怪談登志男 二、天狗の參禪
二、天狗の參禪
木賊刈(とくさかる)そのはら山を尋て、月見にまかりし比、彼地の人の咄けるは、
「當國橫湯山に、溫泉寺といふ一刹あり。越後の雲洞庵の末寺にて、曹洞宗なり、此あたりの田舍人の、『七不思議』と稱するも、此寺の奇怪を語り傳ふるなり。
抑[やぶちゃん注:「そもそも」。]、開山禺巴和尙の時、一人の山伏來りて、和尙に參じ、朝夕、傍をはなれず、給仕しける。和尙、熟視(つくつくみ)て、
「凡者ならず。」
と、心を付られしが、ある時、山臥[やぶちゃん注:ママ。こうも書く。]を呼寄せ、問て言、
「汝、個翅を以て海砂の雲を凌ぎ、天に颺(あがり)て、鱗を生じ、闇に空破(は)するや無や[やぶちゃん注:「いなや」。]。」
と。
山臥、起て、忽、つばさを生じ、鼻、高く、おそろしき姿ながら、和尙を禮拜し、
「我に一則をあたへ給へ。報恩に御寺を後世迄、護り奉らん。」
と、身を大地に投じ、頭をたゝいて乞(こひ)ければ、和尙、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、一語を、さづく。
天狗、再拜して去る。
是より、このかた、今に至て、住職、凡[やぶちゃん注:「およそ」。]、廿代の餘におよぶ。
然るに、代々の和尙、遷化の時、未、近寺の僧も知らぬうちに、門前の橋の下、谷川の流に、歷代の石碑、かならず來る。其石の形、石工の上手の、日夜、巧に彫(ほり)たるより、猶、勝れて、見事なる自然石にて、世に云所の無縫塔なり。歷代の住寺の石塔、皆、是、流れ來る自然石(ぢねんせき)を用ゆ。[やぶちゃん注:七不思議第一。「七不思議」と呼ぶ以上、命数を私なりに以下で数える。]
又、此寺にて、門戶をとざすこと、なし。盜人(ぬすびと)、來つても、出る所の道にまよひ、盜得(ゑ)たる寺の財寶、皆、歸しぬれば、去る。さもなければ、いつまでも、のがれ出る道を得ず、今に至ても、あやまつても、忍向(うかゞ)ふもの、なし。此故に寺中迄も、門戶を固(かたむ)る事、なし。[やぶちゃん注:七不思議第二。]
又、寺中に、ちり・芥(あくた)あること、なし。今、捨(すつ)る塵芥(ぢんかい)、暫(しはし)有て見るに、奇麗に掃除する者ありて、其人を見ず。今に及で[やぶちゃん注:「およんで」。]、かはらず。[やぶちゃん注:七不思議第三。]
又、書院のむかふに、築山(つきやま)・泉水(せんすい)の風景、甚(はなはだ)よし。自然の木石(ぼくせき)、人意(じんゐ)を假(か)らず、己(おの)が儘(まゝ)に聳(そびへ)、本來の面目、誠に禪刹相應なり。[やぶちゃん注:七不思議第四。]
後[やぶちゃん注:「うしろ」。]の山の根に、方三尺の丸(まる)き穴、あり。此中より、風雲を吐き出す。穴の淺深、誰(たれ)試みたるもの、なし。奧ふかく、蟲(むし)・獸(けもの)のすむ事もなく、風の出る斗(はかり)なり。年中、晝夜、かくのごとし。夏は、食物(しよくもつ)を此穴のそばに置ば[やぶちゃん注:「おかば」。]、日を經ても、味を損ぜず。冬は、かへつて、熅(あたゝか)にして、爐火(ろくは)のごとし。[やぶちゃん注:七不思議第五。]
門外に小橋あり。此橋の邊[やぶちゃん注:「あたり」。]まで來る者、寺門内外を不ㇾ論(ろんぜず)、遍參(へんさん)の僧、客、來までも[やぶちゃん注:「くるまでも」。]、住持の、耳に足音を聞(きゝ)知る事、側(そば)に在(あり)て見るがごとし。夜中、猶、かくのごとし。[やぶちゃん注:七不思議第六。]
かゝる事ある寺院なれば、通途(つうつ)[やぶちゃん注:どこにでもいるような平凡な僧侶。]の沙門、住持すること、一日片時(いちじつへんじ)も、ならず。まして、今時(こんじ)の貪慾邪智(とんよくぢやち)の鉦法師(どうほうし)は、山内(さんない)に入ことも、あたはず。[やぶちゃん注:七不思議第七。売僧に至っては、広義の寺の山域に入ること自体が出来ないというのは、不思議に数えてよい。]
然ども、此異靈(いれい)ありとて、あへて、ほこらず。
祖翁一片の閑田地(かんでんち)、獨(ひとり)、兒孫(ぢそん)に囑(ぞく)して、種(たね)を植(うへ)しむ。いと、殊勝なる禪林なり。
