南方熊楠 小兒と魔除 (6)
[やぶちゃん注:冒頭のそれは、出口米吉の初出の一四三ページ(最終コマ)から、一四四ページ(2コマ目)にかけての部分を指す(PDFは分離している)。私の電子化はこちら。]
(一四三頁兒啼を止るに偉人の姓名を呼ぶ事)歐州各部、古來タークヰン、ブラツクダグラス、ハンニアデス、マールポロ、那翁[やぶちゃん注:「ナポレオン」。]、ウエリントン、英皇リチヤード一世、ナルセス、ラミア、リリツス、ジヨン、ニツコルソン[やぶちゃん注:底本は、「ジヨン」の後の読点に下線を含まないが、初出で訂した。]、タルボツト卿抔の名を以て兒啼を止め、ケンタツキー州の一部にクレーヷーハウス[やぶちゃん注:底本は「ヷ」を「ゾ」とするが、初出で訂した。]、墨西哥[やぶちゃん注:「メキシコ」、]でドレークと呼で、躁兒を靜むる(N. and Q., 10th ser., x, p. 509, 1908; xi, p. 53, 1909; Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54)風今に殘れり、近時の小說にグラツドストーンと呼で兒をおどすことすら有り、吾輩幼時、殿樣、親爺抔來れりと聞いて、騷動を止めしこと每度なりき Rundall, l. c. に、慶長十八年六月、英艦長サリス、平戶侯に饗せらるゝ記あり(此時、英艦長の私室に、羅[やぶちゃん注:羅馬(ローマ)。]の婬神ヰヌス美童クピツトと戲るゝ圖を揭たるを、日本上流婦人、葡人[やぶちゃん注:ポルトガル人。]に天主敎化され居たるもの、歸命頂禮して、マリアと基督母子也とせる珍談有、百家說林第一板所收、司馬江漢の春波樓筆記八十八頁にも摘出せらる)中に、平戶人、英吉利黑船とて歌唄ひ、劒舞して、英人西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]船を掠むる[やぶちゃん注:「かすむる」。奪わんとする。]の狀をなし、小兒輩を威す[やぶちゃん注:「おどす」。]と有、後年難波に黑船忠右衞門有しも、人に怖らるゝこと黑船の如くなりし故ならん、多少の誇張は有るべきも、近年石川縣の遠藤秀景氏、名兒啼を止むるに足れりと云事新紙[やぶちゃん注:新聞記事。]にて見たり、蒙昧の蕃民、敵襲來するを憚り默靜を重んずるは、サビムバ人の祖先、鷄鳴の爲に在處を知られて、度々海賊に犯されし故、全く林中の浪民となり、鷄を忌むこと甚しく(Logan, “The Oramg Binua of Johore,” The Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia, vol. i, Nov., p.296, 1847)、ブラジルのツピ族の一酋長、朝早く村中の廬[やぶちゃん注:「いへ」。家。]を廻りあるき、鋭き魚齒もて、小兒の脛をヒツカク、是れ小兒從順ならぬ時、父母、酋長搔きに來ると言て之を脅さんが爲なり(Hans Stade, ‘Captivity in Brazil in A. D. 1547-1555,’ 1874, p. 144)、近世伊太利の山賊ビツツアロが、官軍を寒洞中に避けし時、兒啼て止ざるを怒り、其脚を操て[やぶちゃん注:「とつて」。]腦を岩壁に打付け、碎て[やぶちゃん注:「くだきて」。]之を殺しけれは、其妻之を恨で、翌夜夫の睡に乘じて、之を銃殺し、其首を獻して重賞を得、更に他人に嫁して良婦慈母たりしと云ふ(D. Hilton, ‘Brigandage in S. Italy,’ 1864, vol. i, pp. 171-2)、古スパルタ、又殊に我邦など尙武の俗、男は泣ぬものと幼少より敎えしは[やぶちゃん注:ママ。]、主として女々しき振舞無なからしめんとの心がけ乍ら、兼て輕躁事を敗らざる可き訓練にて、戰鬪多き世には、兒啼を戒めて敵寇に見顯されぬ事、一人にも一社會にも、大緊要の件なるべし、趙の始祖と源義滿、幼少乍ら啼ずして身を全せし由、風俗通と碧山日錄に出づ、今、三國志舊注、倭漢三才圖會、世事百談などを案ずるに、張遼合淝の戰に吳人を震懾[やぶちゃん注:「しんしやう」。震えおののくこと。]せしめし故、其名を呼んで兒啼を止し迄にて、上述の諸例と比較して、理は能く通ぜり、別に出口氏の言の如き、兒の爲に魔を威し去るの意と見えず、加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]支那に麻胡希臘にラミア(Bent, p. 98)抔、鬼來ると言て兒を脅し靜むること少なからず、之をも魔を去らんがために、更に小兒が好まざる他の魔の名を呼で、之を招くと云はば、其辨は迂にして、その說は鑿せりとやいはまし、事物紀原には、會稽有鬼、號麻胡、好食小兒腦、遂以在小兒啼、則謂麻胡來恐之、乃啼聲絕と有て、鬼なれども、空華日工集一には廣記を引て、石勒の將、太原の胡人麻姓のもの大惡人なりし故、母其名を號して啼兒をおどすとせり、吾邦に元興寺[やぶちゃん注:「がこじ」。]と唱て小兒をおどすも此類にて、若し元興寺の鬼を呼來て、他の兒に害ある鬼を嚇すと言ば、直ちに其元興寺の鬼を平げたる道場法師[やぶちゃん注:「だうぢやうほふし」。]の名を呼で、强弱の諸鬼を合せて之を驅るの手段を、何故其時代の父母が氣付かざりしにや(群書類從卷六十九道場法師傳參看)、因に云ふ、嬰兒をあやして「レロレロ」と云ふは、今も紀州一汎に行はる、これは英語に所謂 Tongue-Twister(舌捩り[やぶちゃん注:「したもじり」。])の最も簡單なる者で、小兒に早く言語を發せしめんとの一助なり、吾邦の小兒、親を困らすほど成長せんに、「レロレロ」位で啼止むべきかは「レロレロ」と遼來と稍や音近き故、博識を衒わん[やぶちゃん注:「てらはん」。]とて、前者後者に出づと說き出せるなるべし、實際「レロレロ」と呼で小兒を怖し賺す[やぶちゃん注:「おどしすかす」。]こと有しに非じ、
