奥州ばなし 狼打
狼 打
木幡《きはた》四郞右衞門【伊賀舍弟。】、澤口覺左衞門【同三弟。】、兩人つれだち、例の鐵砲、打かたげて、山狩に出しが、得ものもなければ、
「狼をうたん。」
と、宮崎郡多田川村の内、「若みこ」といふ所にいたりて、【此當《このあたり》は狼の巢なり。】岡山よりみおろせば、河原近き平野《ひらの》に、狼、集りゐたり。【數、十四、五疋なり。】
をりをり、里に下り來るものなれど、かく一目《ひとめ》に見しは、はじめなりとぞ。
兩人、めづらしく思ひ、その毛色をみるに、赤毛・白毛・白黑のぶちさへ有《あり》て、眞犬《まことのいぬ》の如し。【常に見るは、ごま犬のごとくなる多しとぞ。】
岡より、つるびに打《うち》しに、【「つるび」とは、ひとしく打ことなり。】覺左衞門が打しは、一ツにあたりて、たふれたれば、とりて行つ。四郞右衞門が打しは、一ツたふれし玉の、又、そばなる雌(め)狼にあたりて、はでに成《なり》て逃《にげ》しほどに、
「とめ矢を付《つけ》て、二ツとらん。」
と追かけしが、日暮しかば、見うしなひたり。
「打捨置し狼をとらむ。」
と、人をやとひて、松、うちふらせて、先の所に行《ゆき》てみしに、得ものは、なし。
そのほとり、おびたゞしく狼の足跡有し故、そのあとをもとめて行てみるに、河原に引《ひき》ゆきて、友食《ともぐひ》せしとみえて、ほね・肉、ともに、少しもなく、たゞ、壱尺四方ばかり、皮の殘りて有しのみなり。
いまゝで、むつましげにつどひゐし友の、人にうたれつればとて、暫時に、くらひ盡しける、狼の心ぞ、めざましき。
せんかたなければ、のこりし皮をとりてかへるに、四方《しはう》、山澤《やまさは》にて、狼のほゆる聲、いくそ百《びやく》にかあらん、物すごければ、やとはれし步《ふ》は、ふるふ、ふるふ、
「よしなき御供つかまつりて、命や、うしなはんずらん。」
と、わぶるを、四郞右衞門は、たけだけしく、
「惡《につく》き山犬めら、打とめし得物をくらひしうへにも、あだなさば、一打《ひとうち》ぞ。」
と、四方をにらみてかへりしが、出來《いでく》る狼は、なかりしとぞ。【解云、こは狼にあらず、「豺《やまいぬ》」にて、俗に「山犬」と唱《となふ》るものなるべし。狼には雜毛のものなく、豺には、雜毛、多かり。】[やぶちゃん注:これは頭注。]
[やぶちゃん注:標題は「狼打」は「おほかみうち」と読んでおく。さても、馬琴の言うように、ここに登場したそれは、確かに毛色から考えて、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)ではなく、犬(イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の野生化した個体の群れであろう。現在、確実な最後の情報は明治三八(一九〇五)年一月二十三日、奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村鷲家口。この附近。グーグル・マップ・データ)で捕獲された若い♂(標本として現存)である。それ以前であるが、明治二五(一八九二)年六月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録がありはするものの、写真は残されていない。先般、新聞でニホンオオカミが「生き残っている」として探索している方の記事を読んだが、一定のコロニーがフィールドの中になければ、生き残りは考えられないのに、誰一人としてそれを確認・記録した者がいないことから、生態学的遺伝学的に考えて、私は残存説を全く支持出来ない。何らかの野生の犬の中にその遺伝子を有意に保存しているものがいないとは言えないが、そういうなら、その裾野は普通の和犬も範疇として含まれてくる。そうしたある種の古い和犬種が一定の群れを持って、山中でひっそりと生存を続けているというのは有り得るかも知れぬとしても、それをニホンオオカミの生き残りとは私は言えないと考える。それは最早、生物学科学的生態学的発言ではなく、個人的なロマンの世界である。ロマンとは文芸的想像的で期待空想の世界であって、共有出来る者同士がそれを語り合って希望を持つのは一向に構わない。しかし、公然と生き残っていると発言し、都合のいい少数の科学的資料や、怪しげな写真や、ちょっと外れた学者の賛同説や、好事家の如何にも噓臭い話を以って、大衆に妙な期待を持たせるのは如何なものかと考える。私にとってはニホンカワウソやトキが絶滅したのと同じであり、ツチノコやヒバゴンが種として存在しているという類いと変わらないと思うのである。そういうロマンを語る人は、私に言わせれば、既に絶滅してしまった微小貝類や、地味で目立たぬ絶滅目前の生物類にこそ目を向けるべきであると言いたい。絶滅した生物の幻しを求めるのではなく、今、この瞬間に絶滅しつつある生物群を守るべきである。「大きな体のパンダは可愛い、イルカやクジラは人間に近くて頭がいい、だから守るが、目に見えないようなこんまい貝や、気持ちの悪いにょろにょろの蠕虫なんか、いなくなったっていい」というのは人間の身勝手である。というより、チェレンコフの業火を手にしてしまった自分たち自身の絶滅をこそ実は恐怖すべきである。