奥州ばなし 澤口忠大夫
澤口忠大夫
澤口忠大夫と云《いひ》し人も、大力なりし。【覺左衞門が養父なり。】勝《すぐれ》て氣丈もの、なりし。
かの三十郞がのせられたる、細橫町《ほそよこちやう》の化物[やぶちゃん注:「砂三十郞」参照。]を、ためしたく思ひて有しとぞ。【十八才の時なり。】
外《ほか》へ夜ばなしに行《ゆき》し歸りがけ、兩三人、つれも有《あり》しが、冬のことにて、八ツ時分なりし[やぶちゃん注:定時法で午前二時頃。]。雪後《せつご》、うす月の影、少し見ゆるに、細橫町を見通す所にいたりて、つれの人々にむかひ、
「我、多日、この橫町の化物を、ためしたしと思ひしが、時といひ、夜といひ、今夜を過《すぐ》すべからずと思はるれば、獨《ひとり》行て、見とゞけたし。失禮ながら、そなた方は、これより、かへり給はるべし。」
と、いとま、こひしかば、のぞみにまかせて、壱人《ひとり》やりつれど、つれの人も、物ゆかしければ、其所をさらで、遠見してゐたりしに、中頃までも、行つらん、とおもふころ、下にゐて、少し、ひまどりて、あゆみ出《いだ》せしが、又、下に、ゐたり。少し、間、有て、又、あゆみ出せしが、また、下に、ゐたり。
さて、月影に、
「ひらり」
と、刀の光、見えし故、
「こと有つらん。」
と、足をはやめて、つれの人々、來りたり。
「いかにしつるぞ、下にゐがちなりしは。」
と問ヘば、忠大夫、曰《いはく》、
「さて、こよひのごとく、けちな目に逢しこと、なし。けさ、おろしたるがんぢきの緖の、かたしづゝ、一度に切《きれ》て、やうやう、つくろひて、はきしに【「がんぢき」は、雪中、はく、くつの名なり。】、爰にて、兩方、一度にきれし故、『つくろはん』と思《おもひ》しうち、肩にかゝりて、おすものゝ有しを、引はづして、なげ切《ぎり》にせしが、たしかに、そこの土橋の下へ入《いり》しと見たり。尋《たづね》くれよ。」
と云し故、人々、行て、みたれば、子犬ほどの大猫の、腹より、のんど迄きられて有しが、息はまだ絕《たえ》ざりしを、引出《ひきいだ》したり。
忠大夫、頭を、おさへて、
「誰《だれ》ぞ、とゞめをさし給はれ。」
と云しを、つれの人は、うろたへて、忠大夫が手を、したゝかに、さしたりしを、忠大夫、刀を、とりかへして、とゞめさしたりし、とぞ。
この時、きられし跡は、一生、手に殘りて有しとぞ。
「猫には、けがもせで、人に、あやめられし。」
と語《かたり》しとぞ。
忠大夫は鐵砲の上手なり。【はき物の緖を切しは、まさしく、猫のせし、わざなるべし。いかにして切しものなるや、ふしぎのことなり。】
[やぶちゃん注:今まで言い添えてこなかったが、本篇「奥州ばなし」には、真葛自身の先行作品である「むかしばなし」という作品の巻五・巻六の内容と重複する話柄が多い(私は「奥州ばなし」が怪奇談に特化していて、非常に面白いと判断して先に電子化したのだが、これが終わったら、そちらの電子化注を始動するつもりである。但し、そちらは真葛が実母の思い出を妹のために書き残す目的で書き始めたものが、いろいろな聴き書きが増えて、かなりの分量になった随想であって、怪奇談集というわけではない)。この一篇もその一つで、実は、「むかしばなし」の同じ話(巻五にある)は、「柴田宵曲 妖異博物館 大猫」の注で電子化しており、柴田が平易な現代語に訳してもいるので、参照されたい。
「澤口忠大夫」上記の通りで、以下の養父とする「覺左衞門」もともに、或いは「むかしばなし」の中で人物がはっきりしてくるようになっていると思う。さらに補足しておくと、「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」には、この人物が再登場し、やはり私が「むかしばなし」のそれを注で電子化してあるのである。そこに福原縫殿(ふくはらぬい)という人物を挙げて、この沢口忠太夫の弟子であったとするのである。しかして、この福原縫殿(安永六(一七七七)年~天保一二(一八四一)年)は実在した陸奥仙台藩士であったことが判っている。これを以って改めて、本篇の真葛の怪奇談が総て実録であることを、今一度、再認識して戴きたいのである。
「多日」長いこと。
「ためしたし」相手にしてみたい。
「今夜を過すべからずと思はるれば」今夜のこの時は、時刻といい、天候といい、物怪(あやかし)に逢(お)うて対峙するに絶好の折りであり、この期(ご)を逃してはなるまいぞと思うによって。
「物ゆかしければ」おっかなびっくりもあるが、何となく心惹かれ、ちょいと好奇心を掻き立てられたので。
「中頃までも、行つらんとおもふころ」遠くはないけれども、沢口のいる辺りから有意に距離をおいたところ(但し、夜目には沢口が現認出来る距離である)まで来たかと思って、振り返って見はるかしたところが。
「下にゐて」距離をおいているので、沢口が何をしているかは判然としないものの、明らかに道にしゃがんでおり。
「けさ、おろしたる」今朝、おろしたばかりの新品の。
「がんぢき」「樏」「欙」「橇」などと漢字表記し、一般には「かんじき」と呼ぶ、雪の上で作業したり、歩行する際、めり込みを防いだり、滑り止めのために装着した履物。標準サイズは長さ三十二・五センチメートル、幅二十二センチメートル、重さ七百四十グラム程で、藁靴やゴム長靴の下に履く。二本の木を組合せて輪を形作り、その接合部分に「ツメ」と称するアイゼン状の滑り止めを附す。大正前期まで使用され、冬季の作業には欠かせないものであった。
「かたしづゝ」片足ずつ。
「刀をとり、かへして」私は「自分の刀を、やおら、とって、返り斬りにして」の意でとる。誤って刺した男の刀とすると、勇猛な武士としては、ちょっと不審だからである。]
« 芥川龍之介書簡抄2 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(1)山本喜譽司宛2通 | トップページ | 芥川龍之介書簡抄3 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(2)山本喜譽司宛(龍之介描画(模写)ドストエフスキイ肖像附) »