南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 2
[やぶちゃん注:以下段落は、底本では全体が一字下げになっており、前段の補注的な扱いとなっている。]
予は田舍に居り、件の坪内博士の論を見ず、纔に其槪略を友人より聞しのみなれば、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]其後、自分の思ひ中りし事共を記さんに、百合若の譚、本邦の古物語や謠曲に見えず、江戶幕府初りて後、屢ば聞ゆ、(甫庵の豐臣記卷五に、天正十五年正月二日、秀吉朝飯後休む事、百合若大臣軍に疲れ、熟睡せられしにも越たり、宗像軍記に、大宮司氏重、高向某に、織幡山神社の來歷を問ふ、答る詞の中に、百合若大臣の、故鄕に放つ鷹島や、とあり、延文三年卽ち尊氏死せし歲の事乍ら、此詞は、遙か後に編者が潤色せるならん)戰國時代、幸若の舞普く持囃され、談客援て[やぶちゃん注:「ひきて」。]以て話柄と爲し事夥し(甲陽軍鑑、湯淺常山の文會雜記等を見よ)されば百合若の傳に、「ユリツセス」の傳と相似の點多きのみならず、主人公の名又相似たるを見れば、誠に博士の說の如く、其頃南蠻人が齎したる、希臘の舊譚が、日本に轉化されて、百合若の物語と成り、幸若の舞題に用ひられて、盛んに人口に膾炙したるなるべし、
[やぶちゃん注:前段で注した通り、坪内逍遙が明治三九(一九〇六)年一月に『早稻田文學』発表した「百合若傳說の本源」は、国立国会図書館デジタルコレクションの坪内逍遙の論集「文藝瑣談」(明四十年春陽堂刊)の画像でここから視認出来る。
「甫庵の豐臣記」小瀬甫庵(おぜほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)は安土桃山から江戸初期にかけての儒学者・医師・軍学者で、「特に「太閤記」「信長記」の著者として知られる。名は道喜(どうき/みちよし)。甫庵は号。彼のウィキによれば、『美濃土岐氏の庶流で、尾張国春日井郡の出身であるという』。『坂井氏の養子となったといい、後に土肥氏を名乗り、最後に小瀬氏に改めた』。当初は、『医学と経史を学んで、織田氏家臣の池田恒興に医者として仕え、その死後は豊臣秀次に仕えた』。文禄四(一五九五)年の『秀次の死後には活字本「補注蒙求」など『の医書を刊行している』。「関ヶ原の戦い」の後、『堀尾吉晴に仕え』、『松江城築城の際に』は『縄張りも行った。吉晴死後は浪人となったが、播磨にしばらく住み、京都に移った』。寛永元(一六二四)年には『子の小瀬素庵が前田利常に仕えた縁で』、『加賀藩で知行』二百五十『石を貰い、藩主の世子光高の兵学の師となった』。太田牛一著「信長公記」を元に「信長記」を書いた後の、寛永五(一六二八)年から同年代にかけて「太閤記」を板行しているとあるのが、この「豐臣記」である。但し、一方、ウィキの「太閤記」を見ると、『初版は』寛永三(一六二六)年とし、全二十巻で、各種の「太閤記」の中では最も有名なものが本書であるとし、『作者の名をとって』「甫庵太閤記」とも称するとあって、『江戸時代に幾度か発禁にされたが、以降も版を重ねている』。『秀吉伝記の底本とされることが多いが、著者独自の史観や』、『それに基づく史料の解釈、改変も指摘されており、前の引用に出た通り、『加賀藩で俸禄を給っている関係からか』「賤ヶ岳の戦い」に於ける『前田利家の撤退について』、『名前が記載されていなかったり、前後の関係を無視して唐突に前田利家の活躍が挿入されている箇所も見られる』とある。熊楠が言っているのは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの正保三(一六四六)年版「太閤記」第五・六巻の画像)の右頁後ろから二行目から左頁一行目。但し、熊楠の「天正十五年」は「天正十一年」の誤りである。これは「選集」でも直されていない。
「朝飯後休む事、百合若大臣軍に疲れ、熟睡せられしにも越たり」以上のリンクで示した部分、判読し難いが、熊楠の読みは正確でないので、判読を試みると(〔 〕は私の推定の読み。一部に記号と濁点を添えた)、
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其御後、二日に、午(ひる)に眼〔めざめ〕しかば、朝餉(あさかれひ)、祝(しゆく)し給ひて、休(やす)み給ふヿ〔こと〕、「ゆりわか大臣」、軍〔いくさ〕に、しつかれ、𤍨睡(じゆくすい)せられしにも、越〔こえ〕たり。
