南方熊楠 小兒と魔除 (2)
[やぶちゃん注:以下、邪視に関する考察は、底本では、全体が一字下げで始まり(「三五」ページ)、実にこの字下げの付随部分は「四八」ページまで続くのである。しかも、さらに邪視と邪害の考察は、その後も延々と続くのである。]
邪視のことは F. T. Elworthy, ‘The Evil Eye,’ 1895 に諸國の例を擧て[やぶちゃん注:底本は「譽て」であるが、初出で訂した。]詳說せり。予も屢ば讀みたれども、忘れ畢りたるを以て、只今身近く藏せる多少の書籍と、自分の日記手抄とに據て其の一斑を筆せんに、ブリチツシユ博物館人類學部長チヤーレスヘルキュルス、リード氏の直話に、氏の本國なる愛爾蘭[やぶちゃん注:「アイルランド」。]には、今も貪慾、憎惡、嫉妬等の邪念を以て人畜物件を見れば、見らるゝ者に害ありと信ずる輩多く、往古邪視の力よく高厦を燒き亡ぼすとさへ傳え[やぶちゃん注:ママ。]たれば、古寺觀[やぶちゃん注:「こじくわん」。]の前に女人陰を露せる像を立たる有り。こは一生懸命に其建物を睨み詰んとする中、女陰を見て、忽ち視力の過半を其方に減じ去らるべき仕組、恰も落雷の際避雷柱よく電力を導散して、災禍無からしむるに同じと(Ramusio,‘Navigationi et Viaggi,’ Venetia, 1588, vol.i, fol.92 F. にレオ、アフリカヌスが、婦女山中に獅子に出くわせたる時、陰を示せば忽ち眼を低して去る、と云るも似たる事也)。ベーコンの說に、好事家あり、居常注意して調査せしに人盛勝なる時、最多く之を羨む者の邪視に害せらると、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]には十八世紀迄邪視を信ずる人多く、以爲く[やぶちゃん注:「おもへらく」。]、或る特殊の人邪視して、小兒牛畜之に中れば[やぶちゃん注:「あたれば」。]必ず病み、時として落命すと、其ハリス島に「モラスカ、ビーンス」と名くる果あり、白き者頗る巫蠱[やぶちゃん注:「ふこ」。]及邪視を防ぐの效有りとて、小兒の頸に懸るに、自ら其害を受引きて黑く變ずと云(W.C.Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, i. 216-217)。鎌田榮吉氏歐州漫遊の間見聞せる所を予に話せしに、和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]とかの一小島の俗、男兒を女裝する所有りと言り、そは、多分埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]と同く、女兒邪視に中てらるゝこと[やぶちゃん注:底本「こ」なし。初出を見ると、ここは「こと」の約物が用いられている(二九三ページ下段後ろから五行目)ことが判る。脱字と見なして訂した。]男兒より稀なりとの觀念に出しならん(Lane, ‘Manners and Customs of the Modern Egyptians,’1871, p. 70)八犬傳に番作が、其子の安寧を冀ふて[やぶちゃん注:「ねがふて」。]、信乃を童時女裝せしめしは、これに類せり、J. T. Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p. 15 に、希臘の一島にて、百歲許りの老嫗來訪せしに、さしも生き過ぎたる身のなほ生を貪りけむ、著者の邪眼を慮り、頻りに十字を𤲿せし由見ゆ。古え[やぶちゃん注:ママ。熊楠の書き癖。以降は注さない。]羅馬に此迷信有しは、ヷーギルの詩に明かにして、一八四六至七八年の間法王たりしピウス九世邪視の聞え高かりければ、其祝を受くる者、面を背け唾吐きて其害を防げり(Hazlit, I. 217; ii, 561.)。伊太利人今日、表面は基督敎徒乍ら、邪視を惧るゝ風少しも非基督敎徒たりし上世に異ならず、邪視の嫌[やぶちゃん注:「きらひ」。]ある者に逢ふ每に、竊かに手を握り固めて、拇指を食指と中指の間に挾み露はす、之を「フイコ」(無花果)と呼び、「フイコ」を仕向けらるゝもの、大に怒りて仕向るものを殺すことすら有り、リード氏話しに、是れ陰囊の間より男根の顯はれたるに象ると、思ふに此果未だ開かざるときの形狀、又其皮白汁に富る抔より、此稱呼を生ぜしか[やぶちゃん注:行末にて読点なし。]但し吾邦には、「フイコ」を男根ならで女陰に象るとし、邪視に關する事と見ずして仕向らるゝものの好婬なるを意味する者とす、又思ふに、山岡明阿彌陀佛の戲作に係るてふ逸著聞集に、好色博士女陰の四具を說る中に、石榴に資て[やぶちゃん注:「よつて」。]名づけたる箇處有る如く、無花果の熟し裂て、多くの赤色瓤子[やぶちゃん注:「じやうし」。果実。]を露はせる姿に因み、之に女陰の意を寓せしこと、古歐州にも有りしならん、そは無花果は、ハールメス、プリアプス等の男神の好む所たりしと同時に、女神ジユノ、デメター等にも捧げられたればなり(A. de Gubernatis, ‘La Mythologie des Plantes,’ 1882, tom. ii, pp. 138-140 參取)。アシユビー氏の說に、伊太利の民上下共、邪視を禦ぐ爲、護りを佩る[やぶちゃん注:「おぶる」。]事頗る盛んなれども、其事を話し、殊に外國人に說明するを不祥なりとする故、容易に知れ難し、ペルシアのベルツチ敎授、最も廣く此事を硏究せる其說に、此等護りの尤も古きは隕石なり、其中多く星及び點を具え[やぶちゃん注:ママ。]たるありて、その數定かならず、邪視する者之を算え[やぶちゃん注:ママ。]盡すの後に非れば其力利かず、故に最も珍とせらる、砂、穀粒を無數袋に盛れるを尊ぶも亦同理に出づと(Notes and Queries, Feb.22, 1908, PP. 145-146)。