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2021/01/26

奥州ばなし 與四郞

 

     與四郞

 

 柴田郡與倉村の内、宿といふ所の百姓に、與四郞と云者、有し。生付《うまれつき》、氣丈にて、力つよく、齒などの勝《すぐれ》て達者なることは、近鄕にたぐひなく、殼(から)くるみを、やすく、かみわりしとぞ。

 寬政年中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]のことなりし。十一月末に、病狼《びやうらう》、荒《あれ》て、宿の町の者ども、數人《すにん》、あやめられしこと、有き。

 其頃、與四郞、外へ夜ばなしに行て、九頃[やぶちゃん注:午前零時前後。]、歸るに、をりふし眞の闇にて有し。何心もなく、小哥《こうた》にて步行《ありき》するうしろより、狼《おほかみ》、出《いで》て、こむらを、くひたり。ハツト思ひ、ふりむく内、乳《ち》の下を食《くひ》、又、飛越《とびこえ》て、あばらをくひし時、狼とは、心づきたり。

「やれ、與四郞は、狼にくはるゝぞや。誰《た》ぞ、出《いで》て、たすけよ、たすけよ。」

と、聲かぎりによばはりしかども、夜ふけといひ、たまたま聞付《ききつけ》し人有《あり》ても、おそろしさに、耳つぶしなどして、出《いで》あはざりき。

 狼は、すきまなく、前後・左右より、とびつき、とびつき、食《くふ》こと、數所なり。

『とても、たすかる身にあらず。かたきばかりは、とらんずものを。』

と、をたけびして、とりあヘども、闇夜のことなり、狼は、つばさを得たるが如く、とびのき、飛つき、くらひつくに、棒一本だに、もたざれば、手にて拂へば、すぐに、くはれ、足もてふめば、又、くひつかれ、せんかたなし。

 くはれながらも、引敷《ひきしき》、引敷、足を、おしをりしが、三本まで、をりたれど、壱本にても、飛ぶこと、やまず。

 漸《やうやう》壱本なる足を取し時、をとがひへ食《くひ》つかれしを、兩手にて引はなせば、我《わが》肉まゝ、はなれし時、狼[やぶちゃん注:「が」或いは「の」を添えたい。]のんどに、與四郞、食付《くひつき》て、つひに、のんどの皮をくひやぶりて、かたきをば、とりつれど、惣身《さうしん》、血しほにまぶれながら、其あたりの戶をたゝき、

「狼は、仕とめつれば、氣づかひなし。明けよ、明けよ。」

と、たゝきしかば、漸、明《あけ》たる所に入《いり》て、かいほうに逢《あひ》、夜の明《あく》るを待《まち》て、長町と云《いふ》所に、狼に食れし者のみ、療治する醫の有《ある》もとに行て、疵口をあらためしに、四十八所、有しとぞ。

 醫の曰、

「かほど、くはれし人を、見しことなし。數所の内には、急所にかゝりし所もあれば、療治、屆《とどく》やいなや、うけ合《あひ》がたけれど、先《まづ》、こゝろみん。」

とて、とりかゝる。

 その療治の仕方は、狼にくはれし所をくりぬきて、疵口へ、もぐさをねぢ込《こみ》、灸を、度々《たびたび》、すゆることのよし。

 四十八所の疵口へ、十分に灸をせし内、與四郞は、少しもひるめる色なく、こらへて有しとぞ。

 醫師は、おもふほど、療治をして、この氣丈を感じ、

「いまゝで、數人、療治をせしに、只、一、二所の疵にさへ、人參をのませて療ずるに、氣絕せぬ者は、すくなし。五十におよぶ疵口をりやうずる内、かほど、たしかにて有しは、前後に稀なる氣丈もの。」