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であろう。
「宗像軍記」元禄一七(一七〇四)年板行。作者不詳。筑前宗像大神宮の宮司宗像氏の武将としての活躍を中心に、大明神の縁起から、戦国後期の宗像大社第七十九代大宮司で宗像氏本流最後の当主で戦国大名であった宗像氏貞(天文一四(一五四五)年~天正一四(一五八六)年)の死去までを記した軍記物。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覽」の第十五冊の画像で確認出来る(左ページ四行目)。ここは宗像大社の歌枕としてのそれを繋げて示して連綿たる歴史を示す部分である。百合若大臣伝説には鷹が重要な役割を持つ。面倒なので、ここでウィキの「百合若大臣」を引いて説明に代える(太字下線は私が附した)。『百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である』。最もルーツに近い全篇と考えられる「幸若舞」の「百合若大臣」のシノプシスは以下。彼の『父親は、嵯峨朝の左大臣「公満(きんみつ)」で、大和国の初瀬寺』『の観音に祈願して授けられた男児が後の百合若大臣である』。『百合若は』十七『歳で右大臣に就任し、大納言章時(あきとき)の娘を妻に迎える』。『百合若は、日本(博多)へ押し寄せてきた蒙古(むくり)』『の大軍討伐を命じられ、当地である筑紫』『の国司という任地を与えられる。妻は豊後国』『に構えた館に残す。託宣に従い、百合若は八尺五寸の鉄弓と』三百六十三『箭の矢を持たされる』。『蒙古軍は、すでに神風に遭って唐土(もろこし)』『に引き上げていた。百合若は船団を従えてこれを追い、ちくらが沖の海上で決戦となる。蒙古側は、麒麟国の王が青息を吹いて霧をたちこめらすが、百合若が日本の神々に祈願すると』、『ようやく霧が晴れる。百合若は矢をほとんど撃ち尽くして奮戦し、蒙古側の四大将の両蔵(りょうぞう)らを討ち取り、あるいは捕虜となし勝利をおさめる』。『百合若は、玄界ガ島』『に立寄って休息し、その大力を発揮したときの常として、まる』三『日間眠りこける』。『これに乗じて、配下の別府兄弟は、百合若は矢傷で死んだと偽り、船を引き揚げさせ、百合若を孤島に置き去りにしてしまう。別府兄弟は朝廷に戦勝を奏上し、別府太郎は、百合若が配されていた筑紫の国司の役目に任命される』。『上司の地位簒奪に収まらず、別府太郎はさらに百合若の御台所に恋愛を迫る』。『御台所は、宇佐神宮で千部の写経を行っている最中だとして、とりあえず返答を引き延ばす。しかし百合若がついに帰らなければ自殺すると決めているので、身の回りの琵琶や琴を整理し、飼っている犬、馬や鷹の数々を解き放つ。このとき』、『緑丸という鷹は、玄界島まで飛んでゆき、百合若に託されて柏の葉に血で書いた文を持ち帰る。御台所は、夫の生存を知り、墨や硯などを鷹に結びつけて送り返すが、鷹はこの重さに耐えかね、死体』となって島の百合若のもとへ『漂着する』。『宇佐神宮に、御台所が夫の生還を祈願すると、その願いがかない、壱岐の浦にいた釣り人が風で流され、玄界ガ島にいた百合若を発見して、日本の本土に送り戻す。着いた場所は博多であった。百合若のあまりの変わり果てように、誰もその正体がわからない。別府は余興としてこの奇異なる男を召し抱えることにし、門脇の翁という者に預ける』。『この頃、別府は御台所がなびかないので、ついに処刑すると決めていた。しかしそうはさせまいと、門脇の翁の娘』『が身代わりになったことを百合若は知る』。『正月になり、宇佐八幡宮での初弓で、百合若は「苔丸」という名で呼ばれて矢取りの役を仰せつかる。面々の弓の技量を嘲弄した百合若は、別府に一矢射て見せよと命令される。揃えられた強弓はゆるいと言って、ついにはかの鉄の弓をもってこさせ、みごとこれを引き絞り』、『自分は百合若である』、『との』、『名乗りを上げる。大友氏の諸卿や松浦党はかしこまり、別府太郎は降参するが』、『許さず、百合若はこれを縛り上げさせ、手づかみで舌を引き抜き、首切りは』七『日かけて鋸挽きの刑に処した』。『命の恩人の釣り人には壱岐と対馬国を下賜し、門脇の翁は筑紫の荘園の政所の職につけ、百合若は、京に上り』、『将軍となった』。幸若舞の歌詞の板行原本もネット上にあるが、これは、流石に甚だ読み難い。そこで、私は国立国会図書館デジタルコレクションにある大正九(一九二〇)年金文堂書店刊の竹田秋楼著「博多物語」に所収する、非常に読み易く解説し、しかも細かな部分まで行き届いている「百合若大臣の歌」を強くお薦めするものである。