種彥の用捨箱卷上(九)守貞の近世風俗志廿三編に見えたる、二月八日籠を揭げて鬼を避るには、色々の理由も有なんが、一つは鬼が籠目の數をよみ盡す中に、其邪力耗散すとの意もなきに非じ、土耳古[やぶちゃん注:「トルコ」。]人亦邪視の用心周到にして、家の外部に「コラン」の文を題し、天井よりは玻瓈[やぶちゃん注:「はり」。玻璃に同じ。ガラス。]球を懸下し、又馬の息災の爲に、其飭具[やぶちゃん注:「ちよくぐ」。手綱などの制禦馬具。]を美にして之を防ぐ(Hazlitt, i . 217)。レヷント地方に、蠶を他人に見すれば、全く絹を成さずと信ずと云も、其眼力を怖るゝに由るなるべし(Hasselquist, ‘Voyages and Travels in the Levant,’ 1766, p. 167)。西方亞細亞と北阿非利加[やぶちゃん注:「北アフリカ」。]に此迷信弘く深く行なはるゝは衆の知悉する所にして、アラビア夜譚にも鐵又拔刀を以て邪視を除く事あり、(Burton, ‘The Book of the Thousand Nights and a Night,’ ed. 1894, vol.ii p. 209; vol.ⅹ, p. 105.)。又カイロの賈長[やぶちゃん注:「かちやう」。大商人か。]シヤムサツヂン其子の邪視に犯されんことを憂え[やぶちゃん注:ママ。この手の「へ」も「え」と熊楠は書きがちであるので、向後はこれも五月蠅いだけであるから、附さないこととする。不審に思われた方は、底本を確認されたい。]、七歲より成人近くなる迄地窖[やぶちゃん注:「ちこう」。穴倉。]中に育て、後始て相伴ふて外出するに及び、市人一同其親子たるを知ず、年甲斐もなく美童の艷色に惑溺せる者と心得、退職を强勸する話あり(vol. iii, pp. 157-165) カイロには近年も盛裝の富豪婦人、襤褸を絡ひ[やぶちゃん注:「まとひ」。]面に泥塗れる兒女を伴ひ步むを見ること少なからず、是れ其生む所にして、家内に在ては錦衣玉食しながら、外出するご每に、邪視に打たれざる樣にとて、故らに[やぶちゃん注:「ことさらに」。]相好を損ぜるなり(同上、百六十五頁注)。蓋し其害を受ること男兒は女兒より多く、兒童は成人より甚しといふ、現時埃及人及びスーダン人堅く回敎を奉じて一神を尊信すと稱すれども實際沙漠を旅行するに當り、邪神の眼力を懼るゝこと甚く、種々に其馬を華飾して其灾[やぶちゃん注:「わざはひ」。「災」に同じ。底本は「實」であるが、初出で訂した。]を薄くせんとす(Budge,‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol.i, pp. 13-14)。バートン曰く、邪視の迷信は古埃及に始つたらしいと(x. 393, note.)。是れ現存の文獻中此事を徵すべき者、埃及より舊きは無きを以てなり。間嘗[やぶちゃん注:「つねづね」。]、右に引けるバツチ氏の書を繙て[やぶちゃん注:「ひもときて」。]攷るに、吾國にも眼に緣[やぶちゃん注:「ちなみ」。底本では「綠」。初出で訂した。]して神を神明と呼び、佛像に性根入れるを開眼と稱し、神佛の精力威勢特に眼に集ると心得たる如く、埃及の古民、神の眼を恐れ敬ふ餘り、之に神自身と等しき力を附し、諸神はケペラ神の口より出で、人間は其眼より生ぜりなど、神の眼に造化の力を賦すると同時に、諸大神の眼又大破壞力を具せりと謂へるに似たり、例之に[やぶちゃん注:「これにれいするに」。]ホルスは日を右眼とし、月を左眼とす其眼力能くアペプの首を斬落す(アペプは大蛇にして神敵たり)又神怒りて其眼叢林を剿蕩す[やぶちゃん注:「さうたう(そうとう)す」。「掃討」に同じ。]、又ラー神の眼、魔を平ぐるに足る、諸神、ラーに申す、汝の眼をして進んで汝の爲に、汝の惡言する者を破滅せしめよ、汝の眼ハトール形を現ずる時、諸眼一つも之に抗し得ずと、是れ取も直さず、ラーの邪視異常に强きをいへるものなり、因に云ふ、紐育出板、ハムボルト文庫に收めたる、某氏の「ヒプノチズム」篇に、佛國の術士村女を睨んで、忽ち身を動かすこと能はざらしめ、輙ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]就て姦婬し了れる由載たるを見し事あり、斯ること他にも聞及し例あり、こは、魅視とも譯すべき「フアツシネーシヨン」に屬し、理則の如何は扨置き、間々實事として在ることゝ承り及ぶ、人間に限らず、蛇が蛙鰻鱺[やぶちゃん注:二字で「うなぎ」。]などを魅視して逃去る能はざらしむと聞り、古え歐州人が信ぜる「バシリスク」の譚、吾國に今も殘存する牛鬼の誕[やぶちゃん注:「はなし」。]など、こんなことを大層にして傳えしに非ざるか、「バシリスク」一名「コツカトリス」は、蛇若くは蟾蜍[やぶちゃん注:「ひきがへる」。]が鷄卵を伏せ孵して生じ、蛇形にして翼と脚あり、鷄冠を戴くとも、單に白點を頂にせる蛇王なりともいふ、諸動物及び人之に睨まるれば死せざるなく諸植物も亦凋枯[やぶちゃん注:「てうこ(ちゅうこ)」。]せざるなきも、鼬と芸香[やぶちゃん注:「うんかう」。]のみ其害を受ず、古人これを獵りし唯一の法は、每人鏡を手にして之に向ふに、「バシリスク」の眼力鑑の爲に其身に返り、矢庭に斃れ畢るにあり(Hazlitt,i. p. 133; J. Scoffern, ‘Stray Leaves of Science and Folk-lore,’ 1870, pp. 342-346)牛鬼吾邦に存せしこと今昔物語東鑑等に出れども、予が熊野地方にて聞けるは大に之と異なり、則ち一種の有蹄獸にて、山中、人に遭へば見詰て去らず、其人遂に疲勞して死す、之を影を呑まるといふ、爾[やぶちゃん注:「その」。]時、「石は流れる木の葉は沈む牛は嘶き馬吼る[やぶちゃん注:「ほゆる」。]」と、逆まごとを述べたる歌を誦すれば、其患を免る。而して牛鬼が草木の葉を食たる跡を見れば、箭羽頭[やぶちゃん注:「やばねがしら」。]の狀をなし、他の諸獸の食し跡に異なると、予至て不案内の事ながら、種々聞及し所を併せ考るに、或は無識の徒、本州唯一の羚羊(かもしか)[やぶちゃん注:以上はルビではなく本文。]を誤解して、件の怪談を生ぜしかとも思ふ、二年計り那智に僑居せし時、牛鬼出で吼るといふ幽谷へ、所謂逢ふ魔が時(神代に大まがつみの神あるを見れば大禍時[やぶちゃん注:「おほまがどき」。]の意か)を撰み、夜に入る迄其邊にたゝずみし事屢々なりしも、境靜かにして、小瀑布の深淵に落る音の、岩壁に響きて、異樣に聽取らるゝ有りしのみ、他に何物をも見ること無りき。
