フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 1 | トップページ | 芥川龍之介書簡抄4 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(3) 山本喜譽司宛五通 »

2021/01/24

奥州ばなし 高尾がこと

 

     高尾がこと

 むかしの國主、高尾といふ遊女を、こがねにかへて、廓(くるわ)を出《いだ》し給ひて、御館(《み》たち)までも、めしいれらず[やぶちゃん注:「らず」の右に編者ママ注記。「召し入れられず」であろう。]、川にて、切《きり》はふらせ給《たまふ》と、世の人、思へるは、あらぬことなり。

 是は、うた・上瑠璃(じやうるり)[やぶちゃん注:漢字表記ママ。]に、おもしろく、ことそへて作りなせしが、やがて誠のごとく成《なり》しものなり。

 高尾は、やはり御たちにめしつかはれて、のち老女と成て、老後、跡をたてくだされしは、番士杉原《すぎのはら》重大夫、又、新大夫と、代々、かはるがはる名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重大夫、則《すなはち》、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしは、しれり。杉原家にても、『世人、あらぬことをまことしやかに唱ふるは、をかし』と思ふべけれど、『我こそ高尾が末なり』と名のらんも、おもだゝしからねば[やぶちゃん注:名誉なことではないので。]、おしだまりて聞《きき》ながしをることなりき。

 又、「白石の女《をんな》あだ打《うち》」とて、「宮城野しのぶ」などいふも、またく、なきことなり。

 此兩說は、作りもの、世にひろごりしなり。【解云、只野氏は、則、このさうしの作者、

眞葛の良人なり。その實錄たること、うたがひなきものか。高尾の墓、仙臺に在り。「兎園小說」に載せたりき。倂見《あはせみ》るべし。】【解云、「白石の仇討」は、享保の比、その風聞ありしを、「月堂見聞集」に載《のせ》て、『虛實詳ならず』といへり。縱《たとひ》その事ありとても、慶安以前の事ならず。享保中の風聞なり。世に傳ふる俗書の妄誕《まうたん》、かゝること多かり。】

 

[やぶちゃん注:さても、ここで真葛は高尾が身請けされて、仙台に迎えられ、後代も出来、綱宗から杉原の姓を受けて、今もある杉原家は、その高尾の嫡孫であるのが真実だという、ちょっと驚くべきことを言っているのである。ところが、これに早くに冷徹な批判の目を向けた大家がいる。一人が「大言海」で知られる大槻文彦であり、今一人が森鷗外である。鷗外は大五(一九一六)年一月一日から同八日まで全六回で『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に「椙原品(すぎのはらしな)」という考証物をものしており(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)、そこで先行して批判した大槻の評を搦めながら、記している(但し、鷗外は真葛(只野綾子)のことを『文子』と記している)。「一」と「二」の途中まで引用する(漢字は恣意的に概ね正字化し、読みは一部に留めた。「青空文庫」版には一部に不審があったので、所持する岩波書店「鷗外選集」で訂した)。

   *

 私が大禮に參列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某社の雜誌が來たので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙臺に髙尾の後裔がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは傳說の誤であつて、しかもそれが誤だと云ふことは、大槻文彥さんがあらゆる方面から遺憾なく立證してゐる。どうして今になつてこんな誤が事新しく書かれただらうと云ふことを思つて見ると、そこには大いに考へて見て好い道理が存じてゐるのである。

 誰でも著述に從事してゐるものは思ふことであるが、著述がどれ丈だけ人に讀まれるかは問題である。著述が世に公(おほやけ)にせられると、そこには人がそれを讀み得ると云ふポツシビリテエが生ずる。しかし實にそれを讀む人は少數である。一般の人に讀者が少いばかりではない。讀書家と稱して好い人だつて、其讀書力には際限がある。澤山出る書籍を悉く讀むわけには行かない。そこで某雜誌に書いたやうな、歷史に趣味を有する人でも、切角の大槻さんの發表に心附かずにゐることになるのである。

