南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 1
[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年三月発行の『東京人類學會雜誌』第二十六巻三百号)初出で(初出は「J-STAGE」のこちら(PDF)で読める)、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像で視認して用いた。
但し、加工データとして、前の「小兒と魔除」注釈中、サイト「私設万葉文庫」(この堅実な電子化サイトは古くから知っていたが(どういう方が作っておられるかも知っている)、「万葉集」は永く私の興味圏外にあったため、ここ十数年以上、訪問していなかった)に平凡社の「南方熊楠全集」の本文電子化(全部ではないが、主要邦文論文部はカヴァーされている)があることを発見したため、今回からは、そちらにある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方随筆」(新字新仮名)で校合した。
但し、既に「小兒と魔除」の注で遂に爆発憤激して述べたが、少なくとも、この全集を親本とした私の所持する「選集」は、熊楠の肉声を不当に(厳密な細かな書き換え基準を設けずに)、ただただ読み易けりゃいい的に恣意的に標準化しており、甚だ問題があることが判った。これは「選集」が「全集」の校訂方針に拠っていると述べている以上、「全集」もそうした変更が行われているものと思われる。そう言った舌が干ぬ間に、冒頭本文内注で、またしても、私の癇癪が暴発した。お付き合い戴きたい。
段落に附した注の後は一行空け、前注の場合も前後を一行空けた。
なお、欧文書誌データの表記の不審部分(実は不全・不審部分が甚だ多い)は上記「選集」に拠って修正した。但し、それは五月蠅いだけになるので、原則、注記していない。
またしても、いろいろ本文校訂に問題が多過ぎるので、ブログでは分割して示す。]
西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語
(異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)
明治四十一年六月の早稻田文學、予の「大日本時代史に載せたる古話三則」中に述し如く、古話に其土特有の者と、他邦より傳來のも者と有り、又古く各民族未だ分立せざりし時代すでに世に存せしと覺しく、廣く諸方に弘通され居たる者有、一々之を識別するは、十分材料を集め、整理硏究せる後ならで叶はぬ事也、而して、故「イサアク、テロロル」の原殆「アリアン」人篇に「レツツ」「リチユアニアンス」等の諸語は、由來頗る古き者乍ら、記錄無く、文章無かりし爲、希臘羅丁[やぶちゃん注:「ラテン」。]程に古く思はぬ人多しと論ぜると等しく、古話に於ても、記錄せる時代の先後は、必しも其話が出來せし[やぶちゃん注:「しゆつたいせし」。]早晚と偕はず[やぶちゃん注:「ともなはず」。]、併し[やぶちゃん注:「しかし」。]齊しく文筆の用を知りおりたる諸國民に就て、同種古話の記錄の先後と、類似せる諸點の多寡を察すれば、大要其譚の、先つて何れの國に專ら行はれ出たるを知るに難からじ、外國の古話を吾國に輸入せしと思はるゝ一二の例を擧んに、左大史小槻季繼記に、「太政大臣實基公(嘉祿元年十一月十日補せらる)檢非違使別當の時、八歲の男子を、二人の女、面々に我子の由を稱しける間だ、法曹輩計申云、任法意旨、三人が血を出して、流水に流す時、眞實の骨肉の血、末にて一つに成り、他人の血氣は末にて別也、如此可沙汰之由、計申處、大理云、八歲者可血之條、尤不便事也、今度沙汰の時、彼三人並諸官等、可參之由、被仰て、其日遂不被決雌雄、後沙汰日、彼三人諸官等令參之時、數刻之後、大理出座、被仰云、件女性兩人して、此男子を引て、引取らむを母と可申由被計ける時、二人して此子を引けるに、引れて損ぜんとする時に、一人の女は放ち、今一人は只引