[やぶちゃん注:「F. T. Elworthy, ‘The Evil Eye,’ 1895」イギリスの言語学者で好古家のフレデリック・トーマス・エルワージー(Frederick Thomas Elworthy 一八三〇年~一九〇七年)の「The Evil Eye : an account of this ancient and widespread superstition.」(邪視――この古く、且つ、広く普及した迷信に就いての解説)。当該原本は「Internet archive」のこちらで読める。
「チヤーレスヘルキュルス、リード」考古学者チャールズ・ハーキュリーズ・リード(Charles Hercules Read 一八五七年~一九二九年)。大英博物館で英国及び中世の骨董と民族学の管理者となり、イギリス王室の勅許を受けた学術機関「ロンドン考古協会」の会長も務めた。彼の生まれはイングランドのケント州であるが、家の出自がアイルランドなのであろう。
「高厦」大家。大きな屋敷。
「古寺觀」古い教会堂。
「陰」「いん」。陰部。「女陰」(ぢよいん)。女性生殖器。
「Ramusio,‘Navigationi et Viaggi,’ Venetia, 1588, vol.i, fol.92 F.」ベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンバティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio 一四八五年~一五五七年)が、先達や同時代の探検旅行記を集大成した、大航海時代に関する基本文献とされる「航海と旅行」(Delle navigationi et viaggi :全三巻。一五五〇年~一五五九年刊)のこと。
「レオ、アフリカヌス」レオ・アフリカヌス(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンという、アラブの旅行家で地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。
「ベーコン」イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon 一五六一年~一六二六年)であろうが、出典は不詳。
「人盛勝なる時」「ひとさかりがちなるとき」。ある人が成功して世間で華々しく知られている折り。
「ハリス島」スコットランド西部に浮かぶ「ルイス(Lewis)島」の南部は「ハリス(Harris)島」と呼ばれている。二つの島名は同じ島にもかかわらず、併用されている(地図表記参照)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「モラスカ、ビーンス」以下の原本に当たれないので綴り不詳。但し、熊楠の叙述からは「ビーンス」は「beans」(豆)ではあるまいか。
「W.C.Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, i. 216-217)」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。
「鎌田榮吉」(安政四(一八五七)年~昭和九(一九三四)年)和歌山県出身。紀州藩の家臣鎌田鍬蔵の子。和歌山藩校・同白修学校を経、明治七(一八七四)年、慶応義塾入学、卒業後に慶應義塾の教諭となった。その後、帰郷し、白修学校校長を経て、再び慶応教諭とある。明治十四年、鹿児島造士館教頭などを務めた後、明治十七年、内務省御用掛となり、その後、内務省御用掛・県治局・大分中学校長・同師範学校長を経て、明治二十七年、和歌山から衆院議員に当選した。明治三十年、欧米を巡遊し(この時、同郷であった熊楠に逢い、かの孫文とも、ともに接触し、孫文の訪日の端緖を作った。この辺りは私の南方熊楠の「履歴書」のこちらを参照されたい)、二年後に帰国し、慶応義塾長となった。高等教育会議議員・教育調査会委員を務め、明治三十九年には勅選貴院議員となっている。大正八(一九一九)年の「ワシントン第一回国際労働会議」の政府代表となり、大正十一年には加藤友三郎内閣の文相を務めた。昭和二(一九二七)年、枢密顧問官(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。
「和蘭とかの一小島の俗、男兒を女裝する所有り」情報を得られない。オランダではない可能性もあるか。
「Lane, ‘Manners and Customs of the Modern Egyptians,’1871, p. 70」イギリスのアラビア学者エドワード・ウィリアム・レーン(Edward William Lane 一八〇一年~一八七六年)。ページが違うが、「Internet archive」で原本を調べたところ、「58」の頭にこの内容と、後に書かれる汚れた姿で子を連れ歩くことが記されてあるのを発見した。