 某雜誌の記事は奧州話(あうしうばなし)と云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙臺の工藤平助(くどうへいすけ)と云ふ人の女(むすめ)で、只野伊賀(たゞのいが)と云ふ人の妻になつた文子(あやこ)と云ふものゝ著述で、文子は瀧澤馬琴に識られてゐたので、多少名高くなつてゐる。しかし奧州話は大槻さんも知つてゐて、辨妄(べんまう)の筆を把(と)つてゐるのである。

 文子の說によれば、伊達綱宗は新吉原の娼妓高尾を身受(みうけ)して、仙臺に連れて歸つた。髙尾は仙臺で老いて亡くなつた。墓は荒町(あらまち)の佛眼寺(ぶつげんじ)にある、其子孫が椙原氏(すぎのはらうぢ)だと云ふことになつてゐる。

 これは大(おほい)に錯(あやま)つてゐる。伊達綱宗は万治元年に歿した父忠宗の跡を繼いだ。踰(こ)えて三年二月朔(ついたち)に小石川の堀浚(ほりざらへ)を幕府から命ぜられ、三月に仙臺から江戶へ出て、工事を起した。筋違橋(すぢかへばし)卽ち今の万世橋から牛込土橋までの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今駒込にある寺で、當時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往來(ゆきき)の間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは當時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひ做(な)され、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗を陷いれようとしてゐた人達の手傳があつたものと見える。綱宗は不行迹の廉(かど)を以て、七月十三日にに逼塞を命ぜられて、芝濱の屋敷から品川に遷(うつ)つた。芝濱の屋敷は今の新橋停車場の眞中程であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子龜千代が家督した。此時綱宗は二十歲、龜千代は僅かに二歲であつた。堀浚は矢張伊達家で繼續することになつたので、翌年工事を竣(をは)つた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰の許もとへ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家の薰(かをる)と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反證には、當時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事實がある。綱宗の通ふべき髙尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居して以來、仙臺へは往かずに、天和三年に四十四歲で剃髮して嘉心(かしん)と號し、正德元年六月六日に七十二歲で歿した。綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙臺へ連れて行かれる筈がない。

 文子は綱宗が髙尾を身受して舟に載せて出て、三股(みつまた)で斬つたと云ふ俗說を反駁する積で、高尾が仙臺へ連れて行かれて、子孫を彼地に殘したと書いたのだが、それは誤を以て誤に代へたのである。[やぶちゃん注:ここまでが「一」。以下、標題「二」を外して行空けで続ける。]

 

 然らば奧州話にある佛眼寺の墓の主(ぬし)は何人(なんぴと)かと云ふに、これは綱宗の妾(せふ)品(しな)と云ふ女で、初から椙原氏であつたから、子孫も椙原氏を稱したのである。品は吉原にゐた女でもなければ、高尾でもない。

 品は一體どんな女であつたか。私は品川に於ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、餘程久しい間、其結構を工夫してゐた。綱宗は凡庸人ではない。和歌を善くし、筆札(ひつさつ)を善くし、繪畫を善くした。十九歲で家督をして、六十二萬石の大名たること僅わづかに二年。二十一歲の時、叔父伊達兵部少輔(せういう)宗勝を中心としたイントリイグ[やぶちゃん注:Intrigue。陰謀。]に陷いつて蟄居の身となつた。それから四十四歲で落飾するまで、一子龜千代の綱村にだに面會することが出來なかつた。龜千代は寬文九年に十一歲で總次郞綱基となり、踰えて十一年、兵部宗勝の嫡子東市正(いちのかみ)宗興の表面上の外舅(ぐわいきう)となり、宗勝を贔屓した酒井雅樂頭(うたのかみ)忠淸が邸(やしき)での原田甲斐の刄傷事件があつて、將に失はんとした本領を安堵し、延寶五年に十九歲で綱村と名告(なの)つたのである。暗中の仇敵たる宗勝は、父子の對面に先だつこと四年、延寶七年に亡くなつてゐた。綱宗はこれより前も、これから後老年に至るまでも、幽閉の身の上でゐて、その銷遣(せうけん)[やぶちゃん注:憂さ晴らし。]のすさびに殘した書畫には、往々知過必改(ちくわひつかい)と云ふ印を用ゐた。綱宗の藝能は書畫や和歌ばかりではない。蒔繪を造り、陶器を作り、又刀劍をも鍛へた。私は此人が政治の上に發揮することの出來なかつた精力を、藝術の方面に傾注したのを面白く思ふ。面白いのはこゝに止まらない。綱宗は籠居のために意氣を挫かれずにゐた。品川の屋敷の障子に、當時まだ珍しかつた硝子板四百餘枚を嵌めさせたが、その大きいのは一枚七十兩で買つたと云ふことである。その豪邁の氣象が想ひ遣られるではないか。かう云ふ人物の綱宗に仕へて、其晚年に至るまで愛せられてゐた品と云ふ女も、恐らくは尋常の女ではなかつただらう。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

