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2021/01/29

奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)

 

     丸 山

 

 忠山公(ちゆうざんこう)と申奉る國主の御代に出《いで》しは、丸山權多左衞門といふ大男なり。これは近き頃の故にや、人も、よく、しれり。この大をとこ、江戶見物の爲、家老衆のうちのものと成《なり》て、のぼりしが、大男のくせ、道下手《みちべた》なり。身はおもし、一日に、二足づゝわらじをふみ切《きる》といへども、足に相應せしわらじ、なければ、宿につきて、藁を打《うち》、二足のわらじを作《つくり》て、はかねばならず、二足、作仕《つくりし》まへば、はや、

「御供、揃《そろへ》。」

と、いつも、ふれられ、日中、つかれても、馬にのれば、足、下へつきて、馬、あゆむこと、あたはず。ぜひなく、終日《ひねもす》あゆみては、又、わらじ作りて、夜をあかし、やうやう、江戶へはつきたれど、

「かくの如くにては、歸らんやうなし。」

とて、角力とりとは、思ひ付たりしとぞ。

 一向、手をしらず、只、立合《たちあひ》て、兩手にて、はねるばかりなれども、はねられて、脚をたつもの、なかりしとぞ。

 鐵山公と申奉る國主の御代に出し、「谷風」は、猶、人、しること、故《こと》かゝず。をりをり力持《ちからもち》の出《いづ》ること有《ある》國なり。

[やぶちゃん注:「目錄」では「丸山幷ニ谷風 桑田嘉太夫」となっている。前の「佐藤浦之助」に続いて実在した名相撲取「丸山權太左衞門」の話である。ちゃんと彼のウィキがある。丸山権太左衛門(ごんだざえもん(ごんたざえもん) 正徳三(一七一三)年~寛延二(一七四九)年)は『仙台藩・陸奥国領出身の元大相撲力士』で「第三代横綱」とされる。本名は芳賀銀太夫(はがぎんだゆう)。『陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間』(一七三六年~一七四一年)『頃に初土俵を踏む。家老衆の家来になって江戸見物に出たのは良いが、体が重くて歩くのが下手だったため、二足用意した草鞋をすぐ踏み潰しては』、『徹夜で編み直すこととなり、馬に乗せれば』、『足が地に着いてしまうほどだった。やっとの思いで江戸に到着したが、これでは故郷に帰るのもおぼつかないために入門したと伝わる』。元文二(一七三七)年四月、『大坂堀江で行われた興行に西大関として出場。その後』、暫く、『出場した記録がないが』、延享元(一七四四)年八月に『京二条河原で行われた興行に東大関として出場し』、寛延二(一七四九)年『までに』、『京や大坂で行われた数興行にいずれも大関として出場している。相撲は下手だったが突っ張るだけで相手は立っていられなかったとされる』。この寛延二年の『長崎巡業の際に現役のまま没した。死因は赤痢と言われている』。享年三十七であった。『丸山が歴代横綱に加えられているのは』、寛政元(一七八九)年にここ出る(後述)『谷風と小野川に横綱免許を与える際』、『吉田司家が寺社奉行に提出した書類に「過去に綾川、丸山と申す者に免許を与えたが』、『記録は火災で失われた」と記載したことが根拠である』。『現在』、『公認されている横綱では』三『代目に数えられるが、順序が逆で』二代目と『する説もある。ただし』、『綾川五郎次が大関に昇進したとされる』享保二(一七一七)年の時点では、丸山は未だ五歳である『ことから』、『綾川が』二『代目であるとする説が濃厚であるが、いずれにせよ』、『横綱としての実質がなかったのは綾川と同様である』。『初代横綱とされる明石志賀之助と第』二『代横綱とされる綾川五郎次の』二『人と共に丸山を含む』三『人は伝説上の横綱と言う位置付けがなされているが、明石と綾川が実在自体を疑問視されているのに対し、丸山は実在が確認されているという点で大きく異なる。綾川と順序が逆とする説は』、『このあたりが関係しているものと考えられる』。『横綱免許とされている』寛延二(一七四九)年は、『実際には吉田司家故実門人になった時を指す。実力自体は現在の基準に当てはめれば横綱でも文句無しだったと言われる』。『怪力で、五斗俵』(約七十五キログラム)『に筆を差し込んで文字を書いたといわれる。「ひと握り いざ参らせん 年の豆」という句が知られている』とある。サイト「相撲レファレンス」の彼のデータによれば、七ツ森部屋所属で、身長は一メートル九十七センチメートル、体重百六十六キログラムとある。

「忠山公」第六代藩主伊達宗村(むねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。在任は寛保三(一七四三)年から亡くなるまで。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。