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I naturally inquired the cause of what struck me as so strange and inconsistent, and was informed that the affectionate mothers thus neglected the appearance of their children, and purposely left them unwashed, and clothed them so shabbily, particularly when they had to take them out in public, from fear of the evil eye, which is excessively dreaded, and especially in the case of children, since they are generally esteemed the greatest of blessings, and therefore most likely to be coveted. It is partly for the same reason that many of them confine their boys so long in the hareem. Some mothers even dress their young sons as girls, because the latter are less obnoxious to envy.
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「八犬傳に番作が、其子の安寧を冀ふて、信乃を童時女裝せしめしは、これに類せり」馬琴の「南総里見八犬伝」では私は読んだことがない(妻は大ファンで既に三度以上、全篇を読んでいるが)。八剣士として最初に登場する犬塚信乃戍孝(いぬづか しの もりたか)は、ウィキの「南総里見八犬伝の登場人物」によれば、長禄四(一四六〇)年七月『戊戌の日、武蔵大塚で生まれる。父は犬塚番作、母は手束(たつか)』。『番作夫婦には』三『人の子があったが、いずれも育たずに夭折している。手束が子を願って』、『滝野川の弁才天に参拝した帰り道で』、『神犬に騎乗した神女(伏姫神)に遭遇し』、『珠を授けられるが、この時は取りこぼしてしまい、代わりに傍らにいた仔犬(与四郎)を連れて帰る。その後』に『出産したのが信乃である。元服まで』、『性別を入れ替えて育てると』、『丈夫に育つという言い伝えに』、『母が願いを託したため、女名をつけられ、女装されながら育てられた。作中の番作の説明によれば、「しの」は「長いもの」を意味する古語であり、また』、『番作夫婦が出会った信濃国に通じる』とある(太字は私が附した)。
「J. T. Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p. 15」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここだが、熊楠の記載は面白いものの、どうもかなり翻案してあることが判る。
「ヷーギル」ラテン文学の黄金期を現出させたとされるラテン語詩人プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro 紀元前七〇年?~紀元前一九年)。共和政ローマ末の内乱の時代から、オクタウィアヌスの台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごし、「牧歌」・「農耕詩」・「アエネーイス」の三作品によって知られる。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物(同人のウィキに拠った)。私は彼の訳詩集も持たないので、当該内容を持つ詩篇は不明。
「ピウス九世」第二百五十五代ローマ教皇ピウスⅨ世(Pius IX 一七九二年~一八七八年)。在位は一八四六年六月から一八七八年二月。本名はジョヴァンニ・マリア・マスタイ=フェレッティ(Giovanni Maria Mastai-Ferretti)。実に三十一年七ヶ月という最長の教皇在位記録を持つ。初めは自由主義的で、「イタリア統一運動」を支持したが、後に反意したため、一八四八年にイタリア軍によって教皇庁を追われた。一八七〇年にイタリア王国が成立しても、これと対立し、自ら、バチカン宮に幽囚の身となった。「第一バチカン公会議」の召集者であり、マリアの無原罪懐胎と教皇不可謬性の教義の採択でも知られる。
『手を握り固めて、拇指を食指と中指の間に挾み露はす、之を「フイコ」(無花果)と呼び』「南方熊楠 小兒と魔除 (1)」の私の「視害(ナザル)」「邪視(Evil Eye)」の注を参照されたい。
「リード氏話しに、是れ陰囊の間より男根の顯はれたるに象ると、思ふに此果未だ開かざるときの形狀、又其皮白汁に富る抔より、此稱呼を生ぜしか」私は文句なく賛同する。
「山岡明阿彌陀佛」通常は「山岡明阿彌」(やまおか みょうあみ)と表記する。既に注した旗本で国学者の山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年)の通称。林祭酒から漢学を学び、その後、賀茂真淵から古学を学んだ。熊楠が盛んに引く江戸時代の類書(百科事典)の一つ「類聚名物考」を始めとして多くの著作を残した。
