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2021/02/28

怪談老の杖卷之二 半婢の亡靈

 

怪談老の杖卷之二

 

   ○半婢《はしたもの》の亡靈

 官醫佐田玉川といふ人、駿河臺に居られける。其草履取(ざうりとり)に關助(くわんすけ)といふ中間(ちゆうげん)ありしが、身持惡しき好色者にて、茶の間・はしたなど、たぶらかしける。

 柳(りう)といひける半婢、生れつきも奇麗にて、心だても、よきものなり。しかも、親元も相應なる百姓のむすめなりしが、田舍は自陀落なるものなれば、盛りの娘をやどに置(おき)ては、萬一、不行義なる事ありては、あしく、

「江戶の屋敷方にては、『女部屋に錠(ぢやうぐち)口』とて、金箱(かねばこ)同前に油斷なく、男たるものは出入する事もならぬよし。左こそ有(あり)たきものなれ。」

と、田舍の律義なる心より、少(すこし)の緣をたよりに、何の辨(わきま)へもなく、ある御旗元衆の家へ奉公させけるが、まづ、山出(やまだ)しなれば、縫針(ぬひばり)はならず、食(めし)たきはしたに住みけるが、ふと、此中間が口に乘せられて、念頃(ねんごろ)にものし、

「末は夫婦(めをと)になるべし。」

と、衣類なども、親里より、數多く持來(もちきた)りしを、一つ、二つづゝ、だましとられけるが、法度(はつと)つよき家にては、思ふ樣(やう)に出會(であ)ふ事もならねば、夫(それ)のみなげき暮しけるが、かの中間、その屋敷を暇出(いとまだ)されて、此家へありつきけるを、此女、殊の外にしたひて、あくる年の出(で)がはりより、同じ家に勤め、小身なる家なれば、人目も少く、心のまゝに逢ふ事を樂しみに、女のはかなさは、うさ・つらさもなぐさみて勤(はたらき)けるが、不作法のかず、かさなりて、懷姙(くわいにん)しけるを、

「柳(やなぎ)はら邊(あたり)の『おろし藥』にて埓明(らちあけ)ん。」

と、關助、調へ來りて、むりにすゝめ、あたへけるが、「運のきはめ」とて、事をあやまちて、くるしみ、殊の外の大病となりける。

 主人も、

「心だて、よきものなれば。」

と憐みて、養生も致吳(いたしくれ)られけれど、

「十(とを)が九つ、助かるべき樣子ならねば。」

迚、やどへ下げられ、十日計(ばかり)も、晝夜、くるしみて、相はてぬ、屋敷のうちのものは、その始末を知りけれど、田舍の親は夢にもしらず、たゞ一通りの病氣とおもひ、むすめも深くかくして、命をはりけんさま、いたましき事なり。

 夫(それ)より、關助が部屋へ、每夜、每夜、かの女の亡靈、來りて、

「關助殿、々々々。」

と、枕元によりて、おどろかし、

「こなたゆゑに、非業の死をとげたり。そのときの苦しみを知らせば、いか計(ばかり)の苦痛とか思ふ。」

など、かきくどきける事、每夜なり。

 のちには、關助、うるさくなりて、草鞋(わらぢ)をつくるよこ槌(づち)などにて打たゝきなどしければ、傍輩の中間ども、あやしみて、いろいろ尋ける程に、有のまゝに語りければ、後には、ほうばひも、きみをわるがり、一ツ部屋にもおかず、關助ひとりさし置ければ、夜一夜(よひとよ)、よこ槌にて、部屋の内を、たゝき廻りけるが、すこやかものにて、奉公をも引かず、勤めけれど、次第に疲(つかれ)おとろへける。

 用人(ようにん)何某といふ人、不便(ふびん)におもひて、關助を招き、

「その方、每夜、死靈のために苦(くるし)むと聞けり。是、決して死靈にあらず。その方が心の内に、『彼が事を、むごき目をみせたり。もし、死靈にも成(なり)やせん』と、疑ひ思ふ念慮、凝(こ)りて、形の目に見ゆるなり。」

とて、その頃、駒込に禪僧の悟りたる人、幸ひ、主人、歸依にて、折ふし、やしきへ來られけるをたのみて、さまざま、云ひきかせ、碁石など、つゝみて、かの亡靈に、

「是は、何ぞ。」

など、尋させければ、

「碁石なり。」

といふを、また、此度(このたび)は、かずをあてさせ、終りには、白石・黑石、かずをかへして、關助にあたへ、尋させけるに、亡靈、それは返答せざりける故、

「是、汝がしりたる事は、死靈も知り、汝が知らぬことは死靈も知らず。是を以てしるべし。元來、その方が心想中(しんさうちゆう)に靈は、あり。外よりは、來らず。」

など、いろいろ、さとされけれど、もとより、文盲なる中間風情(ふぜい)、さる理(ことわ)り、合點(がてん)すべき樣(やう)なく、每夜、來る事、始(はじめ)のごとくなり。

 用人、ある時、關助をよびて、

「亡靈、今に來るよし、いか樣(やう)なる樣子ぞ。」

と問はれければ、

「とかく、外よりはいりて、枕元に立(たつ)より、つめたき顏にて、私のかほを、こすり、手など、とらへ、いろいろに、恨みを申す。」

と、いひければ、

「扨は。狐狸などの業(しわざ)なるべし、今宵、もし、來らば、つれ來れ。」

と、いはれければ、

「ずいぶん、つれて參るべし。」

と約束しけり、

 扨、其夜、九ツ時[やぶちゃん注:午前零時。]に來りて、部屋の戶をたゝきける。

「誰(た)ぞ。」

と問へば、

「關助にて候。幽靈を、つれだち、參りたり。御出合下されよ。」

といふ。

 用人の妻女などは、こはがりて、

「かならず、そとへは御無用なり。」

と、とゞめけれど、用人のいはく、

「よもや、つれ來るべしとは、思ひよらず。『來(きた)れ』と、いひしが、今、出(いで)あはぬは、いかにしても。かれがおもはん所も、よろしからず。」

と、帶、しめなをし[やぶちゃん注:ママ。]、腰の物をさして、

「かならず。はなすな。しつかりと、とらへておるべし。」

と、内より、聲、かけければ、

「御氣づかひ被ㇾ成(なされ)まじ。ずいぶん、しつかりと、とらへ居(をり)候。」

と、いふゆゑ、戶をあけて、出(いで)、見(み)けるに、たゞ、關助、壱人(ひとり)、門に立てり。

「どれ。幽靈は、いづ方にいるぞ。」

と、いひければ、

「今まで、しつかりと、とらへおり候が、いづ方へまいりしや、おり申さず。」[やぶちゃん注:仮名遣い誤り三ヶ所は総てママ。]

と、いふにぞ、大(おほい)に呵(しか)りて、歸しぬ。

 そののち、いろいろ、したりけれど、來(きた)る事、やまず。

 次第に、やせ衰へければ、暇を出されたり。

 其のちは、餘りに苦しがりて、

「江戶に居ては、いつ迄も來(きた)るべし。」

とて、大坂の御番衆に、つきて、のぼりけるが、幽靈の事なれば、いづ方へ行たりとて、いかで、あとを慕はざるべき、東海道のとまり、とまり、大坂の御城内までも、つきあるきて、終(つひ)に大坂にて、是を氣やみに、終りけり、と聞けり。

 かの用人、直(ぢき)のもの語り也。

[やぶちゃん注:「官醫佐田玉川」実在する。香取俊光氏の論文「江戸幕府の医療制度に関する史料(八) ―鍼科医員佐田・増田・山崎家『官医家譜』など―」PDF・『日本医史学雑誌』一九九六年十二月発行)の冒頭に、江戸幕府の鍼医の家系として「佐田分家」を挙げられ、その系図の初代『(某)』に『(新助 玉緑 佐田玉川貞重が長男)』(下線太字は私が附した)として、『(針術をもって尾張大納言光友卿に仕ふ)』とし(出自も伊勢国司教具の子定具の四代の孫と示す)、初代を佐田定之(さだゆき)とし、この『定之が終わり光友の侍医から幕府の鍼医という経緯で登用され、子孫は明治まで鍼科医員を勤めた』とある。定之が徳川家綱に初見は延宝七(一六七九)年で、幕府医官となったのは元禄五(一六九二)年である。本書は宝暦四(一七五四)年作であるから、この定之(元禄十年没)の少し古い話か、或いはそれを嗣いだ養子佐田道故(みちふる 宝暦六年没)と考えられる。リアリズム怪談として初めから堅固に作ってある。すこぶる頼もしい。

「駿河臺」現在の東京都千代田区神田駿河台(グーグル・マップ・データ)。江戸城の東北で「お茶の水」駅周辺。

「茶の間」「茶の間女」。武家で、主に家族が食事や団欒などをする茶の間の雑用を担当した下女。

「はした」「端女」。広く召使いの女。

「自陀落」「自堕落」。

「かの中間、その屋敷を暇出(いとまだ)されて、此家へありつきけるを、此女、殊の外にしたひて、あくる年の出(で)がはりより、同じ家に勤め、小身なる家なれば、人目も少く、心のまゝに逢ふ事を樂しみに、女のはかなさは、うさ・つらさもなぐさみて勤(はたらき)ける」折角のリアリズムだったが、医官の家では屋敷内の風紀が厳しく、話が展開し難いと考えたものか、勤め先を小身の武家の家に二人とも転出させている。やや唐突であり、かえって不自然な感じは拭えず、現実感が殺がれるのは瑕疵と言わざるを得ない。

「柳はら」柳原土手。現在の東京都千代田区北東部の神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域。江戸時代は古着屋が並んでいた。この中央東西(グーグル・マップ・データ)。現在、右岸に「柳原通り」の名が残る。

「おろし藥」怪しげな違法な堕胎薬。

「やどへ下げられ」この場合は、勤め替えに関わった斡旋業者が「蛸部屋」として借りている長屋であろう。最初に佐田玉川の家へ彼女を斡旋した人物のところも考えたが、それでは、親元に知らせが行かないのがおかしくなる。

「命をはりけんさま」「命を張りけん樣」。これ、哀れさ、いや、増す言辞である。

「用人」その小身の武家の用人。用人とは、家臣中の有能者を選び、これに任じて、財政・庶務万端を取り扱わせた職。

「駒込」嘗ての豊島郡駒込村は文京区本駒込・千駄木などを含んだ広域であった。「今昔マップ」のこの辺り

「白石・黑石、かずをかへして、關助にあたへ、尋させけるに、亡靈、それは返答せざりける故」ここではその禅僧があらかじめ白黒の碁石の数を変えたものを紙に包み、緘封して、関助には開き見ることを禁じさせたのである。

「是、汝がしりたる事は、死靈も知り、汝が知らぬことは死靈も知らず。是を以てしるべし。元來、その方が心想中(しんさうちゆう)に靈はあり。外よりは、來らず」お見事! 座布団二枚!

「ずいぶん」「隨分」。出来る限りのことをして。

「いかにしても。」「如何にしても出でざるべからず」の略として、句点を打った。

「大坂の御番衆」各藩や旗本に割り当てられた大坂城の交替警備勤番衆のこと。

「幽靈の事なれば、いづ方へ行たりとて、いかで、あとを慕はざるべき、東海道のとまり、とまり、大坂の御城内までも、つきあるきて、終(つひ)に大坂にて、是を氣やみに、終りけり」これ、惜しい! 道中逐一、最後の大坂城内までを一大ロケーションを敢行して、「怪談東海道中膝栗毛」式にすれば、もっと面白くなったろうに!

「かの用人、直(ぢき)のもの語り也」又聞きの噂話ではないというダメ押しのリアリズムである。しかし、やはり、奉公替えをしていて、無名化してしまっているのが残念である。]

2021/02/27

明恵上人夢記 89

89

一、同廿日の夜、夢に云はく、十藏房、一つの香爐【茶埦(ちやわん)也。】[やぶちゃん注:これは底本では割注ではなく、本文で、ポイント落ち。]を持てり。心に思はく、『崎山三郞【貞重。】、唐(から)より之を渡して十藏房に奉る』。之を見るに、其の中に隔(へだ)て有りて、種々の唐物(からもの)有り。廿餘種許り、之(これ)在り。兩(ふたつ)の龜、交合(かふがふ)せる形等(など)あり。心に、『此(こ)は、世間之祝物(いはひもの)也』と思ふ。其の中に、五寸許りの唐女(からむすめ)の形、有り。同じく是(これ)、茶埦也。人有りて云はく、「此の女の形、大きに、唐より渡れる事を歎く也。」。卽ち、予、問ひて曰はく、「此の朝(てう)に來(きた)れる事を歎くか、如何(いかん)。」。答へて、うなづく。又、問ふ、「糸惜(いとほし)くすべし。歎くべからず。」。卽ち、頭を振る。其の後(のち)、暫時ありて、取り出(いだ)して見れば、淚を流して、泣く。其の淚、眼に湛(たた)ふ。又、肩を濕(うる)ふ。此(これ)、日本に來れる事を歎く也。卽ち、語(ことば)を出(いだ)して云はく、「曲問(ごくもん)之(の)人にてやおはしますらむに、其の事、無益(むやく)に候。」と云ふ。予、答へて云はく、「何(いか)に。僧と申す許(ばか)りにては然(しか)るべき、思ひ寄らざる事也。此の國には、隨分に、大聖人(だいしやうにん)之(の)思(おぼ)え有りて、諸人、我を崇(あが)むる也。然れば、糸惜くせむ。」と云ふ。女の形、之を聞き、甚だ快心(くわいしん)之(の)氣色ありて、うなづきて、「然れば、御糸惜み有るべし。」と云ふ。予、之を領掌(りやうじやう)す。忽ちに變じて、生身(しやうしん)の女人(によにん)と成る。卽ち、心に思はく、『明日、他所(たしよ)に往きて、佛事、有るべし。結緣(けちえん)の爲(ため)に彼(か)の所に往かむと欲す。彼(か)の所に相具(あひぐ)すべし。』。女人、悅びを爲(な)して、「相朋(あひともな)はむ」と欲す。予、語りて云はく、「彼(かしこ)に公(こう)之(の)有緣之人(うえんのひと)、有り。」【心に、崎山の尼公、彼の所に在り。聽聞の爲に至れる也。三郞之(の)母の故(こと)なり。此の女(むすめ)の形は、三郞、渡れる故に此の說を作(な)す。】。卽ち、具(とも)に此の所に至る。十藏房、有りて云はく、「此の女、蛇と通ぜる也。」。予、此の語(こと)を聞きて、『蛇と婚(ま)ぎ合ふに非ず。只、此の女人、又、蛇身(じやしん)、有る也』。此の思ひを作(な)す間(あひだ)、十藏房、相(あひ)次ぎて云はく、「此の女人は蛇を兼(けん)したる也。」と云々。覺め了んぬ。

  案じて曰はく、此(これ)、善妙也。
  云はく、善妙は、龍人にて、又、
  蛇身、有り。又、茶埦なるは、
  石身(せきしん)也。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。河合隼雄氏が「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)で一章を立てて分析し、特に「善妙の夢」と名づけておられる、明恵の意識+無意識内の女性像の一つ頂点を成すものである。注を附す前に、河合氏の分析を引用する。かなり長くなるが、梗概を記したのでは、河合氏の意とするところが枉がってしまう可能性があるので、途中を中略させながら、引く。「第六章 明恵と女性」の「3 善妙」パートである。

   《引用開始》

明恵の夢に現われた善妙は、明恵が編纂した『華厳宗祖師絵伝』(華厳縁起)に登場する女性である。『華厳宗祖師絵伝』は幸いにも、一部の欠損と錯簡はあるが、今日まで高山寺に伝えられている。これによって、われわれは善妙がどのような女性であり、明恵が彼女にどのようなイメージを託していたかをよく伺い知ることができる。この絵巻は、『宋高僧伝』に語られる新羅の華厳宗の祖師、元暁と義湘に関する物語を絵巻としたもので、詞書の原文は明恵によって作られたと推定されている。明恵の善妙に対する思い入れの深かったことは、貞応二年(一二二三)、彼が承久の乱による戦争未亡人たちの救済のために建てた尼寺を、善妙寺と名づけている事実によっても知ることができる。[やぶちゃん注:以下、「善妙の夢」と名づけて、本文が引かれるが、略す。既に述べたが、河合氏はここまでの一連の夢を総て承久二(一二二〇)年と設定している。]

 この夢は、明恵にとっても重要な夢であることが意識されていたのであろう、最後のところに「案じて曰はく、此善妙也。……」と彼自身の解釈を書き記している。それに原文を見ると、この陶器の人形が泣くところ、「其の後、暫時ありて取り出して見れば、……此、日本に来れる事を歎く也」の文は、上欄の余白に書き足してあり、彼がいかにこの夢を大切に考え、少しの書き落としもないように努めたかが了解されるのである。[やぶちゃん注:河合氏は原本(高山寺蔵本十六篇。岩波文庫はこれをのみ底本としている)を確認されている点に注意されたい。]

 この夢では、明恵が十蔵房から唐より渡来の香炉を受けとる。そのなかには仕切りがあっていろいろな唐物がはいっており、亀が交合している形のもある。五寸ばかりの女性の形をした焼き物があり、唐から日本に来たことを嘆いているということなので、明恵が問いただすと、人形がうなずく。そこで明恵は「糸惜(いとほし)くすべし。歎くべからず」と言うが、人形は頭を振って拒否。そんなことは無用のことと言う(ここの曲問之人という表現の意昧は不明)。これに対して明恵は自分は単に僧侶というだけではなく、この国では大聖人として諸人にあがめられているのだと言う。人形はこれを聞いて嬉しく思ったようで、「それならおいとしみ下さい」と答え、明恵が了承すると、たちまち生身の女になった。この突然の変容が、この夢における重要な点と思われる。明恵はそこで明日他所で仏事があるから、そこへこの女性を連れて行こうと考える。実際に行ってみると十蔵房が居て、この女性は蛇と通じたと言う。明恵は、そうではなくてこの女性は蛇身を持ち合わせているのだと思う。そう思っている間に、十蔵房は、この女は蛇を兼ねているのだと言った。

 この夢を見て、明恵のような聖人でも性的な夢を見るのだとか、やっぱり性欲は抑え切れぬものだ、などと思う人もあろう。しかし、性欲はあって当然で、それに対してどのように感じ、どのように生きたかが問題なのである。既に述べたように、性の意味は極めて多様で深い。先に紹介した「性夢」は相当に直接的なものであったが[やぶちゃん注:ここと同じ「第六章 明恵と女性」の「2 女性の夢」の「性夢」パートである。実は河合氏の「明惠 夢に生きる」が「夢記」の底本としているのは私の底本としている岩波文庫を主とするのであるが、一部で京都国立博物館蔵の「夢記」が用いられてあり、これがそれで、岩波文庫には残念乍ら、含まれていない。底本を終わった後に同書からそうした箇所を総て引こうとは考えている。簡略に述べると、建暦元(一二一一)年十二月二十四日の夢で――ある大きな堂で異様に太った貴女と対面し、明恵は心の内でこの女性は香象大師(「12」の私の注を参照)の持つ諸特徴と似ていると思う。そして、ダイレクトに『此人と合宿、交接す。人、皆、菩提の因と成るべき儀と云々。卽ち互ひに相抱き馴れ親しむ。哀憐深し』(本文の漢字は恣意的に正字化した)とある夢を指す。]、それに比してこの夢は、はるかに物語性をもち感情がこめられている。意識と無意識との相譲らぬ対決のなかから、物語は生み出されてくるのである。

 この夢のなかで、明恵が自分のことを「大聖人として諸人にあがめられている」と言うところがある。これだけを見ると、明恵という人が大変に思い上がっているように思えるが、この点については、『伝記』のなかの次のようなエピソードを紹介しておきたい。ある時、建礼門院[やぶちゃん注:建礼門院平徳子(久寿二(一一五五)年~建保元(一二一四)年)は元暦二(一一八五)年三月二十四日の壇ノ浦での平家滅亡から凡そ一ヶ月後の五月一日に出家して直如覚と名乗っているが、本話は事実とすれば、ちょっと私はおかしい気がしている。]が明恵に戒を受けることになった。そのとき、院は寝殿の中央の間の御簾(みす)の内に居て、手だけを御簾から差し出して合掌し、明恵を下段に坐らせて戒を受けようとした。これに討して明恵は、自分は地位の低い者だが、仏門にはいったからには、国王・人臣にも臣下としての礼をとることはできない。授戒・説法のためには僧は常に上座につくべきであると経典にも明記されている。自分は釈尊の教示に背いて、院の気に入るようにはできないので、自分以外の誰か他の僧に受戒されるとよろしいでしょうと言い、そのまま帰ろうとした。建礼門院は非を悟って詑び、明恵を上座に坐らせて戒を受けた。この場合でも、明恵はまったく個人的なことではなく、仏教者としての誇りを明確に示したと言うべきである[やぶちゃん注:私の「栂尾明恵上人伝記 57 明恵、建礼門院徳子に受戒す」(本文は正字)を参照されたい。]。先述の夢に対して、奥田勲も「夢記の中の自負は、それだけみるとそのあまりの誇りの高さは異様だが、このような明恵の思考体系に位置づけを求めれば決して不思議ではない」と述べている。

 この点については、この人形が唐から来たものだということも関連しているように思われる。仏教は中国を経由して日本に渡ってきた。その間に、既に述べたように中国化、日本化の波をかぶってきたのであるが、明恵はひたすら釈尊の教えとしての仏教に心を惹かれ、当時の日本の仏僧たちとは異なる生き方をしていた。明恵は言うならば、仏教の魂が日本に移ってくる間に、生気を失って石化してしまったことを嘆いていたのではなかろうか。この人形が「日本に来た」ことを嘆いているのは、それと関連しているように思われる。明恵が日本における聖人としてあがめられている者だ、などと言うとき、彼は日本における仏教の在り方について責任をもたねばならぬものとして、日本に渡来した「石化した魂」の問題に直面しなくてはならぬという自覚を示しているようにも思われる。女性像を魂の像としても考えるべきことは、ユングの主張しているところである。

 生身のものが石化するとか、石化していたものが生きた姿に還るとかいうテーマは、古来から多くの神話や昔話に生じてきたものである。石化しているものを活性化することは、困難ではあるが大切なことである。われわれはこのテーマを、既に「石眼の夢」において見てきた[やぶちゃん注:これも陽明文庫本「夢記」に載るもので岩波文庫には所収しない。建保二(一二一四)・三年辺りに見たと推定されるも夢。「一つの石を得た。『長さ一寸許り、廣さ七八分、厚さ二三分許り』で、その石の中に『當(まさ)に眼あり。長さ五分許り、廣さ二三分許りなり。其の石、白色なり。而して純白ならず、少(やや)鈍色(にびいろ)なり。此の眼あるに依りて、甚だ大靈驗あり。手を放ちて之を置くに、動躍すること、魚の陸地に在るが如し』とあって、随喜している上師に対し、明恵がこの魚の名を「石眼」と伝える。さてその時、屋根の下に腸(はらわた)などを失った魚がぶら下げられており、片眼が飛び出しているような感じである。ところが、その眼が少し動く(以下、少し錯文が疑われる)。その傍らに獣の革のような物もある。その奇体な魚を明恵は上師に見せたく思う。さて、今度は、そこに一人の女房が来て、ぶらさがった魚を取って行ってしまう。一方、革は小鹿のような生きたものであって、四足を持っているが、その背の部分には多数の穴が穿(宇賀)たれている。女房が言う。『我、ただならぬに、此(かく)の如き物を手をかくる、何ぞあるべきやらん』と。明恵は心の内で『姬子なり』(姫の子)と思う。この獣を可哀そうに思い、労(いた)わる。すると、この獣は軒先から地に降ろされるや、『只、本(もと)の如く釣り懸けられよ』と人語を操る。明恵は心の中で『久しく釣り習はされて、此の如く云ふなり』と思う。その獣は恐ろしく苦痛な様子であり、片手は切れていた。仕方なく、言うに任せてこれをもと通りに釣った」という夢。明恵の解釈が附されてあり、この「上師」は釈迦、「女房」は文殊菩薩、「姫」は覚母殿(これは文殊菩薩の異名とも、「現図胎蔵界曼荼羅」の持明院の中尊で知恵の象徴にして総ての仏陀の母ともされる)とし、『石眼の眼は此の生類の眼に勝(まさ)るべきなり』(本文の漢字は恣意的に正字化した)と記している、難解な夢である。私はシュールレアリスム映画の傑作「アンダルシアの犬」(Un Chien Andalou:ルイス・ブニュエルLuis Buñuel)とサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)による一九二八年に製作され、一九二九年に公開されたフランス映画)を見ているような気になった。]。それがここに継承されていることに気づかされる。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

以下、本夢を解釈するには「華厳宗祖師絵伝」の善妙を知らねばならないとされ、「華厳縁起」のパートを立てておられる。そこから引く。

   《引用開始》

その話の要約を次に示すが、もともとこれは「足暁絵」二巻と「義湘絵」四巻に分けられていたものである。善妙は「義湘絵」に現われるのであるが、この物語はどららも明恵を理解するために大切なので、両者を紹介することにする。

 まず「義湘絵」から述べる。義湘と元暁は二人一緒に唐に行き、仏教を学ぼうとする。たまたま旅の途中で雨に会い、そこにあった洞穴で雨宿りをする。ところが翌日になってみると、ただの穴だと思っていたところは墓場で、骸骨などが散らばっているので、二人はぞっとする。しかし、その日も雨で出発できずにそこに宿ることにした。すると夢に恐ろしい鬼が出てきて、二人を襲おうとする。これは二人が同時に恐ろしい夢を見たことになるわけだが、目覚めた途端、元暁の方は悟るところがあった。前日、何も知らないで安心して寝ていた場所も、墓と知ったときには鬼に襲われた。つまり、一切のことは皆自分の心から生じるので、心のほかに師を尋ねてみても意味がないと悟り、元暁は志をひるがえして、新羅に留まることを決意する。義湘はこれまでの志を変えなかったので、旅が始まってすぐ二人は別れ、義湘一人が唐に渡ることになる。元暁の翻意を知ったとき、義湘はそれに同意をするのでもなく、また反対をするのでもなく、二人は別々にあっさりと異なる道を選ぶところが、なかなか印象的である。

 義湘は船で唐に着き、里へ出て物乞いをはしめる。そのうち善妙という美しい娘と出会うが、容姿端麗な義湘を見て、善妙は一目ぼれをしてしまう。そこで善妙は巧みな声で、「法師、高く欲境を出て、広く法界を利す。清くその功徳を渇仰し奉るに、尚、色欲の執着抑へ難し。法師の貌を見奉るに、我が心、忽ちに動く。願はくは、慈悲を垂れて、我が妄情を遂げしめ給へ」と言う。義湘はこれに対しても「心堅きこと石の如し」で、「我は仏戒を守りて、身命を次にせり。浄法を授けて、衆生を利す。色欲不浄の境界、久しくこれを捨てたり。汝、我が功徳を信して、長く我を恨むること勿れ」と答える。

 これを聞いた善妙はたちまちに道心を発して、義湘の功徳を仰ぎ、義湘が衆生のためにつくすのを「影の如くに添ひ奉りて」助けようと述べる。その後、義湘は長安に行き、至相大師のもとで仏法の奥儀を極め、帰国することになる。義湘の帰国を知った善妙は贈り物を整え港に駈けつけるが、船は出た後であった。彼女は歎き悲しむが、贈り物のはいった箱を、義湘のところに届けと祈って海中に投げ入れる。すると、その箱は奇跡的にも義湘の船に届いたのである。善妙はそれに勇気づけられて、義湘を守ろうとする大願を起こし、波のなかに飛びこんでゆく。このとき善妙は龍に変身し、義湘の乗った船を背中に乗せ、無事に新羅まで到達する。

 この次に続く義湘絵は戦火によって夫われているが、詞書は錯簡によって現存の「元暁絵」の方に入っている。それによって話を続けると、義湘は新羅に帰り、自分の教えを広める場所を求め、一つの山寺を適当なところと考える。しかし、そこには「小乗雑学」の僧が五百人も居るので困ってしまう。そのとき、善妙は「方一里の大盤石」に変身して、寺の上で上がった下がったりしたので、僧たちは恐がって逃げてしまう。そこで、義湘はその寺で華厳宗を興隆することになり、浮石大師と呼ばれるようになった。これが「義湘絵」の物語である。

 次に「元暁絵」の物語を紹介するが、こちらは義湘の物語ほどには話に起伏がないように思われる。最初の部分は「義湘絵」と同じであり、元暁は義湘と別れて新羅に留まることになる。元暁はそこで内外のすべての経典に通じることになるが、一方では「或時は巷間に留まりて歌を歌ひ、琴を弾きて、僧の律儀を忘れたるが如し」という生き方をする。義湘が戒を守る厳しい態度をとり続けたのに対して、元暁は極めて自由奔放な生活態度をとったのである。絵巻には明確に言われていないが、この話の元となった『宋高憎伝』によると、「居士に同じく酒肆・倡家[やぶちゃん注:「しょうか」。]に入り」と述べられているので、酒屋や遊女屋に出入りしていたことがわかるのである。元暁はこのような行為の反面、「経論の疏(そ)を作りて、大会[やぶちゃん注:「だいえ」。]の中にして講讃するに、聴衆皆涙を流す」有様であり、「或時は山水の辺に坐禅す。禽鳥虎狼、自ら屈伏す」というほどの徳の高さがあった。

 ある日、国王が「百坐の仁王会[やぶちゃん注:「にんのうえ」。]」に元暁を招こうとする。しかし、「愚昧の人」が居て、「元暁法師、その行儀狂人の如し」というわけで、何もそんな僧を招く必要がないと申し入れ、国王は元暁を招くのをあきらめる。

 その頃、国王の最愛の后が重病となり、祈禱や医術をつくすが効果がない。そこで救いを求めて勅使を唐に派遣する。ところが勅使の一行は船で海を渡ろうとするとき、海上で不思議な老人に会い、老人の案内で海底の龍宮に導かれる。そこで龍王から一巻の経を授けられ、新羅に帰ってまず大安聖者という人にその経の整理をさせ、元暁に注釈を頼めば、后の病いは直ちに治るであろうと言われる。勅使は帰国して以上のことを国王につげ、国王は早速に大安聖者を召して、経の整理にあたらせる。続いて、元暁に対して、経のために注釈をつくり講義をすることが求められる。元暁は早速その仕事にかかるが、それを嫉む人に注釈を盗まれ、三日の日延べをして貰って完成する。

 元暁は法座に臨んで経を講ずるときに、「一個の微僧無徳に依りて、先の百坐の会に洩れにき。今日に当たりて、独り講匠の床に上る。甚だ恐れ、甚だ戦く」と言ったので、それを聞いた列席の僧たちは皆顔を伏せて、大いに恥じいったという。元暁は無事に講義を終え、后の病いも快癒する。元暁のその経に対する注釈は、金剛三味論と名づけられ、世間に広く流布するところとなった。以上が「元暁絵」の話の大略である。

 これらの物語における義湘と元暁の性格は、極めて対照的である。そして、これまで論じてきたことからも明らかなように、この二人は、明恵の内面に存在する対立的要素を際立てて表現しているように思われる。先学が指摘するように、絵巻に描かれた元暁の顔が、しばしば樹上坐禅像の明恵の顔に似ているのが印象的である。「島への手紙」[やぶちゃん注:私の『尾明恵上人伝記 20 「おしま殿」への恋文』を参照されたい。何も言わずに読まれると面白い。だから何も言わない。]にも自ら記していたように、「物狂おしい」ところがあるのをよく自覚していた明恵は、「その行儀狂人の如し」と言われた元暁の行ないに、強い親近感を抱いたことと思われる。

 「義湘絵」の方には理論的とも言えるような長い説明文がついており、そのなかで、善妙が龍に化して義湘を追ったのは「執着の咎」に値しないか、という問いに答えるところがある。確かに男女の愛欲による執着から、女が蛇や龍に化身して男を追いかける話はよくあるところだ。それと善妙の場合とはどう違うのか、というのである。義湘と善妙の物語を読んでただ感心してしまうのではなく、このような疑問を発し、それに答える形で思索を深めてゆくのが明恵の特徴の一つである。