勝んとす、如此する事度々、其時大理云、放つる女は實母也、勞はるに由て此如放つ者也、今一人は無勞心、只勝んと思ふ心計にて引也云々、無相違、放つる女は母也、當座被引は、荒ふには似たれども、思慮の深き處也、實基公は法曹に達する人也」と見ゆ、古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き、次に風俗通を引て云、前漢、潁川太守、黃霸、本郡有富室兄弟同居、弟婦懷姙、其長姒亦懷姙胎傷匿之、弟婦生男、長姒輒奪取、以爲己子、論爭三年、附於霸、霸使人抱兒於庭中、及使娣(稚婦)姒競取之、既而俱至、姒持之甚猛、弟婦恐有傷於手、而情甚凄慘、霸、乃叱長姒曰、汝貪家財、欲得此子、寧慮意頓有所傷乎、此事審矣、姒伏罪、「アラビヤ」夜譚には、一人兩妻を具せしが、兩妻同時同室に、一產婆に助けられて分挽し、生まれたる男兒は活き、女兒は卽座に死しければ、兩妻一男兒を爭ふて賢相に訴ふ、賢相二婦の乳汁を空卵殼に盛り、秤り比べて、汁の重き方を男兒の母と斷定せしも、他の一婦服せず、喧嘩已まざりければ、賢相今は其兒を二つに割て[やぶちゃん注:「さきて」。]、一半を各に與んと言ふに、乳汁重き女、最早爭ひを止む可れば、子を他の女に與え玉へと言ふに反し、今一人の女は、願くは兒の一半を與へよと言ふ、賢相便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]汁輕き女を絞殺せしめ、兒を汁重き女に附すと有り(Burton, ‘Supplemental Nights,’ 1894, Vol.xi, pp. 51―53.)、皆人の知る如く、舊約全書(1. Kings iii, 16―20)に載せたる「ソロモン」の裁判は、此話の最古く傳はれるも者にて、色々の補刪[やぶちゃん注:「ほさん」。添削。]を經て漢土本邦迄も入來れるなるべし、又前年、坪内博士が、早稻田文學にて公表せられし、幸若の舞曲、其から淨瑠璃等に名高き百合若の話は、希臘の「ユリツセス」の傳に基くてふ考說抔、素人が日本固有の美譚と思込だる者にも、實は舶來の燒直し無きに非ざるを證するに餘有り、
[やぶちゃん注:まだこの話は次段でも続くのであるが、あまりに問題が多過ぎるので、ここで注する。
『明治四十一年』(一九〇八年)『六月の早稻田文學、予の「大日本時代史に載せたる古話三則」中に述し如く、古話に其土特有の者と、他邦より傳來のも者と有り』これは本篇の三年前に雑誌『早稻田文學』第三十一号に載った熊楠の論考であるが、初出でも同じ題名であるものの、実際には正しくは「大日本時代史に載する古話三則」である。「全集」でしか読めないが、幸い、先に示した「私設万葉文庫」の「南方熊楠全集3(雑誌論考Ⅰ)」で読むことが出来る。まず、「大日本時代史」であるが、この熊楠の論考は確信犯の投稿であって、前年の明治四十年からこの年にかけて早稲田大学出版部から刊行された時代別に分割された歴史書で、著者も異なる(「国立国会図書館サーチ」の同書の検索結果ページのこちらを参照)。原本は、後の大正期の版ではあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全巻が読める。さて、熊楠の論考は冒頭で主に『米糞聖人の話(「平安朝史」一六一頁)、醍醐天皇哭声を聞きて婦人の姦を知りたまいし話(同、三四五-六頁)、毛利元就箭を折りて子を誡めし話(「安土桃山史」一九二-三頁)』の三つの伝承について扱うと述べていて(但し、イントロダクションで、それ以外の事例を幾つか挙げてある)、これまた、なかなか面白い。是非読まれたい。
「弘通」「ぐつう」。本来は仏教用語で、仏教が(を)広く世に行われる(せる)ことのみを指すが、ここは汎用使用したもの。
『「イサアク、テロロル」の原殆「アリアン」人篇』いろいろな欧文文字列で試してみたが、不詳。識者の御教授を乞う。
「レツツ」不詳。同前。
「リチユアニアンス」不詳。同前。
