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2021/01/12

怪談登志男 五、濡衣の地藏

 

    五、濡衣(ぬれぎぬ)の地藏

 攝州大坂、西の御堂の東に、金銅丈六の地藏ありしが、何の頃、いづくの冶工(いりし)が鑄(い)たるとも、誰(た)が納めしとも、知る人さへなくて、衣體、綠の錆(さひ)、生じて、最(いと)舊(ふり)たる像なりしが、いつの頃よりか、此像、夜な夜な、出て、寺中を𢌞り、或時は庫裏(くり)に來り、食事をなし、樣々、稀有成事あるよし、風聞せり。

 其頃、此寺に、美童、あまた有ける中に、「犬丸(いぬまろ)」と云ける兒(ちご)、すぐれて、僧俗ともに、心を懸(かけ)ざる者も、なし。

 或夜、寺内の人、用事有て、堂の後(うしろ)の小路(こうぢ)を通りけるに、地藏の臺より、一人の僧、立あらはれ、方丈の方に行を、怪しび思ひ、慕ひて見れば、間每(まこと)の戶を明け、奧ふかく、入ぬ。

 此事を人に告(つげ)ければ、起(おき)出て、うかがふに、犬丸が閨(ねや)に入ぬ。

 かくて後、每夜、忍(しのび)入ければ、上人、犬丸を密(ひそか)に呼(よび)て、

「汝が方へ通ふものは、誰(たれ)なるらん。つゝまず、語るべし。」

と、きびしく問(とは)れ、犬丸、せんかたなく、

「いか成人とはしらず、幾夜か通來(かよひき)ぬれど、はじめの程は、堅く防ぎさふらひしかども、さまざま、詫(わび)、いろいろにかこち、『汝が難儀ともなるべくば、是を、人に見せよ、誰(たれ)咎(とが)むる者も、あらじ』と。」

守り本尊の、ちいさきづしに入たるを、蜀錦(しよくきん)の袋に入しを、取出したるを見るに、まさしく一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人、平生(へいぜい)、尊信まします所の本尊なり。

「扨は。まぎるべうもなき、門主にてましましけるぞや。はしたなき御ふるまひかな。」

と、寺中の役者も、夜、いねず、遠見して、犬丸が部やをうかゞひけるに、其夜、また、忍び來りしを、犬丸、つくづくおもひけるは、

『何人にもせよ、我も仇(あた)なる名をたてられ、ゆびざさるゝも恥しく、且、又、忍びし人の名をも漏らしぬれば、其人に對しても、口惜しき次第なり。此人を指殺(さしころ)して、われもともに、死なんものを。』

と、短氣を起し、いつものごとく、しめやかに打かたらひ、僧の、少、ねむれるを、見すまし、短刀を拔(ぬき)て、胸のあたりを、突(つき)通しければ、ふしぎや、此僧、手負(ておひ)ながら、鴨居(かもい)を飛越(とびこへ)、迯(にげ)て行。

「すはや。」

と寺僧、手に手に、棒(ぼう)引提(ひきさけ)、追(おい)かけ見しに、後堂の地藏の、もすそに立隱れて、見へざりける。

 人々、

「さればこそ。」

と、血(のり)をしるしに、さがしみれば、金銅の地藏尊の、御(み)足に踏(ふみ)たまへる邁花座の下、石垣の落入たるより、少しの、穴、あり。

 掘崩(ほりくづ)して、能、見れば、下は、大きなる、穴、なり。

 熊手を入て、さがしたるに、

「何やらん、かゝりたるは。」

と、ひしめき、人々、打寄、引揚(ひきあげ)たるを見るに、古き狐の死したるなりけり。

 犬まろも、其時、

『死すべかりし。』

が、僧の、鴨居を飛こしたるに鷺き、

「扨は。變化(へんけ)なりけり。」

と心づきて、死せざるは、命一つ、ひろひたるなり。

 狐といふもの、人に化(ばく)る事は、むかし、今、人も知りける事にて、其ためしも、數々なれど、女に化(け)して、男をまよはせ侍るは、常のことなり、男の姿にて美童に通ぜし事、いと、珍らしき。