[やぶちゃん注:「タークヰン」セクストゥス・タルクィニウス(英語:Sextus Tarquinius ?~紀元前五〇九年)。王政ローマ最後の王ルキウス・タルクィニウス・スペルブス(タルクィニウス傲慢王)の三番目の末子。ローマ神話によれば、彼が人妻ルクレティアを陵辱したことが、結果として王政の崩壊と共和政の設立を招いたとされる。同じ姓であり、先王セルウィリウスを殺害、ラティウム地方に覇権を伸ばしたという凶悪な父もそれらしく見えるが、後に示す原拠記事から、伝説的人物(実在は疑われている)ルクレティアに纏わる一五九四年に書かれたシェイクスピアの物語詩「ルークリース凌辱」(The Rape of Lucrece)に基づくとあるから、やはり、子の方である。
「ブラツクダグラス」Black Douglas。十二世紀のスコットランドで最も強力な一族の一つであったブラック・ダグラス家。特にその創始者にして、スコットランド国王ロバートⅠ世の筆頭副官の一人であったジェイムス・ダグラス卿(James Douglas 一二八六年~一三三〇年)の異名。聖地への埋葬を望んだ主人の最後の望みを果たすために、その心臓を携えて、ムーア人相手の十字軍遠征に従軍したという逸話が知られており、部下の兵たちは、そうした彼を恐れ、「ブラック・ダグラス」と呼んだ。
「ハンニアデス」ハンガリー国王マティアス・ハンニアデス(Matthias Hunniades 一六二一年~一二五〇年)
「マールポロ」イングランド貴族の公爵位マールバラ公爵(Duke of Marlborough)か。この爵位は一七〇二年に「スペイン継承戦争」でイングランド軍司令官を務めた初代マールバラ伯爵ジョン・チャーチル(John Churchill 一六五〇年~一七二二年)に授与されたことに始まる。後のイギリス首相ウィンストン・チャーチルやイギリス皇太子妃ダイアナ・スペンサーの先祖でもある。
「ウエリントン」ウェリントン公爵(英: Duke of Wellington)は、イギリスの公爵位で「ナポレオン戦争」の英雄初代ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley 一七六九年~一八五二年)が一八一四年に叙されたのに始まる。連合王国貴族の中では筆頭爵位。
「英皇リチヤード一世」第二代イングランド王リチャードⅠ世(Richard I 一一五七年~一一九九年)。彼のウィキによれば、『生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王』(Richard the Lionheart/フランス語:Cœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパに於いて騎士の模範と称えられたが、十年の在位中、イングランドに滞在したのは、僅か六ヶ月で、『その統治期間のほとんどは戦争と冒険に明け暮れた』とある。
「ナルセス」東ローマ帝国の政治家で宦官のナルセス(ラテン文字転写:Narses 四七八年~五七三年)か。ユスティニアヌスⅠ世に仕え、東ゴート王国を征服した人物。
「ラミア」Lamia。古代ギリシア伝説の女の妖怪。子供を攫うとされ、言うことを聞かない子供を嚇す際、この名を出す。元はゼウスに愛された美女であったが、嫉妬したヘラに子を殺されてより、妖女に変じたとされ、若者を誘惑し、血肉を飲食したとも言われる(中経出版「世界宗教用語事典」に拠る)。
「リリツス」Lilith。ユダヤの伝承で、男児を害すると信じられていた女性の悪霊。「リリト」とも表記される。ウィキの「リリス」によれば、通俗語源説では「夜」を意味するヘブライ語「ライラー」と結びつけられるが、古代バビロニアの「リリートゥ」(シュメール語の「リル」、「大気」「風」の意)とも言われる。旧約聖書では「イザヤ書」に言及があるのみで、そこではは夜の妖怪或いは動物の一種とされる。また、『古代メソポタミアの女性の悪霊リリートゥがその祖型であるとも考えられている。しばしば最初の女とされるが、この伝説は中世に誕生した。アダムの最初の妻とされ、アダムとリリスの交わりから悪霊たちが生まれたと言われ』、『そのリリスの子どもたちはヘブライ語でリリンとも呼ばれる』。『アダムと別れてからもリリスは無数の悪霊たち(シェディム)を生み出したとされ』、十三『世紀のカバラ文献では悪霊の君主であるサマエルの伴侶とされた』。『サタンの妻になったという俗説もある』とある。私は「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する呼称として、気になって調べたことがある。
「ジヨン、ニツコルソン」アイルランド出身で東インド会社所属の軍人ジョン・ニコルソンJohn Nicholson 一八二二年~一八五七年)か。一八五七年のインド反乱を冷酷に鎮圧する中で亡くなったが、イギリスでは讃美を受けた一方、インドでは悪名を馳せた。
「タルボツト卿」イングランドの貴族・軍人で初代シュルーズベリー伯爵ジョン・タルボット(John Talbot, 1st Earl of Shrewsbury ?~一四五三年)であろう。「百年戦争」中のイングランド軍の主要な指揮官の一人で、ランカスター朝に於ける唯一のフランス軍総司令官であった。
「クレーヷーハウス」スコットランドの貴族・軍人で初代ダンディー子爵ジョン・グラハム・オブ・クレーヴァーハウス(John Graham of Claverhouse, 1st Viscount Dundee 一六四八年~一六八九年)はステュアート朝に仕え、ジャコバイトに与し、名誉革命政権に反乱を起こし、「流血のクレーヴァーズ(Bluidy Clavers)」とも呼ばれる。