「左大史小槻季繼記」小槻季継(おづきのすえつぐ 建久三(一一九二)年~寛元二(一二四四)年)は鎌倉中期の官人で算博士(大学寮にあって計算・測量などの数学技術の教授職)小槻公尚の子。官位は正五位上・左大史(神祇官・太政官(弁官局)に置かれた。四等官四番目である主典(さかん)相当。官位相当)。元仁元(一二二四)年、壬生流の国宗の死のあとを受けて官務となり、二十一年間に亙って在職し、大宮官務家の基礎を固めたが、国宗から官務の地位とともに伝えられた所領を、大宮家のみで独占しようとしたといわれており、同家と壬生家とが相論を重ねるきっかけを作っている。他に修理東大寺大仏長官・備前権介・紀伊守・筑前守などの地方官を兼任している。但し、現在のこの「左大史小槻季継記」として流布している日記は、実は季継の息子の秀氏の日記であることが判明している。「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」の「歴代残闕日記」(第三十八巻)の「33」コマ目(左頁五行目)に当該部を発見した。明治期の写本で非常に読み易い(但し、熊楠は孫引きで、「古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き」(後掲する)とある。左ページ三行目から)。電子化しておく。【 】は右傍注。カタカナは概ね右寄りに小さいが、同ポイントで示し、記号・句読点などを施し、一部に( )で推定の読みを施し、段落を成形して読み易くした。一部が朱で訂された方を採った。
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太政大臣實基公【嘉祿元年十一十、補。】、撿非違使別當ノ時、八歳男子ヲ、二人ノ女、面々ニ、
「我子。」
ノ由ヲ稱シケル間、法曹輩(はふさうのはい)、計申云(はかりまうしていはく)、「任法意旨(はふにまかすのいし)、三人ガ血ヲ出(いだし)テ、流水ニ流ストキ、眞實ノ骨肉ノ血ハ、末ニテ一(ひとつ)ニ成リ、他人ノ血氣ハ末ニテ別ナリ。如此、可沙汰。」
之由、計申處、大理云、
「八歳者、可血(ちすべし)之條、尤(もつとも)不便(ふびんの)事也。今度、沙汰之時、彼三人并(ならびに)諸官等、可參。」
之由、被仰テ、其日、遂不被決雌雄。
後、沙汰日、彼三人・諸官等、令參(まゐらせしむ)之時、數刻之後、大理出座、被仰云、
「件(くだんの)女性、兩人シテ、此男子ヲ引(ひき)テ、引取ラムヲ、母ト可用(もちふべき)。」
由、被計(はかられ)ケル時、二人シテ、此子ヲ引ケルニ、被引(ひかれ)テ損セントスル時ハ、一人ノ女ハ、放チ、今一人ハ、只(ただ)引勝(ひきかたん)トス。如此スル事、度〻(たびたび)。
其時、大理云、
「放ツル女は實母也。イタハルニヨリテ、此如、放(はなつ)モノ也(なり)。今一人ハ無勞心(いたはりのこころなく)、只、勝ント思(おもふ)心計(ばかり)ニテ引也。」云々。
無相違(さうゐなく)、放ツル女ハ母也。當座、被引(ひかされし)ハ荒(あらき)ニハ似タレ𪜈(ども)[やぶちゃん注:当初、二人の女に引っ張らさせたのは荒っぽい仕儀には、一見、見えるけれども。]、思慮ノ深キトコロ也。實基公ハ法曹ニ達スル人也。
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「太政大臣實基」徳大寺実基(建仁元(一二〇一)年~文永一〇(一二七三)年)は鎌倉中期の公卿で従一位・太政大臣。
「嘉祿元年」一二二五年。
「十一月十日補せらる」これは一見誰もが太政大臣へ補任の年月日と思ってしまうが、彼が太政大臣となるのは、ずっと後の建長五(一二五三)年十一月二十四日である。では、これは誤記かと言うと、そうでもない。日付はちょっと違うが、この嘉禄元年十一月十九日に権中納言・左衛門督を兼ねて検非違使別当に補されているからである。