但し、先の記事の方は、残されてある頭骨標本などを丹念に探し、絶滅したニホンオオカミを語り継ごうとしておられるのが本当の心情であられると読んだ。それには甚だ賛意を表するものである。なお、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」も参照されたい。また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ) (ドール(アカオオカミ))」もあるが、そこで私が「豺」をドール(アカオオカミ。ユーラシア大陸の東部(中国・朝鮮半島・東南アジア・ロシア南東部)と同大陸の中央部から南部(モンゴル・ネパール・インド・バングラデシュ・ブータン等)に棲息するイヌ科イヌ亜科イヌ族ドール属ドール Cuon alpinus 、別名アカオオカミ(赤狼)、英名「Dhole」)を比定同定したのは、良安の記載部分が「本草綱目」に基づくものだからである。日本に無論、ドール(アカオオカミ)は棲息しない。
「木幡四郞右衞門」小早川秀秋氏のブログ「戦国武将録」の「伊達晴宗家臣団事典」に、『木幡四郎右衛門』『きはたしろうざえもん』とあり、『伊達政宗家臣』で慶長五(一六〇〇)年の『「松川の戦い」で、挙げた頸級を、位牌の描かれた敵の軍旗に包んで持ち帰った。その戦功により、位牌の軍旗は木幡四郎右衛門の軍旗として使用された』とある人物の末裔かと思われる。本文で「きはた」と読んだのは、この記事による。また、岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)2」(「御知行被下置御帳」(延宝四(一六七六)年から三年四ヶ月かけて成立した仙台本藩士及び白石片倉家臣の内で禄高十石以上の者千九百三十二人の由緒書からの藩士・家臣のリスト。底本は一九七八年歴史図書社刊佐々久監修「仙台藩家臣録」)に「木幡四郎衛門」と出る。
「伊賀」只野伊賀。真葛の夫只野行義(つらよし)の通称。
「舍弟」すぐ下の弟の意でとる。
「澤口覺左衞門」「同三弟」とあるが、底本にある只野真葛の別な随想「真葛がはら」の「天」の部に、二篇続けて彼を主人公とする怪奇談が載り(「二、沢口覚左衛門のきつね打の次第」及び「三、同じ人奇獣をうちしこと」)、この後者の末には『沢口覚左衛門は、只野伊賀末弟なり』とある。この「真葛がはら」も、将来、電子化せずんばなるまい。今年は、只野真葛年となりそうだ。参考までに、宮城県の伝説を扱っている個人サイト「伝承之蔵」のこちらと、こちらに、そのこの二話の現代語訳と見まごう話が載る。但し、そこで彼を「猟師」とするのは、一体、どの資料からなのだろう? 甚だ不審である。真葛の原本文には猟師とは記していないし、只野伊賀の弟である以上、彼は武士である。いや! 先に示した岸本良信氏の「仙台藩(伊達藩)2」にも「沢口覚左衛門」とはっきり出ている。彼は猟師ではない! 武士である! さて。このサイト主は同サイト内でパブリック・ドメインの「仙台人名大辞書」や「仙台叢書」などの素晴らしい電子化もなされておられ、そこでは異常に厳しい使用注意書を記されておられるのだが、御自身の、以上の「伝説」のパート部分では、その話の基礎資料とした書誌データや聴取記録を、一切、表示されておられない。これは確かな「伝説」だからこそ、示すのが必須にして当然である。しかもこのサイトはアメリカのフロリダ大学の学生の助力を得て、英訳までなされていて、外国の方も読むのである。民俗学の伝説記録として以上の基礎データは絶対に欠かせない。ただ、言わせてもらえば、私は以上の二つが、どう考えても、只野真葛の「真葛がはら」をもとに作話したものとしか思えないのである。「沢口覚左衛門と珍獣」の下方にある「四日切」の解説は「真葛がはら」の「三、同じ人奇獣をうちしこと」の途中に入る翁の台詞を訳したものに過ぎないからである。だのに、どうして勝手に武士「澤口覺左衞門」が「猟師」になっているのか? 不思議である。主人公を「猟師沢口覚左衛門」とする、真葛のものとは違う伝承があるのであれば、是非とも、その原拠・採集年月日を示して戴きたいのである。そうでなく、万一、誰かが勝手に「猟師」に設定を作り変えてサイト主に話したのだとすれば、これは、他の折角の面白く興味深い同サイト内の他の「宮城県の伝説」群も聊か素直に読めない気がしてくるし、民俗伝承資料としても甚だ残念なことになるのである。
『宮崎郡多田川村の内、「若みこ」といふ所』宮崎郡という郡はない。宮城郡はあったが、同郡内に今は多田川はない。しかし宮城県加美郡加美町多田川ならばある。航空写真に切り替えて拡大すると、「狼の巢」の雰囲気は、特に北西部(旧上多田川地区)辺りで文句なしだ(「スタンフォード大学」の旧地図も参照されたい)。私は、断然、ここと感じた(但し、「若みこ」は遂に発見出来なかった)。さらに、地図で字地名を調べている内に、旧下田川地区から南東に二キロメートル半ほどのところに、宮城県加美郡加美町上狼塚(かみおいのつか)」というとんでもない地名が現存することが判った。「スタンフォード大学」の旧地図では「かみおいぬつか」とルビする。なんか、呼ばれた感じがした!
