南方熊楠 小兒と魔除 (3)
「ナザル」Nazar (今假りに視害と譯す)は、コツクバーン氏の說に、其義邪視(「イヴル、アイ」)より廣し、乃ち何の惡意邪念なくて、若くは最も愛敬[やぶちゃん注:「あいぎやう」。]親切に、人及び有生無生の物を、心足り意滿つる迄視るにより、視られたる人物に害惡を惹起すことなり。パンジヤブ隨筆質問雜誌(前出)より要を撮で[やぶちゃん注:「つまんで」。]述べんに、コツクバーン氏、印度アグラ地方にて、この迷信の原因を調査して報ずらく、人慾故意に出ざるもの多し、たとへば、眇人[やぶちゃん注:「すがめのひと」。]いかに寡欲の天禀[やぶちゃん注:「てんりん/てんぴん」。生まれつきのもの。]なりとも、双眼優麗なる人を見れば、何心なく之を羨望し、忽ち視害を双眼の人に加へて其身を損ずるに及ぶ、今、雙眼いかに美なりとも、其瞼に「カジヤル」を塗て黑汚し、或は瘢痕を眉邊に留め、又白糸を懸下して其貌を傷つけたるを見れば、之を瑕[やぶちゃん注:「きず」。]とするの念、不知不識[やぶちゃん注:「しらずしらず」。]、之を羨むの念と相剋して視害起らず、殊に「カジヤル」を付たる眼は、眼力爲に減障せられて、視害を他人に及ぼすの嫌[やぶちゃん注:「きらひ」。]を免るゝの利を兼ぬとて此地方の男女好で之を用ゆ、エジプトの婦人が「コール」粉を眼の緣に塗て黑くするも、裝飾の爲とはいへ、實は同理に基くならん、と、蓋し婦人は成女期に達せる後視害を受ず視害を他に加へ得と信ぜらるればなり、父母其兒の初めて片言いひ、又步み出すを見て、滿足せば、必ず其兒に視害を及すを以て、額の一側、又匍匐中ならば、左足底に煙墨(「カジヤル」)を塗て之に備ふ、不具六指等の兒は視害を受る事なければ、大吉として親に悅ばるとは餘程變な事也、肥健の壯年は、瘦男の視害を防んとて、左臂に赤布を絡ひ[やぶちゃん注:「まとひ」。]、頸に靑糸を卷き付けなどし、甚だしきは其疑ひある場合に臨み、突然卒倒痙攣の眞似して、瘦男の執念を擾す[やぶちゃん注:「みだす」。]に力む[やぶちゃん注:「つとむ」。]、文人は其筆跡見事にして人に羨れん事を憂ひ、わざと一字を汚點して邪視を避く、但し巧みに仕組んで汚點せりと知れる樣では、是又人にほめらるゝの惧あり、故に一枚書き畢りて、最後の字の墨汁まだ乾かぬ中、急に之を卷きて、汚點は實に不慮の過失に出しと見するを要すとは、呆れ返つた次第と言ざるを得ず、又布帛の模樣なども、一ケ所をわざと不出來にして邪視を防ぐ、黃金珠玉は人の欲する所なれば、最も邪視を避るに功あり、小王(ラジヤ)[やぶちゃん注:ルビではない。]輩の書翰に、金箔をちらせるも、飾りとせるに非ずして、これが爲めなり、兒童が盜に遭ひ命を失う迄も、珠璣[やぶちゃん注:「しゆき」。丸い玉と角ばった玉。大小様々の美玉。]を飾れる、亦是が爲なり、凡ての海產物、殊に珊瑚、この故に重んぜられ、之を買ふ能はざる貧民は、銀の楊枝或は環を佩ぶ、又安物店に、三角或は金剛石形に金箔を切て韋[やぶちゃん注:「なめしがは」。]に貼じて[やぶちゃん注:「てふじて(ちょうじて)」。]賣る、是れ正三角形に靈妙の力ありと信ぜらるゝに出づ、甚しきは三角形の小さき羅紗袋を小兒の頸に懸けて護りとす、而して金剛石形は正三角形を二ツ底を攝して生ずるを以て、又護身の功有りとす云々、用捨箱卷上(九)二月八日、目籠を出すことをいひて、昔より目籠は鬼の懼るゝところと云習はせり、是は目籠の底の角々[やぶちゃん注:「すみずみ」。]は⚝如此、晴明九字(或曰晴明の判)といふものなればなりといひ、又方相の目になぞらへ、邪氣を攘ふ事也といへりと雖ども、類を以て推すに、是れも印度あたりに、古く邪視を防ぐに用ひたるを傳習したらしく思はる(柳亭の考證に、件の日、目籠を出す江戶の風は、もと遠州三州にて節分の日出すを摸し誤る也と、東京の俗、除夜に金箔もて飾れる籠を長竿頭に揭げて戶前に樹て、鬼を追ふと、F.de Marini, ‘Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,’ Roma, 1665, p. 133 に出ず、古今要覽稿卷七十一に、昔し追儺は除夜に限り行はわれしを、後世、節分の豆撒と同事と心得たるを辨ぜるを參考するに、遠參の俗も、もと東京のと同源に出でたるが如し)吾邦の事歷に關係最[やぶちゃん注:「いと」。]厚き支那に、視害及邪視の迷信の有無は、予從來指を染ざるを以て一言も出し得ず、其猓玀[やぶちゃん注:「から」。]間に邪視(Evil ege を十の九まで Evil eye の謬刊として)の信有るは、貴學會雜誌三月の分、二一六頁に於いて纔かに知り得たり、今案ずるに、歷代の本草、諸品の藥效を序して、[やぶちゃん注:以下、底本の漢文引用は不全。初出及び「選集」を参考にしてつつ(それらにも誤りと思われる箇所がある)、正しいと思われる表記に代えた。]狼皮辟邪、狼牙佩之辟邪、狼尾繫馬胸前辟邪氣、令馬不驚、羚羊角辟邪氣不祥、辰砂殺鬼魅、雄黃辟百邪抔いひ、酉陽雜俎續集八に衞公言、鵞警鬼云々孔雀辟惡交廣志に西南夷、土有異犀、三角云々王者貴其異、以爲簪、能消除凶逆と筆せる、邪といひ惡といへるは、主として邪氣の義に解せらるれども、遠き世には邪視を意味せしもあるべし、英國のサー、トマス、ブラウン(一六〇五-八二)すら、「コツカトリセ」(上出)が睨むばかりで能く人物を殺すと、人間同士觸れざるに疾を傳染し、傳鱝[やぶちゃん注:「選集」は『でんふん』と音を附すが、私は「しびれえひ」と訓じておく。]が身外に電氣を及ぼすを同似の例として、此爬蟲の眼、極微の毒分子を現出して、之に對せる人物の眼より、其腦次に其心を犯し、命を致さしむるに外ならずと謂たれば、上古の支那人、邪視と邪氣を混同したればとて怪むに足らず(Hazlitt, i. 133 參照)、其西南夷が犀角を以て凶逆を消除すといへるは、疑ひなく印度阿非利加邊に行はるゝ邪視の事と見ゆ、但し支那の古史に、孟賁[やぶちゃん注:「まうほん」。]