「大宮司氏重」宗像大社第五十六代大宮司宗像氏重。先の「宗像軍記」によれば、前々代の宗像重俊の子とある(「叔父氏名ノ讓リヲ受テ社務トナル」とする)。代五十五代は宗像氏頼。
「高向某」同じく先の「宗像軍記」によれば、以下の「織幡ノ神社」の「神職高向民部」とある。
「織幡山神社」宗像市鐘崎にある織幡(おりはた)神社(グーグル・マップ・データ航空写真)。宗像大社境外摂社である。画像は南西の宗像大社(辺津宮)との位置関係が判るようにしてある。
「延文三年」南朝正平十三年で、ユリウス暦一三五八年。
「尊氏死せし歲の事」延文三年四月三十日(ユリウス暦六月七日)、足利尊氏は享年五十四で亡くなっている。
「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡(おばた)下野が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。
「湯淺常山の文會雜記」備前岡山藩士で古文辞学派の儒学者で荻生徂徠の高弟服部南郭の門下であった湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~天明元(一七八一)年)が徂徠学派の言行を纏めた随筆。天明二(一七八二)年宮田金峰序。
以下の段落は底本では、さらに二字下げとなり、ポイントさえ落ちている。則ち、補説である前段の、そのまた補記の意味合いである。熊楠らしいダラダラであるが、見た目の変化を加えてあるだけマシである。]
「ユリツセス」故鄕に歸りて、不在中其妻「ペネロペ」を競望せし輩と、射を試み、勝て彼輩を射殺せし弓は、無双の射手「ユリツセス」が手馴せし物也、其事略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]射場某が、寬文中、備前酒折の社所藏の、百合若の鐵弓箭を試しおほせたるに似たり、(和漢三才圖會卷七八)、「ユリツセス」の名亦百合若に近し、奸人の張本別府と有るは、偶ま「アンチノウス」と「ペネロペ」を混じ違へたるやらん。
[やぶちゃん注:ユリシーズ(オデュッセウス)の流離の果ての帰国の後の話は、ウィキの「オデュッセウス」から引く。オデュッセウスが、やっと故郷へと故国イタケーに帰国して見ると、『妻ペーネロペーに多くの男たちが言い寄り、その求婚者たちはオデュッセウスをもはや亡き者として扱い、彼の領地をさんざんに荒していた。オデュッセウスはすぐに正体を明かすことをせず、アテーナーの魔法でみすぼらしい老人に変身すると、好き放題に暴れていた求婚者たちを懲らしめる方法を考えた。ペーネロペーは夫の留守の間、なんとか貞操を守ってきたが、それももう限界だと思い、「オデュッセウスの強弓を使って』十二『の斧の穴を一気に射抜けた者に嫁ぐ」と皆に知らせた。老人に変身していたオデュッセウスは』、『これを利用して求婚者たちを罰しようと考えた』。『求婚者たちは矢を射ろうとするが、あまりにも強い弓だったため、弦を張ることすらできなかった。しかし、老人に変身したオデュッセウスは弓に弦を華麗に張ってみせ、矢を射て』総て『の斧の穴を一気に貫通させた。そこで正体を現したオデュッセウスは、その弓矢で求婚者たちを皆殺しにした。求婚者たちも武装して対抗しようとしたが、歯が立たなかった。こうして、求婚者たちは死に、その魂はヘルメスに導かれて冥界へと下って行った』。『ペーネロペーは、最初のうちはオデュッセウスのことを本物かどうか疑っていたが、彼がオデュッセウスしか知りえないことを発言すると、本物だと安心して泣き崩れた。こうして、二人は再会することができたのである』。
「射場某が、寬文中」(一六六一年~一六七三年)「備前酒折」(さかをり)「の社所藏の、百合若の鐵弓箭」(ここでは「和漢三才図会」の記載との対照(後掲)から「てつのゆみ」と仮に当て訓しておく)「を試しおほせたるに似たり、(和漢三才圖會卷七八)」「和漢三才圖會」の地誌部の巻第七十八「備前」の「當國神社佛閣名所」の二番目に「酒折(さかをり)の社 岡山の石關に在り」として挙げて解説した最後に(原本から訓読して示した)、
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相傳ふ、百合若(ゆりわか)麿、持つ所の鐡弓、當社に納む。未だ然る由來を知らざるなり。人、之れを引くこと能はず、以つて奇と爲すと。而して寬文年中、當國武臣射塲(いばの)藤大夫といふ者有り、世に鳴る。是に於いて、試みに、之れを引き、難しと爲さず、且つ、之れを挽き折り納むと云々。