「荒ふには似たれども」この「荒ふ」は初出も同じである。「選集」では「荒(やぶ)る」と勝手に送り仮名まで変えてルビを振るが、こんなことは許されない。私は「荒っぽい仕方をする」の意の「あらぶる」の「る」の脱字か、「すさぶ」の「ぶ」の誤植ではないか疑っており、その次に熊楠の当て訓で「あらがふ」かと思う。それは「荒ふ」に相当する和語の動詞が存在しないからである。そもそも「やぶる」は正規の訓や意味はないから、実は話にさえならぬのである。どうしてこうした改変や、おかしな当て訓が編集方針の中でまかり通るのか私には全く以って不思議でならないのである。因みに、原本は「故事類苑」版でも「荒ニハ」であるから、私は「あらきには」と気持ちよく訓読したのである。
「古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き、次に風俗通を引て云」「古事類苑」が明治期に政府が編纂した類書(百科事典)。本文千巻。刊本は和装本で三百五十冊、洋装本では五十冊・索引一冊 (昭和二(一九二七)年再版では六十冊)。明治一二(一八七九)年に西村茂樹の建議で文部省に編纂係が設けられ、刊行開始は明治二十九年にずれ込み。大正二(一九一三)年になってやっと完結した。内容は歴代の制度・文物・社会百般に亙って多くの引用を示してある。天・歳時・地・神祇などの三十部門に分類されてある。現在、「PukiWiki 古事類苑全文データベース」・「古事類苑データベース」・「国際日本文化研究センター・古事類苑ページ検索システム」が起動している。それぞれに使い勝手に合わせて私は頻繁に使用させて貰っている。お試しあれ。「風俗通」は後漢末の応劭の撰した「風俗通義」の略称。さまざまな制度・習俗・伝説・民間信仰などについて述べたもの。但し、散佚しており、以下のように他書に引用された断片が残る。さてもそれを「日文研」の「古事類苑ページ検索システム」のこちらで、当該箇所の原本画像を視認出来る。以下、原文をまず電子化し(句読点を一部追加し、返り点は除去した)、後で訓読する。
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〔棠陰比事上〕黃覇叱姒
前漢、潁川太守黃霸、本郡有富室、兄弟同居、弟婦懷姙、其長姒亦懷妊、胎傷匿之、弟婦生男、長姒輒奪取、以爲己子、論爭三年、訴於霸、霸使人抱兒於庭中、及使娣【音弟、稚婦曰娣】・姒競取之、既而俱至、姒持之甚猛[やぶちゃん注:「持」は底本は「埒」で、これはおかしい。初出は「捋」(音「ラツ」)で、「選集」も「捋」となっている。後者は漢文脈を勝手に訓読しているが、そこでは『捋(ひ)く』と訓じている。しかし、これもちょっとおかしい。何故なら、この漢字は「なでる」「扱(しご)く」「抜き取る」の意であるからである。ちょっと変だ。御覧の通り、「古事類苑」は「持」である。さらに本当の引用元である「棠陰比事」を複数見たところ、やはり「持」である。「持」には「握る・持ち合う」の意があるから納得出来る。されば、「持」を採った。]、弟婦恐有傷於手[やぶちゃん注:「手」は底本では「乎」であるが、おかしい。初出も「選集」も「手」であり、御覧の通り、「古事類苑」も「手」であるので、特異的に本文を訂した。]、而情甚悽慘、霸、乃叱長姒曰、汝貪家財[やぶちゃん注:「貪」は底本では「貧」。初出・「選集」・「古事類苑」は孰れも「貪」であるから、これも本文を訂した。]、欲得此子、寧慮意伏罪【出風俗通。】[やぶちゃん注:底本は最後が「寧慮意頓有所傷乎、此事審矣、姒伏罪」。後注参照。]
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〔「棠陰比事(たういんひじ)」上〕「黃覇叱姒(こうはしつじ)」
前漢の潁川(えいせん)太守黃霸(こうは)あり。
本郡に富室有り。兄弟、同居す。弟婦(ていふ)[やぶちゃん注:弟の妻。]、懷姙す。其の長姒(ちやうじ)[やぶちゃん注:兄の妻。]も亦、懷妊するも、胎、傷(こは)れ、之れを匿(かく)す。弟婦、男を生みしに、長姒、輒(すなは)ち、奪(うば)ひ取り、以つて己れが子と爲す。
論爭すること三年、霸に訴ふ。