項籍の瞋て[やぶちゃん注:「いかりて」。]恐しき伍子胥の執念深き眼盧𣏌[やぶちゃん注:「ろき」。]の忌はしき顏相など多く擧たるに、視害、邪視の俗傳すら見當らず、范雎[やぶちゃん注:「はんしよ」。]の列傳に、睚眦[やぶちゃん注:「がいさい」。ちょっと睨まれること。]の怨をも必ず報ずとて、人に視らるゝを至て些細な事とせるを見れば、邪視の信餘程古く亡びて邪氣の觀念早く之に代りしを知る、貝子は、今も土耳古、アラビア、ヌビア等にて廣く邪視を避るに用ひられ(Elworthy, op. cit, p. 250)、吾國にも子安貝と稱し、產婦に握らせて其難を防ぐ(男色大鑑卷四第一章)是れ古希臘人が之を女神アフロジテの印しとせし如く、其形甚女陰に似たる故、最も人と鬼の邪視を避るに效ありとせるに基くならん(Otto Jahn, “Uber einige griechischen Terrcottengefäss des archaeologischen Museums in Jena,” Berichte über die Verhandlungen der Königlich-Sächsischen Gesellschaft der Wissenschaften zu Leipzig, Phhilologisch-Historische Classe, I, S. 18, Leipzig, 1853 參照) 支那に臂足類[やぶちゃん注:「ひそくるゐ」。現在の腕足類。]の介化石を石燕と呼び、產婦に握らせて平產を助け、歐州諸地に燕窠[やぶちゃん注:「えんくわ」。ツバメの巣。]中の石を持てば幸福ありといひ、竹取物語に赫耀姬、燕の子安貝をくれなん人に妻たるべしと望める抔合せ攷ふべし(予未刊の著、燕石考、師友F. V. Dickins, ‘Primitive and Mediaeval Japanese Texts,’ Oxford, 1906. p. 361 に抄出さる) 而して漢の朱仲作というなる相貝經に、一種の貝子を產婦に示せば流產せしむるとあるより推して、支那の古え、亦之を安產の助けとせるを知り、それから遠廻りながら、一層古え、邪視の信ありしを知る、Forlong, ‘Short Studies in the Science of Comparative Religions,’ 1897, p. 108 に錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。]暹羅[やぶちゃん注:「シヤム」。]等の佛場に、足と眼を岩に彫れるは、實は陰陽の相に形れる[やぶちゃん注:「かたどれる」。]にて、邪視の防ぎなりとあるを參するに、支那に佛仙の足跡多きは、吾邦にて門戶に元三大師の手形を貼ると共に、根源は邪視に備へたるにやあらん(予の “Foot-print of Gods, etc.,” Notes and Queries, 1900 及び去年四月の東洋學藝雜誌「ダイダラホウシの足跡」參看)又酉陽雜俎卷十四に、晉の大始中、劉伯玉の妻、夫が洛水の女神の美を稱せるを恨んで水死し、後七日、夢に託して伯玉に語て、君本と神を願ふ、吾今神たるを得たりといひければ、伯玉終身復た水を渡らず、美人此津を渡る者は、皆衣を壞り[やぶちゃん注:「やぶり」。]粧を枉げて敢て濟る[やぶちゃん注:「わたる」。]、然[やぶちゃん注:「しか」。]せずんば風波暴發す、醜婦は粧飾すとも、神妬まざれば無難に渡り得、婦人此妬婦津を渡るに、風浪なき者は不器量故、水神怒らざると心得、皆な自ら形容を毀て[やぶちゃん注:「こぼちて。」]嗤笑[やぶちゃん注:「ししやう」。]を塞がざるなし、故に齊人[やぶちゃん注:「せいひと」。]の語に、欲求好婦、立在津口、婦立水傍、好醜自彰とあるも、いはゞ妬神の邪視を畏れて、貌を損ぜしに歸す、同書卷八に、百姓の間に面に靑痣を戴くこと黥[やぶちゃん注:「いれずみ」。底本「點」。初出で訂した。]の如きあり難產にて妻に死なれたる夫の面に墨を點ぜるなり、かくせずんば、後妻に不利なる由言るは、矢張り死靈の邪視を怖れしに基くか、
[やぶちゃん注:やっとここで「邪視」の全体一字下げの附記が終わる。但し、邪視の考証はまだ続く。
『「ナザル」Nazar (今假りに視害と譯す)』今、思い出した。二十年余り前、トルコに旅行した際に貰ったお守りが、トルコ語で「nazarboncuğu」(ナザールボンジュウ)で、今も目の前の書棚にガラス製のそれがぶら下がっていた。「邪悪な目」から保護することを目的とした伝統的なガラス製のお守りである。「nazar」は「邪悪な目」、「boncuğu」で「お守り」を表わす。フランス語の「Nazar boncuk」のウィキを見ると、アラビア語で「nazar」は「凝視」を意味するとあり、ギリシャ語ではラテン文字転写で「Matiasma」とあった。
「コツクバーン氏」下記雑誌記事に当たれないので不詳。綴りは「Cockburn」であろう。
「パンジヤブ隨筆質問雜誌(前出)」(1)の冒頭部参照。
「カジヤル」『煙墨(「カジヤル」)』「選集」は『カジャル』と表記。ギー(インドを中心とした南アジアで古くから作られている食用に用いるバター・オイル)にココナッツオイル等のオイルから出る煤(すす)を混ぜたもの。これを指で目の下(目蓋の縁)や額に塗布する。目に爽快感が生ずるという実利的効果もあるが、子供や女性のそれは魔除けとしての目的が主である。サイト「アーユルヴェーダ」のこちらと、こちらを参照した。但し、コックバーンの熊楠の要約では、自身の持つ視害を減衰させるとあって、利他的な魔除けということになる。
『「コール」粉』古代エジプトでは硫化アンチモンや硫化鉛などを原料とした黒い粉で眉やアイラインを描いていた。これを「コール」(khol)と呼んでいた(平凡社「世界大百科事典」の「眉墨」に拠った)。