「ドレーク」フランシス・ドレーク(Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)であろう。エリザベス朝のイングランドのゲール系ウェールズ人航海者にして海賊・海軍提督で、イングランド人として初めて世界一周を達成した人物として知られる。彼のウィキによれば、『ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から)』とある。
「N. and Q., 10th ser., x, p. 509,1908; xi, p. 53, 1909」「Internet archive」で原本が見られ、前者はこちらの左ページの、
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NAMES TERRIBLE TO CHILDREN. ―In many a crisis in history the name of some conqueror or tyrant has been used to still unruly children. I am conscious of having read of many such, but not having the fear of ' N. & Q.' before my eyes, I failed to make the necessary notes, and now plead guilty
in an apologetic query. Can anybody add to my brief list, and give serious, not mere
farcical, authorities ?
Tarquin. Shakespeare, ' Rape of Lucrece ' (' Poems,' ed. R. Bell, p. 111).
Black Douglas, 1319. Sir W. Scott,
' History of Scotland,' 1830, i. 137.
Hunniades, 1456. Hallam, * Europe during Middle Ages,' 1872, ii. 106.
Marlborough.
Napoleon Bonaparte.
Wellington. W. C. B.
*
という投稿で、後者はこちらの右下から次のページにかけての、
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NAMES TEBRRIBLE TO CHILDREN (10 S. x. 509 ; xi. 53, 218, 356, 454).― To the names that have appeared surely Morgan should be added. See Prof. Rhys's ' Celtic Folklore,' 1901, vol. i. p. 372. It is about the lake of Glasfryn in Wales : ―
" Mrs. Williams-Ellis's own words : ' Our younger boys have a crew of three little Welsh boys who live near the lake, to join them in their boat-sailing about the pool and in camping cm the island, &c. They asked me once who Morgan was, whom the little boys were always saying they were to be careful against. An old man living at Tal Llyn, " Lakes End," a farm close by, says that as a boy he was always told that " naughty boys would be carried off by Morgan into the lake." Others tell me that Morgan is always held to be ready to take off troublesome children, and somehow Morgan is thought of as a bad one.'"
There is more, but any one interested had better see the book.
- L. PETTY.
Ulverston.
The name of Grimshaw was a bugbear to children in the latter part of the eighteenth century. He was Incumbent of Haworth, near Bradford, the home of the Brontës.
Macaulay in his essay on Warren Hastings tells us :
" Even now, after the Lapse of more than 50 years, the natives still talk of him as the greatest of the English ; and nurses sing children to sleep with a jingling ballad about the fleet horses and richly caparisoned elephants of Sahib Warren Hastein."
JOHN PICKFORD, M.A.
Newbonrne Rectory, Woodbridge.