なお、村上祐紀氏の論文「〈立證〉と〈創造力〉――森鷗外「椙原品」論」筑波大学国語国文学会発行『日本語と日本文学』(二〇〇七年二月・こちらでPDFでダウン・ロード可能)も非常に参考になるので、読まれたい。ただ、これらを読んで思うのは、結局、高尾だけでなく、それを記した真葛という女性作家も、さらに冒頭、今になって古臭い噓話を雑誌に書いている阿呆扱いの記者(これも宮城野萩子というペンネームから恐らく女性であろうか(或いはあまりにクサいペン・ネームであるのは男性の仮託かもという気はせぬでもない)。記事は「實說伊達騷動」(『家庭雜誌』大正四(一九一五)年十月発行)である。しかし、村上氏の論文で判る通り、真葛の高尾杉原説など、そこには実は、書かれていないのである。則ち、鷗外はこの女性記者をも冤罪の犠牲にして、自己の歴史検証法を闡明しているというのであるから、私は開いた口が塞がらぬのである)までも巻き込んで、三人が三人とも、単なる狂言役者の役割しか与えられず、「誤を以て誤に代へた」と鷗外から一蹴され、彼女たちそれぞれの正当な評価も微塵もされることなく、「嘘つきの変な女」として苦界へ退場させられてしまっているのが、いわくいいがたい、何とも言えぬ鷗外の女性差別の視線に対する怒りを私は激しく抱かざるを得ないのである。因みに、本文の「杉原」を「すぎのはら」と読んだのは、鷗外のそれに拠ったものである。

「高尾」高尾太夫。吉原の太夫の筆頭ともされる源氏名で、三浦屋に伝わった大名跡。吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると、代々襲名された名で、「吉野太夫」と「夕霧太夫」とともに三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。ここで語られるのは、その中でも最も知られた二代目高尾太夫。ウィキの「高尾太夫」によれば、「万治高尾」「仙台高尾」「道哲高尾」とも呼ばれる。十一代あった中で『最も有名で多くの挿話があるが、その真偽は不明である』。「伊達騒動」絡みで、第三代『陸奥仙台藩主・伊達綱宗』(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)『の意に従わなかったために、三叉』(みつまた:現在の日本橋中洲)『の船中で惨殺されたというのはその一つである』とし、万治三(一六六〇)年に没し、『墓所は東京都豊島区巣鴨の西方寺(元は新吉原近くの浅草日本堤にあったが、昭和初期に移転)したとある。ウィキの「伊達綱宗」にも、『綱宗が酒色に溺れ、僅か』二『歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになった。しかし、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けや』、『つるし斬りなどは俗説とされる』とある。

「うた」不詳。この当時の以下の芝居などをもとに作られた俗謡であろうか。なお、ウィキの「高尾太夫」の画像に明治一八(一九八五)年の刷りの月岡芳年の「月百姿」の一枚の彼女の浮世絵があるが、そこに記されている、