と、ほめしとぞ。

「犬毒《けんどく》は、のきたれば、よし。是よりは、きんもつ、大切なり。第一、ます・雉子・小豆の餠なり。この外、油のつよきものは、皆、いむべし。」

と、いはれて、

「私ことは下戶にて、小豆餠、ことに好《すき》なり。これを、いむことにては、生《いき》たるかひ、なし。今迄の如く、灸を又一ペんすゑ直さば、早束《さつそく》より、何を食しても、よからんか。」

と、問ひしとぞ。

 醫の曰、

「いや、さやうにやきしとて、きんもつなしに、よきことは、なし。先々《まづまづ》、かへれ。」

とて、歸しけるに、正月もちかし、三十日にもたらぬうち、「もちつき」成《なり》しに、與四郞、こたへず、小豆餠、したゝか、食せしが、少しもさはらざりしとぞ。

 もろこしの關羽が、矢疵を療治せしにも、おとるまじ。珍らしき豪傑なり。

 雄子・ますなども、ほしきまゝに食《くひ》しが、眼《まなこ》くらく成《なり》しかば、

「めくらになりては、せんなし。」

とて、後《のち》は、くはざりしとぞ。

 文化九年[やぶちゃん注:一八一二年。]の頃、五十二才なりしが、達者にて有しと、きゝし。

 同じ寬政の頃のことなり。與四郞、くはれて、五、六年過《すぎ》て、また、狼の荒るゝといふこと有しに、同じ村に劍術をたしなみし百姓有《あり》て、狼を切《きる》法を、つたへられて、一度、ためし見たく、内心に願《ねがひ》ゐたり。【狼を切には、左の手を出してゆけば、それを食つかんと來る時、手を引てきれば、見事にきらるゝと敎られしとぞ。】

 親類内にふるまひ有て、夫婦づれにて出《いで》しこと有しに、家人は、

「かならず、はやく日の暮ぬうちに、かへれ。」

とは云《いひ》つけやりしに、妻は、ことにおそれて、先方をも、はやく仕廻《しまはし》て、七ツ時分[やぶちゃん注:午後四時前後。]、歸《かへり》しに、遠く、狼のかたちを見かけしかば、いよいよ、道をいそぎて家に入《いり》たり。

 夫は、直《ただち》に、わきざしをさして、門を出《いづ》るを、妻、とゞめて、

「けが、あやうし。」

といふを、

「多年ねがひしこと故、ぜひ、切《きり》てみたし。」

とて、出たり。

 扨、はじめの所にいたりて見れば、遠くすくみてゐたるを、わきざしをぬきて、左の手をさし出《いだ》して、ちかよれば、十間ばかり[やぶちゃん注:約十八メートル。]に成し時、狼は、背をたてゝ、胸を、地につけ、このかたをめがけて、ねらふ躰《てい》なり。

『うごかば、きらん。』

と、心をくばりてゐたれど、一飛《ひととび》に手に食《くひ》つきしが、一向、目にさへぎらざりしとぞ。

 手を引《ひき》かねて、くはれながら、切しが、かしらは、そげて、きられつれど、猶、手に食付て有しを、先《まづ》、仕とめたれば、

『よし。』

と思ひ、うしろあしに繩を付て引ながら、

「與四郞は四十八所くはれてさへ、生《いき》おほせつれば、たゞ一所は、心やすし。」

と、おちつきて、かへると、すぐに、かの醫の本《もと》に往《ゆき》て、療治をたのみしが、一所の灸治さへ、氣絕して、思ふほど、灸、すゑかね、廿日もたゝぬに、むなしくなりしとぞ。

 なまびやう法、大疵《おほけが》のもとなりき。

 