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この「酒折社」は現在の岡山県岡山市北区石関町にある岡山神社である。この話は、大朏東華(おおでとうか:人物不詳)の随筆「斉諧俗談(せいかいぞくだん)」(宝暦八(一七五八)年刊)の巻之三にも以下のようにある(吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化し、読みを総て推定で歴史的仮名遣で示した)。
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〇百合若丸之弓(ゆりわかまるのゆみ)
備前國赤坂郡酒折石上(さかをりいしがみ)の社に、百合稚丸(ゆりわかまる)の鉄弓(てつゆみ)あり。人、是をひくことあたはず。しかるに、寬文年中、當國の武臣射場藤太夫(いばとうだいふ)といふ人、世に聞(きこえ)し强弓(がうきゆう)なり。この人、試にかの弓を引(ひき)て難(なん)とせず。終(つひ)に此弓を引折(ひきをり)て納むと云(いへ)り。
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「アンチノウス」ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人として寵愛を受けた夭折した青年アンティノウス(Antinous 一一一年~一三〇年)のことぐらいしか浮かばない。「ユリシーズ」(オデュッセウス)の物語に近似音の名前は見出せない。
以下、底本では再び一字下げに戻る。]
但し南蠻人の名は、必しも歐洲人に限らず、歐人初て來たりしより百五十餘年前、南亞細亞の囘敎國民、若狹に著せし等の例、渡邊世祐氏の室町時代史三二〇―二三頁に見えたり、采覽異言卷三に、明の章潢の回々館の記を引き、如占城日本眞臘瓜哇滿刺加諸國、皆習回回敎、遇有進貢番文、亦屬本館代譯と云り、囘々敎國ならぬ日本の假字書も、都合上回々館にて扱しと見え(大英類典二二卷六五九頁に、日本を囘敎國とせり、四年前三月二日の「ノーツ・エンド・キーリス」に、予一書を投じ、其出所を問しも、今迄答る者無し、件の明人の記抔に據る誤傳ならんか)、允澎入唐記、享德二年十月十三日、南蠻瓜哇國人百餘人、在館求通信於日本とあれば、邦人當時、海外で回敎民と交りしを知るべし、爾前囘敎勃興して、亜剌伯人[やぶちゃん注:「アラビアじん」。]全盛の時、古希臘羅馬の文字、歐州に亡て、彼輩に保存されたりてふ程なれば、邦人海外に赴きて回敎民より傳へたる、古歐洲の物語少々には非じ、棚守房顯手記に、百合若の父公光の篳篥[やぶちゃん注:「ひちりき」。]、嚴島に存すと云ひ、鹽尻、帝國書院刊本、上卷六六四頁に、百合若、豐後國船居に傳る故事なりとて、之に關せる遺蹟を列ね、紫の一本に肥後に百合若塚あり、土人云、百合若は賤き者也、世に大臣と云、大人也、大太とも云、大人にて、大力有て强弓を引き、能く礫を打つ、今大太ぼつちとは、百合若の事也、ぼつちとは礫の事也とぞと云り、(四十一年四月十五日の東洋學藝雜誌、予の「ダイダラホウシの足跡」參看)、是れ等は、本邦固より斯る巨人の俚傳有しに、後世百合若の名を附會し、隨て遺物遺跡抔と故事付けたるにや、松屋筆記、卷九三、豐後國志に、百合若は、大分君稚臣[やぶちゃん注:「おほきだのきみわかおみ」。]が事、是れ天武紀に見たる勇士、豐後大分郡の人也と云るも、其名より臆測したる牽强らしく思はる。
[やぶちゃん注:途中の「抔」が二箇所「杯」となっているが、初出・「選集」で訂した。また、「囘」「回」が混用されているのはママである(初出は総て「回」)。
「渡邊世祐氏の室町時代史三二〇―二三頁に見えたり」これは既に注した早稲田大学出版部から刊の時代別に分割された歴史叢書「大日本時代史」(「国立国会図書館サーチ」の同書の検索結果ページのこちらを参照)の一冊。原本は、後の大正期の版ではあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全巻が読め、ここで熊楠が示すのはこれ。著者は日本史学者渡辺世祐(よすけ 明治七(一八七四)年~昭和三二(一九五七)年:山口県生まれ。明治大学・國學院大學教授。文学博士)。しかし、このページ数は誤りのようにも思われる(大正版が初版と同ページとしてで、初版の版組みはズレているのかも知れぬ)。「二五二」ページから「二五三」ページの「第二編 室町全盛時代 第七章 室町盛世の外交」の一番最後の「第六節 琉球及び諸外國との交通」の「第二 外國との交通」の内容がまさにそれだからである(このページ数は「選集」版も変わらない)。その「二五五」ページの後ろから六行目の段落に、