「河原近き平野」この地区は北西から南東にかけて尾根が南北にあり、村域のその中央を多田川が貫流している。
「狼、集りゐたり。【數十四五疋なり。】」この群れも、あまりニホンオオカミらしくない。彼らは大規模な群れを作らず、二、三頭から多くても十頭ほどの群れで行動したとされるからである。但し、北海道・樺太・千島列島にも分布していたイヌ属タイリクオオカミ亜種エゾオオカミ Canis lupus hattai とはそこが違う。エゾオオカミは明治になって北海道開拓で捕獲駆除が奨励され、明治二九(一八九六)年に函館の毛皮商によってエゾオオカミの毛皮数枚が扱われたという記録を最後に、確認例がなく、ロシア領有地も含めて同種は絶滅したものとされている。
「一目《ひとめ》」こう読んで初めて「一度に見えること・一目で総てを見渡せること」の意となる。
「常に見るは、ごま犬のごとくなる多し」本当の狼のことを言っているととる。胡麻犬で白に胡麻を散らしたくすんだ感じの謂いか。ニホンオオカミは周囲の環境に溶け込みやすいように夏と冬で毛色が変化したとされる。東京大学大学院農学生命科学研究科収蔵の剥製(♀・体長一メートル)は冬毛のように思われ、白に薄い茶色交りの感じ。「奈良県」公式サイト内の「県民だより奈良」のこちらに、オランダの「ライデン自然史博物館」所蔵の基準標本のニホンオオカミの剥製の写真があるが、これが夏毛のようで、濃い茶色を呈している。ニホンオオカミが餌が不足して、下界へ下りてきて人馬を襲うのは冬場が多いから、常に里人が見かけるのは、冬毛で腑に落ちる気はする。
『つるびに打《うち》しに、【「つるび」とは、ひとしく打ことなり。】』「連(つる)びに擊ちしに」。ここは二人一緒に同時に撃ったの意であろう。「連(つる)ぶ」いは「並べる」の他に「続けざまに打つ・つるべ打ちに打つ」(連続して放つ)の意もあるが、ここは前者でとった。
「とりて行つ」「覚左衛門が、倒れたその獲物をとりに下って行った」の意としか読めないが、しかし、それでは後の展開と齟齬する。「とりに行かんとしつ」の意にとって読み進める。
「四郞右衞門が打しは、一ツたふれし玉の、又、そばなる雌(め)狼にあたりて、はでに成《なり》て逃《にげ》しほどに」前注に従い、また、ここの「一ツたふれし」も「一ツたふせし後に、その玉の」と読み換え、「四郎右衛門が撃ったそれは、まず、一頭を倒した後に、その玉が跳んで、また、近くにいた雌(めす)の狼にあたって、ひどく暴れて逃げてしまったので」の意で採る。但し、ここは「一ツたふれし玉の」は「一ツたふれし狼の」の衍字の誤りととるなら、それはそのまま「覚左衛門が倒した狼の」ですんなりと読めなくはない。
「とめ矢を付《つけ》て、二ツとらん。」あの手負いの雌狼にも「留めの一発を撃って、二頭とも獲ってやる!」。無論、「矢」と言っているは従来の習慣からで、鉄砲で、である。
「日暮しかば、見うしなひたり」とあって、その直後に、「打ち捨てて置いていしまった撃ち獲った狼をとりに行こう」と二人で語り決めて、それから、「人を」雇って、「松、うちふらせて」(松明(たいまつ)をかざして打ち振って、宵の口の山路を)「先の所に行《ゆき》てみしに」となると、時間経過から考えて、ロケーションはそんなに山谷の奥ではないように読める。当初は現在の多田川地区の最奥と踏んだのだが、これは案外、同地区の中央或いは南東の平地に近いところであったのかも知れぬ。
「得もの」「獲物」。
「いまゝで、むつましげにつどひゐし友の、人にうたれつればとて、暫時に、くらひ盡しける、狼の心ぞ、めざましき」先般、私はタイリクオオカミ亜種ツンドラオオカミ Canis lupus albus の子育て(♀のみが行う)を見た。母と最初の娘と新生児の子育ての協力が胸を撲った。娘は新生児を育てるために遂に餓えて巣の中で亡くなる。母狼はしかし彼女を食べることはなかった。真葛よ、何時の時代も「めざましきは人なるぞ」――
「步《ふ》」荷い人夫。
「ふるふ、ふるふ」ぶるぶると震えては。
「わぶる」嘆く。]
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