[やぶちゃん注:「木賊刈(とくさかる)そのはら山を尋て」謡曲「木賊」(別名「木賊刈」)に基づく謂い。謡曲の内容その他は、高橋春雄氏のサイト「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」のこちらがよい。「そのはら山」は「園原山」で、現在の長野県下伊那郡阿智村(あちむら)智里園原(ちさとそのはら)周辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「當國橫湯山に、溫泉寺といふ一刹あり」長野県下高井郡山ノ内町平穏にある曹洞宗横湯山温泉寺。サイト「長野県:歴史・観光・見所温泉寺」の「渋温泉:温泉寺」によれば、『創建は』嘉元三(一三〇五)年、名僧『虎関師練国師(京都の東福寺・南禅寺住持、南北朝時代の僧)が巡錫で渋温泉に訪れた際、草庵を設けたのが始まりとされ、渋温泉の効能を広めると共に臨済宗の寺院として寺観を整えたと伝えられ』る。『その後、一時荒廃し』『たが』、弘治二(一五五六)年に『渋温泉在住の大檀那が貞祥寺(長野県佐久市)の円明国師を招いて再興し』、『曹洞宗に改宗し』た。『戦国時代には武田信玄が帰依し』、永禄四(一五六一)年の「川中島の戦い」の『後には』この『渋温泉で疲れを癒したと伝えられて』おり、『その感謝もあってか』、永禄七(一五六四)年には寺領七十貫文を寄進し、現在でも寺紋には武田菱を掲げてい』る。『江戸時代に入ると』、『松代藩(長野県長野市松代町・藩庁:松代城)の歴代藩主である真田氏が庇護し』、『寺運も隆盛し』た。『寺宝には信玄直筆の寄進状や軍配などが残され、開基も武田信玄となって』おり、『境内は広く』、『山門、楼門(入母屋、桟瓦葺、一間一戸)、鐘楼、本堂』、『経堂』『などが建ち並んでい』るとある。
「越後の雲洞庵の末寺にて」JR東日本の観光案内には、『渋温泉の一角にある曹洞宗貞祥寺の末寺』とする。雲洞庵(うんとうあん)は新潟県南魚沼市雲洞にある曹洞宗金城山雲洞院雲洞庵。末寺制度は江戸幕府が寺院を管理支配するために行ったものであるから、特に詮索しない。
「禺巴和尙」不詳。虎関師練はこう名乗ったことはない。曹洞宗改宗時の新たな開山の意か。にしてもこの号は検索に掛かってこない。
「熟視(つくつくみ)て」原本のそれは「つくづくみて」の意。
「個翅」「こし」と音読みしておく。一箇の翼。この和尚の台詞は、これ全体が見事に禅の公案の形を成していて小気味よい。
を以て海砂の雲を凌ぎ、天に颺(あがり)て、鱗を生じ、闇に空破(は)するや無や。」
と。
山臥、起て、忽、つばさを生じ、鼻、高く、おそろしき姿ながら、和尙を禮拜し、
「我に一則をあたへ給へ。報恩に御寺を後世迄、護り奉らん。」
「和尙、則、一語を、さづく」これは先の公案に対する一つの答えを与えたということになるのだが、本来は、天狗自身が、先の公案に対して、ある答え(それは言葉でなく、ある行為の場合もある)を成し、それを師僧が「諾(だく)」とすることでのみ、禅問答の公案と答えは完成するものであるからして、ここはそうした問答部と禺巴が「諾」した最終場面を示さずに語っていることを意味している。普通、それはただ一度のものであり、その師とその弟子の間で、ただ一回性の遣り取りとして生ずるものであって、普遍的模範解答などというものはない。さればこそ、そこを隠しているのは、却って私には至って腑に落ちるものなのである。
「代々の和尙、遷化の時、未、近寺の僧も知らぬうちに、門前の橋の下、谷川の流に、歷代の石碑、かならず來る。其石の形、石工の上手の、日夜、巧に彫(ほり)たるより、猶、勝れて、見事なる自然石にて、世に云所の無縫塔なり。歷代の住寺の石塔、皆、是、流れ來る自然石(ぢねんせき)を用ゆ」「北越奇談 巻之二 古の七奇」(私の電子化注)に酷似した現象が現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある同じく曹洞宗の雲栄山永谷寺(ようこくじ)で起こっていることが記されている。しかも、筆者橘崑崙(たちばな こんろん)は、この温泉寺の怪現象を挙げて、そっくりだ、と言っているのである。
「忍向(うゝが)ふ」「しのびうかがふ」。こっそりと寺内を覗(うかが)って忍び込もうとする。
「鉦法師(どうほうし)」「どう」は「銅」で「かね」、真鍮製の鉦を打ち鳴らしては、人に代わって寺社を参詣したり、祈願・修行・水垢離 (みずごり) などを代行したり、或いはさらに堕ちて、門付け代わりの怪しい経や呪文を唱えたり、妙な大道芸能を演じたり、した僧形の乞食。「願人坊主(がんにんぼうず)」の類いのことであろう。
「祖翁一片の閑田地(かんでんち)、獨(ひとり)、兒孫(ぢそん)に囑(ぞく)して、種(たね)を植(うへ)しむ」永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山である總持寺の開山である鎌倉時代の僧瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の遺偈(ゆいげ)である「自耕自作閑田地 幾度賣來買去新 無限靈苗種熟脫 法堂上見插鍬人」(自ら耕し 自ら作る 閑田地 幾度か 賣り來り 買ひ去つて新たなり 限り無き靈苗の種 熟脫す 法堂(ほふだう)の上 鍬を插(さしはさ)む人を見る)に基づく。超個人主義の禅宗にあっては、閉鎖された系の中で自己完結しているシステムを、まず、第一に尊ぶのである。]