霸、人をして、庭中にて、兒を抱(いだ)かしめ、及(すなは)ち、娣(てい)【音「弟」。「稚婦(ちふ)」[やぶちゃん注:弟の妻。]を「娣」と曰ふ。】・姒、競はせて、之れを取らしむ。既にして俱(とも)に至り、姒、之れを持(じ)すこと、甚だ猛(たけ)し。
弟婦は、手を傷つくること有るを恐れ、而して、情、甚だ悽慘たり。
霸、乃(すなは)ち、長姒を叱りて曰はく、
「汝、家財を貪り、此の子を得んと欲す。寧(いづくん)ぞ、慮意あらんや。」
と。罪に伏す。【「風俗通」に出づ。】
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・「潁川」当時は現在の河南省禹(う)県を指した。
・「太守」郡州の長官。
・「黃霸」第九代宣帝(在位:紀元前七四年~同四八年)の時に廷尉正(刑罰・司法を管轄する職)となり、一時期、冤罪で獄に繋がれたが、後に抜擢され、潁川太守となり、さらに丞相に登りつめた。漢代の治民の名官吏として知られる(ここは所持する岩波文庫「棠陰比事」(一九八五年刊)駒田信二訳の注に拠った)。
さても、冒頭にある通り、引いた書である「棠陰比事」(とういんひじ)は宋の桂万栄の著になる裁判記録集で、一二〇七年成立。中国古今の名裁定百四十四件の判例を、暗唱しやすいように四字の韻語で標題して収録する。日本にも早くから伝えられ、井原西鶴の「本朝櫻陰比事」(元禄二(一六八九)年板行)や知られた「大岡政談」(実録体小説。名奉行大岡忠相の裁判を主題とし、「天一坊」「白子屋阿熊(しらこやおくま)」など十六編の話からなるが、史実とは無関係のものが多く、完全な推理小説的創作である。人情と機知に富んだ古今東西の裁判の話を江戸時代のものに巧みに改変・脚色している。原作者は不詳。江戸期の講釈に起源を持つ)などに影響を与えた。原本のそれは「上」の以下。頭に同じ事例の枕がある。「中國哲學書電子化計劃」内の「棠陰比事」(四明叢書)の原本画像から起こした。
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李崇還泰黃覇叱姒
後魏李崇爲揚州刺史縣民荀㤗者有子三歲失之後見在趙奉伯家各言已子竝有鄰證郡縣不能斷崇乃令二父與兒各禁數日忽遣獄吏報兒暴卒泰聞之悲不自勝奉伯嗟歎而已遂以兒還泰奉伯伏罪
漢時頴川有富室兄弟同居弟婦與長姒皆懐姙長姒胎傷弟婦生男輒奪以爲己子爭訴三年郡守黃覇使人抱兒於庭令娣姒競取之長姒持之甚猛弟婦恐有所傷於手覇乃叱長姒曰汝貪家財欲得兒寧慮頓有所傷乎乃以兒還弟婦出【出風俗通】
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この末尾部分が熊楠の記すものとほぼ一致する。さらに探してみたところ、この近代中国語の本書(全編)の版本画像(PDF)の10コマ目にあるものの末尾が、
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「汝貪家財、欲得此子、寧慮意頓有所傷乎。此事審矣。」姒伏罪。
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と完全一致することが判った。
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「汝、家財を貪り、此の子を得んと欲す。寧ぞ頓(とみ)に傷つくる所有るを慮(おもんぱか)り意(おも)はんや。此の事、審らかなり。」
と。姒、罪に伏す。
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やっと、気が晴れた。
「Burton, ‘Supplemental Nights,’ 1894, Vol.xi, pp. 51―53.」原本確認出来ず。
「舊約全書(1. Kings iii, 16―20)に載せたる「ソロモン」の裁判」「旧約聖書」「列王紀上」の第三章の「16」から「28」。「Wikisource」の「列王紀上(口語訳)」』(一九五五年日本聖書協会刊)の当該部を読まれたい。