 此後、地藏の、あるきて、わるさし給うという沙汰も、やみぬ。

 彼(かの)「一山の法主なりし」といゝし事、おそろしきたくみなり。

 其「守り本尊」と見へしも、跡にて見つれば、

「古き木の切を、もみぢせし木葉(このは)に、つゝみたるなりけり。」

と。

 其頃の取沙汰を、難波(なには)の人の、かたり侍りし。

 

[やぶちゃん注:「攝州大坂、西の御堂」現在の浄土真宗本願寺派本願寺津村別院、通称「北御堂」のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「金銅丈六の地藏」銅に金の鍍金(めっき)或いは金箔を押した一丈六尺(四メートル八十五センチメートル)の身長の地蔵菩薩像である。古いものであれば、立像で同長であるが、比較的新しい造立では、座像でしかも右足を蓮華座から外して垂らしているタイプもある。ここは「御足に踏たまへる蓮華座の下」とあるので正規の同長の背丈の正立像である。

「蜀錦(しよくきん)」模造した西陣以外では、古いものは二種ある。一つは上代錦の一つで、緯糸(よこいと)に色糸を用いて紋様を表わした錦で、赤地に連珠紋を廻らした円紋の中に花紋・獣紋・鳥紋などを織り出したもの。奈良時代に中国から渡来したもので、現在法隆寺に伝えられる。蜀江で糸をさらしたと伝えるところからこの名がある。次いで、下って明代を中心にして織られた錦で、その多くは室町時代に本邦に渡来している。八角形の四方に正方形を連ね、中に花紋・龍紋などを配した文様を織り出したもので、この文様を「蜀江型」と称し、種々の変形紋が存在する。

「いか成人とはしらず、幾夜か通來(かよひき)ぬれど、はじめの程は、堅く防ぎさふらひしかども、さまざま、詫(わび)、いろいろにかこち、『汝が難儀ともなるべくば、是を、人に見せよ、誰(たれ)咎(とが)むる者も、あらじ』と。」という犬丸の台詞の後には、さらに引用の格助詞「と」が欲しい。

「一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人」問い質している「上人」は当北御堂一山棟梁であるところの法主(浄土真宗の管長を指す場合が多い)であるところの上人である。では、この「一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人」とは誰なのか? 理屈から言えば、本山たる西本願寺門主となるが、それでは、物理的な距離や、前振りの部分で寺僧たちがこの僧を見ている(どころか、飯まで食わしている)ところなどから考えても、シークエンスが如何にも現実離れしており、おかしい。しかし、この上人は犬丸の見せた守り本尊を見るや、驚いて、「門主にてましましけるぞや」! 「はしたなき御ふるまひかな」! と激しく嘆いているのだから、やはり、そうらしい。しかし、対して、犬丸の反応はどうか? 「何人にもせよ、我も仇」(あだ)「なる名をたてられ、ゆびざさるゝも恥しく、且、又、忍びし人の名」(!)「をも漏らしぬれば、其人に對しても、口惜しき次第なり。此人を指殺(さしころ)して」(!)「われもともに、死なんものを」と思い、実際の殺害行動に出るというのは、相手が西本願寺門主ではトンデモなことになってしまい、展開自体が如何にも現実離れして、逆に浮(うわ)ついて白けてくる。私には、どうもその辺りの関係設定に、怪談としての最低限の真実らしさが致命的に欠落しているとしか思われず、腑に落ちないのである。設定自体の面白さを現実の高位の人物の擬態に狙い過ぎて、逆に白けさせてしまっていると感じるのである。しかし、まあ、正体は結局は妖狐で、菩薩に化ける話もあればこそ、玉藻の前は帝の命さえ危うくし、だいたいからして白蔵主(はくぞうず)の少林寺(臨済宗)もここからそう遠くないし、門主・門跡に狐が化けても、まんず、よかろうかい。まあしかし、この怪談、「お西さん」の信者は破り捨てるであろうなあ。だって、この上人以下、誰一人として妖狐と見抜けぬ為体(ていたらく)は、当寺にとっても甚だ冒瀆的でマズいでショウ! しかも法主のマジな若衆道でっせ? 編纂に関与していると考えてよい静観房好阿は名前からして真宗の信者らしい感じだから、或いは彼は「お東さん」だったのかも知れぬ、などと妄想してみた。

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