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かく南北朝の末より亞剌比亞人と思はるゝ人既に歸化せり。これ幸に大乘院雜事記のあるありて其名を知ると雖ども他に中國及び鎭西地方にも此等と類似の人も亦歸化せしならんも記錄なければ知り難し。又若狹守護職次第【群書類從にあり】にも「應永十五年十一月十八日大風に那珂湊濱へ打上られて南蠻船破損之間同十六年に船新造。同十月十一日出濱ありて渡唐了」とあり、又若狹國税所今富名領主代々次第【類集[やぶちゃん注:ママ。]中に收む】にも此事を一層詳細に書けり、乃ち同十五年六月二十二日に南蕃船着岸。帝王御名亞烈進卿。蕃使使臣【間丸本阿】彼帝より日本の國王への進物等生象一匹【黑】、山馬一雙、鸚鵡二對、其外色々。彼船同十一月十八日大風にて中湊濱へ打上げられて破損云々」とあり。この南蠻の王名及び進貢物に付き考ふるもこの本國は印度若くは馬來半島近傍にありしならん。而してこの南蠻の國王より使聘を我邦に致せしなり。而して其使船は行路を誤りて若狹に嫡せしなり。元來南蠻とは西洋人の東洋に渡來せる者を稱して云ひしなれどもこの頃其意味は博げられ南洋印度若くは西洋人に對しても一般に南蠻人と稱せしなり。この南蠻船の來航に付き考ふるに亞細亞の一王は日本と交通する事を望みしなり、乃ちこれ外國人が貿易を日本に求めんとせし事なり。斯る時勢なれば當時ヒシリなどゝ同じく漂流船若くは貿易船にて我國に渡來せし外國人尙ほ多いかりしならん。
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とあるのを熊楠は指しているからである。「ヒシリ」というのは「靈知り」などと当てて怪しげな説明をしている記事が多いが、サイト「イスラーム文化」のこちらの、小村不仁男氏著の日「本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像」(昭和六三(一九八八)年・東京・日本イスラーム友好連盟刊)の「第三章 室町時代」に、まさに以上に事件を記した「アラビア人と国際結婚した京の女性」を始めとして、「アラビア商船と琉球列島」・「京に伝わる七百六十余年昔のイラン文の古書」・「真言宗の大本山にイスラムの秘宝が」と標題する記事が続き、その一番最後に、「六百年昔に京で日本人女性と国際結婚したアラブ人第一号」とあって、
《引用開始》
今から約六百年も昔に京都のど真中にひとりのアラピア人が住んでいた。場所は三条坊門烏丸で、現在の中京区御地烏丸付近にあたり、ちょうど京都市役所から南へ万百メートルあるかないかの近距離のところである。室町初期の将軍足利義満の頃のことで、その名はヒシリと一般に呼ばれていたが、京都五山の一つである相国寺の僧絶海中津らが留学先の中国(明)から京へ連れて帰ってきたのである。永和二年(二二七六)のごとく南北両朝の対立抗争のさ中であった。
彼は日本に入国後に摂津の楠葉つまり今の大阪府下枚方市樽葉在の一日本婦人と結婚して二兎[やぶちゃん注:「児」或いは「男」の誤りか。]をもうけた。長男はムスルと呼ばれいわゆる日ア混血児である。このムスルとはムスリムかあるいはアル・マウシルの転化ではなかろうか。
さて、ムスルはその後母方の姓を採って楠葉入道西忍と名乗り、次男は民部卿入道と呼んだ。次男には子供ができなかったが、長男のムスルには三人の男児が出生した。
ムスルは義満の次の四代将軍義持に重用された。彼が海外事情とりわけ明の国情に詳しくその上に航海術に精通していたからである。三十六本のをき以来[やぶちゃん注:意味不明。「三十六歳のとき」か。]再三にわたり父ヒシリゆかりの明の国に渡航して足利幕府の海外通商貿易の今くいう[やぶちゃん注:「でいう」か。]顧問のような役職に就任していた。
彼は義持将軍の没後隠退してからは大和(奈良県)の古市に転居し文明十八年(一四八六)に、九十三才の天寿を全うして長逝したと伝えられている。以上は「大乗除寺社雑事記」という史料に所載されたものの中からの摘記である。
《引用終了》
とあったので氷解した。
