奥州ばなし 七ケ濱
七ケ濱
いにし文化[やぶちゃん注:文化は一八〇四年から一八一八年まで。]のはじめ、蝦夷松前に防人(さきもり)をいだされし間のことなりき。
七ケ濱の内、大須といふ所にて【十五が濱、七ケ濱など云て、又其の小名ありて、取あつかふ人の爰よりこゝ迄と切(きる)ためにわけたり。[やぶちゃん注:原割注。]】、もがさおこりて、うれふるものは、大方、死(しに)たり。
其ころ、こゝかしこの墓をほりて、何ものゝわざにや、死人(しびと)をくひしとぞ。
稀有のこと故、所のもの寄合(よりあひ)て、死せし子共(こども)の菩提、又は「あくまよけ」の爲とて、祈禱などして、いと大きなる角塔婆《(かく)たうば》を山の頭(いただき)【風越峠。[やぶちゃん注:原傍注。]】にたてたりし。下は大石にてたゝみ上げたりしを、夜の間に、たうばを、引ぬき、石をも、なげのけて、土をふかくほりかへして有しとぞ。
[やぶちゃん注:「文化」一八〇四年から一八一八年まで。
「蝦夷松前」北海道南部の渡島半島南西部にある現在の北海道松前郡松前町(まつまえちょう:グーグル・マップ・データ(以下同じ)。なお、かなり知られていることだが、現在の行政上では北海道では茅部(かやべ)郡森町(もりまち)以外は総て「町」は「ちょう」と読む)附近。江戸時代、松前藩が置かれ(福山藩とも称した)、蝦夷地松前地方を領有していた。足利義政に仕えた武田信賢の子信広が蝦夷を平定し、光広・義広・季広を経て、慶広の代に徳川家康に所領を安堵され、松前福山に立藩し、松前氏を称した。寒冷地のため、米作が出来ず、当時の藩としては例外的に石高がなく、蝦夷一円を実質領有し、アイヌとの蝦夷交易権を独占した。寛政一一(一七九九)年に北辺防備のため、東蝦夷地 (蝦夷地の東部・南部) が仮収公され(享和二(一八〇二)年正式収公)、文化四(一八〇七)年に残っていた西蝦夷地 (蝦夷地の北部・西部) が収公されて全島が江戸幕府直轄となり、松前藩は陸奥国伊達郡に移封された。しかし、文政四(一八二一)年には蝦夷全島が返還され、復封となり、当初の仮称石高は九千石であったが、天保二(一八三一)年には一万石格となった。しかし,安政二(一八五五)年には、再び北辺防備のため松前福山、江差二港を含む小部分を残して蝦夷地の大半が収公されると、陸奥梁川・出羽東根 (山形県) 合せて三万石を与えられ、ほかに出羽尾花沢 (山形県) 一万余石を預地 (あずかりち) として付せられ、毎年一万 八千両の金子が交付されたが、藩庁は依然として松前福山に留まり、領地には代官を送るだけであった。明治元(一八六八) 年、福山から厚沢部 (あっさぶ) 村の館 (たて) に居所を移し、版籍奉還後、館藩と称した後に廃藩となった(「ブリタニカ国際大百科事典」による)。
「防人をいだされし間」江戸後期、松前藩は千島列島を南下しつつあったロシアに備え、蝦夷地北辺の警備に当たっていたが、二〇一八年、択捉島中部の振別で現地ロシア人によって現地で亡くなった彼ら防人の墓が発見されている。新聞記事によれば、択捉島には松前藩の他、弘前・盛岡・仙台藩から送り込まれた多くの「北の防人」が現地で亡くなっている、とあった。
「七ケ濱」「大須」話からてっきり松前福山周辺の旧地名・旧通称と思って調べたが、見当たらない。この「蝦夷松前……」という部分は単に時制設定を示すためのものであり、これは、真葛が後に「磯づたひ」(リンク先は私のPDF一括版) で旅した、旧宮城県宮城郡七ヶ浜村、現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)のことである。「大須」の地名は現認出来ないが、この付近の地図を見るうち、七ヶ浜町南西端に接して、多賀城市大代(おおしろ)という地区があることに気づいた。「大須(おほす)」と「大代(おほしろ)」とは東北弁では近似した発音に聴こえはすまいか?