「布帛の模樣なども、一ケ所をわざと不出來にして邪視を防ぐ」トルコで未婚の少女の織った買った絨毯が居間に掲げてあるが、端の縁部分にある、順に変わった楕円形の模様が、一つだけ、同じものなっている。
「小王(ラジヤ)」「選集」は『ラジャ』。ラージャ或いはラージャー(Raja・Rajah・漢音写「羅闍」)とはサンスクリット語の語彙で、「君主号」または「貴族称号」である。強大な権勢を持つラージャが、知られた「マハーラージャ(Maharaja)」である。日本語に訳せば、「王」、意訳するなら「豪族」の意である。インドのみでなく、その影響を強く受けたヒンドゥー教時代の東南アジアにも伝播し、王又は王族・貴族の称号として定着した。日本では「閻魔大王」が「閻魔羅闍」と訳されたことがある(ウィキの「ラージャ」に拠る)。
「用捨箱卷上(九)二月八日、目籠を出すことをいひて、……」以下総て(2)の私の注で原本から引用済み。
「方相の目になぞらへ、邪氣を攘ふ事也といへり」これは「用捨箱」ではなく、喜田川守貞の「近世風俗志」の記載の誤り。同じく(2)の私の「守貞の近世風俗志廿三編」注の原文を参照されたい。「除夜に金箔もて飾れる籠を長竿頭に揭げて戶前に樹て、鬼を追ふ」という図も「近世風俗志」のそれで、リンク先に掲げておいた。
「F.de Marini, ‘Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,’ Roma, 1665, p. 133」南方熊楠 の「本邦に於ける動物崇拜(13:鳩)」の私の注「東京で鳩を殺さしめて、キリスト敎徒か否を檢定せる(Marini, ‘Historia del Tunchion’ Roma, 1665, p. 7)」を参照。
「古今要覽稿卷七十一に、昔し追儺は除夜に限り行はわれしを、後世、節分の豆撒と同事と心得たるを辨ぜる」「古今(ここん)要覽稿」は幕命により屋代弘賢が編集した類書(百科事典)。全五百六十巻。文政四(一八一二)年から天保一三(一八四二)年の三十年をかけて完成した大著。自然・社会・人文の諸事項を分類し、その起源・歴史などを古今の文献を挙げて考証解説してある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したが、七十一巻は「姓氏部」で、どうも巻数が違うように思われる。一応、他巻も探してみたが、諦めた。
「猓玀」(から)は中国の少数民族の一つである彝(い)族のこと。ウィキの「イ族」によれば、『民族名の自称は「ノス」「ラス」「ニス」「ノポス」など様々な地域によって異なった呼び方をする。中国の古典文献に登場するこの民族の民族名は「夷」「烏蛮」「羅羅」「倮倮」など多様に存在し、蔑称の「夷」が通称であったのを、中華人民共和国成立以降に同じ音である「彝」の字に統一した。彝は「祭器」転じて「道徳」などを意味する雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は中国側では蔑称である。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」では、部首にけものへんを付け加えるなど、多分に蔑視的な要素を含んでいる。但し、漢字を全廃したベトナム側では今日でも差別的な意味合いはなく』、『ロロ族』『と呼ばれている』とある。
「貴學會雜誌三月の分、二一六頁」「J-STAGE」の『東京人類學雜誌』明治四二(一九〇九)年三月発行の「雜錄」に載る「西支那に於ける及び其他の種族」(PDF)で、イギリスの『人類学雑誌』に発表された、A. Henry 氏の論考を、本邦の人類学・考古学の黎明期を代表する研究者の一人である鳥居龍蔵(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)が和訳したもの。当該ページ(論考の最後。「15」コマ目)に僅かに、「Evil ege」はママ。
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巫人、Evil ege 幸福の日、幸福ならざる日等は、彼等によく信仰せらる、而して巫婆の死を招くことに就ての長き祈禱存在す、これに因て鬼は爲めに皮膚粉碎し、其肉は食はれ、呼吸を止めらる。
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とある。原著者はアイルランドの園芸家で中国研究家でもあったオーガスティン・ヘンリー(Augustine Henry 一八五七年~一九三〇年)と考えてよい。彼には「雲南省西部のロロ族と非漢民族に関する人類学的研究」(Anthropological work on Lolos and non-Han Chinese of Western Yunnan)があるからである。
「歷代の本草、諸品の藥效を序して、狼皮辟邪、狼牙佩之辟邪、狼尾繫馬胸前辟邪氣、令馬不驚、羚羊角辟邪氣不祥、辰砂殺鬼魅、雄黃辟百邪抔いひ」訓読しておく。
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狼の皮は邪を辟(さ)く。狼の牙は之れを佩(お)ぶれば、邪を辟く。狼の尾は馬の胸の前に繫がば、邪氣を辟け、馬をして驚かしめず。羚羊(れいやう)の角は邪氣不祥を避く。辰砂は鬼魅を殺し、雄黄(ゆうわう)は百邪を避く。