「采覽異言」(さいらんいげん)は新井白石が宝永五(一七〇八)年に布教のために来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(Giovanni Battista Sidotti(Sidoti) 一六六八年~正徳四(一七一四)年十一月二十七日:牢死)を尋問して得た知識などを基に著わされた日本最初の組織的世界地理書。マテオ・リッチの「坤輿万国全図」や、オランダ製世界地図などの多くの資料を用い、各州名国の地理を説明しながら、所説に典拠を明らかにしたもの。全巻を通じ、世界各地の地名、その他の地理的称呼をマテオ・リッチの漢訳に倣い、「歐羅巴(エウロパ)」(ヨーロッパ・巻之一)・「利非亞(リビア)」(アフリカ・巻之二)・「亞細亞(アジア)(巻之三・上下)・南亞墨利加(ソイデアメリカ)(南アメリカ・巻之四)・北亞墨利加(ノオルトアメリカ)(北アメリカ・巻之五)の順に、世界各国の地理が漢文で書かれたもの。正徳三(一七一三)年の成稿であるが、その後も加筆が続けられ、享保一〇(一七二五)年に最終的に完成した。国立国会図書館デジタルコレクションで江戸後期の写本で同巻が見られるが、二度ざっと見たが、この文字列は見当たらなかった。
「章潢」(一五二七年~一六〇八年)は明代の学者。江西南昌生まれ。マテオ・リッチの友人でもあった。
「回々館の記」章潢が一五七七年に完成させた類書(百科事典)「圖書編」(全百二十七巻。二百十一種の書から資料を採り、多くの図を挿入して記事の理解を助け、天地・自然・人事の全般を系統立てて要領よく述べたもの。明代史研究の重要史料とされており、西洋学の学習にも焦点を当てている)の中の「回回館」の記載であろう。「中國哲學書電子化計劃」で『「圖書編」卷五十一至卷五十二』の「回回館」が読めるが(非常に長い)、その冒頭に(漢字の一部を変更した)、
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回回左西域地與天方國鄰其先卽點德那國王謨罕慕德生而神靈臣服西城諸國職國尊爲別諳援爾華言天使也國中有佛經內十藏几三千八百餘卷書筵策草精西洋諸國皆用之隋開皇中國人攝吟八轍阿的幹葛思始傳敎入中璽本朝宣穗中國王遣人隨天方國朝貢由肅州入至今或三年五年一貢其地有城池宮室田園市肆大類江淮間寒署應候民物蕃感亦有陰陽星應醫藥音樂諸採藝人俗重殺非同類殺不食不食豕肉其附近諸國如土魯番天方塞馮爾堪舊隷本館諄審此外如占城日本眞臘爪吐滿刺加諸國皆習回回教遇有進貢番文亦屬本館代譯
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とある最後の部分が、熊楠の引くものと一致する。なお、「回々記」と熊楠は記すが、「々」は漢字ではなく、日本で勝手に作った繰り返し記号であって、中国では通じない(但し、近年、逆輸入しているとも言われる)。
「如占城日本眞臘瓜哇滿刺加諸國、皆習回回敎、遇有進貢番文、亦屬本館代譯」訓読しておく。
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占城(チヤンパ)[やぶちゃん注:チャンパ王国。現在のベトナム中部に存在したチャム族の国家。]・日本・眞臘[やぶちゃん注:カンボジア。]・瓜哇[やぶちゃん注:ジャワ。]・滿刺加[やぶちゃん注:「マラフカ」。マラッカ王国。マラッカ海峡に面したマレー半島とスマトラ半島に跨る地域にあったイスラム教国。]諸國、皆、回回敎を習ふ。進貢の番文有るに遇へば、亦、本館に屬(しよく)して代譯せしむ。
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「番文」「蠻(蕃)文」で異国人の言語で書かれた貢物の添え状。
「大英類典」英語の百科事典として最も古い歴史を持つ「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopedia Britannica)のこと。初版は一七六八年刊行。二〇一〇年度版を以って紙ベースの出版は終了しオンライン版のみとなった。
『四年前三月二日の「ノーツ・エンド・キーリス」に、予一書を投じ、其出所を問し』「四年前」は明治四〇(一九〇七)年。「二日」は底本では「廿日」で初出も「廿日」であるが、「選集」は『二日』とし、「二日」が正しいので、特異的に訂した。「Internet archive」の当該の「Notes and queries」を見られたい。右ページの右の欄の一番最後の投稿である。この回の発行は三月二日である(当該ページの上部欄外ヘッダーのクレジットを見られたい)。