「もがさ」疱瘡。天然痘。
「角塔婆《(かく)とうば》」四角柱状を成した供養用(墓に立てる地方もある)の卒塔婆のこと。四角塔婆。年忌法要等の際に墓の傍に建てる薄い板状の板塔婆に対する柱状の塔婆で、形状は板塔婆と同じく頭部五輪塔を模したもので、上から空輪・風輪・火輪・水輪を刻し、一番下の地輪の部分が埋め込む部分まで長くなっている。板塔婆よりも遙かに長く(三~六メートル)、形状も安定を持たせるためにからも有意に太い(一辺幅十三~三十センチメートル)。
「風越峠」不詳。地名としては、あるにはあるが、とんでもない入海の彼方の宮城県石巻市折浜風越であるから、違う。仮に私が仮に措定した先の「大代」ならば、旧地図を見るに、北部が丘陵ではある(今昔マップ)。
「土をふかくほりかへして有しとぞ」この死人(しびと)を喰らう鬼は供養塔婆を墓と勘違いしているのである。]
「いかなる大力ものゝ惡《わる》いたづらならん。」
と、いひて有しが、それより疱瘡の波、いよいよ、あしく、日々、死人(しびと)數々有(かずかずある)を、あらたに土をうがちし所は、ほりかへして、くはれぬこと、なし。
かゝれば、親々は嘆きうれひて、是をふせがん爲に、隨分、重き石を墓におけども、とりのけて。くふこと、やまず。
其くらへるさま、着せたるものを殘せしのみ、骨・髮ともに跡も、なし。
たゞ、手首をひとつ、石の上に殘しおきしこと、ありき。
諸人、おぢおそるゝこと、かしがまし。
雨後に行てみれば、足跡とおぽしく、人の腕にて、おしたる如くなる形に、壱尺餘のあと有。【足跡の形。
[やぶちゃん注:原割注。底本の原文から画像で採った。]
是にて、化生(けしやう)の大(おほい)サも知られたり。
あるは、狩人の打(うち)たる鹿の、皮をはぎし肉を、外に置(おき)しをも、一夜の中に、骨まで、食(くひ)たり。
「これ、しゝ・むじなのわざ、ならじ。甚(はなはだ)大食(おほぐひ)なるものなり。」
と、いや、まし、おそれたりき。
其ころ、誰いふともなく、
「『ほうそうばゞ』[やぶちゃん注:「疱瘡婆」。]といふものありきて、死人(しびと)をくらはん爲に、おもく、やませて、人を、ころす。」
と、となヘしかば、公(おほやけ)にうたへて、鐵砲打の人を、くだし給はらんことを願申(ねがひまうし)たりし。
さる間に、所のきもいりをつとむるものゝ倅(せがれ)三人、十五・十三・十一なり、一度にほうそうにとりつかれしが、只一夜の内に、一時に死たりしかば、父は狂氣の如くになりて、
「死せしことは、是非もなし。このなきがらを、むざむざ、化生の食(じき)とは、なさじ。」
とて、ひとつ所にうづめて、十七人してもちし、平(ひら)めなる大石を上におき、たいまつを兩方にたてゝ、きびしく番人をつけ、外にものなれたる獵師を二人、一夜百疋[やぶちゃん注:金一分(ぶ)。一両の四分の一。一万八千七百五十円相当。]のあたひにやとひて、まもらせけり。二、三日有(あり)て、狩人の云出(いひいづ)るは、
「かく、あかしを置(おき)ては、化生のよりつくこと、有べからず。くらくして、兩人めぐりありきて、こゝろみたし。」
と、いひしかば、それにまかせて、ともしを引(ひき)てありしに、夜中に、何やらん、土をうがつやうなる音の聞えしかば、
「さてこそ、あやしきものよ、ござんなれ。」
と、しのびてよせしが、かねての手なみにおぢおそれて、今さら物すごく、兩人、ひとつにかたまりて近づき見れば、暗夜(やみよ)にて、ものゝ色目は見えわかねど、何か、うごくやうなりしかば、かくし持(もち)たる火繩を出(いだ)せしを、見るやいなや、驚(おどろき)て、はねかヘり、柴山を分(わけ)て逃去(にげさり)し勢ひ、つばさはなけれど、飛(とぶ)が如し。しう【「ウ」、引く。[やぶちゃん注:原割注。シュウー!]】と、なる音して、柴木立(しばこだち)の折(をり)ひしぐる音、すさまじく、そのあほる餘風に、兩人共、引(ひき)うごかされて、前にのめらんとせしほどなりしとぞ。
十七人して、やうやうもちし石も、とりのけて有しが、番せし人の音をきかざりしは、木の葉の如くとり廻せし。力のほどもしられたり。
されど、親の念や屆(とどき)つらん、うづめし子は、くはれざりし。夜明(よあけ)てのち、其逃去(にげさり)し跡を、人々、行て見るに、一丈五、六尺ばかりなる柴木立【こゝは大濱といふ所なり。[やぶちゃん注:原傍注。]】の、左右へわかれて、なびきふしたるさま、いと、物すごし。いづくまでかく有しや、往(ゆき)て見ねば、しらず。これ迄、ここゝり來つらんと、心づくほどの跡もなかりしが、火繩におぢて、まどひ逃し故、かく荒しなるべし。
其のち、絕(たえ)て來らず。