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という記事があるものの、そこから熊楠は引いてはいない。
「Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54」作者はトマス・ランドール(Thomas Rundall)なる人物であるが、書かれている内容は江戸初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士三浦按針の日本名で知られるウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六(一六二〇)年)から得た部分が多いようだ。当該書は「Internet archive」で原本が読めるが、ここの左ページの頭から四行目に、フランス人が子供を嚇すために「Lord Talbot」の名を出す習慣が書かれてある。
「近時の小說」事例不詳。
「グラツドストーン」Gladstone。近頃の小説と言うところから思うには、イギリスの政治家で貿易商にして黒人奴隷農場主であった初代准男爵ジョン・グラッドストン(John Gladstone, 1st Baronet 一七六四年~一八五一年)か。彼のウィキによれば、一七九二年『以降、イギリスはフランスと二十数年に渡る戦争に突入したが(フランス革命戦争、ナポレオン戦争)、これによって貿易は賭博的事業となり、貿易商は極端に成功する者と極端に失敗する者の二極分化し』、『グラッドストンスは成功者の側に入った』。『彼は』当初、『東インドでの貿易を主としていたが、後には西インド貿易にも手を伸ばした。また西インド、英領ギアナ、英領ジャマイカなどにおいて広大なサツマイモ耕地、コーヒー耕地を所有した。イギリス本国においては奴隷貿易は』一八〇七年に『禁止されたが、大英帝国植民地においては』、『奴隷貿易は未だ合法であり、グラッドストン』『も大量の黒人奴隷を自身の農地で酷使した』。一八二三年には、『ギアナでイギリス農場主の支配に抵抗する黒人奴隷の一揆が発生したが、その一揆の中心地はグラッドストンス所有の農場だった』とある。
「慶長十八年」一六一三年。先の書のこちらに一六一三年六月十一日(慶長十八年五月四日)に平戸に到着した旨の記載があり、以下の「平戶人、英吉利黑船とて歌唄ひ、劒舞して、英人西班牙船を掠むるの狀をなし、小兒輩を威す」というのは先の「Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54」で示した原本の左ページとその前の部分に相当する。
「英艦長サリス」イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)。イギリス東インド会社はアダムス(三浦按針)がイギリス本国に送った書簡によって日本事情を知り、国王ジェームズⅠ世の許可を得て、彼を仲介人として日本との通商関係を結ぶ計画を立て、艦隊司令官であった彼を日本に派遣したのであった。
「婬神ヰヌス」ローマ神話の愛と美の女神ウェヌス(古典ラテン語:Venus)。言わずもがな、本邦では現在は英語読みの「ヴィーナス」が一般。
「美童クピツト」Cupid。キューピッド。
「百家說林」明治後期に作られた江戸時代の学者・文人らの随筆・雑考等、八十六部を集録した叢書。今泉定介・畠山健の校訂。明治二三(一八九〇)年から三年掛かりで十巻本として刊行し、同三十八から翌年には既刊を正編二巻とし、続編三巻と索引一巻を刊行している。
「司馬江漢の春波樓筆記」江戸後期の蘭学者で画家として知られる司馬江漢(延享四(一七四七)年~文政元(一八一八)年)が著した随筆集。文化八(一八一一)年成立。一巻。著者の目に映じた江戸末期の社会風俗についての所感や、人間観・死生観・学問観を記したもので、当時の世相を窺う上でも貴重な資料。約二百項目の全体に、著者の鋭い世相批判があふれ、近代に通じる観点が見られるのが興味深い(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。まず、幸いにして、小泉八雲がこの話を記しているので、私はそれとは別に既に知っていた。「神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(60) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅴ)」に、『キアプテイン・サリスは一六一三年に日本から手紙を送つて、極めて暗示的な感傷的な一事件を記してゐる。彼は言つて居る。『私はやや上注の多くの婦人に、私の船室に入つてもよいといふ許を與へた。この室にはヴイナスが、その子息のキユウピツドをつれてゐる繪が、大きな額緣に嵌められて、幾分だらしない飾り方で懸かつてゐた。彼等は之をマリヤとその子であると思つて、ひれ伏し、非常な信仰を表はして、それを禮拜した。そして私に向つて囁くやうに(信徒でなかつた仲間の誰れ彼れに聞こえないやうに)自分達はキリスト教徒であると云つた、之によつて吾々は彼等がポルトガルのジエジユイト派によつて改宗させられたキリスト教徒であることを知つた』と』とある。八雲のそれは、元書簡の英訳からの引用である。さて、「春波樓筆記」から引く。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。一部に無関係な記載があるので、前を略してある。探す方は、「随筆大成」第一期第二巻の五十八ページの「○予が近隣に八十余の老人あり」で始まる条々の中間にある。