 ここで明恵は、善妙の最初の義湘に対する気持ちは確かに煩悩のなす業には違いないが、善妙は単に龍になったのみでなく、大盤石と化して仏法を護った。これを見ると、単なる執着などというものではなく、高められた菩提心となっていると主張している。そして、愛には親愛と法愛があり、前者は人間の煩悩にもかかわるものであるが、法愛は清らかなものである、と注目すべき意見を述べている。ところが、『華厳縁起』の詞書には、校注者の小松茂美によれば、二か所の書き損じがあるとされる。それをそのまま次に示す。書き損じの所は、小松による推定を( )内に記す。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]

「愛に親愛・法愛有り。法愛は一向に潔(きよ)し、親愛は染浄(「汚」か)に近せり。信位の凡夫は、親愛は優れ、法愛は劣なり。三賢十地は、法愛は優れ、親愛は劣なり。或は、十地にはただ法愛のみ有り。若し愛心の事識地を所依(しよい)として、染汗(「汚」か)の行相に起こるをば、乖道の愛と名づく」

 ここに述べられた「三賢十地」の三賢は、華厳における菩薩の五十二位の階位のうち、十住、十行、十回向の階位の総称であり、十地は最高の十階位を指している。つまり、凡夫は親愛が多く法愛が少ないが、菩薩となって階位が高くなるにつれ、法愛のみになるというのである。この文において、極めて興味深いのは、親愛は染汚と書くべきところを誤って、「浄」とまったく逆の字を書いてしまっていることである(染汗の「汗」は、原文おそらく「汗」〈「汚」と同字〉であって、こちらは問題はないのではなかろうか)。原文を書いた明恵が既に書き損じていたのか、その文を書写した人物が間違ったのか、今では確かめようがないが、ともかく興味深いことである。[やぶちゃん注:私はこの「書き間違い」にフロイトの当該理論も当て嵌めたくなる。ユング派は旧主フロイトをテツテ的に無視する傾向が強い。どうも気に入らないね。]

 愛を親愛と法愛に分けることは、頭では納得できるとしても、そんなことが本当に可能であろうか。法愛のみの世界など存在するのであろうか。親愛は、果たして単純に「染汚」と決めつけられるのであろうか。ここには、簡単には答え難い問題が多く内包されているのである。事実、明恵もこの段に続いて、「彼の十住の菩薩、如来の微妙の色身を愛して、菩提心を発す。これ即ち、親愛の菩提心なり。況や、軽毛退位[やぶちゃん注:風に吹かれて飛ぶ軽い毛のように信心が薄いことと、凡そ正法の菩薩の位階に進むことは出来ない存在であることの意であろう。]の凡夫有徳の人に於て、愛心無きは、即ち法器に非ざる人なり」と明言している。親愛が生してこそ、そこから深い信仰が生まれてくるのである。

 愛の問題には、永遠の謎を含んでいると言ってもいいほどのものがある。明恵が親愛と法愛という言葉でこれを割り切り、親愛に「汚」の字を当てようとしたとき、彼の無意識は、はっきりとそれに抵抗を示した、と見ることができるようである。

   《引用終了》

以下で続く「女性像の結実」では、「華厳縁起」の極めて対照的な元暁と義湘の対応関係を分析されておられるが、それは当該本を読んで戴こう(私は全部引用したいが、著作権に触れそうになるので、敢えて部分引用に留める。そこで河合氏は、『義湘の物語を見ると、義湘と善妙の関係こそ』、『アニマの軸において生じていると思われ』、『善妙の義湘に対する情念は強い拒否に遭うが、それによって彼女の愛は浄化され、宗教的なものへと高められる。海の底を泳ぐような龍から空に浮かぶ石への変身は、その高さへの昇華を示しており、物語はその宗教的な価値に重点をおいて語られる』と述べておられる。

   《引用開始》

 しかし、龍が最後に石化したことは、何を意昧しているだろうか。石化はその永続性を示すものである一方、そこに生じた情念が生命力を失うことを意味する。義湘と善妙が成した偉人な仕事は、アニマ軸上における情念の石化という犠牲の上に立ってなされたと言えないであろうか。石化された善妙は、いつの日か再活性化され救済されることを待って、そこに立ちつくすことになったと思われる。『華厳縁起』は兵火のなかをくぐって奇跡的に現在まで残ったのであるが、善妙の龍が石化する部分のみは、そのとき失われてしまったのである。筆者にはこれは単なる偶然とは思われない。石のなかに閉じこめられていた情念の火が、ある時に突如として燃えあがり、自らを焼きつくしてしまったのだとさえ思われるのである。

 このように考えてくると、明恵の「善妙の夢」が成就した仕事の意義が、はっきりと認められてくる。夢のなかで、明恵は石化していた善妙を活性化することに成功したのである。このような課題の遂行に結びついていたので、明恵も夢のなかで、自分は大聖人として諸人にあがめられているのだ、などと言明する必要を感じたのであろう。よほどの態度でもって臨まないかぎり、陶器に生命力を賦活することは不可能であっただろう。

[やぶちゃん注:以下、元暁・義湘及び明恵の夢に於ける女性像を明恵の内界における女性像として図示して分析が行われるが、図がないと判りにくいので大幅にカットする。]

 石化した善妙に生気を与えた明恵は、言うならば、「九相詩絵」に示されていたようなアニマの死に対して、それを再生せしむる仕事を、日本文化のなかで行なったとも言うことができる。ただ明恵の仕事は、あまりにも他の日本の人々とスケールが異なっていたので、その真の後継者は一人もなかったと言えるだろう。明恵自身も、後継者をつくる意志がなかった。しかし、彼の成し遂げたことは、わが国が西洋の文化と接触し、本当の意味でのそれとの対決がはじまろうとしている現在、意義をもつのではないか、と筆者は考えている。

   《引用終了》

 以下、私の語注に入る。

「十藏房」不詳。「52」に初出し、明恵の夢の登場人物としては、出が多い。また、本夢では明恵にある種の開明を示す立場にあるように私には読めるから、弟子とは思えない。

「崎山三郞【貞重。】」底本注に、『咲山良貞男。のちの記述には崎山の尼公の子とある』とある。「崎山の尼公」は「73」を参照。

「曲問(ごくもん)」河合氏もおっしゃった通り、意味不明である。そのままで訳に用いた。

「糸惜く」「愛おしく」。可愛がって。

「快心」よい気持ち。

「領掌(りやうじやう)す」了承・諒承・領承に同じい。相手の申し出や事情などを納得して承知するの意。

「生身」河合氏は「なまみ」と読んでいるようだが、私は納得出来ない。私は仏・菩薩が、衆生済度のため、父母の体内に宿ってこの世に生まれ出ること。また、その身、仏の化身の意で「しょうしん」(「しょうじん」でもよい)と読む。

「結緣(けちえん)」「仏・菩薩が世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶこと」が原義。他に、「世の人が仏法と縁を結ぶこと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること」の意があり、ここはハイブリッドでよい。

「彼(かしこ)に公(こう)之(の)有緣之人(うえんのひと)、有り。【心に、崎山の尼公、彼の所に在り。聽聞の爲に至れる也。三郞之(の)母の故なり。此の女(むすめ)の形は、三郞、渡れる故に此の說を作(な)す。】」「公」は割注によって、「崎山の尼公」を指すことは明らかである。「有緣」は仏・菩薩などに逢って、教えを聞くところの縁があることを言う。

「善妙」河合氏の引用で尽きているが、底本の注に、『明恵は貞応』(じょうおう)『二年(一二二三)に善妙寺を建て、この女性を祀ったと』「華厳縁起」にあるとある。この寺は高山寺別院として建立したものであるが、現存しない模様で、善妙大明神として高山寺の南にあるのがそれらしい(グーグル・マップ・データ)。

「石身」石化(ここは陶器)して示現・垂迹(すいじゃく)したもの。]

 

□やぶちゃん現代語訳

89

同じく二十日の夜、こんな夢を見た――

 十蔵房が、一つの「香爐」【実際には茶碗である。】を持って来た。

 心の内で思うたことには、

『崎山三郞[明恵注:咲山貞重のこと。]が、中国から、これを手に入れて、十蔵房に進上したものである。』

と、見た。

 これを閲(けみ)したところ、その中には区分けされた隔てがあって、いろいろな唐物(からもの)が入っている。二十あまりの品物がこの中に納めてある。例えば、二匹の亀が交接している形に象(かたど)った物などがある。

 さてもまた、心の内で、

『これは、中国の世俗の祝い物だな。』

と、思うた。

 その中に、五寸ばかりの「唐娘(からむすめ)」を象(かたど)った人形(ひとがた)があった。

 同じく、これも、茶碗、則ち、陶器製であった。

 そこに、別な人がおり、その人が言うには、

「この娘の人形(にんぎょう)は、ひどく、中国から渡ってきてしまったことを、嘆いておる。」

と断じた。

 そこで、私が、その人に問うて言った。

「この日本に来てしまったことを、嘆いているのか? どうだ?」

と。

 その人は答えて、頷(うなず)く。

 そこで、また、私は、その人形に問うた。

「可愛がってやろうぞ。嘆いては、いけないよ。」

と。

 ところが、即座に人形は、頭を振って、それを拒んだ。

 その後(のち)、暫くしてから、その人形を取り出して見たところが、涙を流して、泣いているのだった。

 その涙は、眼に満々と湛(たた)えられている。

 また、そこから、零(こぼ)れ落ち、彼女の肩をさえ、湿らせているのであった。

 これは、疑いもなく、日本に来てしまったことを嘆いているのであった。

 そして、人形は、即座に言葉を発して、言うた。

「曲問(ごくもん)の人にてあられると、お見受け致しますが、その御配慮は、全く益のないことにて、御座います。」

と答えた。

 私は、それに答えて、

「なんと! ただの僧と申すばかりの凡僧にては、さにあらず! そなたには思いよらざることであろう。が、しかし、この国においては、我れ、これ、随分、大聖人(だいしょうにん)の評判の覚えあって、諸人(もろびと)が我れを崇(あが)めておるのじゃ! さればこそ、可愛がってやろうぞ!」

と、言うた。

 娘の人形は、これを聞くと、甚だ、快心の気色(けしき)を浮かべ、

「こつくり」

と、頷いて、

「されば、可愛がって下さいませ。」

と、言うた。

 私は、それを、心から了承した。

すると――

忽ち――

その陶器の人形は――

変じて――

――生身(しょうしん)の女人(にょにん)となった。

 その瞬間、私は心に思うた。

『明日(あす)、寺から他所(よそ)へ行き、仏事を修することになっている。結縁(けちえん)のために、かの所に往くことになっている。さすれば、この女人を、かの所にあい具して、行こう!』

と。

 女人は、即座に、その私の内心の思いを知り得て、悦びの体(てい)を示し、

「あい伴のうて! 参りましょう!」

と、自(おのずか)ら告げた。

 私は、語って言うた。

「そこには私の知れる尼公(にこう)の有縁(うえん)の人がおるのだ。」[明恵注:夢にあっても、私の覚醒していた意識の中で、『崎山の尼公がそこに居られる。聴聞のために至るのである。尼公は三郎の母のことである。この娘の姿は、三郞が中国から手に入れたことにその怨言がある』と、この解釈をしっかりと意識していたことを言い添えておく。]。

 その通りに、ともに、翌日、その所へと、彼女を連れて至った。

 すると、そこに、十蔵房がいて、私に言うことには、

「この女は、蛇と通じておるぞ!」

と。

 しかし、私はこの言葉を聞いて、

『蛇とまぐわったのでは、ない。ただ、この女人は、また、蛇身をも、一つの垂迹(すいじゃく)の姿として、持っているのである。』

と、思うた。

 この思いを心に抱いた、その直後、十蔵房は、忽ち、次いで、言うたのだった。

「うむ! この女人は、確かに! 蛇身をも、兼ねて持っておるの!」

と……

 この瞬間、覚醒した。

[明恵注:この夢を勘案して解釈するならば、これは、かの「善妙」のことである。そうさ! 謂おう! 「善妙は龍人(りゅうじん)にて、また、蛇身を持つ! また、茶碗=陶器であるというのは、これ、言わずもがな、「石身(せきしん)」であるからに他ならない!」と。]

[やぶちゃん注追記:私も島や絵の中の善妙を愛そうと思う。生身(なまみ)の女は、これ、「こりごり」だ。]

明恵上人夢記 88

 

88

一、同五月上旬の比(ころ)、靈鰻菩薩(りやうまんぼさつ)の飛び騰(のぼ)れる形の事を議(はか)る間(あひだ)、日中、假(かり)に眠る【此の時、此の事を心に懸けず。】。忽然に夢に云はく、一つの淸く澄める池、有り。其の中より鰻(うなぎ)の如き魚の跳り擧がる【長さ一尺餘り也。】。其の形、頭・尾、倶に垂(た)る。其の形、★【此(かく)の如く也。】。是、卽ち、靈鰻之應驗(わうげん)也。

 

88

 

[やぶちゃん注:「★」の部分に入る絵を、底本よりトリミングして上に掲げた。何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。「【此の時、此も事を心に懸けず。】」の部分は底本では二行割注ではなく、ポイント落ちで一行で本文に入れ込んである。添え書きという感じでもない。凡例に説明もない。思うに、本文を書いている最中に、明らかに字を小さくして注記してあるもの、ということであろう。

「靈鰻菩薩」石井修道氏の論文「中国の五山十刹制度の基礎的研究㈠」PDF。『駒澤大學佛敎學部論集』第十三号(昭和五七(一九八二)年十月発行)所収)の「九二」ページから載る「〔資料 一〕 大唐禅刹位次」の中に(文中の「鄮」(音「ボウ」)の(へん)は底本では「貿」。前者は異体字なので問題ない。底本では頭の<第五>が本文一字目から書かれ、二行目以降は総て一字下げである)、

   《引用開始》

<第五>阿育王山。鄮山廣利禅寺。明州の慶元府にあり。玉几蜂、玉几亭、妙喜泉<張九成幷び大慧禅師、泉の銘を作す>、無畏堂、鄮峯、舎利道場<又た妙勝之殿と云う>、霊鰻池<又た(霊鰻を)聖井魚と云う>あり。開山は宜密素禅師、第二は初禅師、第三は(常)坦禅師、第四は(澄)逸禅師、第五は大覺(懷)璉禅師、第六は宝鑑(法達)禅師、第七は正覚禅師なり<三十三代は無準和尚なり。入唐記>。

霊鰻菩薩、護鰻菩薩は、育王の土地神にして、仏舎利を護る。云云。育王寺の井に霊鰻有り、即ち大現修理菩薩なり。東晋の時、中印土の宝掌禅師は、東の方、震旦に游び、此に戾止[やぶちゃん注:「れいし」。戻り留まる。]し、世に住すること一千七十二年なり。唐の咸亨中に云りて[やぶちゃん注:ママ。「至りて」の誤字ではないか?]示寂す。云云。蒲室疏序。

   《引用終了》

私は当初、鰻というと、本邦では虚空蔵菩薩と関係が深いと言われているから、その異名かと思ったが、これを見るに、そうではなく、浙江省寧波にある阿育王山(あいくおうざん:浙江省寧波の阿育王禅寺。西晉の武帝の二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)が釈迦入滅の百年(または二百年)後の古代インドで仏教を守護した阿育王(アショーカ王)の舎利塔の古塔を発見して建立した地で、宋代には広利寺と称して禅宗五山の第五となった。私は専ら「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相模守諌言 竝 唐船を造る」の話を想起する。私の現代語訳もあるでよ!)の土地神であった。さらに、「何故、こんなことを明恵が弟子たちと議論するのか?」という理由も判った。サイト「東北大学東北アジア研究センター磯部研究室」の「~高山寺五種目録室町期文書 一巻~」に『明恵の夢日記には鰻が登場してその図解まであるが、これも宋国より輸入した『明州阿育山如来舎利塔伝并護塔霊鰻菩薩伝』という本を読んでいた印象が、彼の夢の世界に再現したものと見られる。そのような環境を理解して始めて、明恵の傍らに木彫の小犬や鹿などの動物キャラクターがあったことが素直に理解できるのではないか』と述べておられるので氷解した。なお、ウィキの「大権修利菩薩」には、この大権修利菩薩(だいげんしゅりぼさつ)が阿育王山の鎮守であったと書かれてある。但し、「霊鰻」の名は全くなく、両者の関係はどうなってるのかさっぱり解らないのだが、海の守護者であるところなんぞは、鰻っぽい感じはする。一応、引いておく。大権修利菩薩は『禅宗、特に曹洞宗寺院で尊重され祀られる尊格である。伽藍神の』一『つとされる。したがって、大権修利は菩薩という尊号にはなっているものの、護法善神の一尊と見る向きもある』。『大権は「だいごん」とも読み、大権菩薩と略称される。なお、修利を修理と書かれる場合もあるが、本来これは誤りとされる。多くの像容は右手を額にあてて遠くを見る姿勢で表現され、身体には唐時代の帝王の服装をまとっている』。『もと』は『唐の阿育王山の鎮守であった。阿育王山は東海に臨み海を渡る人々が、毎度山を望んで航海の安全を祈ったというが、その右手をもって額にかざすのは遥かにその船を望んでこれを保護する意があった』。「西遊記」の『古い形を残す元曲雑劇である、楊景賢の』「西遊記雑劇」では、『伽藍を守護する役割として知られる華光神と韋駄天と共に、この大権修利菩薩が登場する』。『一説に』、一二七七年に『道元が唐より帰国する際、姿を潜(ひそ)めて随って日本に来朝して法を護ると誓った招宝七郎と一体であると伝えられる。この招宝七郎の名は』「水滸伝」にも出るとある。「育王録」に『「僧問。大権菩薩因甚以手加頞。師云。行船全在樞梢人」とあることから、曹洞宗の寺院が招宝七郎と称して山門守護の神とするものをこれを同体、あるいは本地垂迹と見たてて、招宝七郎大権修理菩薩として祀る。しかし、その出所があまり明らかでない』。『この点について、臨済宗の無著道忠』(むじゃくどうちゅう 江戸後期の妙心寺派の学僧)『は、修利を修理とするのは間違いと指摘した上で「伝説では大権修利はインドの阿育王の郎子であり、阿育王の建てた舎利塔を守るものと言われ、その神力によって中国明州の招宝山に来たりて、手を額にかざし四百州を回望する、また阿育王寺でこれを祀り土地神とした。各寺院がこれに倣ってこの尊神を祀ることになった」と述べている。さらに、招宝七郎とは道元和尚が帰国する際に、白蛇に化けて随伴し来たった護法善神で』(ここにはちょっと不審があるので略した)、『大権修利と同体であると言う者も多いが疑わしい、と疑義を呈している』。『また織田得能』(万延元(一八六〇)年~明治四四(一九一一)年:浄土真宗の学僧。東京浅草松清町の宗恩寺に入り、没するまで、生涯をかけて「仏教大辞典」(全一巻。死後の大正六(一九一七)年刊行された)を完成した。『も、無著の説を引き継ぎ、自身が編集した』『辞典で、大権修利と招宝七郎を一体とすることは、たやすく信じるべきではなく、招宝とは寧波府定海縣にある山の名称である、と記述している』とある。

「此の時、此も事を心に懸けず」どうも気になる意味と書き方である。少なくとも直前まで霊鰻菩薩のことを語り合っていたのに、わざわざ霊鰻菩薩のことを気にかけることもなく、急速に深い眠りに落ちたということか。しかしおかしな言い方だ。明恵は夢解釈をする点から見ても、人間の中に無意識の心理パートがあることは気づいていたと考えねばならぬ。でなくては河合隼雄の言うような予知夢を生じて、それが確かに自分の将来の変化として実現されるという認識は持てないはずだからである。明恵が予知夢を外部の超自然的刺激から惹起すると考えていたならば、そもそもが夢は明恵の意識外に完全に外化されてしまうことになり、明恵自身が夢記述への関心を持たないはずだと私は考えるからである。

「應驗」「おうけん」と清音でも読む。ここは神仏などが示現(じげん)する不思議な働きで、霊験に同じい。]

□やぶちゃん現代語訳

88

 同じ年の五月上旬の頃、霊鰻菩薩(りょうまんぼさつ)の飛び騰(のぼ)れる形態のことについて弟子たちと議論をした。その途中、日中であったが、少しばかり眠って――なお、この仮眠時には、私は全く霊鰻菩薩のことを気にかけていなかったことを明言しておく――忽然と――こんな、夢を見た――

 一つの清く澄んでいる池がある。

 その中から――鰻(うなぎ)のごとき魚が――跳り挙がった【長さは一尺あまりであった。】。その形は、頭も、尾も、ともに垂れている。その形は、★【こんな感じの様態である。】。

 私は、この夢は、即ち、確かな、霊鰻菩薩の応現と断ずるものである。

 

明恵上人夢記 87

 

87

一、同四月五日、槇尾(まきを)に渡る事を議(はか)る。案(つくえ)に倚(よ)り懸かり、晝の休息之(の)次(つい)でに、眠り入る。夢に云はく、道忠僧都有りて、予之(の)後(うしろ)に在り。心に不審有らば、之を問ふべし。卽ち、定量(ぢやうりやう)を爲すべき由を思ひて、問ひて曰はく、「槇尾に住むべきか。」。答へて曰はく、「尓(しか)也。」。卽ち、勸めて云はく、「相構(あひかま)へて槇尾に住ましめ給ふべき也。」。又、問ひて曰はく、「百日(ひやつかにち)之(の)中(うち)に死せむ事は實(まこと)か。」。答へて曰はく、「實(まこと)ならざる也。死ぬべからざる也。」。卽ち、覺(さ)め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。珍しい強力な問答形式の夢である。

「槇尾」既出既注であるが再掲する。現在、京都市右京区にある真言宗大覚寺派槇尾山西明寺(まきのおさんさいみょうじ)。京都市街の北西、周山街道から清滝川を渡った対岸の山腹に位置する。周山街道沿いの高雄山神護寺、栂尾山高山寺とともに三尾(さんび)の名刹として知られる。寺伝によれば、天長年間(八二四年~八三四年)に空海の高弟智泉大徳が神護寺別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(一一七五年~一一七八年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興、本堂・経蔵・宝塔・鎮守等が建てられた。後、正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した(以上はウィキの「西明寺」に拠る)。明恵がいる高山寺とは、直線で南西に五百メートルほどしか離れていない。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「案(つくえ)」文机(ふづくえ)。

「道忠僧都」底本注に、『明恵の弟子の一人か。円明寺大納言平時忠男の道忠と同一人物か』とあるが、検索しても平時忠にその名の男子は見当たらない。不審。

「定量」不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。真の自分の確かな思いを慮ることか。]

 

□やぶちゃん現代語訳

87

同じ四月五日、槇尾(まきお)に移ることを弟子たちに諮(はか)った。文案(ふづくえ)に倚(よ)り懸かかって、昼の休息の次(つい)でに、ふと、眠りに入った。

 その時、こんな夢を見た――

 道忠僧都がいて、私の後ろに座っている。

 私の心に不審があるならば、この者にを問うてやろう、と思うた。

 されば、即座に、定量(じょうりょう)を確かめるべき必要を感じたによって、道忠に問うて言うに、

「槇尾に住(じゅう)すべきか?」

と。

 道忠が答えて言うことには、

「それが、よろしいです。」

 即座に重ねて、勧めて言うことには、

「相い構えへて。確かに槇尾にお住み遊ばされるべきで御座る。」

と。

 さて、また、私は問うて言うことには、

「百日(ひゃっかにち)のうちに、私が死ぬであろうことはまことか?」

と。

 道忠、答えて曰うことには、

「まことでは御座らぬ! 死ぬはずが御座らぬ!」

と。

――その瞬間、私は覚醒した。

 

明恵上人夢記 86

 

86

一、同四月一二日の比(ころ)【日付、能くも覺えず。】、夜、夢に云はく、余、中宮御產の安穩(あんをん)を祈り奉る。太平にして產み生ましめ給ひ了んぬ。諸人、之に感じて、大僧正の御房と之を祈り奉る【疑ひ思ひて、此の比(ころ)、死生(ししやう)の事を聞く所之間の夢也。本尊を祈請せし夜也。】。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。なお、この明恵の割注の内、少なくとも後者は、かなり後になって書き添えたもののように読める。

「中宮」底本の岩波書店一九八一年刊久保田淳・山口明徳校注「明恵上人集」の注に、『順徳天皇の中宮藤原立子』(りっし/たつこ)『(良経女)か。立子は建保六年(一二一八)年十月十日懐成親王(仲恭天皇)を出産している』とある。「良経」摂政で太政大臣九条良経。但し、この時には既に亡くなっている。

「大僧正の御房」同前で、『慈円か。彼は中宮立子の御産の祈禱をしており、夢告を得ている』とある。慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は天台僧。諡号は慈鎭。関白藤原忠通の子で、関白・太政大臣九条兼実の弟。永万元 (一一六五) 年、覚快法親王の室に入って道快と称し、翌々年に出家得度した。治承四(一一八〇)年頃、慈円と改名。兼実の尽力により、順調な昇進をとげ、建久三(一一九二)年に権僧正・天台座主・護持僧となった。同七年に源通親のために、一旦、座主の地位を追われたが,建仁元 (一二〇一) 年には、再び、座主となって以来、実に四度も座主を務めた。同三年に大僧正となり、まもなく辞退した。その著「愚管抄」は日本最初の歴史哲学書として有名で、また、歌人としても聞え、「新古今和歌集」・「千載和歌集」以後、歴代の勅撰集に入り、家集に「拾玉集」がある。

「死生(ししやう)の事を聞く」これは実際の事実を記していると読める。とすれば、この慈円らしき「僧正の御房」に聴聞したものと流れでは読める。訳でもそうした。]

 

□やぶちゃん現代語訳

86

同じ四月十二日の頃[明恵注:日付はあまりよく覚えていない。]、夜、こんな夢を見た――

 私は、中宮のお産の安穏(あんのん)を祈禱し申し上げている。

 全く健やかに、産み生ましめ遊ばれて、ことなく、終わった。

 諸人は、これに感激して、大僧正の御房とともに、この祈禱成就を仏に感謝の祈りを申し上げた。[明恵注:不審を感じたので想起してみると、この頃、私は死生(ししょう)のことについて、大僧正の御房に親しく聴聞申し上げた間に見た夢である。本尊に祈請し申し上げた夜のことである。]

明恵上人夢記 85

 

85

一、同二月十四日の夜、夢に云はく、一つの池を構(かま)ふ。僅かに、二、三段許りにして、水、少なくして乏(とぼ)し。雨、忽ちに降りて、水、溢(あふ)る。其の水は淸く澄めり。其の傍(かたはら)に、又、大きなる池、有り。古き河の如し。此の小さき池に、水、滿つる時、大きなる池を隔(へだ)つる事、一尺許りなり。『今少し、雨下(ふ)らば、大きなる池と通(かよ)ふべし。通ひ已(をは)りて、魚・龜等、皆、小さき池に通ふべし。』と思ふ。卽ち、心に『二月十五日也。』と思ふ。『今夜の月、此の池に浮かびて、定めて、面白かるべし。』と思ふ。

  案じて云はく、小さき池は此(これ)、禪觀也。
  大きなる池は諸佛菩薩所證の根本三昧也。魚等
  は諸(もろもろ)の聖者(しやうじや)也。
  一々に深き義なり。之を思ふに、水少なきは
  修(しゆ)せざる時也。溢るゝは修する時也。
  今少し、信ぜば、諸佛菩薩、通ふべき也。當時、
  小さき池に魚無きは初心也と云々。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。後半部は明恵自身による卓抜した夢解釈である。

「二月十五日」釈迦の入滅、即ち、釈迦が如来と成った日。この夢が二月十四日の夢であることに注意。

「二、三段許り」地面から少しばかり掘られた浅い池であることを言う。

「禪觀」「坐禪觀法」の略。心を一つの対象にのみ集中し、正しい智慧により、真理を洞察すること。

「所證」修行によって得られた悟りの内容。

「根本三昧」(こんぽんざんまい)仏教の真理のみを心に集中して、一切、動揺しない状態。雑念を完全に去って、それに没入することによって、正しく捉えること。]

 

□やぶちゃん現代語訳

85

 同じ二月十四日の夜、こんな夢を見た――

 一つの池がそこに造られてある。

 僅かに、二、三段ばかりの浅い池で、水も少なくて、如何にも乏(とぼ)しい。

 ところが、雨が俄かに降りきたって、水が溢(あふ)れた。

 その水は、とても清くして澄んでいた。

 ふと、見ると、その傍らに、また、大きな池が出現していた。

 あたかも、それは古くからあった河のようにも見えた。

 先の、その小さな池に、雨で水が滿ちた、その時、大きなその池とは、隔てること、僅かに一尺ばかりなのであった。

 夢の中の私は、思うた。

『今、少し、雨が降ったならば、この小さな池は、あの大きな池と通うに違いない。通い終ったならば、魚(さかな)や亀など、皆、小さい池の方にも通うに違いない。』

と。

 その時、夢の中の私は、即座に、心に、

『それは明日――二月十五日――のことである。』

と思うた。

『今宵の月が、この小さな池に浮かんで、それはそれは、必ず、興趣に富んだ景観に違いない。』

と思うた。

[明恵注:この夢を解釈するに、「小さな池」は、これ、「禅観」を象徴するものである。「大きな池」は、諸(もろもろ)の仏・菩薩を所証するところの「根本三昧」を象徴するものである。「魚」や「亀」などは、仏教草創以来の諸の聖人たちを象徴するものである。夢の中の対象物の一つ一つが深い意義を表わしているのである。これを思うに、「水が少ない」という様態は修行が不全なる時を意味する。「水が溢れる」という様態は修行が完遂される時を意味する。今、少し、正法(しょうぼう)を信ずれば、諸の仏・菩薩が、通ってくるはずであるという意味である。されば、今、現在、「小さき池に魚がいない」という様態は、取りも直さず、私が未だ初心にして不全であることを意味するのである……]

明恵上人夢記 84

84

一、同二月の夜、夢に云はく、船に乘りて大きなる海を渡る。海の上に、浮かべる物、有り。徑(わたり)五寸許りの圓(まどか)なる物也。形は金色にして、將に之を取らむとする間(ま)、飛びて手に入る。其の下に、七、八枚を重ねて、物を書けり。之を取りて懷(ふところ)に入ると云々。

[やぶちゃん注:順列ではおかしい。前の「83」夢は承久二年十二月八日(同年旧暦十二月は既に六日でユリウス暦一二二一年一月一日、グレゴリオ暦換算で一月八日)だからである。この「同」を同じ「承久」ととるなら、承久三年か、或いは記載が前後して「83」の前の承久二年の二月なのかも知れない。河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)では承久二年と推定されておられるが、失礼乍ら、これは河合氏の総合的な予知夢としての夢解釈の順列上での認識に基づくものであって、必ずしも物理的な資料上書誌学上の推定とは思われない感じはする。そこで河合氏は『内界への旅は夢のなかで舟の旅に擬せられることがよくある。明恵は舟に乗って海へ出て、図らずも金色の円形の物を入手する。この物が何を意味するかは不明であるが、これ以後の続く内界の旅によって、彼が極めて貴重なものを手に入れるだろうことを、この夢は予示している。そして、五月には「善妙の夢」が出現する』とされる。「善妙の夢」はこの後の「89」で特異的に記載が長く、興味深い夢である。

「五寸」約十五センチメートル。]

 

□やぶちゃん現代語訳

84

 同じ二月の夜、こんな夢を見た――

 船に乗って、大きな海を渡っている。

 その海の上に、浮かんでいる物がある。

 直径は五寸ほどの丸い感じの物である。

 全体に、金色を呈しており、さても、まさにこれを私がとろうとした瞬間、その物の方が、自然に飛んで、私の手中に入った。

 よく見ると、その下に、七、八枚の紙を重ねて、何か物が書かれてある。

 私は、その書をとって、懐(ふところ)に入れる……

 

只野真葛 むかしばなし (18)

 

 ぢゞ樣の多藝なるも、みな、このやうな人はづれなる御まねびやうと察しられたり。

 御家へ、めしかゝへの頃は、ぢゞ樣、三十四、五にもあらんに、あまたの藝、御きわめ被ㇾ成しは、凡人ならず。

 父樣には書物御をしヘ被ㇾ成しのみにて、醫の道は少しもつたへなく、たゞ藥こしらへにいとまなくて有しとなり。中年にて御病死故、其身にも、あとのこと、つたふる御かくごもなかりしは、惜しきことなりし。