「逸著聞集」俗に「色道の三奇書」と称される一つ(他に黒沢翁満著「はこやのひめごと」・沢田名垂著「あなをかし」)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらに写本があるが、内容的に労多くしての感が私には強いので調べる気にならない。悪しからず。
「ハールメス」ギリシア神話の青年神でオリュンポス十二神の一人、神々の伝令で、特にゼウスの使いとして知られ、旅人・商人の守護神であるヘルメース(ラテン文字転写:Hermēs)。
「プリアプス」既注であるが、引用途中に入れた注なので再掲しておくと、ギリシア神話に於ける羊飼いで、庭園・果樹園の守護神にして生殖と豊穣を司り、男性の生殖力の神プリアーポス(ラテン文字転写:Priāpos)。巨大なファルスを持つ。
「ジユノ」ローマ神話で主神ユーピテルの妻であり、女性の結婚生活を守護する女神で主に結婚・出産を司るユーノー(ラテン語:Juno)。ローマ最大の女神]。神権を象徴する美しい冠をかぶった荘厳な姿で描かれ、孔雀を聖鳥とする。ギリシア神話のヘーラーと同一視される。
「デメター」ギリシア神話に登場する豊穣神で、オリュンポス十二神の一柱にして穀物の栽培を人間に教えた女神デメテル(ラテン文字転写:Dēmētēr)。その名は古代ギリシア語で「母なる大地」を意味する。
「A. de Gubernatis, ‘La Mythologie des Plantes,’ 1882, tom. ii, pp. 138-140」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「植物の神話」。
「アシユビー」後に記す「Notes and Queries, Feb.22, 1908, PP. 145-146」(後注参照)の記者「R. E. ASHBY」とある人物。事蹟不詳。
「ペルシアのベルツチ敎授」同前記事に「Prof. Belucci, of Perugia」と登場する。
「隕石」原記事に「a meteoric stone」とある。
「Notes and Queries, Feb.22, 1908, PP. 145-146」「Internet archive」のこちら及び次のページで当該記事が読める。タイトルは「THE EVIL EYE IN ITALY.」で先の署名が最後にある。
「種彥の用捨箱」(ようしやばこ)「卷上(九)」「偐(にせ)紫田舎源氏」で知られる戯作者柳亭種彦(りゅうてい たねひこ 天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)の天保一二(一八四一)年の考証随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの原本の「天」(上巻・PDF)の「17」コマ目の「九」の「お事始」の中に、「江戸砂子」を引いて、
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事初【江府中にて籠(ざる)をつるなり】
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とあり、その次のコマに、
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此日、目籠(めかご)を出す由縁
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について、結論を言って、
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是は、参州・遠州の風俗の移りしなりとぞ。彼國にては、節分の日に出すを此日に誤りし
*
ものだと断じ、
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昔より、目籠は鬼(おに)のおそるゝといひならはせり。是は、目籠の底にの角々(すみずみ)は⚝、此くのごとし。晴明九字(せいめいくじ)【或いは晴明之判。】といふ者なればなり
*
と記して、慶安三年の吟とされる、
*
籠(かご)の目をあらあら作るは詮(せん)もなし
悪魔いれじとつゝしめる門(かど)
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という句と付句を掲げた上で、
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籠の目を鬼(き)のおそるゝといふ諺(ことわざ)のありし証(あかし)にあれ
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と擱筆している(原文はもっとねちっこく、ぐちゃぐちゃと書いているのだが、五月蠅いだけなので、私がカットして判り易くしてある。一部は訓読しておいた)。
「守貞の近世風俗志廿三編」江戸後期の風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?:大坂生まれ。本姓は石原。江戸深川の砂糖商北川家を継いだ)が天保八(一八三七)年から嘉永六(一八五三)年にかけての、江戸風俗や民間雑事を筆録し、上方と比較して考証、「守貞漫稿」として纏めた。この書は明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された。但し、熊楠の編数は誤りで、「卷之二十六【春時】」で、新春の行事を記述した中に、「二月八日 御事始め」として絵入りで出る。私は岩波文庫版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部を底本に電子化し(カタカナはひらがなに代え、句読点・記号を打った。読みは岩波版(ルビは新仮名)を参考にして歴史的仮名遣で添えた。文中に出る図形は画像からトリミングして差込んだ)、画像もそこからトリミングして補正(裏の映り込みがひどいので)して添えた。