「大男のくせ、道下手《みちべた》なり」大男の短所で、歩くのが不得手であった。

「ふみ切《きる》」体重があり、歩き方も摺り引くようにするために、昼間の一日の道中で、二足も草鞋(わらじ)を履き潰してしまうのである。しかも以下、お判りと思うが、サイズがデカ過ぎて、売り物では履ける草鞋がない。そこで、自分専用の草鞋二足を一から作るのに徹夜せねばならず、出来上がった時には、出発の触れが出る始末で、睡眠もとれない、昼間中はずっと歩き通しという、体験したことのない地獄の責め苦状態だったのである。だから、「かくの如くにては、歸らんやうなし」の「ぼやき」が真に迫って響いてくるのである。

「鐵山公」「白わし」他で複数回既注だが、再掲する。仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。

「谷風」谷風梶之助(たにかぜかじのすけ 寛延三(一七五〇)年~寛政七(一七九五)年)は陸奥国宮城郡霞目村(現在の宮城県仙台市若林区霞目(かすみのめ))出身の元大相撲力士。本名は金子与四郎。大相撲史上、屈指の強豪とされる。力量・人格ともに後の横綱の模範とされたが、現役中に亡くなっている。歴代横綱では第四代横綱とされが、この谷風が事実上の「初代横綱」である。詳しくはウィキの「谷風(2代)」を参照されたい。サイト「相撲レファレンス」の彼のデータによれば、伊勢ノ海部屋所属で、身長百八十九センチメートル、体重百六十二キログラムとある。

 以下、底本で一行空けで、話も別に独立しているが、標題がない。「目錄」に従おうと見ると、これが悩ましくも、「丸山幷ニ谷風 桑田嘉太夫」となっている。「谷風」はどうみても、独立条にするには痩せ過ぎているので、標題を掲げずに「丸山」に吸収させておき(底本本文もその作りとなっている)、姓の合わないそれは、一応、本文を優先して「(菊田喜大夫)」と挟んで独立させておく。

 

     (菊田喜大夫)

 

 菊田喜大夫といへる人は、勝れて小身なりしが、獨身にて有し時、思へらく、

「味よきものをこのむほど、つゐへなることなし。心の限り、儉約せばや。」

とて、汁・香の物なく、みそ少々をなめて飯(いひ)を食《くひ》しが、膳𢌞り、淋しければ、木にて「ふな」の形を作り、竹串にさして味噌をぬり、あぶりて味噌みそ[やぶちゃん注:ママ。衍字か。]のみ食、なめつくせば、又、みそを引々《ひきひき》して、二、三年を經しほどに、金持と成《なり》て、いろいろ、功も有《あり》き。後には妻子をも具したりしが、

「我等ごとき身代《しんだい》にて、味よき物、くふべからず。」

と、いさめて、魚類《さかなのたぐひ》などは、くはせざりしとぞ。

 金のくり合《あは》せ、たのまれて有しほどに、鯛のおほくとれし時、ある人のもとより、一枚、おくりしに、喜大夫は留守なりしかば、妻子、悅《よろこび》、

「いざや、今日こそ鯛を食せん。」

と、思ひて、歸りを待《まち》ゐしに、喜大夫、かへりて、ことのよしを聞《きき》、

「よしや、もらひたりとも、かゝるものは、くはぬぞ、よき。」

とて、魚のかしらと尾先を持《もち》て、隣のかたへ、なげやりしとぞ。

 家内は、あきれて、顏見合せてをるに、しばし有《あり》て、となりの人、裏に出《いで》て、魚をみつけ、おほきにおどろき、

「どうして、こゝへ鯛が、きたぞ。犬にても、くはへ來《きた》るか。それにしては、あともなし。」

と、引返し、引かへし[やぶちゃん注:表記違いはママ。]、不審するていなり。

「何にしても、鯛をひろふは、めでたい、めでたい。」

と、うれしがり、

「いざ、祝《いは》はん。」

とて、酒をとゝのへ、折ふし來《き/こ》し人にも、ふるまひなどして、賑《にぎ》はふていなり。

 是を聞て、喜大夫、家内にしめすやう、

「あれ、あのばかものどもを見よ。鯛壱枚、ひろひしとて、酒をかひ、酢・せうゆをつゐやし、人、あつめして、飯(いひ)をも、いゐやすべし[やぶちゃん注:「つゐやすべし」の誤りか。歴史的仮名遣は「費(つひ)やす」が正しい。]。味よき物、くふ、無益なること、是にて知《しる》べし。」

と、云しとぞ。

 

[やぶちゃん注:ド吝嗇もここまでくると、一つの独特の哲学である。妻は鯛が上手いことを婚前食って知っているが、その子まで喜んでいる。さて。彼はどこで鯛を食ったのだろう? 或いは、この妻子は子連れの再婚だったのかも知れない。

「菊田喜大夫」不詳。「目錄」の「桑田嘉太夫」でも不詳。

「金のくり合《あは》せ、たのまれて有しほどに、鯛のおほくとれし時、ある人のもとより、一枚、おくりしに」金の都合をつけて貰えないかと人から頼まれて貸してやっておいたことがあったが、その折り、その貸した人物から「鯛が多く獲れたので」と一尾、菊田のところへ贈ってきたのである。]

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