「允澎入唐記」室町時代の臨済僧東洋允澎(とうよういんぽう ?~享徳三(一四五四)年:絶海中津(ちゅうしん)の法を嗣ぎ、京の天竜寺の住持となった。室町幕府の遣明(けんみん)正使として享徳二年に渡中し、任務を果たしたが、帰国の途中の享徳三年五月二十一日(一説に十二月二十八日)に病死した)に同行した笑雲瑞訢(しょううんずいきん)による「允澎入唐(にっとう)記」。国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧」第一冊で活字化されている(日録)。当該条はここ(右ページ八行目)。
「享德二年十月十三日、南蠻瓜哇國人百餘人、在館求通信於日本」訓読すると、「享德二年十月十三日、南蠻の瓜哇(ジヤワ)國の人百餘人、館に在りて、通信を日本に求む。」。
「爾前」「にぜん」。「に」は「爾」の呉音。それ以前。「じぜん」と呼んでも構わない。
「棚守房顯手記」野坂(棚守)房顕(ふさあき 明応四(一四九五)年~天正一八(一五九〇)年:厳島神社の神官で、厳島神社大宮の宝蔵を管理する「棚守(たなもり)職」を世襲する野坂氏の出身であるが、職名から棚守房顕の名で知られる。大内義隆や毛利元就らの御師(おし)となり、厳島神社再興に尽力した)が天正八(一五八〇)年三月に嫡男元行への置文(おきぶみ:一族や子孫に対して現在及び将来に亙って遵守すべきことを書き記した中世日本の文書。近世以後の遺言の原型とされる)様のものとして書いた「棚守房顕覚書」のこと。サイト「宮島観光旅行まとめブログ」の「棚守房顕覚書(資料)」の「棚守房顕覚書139 野坂家家宝のこと」に(そこに載る原文の漢字を恣意的に正字化し、句読点・記号を変更・追加した。読みは推定で私が補ったものである)、
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一、當社家、奉行を存ずる上は、何と候(さふらふ)ても、名を殘し度(た)き故、「ゆり若殿」の御父德大寺公光(きんみつ)の篳篥(ひちりき)、野間家斷絕に付き、房顯、もとめ、野間家の家書・目錄とともに、寳藏に納めをく。又、橫萩大臣の姬君、中將姬の繪掛け物、阿彌陀三尊栴檀は棚守の内儀寳藏へ納める。
將又(はたまた)、天王寺の伶人蔦ノ坊、岡兵部小輔(をかのひやうぶしやうすけ)の父、薗式部(そののしきぶ)、東儀(とうぎ)因幡守、細々(さいさい)[やぶちゃん注:「懇ろに」の意でとっておく。]、下向あり。
然(しか)る處に、京一(きやういち)の琴なれば、「法華」と名づくるを、銀子五百文にもとめ下す。當社、末世の調法なり。佐々木の「綱切り」と傳ふ「あをの太刀」、野坂家の重代たり。神領一亂の砌(みぎり)、棚守が手に渡る。社家の事なれば、寳藏に納める。末代の事なり。
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とある。『「ゆり若殿」の御父德大寺公光』はウィキの「百合若大臣」によれば、百合若の父は「幸若舞」では『嵯峨朝の左大臣「公満(きんみつ)」』とし、注に『説経正本には、父親が「四条公満」で、百合若の元服名は「公行(きんゆき)」と見える』とある。しかし徳大寺家・四条家にも「公光」「公満」の人物は見えない。
「鹽尻」江戸中期の随筆。天野信景(さだかげ)著。現在の通行本は門人堀田六林(ほったりくりん)が考訂した百巻本で、原書は一千巻近くあったというされるが、多くは散逸した。大部であり、且つ、近世随筆の中では時代が早いことから、世に広く知られる。信景は名古屋藩士で、本書は、元禄(一六八八年~一七〇四年)から享保(一七一六年~一七三六年)にかけて、彼が諸書から記事を抜粋し、自身の意見を記したもの。対象事物は歴史・伝記・地誌・言語・文学・制度・宗教・芸能・自然・教育・風俗など、多岐に亙っており、挿絵もある。私は吉川弘文館随筆大成版(全六冊)を、兎部屋の書庫には置きようがないなと、買いそびれてしまい、持っていない。
「帝國書院刊本、上卷六六四頁」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(右ページ上段中央から)で原本を視認出来る。以下に電子化する。句読点・記号と、推定で濁点を打った。