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二月八日。御事始め。江戶士民、毎戶、竿頭(かんとう)に篭をつけ、栽(た)つ。或書に曰、「籠目は、
如此。俗云、『晴明九字』也」。又、曰、「方相(はうさう)の眼に似たり」。又、一書に、篭と味噌漉(みそこし)とを檐(のき)に釣るの圖あり。味噌漉の目、
是、亦、道家の秘呪とする九字に似たり。𪜈[やぶちゃん注:「とも」の約物。]に邪を除[やぶちゃん注:「のぞく」。]の意なるべし。
[やぶちゃん注:挿絵のキャプションは、竿の右脇が、『竿頭に篭を捧く』(ぐ)『圖』、上の町屋の俯瞰図の上に添えてあるのが、『御事の日、䈰を栽(たつ)るの圖』(上部右寄りの「意ナルベシ」は本文の末部分で、キャプションではない)。]
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「栽(た)つ」は植え込むの意であろう。最初の引用は種彦の「用捨箱」の可能性が高い。「方相」は「方相氏」のこと。元は中国周代の官名であるが、本邦に移されて、宮中に於いて年末の追儺 (ついな)の儀式の際に悪鬼を追い払う役を担う神霊の名。黄金の四ツ目の仮面をかぶり、黒い衣に朱の裳を着用して矛と盾を持ち、内裏の四門を回っては鬼を追い出した。見たことがない人のためにグーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。
「レヷント地方」レヴァント(Levant)は東部地中海沿岸地方の歴史的名称。広義にはトルコ・シリア・レバノン・エジプト及び現在のイスラエルを含む地域を指す。
「Hasselquist, ‘Voyages and Travels in the Levant,’ 1766, p. 167」はスウェーデンの旅行家にしてナチュラリストであったフレデリック・ハッセルキスト(Fredrik Hasselquist 一七二二年~一七五二年)。「Internet archive」のこちらであるが、英語の綴りが古く、熊楠の言っているような内容なのかどうか、私には判らなかった。
「Burton, ‘The Book of the Thousand Nights and a Night,’」一九世紀イギリスを代表する探検家にして、軍人・外交官・人類学者・作家(翻訳家)としても知られたリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton 一八二一年~一八九〇年)の訳した「バートン版千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)。
「カイロには近年も盛裝の富豪婦人、襤褸を絡ひ[やぶちゃん注:「まとひ」。]面に泥塗れる兒女を伴ひ步むを見ること少なからず、是れ其生む所にして、家内に在ては錦衣玉食しながら、外出するご每に、邪視に打たれざる樣にとて、故らに相好を損ぜるなり」「Lane, ‘Manners and Customs of the Modern Egyptians,’1871, p. 70」に私が引用した英文を見られたい。同じことが書かれてある。
「Budge,‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol.i, pp. 13-14」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年:古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた)の原本の当該部は「Internet archive」のこちら右ページから、次のページにかけてである。
「開眼」老婆心乍ら、この狭義にあっては「かいげん」と読むのが正しい。
「ケペラ神」「ケプリ」或いは「ケペラ」。エジプト神話に於ける太陽神「ラー」の形態の一つであり、「日の出」を表わす。男性の体にスカラベ(彼らが聖なる虫と限定して指したのはヒダリタマオシコガネ(昆虫綱 Coleopterida 上目コウチュウ目コガネムシ科ダイコクコガネ亜科Scarabaeini 族タマオシコガネ属ヒジリタマオシコガネ Scarabaeus sacer )とされる)の頭を持つ姿で表現される。これはスカラベが丸めた獣糞を自分の前で転がしながら運ぶ姿が、太陽の運行を象徴すると考えられたことによる。また、その糞の玉からは、スカラベが生み付けた卵が孵って生命が出てくることから、スカラベは自分自身を創造する太陽神を象徴するものと見做されたのである。ラーは、夜の間に冥界を渡り、この姿で東の方向に天空の女神「ヌト」の腿の間から地上に姿を現わすと考えられていた(概ねウィキの「ケプリ」に拠った)。
「ハトール形」不詳。神名とならば、ラーを父と配偶神に持つ愛と美の女神ハトホル或いはハトル(Hathor)がいるが、当該ウィキを読んでも眼力のことは出ていない。
「紐育」老婆心乍ら、ニュー・ヨークのこと。
「ハムボルト文庫」不詳。
「ヒプノチズム」hypnotism。「催眠術」の意。音写するなら、「ヒプニティズム」である。
「フアツシネーシヨン」fascination。「魅惑」・「魅力」・「うっとりした状態」・「蛇が蛙などを竦ませること」等の意がある。