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又日く、壱岐守松浦侯[やぶちゃん注:松浦(まつら)静山。私は彼の「甲子夜話」の電子化注を手掛けている。]予に向つて日く、朽木隱岐守に蘭書あり。ウエイレルドベシケレイヒングと云ふ、此の書を求めん事を欲す、余爾を以てす。余江漢諾して應命、則朽木侯に謁して此の事を話す、竟に其の書を松浦侯に贈る。其の中イギリス船平戶島に入津したる事を誌す。其の頃松浦法眼と云ふ人隱居して政治を取る。或時婦女を從へ、イギリスの船に乘る。船の内數品の額あり。其の中に春畫ありけるを、婦人是を熟視せずして拜す。イギリス人おもへらく、嚮[やぶちゃん注:「さき」。]の頃吾國の佛法[やぶちゃん注:キリスト教のことをかく言っているので注意されたい。]、此の日本に來る事あり、其ならん事を思ひて春畫を拜するかと。[やぶちゃん注:以下略。]
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「黑船忠右衞門」これ自体は歌舞伎男伊達狂言の主人公の名で、モデルは宝永・享保年間(一七〇四年~一七三六年)頃に実在した大坂堂島の男伊達であった根津四郎右衛門こと、沖仲仕住吉屋四郎右衛門とされる。上町の町奴(片町の馬士頭とも)茶筌庄兵衛との新町橋での達引を、当時、侠客役で古今独歩の初代姉川新四郎が自ら脚色し、新町橋の船宿の黒船の行灯から黒船忠右衛門の名で演じ、大当たりをとった。以後、歌舞伎・浄瑠璃に「黒船忠右衛門」物と総称される一連の作品が書かれ、明治期まで上演された。新四郎が、この役でかぶった投頭巾は黒船頭巾、一名、姉川頭巾と呼ばれ、一世を風靡し、新四郎は後年、頭巾を中山新九郎に譲ったが、没後、三途の川を頭巾姿で渡河中、鬼に出会ったという伝説が生まれたという(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
「遠藤秀景」(安政元(一八五四)年~明治四四(一九一一)年)は政治家・漁業家・自由民権運動家。石川県立中学卒。彼のウィキによれば、『加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる』。『幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに』ついて、『剣術や槍術を学んだ』。『ついで』、『島田定静の門に入り』、『文学を修め、同門の塾長となった』。明治一〇(一八七七)年、『西南戦争が勃発すると』、『島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した』。『翌年、西郷に与したとして一時投獄されるが赦され』、明治十三年、『内務省より就官するよう声が掛かる』も、『これを辞し、同年』、『父の訃報と共に郷里に戻り、金沢区選出の石川県会議員となった』。『この頃、盈進社を設立』、『以降』、『国会開設請願運動に関与』した。『ついで』、『旧藩主前田家に士族授産金を要請し』、『北海道に渡り、岩内に前田村を拓』いて、『漁業事業に着手』し、『千島海域などで操業した』。後、『再び石川県会議員となり、同議長を歴任した』。明治二十三年)七月に行われた第一回『衆議院議員総選挙では石川県第』一『区から出馬し』、『当選』、『衆議院議員を』一『期務め』ている、とある。
「Logan, “The Oramg Binua of Johore,” The Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia, vol. i, Nov., p.296, 1847」既注であるが、再掲すると、作者ジェームス・リチャードソン・ローガン(James Richardson Logan 一八一九年~一八六九年)は、イギリスの弁護士で民俗学者。インドネシアやマレー半島の民俗を調べ、「インドネシア」という語を広めた人物でもある。指示すると思われる当該原本(但し、発行年が違う)部分を見い出せない。されば、「サビムバ人」もお手上げ。
「ブラジルのツピ族」ポルトガル語「tupi」。南アメリカ大陸で用いられる七十ほどの言語からなる語族トゥピ語族。狭義にはその中のトゥピ語を用いる一族。分布域はウィキの「トゥピ語族」を見られたい。因みに、「カシューナッツ」(cashew nut)の木(ムクロジ目ウルシ科カシューナットノキ属カシューナットノキ Anacardium occidentale )は南米ブラジル並びに西インド諸島が原産地とされているが、「カシューナッツ」の名の由来は、このブラジルのツピ族の言葉でそれを指す「アカジュ」が十六世紀にポルトガル人に伝わり、「カジュー」と訛ったのが元で、広く伝えられたものらしい。
「Hans Stade」綴りが違う。Hans Staden(一五二五年~一五七六年)が正しい。ドイツの航海士で探検家。ブラジルを踏査したが、そこで出会ったトゥピ族のある集団がカニバリズムをすると書いて、大ベストセラーとなった。この人肉食を嘘とする学者もいたが、現在は民俗的事実として支持されているようである。