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○世にいふ百合若【或は大臣と稱す。】、豐後國船居に傳ふる故事也。百合若塚は船居の萬山萬壽興禪寺にあり。二十餘年前、揚宗和尙の時、塚を發く。石棺の内、立る白骨、一具あり。亦、古刀一柄、朽のこりし。領主も見られし。命して、元のごとく、埋みて祀られしとなん【此說、百合若は、淡海公の三男參議、宇合一には[やぶちゃん注:意味不明。]「島養」と稱せし、此人なり、と。されども、據ある古書を見はべらず。】百合若の女を萬壽といふ。鄕の「菖(シヤウブ)が池」に沈みし後、寺を建て、菖山萬壽寺と號す。百合若が奸臣別府太郞・同次郞が塚とて別府村にあり。高サ二、三尺とぞ。百合若あひせし鷹を「綠丸」といひし。州の鷹尾村より出しといふ。今、猶、よき鷹を產すといへり。凡、百合若の事、九國風土の説にして、昔し、其人有しと聞ゆ。されど、古記・實錄、所見なきにや。上野國妙義山に百合若の故をかたるも、いぶかし。浦島が事は、「丹後風土記」に見へしを、信濃國寢覺にもいふがごとし。
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「紫の一本」(むらさきのひともと)は江戸前期の歌学者戸田茂睡(とだもすい 寛永六(一六二九)年~宝永三(一七〇六)年:駿府城内生まれ)の仮名草子。江戸地誌の体裁をとりながら、文学的な要素も強い。成立は天和年間(一六八一年~一六八四年)前後と推定されている。当該部は巻下の「橋」の「だいだ橋」。国立国会図書館デジタルコレクションの「戸田茂睡全集」(大正四(一九一五)年国書刊行会刊)の当該箇所で視認して電子化する。一部に記号・読点を追加し、句点への変更も行った。一部に読みを推定で附した。編者注の割注も再現した(太字は底本では傍点「ヽ」。但し、これは編者が注のために打ったものである)。
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「だいた橋」。「だいたぼつち」が掛(かけ)たる橋のよし、云(いひ)傳ふる。四ツ谷新町の先、笹塚の手前なり。肥後国八代領の内に「百合若塚」と云あり。塚の上に大木あり。所の者云(いはく)、「百合若は賤(いやし)き者なり。大臣と云は大人(だいじん)なり。『大太(だいた)』とも云(いひ)、大人(おほひと)にて、大力(だいりき)ありて、强弓(つよゆみ)を引き、よく礫(つぶて)を打つ。今、『大太ぼつち』と云は、百合若の事、『ぼつち』とは「礫」の事なり」とぞ。一とせ、大風にて、右の塚の上の大木、たふれて、(塚【正本アリ】、)崩(くずれ)たる中に、石の「からうと」[やぶちゃん注:「屍櫃」(からうと(かろうと))。「からひつ」の音変化。「かろうど」とも呼ぶ。遺骨を納める棺。]有り。内を見るに、常の人の首四つ・五つ合せたる程の首、有り。不思議を立(たて)て、見る内に、雪霜(ゆきしも)のごとく、消失(きえう)せぬ。依ㇾ之(これによりて)、大き成る卒塔婆をたて、右の樣子を書付(かきつけ)て、塚の上に立(たつ)る。其卒塔婆、今にありとぞ。百合若の事、筑紫人(つくしびと)にて、玄海が島に於(正本ナシ)て鬼を平(たひら)ぐる事、百合若の舞に見えたり。然るに、奥州の「島の内」に「百合若島」と云ありて、「みどり丸」と云(いふ)鷹の事まで、慥(たしか)にある島あり、とぞ。又、上州妙義山の道にも、「百合若の足跡」・「矢の跡」とてあり、此外にも、「大太ぼつち」が足跡・力業(ちからわざ)の跡、爰かしこにあり。
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『四十一年四月十五日の東洋學藝雜誌、予の「ダイダラホウシの足跡」』。「南方熊楠 小兒と魔除 (3)」で既出既注。そこの私の注と、そこにリンクさせたものを参照されたい。
「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風随筆。全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えたもの。その採録語句は約一万にも及び、国語学・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊のこちらで視認出来る。電子化する。
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(五)百合若(ユリワカ) 百合若草子に見えたる百合若大臣いまださだかならず豐後國志に大分君稚臣(ワカオミ)が事也といへり大分君雅臣は天武紀に見えたる勇士にて豐後大分郡の人也
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熊楠はこれを「其名より臆測したる牽强らしく思はる」と退けているので、「豐後國志」や「大分君稚臣(ワカオミ)」(「選集」はこれに『おおきだのきみわかみ』とルビするが、従わない)や「天武紀」は注しない。悪しからず。]