[やぶちゃん注:ここに出る複数のそれは、事実、狼(哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax )であったか、そうではなく、野生の犬或いは逃げた飼い犬(イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の野生化した個体であったかは、これだけでは判らない。ただ、複数、咬まれて亡くなったというそれや、最後の左手一箇所だけを咬まれただけなのに死亡したケースでは、その対象の狼或いは犬が、狂犬病に罹患していた可能性が濃厚であると考えられる(凡そ二十日経たぬうちに死亡しているのを「遅過ぎる」と感じられる方がいるかも知れぬが、狂犬病ウイルス(オルトルナウイルス界 Orthornavirae ネガルナウイルス門 Negarnaviricota :  ハプロウイルス亜門 Haploviricotina モンイウイルス綱 Monjiviricetes モノネガウイルス目 Mononegavirales ラブドウイルス科 Rhabdoviridae リッサウイルス属 Lyssavirus Genotype 1 狂犬病ウイルス Rabies lyssavirus :リッサウイルス属は七つの遺伝子型に分類に分類され、学名も通常のそれとは異なり、属名が属のそれとは一致しない)は神経系を介して脳神経組織に到達して発病し、その感染の速さは、日に数ミリメートルから数十ミリメートルとされており、脳組織に近い傷ほど、潜伏期間は短く、二週間程度であるものの、遠位部では数ヶ月以上、事例の中には二年後の発症例もあるのである)。而して、与四郎を襲ったそれは、或いは狼であったものかも知れず、幸いなことに四十八ヶ所も咬まれながら、十年以上元気に暮らしていたとするなら、その狼或いは野良犬は不幸中の幸いで、狂犬病ではなかったと言える。ともかくも本書は文政元(一八一八)年成立で、与四郎存命の確認がある文化九(一八一二)年からは僅かに六年しかたっていない点で、優れて実録譚としての基盤がしっかりしており、何より、もし、ここに出るその対象の犬様(よう)の生物が、実際にニホンオオカミであったとすれば、本篇は、ニホンオオカミ史上、稀有の人を襲った事実の驚くべき実記載であることになる。それを女流作家只野真葛が記していること自体、これはとんでもなくレアにして貴重なニホンオオカミの博物学的記録であるという点で、現代に蘇るべき逸品であると言うべきものなのである。

「柴田郡與倉」(「よくら」と読んでおくが、以下に示す通り、誤記)「村の内、宿」(「しゆく」)「といふ所」現在の宮城県柴田郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、「与倉」や「宿」の地名は見出せない。しかし、同郡の字名を調べると、宮城県柴田郡川崎町(まち)支倉(はせくら)を見出せる。何故、ここで目が止まったかというと、底本は新字で「与倉」とあるからで、草書の「支」は「与」と判読を誤り易いからである。さればこそ! と探してみたところが、頭に当たった! 今もこの支倉地区に「宿」があった! 「NAVITIME」のこちらを見られよ! 「宮城県柴田郡川崎町支倉宿」とある! 大字「支倉」の字「宿(しゅく)」(読みはMapFan」のこちらを見られよ!)である! 探索大団円!!! ここがロケーションだ!!!