「前年、坪内博士が、早稻田文學にて公表せられし、幸若の舞曲、其から淨瑠璃等に名高き百合若の話」室町時代の幸若舞を起源とするとされる貴種流離譚の一つ「百合若」伝説の主人公「ゆりわかだいじん」と「ユリシーズ」の発音の類似や、話の展開の各所に見られる類似性から、現在でも「ユリシーズ」起源説が語られるが、それの先鞭をつけたのが、坪内逍遙が明治三九(一九〇六)年一月に『早稻田文學』発表した「百合若傳說の本源」である。国立国会図書館デジタルコレクションの坪内逍遙の論集「文藝瑣談」(明四十年春陽堂刊)の画像でここから視認出来る。ウィキの「百合若大臣」によれば、そこで『坪内逍遙は、古代ギリシアの詩人・ホメロスが謡った叙事詩「オデュッセイア」がなんらかの形で(あるいは室町時代にポルトガル人の手により)日本に伝えられ、それが翻案されたものこそが「百合若大臣」であるとの説を』提唱し、『オデュッセイアのラテン語での発音「ユリシス」と「百合」が似ていることや、主人公・オデュッセウスの留守を守る妻・ペネローペーが織物をして時間を稼ぎ、求婚者をかわす逸話が、百合若の妻の行いを思わせるからであ』った。『坪内は、伝来の道筋として「いずれの国人」にもたらされたか不明であると断りながら、あるいは「堺や山口を経」たものとの思いつきに達したとする』。『これは室町時代にやってきた「南蛮人」・「ポルトガル人宣教師」による伝播説だと捉えられている』。なお、『南蛮伝播により強く執着したのは、この坪内よりも』言語学者で「広辞苑」編集やキリシタン文献の研究でも知られる者新村出(しんむらいずる)『であった』(後の大正四(一九一五)年刊「南蠻記」(東亜堂書房))。しかし、『この説は』その後、『津田左右吉、柳田國男、高野辰之、和辻哲郎などによって鋭く排撃されて』おり、『この型の説話の分布は広く、偶然の一致として懐疑的に見る意見がある』点、『また、百合若の初演が』天文二〇(一五五一)年で『ポルトガル人による種子島銃の伝来からわずか』七『年あまりで』、かくも『完成度の高い翻案を不可能と目す論旨がある』。一方、『坪内との同調派には、新村出にくわえて、アメリカ出身のE・L・ヒッバード(同志社女子大学教授)があり、また日系人のジェームス・T・アラキがいる』。『アラキは、たとえ初演が』一五五一年であったとしても、その前年頃に『ザビエル神父の通訳ファン・フェルナンデズによって伝承された』と考える『ことは可能であると力説し』、『これに賛意を唱えた論文も』近年『新たに出て』おり、賛同派は「ユリシーズ」と「百合若」のみが、『いくつものモチーフが段ごとに連綿として一致する酷似性があると強調する』。『ただ、最古の記録が』一五五一『年というアラキ等の前提』は既に『覆されており』、永正一一(一五一四)年の「雲玉和歌抄」に『詳しい言及があることが今では判明しているため、ポルトガル人伝来説は困難となっている』。『しかし』、坪内逍遙や『新村出の「南蛮人」伝来説を』、『より広義的にとり、例えば』、『アジアに到達したイスラーム教徒を媒介したものだとすれば、可能性は十分にあり、このことは既に南方熊楠に指摘されている』(本篇のこの部分から、以下の段落での考察を指す。まだ続くので注意されたい)。『井上章一も』、逍遙の言う『南蛮時代に伝来したという説は成り立たないが、ユーラシア大陸全体に、前史時代に広まった説話の一つと見るのが妥当だろうとして』おり、『中央ユーラシアの叙事詩』「アルパムス」と『類似しており、これがユリシーズ伝説との中間的な媒体だった可能性も指摘されている。甲賀三郎伝説も、これと同じようなアジア経由をたどったのでは』ないかと、『大林太良などは推察』している、とある。
「ユリツセス」「ユリシーズ」。ギリシア神話の英雄で、イタケーの王であり、ホメーロスの叙事詩「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスの物語。ラテン語で「Ulixes(ウリクセス)」或は「Ulysseus」(ウリュッセウス)ともいい、これが英語の「Ulysses」(ユリシーズ)の原型である。]