 君は今駒かたあたりほとゝきす

という題代わりに用いられた句は、キャプションに、『隅田川を渡って帰る伊達綱宗へ詠んだものである』とある。

「上瑠璃(じやうるり)」浄瑠璃「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」が最も知られる。

「杉原重大夫、又、新大夫と、代々、かはるがはる名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重大夫、則《すなはち》、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしは、しれり。杉原家にても、『世人、あらぬことをまことしやかに唱ふるは、をかし』と思ふべけれど、『我こそ高尾が末なり』と名のらんも、おもだゝしからねば、おしだまりて聞《きき》ながしをることなりき」鷗外が「杉原品」の後半で考察する通り、この杉原氏が、遠く播磨赤松家の一族であった椙原(すぎのはら)伊賀守賢盛(かたもり)という由緒を持ち、その末裔の品(しな)が綱宗に近侍し、彼の子孫を伝えたとなら、まさに軍医森鷗外に言わせるなら、こう平然と書く真葛は――妄想傾向の強い性質の悪い精神病――ということになるんだろうなぁ。当の椙原家も大迷惑だわな。しかも、只野家の近親だぜ? 私(あっし)には、よく判らないねえ、幾ら御大鷗外先生でも、「杉原品」の中で、先に言ったような、嘘を書いて論展開してる日にゃ、まことしやかであっても、信ずる気には、なんねえ。だいたいからして、その三女性蔑視を差し置いておいて、最後に、『綱宗入道嘉心は此後二十五年の久しい年月を、品と二人で暮したと云つても大過なからう。これは別に證據はないが、私は豪邁の氣象を以て不幸の境遇に耐へてゐた嘉心を慰めた品を、啻(たゞ)誠實であつたのみでなく、氣骨のある女丈夫であつたやうに想像することを禁じ得ない』としっぽりゆくなんざ、三文芝居のお笑いでげしょう?! 証拠がなくても――それが文学史の授業で言うた「歴史離れ」というやつで御座んすね? 鷗外センセー? だったら、そんなセコイことせんと、高尾も真葛も、ドーンと法要、基! 抱擁しておやんなせえよ?! あんたのせいで脚気衝心で死んじまった無数の帝国陸軍兵士の供養の代わりに、よ! 都合よく失神してエリス発狂の責任を巧妙にゴマかした太田豊太郎、いやさ、森林太郎さんよ!!!

「白石の女《をんな》あだ打《うち》」「宮城野しのぶ」「ニコニコ大百科」の「宮城野・信夫の仇討」によれば、『史実を元にした江戸時代の仇討伝の総称で』、『浄瑠璃、歌舞伎を始めとして神楽、狂言、浮世絵、貸本と媒体を選ばず、民衆の間で大流行を巻き起こし』、『その物語は孝女の範として日本全国へ広まり、北は青森の津軽じょんがら節から、南は沖縄の組踊「姉妹敵討(しまいてぃうち)」まで伝播の過程で様々な芸能に変化している』として、非常に丁寧なシノプシスが記されているので読まれたい。姉妹の百姓の父を切り捨てにされた仇討で、リンク先のものでは、奥州白石の逆戸村に住む百姓与太郎とその娘満千(まち)・園(その)の二人姉妹となっている。そうして、その修練のシークエンスには、かの由比正雪が登場する。さて、「史実部分の概要」によれば、『仇討の仔細が世に発せられた最古の証しは、本島知辰(もとじま ちしん/ともたつ)が著した「月堂見聞集」巻之十五』(後注する)に、享保八(一七二三)年四月のクレジットで、『仙台より写し来たる敵討の事と題し』、『おおよそ以下のように書き記して』あるとする。享保三(一七一八)年のこと、『松平陸奥守様(伊達吉村)の御家老・片倉小十郎殿(片倉村定)が知行の内』の、『足立村に四郎左衛門という百姓がいた』が、『小十郎殿の剣術師範に田辺志摩という』一千『石取りの侍がおり、領地検分の供回りをしていたところ、四郎衛門が前を横切ったとして無礼討ちにした』。『この時残された娘二人は姉』十一『歳、妹』八『歳であり、領内を退居して陸奥守様の剣術師範である瀧本伝八郎へ奉公することになった』。『姉妹は』六『年もの間』、『密かに剣術の稽古を盗み見て覚え、修練を積んだ』。『ある時、下女の女部屋から木刀を振る音が聞こえ、不審に思った伝八郎が戸を開けると』、『姉妹が稽古をしている姿を目撃した』。『わけを聞くと』、『姉妹は仇討を志していると言い、感心した伝八郎は正式に稽古をつけて秘伝の技を教え込んだ』。『寸志を遂げさせようと』、『事の次第を陸奥守様へ伝えたところ、白鳥大明神の宮の前へ矢来を組んで』、享保八年三月に『勝負することを仰せ付けられた』。『仙台御家中衆が警固検分を務める中、姉妹は数刻に渡って打ち合い、二人が替る替る戦って程なく』、『志摩を袈裟切りに斬り付けた。最後は姉が走り寄って止めをさした』。『陸奥守様は御機嫌斜めならず、姉妹を家中の者へ養女に迎えるよう申し付けたところ、二人は共に辞退した』。『その上』、『「仇とは言え』、『人殺しの罪は逃れられず、願わくば如何ようとも御仕置きを仰せ付けられ下されますよう」と申し上げたので、なお以って皆は感心した』。『そこへ伝八郎がやってきて姉妹に向かい、わたしも一時とは言え』、『二人の主人であり、また剣術指南を恩と思うならば』、『この意は受けなくてはなりません』、『と心細やかに諭されたので、姉妹は翻意して』、『お殿様の御意向に従った』。『姉は当年』十六『歳で御家老』三『万石の伊達安房殿(伊達村成)へ、妹は同』十三『歳で大小路権九郎殿へ引き取られた』。『権九郎殿は陸奥守様より妹が負った手傷の養生を仰せ付けられた』。『ただし』、『結びの部分は「実否の義は存ぜず候(ホントかどうかは知らない)」としてある』。『本島知辰がどこで執筆したかは定かでないが』、享保八年の『時点で』、『この仇討伝が仙台藩の外へ出たことは間違いない』とある。