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これ、恐らくは李時珍の「本草綱目」辺りの諸箇所を繋げたもののように見受けられる。例えば、「狼」の記載は同書を元として記述した寺島良安の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」(リンク先は私の電子化注。以下同じ)の記載とよく一致する。また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢 (カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)」にも、「角」の条の末尾に『辟邪氣不祥』とある。「辰砂殺鬼魅」は明代の医書で龔信(きょうしん)と子の龔廷賢の著した「古今醫鑑」に載り、他でもしばしば見かけるし、「雄黃辟百邪」は同義の文字列が淸の張璐(ちょうろ)作の臨床実用本草書「本經逢原」に出る。後者は非常に古くからこれを浸した酒がそうした効果を持つことが言われていた。
「酉陽雜俎續集八に衞公言、鵞警鬼云々孔雀辟惡」「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。その原本に「衞公言鵞警鬼、鵁鶄壓火、孔雀闢惡」(衞公の言はく、「鵞(がてう)は鬼を警(いまし)め、鵁鶄(かうせい)は火を壓(おさ)へ、孔雀は惡を辟く」とある。「鵁鶄」はゴイサギの異名。
「交廣志に西南夷、土有異犀、三角云々王者貴其異、以爲簪、能消除凶逆と筆せる」「交廣志」不詳。「後漢書」巻百十六「西南夷傳」の、京牢夷の条にある、唐の李賢の注に引かれている「廣志」のことと思われる。但し、「中國哲學書電子化計劃」にある複数の「後漢書」を調べたが、この文字列に出逢えなかった。そこで別に探したところ、「太平御覽」巻第七百九十一の「四夷部」の「南蠻」の冒頭「西南夷」に(訓読は自然流)、
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西南夷
梁祚「魏國統」曰、『西夷土有異犀。三角、夜行如大炬、火照數十歩。或時解脫、則藏於深密之處、不欲令人見之。王者貴其異、以爲簪札、消除凶逆。』。
(梁祚が「魏國統」に曰はく、『西夷の土(くに)に異犀有り。三つ角(づの)にて、夜行するに大いなる炬(たいまつ)のごとく、火、照らすこと、數十歩。或る時、解脫(げだつ)せば、則ち、深密の處に藏(かく)し、人をして之れを見しむを欲せず。王者、其の異(めづ)らしきを貴(たふと)び、以つて簪札(しんさつ)と爲して、凶逆を消除す。』と。)
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とあるのを見出せた。「梁祚」(りょうそ 四〇二年~四八九年)北魏の学者で官吏。「簪札」は笄(こうがい・かんざし)のこと。
「サー、トマス、ブラウン(一六〇五-八二)」十七世紀のイングランドの著作家サー・トーマス・ブラウン(Sir Thomas Browne 一六〇五年~一六八二年)。彼のウィキによれば、医学・宗教・科学・秘教など、さまざまな知識に基づいた著作で知られるが、特に『フランシス・ベーコンの自然史研究に影響を受け、自然界に深い興味を寄せた著作が多い。独自の文章の技巧で知られ、作品に古典や聖書の引用が散りばめられており、同時にブラウンの独特な個性が現れている。豊かで特異な散文で、簡単な観察記録から極めて装飾的な雄弁な作品まで様々な作風を操った』とある。
『「コツカトリセ」(上出)』(2)を参照。但し、そこでは熊楠は「コツカトリス」と音写している。「選集」もそう訂してある。
『傳鱝[やぶちゃん注:「選集」は『でんふん』と音を附すが、私は「しびれえひ」と訓じておく。]』軟骨魚綱板鰓亜綱シビレエイ目 Torpediniformes に属する二科十二属六十種を含むシビレエイ類。防御・捕食(一部の種群は未確認)のための発電器官を持つことで知られ、その電圧は八~二百二十ボルトに達する。タイプ種はヤマトシビレエイ科 Torpedininae 亜科ヤマトシビレエイ属 ヤマトシビレエイ Torpedo tokionis 。
「孟賁」(もうほん ?~紀元前三〇七年)は戦国時代の衛又は斉の出身で秦の将軍。武王に仕えた。またの名を孟説とも言う。彼のウィキによれば、『武王に仕えた任鄙・烏獲や夏育、成荊、呉の慶忌と並ぶ大力無双の勇士』『と知られ、孟賁は』、『生きた牛の角を抜く程の力を持って』『おり、勇士を好む秦の武王に取り立てられ』て『仕えた』。しかし、紀元前三〇七年八月、『武王と洛陽に入り、武王と力比べで鼎の持ち上げを行った際、武王は脛骨を折って亡くなってしまった。その罪を問われ、孟賁は一族と共に死罪に処されたと言う』とある。
「項籍」項羽の本名。
「伍子胥の執念深き眼」司馬遷の「史記」の「列傳」巻六十六の第六 伍子胥列傳」で知られる、暗愚な春秋時代の呉王夫差に従った名臣伍子胥(ごししょ ?~紀元前四八四年)。佞臣であった宰相伯嚭(はくひ)の讒言により、自害を命ぜられた。私の好きなシークエンスで、漢文の教科書にあれば、必ずやった。よく採られていた「十八史略」版を以下に引く。
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夫差乃賜子胥屬鏤之劍。子胥告其家人曰、必樹吾墓檟。檟可材也。抉吾目、懸東門。以觀越兵之滅吳。乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。吳人憐之、立祠江上、命曰胥山。
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夫差、乃(すなは)ち、子胥に屬鏤(しよくる)の劍を賜ふ。
子胥、其の家人(かじん)に告げて曰はく、
「必ず、吾が墓に檟(か)を樹ゑよ。檟は材(ざい)とすべし。吾が目を抉(ゑぐ)りて、東門に懸けよ。以つて越兵の吳を滅ぼすを觀(み)ん。」
と。
乃(すなは)ち、自剄(じけい)す。