柴の分れしあとは、二、三年は、たしかに見えしとぞ。【是は、はやく聞(きき)しことなりしが、『僞にや』と、いぶかしく思ひて有しを、藤澤幾之助[やぶちゃん注:不詳。]と云人、其濱に知所(しるところ)有て、とし每に山狩に行しかば、よくことのやうをしりて語るによりて、書きとめたり。柴木立の分れし跡も行て見たり。[やぶちゃん注:原頭注。]】
其頃、まちの市日(いちび)に、用たさんとて、二人づれにて女の來りしが、【五十ばかりの女壱人、また、三十ばかりにて、子をおひたるが一人。[やぶちゃん注:原割注。]】五十ばかりの女、ものにおぢたる如くのていにて、氣絕したり。
市人、驚きさわぎて、
「藥よ、水よ。」
と、いたはりしが、ほど有(あり)て、いき出(いで)たりしを、つれの女の介抱して、ともなひゆきしこと有つれど、何の故といふことを、しる人、なかりき。
さて、三年をへてのち、氣絕したる女、語出(かたりいだし)たるは、
「さいつころ、市町(いちまち)にゆきしに、ふと、むかひの山を見たれば、そのたけ、一丈餘りもやあらんと思はるゝ毛ものゝ、大木の切口に腰をかけて有しが、頭には、白髮、ふさふさと生(おひ)たるが、山風に吹みだれ、つらの色は、あかくして、めんてい、ばゝの如し。目の光、きらきらとして、おそろしきこと、いふばかりなし。『是や、此頃、死人を堀出(ほりだ)して、くらひし獸ならん』と、おもふやいな、五體、すくみて、氣も消(きえ)て有しが、其ほどに、『語(かたり)いでなば、身にわざわひもやあらん』と、おそろしさにつゝしみて有しが、獸の通りし跡さへなくなりし故、今、語るなり。」
と、いひしとぞ。
是をもて思へば、「ほうそうばゝ」といひしも、より所、あることなりき。塔婆をぬきしも、かゝる邊土にて、かばかりのことせし人あらば、誰と名のしれぬこと、なし。あらたに土を堀[やぶちゃん注:ママ。]、石をすゑなどせし故、『ものや、あらん』と、ほりみしことなるべし。死人の有無をだにさとらぬは、いきほひはあれども、神通(じんつう)を得しものには、あらざるべし。いづちより來りしや、古來、前後、聞(きき)およばぬこととぞ、人、かたりし。
[やぶちゃん注:妖怪を集成したサイトのこちらの「疱瘡婆」に、本篇の訳物を扱った記事があり、そこで水木しげるの「日本妖怪大全」(私も所持している)の「疱瘡婆」の同話引用があるが、そこで水木は本篇総てを松前の出来事として書いている。サイト主は『北海道の松前と宮城県での話は、場所の違いだけでほとんど同じ内容になっている。これが何を意味しているかはよくわからない』と述べているが、要するに、水木は初読時の私と同じく、本篇を誤読しているのである。
なお、所持する湯本豪一編著「妖怪百物語絵巻」(二〇〇三年国書刊行会刊)の「ばけもの繪卷」(作者不詳。近畿・北陸・関東・東北の十二の妖怪譚を挿絵附きで記す。絵巻物自体の制作は明治時代のものと推定される)に載る人肉を食う婆の化した鬼婆の話を画像とともに添えておく。以下に文を表記通りに電子化する。踊り字「〱」は「々」若しくは正字化した。
*
みちのくしのふ郡に住ける
農人の母心かたましく生る[やぶちゃん注:「いくる」。]
ものゝ命をとり後にはこれ
を
食とせしを其子いろいろ
いさめけれと聞入れす日〻に
長して[やぶちゃん注:「ちやうじて」。増長して。]ある夜ハ墓原に
行てしゝむらを
喰ひ[やぶちゃん注:「くらひ」]終には
ゆきかた[やぶちゃん注:「行方(ゆきがた)」。]
なくなり
にける 一と歳[やぶちゃん注:「ひととせ」。]も立て杣
人[やぶちゃん注:「そまびと」。]奥山に分入しに此老女
にあへり 兩の手に
人の首を持テさなから鬼の如くなる
面赤しおそろしさ云わんかたなし
杣人 からき命をひろひ人に語りけれは
國の守より伝[やぶちゃん注:「つげ」。下命(かめい)。]ありて飛道具をもつてうちころ
すへしと七村に觸[やぶちゃん注:「ふれ」。]あり村々立合て其
ありし所を取まき鉄砲をうちたつれは[やぶちゃん注:「擊ち立つれば」。]
誠の鬼とかたちをなし雲に乘りて
失ぬ
*
「みちのくしのふ郡」は陸奥国信夫(しのぶ)郡。現在の福島県福島市に概ね相当する。北で宮城県に接する。底本の図像解説で湯本氏は『宮城県には疱瘡で死んだ子供の墓をあばいて食べる「疱瘡婆」の話が伝わっている。疱瘡婆もここに描かれた妖径と同様に鉄砲で追われており、両者は関連のある言い伝えであろう。「かたまし」とは、悪賢いこと』と記しておられる。本篇の異人は「婆」ではないが、これは恐らくは本篇の内容を意識されて附記されたものと考え、ここに挙げることとした。雲に乗って消え失せたところは、既にして妖仙という感じではある。]