『高尾の墓、仙臺に在り。「兎園小說」に載せたりき。倂見るべし』「兎園小說」はオムニバス共著随筆。編者は滝沢解(曲亭馬琴)。文政八(一八二五)年成立。同年、滝沢解・山崎美成を主導者として、屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書。本集全十二巻の他、会が絶えた後も、馬琴の怪奇談蒐集は続き、本集以外に外集・別集・拾遺・余録がある。私もオリジナル授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」で二篇扱っており、いつか全篇を電子化したいと思っている。ここで言っているのは、本集の第九集(文政八年九月一日に行われた兎園会の記録)で輪池堂(国学者屋代弘賢(宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年の号)の発表した以下。というより、最後の仙台の高尾の墓と称する戒名の拓本からの記載以外は馬琴の持っていた本篇をそっくり引き写したものである。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

   ○遊女高雄

著作堂[やぶちゃん注:馬琴。]の珍蔵に「みちのくざうし」といふ有り。それは陸奥の太守の醫師工藤平助が女の、同藩只野氏に嫁して仙臺に在りしが筆記なり。その中に、高雄が事跡をしるしたり。世の妄説を正すにたれり。曰、昔の國主、たか尾といふ遊女を、こがねにかへてくるわを出だし給ひて、御たちまでもめし入れられず。中す川【頭書、中す中は中洲川にて則三派の事なり。後までも中洲といふをもて知るべし。[やぶちゃん注:これは一言言わずにゃ気が済まない馬琴のそれ。]】にて切りはふらせ給ふと、世の人思へるはあらぬことなり。是は、うた・上るりにおもしろし事添へて作りなどして、やがて誠のごとく成りしものなり。高雄は、やはり御たちにめしつかはれて、のち老女と成りて、老後、跡をたて終はりしは、番士杉原重太夫、又新太夫と、代々、かはるがはる、名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重太夫は、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしはしれり。杉原家にても、世の人、あらぬことを、まことしやかにとなふるは、をかし、と思ふべけれど、我こそ高尾が末なりと名のらんにも、おもたゞしからねば[やぶちゃん注:ママ。]、おしたまりて[やぶちゃん注:ママ。]聞きながしをるとなり。これを、いと珍らしきことゝおもひて、たづねおきけるに、この比、ある人のもとより、その法號、葬地等の書付を、著作堂の主にしめさんとて、こゝに、のす。その記に曰、仙臺の人、なにがし、遊女高雄が墓碑を、すりてもちたるを、四谷にすめる醫生淺井春昌といふものゝうつしたりとて、島田某の見せたるを、しるす。