夫差、其の尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい)を以つてし、之れを江(かう)に投ず。吳人(ごひと)、之れを憐れみ、祠(し)を江上(かうじやう)に立てて、命じて「胥山」曰ふ。
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「屬鏤の劍」名剣の名。臣下が主君から剣を与えられるとは、「その剣を用いて自害せよ」と命ぜられたことを意味する。「檟」はキントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus 。昔、棺桶の材料とした。ここは夫差のそれであることに注意されたい。「東門」呉の都の東の門。越は呉の東方にあった。「自剄」自分で自分の首を刎(は)ねること。「鴟夷」馬の皮革で作った酒を入れる袋で、下品なみすぼらしいものである。「鴟」は梟、「夷」は「鴺」でペリカンのことで、袋の形が梟の腹やペリカンの嘴に似ていたところからの呼称である。「江」長江。ちなみに「河」は黄河を指す。而して十年後、子胥の予言通り、越は呉を攻めた。吳は連戦連敗し、夫差はおぞましくも和睦を乞う。越王勾践(こうせん)受け入れようとしたが、名臣范蠡(はんれい)が聞き入れなかった。
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夫差曰、吾無以見子胥。爲幎冒乃死。
(夫差、曰く、「吾れ、以つて子胥を見みる無し。」と、幎冒(べきぼう)を爲(つく)りて、乃(すなは)ち、死す。)
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言わずもがなであるが、「無以見子胥」は「私はあの世で子胥に合わせる顔がない」の意。「幎冒」死者の顔を覆う布のこと(これ自体が死者の邪眼からの防衛装置と私は見る。なお、「鬼」という漢字は私の尊敬した故吹野安先生によれば、死者にこの幎冒を被せて取れぬように十字に紐で縛った形に基づくと説明されたのをよく思い出す)。死ぬ前に自らそれを被って自殺したのである。
「盧𣏌」「選集」もそうなっているが、これは盧杞(ろき 七三四年?~七八五年)でよい。唐の徳宗に取り立てられて宰相となったが、非常な奸臣として知られる。優れた改革者であった宰相楊炎を失脚させて政務を専断し、賢能の人士を忌み遠ざけ、酷刑を濫用したので吏民の恨みを買った。「李懐光の乱」で罪を得て、新州司馬に流され、さらに吉州長史に貶された後、別に流謫された任地で没した。
「范雎」(はんしょ ?~紀元前二五五年?)は戦国時代の秦に仕えた政治家。秦の昭襄王に対して、遠交近攻策を進言して、秦の優勢を決定的なものとした。人物として知られる。ウィキの「范雎」によれば、王の信任を得て、『権力を確保した范雎は』『領地を貰』って『応侯と名乗った』。『この頃、魏では秦が韓・魏を討とうとしているとの情報を掴み、須賈』(しゅか)『を使いに出した』(彼は実は若き日、魏の中大夫であった須賈に仕えていたが、恐ろしくおぞましい扱いをされて恨みを持っていた。その辺りはリンク先を読まれたい)。『須賈が秦に来ていると知った范雎は、みすぼらしい格好をして須賈の前に現れた。須賈は范雎が生きていたことに驚き、范雎にどうしているのかと聞いた。范雎は「人に雇われて労役をしている」と答えた。范雎のみすぼらしさを哀れんだ須賈は絹の肌着を范雎に与え、「秦で宰相になっている張禄という人に会いたい」と告げた。范雎は主人が』、『つてを持っているので会わせることができると言い、自ら御者をして張禄の屋敷(すなわち自分の屋敷)へと入った。先に入った范雎がいつまでも出てこないので、須賈は門番の兵に「范雎はどうしたか」と聞くと、「あのお方は宰相の張さまである」との返事が返ってきた』。『驚いた須賈は大慌てで范雎の前で平伏し、過去の事を謝った。范雎は須賈にされたことを』挙げて『非難したが、須賈が絹の肌着を与えて同情を示したことで』、『命は助け、「魏王(安釐王』(あんきおう)『)に魏斉』(ぎせい:魏の公子で政治家)『の首を持って来いと伝えろ。でなければ大梁(魏の首都。現在の開封)を皆殺しにするぞ」と言った』。『帰国した須賈は魏斉にこのことを告げ、驚いた魏斉は趙の平原君の元へ逃げた』。『その後、范雎を推挙してくれた王稽が范雎に「自分に対して報いが無いのでは」と暗に告げた。范雎は内心不快であったが、昭襄王に言って王稽を河東(黄河の東)の長に任命した。更に鄭安平を推挙して秦の将軍にし、財産を投げ打って自分を助けてくれた人に礼をして回った。この時の范雎は、一杯の飯の恩義にも睨み付けられただけの恨み(睚眦の恨み)にも必ず報いたと言う』という部分を指す。
「貝子」(ばいし)はタカラガイ(腹足綱直腹足亜綱 Orthogastropoda Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae のタカラガイ類)の別名。貝貨幣としても知られる。
「ヌビア」(Nubia)はエジプト南部のアスワン附近からスーダンにかけての地方の名称。古代エジプト語の「ヌブ」(金)から古代ギリシア・ローマ人がそう呼んだのが始まり。アラビア語では「ヌーバ」。ウィキの「ヌビア」で位置を確認されたい。
「Elworthy, op. cit, p. 250」イギリスの言語学者で好古家のフレデリック・トーマス・エルワージー(Frederick Thomas Elworthy 一八三〇年~一九〇七年)の「The Evil Eye : an account of this ancient and widespread superstition.」(邪視――この古く、且つ、広く普及した迷信に就いての解説)。当該原本は「Internet archive」のこちらで読め、左中央部分に「cowries have always been distinct amulets against the evil eye,」とある。「cowrie」(ケリィー)が「タカラガイ」の意。