 父樣、醫業は、實家のぢゞ樣、又は、其世にすぐれたる醫師などにたよりて、みづから御くふうも被ㇾ成しことなり。

 父樣、數寄屋町(すきやちやう)より袖崎へ御かよひ被ㇾ遊し時、さる町の茶屋に御休被ㇾ遊しに、老人壱人、やすみ合(あひ)て有しが、

「あなたは工藤丈庵樣の御あとにて。」

と聞(きき)かけし故[やぶちゃん注:底本は「かけ故」。「仙台叢書」も同じ。「日本庶民生活史料集成」で補った。]、

「左樣。」と御こたへ被ㇾ成しに、

「さて。丈庵樣はかくべつの御名醫にて有し。私が、わかい[やぶちゃん注:ママ。]時分、松坂屋の手代と懇意にて候へしが、其者、いたつて、丈夫の人なりしが、ふと、小用不通じにて、『はれ病(やまひ)』となりて、いろいろ、療治いたしても、さらにしるしもなし。諸(もろもろ)の醫も斷(ことわり)申せしを、私がたのまれて、丈庵樣へ上(あが)りまして、やう子(す)を申上(まうしあぐ)るを御聞被ㇾ成、

『それはかねて淺葱《あさつき》を好(このみ)ておほく食(くひ)はせぬか。』

と、おたづね被ㇾ成し故、私、隨分、存じてをること、

『成程。左樣にてござりました。』

と申上たれば、

『それなら、行(ゆき)て見るにもおよばぬ。藥をひかへて、生姜のしぽり汁を一日に茶わんに一ぱい、三度(みたび)ばかりに用(もちひ)よ。平癒すべし。』

と被ㇾ仰ましたが、其通りにいたしましたれば、たちまち、通じ付(つき)、誠に、よく成(なり)まして、御禮に上りました。御名の、たかきほど有て、きめう[やぶちゃん注:「奇妙」。神妙。]の御療治でござりました。」

と、いひしとぞ。

「御紋所(ごもんどころ)を見おぼヘて居(をり)し故、ふと、ぞんじ出(いだ)しました。」

と、いひてわかれしが、何の故といふこと、しれず。」

と、御歸り後(のち)、はなしなりし。

 一を聞(きき)てさへ、かやうのことなるを、少しも、御つたへにならぬは、口惜しきことなり[やぶちゃん注:底本は「のなり」。「日本庶民生活史料集成」で除去した。]。

 父樣、御實家のことは、よく御傳へも有て御存(ごぞんじ)なれども、養家のことは、一向御傳へなき故、御ぞんじなし。

 いつも知れたことゝおもひすごすうちに、傳へもらすものなり。

「是もおぽへよ、かれもこうよ。」

と、源四郞へ被ㇾ仰しを、それもかひなきことなりと、思ひ出づれば、かなしき。

[やぶちゃん注:「數寄屋町」現在の中央区八重洲一丁目・日本橋二丁目(グーグル・マップ・データ)。ただ、ここから周庵(平助)が通ったという意味がよく判らない。

「小用不通じにて、『はれ病(やまひ)』となりて」急性腎不全による浮腫か。

「淺葱《あさつき》」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属エゾネギ変種アサツキ Allium schoenoprasum var. foliosum。但し、それと腎不全の関係はよく判らない。普通のネギ属ネギ Allium fistulosum は大蒜(ネギ属ニンニク Allium sativum。ネギ属の属名はラテン語で「ニンニク」の意)の主成分であるアリシン(allicin)を多く含み、強い殺菌作用で、多食すると腹痛は起こすが、腎臓に悪さしたり、浮腫は起こさないように思う。

「松坂屋」当該ウィキ等によれば、慶長一六(一六一一)年に、織田信長の小姓であった伊藤蘭丸祐広の子である『伊藤蘭丸祐道』(すけみち)『が名古屋本町で 呉服小間物商「いとう呉服店」創業』した。『祐道は』後の慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」で『豊臣方について戦死し、呉服店は一旦』、『閉店とな』ったが、万治二(一六五九)年に『祐道の遺児』『伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を再開』した。元文元(一七三六)年、『呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達とな』った。元文五(一七四〇)年には『尾張藩の呉服御用とな』り、延亨二(一七四五)年に『京都室町錦小路に仕入店を開設』、寛延二(一七四九)年、『新町通六角町に移転』したとある。無論、現在の「松坂屋」である。]

2021/02/26

譚海 卷之四 大坂に加賀屋某が事

 

○同年四月、大坂に加賀屋某と云もの有。此もの前年(さきのとし)は豪家にて、五十年前西國うんかの付(つき)たる年も、金子を出(いだ)し飢饉をすくひたるもののよしにて、此ものの先祖金子貳百兩指出(さしいだ)せし事有、すべて此うんかの救ひを出せし時の金主(かねぬし)の名をば、公儀の帳面にとめられ、御勘定所に納めあり。又別に右の名目を書(かき)しるされ、諸國の大社へ奉納遊されしとぞ。かゝるほどのものの跡なれども、漸(やうやう)微祿に成(なり)、身上(しんしやう)立(たち)がたく、其上右主人も近來(ちかごろ)死去致し、後家ぐらしにて、すでに借金七百兩に及び、借金のものより公訴に及び、家内離散の次第に至りし時、再應御吟味ありし所、右うんかの節(せつ)救(すくひ)を出せしものの内なる故、容易にも潰させられがたきよしにて、公裁(こうさい)日をへたる所、なをまた委しく御しらべありしに、此加賀屋先祖うんかのすくひ上納せし後(のち)、外に金子五百兩公儀へ指上置(さしあげおき)、私事當時金子不足無御座候得共、町人の事に有ㇾ之候へば、子孫いかやうなる儀あるべきも計りがたく奉ㇾ存候ゆゑ指上置度よし願にて上候金子有ㇾ之、其節右の金子大坂御奉行所にて御借付金に被ㇾ成被指置たる所、すでに今年まで五百兩の金子元利二千兩餘に成たる事御吟味相濟、右の金子此度かゞや後家へ御返し被ㇾ下、身上相立候やうに被仰付候まゝ七百兩の借金の所へ二千兩の金子頂戴致し、暴富に成たりとて大坂中御慈悲をよろこび、上裁(じやうさい)の直(ちよく)なる事を嘆美せしと聞侍りし。

[やぶちゃん注:「関西・大阪21世紀協会」公式サイトの「なにわ大坂をつくった100人」の「第84話 加賀屋甚兵衛」(延宝八(一六八〇)年〜宝暦一二(一七六二)年)が『西大坂最大の新田を開発した一族の祖』とあるから、これはこの後裔の誰彼の話であろう。『加賀屋甚兵衛は』『河内国石川郡喜志村(現在の大阪府富田林市喜志町)で生まれ』、十一『歳のとき、大坂淡路町の両替商加賀屋嘉右衛門の店に奉公人として入った。加賀屋は天王寺屋、鍵屋、鴻池など十人両替と呼ばれる大店に次ぐランクの店であった。甚兵衛は』三十五『歳で暖簾分けを許され、加賀屋甚兵衛として新たに自分の店を持つ』。『甚兵衛は商用で堺に行く途次、紀州街道の西に広がる大和川の浅瀬が新田開発に適していることを知り、新たな事業に投資すべく』、四十五『歳の年に初めて新田開発に手を染めた。宝永元年』(一七〇四年)『に付け替え工事が完成した新しい大和川は、上流から運ばれる大量の土砂で河口に砂の堆積が進み、その結果、堺の港が機能を衰退させていった。そのような中、大坂の豪商が相次いで進出した北河内の旧大和川跡での新田開発は、木綿栽培を中心に概ね順調に推移していた。とくに大坂最大の両替商の鴻池は、新田開発でも成功を収めた豪商の一つである。同業者である甚兵衛もその流れに乗ることを決断する』。『大和川付替え後、最も早く開発されたのは摂津住吉郡(現在の大阪府堺市)の南島(みなみじま)新田である。享保』一三(一七二八年)『に計画され、河内国川辺村(現在の大阪市平野区)の惣左衛門ら』四『人が請け負ったものを甚兵衛ら』二『名が権利を譲り受けたもので、甚兵衛は新大和川を挟んで南北に二分した北側(後の北島新田)の開発を請け負った』。『甚兵衛は開発工事の進捗に応じて検地を受け』、延享三(一七四六)年には『「会所幷(ならびに)借家」を建て、ほとんど常駐のかたちで同地に詰めた。翌年、家業を任せたものの』、『不行跡を繰り返す婿養子を離縁、大坂淡路町にあった店をたたんで北島新田に居を移した。そのようなことがあっても、甚兵衛は前年の』延享二(一七四五)年、『北島新田の北西地続きの砂州を選定して後の加賀屋新田となる新規の開発事業に着手していた。その一方、北島新田は着工以来』、実に二十三『年を経て、宝暦元年』(一七五一年)『に完成』した。『北島新田に転居後、甚兵衛はすでに工事を手掛けていた(加賀屋)新田開発に注力するも、資金が底をついたため、やむなく完成して間もない』、『北島新田を堺の小山屋久兵衛に売却』している。『そうした苦労の末、ようやく』宝暦五(一七五五)年に六町歩余り(約6六ヘクタール)の『(加賀屋)新田が完成した。その前年には「加賀屋新田会所」(現在の大阪市住之江区南加賀屋)を建てており、甚兵衛はここを終(つい)の棲家(すみか)としたのである。大坂代官角倉与一の検地を受け』、『「加賀屋新田」の村名を与えられた。苗字帯刀が許された甚兵衛は、出身地に因み櫻井姓を名乗ることとした』。宝暦七(一七五七)年、『甚兵衛は二人目の婿養子の利兵衛に家督を譲った。翌年剃髪して圓信と改名、会所での静かな隠居生活を送』り、宝暦一二(一七六二)年に八十三歳で没した。この『初代甚兵衛没後、二代目の櫻井利兵衛、三代・四代目の櫻井甚兵衛らによって次々と新田開発が行われ』、天保一四(一八四三)年には『加賀屋新田は』一〇五町歩余り(約百四ヘクタール)の『大新田となった。その後の拡張も含め、幕末には櫻井家(旧加賀屋)一族による新田開発総面積は住吉浦の過半を占め、西大坂随一の規模となった』。『二代目は利兵衛と称し甚兵衛の名を継いでいない。三代目以降は櫻井甚兵衛』と称したとあるから、或いはこの分家ででもあったのかも知れない。

「同年」前条を受けるので、天明元(一八七一)年。徳川家治の治世。知られた「天明の大飢饉」はこの翌年の天明二年から八年(一七八二年~一七八八年)まで続いた。

「此加賀屋先祖うんかのすくひ上納せし後(のち)、外に……」以下、一部が準公文書の書付を写したものなので、やや硬いから、多少の手を加えて訓読しておく。

   *

此れ、加賀屋先祖、浮塵子(うんか)の救ひ、上納せし後(のち)、外(ほか)に金子(きんす)五百兩、公儀へ指し上げ置き、

私(わたくし)事、當時、金子、不足御座無く候得(さふらえ)ども、町人の事に之れ有り候へば、子孫、如何やうなる儀あるべきも計(はか)りがたく存じ奉り候ふ故(ゆゑ)、指し上げ置き度(た)き

よし願ひにて、上げ候ふ金子之れ、有り。其の節、右の金子、大坂御奉行所にて、御借付金(おかしつけきん)に成され、指し置かれたる所、すでに今年まで、五百兩の金子元利、二千兩餘りに成りたる事、御吟味、相ひ濟み、右の金子、此の度(たび)、加賀屋後家(ごけ)へ御返し下され、身上(しんしやう)相ひ立ち候ふやうに仰せ付けられ候ふまま、七百兩の借金の所へ、二千兩の金子、頂戴致し、暴富(ぼうふ)[やぶちゃん注:急に金持ちになること。]に成りたり。

「直(ちよく)なる事」正しいこと。]

譚海 卷之四 下野國にて五銖錢を土中より掘出せし事

 

○天明元年五月、下野國某と云所にて、五銖錢(ごしゆせん)を夥敷(おびただしく)ほり出(いだ)したり。又黃金を掘(ほり)得たるが、みな慶長已前のもの也とぞ。是は小田原北條の臣某と云ものゝ屋敷の跡なり、太闇小田原責(ぜめ)の時、某は小田原に在陣せし跡へ、間道(かんだう)より太閤軍兵を遣し、燒うちにせられし所なれば、其陪臣などうづみおきたるにや、上へ言上(ごんじやう)に及(および)しとぞ。

[やぶちゃん注:「天明元年」一八七一年。徳川家治の治世。

「五銖錢」中国古代に流通した貨幣で、紀元前一一八年に前漢の武帝により初鋳造された。量目(重さ)が当時の度量衡で五銖(二・九五グラム)であり、また表面に「五銖」の文字が刻印されていることから、「五銖銭」と称され隋代(六一八年滅亡)まで用いられた。参照した当該ウィキによれば、『通貨としてより』も、『中国からもたらされた貴重な文物として受け入れられたと考えられ、最も早い例は、弥生時代中期(紀元前』一『世紀)の遺跡である北九州市守恒遺跡から出土した前漢時代の五銖銭(紀元前』一一八年『初鋳)』があるとする。

「慶長」一五九六年から一六一五年まで。慶長八(一六〇三)年二月十二日に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府が開府している。

「太閤小田原責」関白太政大臣豊臣秀吉が小田原北条氏(後北条氏)を滅ぼした「小田原征伐」天正一八(一五九〇)年二月から七月のこと。]

譚海 卷之四 上杉家士志津田孫兵衞まむし守札の事

上杉家士志津田孫兵衞まむし守札の事

○上杉家の士に志津田孫兵衞といふ人有。此家よりまむしよけの守札を出す、まむしをよくる事甚(はなはだ)奇妙なり。每年正月十六日・七月十六日兩度、此守札を百ふくづつ出す。禮物(れいもつ)鳥目(てうもく)百文にて受(うく)る事也。平常懇望すれば金子百疋禮物に出(いだ)す事也。相州三浦の專福寺奥州旅行に持參し、甚效驗に逢しよし物語也。

[やぶちゃん注:「上杉家士志津田孫兵衞」不詳。「志津田」は「しづた・しつた」と読める。上杉氏家臣で似た名前では、上杉謙信・景勝・定勝に仕え、「上杉二十五将」に数えられた志駄(しだ)義秀がいるが。

「百ふく」百服。「服」は「帯びる・持っている」の意があるので守札の数詞としては腑に落ちる。

「百文」現在の二千五百円前後か。

「百疋」一千文。ぼったくり!

「專福寺」神奈川県横須賀市佐島に浄土真宗本願寺派のそれがあり、別に神奈川県横須賀市東浦賀にも同名の浄土宗の寺がある。孰れもこの時代にはあったが、そこを「三浦」と呼ぶとなら、私は前者がしっくりくる。]

譚海 卷之四 信州須坂勝善寺の事

信州須坂勝善寺の事

○信州にもすざりの勝善寺(しやうぜんじ)とて、一向宗のある所一村みな他宗なし。此村の風俗は女子一度(ひとたび)嫁すれば再嫁する事成がたきならはしにて、能き掟なり。

[やぶちゃん注:「勝善寺」長野県須坂(すざか)市須坂にある真宗大谷派柳島山勝善寺(グーグル・マップ・データ)。通称「中俣勝善寺」。当該ウィキによれば、『開基は信濃源氏井上氏の井上頼重で、建久』四(一一九三)年に『比叡山で出家し、釈明空と名乗り、正治元』(一一九九)年、『信濃国水内郡中俣に勝善寺を創建した。その後、下総国磯部に移り、親鸞の弟子となり、再び信濃に戻り、当寺と普願寺(須坂市)、西厳寺、光蓮寺(長野市)、願生寺(新潟県妙高市)、本誓寺(同上越市)からなる』「磯部六か寺」『を形成した』。第九『世法印、権大僧都顕順は石山合戦で戦死し、門主により、水内郡浄興寺の鳥羽伝内』(第十世教了)『が跡目を相続した。本願寺が東西に分裂すると、伝内は東本願寺に随身し、東本願寺派全国寺院の』八『か寺に数えられ、巡讃の寺として、歴代の住職は本山に長期滞在した』。慶長三(一五九八)年の『海津城主・田丸直昌の時代に高井郡八町村に移った。江戸時代には須坂藩の庇護を受け、勝善寺文書の中に、堀直政や初代藩主堀直重から』『教了に充てられた書状が残る』。元和九(一六二三)年、第二代『藩主堀直升に迎えられ』、『現在地に遷移した』とある。この「すざり」は「すざか」の誤記・誤植かと思われる。

「一向宗」は現行では浄土真宗と同義に使用されることが多いが、狭義には、鎌倉時代の僧侶一向俊聖を祖とする浄土真宗の中の一宗派で、一向宗は自らを「一向衆」と称した。葬儀関連サイト「よりそうお葬式」のこちらによれば、一向宗は、『弥陀如来以外の仏を信仰する人々や神社に参詣する人などを排斥していきました。一応は踊り念仏を行事としますが、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出すことはなかったようです』。『一向宗の開祖は一向俊聖と言って良いでしょう。一向は現在の福岡県久留米市の草野永泰の第』二『子として生まれました』。寛元三(一二四五)年に『播磨国書写山圓教寺に入寺して天台教学を修め』、建長五(一二五三)年には『剃髪受戒して名を俊聖とします。しかし、翌年の夏には書写山を下り』、『南都興福寺などで修行しますが、悟りを得られませんでした』。『その後、鎌倉蓮華寺の然阿良忠の門弟となり』、文永一〇(一二七三)年から『各地を遊行回国します。そこで踊り念仏や天道念仏』(てんどうねんぶつ:念仏踊りの一種。天道とは太陽のことで、その名の通り、太陽を拝み、五穀豊穣を祈念する念仏踊りで、関東一円から福島県にかけての各地に分布している。福島県白河市関辺(せきべ)の八幡神社で旧六月一日に行われる天道念仏は、俗に「さんじもさ踊り」とよばれるが、「天祭り」「稲祭り」「いなご追い」「除蝗祭(じょこうさい)」とも呼ばれ、浴衣がけの男子が舞い庭の中央に組まれたお棚を回って踊る。同県郡山市内にも「てんとう念仏」の名で分布している。千葉県印西(いんざい)市武西(むざい)では「称念仏踊」と呼ばれ、二月十五日に行われるが、「江戸名所図会」に記されているように、船橋市を始め、習志野市・柏市などでも嘗ては盛んであった。他に茨城県新治(にいはり)郡や群馬県高崎市などに伝承する。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)『を修して道場を設け、近江国番場宿の蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えました』。『以後、この寺を本山として東北や関東、近江などに一向の法流を伝える寺院が分布し、教団を形成するようになりました』。『親鸞の教えを浄土真宗と言いますが、一向宗とも呼ぶこともあるようです。もともと親鸞が一向宗と言っていたのではなく、親鸞が「阿弥陀仏一仏に向け」と教えていたため、世間の人が「あれは一向宗ではないか」と勝手に呼ばれていったと伝えられています。しかも、親鸞の教えに「一向専念無量寿仏」というものがあることから、わざわざ一向宗と呼ばれていることに対して否定はしませんでした』とある。

「一向宗のある所一村みな他宗なし」少なくとも、現在の須坂地区には浄土宗・曹洞宗の寺院を確認出来た。

「此村の風俗は女子一度嫁すれば再嫁する事成がたきならはしにて」無論、このようなことは現在は確認出来ない。]

出口米吉「厠神」(南方熊楠「厠神」を触発させた原論考)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「厠神」(かはやがみ)を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第二十九巻一号)に載った、出口米吉氏の「厠神」である。在野の民俗学研究者であった出口米吉については、私の『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』の冒頭注を参照されたい。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。【 】は底本では二行割注。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。]

 

    ○厠 神

              出 口 米 吉

 故坪井博士の「陸前名取郡地方に於ける見聞」【本誌二六七號[やぶちゃん注:「本誌」と言っているが、先行する『東京人類學雜誌』である。明治四一(一九〇八)年六月二十日発行で、知られた筆者民俗学者坪井正五郎である。「J-STAGE」のこちらで原本画像PDF)で見られる。以下の出口の引用は「三二五」ページ上段中央からの部分(PDF3コマ目)。]】の中に「休息中(道祖神社にて)畑中の便所へ行きましたが、其所で妙な物を見ました。便所内の妙な物とは、片隅に釣つた棚に並べて有る數個の土人形で有ります。これは閑所神(かんじよがみ)と云ふものださうで、仙臺地方の古風の家では、皆閑所即便所に置くと云ふ事であります。土人形は玩具と同じ樣に見えますが、特別に作られたものとの事で、其形には座つたのや、立つたのや、子供を背負つたの等の種類が有りまして、何れも女の樣に見受けられます。人形が直に神を表すのか、人形を神に供へるのか、多く置くのは何の故か、其邊の事は一向分りませんが、要するに便所を護る意味を以て置かれる樣子で有ります」とあり。便所の片隅に棚を設け、每日朔竪[やぶちゃん注:「ついたち」と訓じておく。]に燈明を其上に點じて厠神を祀ることは、作州津山にて行はると聞けり。大阪附近にては、便所内にて線香を立て、燈明を奉る所もありと云ふ。

 厠神を祀ることは、我國に於て古代より行はれたることありや否や明ならず。平田翁の玉手襁[やぶちゃん注:「たまだすき」。平田篤胤の主著の一つ「玉襷」。]八にては「厠を掌[やぶちゃん注:「つかさどり」]給ふ神の名は、古書に此者厠神と載傳たる文は無れど、世に卜家の神道また橘家の神道など傳ふる人々の說に、埴山毘賣神[やぶちゃん注:「はにやすひめのかみ」。]と水波能賣神[やぶちゃん注:「みづはのひめかみ」。]なりと云ふは、實に然も有べく覺ゆ。其は此二神は土神水神にて(世に井戸神とカウカ神と同じと云は水神の坐す故なるべし)伊弉那美神の御屎と御尿に成坐ればなり」と云へり。

 酣中淸話[やぶちゃん注:「かんちゆうせいわ」。江戸後期の小島知足の随筆。]上に曰く「今ノ世ニ後架神(コウカカミ)ト云フハ、白氏六帖ニ續幽怪錄ヲ引テ、厠神每月六巡トアリ。又柳宗元が文ヲ引テ厠鬼ト出セリ。皆ソノ事ナリ。サレド委シク知レガタキニ、玉燭寳典ニ劉升ガ異苑ヲ引テ、紫女本人家妾、爲大婦(シウトメ)所ㇾ妒、正月十五日感激而死、故世人作其形於厠、迎ㇾ之咒云、子胥【云是其夫】不在、曹夫以行【云是其姑】小姑可ㇾ出【南方多婦人爲ㇾ姑】トアリ。又俗云厠溷(カハヤ)之間、必須淸淨、然後能降紫女トモアリ。又白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ。雜五行書ヲ引タ後帝トアリテ、ソノ下ニ異苑ヲ引テ、陶偘如ㇾ厠、見ㇾ人自稱後帝、着單衣平上幘、謂ㇾ偘曰、君莫ㇾ說貴不ㇾ可ㇾ言、將後帝之靈馮紫姑見ㇾ女言也。ナド云フコトモ見エタリ。西土ニテモ古昔ハ專云ヒシコトニゾ有ケル。」

 靜軒痴談[やぶちゃん注:明治八(一八七五)年刊の寺門静軒の随筆。]二に曰く「佛家ニテ厠ノ神ヲ鳥瑟沙摩(ウスシヤマ)明王トイフ。不勤ノ化身ナリト云。佛說ニ修羅ト梵天帝釋ト戰ヒシ時、修羅ガ不動明王へ援ヲ乞フ。爾時帝釋ハカリ思フニ、佛ハ甚タ臭氣ヲキラヘバ、穢ヲ用テ防クベシト、糞ヲ以タ城ヲ築キイダセリ。明王少モ不潔ヲ忌ズ、其城ヲ一時ニ食ヒ盡シタリ。故ヲ以テ烏瑟沙摩明王ヲ厠ノ神トナスト云」と。玉手襁八には「俗には佛家の鳥芻瑟摩(ウスシマ)明王と云ふ物を厠の神なりと云ふは、密宗より出たる說なるが、谷川士淸も云る如く、謨りにて、信るに足らず。殊に此明王の穢をさけず功をなす由を記せる穢跡金剛法禁百變法門經、穢跡金剛說法術靈要門と云ふ物ありて、一切經に收めたれど、唐土の僧が玄家法術說をぬすみて僞作せること疑なき物なるをや。こは寂照堂谷響集[やぶちゃん注:運敞(うんしょう)著で元禄四(一六九一)年自序の仏教説話集。]にも早く其辯ありと所ㇾ思たり」と辨せり。

 厠神に對する祈願につきては、玉手襁八には、俗に流行目病は厠神に治癒を祈り、常に厠の穴に唾すれば眼を病むと云ひ、亦女は日々に厠を掃き淨めて、晦日每に燈明を献れば、腰より下の病を憂ひずと云ふといヘり。大阪持明院の本堂のほとりに厠ありて、其内に入りて離緣を祈れば必らず緣切れると云ひ、洛東淸水寺の本堂と奧の院との間にも同樣の厠あり、是は厠二個所並び建て、其一方の内には離緣を祈り、又一方に緣結びを祈るに功驗ありと傳ふるよし浪華百事談七に見ゆ。獄屋に入る者が厠室を祭りたることは類聚名物考に云へり。アイヌは厠神(ミンダルカムイ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]に人知れず咒咀の言葉を捧げて、人を殺すと本志[やぶちゃん注:「誌」の誤植か誤字。]二八卷六號吉田氏の文に記されたり[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年六月十日発行の『人類學會雜誌』の吉田巖の論考「アイヌの卜筮禁厭」。「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)の「三二七」ページ(14コマ目)に現われる。]。

 我國にて除夜燈を厠に點して厠神を祀ることは、支那より移りし風習なるべし。鹽尻十四に「世說故事苑[やぶちゃん注:江戸後期の大阪生玉真蔵院住職であった子登の類書。]云、異聞總錄云、京師風俗、每除夜、必明燈於厨厠等所、謂之照虛㲞[やぶちゃん注:「虛㲞」意味不明。]。趙林再といふもの。婢に命じて此燈を燃させけるが、此燈を見るに、麻油にして髮に塗に佳と思ひて、これを竊に陰し[やぶちゃん注:「かくし」。]、桐油を易て厠にともしけり。然して彼婢夜分に厠に行き、戶を排き見れば、長三尺五寸斗の婦人、披髮絳居[やぶちゃん注:後半、意味不明。]にして出で、小き箱に謳色所衣を盛て、携壁[やぶちゃん注:隔ての壁のことか。]の角にたゝずみ、衣を摺み[やぶちゃん注:「たたみ」か。「摑み」辺りでないと意味が判らぬ。]けるを、婢見て驚き叫ぶ。家内の人々往て見れば早失けり。此時油を易ふ者大に叫び、地に倒るゝ。衆人湯劑を以て扶還[やぶちゃん注:「たすけかへり」。]、甦即語曰、我輙桐膏易、以鬼之爲一ㇾ所ㇾ擊甚苦と云々」と云へり。昔は轉宅の時にも之を祀りしと見え、類聚雜要抄二に「康平六年[やぶちゃん注:一〇六三年。]七月三日壬寅内大臣(師實)移御花山院。(略)同移徙作法、(略)入ㇾ宅、明旦祀諸神、(諸神者門、戸、井、竃、堂、庭、厠等也)以甑内盛五穀祀ㇾ之、三日亦祀、以童女擊水火、炊釜内五穀祀ㇾ之、御移徙之後、三日之内(略)不ㇾ上ㇾ厠(下略)と云へり。

 

怪談老の杖卷之一 石塔の飛行 / 怪談老の杖卷之一~了

   ○石塔の飛行

 武州多摩郡に本鄕村といふ所あり。此所に西心(さいしん)といふ道心すみけり。本は江戶にてせんざいものなど賣し捧千振(ぼてぶり)にて、若きときは達者なる者なりしが、いかゞしてか、發心して、なまじいの、もの知りだてする出家よりは、殊勝に勤(つとめ)ける。

 此本鄕村は中野の南にて、田など、すこしつゞきたる處あり。その東の方の小高き岡ある處より、小さき提燈などの、光り物、飛びいでゝ、向の山へ行(ゆく)とて、日、くるれば、なはてのうちは、人通りなし。誰(だれ)は、

「江戶よりの歸りに見たり。」

誰は、

「用事ありて、隣村へ行とて、見付しが、おびたゞしき光りなり。」

など云ひふらし、西心庵(さいしんがいほり)などにより合ひて、

「ひた」

と噂したり。

 かの坊、いふ樣(やう)は、

「ちかきあたりに、左樣の噂あるこそ、やすからね。いつはりとも誠とも見極めぬといふ事は、まづ、村の若い衆(しゆ)の大(おほ)きなる恥辱なり。なんと、今宵、わわらに隨がひて行たまひ、とくと、正體を見屆け給ふまじきや。」

と、いひければ、

「尤なり。さらば、今よりたんぼに出(いで)て、光り物を待(まつ)べし。」

と、若きもの、三、四人、酒など引かけ、かの道心を先にたてゝ、

「いかなる變化(へんげ)なりとも、からめとつて、手柄をみせん。」

など、血氣の者ども、出行けるが、なはての中にむしろなど敷て、

「今や、今や。」

と待けれど、四ツ過までも、化もの出でず、その内、夜は、段々、更けければ、

「せんなき事なり。歸るべし。」

と、いふものありけるを、西心、しかりて、

「旁はともかくも、愚僧におきては、夜あくるまで、この繩手にありて、實否を糺すべし。」と、なを、十間も先の方へ出(いで)て、

「むず」

と坐し、虛空を白眼(にら)んで居たるさまに、皆々も、力を得て、四方山(よもやま)のもの語して居(ゐ)候間、九ツ時とも覺ゆるころ、かの岡の木の中より、大きなる光りもの、

「ぱつ」

と、飛びいづるとひとしく、

「わつ。」

と、いふてにげるもあり。

「それ西心坊、出たは、出たは。」

と、さわぐものも有けるを、西心は、かねて、皆よりは、はるか脇にしづまり返りて居たりしが、いつの間に才覺して來りけん、大きなるたけのこ笠をもて、かの光りものを目あてに、おどりあがりて、うちかぶぜければ、光りは消へて、何やらん、田の中へ、うち落したり。

「やれ、しとめたるぞ、おりあへやつ。」

と呼(よば)はつて、かさのうへより、おさへ居(をり)けり。

 皆々、かけあつまりて、てうちんなど、とりよせて見ければ、大きなる石塔のかけを、田の中へ落(おとし)てあり。

「扨は。此ものなるべし。」

とて、すぐに、西心、かろがろと引(ひつ)かたげ來りて、持佛の前へなをし、夜すがら、念佛して、夜あけて見ければ、年號、かすかに見へて、よほどふるき石碑也。

 年號を見るもの、

「東山どの時代の年號也。」

と、いへり。

「今にかの西心が持佛のむかふに、かの石塔のかけ、あり。西心が庵(いほり)は、中野のとりつきなり。」

と大和屋なにがし、もの語りなり。

[やぶちゃん注:標題の「飛行」は「ひぎやう」と読んでおく。

「武州多摩郡に本鄕村といふ所あり」東京都中野区本町のこの附近であろう(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「中野町(東京府)」によれば、『江戸時代には中野村・本郷村・本郷新田・雑色村の』四『村があり、天領または旗本および鉄砲玉薬組同心の知行地であった』とある。「今昔マップ」で見ると、明治時代には南部分の神田上水の両岸が田圃であったことが判る。確かに「中野」中心街「の南」である。但し、「今昔マップ」を東に移動してみると、ここに「本鄕」の名を見出せる。ここも現在の中野区本町一丁目であり、その北を見ると、伏見宮邸があり、ここは旧地図でも高台であることが判るから、或いは怪火の出所はこの辺りかも知れない。

「西心」不詳。

「せんざいもの」「前栽物」で青物・野菜類のこと。

「捧千振(ぼてぶり)」室町時代から近世まで盛んに行われていた商業の一形態。笊(ざる)・木桶・木箱・駕籠を前後に取り付けた天秤棒を振り担いで、商品又は諸事勝手のサービスを売り歩く者を言う。「棒手賣」(ぼてふり)「振賣」(ふりうり)とも呼んだ。

