さとりしにや。[やぶちゃん注:原頭注。]】
[やぶちゃん注:「かはほり」「蝙蝠扇」(かはほりあふぎ(かわほりおうぎ))の略。開くと蝙蝠(コウモリ)が羽を広げた形に似るところから、薄い骨の片面或いは両面に紙を張った扇を指し、この紙には詩歌や絵を描いた。
「勝又彌左衞門」前話「狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管」参照。
「年來、同じ故に」前話の割注で馬琴自身が、享和年間(一八〇一年~一八〇四年)に、モデルとなったとぼおしい狐狩名人「勝又彌左衞門」、人呼んで「丹平」の話を採取した、と述べている。
「文化十四年」一八一四年。
「油鼠」秘伝の味付けをした油で揚げた鼠。同じく前話を参照。]
あや子父は藥師(くすし)にて有しほどに、日々、入くる人の、「世にめづらし」とおぼゆることは、あらそひかたる中に、この狐の書し歌を寫してもてこし人有しかば、同じく寫しとりて、殿(との)[やぶちゃん注:藩城。]にもて出(いで)て、人々にみせしに、但木下野(ただきしもつけ)といふ人、これをとりみて、
「實(げ)に、これや、宮城野の狐なるべし。やつがり、むかし、寺社奉行の職なりしころ、仰(おほせ)ごと蒙りて、寺社の緣起を、くはしく尋しに、宮城野のかたほとりに、岩千代權現といふ宮、有し。その、よりおこりは、むかし、松島なる瑞巖寺に、岩千代といふ兒(ちご)有き。年のほど、十六ばかりにて、かたちよく、心もしづまりて、ものゝ哀(あはれ)思ひしれるが、一とせ、
『宮城野の月みん。』
と、師にいとまをこひて、從者(ずさ)ひとり、ゐて、ゆきけり。をりしも、秋の草のさまざまに、ひもとき、わたせし、眞(まつ)さかりなるに、月さへ、くまなくて、夜更(よふく)るまゝに、草葉の露ごとに光のうつりしは、えもいはれず、
『歌よまん。』
と、かたぶきて、
月はつゆ露は草葉にやどかりて
と、世のはかなさをおもひつゞけしに、下のさらに出(いで)こねば、ひたすらに、此上をうち返し、打かへし、口ずさみて有しが、やどりにつきても、食(くひ)もくはで、この歌をのみ、となへしが、
『風のこゝち。』
とて、打ふしたりき。二日三日にいたくおもりて、そこに、はかなくなりぬる迄も、歌を、くり返し、となふることは、やまざりし、とぞ。それよりいづくともなく、夜每夜每に、宮城野の中にて、この歌の、かみをとなふる聲しければ、おぢおそれて、道行(みちゆく)人も、たえき。師の禪師、このよしを聞(きき)て、いと哀(あはれ)におぽして、
『敎化(きやうげ)せばや。』
と出立(いでたち)て、宵より、かの野に、あなうらをむすびて[やぶちゃん注:坐禅して。]、おこなひゐ給ひしに、夜中ばかり、かの聲の聞えければ、
それこそそれよ宮城野のはら
と、一句の偈《げ》を添給へば、㚑(れい)のまどひや、はれつらん、そのゝちは、音なく成しとぞ。所の者、これをあはれがりて、宮居をたてしなり。むかし、この野に有しことを狐の知(しり)しは、年經て住しこと、あきらけし。」
と、さだめしとぞ。【解、按ずるに、「松嶋圖誌」に云(いはく)、『宮千代が墳は、天童庵の境内にあり。高サ云々』。又云、「封内名蹟志」、『宮城郡南目村、宮城野、廿四間、東、畑中に、空地の小塚有。里人是を「兒塚(ちごづか)」といふ。昔、松島寺の兒(ちご)宮千代といふもの云々』と、しるして、歌も、その傳も、この書にしるせしと、おなじ。かゝれば、下にしるせし岩千代は、宮千代をあやまれるにや、猶、たづぬべし。又、按ずるに、宮千代が事は「奧羽聞老志」に出(いで)たり。こゝに餘(あまり)なければ、贅(ぜい)せず。「觀迹聞老志」、「宮城郡」の條下を倂(ならび)見るべし。○解、云ふ、あや子は、このさうしの作者、眞葛の俗名なり。「おあや」といへるを、物には「あや子」と書(かけ)るなるべし。父は工藤平助、名は「平」といひし、仙臺侯の醫官なり。[やぶちゃん注:原頭注。]】。【此兒(ちご)、秋の夜中、露ふかき野を分(わけ)て、夜氣にうたれ、ゑき[やぶちゃん注:「疫」。病い。]をうれひしものならんか。[やぶちゃん注:原頭注。]】。【「月は露云々」「それこそそれよ云々」とありしを、かの狐は、ほゝゆがめて、おぼえしなるべし。[やぶちゃん注:原頭注。]】
[やぶちゃん注:「岩千代權現といふ宮」本文でも過去形で語っている通り、現存しないようである。
「但木下野」仙台藩の非常に古くからの家臣に但木氏がいる。本姓は橘氏で、遠祖は伊賀守重信に始まり、下野国足利郡但木に八千石を領し、郷名を氏とした。
馬琴も添えている通り、只野真葛は本名を「工藤あや子」「綾子」「あや」「綾」と言い、父は仙台藩江戸詰の医師工藤(周庵)平助(享保一九(一七三四)年~寛政一三・享和元(一八〇一)年)であった。馬琴の糞のような波状的に馬鹿付けした考証割注には注を付ける気にならない。特に最後に附したそれは、私にはひどく厭味な感じがしてならず(私の読みの間違いかも知れぬが)、出来れば、ここからカットしてやろうという気さえした。
「但木下野」但木氏は本姓橘氏、遠祖は伊賀守重信に発し、下野国足利郡但木に八千石を領し、郷名を氏とした。重信は伊達家初代伊達朝宗に仕えたなど、諸説があり、家歴は極めて古い(以上は幕末の仙台藩士但木土佐のウィキに拠った)。]
○又、是にひとしきこと有。人の子の十五なる男子、月のあかきをみて、「寄(よせて)よまん」とかたぶきしに、
こよひの月は空にこそあれ
といふ下の思ひ、よられしかば、またの日、學友の童(わらは)どもの中にいでゝ、
「昨夜、月をみて、うたをよまんと思ひしが、半ば考出(かんがへいで)て、いまだ、上を思ひえず。」
と、いひしかば、
「それは、いかにといひし。」
と問し時、
「こよひの月は空にこそあれ」
と、いひ出しかば、
「月が空になくて、いづくにかあるらん。」
と、學友、こぞりて笑ひそしりしを、十五童(じふごのわらは)、かつ、恥(はぢ)、かつ、無念に思ひて、
「これが上を考得(かんがへえ)て、笑(わらひ)し人々の口、ふたがん。」
と、食をとゞめて考へしが、終(つひ)に思ひえずして、死(しし)たりき。
その㚑(れい)の、あまかけりて、いづくともなく、此(この)下(した)を、となふる聲の、家の上に、聞へしかば、人、おそれたりき。
あるうたよみの、これを聞(きき)て、
池水のかげは氷にとぢられて
と上を示しかば、其のち、聲やみたり。
同じたぐひのことゝて、ともに岩千代の社(やしろ)につたはりて有と、いふ。