「ビツツアロ」Bizzarro。「ビッツァロ」はイタリア語で「奇抜な・風変わりな」という意であるから、綽名であろう。以下に示す原本を見ると、一八〇一年から一八一〇年頃に荒らしまわった山賊のようである。
「D. Hilton, ‘Brigandage in S. Italy,’ 1864, vol. i, pp. 171-2」正式書名は「Brigandage in South Italy」(南イタリアの山賊)で、作者は学者・新聞記者・大学学長にしてリンカーン政権下で大使を務めたウィラー・デヴイッド・ヒルトン(Wheeler David Hilton 一八二九年~一九〇二年)。本書はイタリア史に関する彼の著作でも最も知られた著作である。当該部は「Internet archive」の原本のここ。それを見ると、恨んだ母親(ビッツァロの部下の妻と子であるようだ)は眠っているビッツァロの頭を銃で撃ち、首を切断して、盗賊団を掃討していた司令官のもとに持って行き、報酬を得、三十五年後までミレット(Mileto)という町に幸福に暮らした、と記されてある。但し、ビッツァロのことは前の「168」から、ずっと書かれてある。
「趙の始祖」戦国七雄の一つである趙(紀元前四〇三年~紀元前二二八年)の始祖は趙無恤(ぶじゅつ/むじゅつ ?~紀元前四二五年)。
「源義滿」室町幕府第三代将軍足利義満(正平一三/延文三(一三五八)年~応永一五(一四〇八)年/在職:正平二三(一三六八)年~応永元(一三九四)年十二月)のこと。
「風俗通」後漢末の応劭の撰した「風俗通義」の略称。さまざまな制度・習俗・伝説・民間信仰などについて述べたもの。但し、散佚しており、現行の纏まっている断片にはそれらしい記載が見あたらないから、熊楠が見たのは、何かに引用されたもののように思われる。
「碧山日錄」南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)」に既出既注。
「世事百談」随筆家で雑学者の山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)の書いた考証随筆。天保一二(一八四一)成立で同十四年の板行。当該部は巻之二の以下。「日本古典籍ビューア」で原本当該部を視認して示す。句読点と記号を添えた。
*
○児啼(じてい)を止(やむ)る諺 手々甲(ぜゝがかふ)
「籠耳(かごみゝ)」といふ册子に、小児(せうに)の啼(なき)を止るとき、「むくりこくりの鬼が來る」といふこと、後宇多院の弘安四年[やぶちゃん注:一二八一年。]、北條時宗が執權のとき、唐土(もろこし)元の世祖、たびたび日本をせめけることあり。元の國を蒙古國(もうここく)とも、いふなり。世祖よりこのかた大元(たいげん)と号せり。さるによつて、「むくりこくり」といふは、「蒙古國裏(もうここくり)」といふことの、いひあやまりなり。「鬼がくる」とは、この夷賊をいふなり。又、いとけなき子を威謙(おどしすかす)ときに、顏をしかめて、「元興寺(がごじ)」と、いふことあり。むかし、大和國元興寺(ぐわんこうじ)といふ寺に、鬼すみて、人をなやます、とて、世間、さはがしきこと、あり。「本朝文粹(ほんてうもんずゐ)」に見えたり。これよりして、「元興寺」とて、顏をしかめておどせば、小児、なきやむ、と、いへり。又、小児をすかしゆぶる[やぶちゃん注:「搖ぶる」。揺り動かす。]とき、「虎狼來(ころろん)々々々」と、いふこともあり。もろこしにては、「張遼來(ちやうれうらい)」といへば、小児、なきやむ、とあり。張遼といふもの、たけき兵(つはもの)にてありし、となり。又、日本にて、手をくみ、顏にあて、「手々甲(ぜゝががふ)」と、いふて、小児をおどすこともあり、といふこと、見えたり。「むくりこくり」のことは、「櫻陰腐談(あふいんふだん)」に見ゆ。「元興寺(がごじ)」のことは、「南畝莠言(なんぽいうげん)」[やぶちゃん注:現行では「なんぽしゅうげん」と読んでいるが、正しくは「なんぽゆうげん」が正しいので、歴史的仮名遣はこれでよい。]にありとおぼえたり。「手々甲」といふことは、今、土佐國にて、児女などの常の遊戲にすることとて、その國人(くにびと)祖父江氏(そぶえうぢ)の、過(すぎ)しころ、訪(とぶら)ひ來(きた)られしをりの物がたりに、『その戲れは、左右の手を組合(くみあは)せて、手の甲(かふ)を、たがひに、うち鳴らしながら、となへて、その詞(ことば)の終るところに、あたれるものを、「鬼」と、さだむる』よし。その唱へ詞、
むかいの河原で土噐(かはらけ)やけば、
五皿(いつさら)六(む)皿七(なゝ)皿八(や)皿、
八皿めにおくれて、づでんどつさり、
それこそ鬼よ、これこそ鬼よ、
蓑きて、笠きて、くるものが鬼よ。
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「張遼」(一六五年或いは一六九年~二二二年)は後漢末から三国時代の武将。後漢末の動乱期に丁原・董卓・呂布に仕えた後、曹操の配下となり、軍指揮官として活躍した。
「合淝の戰」「合肥の戰ひ」でよい。地名の読みは「ごうひ」或いは「がつぴ(がっぴ)」。曹操領の南方の要衝の合肥を巡って、魏と呉の間で行われた戦いで、後に三国時代を通じて、この方面では攻防が続けられたが(二〇八年から二五三年まで実に四十五年も間歇的に続いた)、ついにこの戦線の決着がつくことはなかった。孫権が劉備に荊州の一部を返還する代わりに曹操を攻めるという依頼から始まったもので、二一五年に起こった戦いが最も知られ、十万人の孫権軍が僅か七千の曹操軍に大敗を喫した。その時、活躍したのが、この張遼である。詳しくはウィキの「張遼」の「合肥戦線」がよい。