「なまじいの」「憖の」。中途半端なさま。なまじっか。

もの知りだてする出家よりは、殊勝に勤ける。

「向の山」先の怪火の出所が判然と特定は出来ないのだが、仮に措定するなら、「向かひの山」は「今昔マップ」の神田上水の右岸のうってつけの地名である「小向」或いはその西の川島にある「正藏院」のある辺りが針葉樹の記号が多く見られ、等高線もやや高くなっている感じがある。

「なんと」「何んと」で感動詞。相談や質問などを相手に持ちかける際に用いる。「どうだ?!」。

「四ツ過」午後十時過ぎ。

「十間」約十八メートル。

「九ツ時」午前零時。

「才覺して」考え、工夫して。

「たけのこ笠」「筍笠」。竹の皮を裂いて編んだ被り笠。丸く大きい。「竹の皮笠」「法性寺 (ほっしょうじ) 笠」とも呼ぶ。グーグル画像検索「筍笠」をリンクさせておく。

「おりあへやつ」最後の「つ」は当時の口語表記で、現在の促音の「っ」。

「てうちん」「提灯」。正しい歴史的仮名遣「ちやうちん」。

「かけ」欠片(かけら)。

を、田の中へ落(おとし)てあり。

「扨は。此ものなるべし。」

「東山どの時代の年號」足利義政のこと。将軍職を子義尚に譲って東山に隠居したところからかく称し、これは生前から既にあった。彼の在位中の年号となら、宝徳・享徳・康正(こうしょう)・長禄・寛正(かんしょう)・文正(ぶんしょう)・応仁・文明(彼の正式な在職は文安六年七月二十八日(ユリウス暦一四四九年八月十六日)の宝徳への改元後から、文明の途中の文明五(一四七三)年十二月十九日(義政が次男の義尚に将軍職を移譲)までが厳密な閉区間となる)となる。

「とりつき」町域が始まる場所。とば口。取っ付き。

「大和屋なにがし」不詳。噂話・都市伝説のお約束の「又聞き」であるが、ちゃんと屋号を出すところにリアリズムがある。]

怪談老の杖卷之一 幽靈の筆跡

 

   ○幽靈の筆跡

 泉州貝塚の近きわたりに、尾崎といふ處あり。此所を開きし人は、「難波戰記」に載せし吉田九右衞門といふ者也。今も代々九右衞門とて、大庄屋なり。其始祖は鳥捕氏(ととりうぢ)にて、上古より綿々と打續き、南朝の時は南源左衞門尉と稱し、代々、歷々なり。

 此一族に玉井忠山といへる隱士あり。殊の外の異人にて、詩作など好み、紀三井寺(きみゐでら)の住職など、詩の友なり。

 五十餘の年、廻國の志しにて、國を出(いで)、東武ヘ來りて、予も知る人になりしが、り、つゝがなく國々をめぐりて故鄕へ歸り、間もなく、重病をうけて、終りける。

 死後、間もなき事なるが、近鄕の庄屋六郞左衞門といふ者の家へ來れり。

 平生にかはる事なく、案内を乞て、

「忠山なり。御見舞申す。」

と云ひ、入(いり)ければ、六郞左衞門、聞(きき)て、

「其意を得ぬ事かな。忠山は、『此程、死(しな)れたり』ときゝて、知りたる中に、野邊の送りにまで出(いで)あふたる人、慥(たしか)にあり。人たがひなるべし。」

と、玄關へ出むかひてみれば、ちがいなき[やぶちゃん注:ママ。]、忠山なり。

 紬(つむ)ぎのひとへものに、小紋の麻の羽織を着、間口をさし、法體(ほふたい)の姿、世に在りしときに、かはる事なし。

 六郞左衞門を見て、

「久しう御座る。」

と、

「につこり」

と笑ふ體(てい)、六郞左衞門も氣情(きじやう)なるすくやか者なれど、是ばかりは、衿もと、

「ぞつ」

と、したるが、

『子細ぞあらん。』

と、まづ、書院へ伴ひ、茶を出せば、とりてのむ事、平生の如く、盃を出しければ、

「酒は給(た)べ申さず。」

とて、何もくはず、どこやら、影もうすく、あいさつも間(ま)ぬけたり。

 主人、いふ樣(やう)、

「そこには、御大病ときゝて、いか計(ばかり)、案じたり。まづ、御快氣の體(てい)、大慶に存候(ぞんじさふらふ)。」

と、いひければ、このとき、うち笑ひて、

「それは、貴殿のあいさつとも覺えず。某(それがし)が死したる事は存じなるべし。此世の命數盡(つき)て、黃泉(よみ)の客とはなりしかど、こゝろにかゝる事ありて、暫く存生(ぞんしやう)の姿をあらはし、まみへ申すなり。一族どもの中にも、こゝろのすはりたる者なければ、おそれおのゝきて、事を記するに足らず。そこには、こゝろ、たくましく、理(り)にくらからぬ人なれば、申すなり。我が死(しし)たる跡式(あとしき)の事は、かきおきの通(とほり)取計(とりはから)ひくれたれば、おもふ事なし。しかし、戒名に、二字、こゝろに叶はぬ字あり。菩提處の住持にたのみ、かき替(かへ)給はるべし。」

と、いと、こまごまと、いふにぞ、

『ふしぎ。』

とは、おもひけれど、

「死(しし)て後も、尋ね來(きた)る朋友の誠(まこと)こそ、うれしけれ。」

と、なつかしくて、こはきこゝろはなかりしが、

「さて。その文字は、そこもと、望みにても、ありや。」

と、いひければ、

「いかにも。望みあり。紙筆を。」

と乞ひて、

「『忠山』といへる下(しも)の二字を、『亨安』となほして給へ。」

と、「亨安」の二字を、かきて、さし置(おき)ぬ。

 文字の大きさは、五分程あり。

 勝手にては、みな、恐れあいて[やぶちゃん注:ママ。]、出(いづ)るものも、なし。

 暫く、もの語りして、

「いとま申。」

とて、出行ぬ。

 六郞左衞門、送り出ければ、いつもの通り、門を出でゝ行しが、

「見送らん。」

とて、あとより出しに、はや、形は、なかりけり。

 さつそく、尾崎へ持行(もちゆき)きて、一家衆(いつかしゆ)と談じ、石碑のおもてを、きりなをしけり。

 忠山、能書にて、餘人のまねぶべき筆にあらず。

 手跡、うたがひなければ、みな人、奇怪のおもひをなしぬ。

 右の手跡は、六郞左衞門家に祕藏して、「幽靈の手跡」とて傳へぬ。

 江戶へ來りしは、五、六年已前の事にて、汐留の觀音の寺にとまりおれり[やぶちゃん注:ママ。]、といひし。

 忠山おとゝ平七といふものあり。四ツ谷「鮫(さめ)がはし」に、たばこうりて、今も存命なり。

 うたがはしき人は、行て尋ぬべし。

[やぶちゃん注:最後の三文『忠山おとゝ平七といふものあり。四ツ谷「鮫がはし」にたばこうりて、今も存命なり。うたがはしき人は、行て尋ぬべし。』が凄い! 今時の怪談で、最後にこう書ける奴は、まず皆無だ! これは所謂、噂話・都市伝説のあまっちょろさを遙かに凌駕している!! 因みに「四ツ谷鮫がはし」は鮫河橋(さめがはし)で東京都新宿区にあり、桜川支流鮫川に架けられていた橋及びその周辺の地名である。現在の新宿区若葉二丁目・三丁目及び南元町一帯を指す。この附近(グーグル・マップ・データ。南元町をポイントし、その北が若葉二・三丁目である。以下同じ)。江戸時代は岡場所であった。現在の赤坂御所北部外の西北部に当たる。

「泉州貝塚の近きわたりに、尾崎といふ處あり」大阪府阪南市尾崎町であろう。地図の右上部に貝塚が見えるように配した。貝塚市であるが、奥に細く広がった市域で尾崎とは十一キロメートルほど離れている。

「難波戰記」(なにわせんき/なんばせんき)は別に「大坂軍記」とも称し、「大坂の陣」についての軍記物。寛文一二(一六七二)年初板で十二巻十二冊本が作られたが、その後、増補され、増補版の中でも特に初板と同年の三宅可参(衝雪斎)の序・跋を持つものが普及した。本「怪談老の杖」は序のクレジットでは宝暦四(一七五四)年。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。流石に「吉田九右衞門」を探すほどには、私はお目出度くはない。

「鳥捕氏」は、恐らく、本邦の古代朝廷に属して鳥を捕捉することを職業とした捕鳥部(鳥取部)は品部(しなべ/ともべ)の出自であろう。飛鳥時代の武人に捕鳥部万(ととりべの よろず)がいる(姓はない)。同人のウィキによれば、『物部氏の本拠である河内国には、鳥取部の伴造氏族で、角凝魂命』(つのこりむすびのみこと)『の三世の孫である天湯川田奈命』(あめのゆかわたなのみこと)『の後裔を称する無姓の鳥取氏があり』、『万もこの一族の可能性がある』。『物部守屋の資人。用明天皇』二(五八七)年の「丁未の乱」に『おいて物部方に属して戦い』、百『人を率いて守屋の難波の邸宅を守備した。主君の守屋が討たれたのを聞いて、茅渟県』(ちぬのあがた)『の有真香邑』(ありまかむら:現在の大阪府貝塚市大久保近辺か?)『の妻の家を経由して山中に逃亡した。逃げた竹藪の中で、竹を縄でつないで動かし、自分の居場所をあざむいて、敵が近づいたところで弓矢を放ち』(「日本書紀」)、『衛士』(えじ)『の攻撃を受けつつ、「自分は天皇の楯として勇武を示してきたけれども、取り調べを受けることがなく、追い詰められて、このような事態に陥った。自分が殺されるべきか、捕らえられるべきか、語るものがいたら、自分のところへ来い」と弓をつがえながら地に伏して大声で叫んだ。その後、膝に矢を受けるも引き抜きながら』、『なおも剣で矢を払い』、『三十人ほど射殺し』、『朝廷の兵士を防ぎ続けるが、弓や剣を破壊後、首を小刀で刺して自害した』(「日本書紀」)。『朝廷は』、『万の死体を八つに切り、串刺しにして八つの国にさらせ』、『と河内国司に命じたが、串刺しにしようとした時、雷鳴して、大雨が降った。さらに万が飼っていた白犬は万の頭を咥えて古い墓に収めると、万の頭のそばに臥して横たわり、やがて飢死したという。不思議に思った朝廷が調べさせ、哀れに思って、万の同族に命じて、万と犬の墓を有真香邑に並べて作らせた』とある。

「南源左衞門尉」南朝期なら、何かの資料に出るであろうが、私はそれを調べる気はさらさらない。悪しからず。

「玉井忠山」不詳。

「紀三井寺」和歌山県和歌山市紀三井寺にある紀三井山護国院金剛宝寺。「紀三井寺」の名で専ら知られる。真言宗であったが、昭和二六(一九五一)年(年)に独立して救世(ぐぜ)観音宗総本山を名乗っている。寺史は当該ウィキを見られたい。

の住職など、詩の友なり。

「紬ぎ」蚕の繭から糸を取り出し、撚りをかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物のこと。織物の中で最も渋く、深い味わいを持つ着物で、着物通の人が好む織物と言われている。世界一緻密な織物ともされる。

「間口をさし」「表玄関にすっくと立っており」の意か。

「氣情」「氣丈」の意であろう。(きじやう)なるすくやか者なれど、是ばかりは、衿もと。

「それは、貴殿のあいさつとも覺えず。某が死したる事は存じなるべし。此世の命數、盡て黃泉の客とはなりしかど、こゝろにかゝる事ありて、暫く存生の姿をあらはしまみへ申すなり。一族どもの中にも、こゝろのすはりたる者なければ、おそれおのゝきて、事を記するに足らず。そこには、こゝろ、たくましく、理にくらからぬ人なれば、申すなり。我が死たる跡式の事は、かきおきの通取計ひくれたれば、おもふ事なし。しかし、戒名に、二字、こゝろに叶はぬ字あり。菩提處の住持にたのみ、かき替給はるべし」と「うち笑ひて」言うこのシークエンス以下は絶品だ! 死霊が思いきれぬことを告解するパターンは数多あるものの、戒名を変えて呉れというのは、私の知る限りでは、ちょっとない。ないが故に、オリジナリティがあり、会話の平静さと、受ける六郎左衛門が、死霊が死霊と表明するのを内心は恐懼しつつも、何んとか平静を保って、生時の折りの交わりと変わらずに対座し、その願いを聞き入れる。何と、素敵なリアリズム怪談であろう! 上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の傑作「菊花の約(ちぎり)」と似ていると思われる方もあろうが、本作は序文が宝暦四(一七五四)年で、二十二年も前なのである。最近では、一ヶ月余り前に電子化した風雅な動態と解き明かしの名篇「怪談登志男 八、亡魂の舞踏」に次いで佳作としたい。

「『忠山』といへる下の二字を、『亨安』となほして給へ」問題は「何故か?」という疑問である。「玉井忠山六郞左衞門」の忠山は明らかに隠居遁世した後の法号染みた雅号である。それを何故、今になって、「亨安」に書き変えて呉れと言い出すのか? 彼が晩年、この「忠山」の号が自身に相応しくないと思っていたのであれば、「我が死たる跡式の事は、かきおきの通取計ひくれたれば、おもふ事なし」とある「書置き」(遺言状)に書き入れれば済んだことだ。則ち、この書き変えはそのような生前の意識に起因するものではない。とすれば、忠山の来訪は、逝去から四十九日の中有(ちゅうう)であることは明らかである。中有は仏教用語で、衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じい)がその「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。されば、この戒名改名もその審判に絡むと考えるのが自然である。玉井忠山の戒名全体が示されないのが、本怪談の実録怪談としての大きな瑕疵であるが、想像するに、生者に理解出来る可能性のある理由としては、その玉井の「忠山」の号をそのまま使ってしまった(これ自体は必ずしも一般的とは言えない。ばらすか、一字を入れるのが普通)結果、彼の父母或いは祖父又は先祖代々歴々の戒名と並べた際に、たまたま、それらの誰彼或いは特定の一部又は総ての戒名より断然、頭抜けてしまう不遜な戒名として「忠山」があることになってしまうという総合対照に於ける死者の名の絶対的違背性である(或いは前の父母の同一の漢字を続けて横に読むと不遜不敬の意となるやも知れぬ)。不遜な戒名自体が亡者の罪となるのである。怪談や講談・落語では、あの世からの拘引者や書記・使者或いは本人が、文書の文字や俗名・戒名を書き変えて、主人公が生き延びるという笑い話に近いものがよく見かけられるが、そうした笑話のような雰囲気はここにはない。至って真面目な最後の願いとして親友に頼むというそれは、寧ろ、哀切々たるのもがある。それが本篇の眼目でもあるのである。

「江戶へ來りしは、五、六年已前の事にて、汐留の觀音の寺にとまりおれり」話を生前に戻したダメ押しのリアリズムである。上手いが、やや五月蠅過ぎる感はなくもない。「汐留の觀音の寺」は現在の浜離宮恩賜庭園内にある観音堂跡か。サイト「4travel.jp」のこちらを参照されたい(地図有り)。旧時の観音堂の絵を入れた説明版写真。それによれば、ここには稲生神社があり、観音堂と鐘楼もあったとあるから別当寺も古くはあったはずである。しかし、関東大震災で崩壊し、今は小高い丘となって石段のみが残るとある。]

2021/02/25

怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ


 
   ○水虎かしらぬ

 小幡一學といふ浪人ありける。上總之介の末葉なりと聞しが、さもあるべし、人柄よく、小(すこし)、學文(がくもん)などありて、武術も彼是、流義極めし男なり。若きとき、小川町邊(あたり)に食客のやうにてありし頃、櫻田へ用事ありて行けるが、日くれて、麹町二丁目の御堀端を歸りぬ。雨つよく降りければ、傘をさし、腕まくりして、小急(こいそぎ)ぎに、いそぎをりけるが、是も、十ばかりなりとみゆる小童(こわらは)の、笠もきず、先へ立(たち)て行(ゆく)を、不便(ふびん)におもひて、わらはに、

「此傘の中(うち)へ、はへりて行べし。」[やぶちゃん注:「はへりて」はママ。「はいりて」の原本の誤記であろう。]

と、よびかけけれど、恥かしくや思ひけん、あいさつもせず、

「くしくし。」[やぶちゃん注:「哀れげに泣くさまを表わす語で「しくしく」に同じい。]

と、なく樣(やう)にて行けば、いとゞふびんにて、後より、傘、さしかけ、我が脇の方へ引つけてあゆみながら、

「小僧は、いづ方へ使(つかひ)にゆきしや。さぞ、こまるべし。いくつになるぞ。」

など、懇(ねんごろ)にいひけれど、いらゑせず、やゝもすれば、傘をはづれて、濡るゝ樣(やう)なるを、

「さて。ばかなる小僧なり。ぬるゝ程に、傘の内へ、はひれ、はいれ。」

と、云ひければ、又、はひる。

 とかくして、堀のはたへ行(ゆき)ぬるとおぼゆる樣にて、さしかけつゝ、

「此かさの柄を、とらへて、行べし。さなくては、濡るゝものぞ。」

など、我子をいたはる樣に云ひけるが、堀のはたにて、彼(かの)わらは、よは腰を兩手にて、

「しつか」

と取り、無二無三に、堀の中へ引こまんとしけるにぞ、

「扨は。妖怪め、ござんなれ、おのれに引こまれて、たまるものか。」

と、金剛力にて引あひけれど、かのわつぱ、力、まさりしにや、どてを下(くだ)り、引ゆくに、むかふ下(くだ)りにて、足たまりなければ、すでに堀ぎはの、石がけのきはまで、引立(ひつたて)られしを、

『南無三寶、河童(かつぱ)の食(ゑじき)になる事か。』

と、かなしくて、心中に氏神を念じて、力を出して、つきたをしければ、傘ともに、水の中へしづみぬ。

 命からがら、はひ上(のぼ)りてけれど、腰たゝぬ程なりければ、一丁目の方(かた)へ、もどり、駕籠にのりて屋敷へ歸りぬ。

 夫より、こりはてゝ、其身は勿論、人までも、

「かの御堀ばたを通る事、なかれ。」

と制しける。

 是ぞ、世上にいふ「水虎《かつぱ》」なるべし。心得すべき事なりと聞(きけ)り。

[やぶちゃん注:標題は「水虎(かつぱ)か知らぬ」で「河童かどうかよく判らぬ化け物」の意。これも実は既に「柴田宵曲 妖異博物館 河童の力」の私の注で電子化している。無論、また、零からやり直してある。個人的には河童の存在を全く信じていないものの、この話は河童と組み合う前後の描写が極めて実録的でリアリズムがあるので、蒐集した有象無象の河童譚(私は信じていないにも拘らず河童フリークではある。火野葦平「河童曼陀羅」も完全電子化注を四年前に終わっているし、『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」』の分割詳細注もカテゴリ「柳田國男」で二年前に完遂している)の中でも短い乍ら、優れた一篇であると感じている。

「水虎」これは河童に似た属性を持つ漢籍に出現する人型の妖怪(妖獣)である。寺島良安の「和漢三才図会」の「第四十 寓類 恠類」(リンク先は私の古いサイト版全電子化注)に確かに、この「水虎」で載る。

   *

すいこ

水虎

シユイ フウ

【「本草」蟲の部の附錄に水虎を出だす。蓋し、此れ、蟲類に非ず。今、改めて恠類に出だす。】

「本綱」に、『水虎は「襄沔記(じやうべんき)」注に云はく、中廬(ちうろ)縣に涑水(そくすい)有りて、沔中に注(そゝ)ぐ。物有り、三、四歳の小兒のごとく、甲(かう)は鯪鯉(りやうり)[やぶちゃん注:脊椎動物亜門哺乳綱センザンコウ目センザンコウ科Manidae センザンコウ属Manis。]のごとく、射(ゆみい)ても、入ること、能はず。秋、沙上に曝す。膝の頭、虎の掌・爪に似たり。常に水に没し、膝を出だして、人に示す。小兒、之れを弄(もてあそ)べば、便(すなは)ち、人を咬(か)む。人、生(いき)ながら得ば、其の鼻を摘(つま)んで、之れを小使(こづかひ)にすべし』と。

△按ずるに、水虎の形狀、本朝、川太郎の類(るゐ)にして、異同、有り。而れども、未だ聞かず。此くのごとき物、有るや否や。

   *

しかし、良安が言うように、これは私は同じ東洋の日中の民俗思念の中での平行進化の結果であって(九州の河童伝承には先祖が中国から本邦へ渡って来たとするものがあることはあるが、では、それが漢籍に登場する「水虎」や似たような人型水怪である「河伯」であった証左はどこにもないのである)、「河童」を完全に中国伝来とする考え方には組しないので、個人的に「河童」を「水虎」と自律的に書いたことは一度もない。因みに良安もそう考えているからこそ、この次に独自に「河童」を配しているのである。以下に示す。

   *

かはたらう

川太郞    一名川童(かはらう)

【深山に山童有り。同類異なり。性、好みて人の舌を食ふ。鐵物を見るを忌むなり。】

△按ずるに、川太郞は西國九州溪澗池川に多く之れ有り。狀(かた)ち、十歲許りの小兒のごとく、裸形(はだか)にて、能く立行(りつかう)して人言(じんげん)を爲す。髮毛、短く、少頭の巓(いただき)、凹(へこ)み、一匊水(いつきくすい)を盛る。每(つね)に水中に棲(す)みて、夕陽に、多く、河邊に出でて、瓜・茄(なすび)・圃穀(はたけもの)を竊(ぬす)む。性、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて、之を比(くら)べんことを請ふ。健夫、有りて、之れに對するに、先づ、俯仰(ふぎやう)して頭を搖せば、乃(すなは)ち川太郞も亦、覆(うつふ)き仰(あをむ)くこと數回にして、頭の水、流れ盡ることを知らず、力竭(つ)きて仆(たふ)る。如(も)し其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り脫(ぬけ)て、滑利(なめら)かなり。故に、之を如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣に引入れて、尻より血を吮(す)ひ盡くすなり。渉河(さはわたり)する人、最も愼むべし。

 いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏(うぢ)は菅原

相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以(ゆゑん)有りて之れを詠(よま)せらる。今に於いて、河を渡る人、之を吟ずれば、則ち、川太郞の災無しと云云。』と。偶々、之れを捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて之れを放つ。

   *

引用元では私が細かな注を附しているので参照されたい(なお、リンク先は十二年も前の仕儀で、漢字表記が不全であるので(当時はユニコードがまだ使用出来なかった)、引用に際しては、正字に直した箇所がかなりある)。

「小幡一學」不詳。

「上總之介」織田信長(初期の名乗り)であろう。私などはすぐにして源頼朝の命で梶原景時に謀殺された上総介広常を想起してしまうのだが、かの上総氏の末裔は宝治元(一二四七)年の「宝治合戦」で姻族の三浦泰村に属して族滅している。

「小川町」現在の千代田区神田小川町(グーグル・マップ・データ)。江戸時代は武家屋敷であった。ここから「櫻田」から帰るにには北へ上ると思うのだが、何故か時計回りで西に回っている。「麹町二丁目」はここだもの。さすれば、「御堀端」ここの東の江戸城西側の半蔵濠(ぼり)か、そこの北を東に折れた「千鳥ケ淵」ということになる。河童には、やはり。淵が似合うな。おう! ようやった! 河童殿! 江戸城の御堀に住もうとはな!

「とらへて」捉えて。摑(つか)んで。一学! 男だね!

「よは腰」「弱腰」。一学の腰。「よは」は、これ、連れが童子なれば、用心も全くせず、寧ろ、同時に気を遣って、穏やかに寄り添っていた上に、雨に打たれて冷えているので、腰に力が入っていなかったというだけのことを言っていよう。

「金剛力」「こんがうりき(こんごうりき)」は金剛力士のような大力。非常に強い力。

「むかふ下(くだ)り」「向ふ下り」は一語で、「向こうに行くに従って(堀へ)下っている場所」という名詞。

「足たまり」「足溜まり」。しっかと踏みしめる足場。

「腰たゝぬ程なりければ」如何に組んだ河童の力が想像絶したものであったかが判る。

「一丁目」麹町一丁目。現在のそれならば、既に半蔵濠の東岸であるから、やはり、一学を河童が引き込もうとしたのは「千鳥ケ淵」と考えてよい。]

怪談老の杖卷之一 小島屋怪異に逢し話

 

   ○小島屋怪異に逢し話

 四ツ谷の通(とほり)に小島屋喜右衞門と云(いふ)人、麻布なる武家方へ鶉(うづら)を賣けるが、

「代物(だいもつ)不足なれば、屋敷にて渡すべし。」

といふに、喜右衞門、幸(さいはひ)、御近處迄、用事あれば、

「持參すべし。」

とて、鶉を持行(もてゆき)けるが、中の口の次に、八疊敷の間のある所に、

「爰にひかへをれ。」

とて、鶉をば、奧へもち行(ゆき)ぬ。

 座敷の體(てい)も普請前の家居と見へて、天井・疊の上に雨漏(あまもり)の痕(あと)、ところどころ、かびて、敷居・鴨居も、爰(ここ)かしこ、さがり、ふすまも破れたる家なり。

 鶉の代(しろ)も、小判にて拂ふ程なりしかば、喜右衞門、心の内に、

『殊の外、不勝手らしき家なるが、彼是、むづかしく云はずに、金子、渡さるればよきが。』

と、きづかひながら、たばこのみ居(ゐ)けり。

 しかるに、いつの間に來りたるともしらず、十(とを)ばかりの小僧、床(とこ)にかけありし紙表具の掛ものを、上へまきあぐる樣(やう)にしては、手をはなして、

「はらはら」

と落し、又は、まきあげ、いく度といふ事なく、したり。

 喜右衞門、心に、

『きのどくなる事かな。かけものなど損じて呵(しか)られなば、我等がわざにかづけんもしらず。』

と、目も放さで見て居けるが、あまりに堪《こらへ》[やぶちゃん注:底本は『こたへ』であるが、所持する版本のそれを採った。]かねて、

「さるわるあがきは、せぬものなり。いまに、掛もの損じ申べし。」

と、いひければ、かの小僧、ふり歸りて、

「だまつて居よ。」

と、云ひけるが、顏を見れば、眼(まなこ)、たゞ、ひとつありて、

「わつ。」

と、いふて、倒れ、氣を失ひけるを、屋敷の者ども、驚きて、駕(かご)にのせ、宿へ送り返し、鶉の代をば、あのかたより爲ㇾ持(もてなし)おこされ、そののちも、度々、使(つかひ)などおくりて、

「心よきや。」

など、懇(ねんごろ)に尋られける。

 その使の者の語りけるは、

「必ず、沙汰ばしし給ふな。こちの家には、一年の内には、四、五度づゝも、怪しき事あるなり。此春も、殿の居間に小き禿(かむろ)、なほり居て、菓子だんすの菓子を喰ひ居(をり)たりしを、奧方の見て、

『何者ぞ。』

と、いはれければ、

『だまつて居よ。』

と、いふて、消(きえ)てなくなりたりと、きけり。必(かならず)、だまつて居(をり)たまへ。なにも、あしき事はせぬ。」

と、語りぬ。

 喜右衞門は、廿日ほども、やみて、快氣し、其のちは、何もかはりたる沙汰なかりけり。

 其屋敷の名も聞(きき)しかど、よからぬ事なれば、憚(はばか)りてしるさず。

[やぶちゃん注:実は本作は既に一度、『柴田宵曲 妖異博物館 「一つ目小僧」』の注で同じ底本で電子化しているが、今回、一からやり直した。柴田は本篇をかなり上手く現代語訳した後で私の溺愛する岡本綺堂の「半七捕物帳」の中の一篇「一つ目小僧」にも触れ、また、先般電子化したばかりの「怪談登志男 七、老醫妖古狸」も挙げ、昨年私が電子化注した「萬世百物語卷之二 五、一眼一足の化生」も紹介(但し、書名を誤っている)されているから、「一つ目小僧」好きにははなはだ魅力のあるものである。未読の方は、かなり面白いので、一読されたい。個人的には、「柴田宵曲 妖異博物館」の冒頭に出る「化物振舞」実録物である出雲松江藩の第七代藩主松平治郷(はるさと)がやらかした話が絶品で、松浦静山の「甲子夜話 卷五十一」の「貧醫思はず侯第に招かる事」が超お薦めである。リンク先では原話を私が電子化してある。どうぞ!