「男色大鑑」(なんしょくおおかがみ:現代仮名遣)は井原西鶴の浮世草子。貞享四(一六八七)年板行。この宝貝の安産のお守りは日本中で非常に古くから知られているものであるから、わざわざ西鶴の若衆道のそれを引くまでもない。南方熊楠はわざと面白がって(性的な話の裾野をずっと大風呂敷に開けっ広げるため)確信犯でこれを選んでいる点に気づかねばなるまい。
「Otto Jahn, “Uber einige griechischen Terrcottengefäss des archaeologischen Museums in Jena,” Berichte über die Verhandlungen der Königlich-Sächsischen Gesellschaft der Wissenschaften zu Leipzig, Phhilologisch-Historische Classe, I, S. 18, Leipzig, 1853 參照」ドイツの考古学者・文献学者で美術や音楽に関する著作もものしたオットー・ヤーン(Otto Jahn 一八一三年~ 一八六九年)の「イエナの考古学博物館の幾つかのギリシャのテラコッタについて」か。
「臂足類」動物界真正後生動物亜界冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、一見、貝に似ているが、全く異なる(貝状部分は貝類のような体幹の左右ではなく、前後に存在する)「生きている化石」と称してもよい原始的な生物群である。本邦には舌殻綱シャミセンガイ目シャミセンガイ科シャミセンガイ属ミドリシャミセンガイ Lingula anatina ・ウスバシャミセンガイ Lingula reevii ・ドングリシャミセンガイ Lingula rostrum ・オオシャミセンガイ Lingula adamsi の四種が、シャミセンガイ目スズメガイダマシ科Discinidaeのスズメガイダマシ Discradisca stella ・スゲガサチョウチン Discradisca sparselineata の二種が棲息しているものの、彼らは潮間帯に分布するため、個体数が急激に減少しており、日本における絶滅は最早、不可避となってしまっている。化石種は非常に多く、古くは古生代カンブリア紀初期(約五億四千二百万年前)の地層からも出土している。因みに、私が電子化注を終わっている「日本その日その日」(Japan Day by Day:原本は一九一七年刊)の作者で、「お雇い外国人」として進化論を日本に初めて紹介し、大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は、この腕足類の研究が専門であった。
「赫耀姬」「選集」は『かぐやひめ』とルビしているが、私は清音で「かくやひめ」と読むべきであると考えている。
「燕の子安貝をくれなん人に妻たるべしと望める」かくや姬に求婚した五人の貴公子の殿(しんがり)の最もついていなかった不幸な男中納言石上麻呂(いそのかみのまろたり)。私が教師時代に作った「竹取物語」完全ダイジェスト版から、その部分を引用しておく。
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中納言いそのかみのまろたりは、生きた燕を殺して体内を探してみても貝が見つからないので、こりゃ、卵を産む時にいっしょに出て来るのであろうと、忠実な家臣を屋根に登らせて、燕の巣を見張らせます。しかし、人がいては燕は巣にさえ寄り付きません。ある人の言を入れて、燕が卵を産みそうな時を見計らって、人が入った大きな籠(かご)をつり上げて探ることにします。上手くその時期が来て、人に探らせますが、見つかりません。苛立ったまろたりは、自らかごに乗ります。すると、巣に差し入れた手が何かをつかみました。「ヤッタ! こやす貝や! はよおろさんかい!」と叫ぶ彼。その声に部下たちは慌てたのでしょうか、かごは見事に墜落し、助け起こした部下に、……「物は少しおぼゆれども、腰なん動かれぬ。されど、子安貝をふと握りたれば、うれしくおぼゆる也。まづ、紙燭(しそく)さして來(こ)。この貝、顏(かほ)、見ん。」と御髮もたげて、御手をひろげ給へるに、燕のまりおける、ふる糞を握り給へるなりけり。それを見たまひて、「あな、かひなのわざや」とのたまひけるよりぞ、思ふにたがふ事をば、「かひなし」とは言ひける。ここは「貝無し」と「甲斐無し」が掛けてあるのは判りますね。恐らくはしかし、「腕(かひな)」(通常は二の腕であるが、腕全体をも指す)で糞を握ったという洒落にもなっているのかも知れません)……遂にまろたりの腰は折れてしまいました。これを聞いたかくや姫は、見舞いの手紙を送ります。まろたりは、返事にと、やっとの思いで、「かひはかく有りける物をわびはててしぬる命をすくひやはせぬ」(貝はありませんでしたが、あなたからお手紙を頂けたので、腰の骨を折った甲斐は、この通り、ありました。でも、思い悩んで死に行くこの私の命を、その「かい」ついでに、どうして結婚して救って下さろうとはなささらないのですか。)という歌を書き終えるや、息を引き取ってしまいました。……『これを聞きて、かくや姫、すこし「あはれ」と思しけり。それよりなむ、すこしうれしきことをば、「かひある」とは言ひける。』……
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五人の貴公子中、最後に確かに死んでしまうのは彼だけである。正直、かくや姬、マジ、残酷だわ!