「麻胡」後注「事物紀原」参照。
「ラミア」(ラテン文字転写:Lamiā)はギリシア神話に登場する古代リビュアの女性で、ゼウスと通じたため、ヘーラーによって子供を失い、その苦悩のあまり、他人の子を殺す女怪と化した。眼球を取り出すことが出来るが、これはヘーラーに眠りを奪われた彼女にゼウスが憐れんで与えた能力ともされる。「ラミア」は、ここに出る通り、古くから、子供が恐怖する名として、躾けの場で用いられた(ウィキの「ラミアー」に拠る)。
「Bent, p. 98」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」のこちらの左ページから。ラミアは「Lamiæ」「Lamia」と出、水の女怪サイレン(Sirens)の仲間のように記されてある。
「事物紀原」宋の高丞の撰になる類書(百科事典)。原本は二十巻二百十七事項であるが、現存本は十巻千七百六十五事項。成立年は未詳。事物を天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類し、名称や縁起の由来を古書に求めて記したもの。巻十「麻胡」に、
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朝野僉載曰後趙石勒將麻胡性虎險鴆毒有兒啼每輒恐之麻胡來啼聲絕本草拾遺曰煬帝將幸江都命麻胡濬汴河以木鵝試波深淺止皆死每兒啼言麻胡來卽止人畏若是演義曰今俗以麻胡恐小兒俗傳麻胡祜爲隋煬帝將軍開汴河甚毒虐人多懼之胡祜聲相近以此呼之耳誤矣會稽錄云會稽有鬼號麻胡好食小兒腦遂以恐小兒若麻祜可以恐成人豈獨小兒也
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とある。熊楠は最後と前の方を合成して作文していることが判る。熊楠のそれは、勝手な合成なれば、それを気持ちよく手前勝手に訓読しておく。
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會稽に鬼有り、「麻胡」と號し、好んで、小兒の腦を食ふ。遂に以つて小兒の啼く在れば、則ち、「麻胡(まこ)、來たれり」と謂ひて之を恐(こはが)らすに、乃(すなは)ち、啼き聲、絕ゆ。
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後注で示すが、これは胡人であった残酷な武将麻秋(ましゅう)のことである。
「麻胡來」は現代中国語で音写すると、「マァーフゥーラァィ」である。
「空華日工集」(くうげにっくしゅう:現代仮名遣)本邦の南北朝時代の禅僧で詩人としても知られた義堂周信(ぎどうしゅうしん)の日記。正しくは「空華日用工夫略集」或いは「空華老師日用工夫集」と呼ぶ全十巻。正中二(一三二五)年の誕生から元中五/嘉慶二 (一三八八)年の晩年にいたるまでを、日記形式で要点を抄出したもの。その生涯を知るに便利なばかりでなく、当時の禅宗の様相及び将軍足利義満の行状や、室町幕府の政治を知る上で有益にして貴重な史料である。同書巻一の応安二(北朝の元号で、南朝は正平二十四年でユリウス暦一三六九年)年追抄(月不詳)に、
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才侍者問麻龝、引廣記答之、後趙石勒將麻龝者、太原胡人也、植性虓險鴆毒、有兒啼、母輙恐之曰麻胡來、啼聲絕、至今以爲故事。
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とある。「廣記」は「太平廣記」。北宋時代に成立した類書の一つで、太宗の勅命を奉じて李昉(りぼう)ら十二名が、九七七年から翌年にかけて編纂したもの。全五百巻・目録十巻。その二百六十七巻「酷暴一」の冒頭に出る「麻秋」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。句読点を打った。
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麻秋
後趙石勒將麻秋者、太原胡人也。植性虓險鴆毒。有兒啼、母輒恐之麻胡來、啼聲絕。至今以爲故事。出「朝野僉載」。
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麻秋(?~三五〇年)は五胡十六国時代の後趙の武将で太原出身の胡人。彼のウィキに経歴が詳しいが、その後に、『麻秋は凶悪で残酷な性格であり、しばしば毒酒を以て人を害していた。築城の為に百姓に労役をさせていた時は、昼夜関係なく休み無しで働かせ続け、ただ鶏が鳴いた時(夜明け時)にのみわずかな休息を取らせていたという。この為、周囲からも大いに恐れられ、泣く子に対して母が「麻胡が来る」と言うと、子は泣き止む程であったという』また、「列仙全伝」に『よると、彼の娘は麻姑という名であり、仙人であったとされている。父が百姓に過酷な労役を課す事に心を痛め、複数の鶏を代わる代わる鳴かせる事で休息の時間を伸ばしていた。後にこの事が麻秋に発覚し、麻秋より暴行を受けそうになったので、逃走を図ってそのまま入仙したという』とある。さても、熊楠は「石勒の將、太原の胡人麻姓のもの」と、この「秋」を「姓」と誤判読していることが判る。