「四ツ谷の通」江戸時代の「四ツ谷」は現在の四谷見附から新宿三丁目まで「新宿通り」を真ん中に南北に広がった地域(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。南に見える「六本木ヒルズ」附近が現在の「麻布」である。

「小島屋喜右衞門」不詳。

「鶉」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。ている。本邦では古来、歌にも詠まれ親しまれてきた。ペットとしての飼育は室町時代には籠を用いて行われており、江戸時代には武士の間で、鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長(一五九六年~一六一五年)から寛永(一六二四年~一六四五年:間には元和(げんな)が挟まる)をピークとしつつ、近代の大正時代まで行われていた。本種が古くから好まれ理由には、その鳴き声の「聞きなし」として「御吉兆」などがあったことにもよる。博物誌など、詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照されたい。ここ小判で買うほどの高値(こうじき)であるのは、そうした江戸時代の奇妙な流行りが背景があることを知っておく必要がある。木賊(とくさ)であるとか、金魚であるとか、ともかくも、江戸では妙なもの(私にとっては)が流行ったのである。

「代物」代金。

「普請前」改修前。或いはこの屋敷は現在の持ち主のものではなかったものを、新たに買ったものであるのかも知れない。にしても、鶉は大枚払うが、このばたばたをば、まず直さないというのは、ろくな武家ではあるまい。そういう因果者のところにこそ、確かに妖異は好んで巣食うものなのである。

「きのどくなる」この「氣の毒」は「自分にとって困ってしまうこと・迷惑」の意。

「呵られなば」叱られたりしては。

「わるあがき」悪戯(いたずら)。

「あのかたより」あの鶉を飼った御武家方より。

「沙汰ばしし給ふな」の「ばし」は副助詞で、係助詞「は」に副助詞「し」の付いた「はし」の転じたもの。上の語をとり立てて強調する意を表わす。禁止・命令などの文中に用いられることが多い。

「禿(かむろ)」本来は「かぶろ」。髪の末を切り揃えて結ばずに垂らした、今の「おかっぱ」に似た髪型をした子供。少女を指すことが多く、江戸時代には別に、遊里で太夫(たゆう)などの上級遊女に仕える見習いの少女。七、八歳から十三、四歳ぐらいまでで、その後は遊女になった者を狭義に指した。ここは普通に年少の少女の意でよい。

「なほり居て」「直り居りて」。きちんと正座して座ってそこにおり。

「菓子だんす」「菓子簞笥」。衣装簞笥に似せて小形に作り、漆などを塗ったり、螺鈿細工を施したりした高級な菓子入れ。手箱のように小さいから、禿が座って引き出して菓子を食うというシークエンスには何の問題もない。

「必、だまつて居たまへ。なにも、あしき事はせぬ」前者は、武家であるから化け物屋敷と噂されては面目が立たなくからであり、後者は、過度に怯える喜右衛門を安心させるための配慮である。事実、怪異は数々出来しても、その後には、別段、続く怪異や祟り・変事はなかったのであろう。実際、喜右衛門は快癒して後、やはり何事も起こらなかったのだから。されば、家にとり憑いた怨霊の類いではなく、狐狸のそれと考えてよかろうか。いやいや! 松平治郷の例もある。或いは、この鶉狂いの武家の主人が変態で、かく人を驚かすのが好きな変態でなかったとは言えまいよ。今だって、旧来の遊園施設の「お化け屋敷」は滅んでいないし、ゴースト・スポットを好んで訪れる連中も世界中にゴマンといるじゃないか。]

只野真葛 むかしばなし (17)

 

 父樣には十九迄、惣髮(そうはつ)にて有しとなり。御年若のときは、すぐれし美男にて有しとなり。むかし、長井家にひさしくつとめし「かぢ」といふ女、たへず[やぶちゃん注:ママ。]、氣嫌うかゞひにも上(あが)り、母樣御產などの時は、よとぎなどにもきたりしが、女共として、いつものはなしに、

「こちのだんな樣、おわかい時は役者の樣にて有し。麹町へ御いで被ㇾ成ると、近所の御孃樣がたは、『役者が來た』とて、かけだして御覽被ㇾ成し。今は、一向前(いつかうまへ)の人のやうにおなり被ㇾ成し。」

といふを、そのかみは久しきもの、『をかしきはなしよ』など、おもゑて有しが、今おもへ[やぶちゃん注:ママ。]いだせば、『それも、さなきだちのさまよ』と、書(かき)おくなり。

[やぶちゃん注:「惣髮」「總髮」とも書く。男子の髪形の一つで、月代(さかやき)を剃らずに髪を全体に伸ばし、頭頂で後ろ向きに束ねたもの。束ねずに後ろへなでつけて垂らしたものもかく呼ぶ。江戸時代には医者・儒者・山伏などが多く結った。

「長井家」父の実家。既に述べたが、真葛の父工藤周庵(平助)は紀州藩江戸詰医師長井大庵の三男であったが、工藤家に養子に入ったのである。

「一向前」全くの御成人の普通の男性の謂い。

「久しきもの」長いこと。

「さなきだち」「仙台叢書」も「日本庶民生活史料集成」も『をさなきだち』とする。「幼き立ち」で「幼い顔立ち」「美少年」のことで腑に落ちる。但し、絶対にそうだとは言わない。「さなきだにのさまよ」「然なきだにの樣よ」、「そうでなくてさえ美少年であられたのだなあ」という誤判読の可能性も排除出来ないからである。私は無心に最初に読んだ時はそう感じたからでもある。]

 

 工藤ぢゞ樣の敎へかたは、きびしきこと、いふばかりなし。父樣、養子に御いでがけ、

「書物は、よみしや。」

と、たづねられしに、里にては末の子にて御ひぞうばかり被ㇾ成し故、

「いまだ、まねばず。」

と御こたへ被ㇾ成しに、

「其(そこ)ほどになるもの、少しよませれば、よいことを。さあらば、『大學』、もて、こよ。」

とて、とりよせ、序(じよ)より終(をはり)まで、三べん、をしへて、

「あすまでに、よく復されよ。」

とて御出勤なり。

 はじめて四角な字をよみしに、「大學」一册を、たゞ、三べんにては、一字もくだらず、弟子に宇引をひかへさせて、御膳も上(あが)らず、夜も、やすまぬほどにして、折々、書をよみながら、むすびなど上りて、やうやう、一晝夜によまるゝ樣(やう)に御おぼし、明朝、持(もち)いでゝ御よみ被ㇾ成ば、

「よし。さあらば、『論語』。」

とて、又、三べんにて御出勤、日々、前のごとくにして御よみ、「四書」を十日に御しまひ、「五經」もおなじ敎へる樣(やう)被ㇾ成(なされ)、

「二、三月のうちには、立(たち)まわる書は、みな、よめる樣に成し。」

と、御はなしなり。

[やぶちゃん注:「養子に御いでがけ」養子に来られたばかりの折り。父平助が丈庵の養子となったのは延享三(一七四六)年頃で、未だ満十二歳前後であった。

「まねばず」「學ばず」ではなく、意味の理解を条件としない素読の「眞似ばず」であろう。

と御こたへ被ㇾ成しに、

「一字もくだらず」意味を理解することはおろか、漢字一字をも読むことさえも出来ず。

「立まわる書」周囲に置かれてあった書物。]

譚海 卷之四 江州風俗の事

江州風俗の事

○近江湖(あふみのうみ)の土を、村民夏に至ればとりて、日にほしかためて火入(ひいれ)にいゝるに、炭の如くよく火をたもつ也。その名をすくもと云。又同國鏡の宿に源九郞義經の住宅今に殘りて有、その地の神主の宅地の内にあり。此所に鏡の宿の長(をさ)の子孫といふものも有、またゑこまの德勝寺といふ禪寺有、卽(すなはち)ゑこまといふ所は淺井家の領地にして、淺井三代の墓も此寺にあり、御朱印二百石の寺也。長澤といふ所に福田寺(ふくでんじ)といふ本願寺派あり、開山は淺井家の臣にて、德勝寺の旦那也。今は京都より藤浪殿御子息住職にて華麗なる事なり。又高宮には金光寺といふ本願寺派あり。是も開山は高宮三河守とて、淺井家の味方せし人の末也。太閤秀吉公若年の時、此金光寺に奉公せられしよし、其時の自筆の日記什物にて今にあり。太閤若年よりなでしこを愛せられしとて、はしかたしごきといふ事、今にことわざにいひ傳ふ。金光寺は元來淺井家草創の寺也。又長濱といふ所に大通寺とて本願寺派有、開山は後鳥羽院の御末にて、播磨の御房と申(まうす)人の御弟子也、此末寺八百箇寺に及べり。その内に毛坊主と稱するもの有、頭をざんぎりの如くして、衣を着し妻帶にして、一村の旦那寺の事を取行ふ、毛坊主村とて一村有。

[やぶちゃん注:「火入」煙草などの火種を入れておく小さな器。

「すくも」葦や萱などの枯れたもの。一説に藻屑或いは葦の根とも。

「鏡の宿」平安時代から見える近江国蒲生郡鏡山の北(現在の滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡。グーグル・マップ・データ)にある東山道の宿駅。早朝に都を出た旅人の多くが最初の宿泊地とした。「平治物語」で源義経が自ら元服した地として知られる。承安四(一一七四)年三月三日、十六歳であった遮那王(牛若丸)は、稚児として預けられていた鞍馬寺を出奔し、その日の晩、この鏡の宿に到着すると、夜も更けてから、自分で髻(もとどり)を結い、懐から取り出した烏帽子を被って元服したとされる。成人した名を付ける烏帽子親もいないかったことから、自ら「源九郎義経」と名乗ったとされる(以上は概ね当該ウィキに拠った)。

「源九郞義經の住宅今に殘りて有、その地の神主の宅地の内にあり」この場所は現在の鏡神社(前記同地に所在)の近くと考えられる(後注参照)。「竜王町観光協会」公式サイトの「鏡神社」の解説に、『垂仁(すいにん)天皇の御代(紀元元年)に帰化した新羅(しらぎ)国の王子天日槍(あめのひぼこ)の従人がこの地に住んで陶芸、金工を業とするに及び祖神として彼を祀ったことに始まり、のち近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が崇敬して護持(ごじ)したと伝えられています』。『本殿は三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)、こけら葺(ぶき)で南北朝時代の建築で国の重要文化財に指定されています』とあり、さらに『源義経(みなもとのよしつね)元服のおり参拝』をした神社とし、『鞍馬をこっそり抜け出した牛若丸は兄頼朝を尋ねんと、奥州の金売り吉次と下総の深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して東下りの途中近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まります』。『平家の追っ手が探しているのを聞き、稚児(ちご)姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決心します』。『そこで地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子(えぼし)を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし』、『元服をしたと伝えられています』。『自らが鳥帽子親となって名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗り、源氏の祖である新羅大明神(しらぎだいみょうじん)と同じ天日槍(あめのひぼこ)を祀る鏡神社へ参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願したのでした』とした後、『源氏は新羅系、平家は百済系と言われています』と注する。『鏡神社の参道には義経が参拝したときに松の枝に鳥帽子をかけたとされる鳥帽子掛けの松があります』ともある。恐らくグーグル・マップの同神社のサイド・パネルのこちらの切株がそれらしい。

「鏡の宿の長」前注の引用に出るところの澤彌傳であろう。同じく「竜王町観光協会」の「源義経宿泊の館「白木屋」(しらきや)跡」の解説に、『本陣の東隣りが「源義経宿泊館跡」で現在は畑地となっており、中央に石碑が建てられています』。『京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(滋賀県竜王町)に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長(おさ)であった澤弥伝』『の「白木屋」の旅籠に泊まりました』。『源九郎義経となる義経誕生の地です』。『写真のような藁葺きの屋根でしたが』(旧写真有り)、『現在は台風のため』、『壊れてしまい、取り除かれて石碑のみとなっています』。昭和三十『年代までは義経にあやかる男児の「とがらい祭り」』(サイト「祭の日」のこちらによれば、毎年十二月第二の午の日に鏡の宿で元服した源義経を忍び、子供と老人が語り合う祭りで、義経の御霊を招き奉る「湯たて神楽」や神事を行った後、子供たちが、鐘と太鼓を打ち鳴らし、「とうがらい、まあがらい、まぁがあったらとうがらい」と大声で囃しながら里山を練り歩く、その囃子から「とがらい祭り」と呼ばれるようになったとあり、この囃言葉は、当時の宿場町としての鏡の白木屋などの宿屋が、客引きのために「泊まらい、まあ上がらい、まあ上がって泊まらい」と言っていたのが起源とされているとある)『の斎場として使われていました』。『烏帽子屋五郎大夫の屋敷は廃絶し』、今は『民家裏側の竹やぶになっています』とある。位置はサイト「4travel.jp」の「白木屋跡」にあるグーグル・マップで確認出来る。グーグル・ストリートビューのここ。鏡神社の東北東百六十メートルほどの位置である。

「ゑこまの德勝寺」現在の滋賀県長浜市平方町にある曹洞宗徳勝寺。前身は応永年間(一三九四年~一四三八年)に東浅井郡上山田村(現在の長浜市小谷上山田町)に建立された医王寺で、小谷城内に移って浅井氏の菩提寺となったが、浅井氏の滅亡によって長浜城内に移り、江戸時代に長浜城下に、また、移転した。境内には浅井亮政・久政・長政の浅井三代の墓がある(ここまではサイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらに拠った)。冠してある地名「ゑこま」の現在地は不詳で漢字表記も判らない。津村が「淺井三代の墓も此寺にあり」と書いているからには、長浜市或いは平方町の旧名でなくてはならないはずだが、判らない。

「長澤といふ所に福田寺といふ本願寺派あり」滋賀県米原市長沢にある浄土真宗本願寺派布施山福田寺(ふくでんじ)。「長沢御坊」とも称される。サイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらによれば、『開創当時は布施寺と』称し、『現在の長浜市布施町にあり、三輪法相宗(みわほっそうしゅう)に属し』『たが、後に天台宗となり、鎌倉時代末に今の浄土真宗本願寺派に改められ』、『現在地に移ったのは南北朝時代で』あるとする。『朝廷と関わりの深かった近江の豪族・息長氏(おきながうじ)の菩提寺でもあったことから』、『息長寺とも呼ばれて』おり、『息長氏は、古代、伊吹山山麓で製鉄にかかわったといわれる豪族で』三『世紀の後半』から六『世紀にかけて大和朝廷に皇后を送り込』んだ有力豪族で『米原市の近江町には息長氏の古墳が残されてい』るとある。寺の『南庭は』『国の名勝に指定され』ており、『浅井長政寄進の室町時代前期の石灯篭も優れたもの』であるとあることで、浅井と繋がった。但し、「德勝寺の旦那」はいいとしても、「開山は淺井家の臣」とするのは不審である。再興したのが、その人物というのならば、まだ、判るが。

「藤浪殿」不詳。

「高宮には金光寺といふ本願寺派あり」滋賀県彦根市葛籠町(つづらまち)にある浄土真宗本願寺派金光寺。東北直近が旧高宮宿である。

「高宮三河守」高宮城主高宮三河守頼勝。浅井長政に仕えたが、後に織田信長に応じた。

「太閤秀吉公若年の時、此金光寺に奉公せられしよし、其時の自筆の日記什物にて今にあり」こうした事実や、それらが現存するかどうかも、ネット上では全く確認出来ない。

「太閤若年よりなでしこを愛せられしとて、はしかたしごきといふ事、今にことわざにいひ傳ふ」全く不詳。「はしかたしごき」の意味も諺というのも丸で判らない。お手上げ。

「長濱といふ所に大通寺とて本願寺派有」滋賀県長浜市にある真宗大谷派別院無礙智山(むげちざん)大通寺。「長浜御坊」「御坊さん」と呼ばれる。やはり、サイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらに、慶長七(一六〇二)年に本願寺第十二代『教如(きょうにょ)を開基として長浜城内に長浜御堂を創建』されたが、『翌年、慶長』八(一六〇三)年に『本願寺は東西に分立』、『その後、長浜城の廃城に伴って大通寺(長浜御坊)も』慶安四(一六五二)年に『現在地に移転し』たとする。『もともと湖北は、蓮如』『が他力念仏の教えを広める布教活動の拠点だった地』であり、『真宗王国と呼ばれた湖北三郡(坂田、浅井、伊香)の中心道場であった総坊を前身として、長浜城内に長浜御堂を創建した』。『寺伝によれば、入母屋造りの本堂(阿弥陀堂)と書院造りの大広間(附玄関)は、伏見城の建物を徳川家康から東本願寺』の『教如へと寄進されたもので、本願寺(東本願寺)の御影堂として用いたものを、承応年間』(一六五二年〜一六五四年)『に移建したものと』されるとある。

「播磨の御房」不詳。

「毛坊主」「真宗大辞典」の「毛坊主」よれば、『普段は妻子とともに生活し、農林業などを営んでいるが、俗人のままで僧侶の役をする者。近世には、山深く、近くに寺僧がいない所では、そうした家筋があった。俗家の一間を道場とよび、大津絵の十三仏や弥陀の画像、名号などをかけ、袈裟を着て』、『経を読み』、『念仏を称えて、死者を葬した。髪を伸ばした俗人が導師となって弔うので』、『このように称したが、正規の僧ではない』。「本朝俗諺志」四や「笈埃随筆」などを見ると、『飛驒にみられたことが出ている。近江や安芸』『にもそのような道場があって』、『一向宗の手次坊主』(てつぎぼうず:農民・町人などが僧形になって仏事を行う者を指す)『となっていた。この毛坊主の前身は』、『古代から存在した在俗性の強い聖(ひじり)であった』。「日本霊異記」や「三州俗聖起請十二箇条事」などに『出てくる、得度をしない半僧半俗の民間宗教者がそれである。有髪に袈裟を着た法師が俗間に遊行するものもあり』、『彼らをも毛坊主といえないことはない』とある。

「毛坊主村」確認不能。非差別的な臭いがする。]

怪談老の杖卷之一 紺屋何某が夢

 

   ○紺屋何某が夢

 江戶赤坂傳馬町に、京紺屋なにがしといふ者、弟子一人に、夫婦にてくらしける。自分は藍瓶(あゐがめ)にかゝり、弟子は豆をひき、女房は、しいしをはりなど、いとまなくかせぐをのこ有(あり)。

[やぶちゃん注:「赤坂傳馬町」現在の東京都港区元赤坂一丁目内にあった旧町名(グーグル・マップ・データ)。由来と旧町名の対応された地図のある港区赤坂地区総合支所作製の「赤坂地区旧町名由来板」PDF)も参照されたい。

「豆をひき」藍染めの初期工程の一つに「呉入(ごい)れ」といって、大豆を絞った液で引き染めすることで、糊の表面を補強するとともにに藍の染付をよくする作業がある。秩父の「齋藤染物店」公式サイトの「製作工程」で確認した。

「しいしをはり」上記のページに次の工程として「伸子がけ(しんしがけ)」がある。「伸子」は「籡」とも書き、読みは「しいし」「しし」とも呼ぶ。布の染色や洗い張りの際に用いる両端に針の附いた竹製の細い串。竹の弾力を利用して布幅を張り伸ばすように、布の両縁に跨らせて刺し留める器具。古くは串の両端を細く尖らせて用いた。]

 十一月ごろの事なり。外より來れる手間取[やぶちゃん注:手間賃を貰って雇われている通いの使用人。]共は、おのが宿々へ歸り、でつちは釜の前に居眠(ゐねむる)まゝに、女房、ふとんをかけ、火などけし、一人のおさなきものにしゝなどやりて[やぶちゃん注:「しゝ」は小便の幼児語。おしっこをさせて。]、しほたう[やぶちゃん注:底本は右にママ傍注。思うに「しをへた」(仕終へた)「しまふた」(仕舞ふた)という意味の口語表現の写し取りを誤ったものであろう。]と、たすき、前だれときて、添乳のまゝに寐入りぬ。亭主は染ものまきたて、あすの細工の手配り、帳面のしらべなどして、九ツ過[やぶちゃん注:午前零時過ぎ。]にやすみけるが、暫くありて、さもくるしき聲にてうめきけるを、女房、ゆりおこして、

「いかに、恐ろしき夢にても見給ひたるや。」

といふに、心づきて、

「扨も、恐ろしや。」

と、色靑ざめ、額に汗をくみ流して語るやう、

「四ツ谷の得意衆まで行て歸るとて、紀伊の國坂の上にて、侍に逢しが、

『きみあしき男かな。』

とおもふうち、刀を引ぬきて追かけしまゝに、

『命かぎりに逃(にげ)ん。』

として、おもはず、おそはれたり。やれやれ、夢にて、ありがたや。誠の事ならば、妻子ども、長き別れなるべし。」

と、わかしざましの茶などのむで、むね、なでおろし居(ゐ)る處に、門の戶を、

「ほとほと」

と、たゝく音するを、

「今頃に何人(なんぴと)ぞ。」

と、とがとが敷(しく)とがめければ、

「いや、往來の者なるが、御家内に、あやしき事はなく候や。火の用心にかゝる事ゆゑ、見すぐしがたく、告知(つげし)らせ候。」

と、いひけるに、亭主も、いよいよ恐ろしけれど、

『戶はしめて、貫(くわん)の木をさしければ、きづかひ無し。』[やぶちゃん注:「ければ」は既にちゃんとそうして「あるので」の意。]

と、さしあしして、すき合より覗きみれば、夢のうちに、我を追かけし侍なり。

 あやしさ、いはんかたなく、

「何事にて候。」

と尋けれぱ、

「われら、きの國坂の上より、ちやわんほどの火の玉を見つけて、あまりあやしく候間、切割(きりわら)んと存(ぞんじ)、刀をぬきけれぱ、此玉、人などの逃(にぐ)るごとく、坂をころびおちて、大路をまろび、此家の戶の間(あひだ)より、内へ入り候ひぬ。心得ずながら、行過(ゆきすぎ)候が、時分がら、火事にてもありては、外々(ほかほか)の難儀なるべしと、屆け置(おき)候なり、かはる事なくば、其分なり、。心をつけられよ。斷申(ことわりまうし)たるぞ。」

と云ひすてゝゆき、四、五間[やぶちゃん注:七~九メートルほど。]も行過て、聲よく、歌などうたひて、さりぬ。

「扨は。わが魂のうかれ出たるを、火の玉とみて、追はれし物ならん。あやぶかりし身の上かな。」

と、夫婦ともに神棚など拜して、その夜は日待(ひまち)同前に夜を明(あか)しぬ。

 夢は、晝のおもひ、夜の夢なれば、さる事あるべき道理はあるまじと思へど、天下の事、ことごとく理(り)を以て、はかりがたき事、此類(たぐひ)なり。是はうける事にあらず。しかも、いと近きもの語りなり。

[やぶちゃん注:最終部は少し意味をとり難い。「夢というものは、当人が昼の覚醒時に感じたことが、夜の夢となって現れるに過ぎないから、そのような怪異が起こったこととの因果関係はあるはずがあるまいとは思われるが、この世に起ることは、総てが論理的に考察し得、説明出来るものではないという事実こそ、こうした事例を物語るものである。されば、そうした怪異を理路整然と解釈することは受け入れられるものではない」という意味であろうととっておく。

 さても本篇は江戸市街の、筆者の今現に書いている折りの直近の怪異譚と言うことから、典型的なアーバン・レジェンド(都市伝説)であって、しかも、その怪異出来のロケーションが「紀伊の國坂」(グーグル・マップ・データ)であって、まさに「小泉八雲 貉 (戸川明三訳) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」(リンク先は私の原拠附きの電子化注)で知られた強力なゴースト・スポットであることからも、民俗社会的には定番とも言える話ではある(但し、何らの新味もなく、ちょっとしょぼいのが残念であるが)。なお、先行する私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』では、小泉八雲の原文も電子化してあるので参照されたい。]

2021/02/24

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注(PDF縦書版)公開

『「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注』PDF縦書版をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:標題は「ペルーこくにへうちやくせるにほんじん」と読む。初出は大正元(一九一二)年十月発行の『人類學雜誌』第二十八巻十号で、初出は「J-Stage」のこちらで原雑誌のそれを読むことが出来る。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのここからである。これは「南方隨筆」の先の論文などが載る『東京人類學雜誌』が正しいのではないかと思われる方がいるかも知れぬので言っておくと、『東京人類學雜誌』は明治四四(一九一一)年に会誌名を『人類學雜誌』と改めており、編集方針も大きく変わっていた。]

 

      秘魯國に漂著せる日本人

 

 英譯 Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164 に、東西南半球間過去の交通を論じ、「日本と支那より西北亞米利加に漂著せる人あり。又米國の貨品が布哇[やぶちゃん注:「ハワイ」。]に漂著せる例あり。然れども南半球に至りては、高緯度に有て風と潮流が西より南米大陸に向ひ、赤道近くに隨ひ、風潮並びに南米より東方に赴き去り、凡て東半球と南米間に人類の彼此往來ありし確證實例なし。たゞ民俗相似の點多きより推して、曾て斯る交通有たるを知るのみ」と述たり。

[やぶちゃん注:「Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164」ドイツの地理学者・生物学者フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:当時、隆盛であった社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖でもある)の「民族学」(Völkerkunde:全三巻。一八八五年)の第一巻の英訳本。当該英訳原本を‘Internet archive’で読め、当該箇所はこちら(左ページ)である。

 以下の段落は底本では全体が一字下げである。]

 未開の民が、風と潮流に逆うて弘まり行きし例あるは、第二板「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁に、多島海人[やぶちゃん注:ポリネシア人。]、古へ航海に長じ、其邊の風と潮流主として東よりすれども、時に西よりする事有るを利用し、印度洋島より發程して、遂に遠く多島海諸島に移住せる由を言へり。Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv. に、南太平洋に太古今よりも遙かに島數多かりしが、漸々海底に沈みし由を論じ、多島海人が往昔航海術に長ぜる記述に及ぼし、人間が東半球より西半球に弘まりしは、第一に多島海より南米に移りて秘魯中米等の開化を建立し、第二に大西洋を經て西印度中米「ブラジル」等に及ぼし、第三に「ベーリング」海峽及び北太平洋諸島より北米に入りし者の如しと說きたり。

[やぶちゃん注:『「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁』一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家で航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。これもやはり、‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。

「Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv.」スコットランド生まれのカナダの考古学者・民族学者・作家ダニエル・ウィルソン(一八一六年~一八九二年)の「先史時代の人間」。一八六二年刊。原本は、やはり‘Internet archive’のこちらで読める。

 以下、本文位置へ戻る。]

 今東半球の赤道以北よりすら、甞て南米に漂著せる人の絕無ならざるを證する爲に、予の日記の一節を略ぼ原文の儘寫し出す事次の如し。

 明治二十六年七月十一日夕、龍動市「クラパム」區「トレマドク」街二十八番館主美津田(みつた)瀧次郞氏を訪ふ。此月六日、皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)の婚儀行列を見ん迚、「ビシヨプスゲイト」街、橫濱正金銀行支店に往し時相識と成し也。此人武州の產、四十餘歲、壯快なる氣質、足藝を業とし、每度水晶宮等にて演じ、今は活計豐足すと見ゆ。近日西班牙に赴き興行の後歸朝すべしと云ふ。子二人、實子は既に歸朝、養子のみ留り在り、其人日本料理を調へ饗せらる。主人明治四年十一月本邦出立支那印度等に旅する事數年、歸朝して三年間京濱間に興行し、再び北米を經て歐州各國より英國に來り、三年前より今の家に住すと云々。旅行中見聞の種々の奇談を聞く。西印度諸島等の事、大抵予が三四年前親く見し所に合り、氏秘魯國に住しは明治八年十二月にて、六週間計り留りし内奇事有り。平田某次郞と云ふ人、七十餘歲と見え、其甥三十餘と見えたり。此老人字は書けども、本朝の言語多く忘却しぬ。美津田氏一行本邦人十四人有て、每日話し相手に成し故、後には九分迄本邦の語を能する[やぶちゃん注:「よくする」。]に及び、此物彼品を日本にて何と言りや抔問たり。兵庫邊の海にて、風に遭ひ漂流しつ。卅一人乘たる船中三人死し、他は安全にて秘魯に著せり。甥なる男當時十一歲なりし。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。南方熊楠は明治一九(一八八六)年十二月二十二日に横浜港より渡米し(満十九歳)、六年後の一八九二(明治二十五)年九月にイギリスに渡った。この年には科学雑誌『ネイチャー』(NATURE)十月五日号に初めて論文‘The Constellations of the Far East’(「極東の星座」)を、同十月十二日号には‘Early Chinese Observations on Colour Adaptations’(「動物の保護色に関する中国人による先駆的観察」)を寄稿している。

「龍動」ロンドン」。

『「クラパム」區』Clapham。クラパム。南ロンドンの広域地区名。

「トレマドク」底本は「トレマドリ」。初出で訂した。Tremadoc。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に「トレマドック通り」がある。

「美津田(みつた)瀧次郞」ルビは底本では「みつだ」とあるが、初出及び「選集」は「みつた」であり、「南方熊楠 履歴書(その5) ロンドンにて(1)」(私の五年前の電子化注)でも「みつた」とルビするので特異的に訂した。そこで私は美津田瀧次郎(嘉永二(一八四九)年?~?)は足芸(あしげい:仰向いて寝て挙げた足だけで樽や盥などを回したりする曲芸)を得意としたサーカス芸人で、「南方熊楠コレクション」(河出文庫)の注によれば、南方熊楠の明治二六(一八九三)年『七月の日記に「美津田滝次郎を訪、色々の奇談をきく」とあるように、しばしば親交を結んだという注した後、本篇のこの前後を初出で電子化している。

『皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)』後のウィンザー朝初代君主イギリス国王ジョージⅤ世(George V 全名:ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート:George Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)。一八九三年七月六日にメアリー・オブ・テック(Mary of Teck 一八六七年~一九五三年:現女王エリザベスⅡ世の祖母)と結婚した。

「ビシヨプスゲイト」Bishopsgate。ロンドンのビショップスゲート地区。この通り

「橫濱正金」(しやうかね(しょうかね))「銀行支店」明治一三(一八八〇)年に「国立銀行条例」に基づいて設立された貿易金融専門銀行。資本金三百万円の三分の一は政府の出資。明治三〇(一八九七)年には「横浜正金銀行条例」により特殊銀行に改組され、「日露戦争」以後、満蒙で植民地銀行の役割も果たした。世界各地に支店を置き、昭和に入って政府の為替統制機関となった。ロンドン支店は明治一六(一八八四)年十二月一日開業。

「水晶宮」The Crystal Palace。原型は一八五一年にロンドンのハイド・パークで開かれた「第一回万国博覧会」の会場として建てられた建造物。造園家・建築家であったジョセフ・パクストン(Joseph Paxton  一八〇三年~一八六五年)の設計になり、鉄骨とガラスで作られた巨大な建物で、プレハブ建築物の先駆ともされる。パクストンの設計では長さ約五百六十三メートル、幅約百二十四メートルのであった(「水晶宮」という名称はイギリスの雑誌『パンチ』(PUNCH)御用達の投稿者であった劇作家で作家のダグラス・ウィリアム・ジェロルド(Douglas William Jerrold)が名づけた)。参考にしたウィキの「水晶宮」によれば、『万博終了後は一度解体されたものの』、一八五四年には『ロンドン南郊シデナムの丘において、さらに大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデン、コンサート・ホール、植物園、博物館、美術館、催事場などが入居した複合施設となり、多くの来客を集めていた』。しかし、一八七〇『年代頃から人気に陰りが見え始め』、一九〇九『年に破産し』、『その後は政府に買い取られ、第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用され、戦後』に『一般公開が再開されたが』、一九三六年十一月に『火事で全焼して』再建されなかったとある。

「活計豐足す」「かつけいほうそくす」。生活は満ち足りている。

「明治四年十一月」本邦では明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで太陰太陽暦(旧暦)を採用していたため、西暦とはズレが生じる。熊楠が換算している可能性は限りなく低いから、この月は旧暦十二月一日はグレゴリオ暦では一八七一年十二月十二日で、晦日(この年は小の月で十一月二十九日)は一八七二年一月九日である。

「平田某次郞」「某」はママ。こんな名は聴いたことがない。熊楠は正確な名をその場では聴いたが、覚えていなかったから、かく記したものかも知れない。]

 其後他は盡く歿し、二人のみ殘り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮し、甥は可なり奇麗なる古着商を營み居れりと。老人も、以前は手工を營みし由、健全長壽の相有て、西班牙人を妻れりと[やぶちゃん注:「めとれりと」。]、其乘來りし船は、美津田氏一行が著せし三年前迄、公園に由來を記して列し有りしが、遂に朽失せぬ。美津田氏一行出立に臨み、醵金して彼人に與へ、且つ手書して履歷を記せしめ、後桑港[やぶちゃん注:「サンフランシスコ」。]に著するに及び、領事館へ出せしに、秘魯政府に照會の上送還せしむべしと也。以後の事を聞き及ばずと云ふ。一行「リマ」市を立ち離るゝ時、老人も送り來り、名殘惜げに手巾を振り廻し居りしと、美津田氏ら桑港に著せし時、在留の邦人纔に三人、領事柳谷と云ふ人親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]旅館へ來訪されたり云々。

[やぶちゃん注:「醵金」「きよきん(きょきん)」。ある目的のために金を出し合うこと。

「領事柳谷」在サンフランシスコ日本領事館の開設は明治三(一八七〇)年の秋で、明治九(一八七六)年に最初の日本人領事柳谷謙太郎が着任している(その間はアメリカ人が代理を務めた。以上は「在サンフランシスコ日本国総領事館」公式サイト内の歴史記載に拠った)。

 以下の一段落は、底本では全体が一字半下げでポイント落ち。]

 美津田氏は、質直不文の人なれど[やぶちゃん注:「ど」は底本は「ば」であるが、初出で訂した。]、假名付の小說を能く讀みたり、其談話は一に記憶より出し故に、誤謬も多少有るべきと同時に、虛構潤色を加ること無しと知らる。又予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覺ゆるは、件の老人に歸國を勸めしに、最初中々承引せず。吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ずと言ひしとか。

[やぶちゃん注:「質直」「しつちよく(しっちょく)」は地味で真面目なさま。質朴。

「不文」正規の日本の教育を殆んど受けていなということ。

「吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ず」平田老人のこの言葉、何か私は頭が下がる思いがする。

 以下、本文に戻る。]

 件の美津田氏は、その後二子(共に養子也。日記右の文に一人は實子とせるは謬り也。)俱に違背して重き家累を生じ、自ら[やぶちゃん注:「おのづから」。]歸朝するを得ず。更に「もと」と名づくる一女(邦人と英婦の間種、芳紀十五六、中々の美人也)を養ひ、龍動に二三年留り居[やぶちゃん注:「をり」。]、予も一二囘訪しが、其後の事を知らず。右の日記に書留めたる外にも、種々平田父子の事を聞きたるも、予只今記憶惡く成て、一筆を留めざるは遺憾甚し。近頃柳田國男氏に問合せしに、柳谷謙太郞氏明治九年十月九日より十六年三月三十一日迄、桑港領事として留任せりと答へらる。因て考るに、美津田氏一行、九年正月中「リマ」を出立し、諸方を興行し廻り、其年十月後桑港に著きたるならん。「ブラジル」「アルゼンチン」等に到りし話も聞きたれば、斯く思はるゝ也。

[やぶちゃん注:南方熊楠は事実関係をしかり確認している。

「家累」(かるい)は家族内の悩み事。「違背」とあるから、犯罪に近い非行を働いてしまったものか。]