「予未刊の著、燕石考、師友F. V. Dickins, ‘Primitive and Mediaeval Japanese Texts,’ Oxford, 1906. p. 361 に抄出さる」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(14:燕)」で既注。フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins 一八三八年~一九一五年)はイギリスの日本文学研究者・翻訳家。彼のウィキによれば、当初はイギリス海軍軍医・領事館弁護士として来日し、帰国後はロンドン大学の事務局長(副学長)を務めた。初の本格的英訳とされる「百人一首」を始め、「竹取物語」・「忠臣蔵」・「方丈記」などを英訳、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られる。駐日イギリス大使ハリー・パークスや親日派として「日本学」の基礎を築いたアーネスト・サトウと交流があり、南方熊楠も、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに、イギリス留学中の経済的支援を受けるなど、深い交流があった、とある。
「漢の朱仲作というなる相貝經」早稲田大学図書館「古典総合データベース」の大枝流芳著「貝盡(かひづくし)浦の錦」の下巻(寛延四(一七五一)年刊・PDF)の巻末に附録されてあり(短い)、その「28」コマ目二行目に(訓点を除いて示し、後にそれに従って(一部補足した)訓読した)、
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䂃貝使胎消勿以示孕婦赤帶通背是
(䂃貝は胎を消せしむ。以つて孕める婦に示す勿(なか)れ。赤き帶、通背せる、是れなり。)
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「䂃貝」の「䂃」は「瞋」と同じで「目を怒らす」の意があるから、邪眼と親和性があり、眼のように見える紋はタカラガイの中になんぼでもある(タカラガイ自体の形が眼玉っぽい)。殼の上部に赤い筋があるとなれば、示せぬことはないが、これは中国の記載であるから、差し控える。それにしても、この江戸の貝類の博物古書、なかなか素敵!
「Forlong, ‘Short Studies in the Science of Comparative Religions,’ 1897, p. 108」イギリスの土木技師・軍人にして比較宗教学者でもあったジェームス・ジョージ・ロッシェ・フォーロング(James George Roche Forlong 一八二四年~一九〇四年)の「比較宗教学小考」。当該部は「Internet archive」のこちらの左ページ上の以下。
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Most Bud or Bod rocks and symbols are marked with the euphemistic "Foot," "Eyes," or circles, as infallible charms against evil. Hence the Prā-Bat of Siam and similar " Sacred Feet" on the Buds of Akyāb and Ceylon, and the oval or Yoni charm on Kaiktyo.
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幾つかの単語がよく判らないものの、「Yoni」は「ヨニ」=リンガ(男根)である。
「元三大師」「ぐわんざんだいし(がんざんだいし)」と読む。私の居間の飾り棚の中に鎮座ましましている。但し、熊楠の言う「手形」というのは不審。「角大師(つのだいし)」の図(参考にした同人のウィキの「角大師」の図(右側))を手形と勘違いして書いているように思われる。平安中期の天台僧良源(延喜一二(九一二)年~永観三(九八五)年)。「元三」は永観三年正月三日に没したことに因む呼称で、正しい諡号は「慈恵(じえ)」で大師号はないが、一般には通称の方で専ら知られる。第十八代天台座主で、延暦寺中興の祖とされる。「元三大師縁起」などの伝説によれば、良源が自ら修羅の夜叉の姿に化し、疫病神を追い払った時の像であるとされる。二本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた夜叉像と、眉毛が角のように伸びたものの二種がある(私の家を守護するそれは後者)。これは中世以降、民間に於いて「厄除け大師」などとして、独特の信仰を集めて現在に至っている。三峰の狼の御札と並ぶ私偏愛のお札である。
『予の “Foot-print of Gods, etc.,” Notes and Queries, 1900 及び去年四月の東洋學藝雜誌「ダイダラホウシの足跡」』「Internet archive」で英文記事を探したが、見当たらない。ところが、幸いなことに、南方熊楠を調べておられる大和茂之氏のブログ「南方熊楠のこと、あれこれ」の『足跡関連の熊楠の文章3:「ダイダラホウシの足跡」』で電子化されていて、全文を読むことが出来る。そこに示された、「南方熊楠と『ノーツ・アンド・クエリーズ』誌―― `Foot-print of Gods, etc.,’から「ダイダラボウシの足跡」へ――」(PDF)も甚だ有益で、特にその第三章で英文の原記事の内容が記されてある。必見。