「バシリスク」バジリスクとも。ラテン語「basiliscus」・英語「basilisk」。古代ヨーロッパ以来の想像上の妖獣。名称はギリシア語で「小さな王」の意に由来する。「全ての蛇の上に君臨する蛇の王」を指す。蜥蜴・蛇・鶏(にわとり)がハイブリッド化したような姿で、王冠の鶏冠(とさか)を持ち、睨んだり、息を吹きかけただけで人を殺すことが出来るとされた。因みに、後にリンネによって中南米に棲息する蜥蜴、有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目イグアナ科バシリスク亜科 Corytophaninae バシリスク属 Basiliscus Laurenti, 1768)の属名に当てられている。同属種の成体の♂が頭頂部・背面・尾に鶏冠や帆状突起が発達することに由来する。
「牛鬼」現行でも「うしおに」「ぎゅうき」二様に読まれる。主に西日本に伝わる妖獣的妖怪である。主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲うとされている。海辺や河川の淵に出没することが殆どで、圧倒的に獰悪にして残忍で、毒を吐き、人を食い殺すことを好むと伝える(祭祀されて神となっているケースもあるにはあるが、これは原祖型の零落からの先祖返りか、或いは御霊信仰の変形であろうと思われる)。一般には、頭が牛で、首から下は獸類或いは鋭い爪を持った昆虫型の奇体な「鬼」の胸腹部で描かれる。資料として牛鬼と認め得るもので、第一級レベルに属する記載は、「吾妻鏡」で、建長三(一二五一)年三月六日に浅草寺に出現したそれである。
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丙寅。武藏國淺草寺。如牛者忽然出現。奔走于寺。于時寺僧五十口計。食堂之間集會也。見件之恠異。廿四人立所受病痾。起居進退不成。居風云々。七人卽座死云々。
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丙寅(ひのえとら)。武藏國淺草寺に、牛のごとき者、忽然と出現し、寺に奔走す。時に、寺僧、五十口(く)計(ばか)り、食堂(じきだう)の間(ま)に集會(しふゑ)するなり。件(くだん)の恠異を見て、廿四人、立所(たちどころ)に病痾(びやうあ)を受け、起居・進退、成らず。「居風(きよふう)」と云々。
七人、卽座に死ぬと云々。
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この病名の「居風」というのは判らない。私は牛頭天王や地獄の獄卒牛頭から派生的に生じた妖怪であり、娘の頭に牛体とする「件」(くだん)も、その直系親族の成れの果てと考えている。
『「バシリスク」一名「コツカトリス」』コカトリス(英語:Cockatrice/フランス語:Cocatrix(音写するなら「コケトゥリ」))は雄鶏と蛇とを合わせたような姿の伝説上の妖獣。ウィキの「コカトリス」によれば、『雄鶏の産んだ卵から生まれるという』。『雄鶏は』七『歳で、卵はヒキガエルが』九『年間温める、などという民話も生まれた』。『同じく伝説の生物であるバジリスクから派生したとされているが、そのきっかけは』十四『世紀にジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』において』、『バジリスクがバシリコック(Basilicok)という名前で登場したことである。その名はやがてコカトリスに変化していき』、『その名が指す生物の外観も、元々は蛇であったものが、首から上と下肢は雄鶏、胴と翼はドラゴン、尾は蛇というふうに、複数の生き物が混合した姿に変貌していった』。『能力はバジリスクと同じようなものを持ち、人に槍で襲われるとその槍を伝って毒を送り込んで逆に殺したり、水を飲んだだけでその水場を長期間にわたって毒で汚染したり』、『さらには、見ただけで相手を殺したり』(邪眼の特徴である)、『飛んでいる鳥さえ』、『視線の先で焼いて落下させたりする』『とされた』。『中世の聖書のさまざまな版のいくつかにコカトリスが登場したため、当時の多くの人がコカトリスが本当に存在すると信じていたという』。『ウィリアム・シェイクスピアの『十二夜』の中でも、登場人物がコカトリスについて言及している』とある。なお、ウィキの「バジリスク」の方には、『コカトリスとは雌雄関係にある(どちらが雄か雌かは不明)とも言われ、「バジリスク」の別称として「コカトリス」が用いられるようにもなった』とあっさりしている。
「凋枯」しぼんで枯れること。
「芸香」以下に示す香草を指す「芸」(音「ウン」。他に「盛んなさま」・「草を刈る」或いは「木の葉が枯れかけて黄ばむ」の意などがある。正しくは(くさかんむり)の間が切れたもの)と「藝(新字「芸」)」は全くの別字であるので注意されたい。バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ヘンルーダ属ヘンルーダ Ruta graveolens。常緑小低木。地中海沿岸地方原産。葉に山椒を少し甘くしたような香りがある。本邦には江戸時代に渡来し、葉に含まれる「シネオール」(cineole:ユーカリ(フトモモ目フトモモ科ユーカリ属 Eucalyptus)の精油の主成分)が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに利用され、料理の香りづけにも使われていたが、ウルシのように、接触すると、かぶれるなどの毒性があるとされ、現在は殆んどそうした薬剤としては使用されていない。精油はグラッパなどの香り付けに使われている。古くは書斎・書庫を「芸室(うんしつ)」とも称したが(日本最初の公開図書館とされる奈良末期に石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)によって平城京に設けられた「芸亭(うんてい)」も有名)、漢名「芸香」としては、草体を栞に使うと、本の虫食いを防ぐとされた。また、古くから「眼鏡のハーブ」と呼ばれるほど、視力を高める効果があると信ぜられていたため、古代ローマでは画家がこれを大量に食べたという(以上は主に当該ウィキに拠ったが、冒頭や一部はオリジナルに記したものである)。最後の部分は邪視との対抗性が判る話のように思われる。