 二代目 享保元丙申年

   ○ 淨休院妙讃日晴大姉

  三巴の紋十一月廿五日                   杉原常之助

    于時正德五年二月二十九日       逆修 源範淸義母 行年七十七歲

右の碑、仙臺荒町法竜山佛眼寺に在り。仙臺の人のいふ、高尾、實は國侯に従ひて、奥州にいたる。杉原常之助といふは、義子にて、名跡をたて給ひたるにいひ傳ふ。享保元年七十八歲にて天壽を終ふといふ。

 綱宗側臣は、正德元年六月四目卒去、享年七十六歳。仙臺瑞鳳寺に葬る、法號雄山公威見性院といふ。

   *

現在の宮城県仙台市若林区荒町にある日蓮正宗法龍山佛眼寺(ぶつげんじ・グーグル・マップ・データ)にあるこの戒名「淨休院妙讃日晴大姉」とあるのは、鷗外の示した、伊達綱宗の側室の一人である品(しな)の墓である。また、「綱宗側臣」は椙原家の誰を指しているのかよく判らぬが、それよりも、この「瑞鳳寺」が、しっかり品絡みで、しかも「高尾門」と呼ぶ門があるのである。こう俗称されている門は品の屋敷にあったものを移築したものであると、サイト「かっちゃんの歩いて撮ったハイキング記録」の同寺のページにある。さても、特にこの混淆伝承自体や鷗外の称揚する「お品さん」には私は食指が動かない。飽きがきた。ケリをつけるには、岡林リョウ氏のブログ「揺りかごから酒場まで☆少額微動隊」の「仙台高尾の足跡を追え!(遊女供養塔刻銘、出身地、昭和明治写真追加、高尾考挿絵追加、仙台の高尾門、通称高尾墓写真、昭和初期写真を追記)ついでに薄雲太夫の墓参り。→結論めいたことまで→明治中期お品資料追加」という記事がテツテ的に追跡していて、写真も豊富で、且つ、面白い。これで〆とする。

「月堂見聞集」(げつどうけんもんしゅう:現代仮名遣)は元禄一〇(一六九七)年から享保一九(一七三四)年までの見聞雑録。「岡野隨筆」「月堂見聞類從」とも呼ぶ。本島知辰(月堂)著。全二十九巻。江戸・京都・大坂を主として、諸国の巷説を記し、政治・経済から時事・風俗にまで亙っており、自己の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記してある。大火・地震・洪水の天災を始め、将軍宣下、大名国替、朝鮮・琉球人の来聘、世を騒がせた一件(御家騒動・「江島生島」事件・刃傷沙汰など)、享保十二年の美作津山百姓一揆、翌十三年の象の献上のことなど、実録体で、参考になる記事も多い。明治大正二(一九一三)年国書刊行会刊の「近世風俗見聞集 第二」国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める(右ページ下段中央から始まる「○仙臺より寫來候敵討之事」)。確かに一番最後に、「右之書付實否之義不ㇾ存候得共、仙臺より參候由、世間風說在ㇾ之故留置候、以上」とある。ということは、風説として既に広まっていたもので、今回、現地仙台からも来書したので書き留めたと言っている辺りは、う~ん、怪しすぎるなぁ。

「慶安」(一六四八年~一六五二年)「以前の事」恐らく馬琴の読んだそれにも由比正雪が出て来るように脚色されていたからであろう。「由比正雪の乱」は慶安四(一六五一)年四月から七月にかけて起こった。

「妄誕《まうたん》」出鱈目な話。]

« 南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 1 | トップページ | 芥川龍之介書簡抄4 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(3) 山本喜譽司宛五通 »