「元興寺」これで「がごじ」の他「がごぜ」「ぐわごぜ」「がんごう」「がんご」とも読み、「元興寺(がんごうじ)の鬼(おに)」の意。飛鳥時代に奈良の元興寺(グーグル・マップ・データ)に現れたとされる妖怪。ウィキの「元興寺(妖怪)」によれば、平安時代の「日本霊異記」(私の愛読書の一つ)の「雷の憙(むかしび)[やぶちゃん注:好意。]を得て生ましめし子の强き力在る緣(えに)」(以下にシノプシスが語られる)や、「本朝文粋(ほんちょうもんずい)」などの文献に話がみられ、『鳥山石燕の「画図百鬼夜行」などの古典の妖怪画では、僧の姿をした鬼の姿で描かれている』。『敏達天皇の頃』、『尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)のある農夫が落雷に遭う。落雷と共に落ちてきた雷神はたちまち子供の姿に変化した。農夫が杖で殺そうとすると雷神は命乞いをし、助けてくれれば恩返しとして、雷神のように力強い子供を授けると言った。農夫は雷神の求めに応じて楠の船を作ると、雷神は農夫の見守る中それに乗って空中を昇り、雲や雷とともに空へ帰って行った』。『やがて農夫の妻が、雷神の申し子とでも言うべき子供を産んだ。それは頭には蛇が巻きつき、頭と尾を後頭部に垂らしているという異様な姿だった。雷神の言う通り』、『生まれついて怪力を持ち』、『歳の頃には力自慢で有名な皇族の王(おおきみ)の』一『人と力比べで勝つほどだった』。『後にこの子供は元興寺の童子となった。折りしも元興寺の鐘楼の童子たちが毎晩のように変死する事件が続き、鬼に殺されたものと噂が立っていた。童子は自分が鬼を捕まえて見せると言い、鬼退治をかって出た。あらかじめ鐘堂の四隅に灯を置いて蓋をしておき、自分が鬼を捕まえたら四人の童子たちに蓋を開けさせて鬼の姿を実見しようということになった。ある夜に鐘楼で待ち構え、未明の頃に鬼が現れるや、その髪の毛を捕えて引きずり回した。四人の童子たちは仰天して蓋を開けずに逃げてしまった。夜が明けた頃には鬼はすっかり頭髪を引き剥がされて逃げ去った。血痕を辿って行くと、かつて元興寺で働いていた無頼な下男の墓まで続いていた。この下男の死霊が霊鬼となって現れたのであった。この霊鬼の頭髪は元興寺の宝物となった。この童子は後にも怪力で活躍をした末に得度出家し、道場法師』(どうじょうほうし)『となったという』。『山折哲雄は、日本古来の神(カミ)の観念の本質を論じる文脈の中で、この説話の背景となる世界観に注目している。すなわち、前半の落雷が「小子」に変身して直ちに昇天してしまう点、後半の「霊鬼」が夜のみ登場し』、『灯に寄せなければ』、『その実体を確かめられない点を挙げ、ともに神霊の正体というものが本来そなえている秘匿性(隠れ身)をよく示すものであると指摘している』。『江戸時代の古書によれば、お化けを意味する児童語のガゴゼやガゴジは』、『この元興寺が由来とされ、実際にガゴゼ、ガゴジ、ガンゴジなど、妖怪の総称を意味する児童語が日本各地に分布している。しかし』、『民俗学者・柳田國男はこの説を否定し、化け物が「咬もうぞ」と言いながら』、『現れることが起因するとの説を唱えている』とある。
「若し元興寺の鬼を呼來て、他の兒に害ある鬼を嚇すと言ば、直ちに其元興寺の鬼を平げたる道場法師の名を呼で、强弱の諸鬼を合せて之を驅るの手段を、何故其時代の父母が氣付かざりしにや」少し意味がとりにくくなっているが、――もしも「元興寺(がごじ)の鬼」を呼んできて、他の児童にも害のある鬼を以って諌め「嚇」(おど)すと言うのならば、どうして、手っ取り早く、「直ちに」、「元興寺の鬼」を平らげた、かの怪力無双のゴースト・バスター「道場法師」の名を呼んで、ありとある「强弱の諸鬼を」も「合せて」これらを総て駆逐するという最も有効な児童の保護「手段を、何故」、その「時代の父母が氣付か」なかったのだろう? と、私(熊楠)は思うのである――というのである。
「群書類從卷六十九道場法師傳」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。次の頁で終了している短いものである。日本漢文であるが、字も明瞭で、頗る読み易い。
『嬰兒をあやして「レロレロ」と云ふ』あなたもやるでしょう? 幼児をあやすに際して、舌で上顎を弾いて出す音や、そのさまを表わす語。「れろれろばあ」などとも言う。
「Tongue-Twister(舌捩り[やぶちゃん注:「したもじり」。])」若干、違和感を持つ人がいるやも知れぬ。「Tongue Twister」というのは「早口言葉」のことで(「Twister」は、日本のツイスト・ドーナツのイメージのように「捩じれる」という意がある)、「舌捩(したもじ)り」というのも、言葉遊びの一つで、発音しにくい言葉を続けて普通に或いは早く言わせる、やはり早口言葉のことを指す。「れろれろ」はしかし、確かに早く言葉を喋らせようとする、最も始原的なものであり、早口言葉との親和性はあるのである。因みに、私は、子どもが――最初に覚える身体表現としての言語的行為は――「さよなら」を意味する手を開いて振るところの「ばいばい」である――と考えている。そうだ……人間は誰もが……「愛してる」でも「好きよ」でもなく、宿命的に「さよなら」を最初に教え込まれるのである…………
『「レロレロ」と遼來と稍や音近き』張「遼」が「來」るで、「遼來」(リョウライ)、歴史的仮名遣だと「レウライ」、現代中国語音写だと「リィアォ・ラァィ」である。]