 序に述ぶ、右の日記二十六年七月二十二日の條に「美津田氏宅にて玉村仲吉(ちうきち)に面會す。埼玉縣邊[やぶちゃん注:「あたり」。]の人。少時足藝師の子分と成り、外遊中病で置去られ、阿弗利加沿岸の地諸所多く流寓、十七年の間、或は金剛石[やぶちゃん注:「ダイヤモンド」。]坑に働き、又「ペンキ」塗り抔を業とせし由、「ズールー」の戰爭に英軍に從ひ出で、賞牌三つ計り受用すと。予も其一を見たり。白蟻の大窠等の事話さる。日本語全く忘れしを、近頃日本人と往復し、少しく話す樣に成れりと。龍動の西南區に英人を妻とし棲み二年有りと也」と有り。所謂「ズールー」の戰爭は、明治十二年の事にて、「ナポレオン」三世の唯一子、廿三歲にて此軍中蠻民に襲はれ犬死せり。當時從軍の玉村氏廿歲計りの事と察せらる。日本人が早く南阿の軍に加はり、多少の功有りしも珍しければ附記す。明治二十四年頃、予西印度に在りし時京都の長谷川長次郞とて、十七八歲の足藝師、肺病にて「ジヤマイカ」島の病院にて單身呻吟し居たりし。斯る事猶ほ多からん。

         (大正元年十月人類二八卷)

[やぶちゃん注:「金剛石」ダイヤモンド。

『「ズールー」の戰爭』英語‘Anglo-Zulu War’は一八七九年にイギリス帝国と南部アフリカのズールー王国(インド洋の沿岸部に十九世紀に南アフリカ東海岸部に建国された君主国。十九世紀初め、ズールー族の王となったシャカが軍事組織と武器を改革し、周辺の部族を次々と統合して、一八二四年にはポート・ナタール(現在のダーバン)のイギリス人入植者と友好関係を結んで、鉄砲を入手し、それを使って、さらに王国の版図を広げた。一八二八年には異母弟のディンガネがシャカを殺して王位に就き、さらに領土の拡大を図った)との間で戦われた戦争。この戦争は幾つかの血生臭い戦闘と、南アフリカに於ける植民地支配の画期となったことで知られる。イギリス植民地当局の思惑により、本国政府の意向から離れて開戦したものの、英国軍は緒戦の「イサンドルワナの戦い」で、槍と盾が主兵装で火器を殆んど持たなかったズールー軍に大敗を喫し、思わぬ苦戦を強いられた。その後、帝国各地から大規模な増援部隊が送り込まれ、「ウルンディの戦い」で近代兵器を用いたイギリス軍が王都ウルンディを陥落させ、勝利し、ズールー国家の独立は失われた(以上はウィキの「ズールー戦争」に拠った)。

「大窠」(だいくわ(だいか))は大きな巣のこと。

『「ナポレオン」三世の唯一子』父ナポレオンⅢ世の嫡出子でフランス第二帝政時代の皇太子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(Napoléon Eugène Louis Bonaparte 一八五六年~一八七九年)。父ナポレオンⅢ世に溺愛されたという。「普仏」戦争の初期、フランス軍が各地で劣勢となり、ナポレオンⅢ世は捕虜となり、一八七〇年九月二日から四日までの二日間だけ、彼が表面上の政務を取り仕切ったが、その四日、パリで民衆の暴動が起こり、九月六日にイギリスへ亡命した。イギリスでは砲兵学校に入学し、好成績で卒業、ヴィクトリア女王に愛称の「ルル」で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどであった。イギリスへの恩返しとして「ズールー戦争」に従軍、ズールー族の襲撃を受けて戦死した。子はなく、ナポレオンⅢ世の直系は絶えた(以上は彼のウィキに拠った)。

「明治二十四年」一九〇一年。

「長谷川長次郞」詳細事績不詳。]

怪談老の杖 電子化注 始動 / 序・目次・卷之一 杖の靈異

 

[やぶちゃん注:「怪談老の杖」は底本(後述)の朝倉治彦氏の「後記」によれば、序文からの推定で宝暦四(一七五四)年、元は友人で文人御家人・狂歌師の大田蜀山人の旧蔵書(途中に二箇所の大田の識語がある)「平秩東作全集」の下巻の一部であるらしい。

 作者平秩東作(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)は戯作者・狂歌師・漢詩人。姓は立松。名は懐之(かねゆき)。平秩東作は戯号。号に東蒙山人。内藤新宿生まれ。父道佐は元尾州藩士で、屋号を稲毛屋金右衛門と名乗った。東作が十歳の時に父が亡くなり、十四歳で父の後を継いで、馬宿(うまやど:自分の馬で旅をする者が宿に泊まる際、その馬を宿で預かったり、馬を預かる設備のある宿屋を営むこと)及び煙草商になった。漢文学や和歌の教養があり、平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)と親交を持った。天明三(一七八三)年から翌年までは松前と江差に滞在しており、アイヌ風俗及び蝦夷地風土について見聞したところを記した「東遊記」を著しており、狂歌師としても知られ、四方赤良(よものあから:大田(蜀山人)南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)の狂号)らとも交友を持った。田沼意次絡みの幕府関連事業にも手を染めたが、「寛政の改革」によって幕府の咎めを受けており、そちらの実業面では「山師」的な側面をも持っていたようであるが、一方で、知己であった旗本土山(つちやま)宗次郎が買米金五百両を横領で逐電した際には彼を匿って捕縛されたり(宗次郎は斬首)、平賀源内が獄死した後、罪人なれば、遺体の引き取り手のなかった中、公儀に目をつけられることを覚悟の上で、東作が引き取ったともされ、一種、男気のある人物でもあった。

 底本は「燕石十種」(大正二(一九一三)年国書刊行会刊明治45-正字正仮名)の国立国会図書館デジタルコレクションの画像としたが、所持する同書の昭和五六(一九八一)国書刊行会刊「新燕石十種 第五巻」(新字正仮名)をOCRで読み込み、加工データとしつつ、校合した。

 本文にはごく僅かにルビが附されてあるので、それは《 》で示し、難読と判読した箇所には私の推定で歴史的仮名遣で( )で読みを附した。序を除く本文では、段落を成形し、句読点や記号も変更・追加した(底本は読点のみで句点はない)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。注はストイックに附した。【2021224日 藪野直史】]

 

  怪談老の杖

 

  怪談老の杖序

            平 原 子 編 輯

逍遙軒太田翁は、持資入道の遠裔にして、世(よゝ)控弦(こうげん)の家なり、壯なりし時は、豐後の國の城主に仕(つかへ)て、食祿三百石を賜り、威焰(いえん)手をあぶる勢なりしが、主侯うせ給ひて、其後睚眦(がいさい)の士多く、その口語に中(あて)られて、藩邸を退き、葛飾の邊に閉居して、奉祿の餘りありて、豐(ゆたか)に暮されしが、池魚の災(わざはひ)に逢ふ事、しばしば、生產漸(やうやく)盡きて、城西の膝子(ひざこ)驛にうつり、門を杜(とぢ)て出ざる事二十餘年、性、淸潔にして世に謟(へつら)はず、文武の業に精(くは)しかりければ、武邊の物語を好み、又怪異の話を嗜(たしな)みて、明暮、是を娛(たのしみ)とせり、若き頃、西海の往返(わうへん)年を重ね、爰かしこの奇談をしるしおかれけるが、老後の著述を合せて、頗る卷(かん)帙(ちつ)をなせり、翁八十にちかくて終り給ひぬ。歿後、その書、散逸して全(まつた)からず。一婢あり、幼(いとけなき)より翁に事(つか)へて恭敬(きやうけい)衰へず、のち、尼となりて、好運尼とよべり。こころざま、誠ありて、手など、拙(つたな)からず書(かき)けるが、反古堆(ほぐつい)の中(うち)より、ひとつ、ふたつと、求めいでゝ、箱のうちに祕めおきしものあり。乞ふてみれば、翁の手澤もなつかしく、また、みん人のこゝろをなぐさめ、善に勸むのはしともならば、翁の志しもむなしからじと、[怪談の卷を集めて]しげきを刪(けづ)り、疑しきを闕(はぶき)て、十あまりの卷となりぬ、書林なにがし、いたく乞ひてやまず、いなみがたくて是を與ふ。翁、姓名を變じては福井氏となり、流憩子と號す。語は淵明が賦中にとれり。此書、まづ、はじめに、杖の怪あるも、そのゑにしなきにあらず、よて、取あへず、老の杖と題し、これが序、かきてつかはす事になりぬ。

  寶曆丙戌の春

                 紫桃軒主人謹誌

[やぶちゃん注:「平原子」「紫桃軒主人」孰れも平秩東作の号。

「逍遙軒太田翁」「福井」「流憩子」本篇の原作者とするが、不詳。

「持資入道」室町後期の扇谷上杉家の家宰にして武蔵守護代で、江戸城の築城で知られる太田道灌(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)の諱(いみな)。

「控弦」弓術。

「豐後の國の城主」小藩が分立した豊後には九つもの藩があるので、特定は不能。最大の石高(七万石)で城持ちとなると、岡藩(藩庁は岡城(グーグル・マップ・データ)。豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった)である。しかも、第一話の主人公がまさに「岡の城外」に住んでいるからして、そこでよかろうか。

「威焰」権勢。

「睚眦」「睚」は「睨む」、「眦」は「まなじり」の意。目を怒らして睨みつけること。憎そうに人を見ること。

「口語」語り合い。ここは前の「睚眦の士」から、分相応の扱いを得られないことへの憤懣の主張や言い争いを指すものと思われる。

「池魚の災」思いがけない災難に巻き込まれること。側杖を食うこと。特に回禄(火事)で類焼に遇うことを指すことが多い。原拠は、「池に投ぜられた宝珠を得ようと池を浚ったため、中の魚が総て死んだ」という「呂氏春秋」の「孝行覧 必己」の故事によるが、語源を語る中では、「城門が焼けた時、池の水を使ったために死んだ」として引用されることが多い。江戸は甚大な大火が多かったから、腑に落ちる謂いである。

「生產」ここは「生活に必要な物資の蓄え」の意。「しやうざん(しょうざん)」とも読む。

「膝子驛」現在の埼玉県さいたま市見沼区膝子(グーグル・マップ・データ)。旧北足立郡膝子(ひざこ)村。江戸時代は立場(たてば:五街道や脇街道に設けられた施設で「継立場(つぎたてば)」「継場(つぎば)」とも称する。江戸時代の宿場は、原則、道中奉行が管轄した町を指すが、五街道などで次の宿場町が遠い場合、その途中に、或いは、峠のような難所がある場合、その難所の近くに休憩施設として設けられたものを立場と称した)として栄えたという。

「杜て」「杜」には「塞ぐ・閉じる」の意がある。

「全(まつた)からず」取り纏めて残ることがなかった。

「好運尼」不詳。当初、この由来そのものが総て架空の話で、本篇は仮託であるように私には思われたが、先の朝倉氏の「後記」に、『巻四の終りの第四話は、福井翁の直話を記してあるから、この条は原稿からの抄出ではあるまい。それに続いて、蜀人が東作から聞いた、幼時の実話が書きそえてある』とされるのを見るに、必ずしも仮託とは言い切れぬ感じがする。

「反古堆」書き散らして定稿としなかった文章片の山。

「手澤」(しゆたく(しゅたく))「手沢本」の略。先人が生前に愛読した本。先人の書き入れなどがある本を指す。

[怪談の卷を集めて]底本では全体が四角で囲われている。この仕儀は以降、このように示し([ ]に下線)向後はいちいち注さない。底本編者に拠る諸本を校合した推定補填と思われる。

「しげき」あまりに煩わしい記載部分を示す。

「十あまりの卷となりぬ。書林なにがし、いたく乞ひてやまず、いなみがたくて是を與ふ」所持する刊本の朝倉氏に「後記」によれば、刊行された事実は見当たらないとある。本篇の巻数も、また、合わない。

「流憩子と號す。語は淵明が賦中にとれり」知られた陶淵明の「歸去來兮辭」の一節に、

   *

策扶老以流憩(扶老(ふらう)を策(つゑつ)き 以て 流憩し)

   *

がある。言うまでもないが、「扶老」は「杖」のことであり、この新たに「逍遙軒太田翁」「福井」氏が号したそれを説明するとともに、本篇の題名「老の杖」の由来も第一話のみならず、それに淵源することを「此書、まづ、はじめに、杖の怪あるも、そのゑにしなきにあらず」と但し書きするのである。

「よて」「依りて」。

「寶曆丙戌」宝暦には「丙戌」(ひのえいぬ/へいじゆつ(へいじゅつ)はない。朝倉氏の「後記」では、太田蜀山人は、「甲戌」で宝暦四年(一七五四年)或いは「丙子」で宝暦六年『と考えて朱を入れているが、甲戌(四年)ではあるまいか』と注されておられ、冒頭注ではそれを採用させて戴いた。

 

 

怪談老の杖目次

 

  卷之一

 杖の靈異

 紺屋何某が夢

 小島屋怪異に逢し話

 水虎かしらぬ

 幽靈の筆跡

 石塔の飛行

 

  卷之二

 半婢の亡靈

 生靈の心得違

 狐鬼女に化し話

 くらやみ坂の怪

 化物水を汲む

 貉童に化る

 多慾の人災にあふ

 

  卷之三

 美濃の國仙境

 吉原の化物

 小豆ばかりといふ化物[やぶちゃん注:底本は「小豆はかり」と清音であるが、本文で「ばかり」と濁っており、所蔵の同書も濁音であるので、特異的に訂した。]

 德島の心中

 慢心怪を生ず

 狐のよめ入

 狸寶劔をあたふ

 

   卷之四

 藝術に至るの話

 厩橋の百物語

 (失題)

 福井氏高名の話

 

 

怪談老の杖卷之一

 

   ○杖の靈異

「ちはやぶる神やきりけんつくからにちとせの坂も越えぬべらなり」

と、よみて、杖はめでたき具なり。されば、費長房が杖は龍と化し、□□□□[やぶちゃん注:底本はここに囲み字で『原本缺字』とする。四字分相当。]杖は鶴となりし例(ため)しありといふに、爰にもまた、奇異の物語を傳へぬ。

 豐後の國岡の城外に、物外(ぶつぐわい)といへる隱士あり。もとは諸侯に仕官の身なりしが、心にそまずやありけん、病(やまひ)に託して、身、退き、世をやすく暮しぬ。

 常にまがれる竹の杖を愛して、いづ方へも攜(たづさ)へ出られけるが、そのかたち、ふし、しげく、所々、くびれ、入りて、いとめづらなるさま、[なか杖][やぶちゃん注:所持する刊本では、この囲み字(則ち、推定で補った欠字)が『なる杖』で、この方がすんなり読める(読点を排して「いとめづらかなるさまなる杖」)ことは事実である。]なりしを、いたく、けふ[やぶちゃん注:ママ。]じて、

「謝靈運が笠のためしも引出つべう、おのが心のゆがめるには、よき、いさめ草なり。」

など、愛せるあまり、常にも袋に入れ、あからさまなる處にもおかず、逸樂の身なれば、あるは、釣(つり)、たれ、野山の花もみぢに、一日(いちじつ)も、宿にある日は、まれなるに、いづかたへ行ても、かたはらに引そばめて、あたかも、寶鼎・重器のごとくかしづかれけるを、そしれる人も多かりけり。

 ある日、城下より三里程脇に、心やすく語う[やぶちゃん注:「かたらう」。ママ。実は底本は「語り」。所持する刊本で特異的に訂した。]僧のありしを訪(とぶら)はんとて、宵より僕(しもべ)にいひつけて、土產やうのものなど、取したゝめ、いつよりもはやく、閨(ねや)に入りて、休まれける夢に、同じ僧のがりゆくとて、野道にふみ迷ひ、茫然たる折ふし、むかふより若き男の、たけ高く、ふとりたるが、あゆみ來りて、

「きみには、いづこへおはしますにか。」

と、いと馴れ馴れしげにいふを、『あやし』と、おもひて、

「そこには、誰(た)れぞ。」

と問ヘば、

「我は、朝夕に君の傍(かたはら)を離れぬものを。うとうとしき仰(おほせ)かな。道に迷ひ給ふにこそ。我に順ひて來り給へ。」

と、先にたつを、『あやし』と、おもふおもふ、つきて行しに、その傍の岸、にはかに崩れて、下に、あめうしのありしが、うたれて死したり、と見て、夢さめぬ。

「さても。夢にてありし。」

と、兎角して、又、寐入り、翌の日、何心なく出行(いでゆき)ぬるに、主從ともに道にふみ迷ひて、爰(ここ)よ、かしこと、尋(たづね)さまよへど、ふつうに、知れず。

「狐などの化(ばか)すにや。」

と、眉につばなどぬり、心を靜めて尋ぬれど、畑道にて、しれざりしに、よべの夢の事、おもひ出(いで)て、

「さては。杖のしらせたるなるべし、實(げ)にも、『道に迷へる人は、杖を立て知る』といふ事も侍るにや。」

と、杖を念じて立(たて)つゝ、さて、杖のたふれたるかたを、めあてに、行ぬ。

 いつもゆく道とはたがふ、と覺へけれど、

「かく心付しうへは、しかるべき敎(をしへ)ぞ。」

と、信じ行けるに、巳の時[やぶちゃん注:午前十時頃。]ばかりにや、おびたゞしき地震、ゆりいでゝ、みるがうちに、過來(すぎこ)し道、くづれ、日頃すみし家も、上の山、崩れて、ひしげぬ。

 爰かしこにて、人も死し、牛馬もうせけるに、物外主從はつゝがなくて、橫難(わうなん)をまぬがれける。

「是、またく、杖の靈異なり。」

とて、囊を、改め、箱をつくりて、いとゞ貴(たふと)みける。

 その子孫、今になほ敬ひて、神のごとく奉ずるといへり。

 かの「徒然草」にかける土おほねも、愛するよりぞ、今はの時の災(わざはひ)を助けけん。心なきものといへども、いと哀れに年頃の情(なさけ)をば、おもひしりけるにこそ、まして、人たるものの、さる心なき、論ずるにも足らず、淺ましといへり。

 物外子、仕官の時の名は、山田半右衞門といへり。その子、外記(げき)、その孫、又半右衞門といふ。正德年中の事なり。

[やぶちゃん注:「ちはやぶる神やきりけんつくからにちとせの坂も越えぬべらなり」「古今和歌集」の巻第七「賀歌」の僧正遍照の一首(三四八番歌)、

   *

    仁和の帝(みかど)の、親王(みこ)に
    おはしましける時に、御をばの、
    八十(やそぢ)の賀に、
    銀(しろがね)を杖に作れりけるを
    見て、かの御をばに代りてよみける

 ちはやぶる神や伐りけむ突くからに

      千とせの坂も越えぬべらなり

   *

である。「この銀の杖は、神がお伐り出しなさったものなのでしょうか。お突きになってお歩きになれば、必ず、千年の長寿の坂さえもきっとお越えになられるに違い御座いません」という意である。

「費長房が杖は龍と化し」(ひちやうばう(ひちょうぼう))は後漢の方士・仙人(生没年未詳)。『柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(1)』の冒頭本文と私の注を参照されたい。

「杖は鶴となりし」原本がどの伝承を引いたかは判らぬが、鶴は仙人の常用する乗り物であるから、腑に落ちる。

「物外(ぶつぐわい)」この名も人を食った名である。「物外」とは「物質界を超越した世界・俗世間の外」の意である。

「病に託して」病気を口実として。無論、仮病である。

「謝靈運が笠のためし」「謝靈運」(しゃれいうん 三八五年~四三三年)は六朝時代の宋の詩人。貴族で祖父謝玄は晋の車騎将軍康楽公。その祖父の爵位を若くして継いだので「謝康楽」とも呼ばれる。自負心が強く、野心家であったが、宋代には不遇で、永嘉太守などを務めた後、辞任し、畜財にまかせて山水を遊歴したが、「謀反を企てた」として広州に流され、処刑された。当時、最高の教養を持ち、六朝を代表する詩人で、洗練された感覚と繊細な表現で山水の美を謳った。仏典に関する著述もある。一族の謝恵連・謝朓(しゃちょう)とともに「三謝」と呼ばれる。これは「世說新語」の「言語」の掉尾に、

   *

謝靈運、好戴曲柄笠、孔隱士謂曰、「卿欲希心高遠、何不能遺曲蓋之貌。」。謝答曰、「將不畏影者、未能忘懷。」。

(謝靈運、好んで曲柄笠(きよくへいりう)を戴く。孔隱士、謂ひて曰はく、「卿、心に高遠を希(ねが)はんと欲するに、何ぞ曲蓋(きよくがい)の貌(ばう)を遺(わす)るること、能(あた)はざる。」と。謝、答へて曰はく、「將(は)た影(かげ)を畏るる者は、未だ懷(おも)ふことを忘すること、能はざらんや。」と。)

   *

とあるのに基づく。「曲柄笠」は元は柄の曲がつた車蓋(車に立てる大きな傘)であるが、後に貴人の儀仗として用いた。「孔隱士」(孔淳之)は彼が「曲柄笠」という物の外形に拘ることを批判して言ったのに対して、霊運は、「君のように影を恐れて批難する者は、実は未だに影という対象たる事物が念頭を去っていないということを示してはいないかね?」とパラドキシャルに返したのである。

「がり」名詞。~のもと(所)へ。多く、このように人を表す名詞・代名詞に格助詞「の」が付いた形に続く。

「うとうとしき」「疎疎しき」。如何にもな「よそよそしい」応答であることをたしなめたのである。

「道に迷ひ給ふにこそ。」結びの省略。強意。

「岸」切岸(きりぎし)。崖。

「あめうし」「黃牛」飴色の毛色の牛。古くは立派な牛として貴ばれた。

「眉につばなどぬり」狐に化かされないようにためには、眉に唾をつけるとよいと言う。これは「狐に化かされるのは眉毛の数を読まれるからだ」と信じられたからで、濡らしてくっ付けて数えることが出来ないようにするという謂いとされる。但し、私は唾の腥い臭いも呪的効果を持つものと考えている。

「畑道にて、しれざりしに」ずっと畑の続く、それ以外に何も変化のない道で、全くどこであるか判らない事態に陥り、の意。現在で言うところの、所謂、単調な高速道路を走行中に運転者が眠気などを催す「ハイウェイ・ヒプノーシス」(Highway hypnosis)や、山中や雪・霧の中でしばしば起こる人が方向感覚を失って無意識のうちに円を描くように同一地点を彷徨(さまよ)い歩く「ルングワンダリング」(和製ドイツ語:Ringwanderung:輪(環)形彷徨)に類似した疑似超常現象とも言える。

「道に迷へる人は、杖を立て知る」「杖を念じて立つゝ、さて、杖のたふれたるかたを、めあてに、行ぬ」民俗社会に於ける呪的なお約束ごとである。

「橫難」不慮の災難。

『かの「徒然草」にかける土おほね』同書第六十八段の大根好きの男の不思議な話である。以下に示す。

   *

 筑紫(つくし)に、某(なにがし)の押領使(あふりやうし)[やぶちゃん注:警察官相当。]などいふ樣(やう)なる者のありけるが、土大根(つちおほね)を萬(よろづ)にいみじき藥とて、朝ごとに二つづゝ燒きて食ひける事、年久ひさしくなりぬ。

 或る時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來(き)て、圍(かこ)み攻めけるに、館の内に、兵(つはもの)、二人、出で來て、命を惜(を)しまず、戰ひて、皆、追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、

「日比(ひごろ)こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」

と問ひければ、

「年來(としごろ)賴みて、朝な朝な、召しつる土大根にさぶらふ。」

と言ひて、失せにけり。

 深く信を致しぬれば、かゝる德もありけるにこそ。

   *

「山田半右衞門」「その子、外記(げき)」「その孫、又半右衞門」似たような名を探すことは出来るが、ここはさような詮索は無粋としておこう。

「正德」宝永の後で享保の前。一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・家継の治世。]

2021/02/23

譚海 卷之四 肥前國溫泉ケ嶽の事

 

○肥前溫泉ケ嶽(うんぜんがだけ)の湯は、わきあがる事數丈にいたる、嶽上(がくじやう)より望めば、深(ふかき)谷の底より沸騰して、はしらの如く數丈立のぼり、たふるゝ音雷(いかづち)のごとく、恐しき事云ばかりなし、溫泉(おんせん)皆黑水(こくすい)の如しとぞ。入湯の所は別村にありて、湯も澄(すん)であつからずと云。

[やぶちゃん注:【2021224日改稿】何時も情報を戴くT氏より、これは「和漢三才図会」の巻第八十の「肥前」の「溫泉嶽(ウンゼンガダケ)」の記載に基づくものであろうという御指摘を頂いた。以下に所持する同書原本から訓読して電子化する。〔 〕は私が推定で附した読みで、句読点や記号も私が附した。原文の一部は略字・異体字を使用しているが、通用の正字に改めて統一した。

   *

溫泉嶽(うんぜんがだけ) 髙木郡[やぶちゃん注:現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙にある雲仙岳。グーグル・マップ・データ航空写真。標高九百十一メートル。]に在り【五十町[やぶちゃん注:約五キロメートル半。これは山尾根伝いの実測距離と思われる。]上に普賢嶽[やぶちゃん注:「国土地理院図」で示す。そこでは標高を千三百五十九・三メートルとする。]に在り。】。

往昔(そのかみ)、大伽藍有り、日本山[やぶちゃん注:ママ。「溫泉山(うんぜんさん)」が正しい。]大乘院滿明蜜寺と號す。文武帝大寶元年[やぶちゃん注:七〇一年。]、行基、建立。三千八百坊、塔、十九基りと云ふ。天正年中[やぶちゃん注:一五七三年~一五九二年。])耶蘇(やそ)の宗門、盛んに行はれ、僧俗、邪法に陷いる者、多し。當寺の僧侶、亦、然り。故に破却せられ、正法〔しやうぼふ〕に歸せざる者は、生-身(いきながら)、當山「地獄池」の中に陷いる。礎石或いは石佛のみ、今、唯〔ただ〕、僅〔わづか〕に一箇寺及び大佛有り[やぶちゃん注:「る」の誤記。]のみ。方一里許〔ばかり〕の中〔うち〕、「地獄」と稱す。穴、數十箇處、兩處、相並〔あひなら〕び、髙さ五、六尺、黑泥の煙、湧(わ)き起〔た〕つ。之れを「兄弟〔はらから〕の地獄」と名づく。黃白に靑色を帶びて、沫滓〔あはかす〕、麹(かうじ)に似る者、之れを「麹造屋(かうじや)地獄」と名づく。靑綠色、藍汁に似たる者、之れを「藍染家〔あをや〕の地獄」と名づく。濁白色、稍〔やや〕冷えて、米泔(しろみづ)に似たる者、之れを「酒造家(さかや)の地獄」と名づくるの類〔たぐひ〕の名目、亦、可笑(をか)し。猛火〔みやうくわ〕、出〔いで〕て、「等活大焦熱」[やぶちゃん注:等活大焦熱地獄のこと。]と謂つべし。流水、稍、熱くして、湯のごとくなるの小川の中に、每〔つね〕に、小魚、多く游行〔ゆぎやう〕するも奇なり。凡そ、一山の地、皆、熱濕。鞋〔わらぢ〕を透(とを)す。跣足〔はだし〕の者は、行き難し。麓に溫泉多く有りて、浴湯、人、絕へず。

   *

「日本山大乘院滿明蜜寺」真言宗雲仙山(うんぜんさん)大乗院満明寺(まんみょうじ)は雲仙温泉(「入湯の所」。雲仙岳南で普賢岳の南西のここ(グーグル・マップ・データ航空写真))のここ(同前)にある。]

只野真葛 むかしばなし (16)

 

 御守殿(ごしゆでん)樣御腹に、たゞ御壱人の御姬樣いらせられしが、獅山樣御孫なり。はやく御守殿樣はかくれさせ給ひし故、御ぢゞ樣、御ひぞう被ㇾ遊、

「時わかぬ御たのしみなりし。」

となり。

 田植を御覽に入らるゝと申こと、年々有しが、いつも天氣あしき内、苗のび過(すぎ)などしてやみしを、

「ことし、御ぜひ。」

と被ㇾ仰し時、

「御屋敷より見ゆるは、わづかなり。」

とて、少し、御はこび有て、大家(たいか)の百姓の座敷をかりて、御しつらひ、御覽被ㇾ遊しことの有しが、うゆる人には、すげ笠と、半てん壹(ひとつ)ヅヽ被ㇾ下しとなり。

 女は赤、男は紺とやらにて有し。

 晝休(ひるやすみ)の時分、むし物・にしめ・御酒等、被ㇾ下て、田中にて、皆、給りしを御覽有しとなり。ワ、アヤ、おやの藤浦といひし人は、其頃、御中老にて、

「御供せし。」

と、はなしなり。月に、一、二度、袖が崎へいらせられしとなり。

[やぶちゃん注:「御守殿樣」第五代藩主伊達吉村の息子で第六代藩主を継いだ吉村の四男宗村の正室は雲松院(享保二(一七一七)年~延享二(一七四六)年)は紀州徳川家当主徳川宗直の娘で第八代将軍徳川吉宗の養女であった。後の第七代藩主伊達重村の養母。本名は峰姫で、後に利根姫(とねひめ)。伊達家に入ってからは温子(はるこ)と名乗った。この「御守殿」というのは、江戸時代に於いて三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘にのみ用いる敬称である(その女性の住む奥向きの御殿をも指す)。しかし、父吉村も宗村も従四位上であるのが不審であるのだが、ところが、どっこい、ウィキの「御守殿」を見ると、何んと! 「仙台藩の御守殿の例」にこの二人の例が引かれているのである! 享保二〇(一七三七)年に『仙台藩主伊達吉村の嗣子である伊達宗村と徳川吉宗の養女の利根姫との婚礼が行われたが、これに合わせて藩主嗣子の居住する江戸藩邸中屋敷の一角に御守殿が、幕府の指示の下に造営されることとなる』。『女中居住区画を「長局」と呼称したり』、二『階建ての構造、造営の竣工検査を幕府役人が行った際に鴨居の規模は江戸城大奥の規模に合わせて高くするよう指示されるという具合に、江戸城大奥と共通するように造営された。その後、宗村が』寛保三(一七四三)年に『藩主になり、利根姫が藩主正室として上屋敷に移るのに際して、中屋敷の御守殿に合わせて上屋敷の奥方が改築され』、延享二(一七四五)年に『上屋敷に移住した』。『中屋敷での御守殿の規模は中屋敷の表のおよそ』三『倍で、上屋敷に建設された際は表とほぼ同じ規模であった』とあるから、恐るべし! ともかくも、私の不審をどなたか、晴らして戴けませんかねえ。どんな辞書にも「三位以上」って書いてあるんですけど!?! ウィキの「雲松院」によれば、婚姻とともに、『仙台領内での「とね」と称する女性名の禁止、および利根姫の敬称を将軍養女である点を考慮して「姫君様」と呼ぶよう通達された。また、利根姫の年間経費を』六千『両と決定された』。元文四(一七三九)年に『源姫を出産。源姫は後に佐賀藩主鍋島重茂の正室とな』った(これがここ出る工藤丈庵が可愛がったという「姬樣」である。数え八つで母は亡くなっている。『なお「寛政重修諸家譜」の伊達氏系図の記述では何故か元文元』(一七三六)年に『娘の源姫とともに江戸城大奥に参ったとある』。寛保三(一七四三)年に『夫の宗村が吉村の隠居を受けて仙台藩主を相続すると、芝口の江戸藩邸上屋敷奥方』『が中屋敷の御守殿に準じて改築され』、延享二(一七四五)年に『温子は上屋敷に移』った。同年十二月三日に二番目の『女児を出産するが』、『夭折し、本人も同年』閏十二月十六日に逝去した。亡くなった時は満二十九であった。

「時わかぬ」どんな時でも。

「苗のび過(すぎ)などしてやみしを」これは獅山公吉村が、梅雨の晴れた日を狙って出向こうと思って、それまで百姓らに「田植えを待つように」と命じさせたところ、「苗が伸びてきってしまって、だめになってしまう」と反対されたのであろう。

「ワ、アヤ、おやの藤浦といひし人」「私(綾(あや))の」であろうが、「おやの」が判らない。「藤浦」「中老」仙台藩に藤浦と姓の重役(中老は家老の次位に当たる)はいない。これは思うに、女性名で、武家の奥女中で老女の次位に当たる同名の中老職だった人物ではなかろうか。]

 