「耳つぶし」「聞耳潰(ききみみつぶ)し」(動詞形もある)わざと聞かないふりをすること。

「をとがひ」頤。歴史的仮名遣は「おとがひ」が正しい。下顎。

「我《わが》肉まゝ、はなれし時」与四郎の顎の肉を咬み喰らったままに引き千切って、狼が与四郎の体から離れた、その瞬間。

「のんど」喉笛。

「かいほうに逢《あひ》」その家の者から介抱を受け。

「長町」旧宿場町であった宮城県仙台市太白区長町(ながまち)があるが、ここかどうかは不明。但し、狼咬傷専門の灸を主体とする医師という特殊な専門医が、支倉の山間にいたとは考えにくいから、ここを一つの候補としておくウィキの「長町(宮城県)」によれば、『長町宿は仙台城下から数えて一つ目の宿場だった。長町宿の設営には仙台城の普請奉行だった金森隠岐ならびに津田豊前景康が携わり、街道沿いに』八十六『軒の町屋敷が作られた。奥州街道の他に、長町宿から西へ延びる二つの街道もあり、総じて長町宿の伝馬役の負担は大きなもので、それに耐えかねて潰れる家もあったという』。『江戸時代の長町は、仙台城や』、『その城下町で使われる木材の集積地の一つでもあった。それらの木材は、広瀬川の支流である大倉川および新川川』(にっかわがわ)『周囲の藩有林、また』、『名取川上流』(支倉はまさにそこに当たる)『周辺の藩有林から切り出されたもので、川の流れを利用して下流へと流された。広瀬川に流された木材は角五郎木場に、名取川に流されたものは長町木場に集められ、そこから城下へ流通して、薪などに使われた。長町木場では毎年』四十五『万本から』六十『万本の流木(ながしぎ)が取り扱われたという』とあり、繁華な宿場町であったことが判る。この驚くべき多量の木材集積の場であったことを考えると、実際の林業従事者たちが、ここと関係が深かったことが判り、さすれば、山中での伐採作業中などに、狼に襲われることも日常的にあったに違いなく、ここにこの稀有の狼咬傷の専門医がいても、何ら不思議ではないではないか。調べてみてこそ分かったリアリズムである。

「犬毒《けんどく》」これは、必ずしも狂犬病のみを指すものではなく、咬傷による他の多くの細菌やウイルス感染症も含まれる謂いであろう。

「きんもつ」禁物。以下から、特に予後の禁忌の飲食物を指すことが判る。

「ます」「鱒」であるが、この「マス」とは、現在でも、特定の種群を示す学術的な謂いでは、実は、ない。広義には、サケ目サケ科Salmonidaeに属しながらも、和名の最後に「マス」が附く魚、又は、日本で一般にサケ類(ベニザケ・シロザケ・キングサーモン等)と呼称され、認識されている魚以外の、サケ科の魚を総称した言い方であり、また、狭義には以下のサケ科タイヘイヨウサケ属の、

 サクラマス Oncorhynchus masou

 サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

 ニジマス Oncorhynchus mykiss

の三種を指すことが多い。私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱒 (マス類)」を参照されたい。

「今迄の如く、灸を又一ペんすゑ直さば、早束《さつそく》より、何を食しても、よからんか」自分にとって都合のいいことを言っているようだが、ちょっと理屈が判らず、訳せない。まあ、四十八箇所も咬まれた直後のことなれば、やや意味不明のままの、小豆餅食いの懇請ととっておいて問題ない。

「こたへず」「こらへず」の誤判読か。堪(こら)えられず。

「關羽が、矢疵を療治せし」私は「三国志」に興味がない人種であるので、話として麻酔せずに矢傷(但し、以下を見ると判るが、古い慢性化したそれである)を手術させたということは聴いていたが、よくは知らなかった。サイト「はじめての三国志」の「関羽は矢傷をどうして麻酔しないで治療したの?」が、さらりと読めてなかなかよかった。

「眼《まなこ》くらく成《なり》しかば」一時的な視覚障害が起こったようであるが、それを狼咬傷感染症の予後に雉子や鱒を食ったことと関係づけることは医学的には言わずもがな、無理がある。この視覚障害が所謂、視野狭窄であるとすれば、狼に咬まれたのとは全く別の理由で発症したものと考えるのが自然であり、それも一過性であるから、問題にするに足らぬ。

「同じ寬政の頃のことなり。與四郞、くはれて、五、六年過《すぎ》て」寛政は十八年までしかないから、与四郎の狼との組打ち事件があったのは、寛政元(一七八九)年から寛政九(一七九七)年の間に概ね限定出来ることになる。

「同じ村」支倉村。

「ふるまひ」饗応。饗宴。

「先方をも、はやく仕廻《しまはし》て」妻が先方にそれとなく日暮れ時の狼の襲撃を恐れることを言い、先方も宴を短い時間で切り上げたということであろう。

「遠くすくみてゐたる」主語は狼。遠くに、立ち竦(すく)んで居た。この「すくむ」は、座って上半身をすっくと緊張させていたということであろう。まさに戦闘にかかるためのプレ状態である。

「一向、目にさへぎらざりし」全く以って、その飛びかかる動作が電光石火で動態を視認出来なかったというのである。]

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