「牛鬼吾邦に存せしこと今昔物語東鑑等に出れども」「東鑑」は既に引用して出した。「今昔物語集」のそれは、恐らく巻第十七にある、「於但馬國古寺毘沙門伏牛頭鬼助僧語第四十二」(但馬國の古寺に於いて、毘沙門、牛頭(ごづ)の鬼を伏(ふく)して僧を助くる語(こと)第四十二)かと思われる。以下に電子化する。所持する複数の諸本を校合した。□は原本の欠字で、それは小学館の「日本古典文学全集」に従った。読みも小学館版を参考にした。なお、この話は典拠があり、「大日本国法華験記(げんき)」(平安中期に書かれた仏教説話集。著者は比叡山の僧鎮源(伝不詳))の「中」の「第五十七 鬼の害を遁れたる持經者法師」(原本は本文ともに総て漢文表記)である。
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今は昔、但馬の國の□□郡(こほり)の□□の鄕(さと)に、一つの山寺有り。起ちて後(のち)、百餘歲を經にけり。而るに、其の寺に、鬼、來り住みて、人、久しく寄り付かず。
而る間、二人の僧、有りけり。道を行くに、其の寺の側(かたはら)を過ぐる間、日、既に暮れぬ。僧等(そうら)、案内を知らざるに依りて、此の寺に寄りて、宿りぬ。一人の僧は、年若くして、法花(ほふくゑ)の持經者(ぢきやうじや)也。今一人の僧は、年老いたる修行者也。夜(よる)に入りぬれば、東西に床(とこ)の有るに、各々、居ぬ。
夜半に成りぬらむと思ふ程に、聞けば、壁を穿(うが)ちて、入る者、有り。
其の香(か)、極めて臰(くさ)し。
其の息(いき)、牛の鼻息を吹き懸くるに似たり。
然(しか)れども、暗(くら)ければ、其の體(すがた)をば、何者と見えず。
既に入り來りて、若き僧に、懸かる。
僧、大きに恐ぢ怖れて、心を至して「法花經(ほふくゑきやう)」を誦(じゆ)して、
「助け給へ。」
と念ず。
而るに[やぶちゃん注:「すると」の意。]、此の者、若き僧をば、棄てて、老いたる僧の方(かた)に寄りぬ。
鬼、僧を爴(つか)み、刻みて、忽ちに噉(く)らふ。
老いたる僧、音(こゑ)を擧げて、大きに叫ぶと云へども、助くる人、無くして、遂に噉はれぬ。
若き僧は、
「老いたる僧を噉らひ畢(は)てば、亦、我れを噉はむ事、疑ひ有らじ。」
と思ひて、逃(に)ぐべき方、思(おぼ)えねば、佛壇に掻き登りて、佛の御中(おほむなか)に交(まじ)はりて[やぶちゃん注:複数の仏像の中に紛れ込んだのである。]、一(ひとり)の佛の御腰(おほむこし)を抱きて、佛を念じ奉り、經を心の内に誦して、
「助け給へ。」
と念ずる時に、鬼、老いたる僧を、既に食ひ畢(は)てて、亦、若き僧の有りつる所へ來たる。
僧、此れを聞くに、東西、思ゆる事無くして、尙、心の内に「法花經」を念じ奉る。
而る間、鬼、佛壇の前へに倒れぬ、と聞く。
其の後(のち)、音も爲(せ)ずして、止みぬ。
僧の思はく、
「此(こ)は、鬼の、『我が有り所を伺ひ知らむ』と思ひて、音を爲(せ)ずして聞くなめり。」
と思へば、彌(いよいよ)、息・音(こゑ)を立てずして、只、佛の御腰を抱(いだ)き奉りて、「法花經」を念じ奉りて、夜の曙(あ)くるを待つ程に、
「多くの年を過ぐす。」
と思ゆ。更に、物思(おぼ)えず。
辛(から)くして、夜(よ)、曙けぬれば、先づ、我が抱(いだ)き奉る佛(ほとけ)を見れば、毘沙門天にて、在(まし)ます。
佛壇の前を見れば、牛の頭(かしら)なる鬼を、三段に切り殺して置きたり。
毘沙門天の持ち給へる鉾(ほこ)の崎(さき)に、赤き血、付きたり。
然(しか)れば、僧、
「我を助けむが爲めに、毘沙門天の、差し殺し給へる也けり。」
と思ふに、貴(たふと)く悲しき[やぶちゃん注:「悲しき」は感涙するさまである。]事、限り無し。
現(あら)はに知りぬ、此れ、「法花(ほつくゑ)」の持者(ぢしや)を加護し給ふ故(ゆゑ)也けり。
「令百由旬内(りやうひやくゆじゆんない) 無諸衰患(むしよすいげん)」の御誓(おほんちかひ)、違(たが)はず。[やぶちゃん注:「令百由旬内 無諸衰患」句意は『「法華経」を奉じて心から信ずる者の周囲は遙かな彼方まで諸々の患いや災いはこれ全く無い』の意。]
其の後(のち)、僧、人鄕(ひとざと)に走り出でて、此の事を人に告ぐれば、多くの人、集まり行きて見れば、實(まこと)に僧の云ふが如し。
「此れ、希有の事也。」
と、口々に云ひ喤(ののし)る事、限り無し。
僧は、泣々(なくな)く、毘沙門天を禮拜(らいはい)して、其所(そのところ)を過ぎぬ。
其の後、其の國の守(かみ)□の□□と云ふ人、此の事を聞きて、其の毘沙門天を□□[やぶちゃん注:ここは破損。他本「以て」とする。]奉りて、京に向へ奉りて、本尊として供養し、恭敬(くぎやう)し奉りけり。
僧は、彌(いよい)よ、「法花經(ほくゑきやう)」を誦(じゆ)して、怠る事、無かりけり、となむ、語り傳へたるとや。
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「羚羊(かもしか)」哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus 。本邦固有種で京都府以東の本州・四国・九州に棲息し、本州では東北地方から中部地方にかけて分布し、京都府北部・鈴鹿山脈・紀伊半島などに隔離分布し、九州では大分県・熊本県・宮崎県に分布する。されば、熊楠の謂いは問題ない。]
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