 ぢゞ樣も至極御首尾よく御つとめ被ㇾ成しに、いくばく年をもへずして、御不例[やぶちゃん注:吉村が病気になったことを指す。]にならせられしが、極暑のみぎり、ぢゞ樣、氣根者といへども、晝夜の定詰(じやうづめ)、御居間(おんゐま)はたてこめたる所にて、暑氣にたへかね、御下(おさがり)被ㇾ成(ならるれ)ば、水漬(みづづけ)のめしを上り、物干に、ほろかや[やぶちゃん注:「襤褸蚊帳」であろう。]かけて、御休被ㇾ成しとなり。かの氣根者の一世一度と御つとめ被ㇾ成こと、おろかなることあるべからず。御たんせいのかひもなく、かくれさせ給ひしかば、後(のち)、外宅(ぐわいたく)被ㇾ成しなり。はじめより、はやく、御免の後(のち)外宅の後約束(あとやくそく)にて、召しかゝへと成しや、かく、すみしなり。故御家中に外宅といふはぢゞ樣が、はじめなり。

[やぶちゃん注:吉村は隠居していた袖ヶ崎の仙台藩下屋敷で、宝暦元年十二月二十四日(一七五二年二月八日)に逝去した。享年七十二。工藤丈庵は宝暦元(一七五一)年の主君伊達吉村逝去の際に願い出て、藩邸外に屋敷を構えることを許され、伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てて住んだ。これは既に、まだ、吉村が健康だった早い頃に、「自分(吉村)が、万一、亡くなった後には、工藤丈庵に外に住居を構えることを許すように」という約束を交わしており、恐らく、それを遺言状などにも認(したた)め、息子の現藩主である宗村や藩重臣らにもそのように厳命していたものと推察される。]

芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4) 十月十七日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十月十七日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 親披・「十月十七日 東京にて 芥川生」

 

エレクトラをみに行つた

第一 マクペスの舞臺稽古 第二 茶をつくる家 第三 エレクトラ 第四 女がたと順で 第一はモオリスベアリングの飜譯 第二は松居松葉氏の新作 第四は鷗外先生の喜劇だ

「マクペスの舞臺稽古」を序幕に据へたのは甚不都合な話で劇場内の氣分を統一するために日本の芝居ではお目見えのだんまりをやるが(モンナヷンナに室内が先立つたのも) マクベスの舞臺稽古は此點から見てどうしても故意に看客の氣分を搔亂する爲に選ばれたものとしか思ふことは出來ない この PLAY DEMUNITIVE DRAMAS(いつか寮へもつて行つてゐた事があるから君はみたらう)からとつたのだがあの中にある PLAY 中でこれが一番騷々しい 何しろ舞臺稽古に役者が皆我儘をならべたり 喧嘩をしたり 沙翁が怒つたり 大夫元[やぶちゃん注:「たいふもと」。]が怒鳴つたりするのをかいたんだから これ以上に騷々しい芝居があまりあるものではない 大詰にでもはねを惜む心をまぎらすにはこんな喜劇もよいかもしれないがエレクトラを演ずるにさきだつてこんな亂雜なものをやるのは言語道斷である

「茶をつくる家」をみたら猶いやになつた

舞臺のデザインは中々うまく行つてゐたが作そのものは〝完く駄目だ〟第一これでみると松居さんの頭も餘程怪しいものぢやあないかと思ふ 筋は宇治の春日井と云ふ茶屋が零落してとうとう[やぶちゃん注:ママ。]老主人が保險金をとる爲に自分で放火をする迄になる そこで一旦東京の新橋で文學藝者と云はれたその家の娘のお花が足を洗つてうちへかへつて來てゐたがまた身をうつて二千圓の金をこしらへ音信不通になつてゐた兄から送つてくれたと云ふ事にして自分は東京へかへる 父や兄は娘の心をしらずに義理しらずと云つてお花を罵ると云ふのだ 第一どこに我々のすんでゐる時代が見えるのだらう 保險金をとらうとして放火する位の事は氣のきいた活動寫眞にでも仕くまれてゐる 且家運の微祿を救ふのに娘が身をうると云ふのは壯士芝居所か古くはお輕勘平の昔からある お輕が文學藝者に變つたからと云つてそれが何で SOCIAL DRAMA と云へやう 何で婦人問題に解決を與へたと云へやう(作者は解決を與へたと自稱してゐるのだからおどろく)

さてエレクトラになつた

灰色の石の壁 石の柱 赤瓦の屋根 同じ灰色の石の井戶 その傍に僅な一叢の綠 SCENE は大へんよかつた

水甕をもつた女が四五人出て來て水をくむのから事件が發展しはじめる 始めは退屈だつた 譯文が恐しくぎごつちないのである 一例を示すと

  おまへはどんなにあれがわれわれを見てゐたか見たか山猫のやうに凄かつた

  そして………

と云つたやうな調子である いくらギリシアだつてあんまりスパルタンすぎる クリテムネストラが出てて[やぶちゃん注:ママ。]話すときも、そんなに面白くなかつた 之も譯文が祟りをなしてゐるのである 唯クリテムネストラは緋の袍に寶石の首かざりをして金の腕環を二つと金の冠とをかゞやかせ BARE ARMS に長い SCEPTRE をとつた姿が如何にも淫婦らしかつた 第一 この役者は顏が大へん淫蕩らしい顏に出來上つてゐるのだから八割方得である 殘念な事に聲は驢馬に似てゐた

オレステスの死んだと云ふ報知がくる クリテムネストラが勝誇つて手にセプタアをあげながら戶の中に走り入るかはいゝクリソテミスがエレクトラにオレステスが馬から落ちて死んだとつげる エレクトラが獨りなつてから[やぶちゃん注:ママ。]右の手をあげて「あゝとうとうひとりになつてしまつた」と叫ぶ 其時沈痛な聲の中に海のやうな悲哀をつたへるエレクトラがはじめて生きた 河合でないエレクトラが自分たちの前に立つてゐる その上に幕が急に下りた

前よりも以上の期待をもつて二幕目をみる 幕があくと下手の石の柱に紫の袍をきた若いオレステスが腕ぐみをしてよりかゝりながら立つてゐる 上手の戶口――靑銅の戶をとざした戶口の前には黑いやぶれた衣に繩の帶をしたエレクトラが後むきにうづくまつてゐる エジステスが父のアガメンノンを弑した斧の地に埋まつてゐるのを堀[やぶちゃん注:ママ。]つてゐるのである 二人の上にはほの靑い月の光がさす 舞臺は繪の樣に美しい

オレステスとエレクトラと姊弟の名のりをする オレステスの養父が來る 事件は息もつけない緊密な PLOT に從つて進んでゆく 靜な部屋のうちから叫聲を起る[やぶちゃん注:ママ。] クリテムネストラが殺されたのである エレトク[やぶちゃん注:ママ。]は「オレステス オレステス うてうて」と叫ぶかと思ふと地に匍伏して獸のやうにうなる

エジステスが來る エレクトラに欺かれて部屋のうちへはいる 再「人殺し人殺し」と云ふ叫聲が起る 窓から刺されて仆れるエジステスの姿が見える

靜な舞臺には急に松明の火が幾十となくはせちがふ 劍と劍と相うつ音がする 人々の叫び罵る聲がする オレステスの敵とオレステスの味方と爭ふのである 其叫喚の中にエレクトラは又獸の如く唸つて地に匍伏する

松明の光は多きを加へる 人々は叫びながら部屋のうちに亂れ入る 劍の音 怒號の聲は益高くなる エレクトラは醉つたやうによろめきながら立上る さうして手をあげて足をあげてひた狂ひに狂ふのである

遠い紀元前から今日まで幾十代の人間の心の底を音もなく流れる大潮流のひゞきは此時エレクトラの踊る手足の運動に形をかへた やぶれた黑衣をいやが上にやぶれよと靑白い顏も火のやうに熱してうめきにうめき踊りに踊るエレクトラは日本の俳優が扮した西洋の男女の中で其最も生動したものの一であつた クリソテミスがひとり來て復仇の始末をつげる エレクトラは耳にもかけず踊る つかれては仆れ仆れては又踊る クリソテミスはなくなく靑銅の扉をたゝいて「オレステス オレステス」と叫ぶ 誰も答へない 幕はこの時 泣きくづれるクリソテミスと狂ひ舞ふエレクトラとの上に下りる

自分は何時か淚をながしてゐた

女がたは地方興行へ出てゐる俳優がある溫泉宿で富豪に部屋を占領される業腹さに女がたが女にばけてその富豪の好色なのにつけこんで一ぱいくはせると云ふ下らないものである 唯出る人間が皆普通の人間である 一人も馬鹿々々しい奴はゐない 悉我々と同じ飯をくつて同じ空氣を呼吸してゐる人間である こゝに鷗外先生の面目が見えない事もない

兎に角エレクトラはよかつた エレクトラエレクトラと思ひながら其晚電車にゆられて新宿へかへつた 今でも時々エレクトラの踊を思ひ出す

 

芝居の話はもうきり上げる事にする

牛込の家はあの翌日外から大体[やぶちゃん注:「体」はママ。後注参照。]みに行つた 場所は非常にいゝんだがうちが古いのとあの途中の急な坂とでおやぢは二の足をふんだ 所へ大塚の方から地所とうちがあるのをしらせてくれた人がある そのうちの方は去年建てたと云ふ新しいので恐しい凝り方をした普請(天井なんぞは神代杉でね)なんだが狹いので落第(割合に價は安いんだが)地所は貸地だが高燥なのと靜[やぶちゃん注:「しづか」。]なのと地代が安いのとで八割方及第した 多分二百坪ばかり借りてうちを建てる事になるだらうと思ふ 大塚の豐島岡御陵墓のうしろにあたる所で狩野[やぶちゃん注:ママ。]治五郞の塾に近い 緩慢な坂が一つあるだけで電車へ五町[やぶちゃん注:五百四十五メートル強。]と云ふのがとしよりには誘惑なのだらう 本鄕迄電車で二十分だからそんなに便利も惡くない

學校は不相變つまらない

シンヂはよみ完つた DEIDE OF SORROWS と云ふのが大へんよかつた 文はむづかしい 關係代名詞を主格でも目的格でも無暗にぬく 獨乙語流に from the house out とやる 大分面倒だ

Forerunner をよみだした 大へん面白い 長崎君が本をもつてゐたと思ふ あれでよんでみたまへ 割合にやさしくつていゝ

 

大學の橡はすつかり落葉した プランターンも黃色くなつた 朝夕は手足のさきがつめたい 夕方散步に出ると靄の下りた明地に草の枯れてゆくにほひがする

文展があしたから始まる

每日同じやうな講義をきいて每日同じやうな生活をしてゆくのはさびしい

 

   ゆゑしらずたゞにかなしくひとり小笛を

   かはたれのうすらあかりにほうぼうと銀の小笛を

   しみじみとかすかにふけばほの靑きはたおり虫か

   しくしくとすゝなきするわが心[やぶちゃん注:「すゝなき」はママ。]

   ゆえしらずたゞにかなしく

 

京都も秋がふかくなつたらう 寄宿舍の畫はがきにうつゝてゐる木も黃葉したかもしれない

 

   われは織る

   鳶色の絹

   うすれゆくヴィオラのひゞき

   うす黃なる Orange 模樣……

   われは織る われは織る

   十月の、秋の、Lieder.

 

十月幾日だかわすれた

水曜日なのはたしかだ

                   龍

   恭 君

 

[やぶちゃん注:詩篇は前後を一行空けた。

「エレクトラ」これはギリシャ三代悲劇のそれを素材とした、オーストリアのウィーン世紀末文化を代表する〈青年ウィーン〉(Jung-Wien)の一員で印象主義的な新ロマン主義の代表的作家フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal 一八七四年~一九二九年)の戯曲「エレクトラ」(Elektra)で一九〇三年作。二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注によれば、この複数作の一挙公演は、この年の十月の『帝国劇場での公衆劇団第一回公演』(一日初日)で、この『公演は京都でも』、この後の『一一月一一日から新京極明治座で上演された』とあるので、龍之介が京都の井川に細かく感想を述べているのが首肯出来るものの、これを読んだら、私だったら、こんなとんでもないごった煮のオムニバス、絶対、見には行かないね。なお、「エレクトラ」の元の筋を御存じない方は、ウィキの「エレクトラ(ソポクレス)や、「エレクトラ(エウリピデス)を参照されたい。その梗概まで記すほどに私はお目出度くない。

「マクペスの舞臺稽古」イギリスの作家モーリス・ベアリング(Maurice Baring 一八七四年~一九四五年)作の戯曲。原題は‘The Rehearsal’(一九一一年出版)。後の「DEMUNITIVE DRAMAS」の私の注を必ず参照されたい。

「茶をつくる家」劇作家・演出家・小説家・翻訳家の松居松葉(しょうよう 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年:陸前塩釜生まれ。国民英学会卒。文学を志して坪内逍遙に師事し、明治二四(一八九一)年に創刊された『早稲田文学』の編集に発刊から従事し、『報知新聞』や『万朝報』などの記者も務めた。明治四二(一九〇九)年には三越の嘱託となって『三越タイムス』を編集し、発足した坪内逍遙・島村抱月の「文芸協会演劇研究所」に招かれ、講師を勤めた。明治四四(一九一一)年、新たに開業した帝国劇場の演劇主任を引き受けたものの、三越側の苦情で辞退し、大正二(一九一三)年には抱月脱退後の「文芸協会」を指導したが、間もなく解散となり、次いで、河合武雄とともに、この龍之介が見た公演の劇団「公衆劇団」を組織している。別号に「松翁」「駿河町人」「大久保二八」など)のこの年に書かれた新作翻訳劇。アイルランドの劇作家・演劇家レノックス・ロビンソン(Lennox Robinson  一八八六年~一九五八年)の ‘Harvest’(「収穫」:一九一〇年作)。

「女がた」この「公衆劇団」旗揚公演のために、森鷗外が書き下ろした彼の戯曲中、唯一の現代喜劇。大正二(一九一三)年十月発行の『三越』初出。藤本直実氏の論文『森鷗外「女がた」のセクシュアリティ』(PDF)が読める。私はその「女がた」を読んだことがないが、藤本氏の論文によれば、本作は『従来、演劇史においては全否定を以て遇され、鷗外研究からの論文も存在しなかった』という驚くべき鬼っ子扱いの作品らしい。

「モンナヷンナ」ベルギー象徴主義の詩人で劇作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の戯曲「モンナ・ヴァンナ」(Monna Vanna:一九〇二年初演)。龍之介は既に見た通り「青い鳥」のファンであった。なお、この年、島村抱月が訳(南北社)しており、芥川龍之介は恐らくそれも読んでいるであろうが、その抱月の序文を見ると(幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める)、『數年前山岸荷葉氏が川上一座のために翻案して、明治座で演ぜしめたものがある』とあることから、或いは、芝居好きの龍之介だから、その翻案公演を観た可能性もある。なお、翌年には岩野泡鳴と村上静人も訳しているらしい。同作の第一幕は殿中、第二幕は戦場の幕営である。

「DEMUNITIVE DRAMAS」‘DIMINUTIVE DRAMAS’の誤記。先のモーリス・ベアリングの一九一一年作の短篇戯曲集‘Diminutive Dramas’(「小さなドラマ」)。Internet archive’のこちらで原本が読め、The Rehearsal’はここから始まる

「大夫元」「たゆうもと」。演劇の興行責任者。俳優や裏方をやとって一座を組織し、これを金主や座主に売り込んで興行する人。江戸時代には俳優の上に立つ監督者で、江戸では座元がこれを兼ねた。但し、ここは原本を見ると、‘The Stage Manager’のことを指しているから、舞台監督・演出家である。

「松居さん」作者で演出家の松居松葉。

「SOCIAL DRAMA」社会劇。劇中の出来事や登場人物が置かれる状況を、社会的環境や社会問題との関連のなかで描いた演劇。近代以降に登場した形態で、市民劇や写実劇は、しばしば社会劇の形をとる。イプセンやバーナード・ショーの諸作品を正統派の淵源とする。

「婦人問題」筑摩全集類聚版脚注に、『明治四十年頃から盛んになった婦人解放運動』とある。

「譯文」松井のそれ。

「スパルタン」所謂、現在の一般名詞としての「スパルタ」の意。あまりに言辞不全にして無骨に過ぎ、舞台台詞としてこなれていないことを批判しているのである。

「袍」(はう(ほう))は、ここでは、すっぽりとからだを包む上着。古代ギリシャでは亜麻の襞を持った優美なそれを「キトン」と呼んだ。

「BARE ARMS」外に曝し出した両腕。

「SCEPTRE」セプター。君主が持つ象徴的且つ装飾的な杖・笏。

「聲は驢馬に似てゐた」芥川龍之介、結構、辛辣!

「匍伏」匍匐に同じい。

「牛込の家はあの翌日外から大体みに行つた……」この十月上旬、芥川家は、龍之介の実父新原敏三の持ち家である彼の牧場の傍の家を出ることを考えて始めており、どうも龍之介が先頭に立て家探しを始めていたようである。新全集の宮坂年譜によれば、同年十月の条に、『家探しを始める。牛込や大塚に土地や家を見に出かけており、結局、翌年』十『月末』に龍之介の終の棲家となる『田端に家を新築して転居する』こととなることが記されてある。「あの」の指示語がやや不審だが(或いは旧全集には載らないこの前の書簡に家探しのことを書いていたのかも知れない。とすれば、やや腑に落ちる)、「翌日」に、「外(そと)から大体(だいたい)み」(見)「に行つた」で、家屋には入らず、周囲を検分したということであろう。

「神代杉」「じんだいすぎ」と読む。水中或いは土中に埋もれて長い年月を経過した杉材のこと。過去に火山灰の中に埋没したものとされる。青黒く、木目が細かくて美しい。伊豆半島・箱根・京都・福井・屋久島などから掘り出され、工芸品や天井板などの材料として珍重される。

「高燥」(かうさう(こうそう))は、土地が高所にあって乾燥していることを言う。

「靜」「しづか」。

「大塚の豐島岡御陵墓」豊島岡墓地(としまがおかぼち:グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の東京都文京区大塚五丁目にある、皇族(皇后を除く)専用の墓地で護国寺に隣接する。

「狩野治五郞」「嘉納治五郞」(万延元(一八六〇)年~昭和一三(一九三八)年)の誤記。言わずと知れた、兵庫県生まれの柔道家・教育者で「講道館柔道」の創始者にして、日本のオリンピック初参加に尽力した彼である。

「塾」不詳。当初、嘉納が清国からの中国人留学生の受け入れに努め、彼らのために明治三二(一八九九)年に牛込に作った「弘文学院」(校長は松本亀次郎)のことではなかろうかと思ったが、あれは新宿区西五軒町で南東に一・七キロメートルも離れていて遠くはないが、「近い」とは言うまい。彼は別に英語学校「弘文館」を創立しているが、これは南神保町でさらに離れてしまう。

「シンヂ」アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)。前記宮坂年譜の同年十月七日の条に、『John M. Synge “The well of the saints ; a play” “The tinker’s wedding , riders to sea and the shadow of the glen”を読了』とある(後は作品集らしいが、作品名の一部が略されていて不備があるので、以下に正確なものを示した)。前者は三幕物の諧謔的戯曲「聖者の泉」(The Well of the Saints)で一九〇五年の戯曲、後者は最初のそれが同前の二幕物「鋳掛(いか)け屋の婚礼」(The Tinker's Wedding:一九〇八年)、二番目が一幕物の悲劇「海に騎(の)り行く者たち」(Riders to the Sea:一九〇四年)、最後のそれが民話・民俗素材を取り入れた一幕物「谷間の影」(In the Shadow of the Glen:一九〇三年)。この内、“Riders to the Sea”は、後に芥川からの慫慂を受けて、この井川恭が、第三次『新思潮』に「海への騎者」という邦題で翻訳を載せている。さらに奇しくも「聖者の泉」は芥川龍之介が晩年、人生の最後に真剣な恋をした相手アイルランド文学者片山廣子が松村みね子名義で訳したものをサイトで公開しているし(言っておくと、この「聖者の泉」は芥川龍之介の「鼻」や「芋粥」の主題のヒントとしたとも考えられている)、また、シング著でウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵という贅沢な作品「アラン島」(The Aran Islands)も挿絵附きで「姉崎正見訳 附やぶちゃん注」をずっと昔に私のサイト「鬼火」の「心朽窩新館」で同じく公開している。

「DEIDE OF SORROWS」シングの一九一〇年の作の三幕物の詩的悲劇「悲運のディアドレ」(Deirdre of the Sollows)。非常に優れた作品であるが(中に出る乳母の長い呪詛シーンなどは「シェイクスピアの再来」という賛辞さえ寄せられた)、残念なことに本篇の完全な推敲を終えぬうちにシングは白玉楼中の人となってしまったのであった。

「from the house out」‘get out of the house’ の意であろう。

「Forerunner」英語で「先駆者」。筑摩全集類聚版脚注及び石割氏に注ともに、ロシア象徴主義草創期の詩人で最も著名な思想家ディミトリー・セルギェーヴィチ・メレシュコフスキー(Дмитрий Сергеевич Мережковский:ラテン文字転写:Dmitry Sergeyevich Merezhkovsky 一八六六年~一九四一年)の歴史小説三部作「キリストと反キリスト」中の一篇「神々の復活」(Воскресшие боги. Леонардо да Винчи:「神々の復活。レオナルド・ダ・ヴィンチ」。一八九六年)の英訳名とする。芥川龍之介は後の大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で連載されたアフォリズム集「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(リンク先は私のサイトの電子化注)の「妖婆」の標題で、

   *

 英語に witch と唱ふるもの、大むねは妖婆と飜譯すれど、年少美貌のウイツチ亦決して少しとは云ふべからず。メレジユウコウスキイが「先覺者」ダンヌンツイオが「ジヨリオの娘」或は遙に品下れどクロオフオオドが Witch of Prague など、顏玉の如きウイツチを描きしもの、尋ぬれば猶多かるべし。されど白髮蒼顏のウイツチの如く、活躍せる性格少きは否み難き事實ならんか。スコツト、ホオソオンが昔は問はず、近代の英米文學中、妖婆を描きて出色なるものは、キツプリングが The Courting of Dinah Shadd の如き、或は隨一とも稱すべき乎。ハアデイが小説にも、妖婆に材を取る事珍らしからず。名高き Under the Greenwood の中なる、エリザベス・エンダアフイルドもこの類なり。日本にては山姥〔やまうば〕鬼婆共に純然たるウイツチならず。支那にてはかの夜譚隨録載〔の〕する所の夜星子なるもの、略妖婆たるに近かるべし。(二月八日)

   *

と触れている。なお、トーマス・ハーディの作品名を芥川は‘Under the Greenwood’と記しているが、正しくは‘Under the Greenwood Tree’である。因みに、私は以上の「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」を、暴虎馮河で現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん』として、やはりサイトに公開してある。]

「長崎君」一高時代の同級生で井川とも親しかった長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)生まれ。旧同級だった芥川龍之介や菊池寛らとも親交を持った。一高卒業後、井川と同じく京都帝国大学法科大学に進学(さればこそここに名が出て腑に落ちる)、大正六(一九一七)年の卒業後は日本郵船株式会社に入社、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集し、特にウィリアム・ブレイクに関連した書籍の収集に力を入れた。同一三(一九二四)年に欧州美術巡覧の後に帰国した。翌十四年、武蔵高等学校教授となり、昭和四 (一九二九) 年には母校京都帝国大学の学生主事に就任した。同二十年、山口高等学校の校長となり、山口大学への昇格の任に当たった。同二四(一九四九)年には京都市立美術専門学校校長となったが、ここも新制大学へ昇格、翌年、京都市立美術大学学長となって、多くの人材を育てた。

「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata

「プランターン」「プランターヌ」(フランス語:Platane)の誤記。ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 。属の学名である「プラタナス」と呼ばれることが多いが、本邦で見かける「プラタナス」は、本種よりもスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia であることの方が多い。

「明地」「あきち」。空き地。

「文展があしたから始まる」石割氏注によれば、第七回文部省美術展覧会で、この月の十月十五日から『上野竹の台陳列館』(現存しない。東京帝室博物館が管理する施設で、美術関係団体に貸し出された。この文展を始めとして各種美術展会場として使用されたが、東京府美術館の開館で、その役割を終えた。この陳列館は江戸時代に寛永寺中堂があった場所で、陳列館は現在の東京国立博物館の南側の噴水と奏楽堂の中間附近にあった)『で開催。京都』では十一月二十五日から開催されたとある。

「Lieder」「リーダア」。ドイツ語で‘Lied’の複数形で「歌曲」の意。

「十月幾日だかわすれた」「水曜日なのはたしかだ」当初、電子化しながら腑に落ちなかった。何故なら、底本の標題する大正二(一九一三)年十月十七日は万年カレンダーを調べると金曜日だからだった。しかし、石割氏の注で腑に落ちたのだった。彼は「文展があしたから始まる」と書いているから、書いているのは大正二年十月十四日か、日付が変わった十五日未明なのである(日付を忘れたとして調べようがないのは、深夜で自室で書いていたからであろうから、後者の可能性が高い)。彼は、これを翌日には出さずに(今までの書簡を見ると、しばしば龍之介はそういうことをしている。これは、或いは言い忘れたことを用心してのこと(追伸をするため、或いは、内容が気に入らず書き変えるケースもあろう)であることが多いように私は感じている)、二、三日ばかり経った十七日朝にでも封筒に入れて表裏書きをし、投函したものと考えると、腑に落ちたのであった。

譚海 卷之四 阿波國石筒權現の事

 

譚 海 卷の四

 

○阿波國に石筒權現と申(まうす)おはします。橫崎といふ所より八里半のぼりて、高山の上に御社有、其間の嶮岨言語同斷也。絕頂にいたる處鐡のくさりにすがりてのぼる、其くさりの長さ三十三間有、つゝじの古かぶにつなぎてあれども、とりすがりてのぼるに、切るゝ事なし。くさりを登りはつる所に鳩の息つきの水といふ有、わづかなる淸水のたまりたる岩の上に、石にて造りたる鳩ひとつ水にのぞみて有、此水人々すくひのめども、終にたゆる事なし。每年六月十八日より七日の間參詣する事也。殊の外をそろしき山にて、時々人のけがされて血にまみれたるかばねなど、樹のうらにかゝりてある事多し、諸人潔齋して登る山也。

[やぶちゃん注:「阿波國に石筒權現」底本の「日本庶民生活史料集成」第八巻の武内利美氏の注に『四国の石鎚山』(いしづちさん)『の神。阿波ではなく、伊予の国の石鎚山』(千九百八十二メートル)『であろう。四国第一の高峰で、山上に石鎚神社があり、役』の『行者の開創と伝える。山岳信仰の中心の一つで、今日も七月一日から十日にわたる大祭には、多数の白衣行者が登拝する』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの写真を見ると、険しさの様子が判る。当該ウィキによれば、『石鎚山は古くから山岳信仰の山とされ』、『奈良時代には修行道場として知れ渡った。役小角や空海も修行したとされ山岳仏教や修験道が発達し、信仰の拠点として石鎚神社、前神寺』(ぜんじんじ)、『極楽寺、横峰寺がある。(石鎚神社中宮成就社のある成就は明治初期の神仏分離以前は常住と呼ばれていた。)』。『古代の石鎚山は笹ヶ峰、瓶ヶ森』(かめがもり)『および子持権現山が石鈇信仰の中心であったとする説、あるいは現在の石鎚山と笹ヶ峰の東西』二『つの霊域を想定する説がある』。『(新居浜市の正法寺では奈良時代の石鎚山が笹ヶ峰を指していたことに基づき、現在でも石鎚権現の別当として毎年七『月に笹ヶ峰お山開き登拝が行われている。)』。『開山の伝承として』、斉明天皇三(六五七)年に『役の行者とその供をした法仙が龍王山(瓶ヶ森の中腹標高』八百四十メートル『辺り)で修行のすえ石土』(いしづち)『蔵王権現を感得したという。そして、そのすぐ下の広い場所に天河寺を開創する』。天平九(七三七)年に石土蔵王権現はさらに高い瓶ヶ森の絶頂に祀られ』「宮とこ」と呼ばれ、天平勝宝五(七五三)年には『芳元が熊野権現を勧請した。その山は石土山』(いしづちさん)『と云われていて、天河寺はその別当として栄えた。一方、現在の石鎚山となる山は石撮峰と呼ばれ、法安寺(愛媛県西条市小松、飛鳥時代創建)の住職である石仙(灼然)により横峰寺が開かれ、さらに当山中腹の常住に前神寺の前身となる堂が造られた。その後、黒川谷で修業をした上仙菩薩(伊予国神野郡出身)が石鎚蔵王大権現を称え、登山道を山頂へと開く。そして』、天長五(八二八)年には、『瓶ヶ森より石土山を現在の石鎚山へ光定』(こうじょう)『(伊予国風早郡出身)により移され、石鈇山』(いしづちさん)『と呼ばれるようになる』。『平安時代前半には神仏習合が行われたとされ、山岳信仰特有の金剛蔵王権現および子持権現が祀られた。そして、桓武天皇』(七八二年〜八〇五年)『が自身の病気平癒祈願と平安京奉謝などの成就をしたことにより、国司に命じ常住に七堂伽藍を建て勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜された。天正年間には河野通直、村上通聴』(読み不明)『が社領』を、慶長一五(一六一〇)年には『豊臣秀頼が社殿を前神寺に寄進した。寛文年間には小松藩主一柳氏、西条藩主松平氏の帰依により社殿が整備された』。『江戸時代初期には信者の増加に伴い、前神寺は麓に出張所を設置してからは常住の本寺を奥前神寺、麓の出張所を里前神寺と呼ぶようになった。その後、本寺機能は里に移っていった。そして、別当職や奥前神寺の地所をめぐって西条藩領の前神寺と小松藩領の横峰寺との間に紛争が起こった。古来、石鈇山蔵王権現別当は前神寺が専称していたのに対し』、享保一四(一七二九)年に『横峰寺が「石鈇山蔵王権現別當横峰寺」の印形を使用したのが発端であるとされ、双方が京都の御所に出訴するに至った。そこで、地所は小松藩領の千足山村、管理権と「石鈇山蔵王権現別當」の専称は前神寺とし、奥前神寺は常住社と名称変更され、横峰寺は「佛光山石鈇社』『別當」と称するとの裁決が下された』。明治四(一八七一)年の『神仏分離により、石鈇蔵王権現は石土毘古命』(いわつちびこのかみ)『となり』、『前神寺の寺地は全て石鉄』(『いしづち』神社に、前神寺は廃寺に、横峰寺は横峰社となった。両寺はその後すぐに復興し』、『真言宗に所属することとなった。明治三五(一九〇二)年に『石鉄神社から石鎚神社に変更が決定され』、『石鎚毘古命(石鎚大神)、石鎚山となる。そして明治時代中期以降は石鎚神社、前神寺、横峰寺はさらに多くの信者を集めるに至った』。『毎年』、七月一日から十日までの『間に「お山開き」の神事が執り行われ、多くの信者が参拝登山に訪れる。古くからお山開きの期間中は女人禁制とされてきたが、現在では』七月一日『だけが女人禁制となった。当日は女性は成就社まで、また土小屋遥拝殿までで山頂まで登る事が出来ない』。『石鎚山の頂は、通常は天狗岳のことを指すが、弥山から天狗岳までが岩場であることや、天狗岳に多人数がとどまれるスペースがないこともあり、天狗岳直前(約』二百メートル『手前)の弥山』(みせん)『までの登山者も多い。弥山には石鎚神社の鎮座のほか』、『山頂小屋がある』。『弥山まで』三『箇所の鎖場があり、下から』「一の鎖」(三十三メートル)・「二の鎖」(六十五メートル)・最後も「三の鎖」(六十七メートル)と続くが、『迂回路もある。「一の鎖」の手前に前社ヶ森』(千五百九十二メートル)『の岩峰にかかる「試しの鎖」』(七十四メートル)『があり、これが最も急勾配である。弥山への鎖は近世頃より掛けられたとされ、安永八(一七七九)年に』鎖が切れ、翌安永九年に『鎖の掛け替えを行ったとする記録である』「石鉄山弥山鎖筋之覚」が『前神寺旧記に残されている。山頂からは瀬戸内海、および土佐湾、見通しのよい日には大山を始めとする中国山地、九州の九重連山まで望むことができる』。『主な登山コースは、石鎚登山ロープウェイ使用の成就社コース、石鎚スカイラインまたは瓶ガ森林道を使用の土小屋コース、面河渓谷コースの』三『つが一般的であるが、ロープウェイを使わないコースとして』、『西ノ川登山口から夜明かし峠に至るコースや、今宮道から成就社に至るコースもある。成就からの登山道が表参道、面河からが裏参道と呼ばれる』。『西ノ川登山口からのコースで毎年遭難騒ぎが起きているので不十分な用意は禁物である。天狗岳直下には傾斜が強くオーバーハングした北壁が落ちており、四国一といってもよいロッククライミングのフィールドを提供している』。『さらに、「石鎚山旧跡三十六王子社」という行場を巡りながらの登拝もあるが』、『経験者の案内のもとに行かないと行き着けない』とある。

「橫崎といふ所より八里半のぼりて」この地名は現在の地図やスタンフォード大学の旧地図を見ても見出せない。思うに、これは原本の「橫峰」の誤字或いは判読の誤りではあるまいか? 但し、これは地名ではなく、寺名で、現在の愛媛県西条市小松町にある真言宗石鈇山(いしづちざん)福智院横峰寺で、四国八十八箇所の第六十番札所。グーグル・マップ・データ航空写真を見て戴くと判るが、石鎚山の真北(直線で八キロ弱)に位置し、東西を迂回して行くとしても、恐らく登攀実測では三十キロメートルはあるからである。この寺は標高七百四十五メートル付近にあり、伊予国では最高所の寺であり、八十八箇所の全体の中でも二番目の高地に建っている。私の試算がおかしいとなら、ウィキの「横峰寺」に、以下のように書かれている事実をお示しする。『いつのころか四国霊場巡拝は、当寺を打った後、当寺より』五『町未申の方角』(約五百メートル南西)『に上がった鉄ノ鳥居(星ヶ森)で参拝し、ここより』九里(注に「奉納四國中邊路之日記」(元禄九(一六九六)年)の記述の距離に拠るとある)『先の山中にある石鈇山蔵王権現(前神寺)への参拝を済ますようになっていた』とあるので如何か?