「酉陽雜俎卷十四に、晉の大始中、劉伯玉の妻、夫が洛水の女神の美を稱せるを恨んで水死し、……」巻十四「諾皋記(たくこうき)上」の一節に(原文は「中國哲學書電子化計劃」のものを少し漢字を入れ替えた)、
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妒婦津、相傳言、晉大始中、劉伯玉妻段氏、字明光、性妒忌。伯玉常於妻前誦「洛神賦」、語其妻曰、「娶婦得如此、吾無憾焉。」。明光曰、「君何以水神善而欲輕我。吾死、何愁不爲水神。」。其夜乃自沉而死。死後七日、托夢語伯玉曰、「君本願神、吾今得爲神也。」。伯玉寤而覺之、遂終身不復渡水。有婦人渡此津者、皆壞衣枉妝、然後敢濟、不爾風波暴發。醜婦雖妝飭而渡、其神亦不妒也。婦人渡河無風浪者、以爲己醜、不致水神怒。醜婦諱之、無不皆自毀形容、以塞嗤笑也。故齊人語曰、「欲求好婦、立在津口。婦立水旁、好醜自彰。」
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妒婦津(とふしん)あり。相ひ傳へて言ふ。晉の大始中、劉伯玉が妻、段氏、字(あざな)は明光、性(しやう)、妒忌(とき)たり。伯玉、常に妻の前に於いて「洛神賦」を誦し、其の妻に語りて曰はく、
「婦を娶(めと)るに此くのごときを得ば、吾、憾(うら)み無し。」
と。明光曰はく、
「君、何ぞ水神を以つて善として、我を輕んぜんと欲す。吾、死し、何をか愁へて水神と爲らざるや。」
と。
其の夜、乃(すなは)ち自から沉(しづ)んで死す。
死後七日、夢に托(たく)して伯玉に語りて曰はく、
「君、本(もと)、神を願ふ。吾、今、神と爲るを得たり。」
と。
伯玉、寤(ねむり)より、之れ、覺めて、遂に、終身、復(ま)た水(みづ)を渡らず。
婦人有りて此の津を渡る者は、皆、衣を壞(やぶ)り妝(よそほひ)を枉(ゆが)め、然る後、敢へて濟(わた)る。爾(しかせ)ざれば、風波、暴發す。醜婦(しこめ)は妝(よそほ)ひ飭(ただし)くすと雖も、渡れたり。其の神、亦、妒(ねた)まざるなり。婦人の、河を渡るも風浪の無き者は、以爲(おもへ)らく「己の醜ければ、水神の怒を致さず。」と。醜婦、之れを諱(い)み、皆、自から形容を毀(こぼ)たざる無く、以つて嗤-笑(あざわら)はるるを塞(ふせ)ぐなり。故に齊人(せいひと)、語りて曰はく、
「好婦を求めんと欲さば、津口(しんこう)に立ち在(あ)れ。水旁(みづぎは)に婦の立たば、好醜(よしあし)は自から彰(あきら)かなり。」
と。
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・「妒婦津」は現在の山東省聊城市臨清市。所持する東洋文庫訳注(今村与志雄訳。上の訓読は今村氏の現代語訳を参考にして独自に読んだものである)の注を参考にすると、恐らく同市の西南端を南北に流れる衛河と、東からの運河が合流する附近に、この渡しはあったものと思われる。
・「晉の大始中」今村氏注に、晋代には大始、或いは太始の年号はないとされ、晋の武帝司馬炎の代に、秦始(二六五年~二七四年)があり、これか、とされる。
・「洛神賦」魏の曹植(そうち 一九二年~二三二年)の代表作の一つ。二二二年作。洛神は洛水(黄河の支流洛河の古名)の女神洛嬪(らくひん)。本来は伝説の帝王伏羲(ふっき)の娘であったが、洛水を渡渉する際に溺れて亡くなった。洛嬪の美貌を仔細歌い上げて華麗にして優雅。
「同書卷八に、百姓の間に面に靑痣を戴くこと黥の如きあり……」「酉陽雑俎」の巻八の「黥(いれずみ)」のパートの一節に(同前の仕儀)、
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百姓間有面戴靑志如黥。舊言婦人在草蓐亡者、以墨點其面、不爾則不利後人。
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百姓、間(まま)、面(おもて)に靑き志(しるし)を戴(いただ)ける有りて、黥のごとし。舊(ふる)く言ふ、「婦人の草蓐(さうじゆく)にして亡(な)くなれる者の在(あ)れば、墨を以つて、其の面に點ず。爾(しか)せざれば、則ち、後人(のちぞへ)に利あらず。」と。
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さても。今村氏の現代語訳を見ても、『むかしから、婦人が出産で亡くなった場合、墨でその顔にしるしをつける』。『そうしないと、後継ぎの人に不吉だから』であって、「難產にて妻に死なれたる夫の面に墨を點ぜるなり」等とは訳されていない。強いて別に訓読するなら、「婦人を草蓐にして亡(な)くせし者、在らば」で、そういう意味にはなりそうだが、どうもそんな読み方は出来そうもない(と私は思う)。だいたいからして、後妻を迎えた男がみんな顔に大きなほくろ見たような点を描いて一生を過ごすというのは、とても考え難いことではないか? 伝奇や志怪小説はかなり読んできたが、そんな面相の男の出てくるのを読んだことは一度たりともない。これは、則ち、難産で亡くなった婦人の遺体の顔に大きく「墨で点を打つ」の意であろう。恐らくは難産死(二つの魂が一つの人体内にあるというのは、霊的には非常に異常な状態である)の場合、妻の魂がこの世に遺恨を持って残り、夫が後妻を迎えると、死霊が復讐にくるといった伝承が、まず、その大元に考えることができ(これは本邦に普通に見られる風俗迷信である)、そうした墨で点を描いて醜い顔にしておくと、妻の亡霊は恥ずかしくて後妻に災難を齎すために墓から出ることが出来ない(落語の「三年目」みたようなものである)ということであろう。私は、これ、邪視とは、ちょっと関係がないように思うのだが、如何?]