「三十三間」約六十メートル。先の引用を参照。山頂の石鎚神社への鎖り場の最後の「三の鎖」りの現在の長さも六十七メートルである。

「鳩の息つきの水」現行では確認出来なかった。

「けがされて」「怪我されて」ではおかしいから、潔斎をせずに登って「穢されて」(権現さまから「穢れたる身」と断ぜられて)の謂いととる。]

2021/02/22

只野真葛 むかしばなし (15)

 

「奧より茶の間迄、引とほしの緣側にて、下は崖にて、むかふは、皆、田なり。殊の外、見はらしよく、田植などは、庭にみる如くなりし。」

と被ㇾ仰し。

「螢おほく、しかも袖ケ崎は並より大きなほたるなり。夕やみにとびちがふはすゞしくてよかりし。」

と被ㇾ仰し。子共の時分、つねに御はなしを伺(うかがひ)て、

「袖が崎へ行(ゆき)て見たし。」

と申せしに、

「其御長屋は借地(かりち)にて、今は御返しになりし故、あとかたもなし。」

と被ㇾ仰し。

「庭のむかふの崖ぎわは、三尺ばかり、薔薇垣なりしが、其ばら、春、花咲て、ちるやいなや、又、つぽみ、いでゝ、二度(ふたたび)、花、咲(さき)たりしが、はじめの花は、ひとへにて白大輪、あとは一めんに極紅(きよくこう)の八重小輪なり。其時は、父樣にも、御とし若(わか)にて、餘りおほく有もの故、めづらしきものともおぼしめさゞりしが、とし經て考へるほど、よき花にて、たぐひなきものなりし、其後、終に見しこともなし。」

と折々被ㇾ仰し。誠(まつこと)、此御代は御富貴(ふうき)のさかりにて有し故、そのふしの御はなしは、何を聞ても、心いさましきことなりし。

 唐鳥のわたりを、「無益のこと」ゝて、公儀より、とゞめられしに、御富貴の餘りには、珍らしき鳥などかわせらるゝを[やぶちゃん注:ママ。]、このませられしに、『あやにくのこと』ゝ思召(おぼしめさ)れしを、御出入(おでいり)の町人、いのちにかえて、いろいろの鳥を、長崎より獻上したりしを、御悅(およろこび)被ㇾ遊て、御そばちかく召され、御酒(ごしゆ)など被ㇾ下、

「あたひは、のぞみ次第なり。いかほどにも、とらるゝほども、もちて行べし。さりながら、御門をいづる迄に、つまづきころびなば、みな、御とりもどしなるぞ。」

と、被ㇾ仰るかとひとしく、廣蓋《ひろぶた》にうづたかく金をつみて、二人にて荷なひいづること、片側に三(みたり)づゝなり。廣ぶたに六(むつ)の金を左右におきて、

「いざ、とれ。」

と、御意なり。町人、立上りて、袂に入(いれ)、懷に入、いろいろのことして取しが、一(ひとり)、廣ぶたも、とらざりしとなり。手ぬぐひをいだして、金をとりいれ、よくつゝみ、鉢卷にしたるが、殊にをかしくて、御意に被ㇾ遊しとなり。餘り、袂へ入過(いれすぐ)して立(たち)かねて、のこしなどするてい、殊の外、御興(ごきやう)なり。やうやう、御門をいでしが、御地輻(じゆふく)をまたぐと、腰が、ぬけし、となり。かごをよびて置し故、すぐすぐ、のりて下(さが)りしが、あとにて御しらべに成(なり)しが、

「七百兩ばかり取りし。」

と、なり。包(つつみ)がねならば、今少しも取らるべきを、みだし重(がさね)故、結句《けつく》とりかねしなり。

 其頃、名代(なだ)のおごり、細川樣もおなじ御心にて、つねに御あそび御出入有しとなり。細川樣御もてなしのためにばかり、凉月亭の下一町[やぶちゃん注:百九メートル。]餘(あまり)兩がわを商人屋《あき》(んどや)に作らせられて、武具・馬具・大小の小道具、其外吳服物、すべての賣物を「ひし」とかざりて、人なしにして、

「御通筋、御意に入(いり)し物、何にても御とゝのへ被ㇾ遊べく。」

と申上(まうしあげ)しに、細川樣、御座に付せられて、

「さやうなら、其かたがわ[やぶちゃん注:ママ。]の品、のこらず、御かい上(あげ)。」

と仰られしとなり。

「其世の御あそびは格別なるものぞ。」

と、御はなしに伺(うかがひ)し。

[やぶちゃん注:以上の話の後半は、「七百兩」という大金を惜しげもなく遣わすことや、お仲間の名代の太っ腹の「細川樣」(「日本庶民生活史料集成」の中山氏の注に『九州の細川家の一族か』とされ、『名代のおごり人でその遊興振りの素晴らしかったことが書かれてある』とある)買い上げざまから見て、これは袖ヶ崎の下屋敷に隠居するに際して工藤丈庵を侍医として召し抱えた仙台藩第五代藩主伊達吉村(寛保三(一七四三)年七月に四男久村(宗村)に家督を譲った。宝暦元(一七五二)年没)の、丈庵が親しく実見したエピソードと読める。

『唐鳥のわたりを、「無益のこと」ゝて、公儀より、とゞめられし』中国やオランダとの貿易の中で、西洋から渡来した異鳥の取引を無益な取引として、公儀が表向き禁じたということであろう。徳川家重の治世で何となく腑に落ちる。

「廣蓋《ひろぶた》」縁のある漆塗りの大きな盆。

「一(ひとり)、廣ぶたも、とらざりしとなり」誰一人として広蓋ごと取ろうとはしなかったとのことである、の意であろう。

「地輻(じゆふく)」歴史的仮名遣は「ぢふく」が正しい。ここは下屋敷の門の最下部に地面に接して上方に突き出て取り付けてある横木のこと。

「包(つつみ)がね」包金銀(つつみきんぎん)。江戸幕府への上納や公用取引のために所定の形式の紙を用いて包装・封印された金貨・銀貨のこと。対するのが「みだし重(がさね)」で、バラのそれらを捻りに投げこんだものであろう。

「凉月亭」不詳。仙台藩下屋敷にあった離れか。

「商人屋《あき》(んどや)」商店のように拵えさせ。

「人なしにして」無人にしておき。]

ブログ・アクセス1,500,000アクセス突破記念 梅崎春生 その夜のこと

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二九(一九五四)年一月発行の『別冊小説新潮』初出で、後の昭和三四(一九五九)年に刊行した作品集「拐帯者」(光書房)に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 今回は思うところあって敢えて或る核心に踏み込んだ注は附さないことにした。その〈意味〉は恐らく、凡そ、また一ヶ月後ぐらいには判るであろう。お待ちあれかし。文中に軽く割注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今日の午前中に1,500,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021222日 藪野直史】]

 

   その夜のこと 

 

 僕はその時、玄関の土間につっ立っていた。僕は怒りに燃えていた。婆さんは帳場の火鉢のそばに中腰になっていた。右手は火箸の頭をにぎりしめていた。そして婆さんは早口でなにかを言い返した。言い返したというより、それはもう口汚い罵声に近かった。

 次の三十秒ほどの間、僕の記億はぶっつりとぎれる。憤怒(ふんぬ)が頂点に達し、ついくらくらと分別を失ったのだろう。

 婆さんの顔が急に変って見えた。右の眼の上の部分が、見る見る青黒くせり出してきたのだ。

 婆さんは畳に尻餅をついた姿勢になっていた。顔はゆがんで、まっさおだった。灰から引抜いた火箸で僕を指しながら、乱れた声でわめきたてた。

「こいつが。この極道者。ゴクツブシが!」

 帳場の台の上にあった糊(のり)の壺を、僕の手が無意識につかんで、婆さんの顔にたたきつけたらしいのだ。それが右眼の上に命中して、その部分はごく短い時間に、急速に団子状にふくれ上ってきた。それを見て僕はますます兇暴な気持にかき立てられた。婆さんはさらに声を高めてわめいた。

「ああ、誰か来て。この極道者があたしを殺す!」

「黙れ、クソ婆あ」

 と僕も怒鳴りかえした。

「わめくなら、もっとあばれてやるぞ!」

 僕は土間を見廻した。土間のすみに小さな椅子があった。僕は急いでそこに行き、その背を摑(つか)んだ。両手でふり上げた。破滅するなら破滅しろ。僕はもう気ちがいじみたかけ声と共に、その椅子を力いっぱい帳場のガラスに叩きつけた。痛快な破裂音と共に、三尺四方もある大ガラスは無数の三角形に砕け散って、畳や台の上に散乱した。框(かまち)に残った部分は、するどい牙状になって、深夜の電燈の光にギラギラと光った。

 大きな叫び声といっしょに、廊下をどたどたと走ってくる音がした。

「クソ!」

 僕はも一度椅子の背を握りしめた。勢いよく別のガラスめがけて投げつけた。

 乱れた人声や跫音(あしおと)が、またたく間に玄関に集ってきて、そこら中が人だらけになった感じだった。皆寝巻姿だ。酒の酔いと極度の亢奮(こうふん)のために、眼がちらちらとして定まらない。茫然と土間につっ立っている、と他人眼(はため)には見えたかも知れない。玄関にうろうろと出てきたその中の一人が、足袋はだしのままそっと土間へ下りてきて、へんにやさしい猫撫で声で僕にささやきかけてきた。僕と同じ年頃のこの下宿の止宿人らしい、眼鏡をかけた男だった。

「ねえ、もうこれで、気がすんだでしょう。だからね、もう乱暴はよしなさいね」

「うん」

 と僕は割合素直にうなずいた。こう沢山集ってきては、もうあばれてもムダだし、それに婆さんがお岩みたいな顔になったので、すこしは気の毒にもなってきたからだ。

しかしまだ僕の身体は、余憤のためにぶるぶるふるえていた。男は僕の肩にそっと手をかけた。

「ね、お互いに最高学府の学生なんだから。暴力なんかふるうのは――」

 そこまで言いかけた時、帳場の中から婆さんがふたたびいきり立った。火箸をにぎりしめて、立ち上ろうとしている。その婆さんをこの下宿の女将が必死にはがいじめにして、しきりになだめているらしい。婆さんの顔はすっかり形相(ぎょうそう)が変り、双の眼はぎらぎらと憎悪に燃え立っていた。それはもう人間の顔ではなかった。

「あ、あの悪党を、つかまえて。ぶ、ぶっ殺してやる」

 向うが逆上したので、かえって僕は平静になって来た。平静になってくると、急に寒さが身に沁みてきた。僕は肩をすくめて、しょんぼりした形になった。婆さんはなおもはげしく怒号している。

 そこへ道路の方から、霜多が玄関に顔をのぞかせ、僕を見て低いあわてた声で言った。

「巡査が来たようだよ。静かにしてた方がいいよ」

 僕はうなずいて見せた。しかし静かにしていたって、もう遅い。僕が静かにしても、婆さんがさかんに騒ぎ立てているではないか。僕は観念した。

 やがて巡査が二人、のっそりと玄関に入って来た。深夜のパトロールをしていたのらしい。その巡査の一人の眼がキラリと光って、射るように僕の顔を見た。コメカミがぎりぎり痛み出すのを感じながら、僕はそっぽ向いた。

 

 その夜、その夜というのは、今から十六年前、昭和十二年の一月八日のことなのだが、僕は霜多という友人といっしょに、浅草に遊びに行ったのだ。とにかくそれは寒い夜だった。

 浅草で常盤(ときわ)座の『笑いの王国』にワリビキから入り、それが終って二人は、バスで本郷に戻ってきた。その頃、僕も霜多も『東京帝国大学』という学校の文学部学生で、霜多は中野、僕は駒込千駄木町の『愛静館』という下宿に止宿していた。三十か四十ぐらい部屋がある、通りに面したかなり大きな二階建ての下宿屋だった。僕があばれたのは、その下宿の玄関先だが、そのことはまたあとで書く。[やぶちゃん注:「常盤(ときわ)座の『笑いの王国』」浅草公園六区初の劇場・映画館として明治一七(一八八四)年十月一日に開業したのが常盤座で、大正六(一九一七)年一月二十二日に「歌舞劇協会」のオペラ「女軍出征」を上演して大ヒットし、これが「浅草オペラ」の濫觴とされ(「浅草オペラ」自体は後に「金龍館」が主な舞台となった)、かのエノケン劇団もここの舞台に立っている。大正十二年九月一日の関東大震災で関東大震災で常盤座は大打撃を受けたものの、松竹傘下に入って興行は繋がれ、大正一三(一九二四)年三月以降、常盤座は帝国キネマ演芸の封切館となった。昭和八(一九三三)年四月一日には古川緑波(古川ロッパ)・徳川夢声らが常盤座で、軽演劇劇団「笑の王国」の旗揚げ公演を行ない(絶頂期のエノケン一座への対抗馬という意味合いが強かったらしい)、それ以来、戦時下の昭和一八(一九四三)年六月の同劇団解散まで、同劇団は常盤座を根城にしていた。参照したウィキの「常盤座」に、まさに作品内時制と完全に一致する昭和一二(一九三七)年一月の写真が載る(右手前が常盤座とあり、その上によく見ると「笑の王國」の幟(のぼり)もまさに見えるのだ)。序でにYouTube の「東京節」(作曲:添田啞蟬坊・唄:大工哲弘)を視聴されたい。その2:50のところの「浅草」とテロップの出る動画内(カラー・着色か)に「WARAINOOKOKU」の看板と、次いで切り替わった画像にも「笑いの王國 公演 常盤座」の幟が見える(その少し後にも同一場所を少し引いた画像が出る。これらの画像は太平洋戦争前のものと思われる。必見!)。「ワリビキ」というのは劇場や映画館などで早朝や深夜その他の客入りの少ない一定時間内に於いて通常の値段よりも安い料金で客を入れることを指す。「駒込千駄木町の『愛静館』という下宿」現在の東京都文京区千駄木に実在した駒込千駄木町はバス停として今も残る(グーグル・マップ・データ)。大正六(一九一七)年刊の萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の挿絵(刊行は田中の死後)で知られる和歌山市出身の版画家田中恭吉(明治二五(一八九二)年~大正四(一九一五)年:やはり同詩集の挿絵を描いている恩地孝四郎と友人であった。惜しくも結核で夭折した私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」ヴァーチャル正規表現版始動 序(北原白秋・萩原朔太郎)目次その他 地面の底の病氣の顏)』他(ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」)を見られたい)が上京直後に下宿としている。]

 で、本郷に戻ってきても、二人はひどく寒かった。そこらあたりがしんかんとつめたく、いわゆる霜夜というやつだ。そこで屋台のオデン屋で、コップ酒をかたむけることにたちまち相談がまとまった。酒を飲むのは、しかし寒かったからだけではない。他にもう一つ理由があって、つまり初めからの予定でもあったわけだ。

 屋台に入り、酒がなみなみと注がれると、霜多はコップをちょいと持ち上げ、僕の顔を見て、

「おめでとう」

 と笑いながら言った。いたわるような、からかうような、そんな妙な調子だった。そしてつけ加えた。

「ほんとによかったな」

「うん」

 僕はコップに目をつけた。何箇月ぶりかのその酒は僕の食道をじりじりとやき、しずかに胃の方におちて行った。その味は、旨いとか不味いとかいうものでなく、言わばその彼方のものの味だった。しかし僕はすこしヤセ我慢のような気持で、

「うん。酒というものは、やっぱり旨いもんだな」

 などと答えたりした。久しぶりの酒に、そんな照れかくしを言わねばならないほどに、僕には複雑な感懐があったのだ。しかしまあ、あの頃だったから複雑なので、今だったら複雑でも何でもない、カンタンな話なのだが。

 その筋道をちょっと言いておく。

 その前年の七月の末、当時二十一歳の僕はある種の病気にかかったのだ。ある種の病気というのもへんだから、この病名を仮にXということにしておこう。このXは現今においては、注射の一、二本でカンタンに治癒するらしいけれども、当時は当時、医業医薬の未発達のため、なかなか難治の病気とされていた。その難治なるXに不運にも僕がとりつかれたというわけだ。僕は夏休みの帰郷をも取止めて、大急ぎで医者に飛んで行った。

 こうして僕の憂鬱な口々が始まった。

 Xという病気ははなはだ面白くない病気で、酒はいけない、刺戟物はいけない、あまり動き廻ることもよくない、とにかくあらゆる欲望をつつしまなければならない病気なので、そこで僕は毎日下宿にごろごろして、そして医者に通う。その医者は町医者で、僕が学生だからというので、特に治療費を月極め二十五円にして呉れた。当時にしてもこれは安い方だったと思う。医院は千駄木町にあった。僕が弓町の下宿を引払い、この愛静館に引移ってきたというのも、そんな事情からだった。毎日通うのに遠くでは都合が悪いのだ。

 ところが次にむつかしい問題があった。愛静館の下宿代が一月二十五円、医者代と合わせると、月に五十円となる。それなのに僕が仕送りを受けている学資が、月額五十円なので、下宿代と医療費にまるまる消えてしまうのだ。あとは何も出来ないというわけだが、僕だって人間だから、何もしないというわけには行かない。本も読みたければ、タバコもすいたい。そんなことをするにはどうしても金が要る。

 それではも少し余計に仕送りさせればいいじゃないか、と思う人もあるだろうが、そういう訳にも行かない。Xのことは故郷には秘密になっているし、夏休み不帰郷のことは学術研究ということにしてある。だからどうしてもその範囲でやらねばならなかったのだ。僕ははなはだしく憂鬱だった。

 ところがその憂鬱にまた輪をかけることが起きて出たのだ。病状は順調に回復におもむいていると思っていたのに、九月に入ったとたん、Xがある種のこじれ方をして、大いに痛みを発し、僕はどっと床についた。痛くて痛くて動けないのだ。退屈なものだから、バスに揺られて浅草にレビューなどを見に行ったのが、覿面(てきめん)にたたったらしい。

 それから下宿に寝たっきりの三週間、医者は毎日往診して来る。動けないのだから、付添いの女を派出婦会からやとう。どうにでもなれと思って、僕はヤケッパチな安静をつづけていた。将来のことを考えると、眼の先がまっくらになるような気がするので、一日中もうひたすら無念無想とつとめている。八方ふさがりだから、僕とてもそういう擬態をとらざるを得ないのだ。

 こういう僕に対して、下宿側はどう考えていたか。それを想像すると、僕は今でも舌打ちしたくなるような面白くない気分になる。

 

 Xのことはもちろん下宿側には秘密にしてあった。しかし事態がこうなれば、向うは感づくにきまっていた。そうそう僕もかくし立ては出来ない。

 無論感づかれたって一向かまわないのだけれども、事情が事情だから、いろんな支出の関係上、どうしても下宿料がとどこおってくる。下宿料のたまった止宿人ほど肩身のせまいものはない。経験のある人には判って貰えると思うが、そうなれば女中だって鬼みたいに見えてくるものだ。

 そんな絶対安静のある日、付添いの女が食事から部屋に戻ってきて、僕に言った。ひどく不快そうな表情だった。

「御飯どきにあたしをいじめるんですのよ」

 付添いは二十四、五の素直な女だった。もちろん食事代は僕持ちのわけだが、下宿ではその食膳を僕の部屋に持って来ず、初めから女中部屋で食事をするように命じたらしい。これは僕を踏みつけにしたやり方なのだが、宿料がとどこおっているのだから仕方がない。だから付添いは食事毎に女中部屋にかよっていたのだ。

 僕は訊(たず)ねた。

「誰がだい。オカミかね?」

「いえ、オカミさんじゃない。あの婆さんです。とてもひどいことを言うのよ」

「どんなこと言った?」

「あなたのことなど、学生のくせにXなんかにかかって、仕様のないダラク学生だって」

「ダラク学生?」

「あんなのを産んだ親御の顔が見たいなんて、わざと聞えよがしに話すのよ」

 僕は寝床にじっとあおむけに横たわり、大げさに言うと、歯をかみ鳴らして悲憤の涙を呑んだ。こんなにも日常は憂鬱なのに、八方ふさがりでどうしていいのか判らないのに、何も開係のないあのババアから、なんでこんなことまで言われねばならないのか。

 ここでこの婆さんのことを、ちょっと説明をして置く必要がある。この婆さんというのは、この下宿の経営者ではない。はっきり言えば一介の雇い婆に過ぎないのだ。つれあいの爺さんと一紺にこの下宿に住みつき、それも相当古くから居付いているらしく、相当の実権と発言権を持っている風(ふう)で、仕事と言えば炊事や掃除の指図など、ちょっと女中頭みたいな地位にあるようだった。年齢はその頃五十五、六ぐらいだったかしら。色の黒い、説がぎろぎろして、いかにも頑固一徹そうな風貌だった。これに反してつれあいの爺さんは全くの好々爺だったが、婆さんの尻にしかれて影のうすい存在だった。

 僕は初めからこの婆さんから好意を持たれていないらしかった。

 今思うと、この婆さんの止宿人に対する好悪あるいは価値判断は、しごくハッキリしていたと思う。学校に毎日真面目に出席し、そして下宿代もキチンキチンと払う、そういう止宿人に婆さんは好意を持ち、その反対のものに悪意を持ったというわけらしい。彼女は雇い婆だから、下宿代を溜めようが溜めまいが関係ない筈なのに、そこが価値判断のひとつの基準になっている。つまり彼女の好悪は、彼女独特の倫理観から出てきているようだった。

 この下宿に入った早々、僕はハガキを出しに、玄関にあった誰かの古下駄をつっかけて出かけ、そしてこの婆さんにがみがみ叱られたことがある。僕も反撥した。

「ちょっとそこまでだから、いいじゃないですか。穿いて減るものじゃなし」

「だってあんたさんは、自分の下駄を持ってなさるんじゃろ」

 と婆さんは僕をにらみつけた。僕としては、ついそこらのポストまで行くのに、わざわざ下駄箱から下駄を出すのは面倒くさい。だからちょっと無断使用したわけだ。それはもうすっかりすり減って、捨てても惜しくないようなよごれた古下駄だったのに。

「ケチケチするなよ、婆さん」

 僕は捨ぜりふを残して、一気に階段をかけ上った。僕の部屋は二階の一番外(はず)れの、北向きの日当りの悪い四畳半だった。愛静館の中でも最も悪い部屋のひとつだったと思そう。

 

 その四畳半の部屋で、面白くない明け暮れをむかえ、そして僕の病気がやっと治(なお)ったのは、翌年の正月に入ってからだった。七月の末からのことだから、五箇月を越える計算となる。一夜の歓の代償としては、若い僕にとって犠牲が少々大き過ぎた、と言えるだろう、現今なら何でもない話だから、僕は十五年ばかり早く生れ過ぎた。しかしこの五箇月の忍苦の生活の中で、僕は人の世のいろいろのことを学び、またさまざまな考えや態度を身につけた。すなわち少しは図太くなってきたとも言うわけだ。図太くなったとしても苦しく憂鬱な条件にはかわりなかったのだが。

 その僕に、霜多がいつかこんなことを言ったことがある。

「君の生活が僕には大変うらやましいな。だって、君は、酒は飲めないんだろ。コーヒーも飲めないだろ。女も抱けないだろ。そうなってしまえば、勉強がいくらでも出来るじゃないか。うらやましい身分だよ。それに君の生活の全目的は、Xの治癒ということにかかっているから、つまり生活の大義名分というものがハッキリしてるというわけだ。それだけでも大したもんだよ。今の青年たちを見なさい。皆生活の目的を失って、右往左往してるだけじゃないか。この僕だってそんなもんだよ。ほんとに君がうらやましい」

 しかしこれが霜多の本音であったかどうか。後年霜多が同じくこの病にとりつかれて憂鬱な顔をしていた時、僕はわざと今の言葉をそっくり彼に言ってやった。こんな言葉は、傍観者にとって本音であるとして、当事者にとっては全然的外れの、むしろじりじりと腹が立って来るような言葉なのだ。やはりこんなことは当事者同士じゃないと判らない。そこで僕は今でも、どんな種類の病人に対しても、しかつめらしい同情や激励の言葉は絶対に出さないことにしている。

 本郷のオデン屋で霜多がコップを上げて、おめでとうと祝福して呉れた時も、だから僕は必ずしも調子を合わせて嬉々とするわけにも行かなかったのだ。と言って全然嬉しくないということはない。嬉しいにはきまっている。医者から、もう酒でもコーヒーでもいくらでも飲んでもいい、と言われた時の嬉しさはちょっと形容を絶するようなものだった。ただそれが他人から祝福されるところからは、少しずれていたというだけの話だ。それに完全に癒(なお)ったとしても、まだ色々の問題が残っている。この五箇月間の気持のムリ、生活のムリ、ことに経済上のムリは、全部現在にシワヨセになって来て、それはもうどうしようもない程度に達していたのだ。医者の払いも半分近く残っているし、親類や知友たちにも不義理の借金、下宿代にいたっては三箇月分以上もとどこおっている。前年の大みそか、つまり十日ほど前のことだが、愛静館のオカミは僕の部屋にでんと坐りこみ、是非ともここで片をつけて呉れ、片をつけねば正月から食事も出さぬとの強(こわ)談判に、僕はひたすら哀願の一手で、年があけたら必ず金を調達してお払いする、と堅い約束までさせられている。ところが今日となっても、調達のメドすらついていないのだ。

 下宿の玄関を出入りする度に、オカミや婆さんや女中たちが、じろりと僕を険をふくんだ白い眼で見る。背中に汗が滲み出るような気持で、僕は寒空に飛び出す。飛び出したが最後、下宿がすべて寝しずまってしまうまでは、全然戻る気持になれないのだ。今にして思えば、どうも僕はいくらか神経衰弱的な、強迫症状みたいなものにおち入っていたのかもしれない。

 で、その屋台のオデン屋で適当に祝杯をあげ、有り金もすっかり使い果たし、そこで中野へ帰ろうとする霜多を懸命に引き止めたのは、僕の方だった。霜多の外套(がいとう)の袖を、僕はつかんで離さなかった。

「ねえ。も少し飲もうよ。まだ早いんだから」

「だって金がないんだろ」

「紫苑に行けば、ツケで飲めるよ。とにかく飲んでしまって、金は明日持って来ると言えばいい」

 紫苑というのは、愛静館の近くにある小さなうらぶれた喫茶店の名だ。病気中時間つぶしに僕はほとんど毎日そこに行き、紅茶をのんでレコードを聞いてばかりいたのだ。

 しかし霜多はなおも渋(しぶ)った。終電を逸(のが)すと困るというのだ。

「僕の下宿に泊ればいいじゃないか」

「一緒に寝るのは寒いからイヤだよ」

「心配するな。ちゃんと客蒲団を出させるよ」

「へえ、大丈夫かい」

 霜多はそう言ってニヤリと笑った。信用がおけないという表情でだ。僕と下宿との現在の状況をうすうす知っているものだから、そんな笑い方をしたのだろう。僕は強引に彼の外套の袖を引っぱった。霜多はしぶしぶ眼いて来た。

 実のところ僕も、こんな状況において、下宿に客蒲団を出させる事が出来るかどうか、はなはだ心もとなかった。心もとないと言うより、それは不可能だと言ってよかった。しかし一旦保証した以上、戦後的表現で言えば不可能を可能としないわけには行かないのだ。そのためにも、もっとアルコール分を入れて酔っぱらう必要があった。酔ってしまえばどんな厚顔な申し出だって出来る。それで失敗すればそれまでの話だ。――そしてその時の僕の胸に、いわば破滅的な予感とでも言ったものが、たしかにあったように思う。

 屋台を出て僕らは追分の方に歩いた。半年ぶりの飲酒だから、生酔いなのかしたたか酔っているのか、自分でもはっきりしない。身体の芯(しん)はグニャグニャしている感じだが、夜風は頰にひりひりとつめたい。それはへんに確かなつめたさだった。そして僕らは横町に折れ込んだ。紫苑はその静かな横町にぽつんとあるのだ。僕らはその扉を押した。マダムが僕を見て目顔であいさつした。部屋の中はストーブでむっとあたたかかった。僕らはすみの卓に腰をおろした。卓と言っても三つか四つしかないのだから、たかが知れている。

 そして僕らはビールを注文してどんどん飲み始めた。部屋中があったかいから、ビールはひとしお旨(うま)かった。つまみものは南京豆。つまみもの付きでビール一本が五十銭だ。思えば当時は物価が安かったものだ。僕らはここでビールをきっかり十本飲んだ。後日紫苑でこの夜の借金として五円支払った記億がある。一人当り五本だから、あの年齢にしては相当な酒量だと言えるだろう。もっとも僕としては祝い酒かヤケ酒か、よく判らないような状態だったけれども。

 向うの卓でもビールをじゃんじゃん飲んで騒いでいる四、五人連れの一組があった。マダムがそっと僕らの卓に近づいて、小声で教えて呉れた。

「あれが川崎長太郎よ。その横が浅見淵。立ってるあのノッポが檀一雄よ」[やぶちゃん注:「川崎長太郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和五〇(一九八五)年)は小田原出身の小説家。小田原中学校中退(図書館の本を盗んで退学処分を受けた)。初期にはアナーキズム・ダダイズム系の詩を書いていたが、関東大震災後、それらの動きを離れ、私小説に転じた。「無題」(大正一四(一九二五)年)や、郷里小田原の私娼窟に材をとった「抹香町(まっこうちょう)」(昭和二五(一九五〇)年)などで一時期、ブームを呼んだ。「浅見淵」(あさみふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年)は。兵庫県神戸市生まれの小説家・評論家。早稲田大学国文学科卒。中学時代から『文章世界』に詩などを投稿し、早大在学中に『朝』同人となり、大正一四(一九二五)年に「山」を発表。以後、『文芸城』『新正統派』などの多くの同人雑誌に参加して創作・評論を多数発表した。昭和一一(一九三六)年に「現代作家研究」を出版、翌年には創作集「目醒時計」を刊行している。近代文学史の研究でも知られる。「檀一雄」(明治四五(一九一二)年~昭和五一(一九七六)年)は山梨県生れの小説家。東京帝国大学経済学部在学中、太宰治らを知り、佐藤春夫に師事した。芥川賞候補となった「張胡亭塾景観」(昭和一〇(一九三五)年)などを収めた処女作品集「花筐 (はながたみ) 」(昭和十二年) を刊行後、約十年間の沈黙の後、「リツ子・その愛」・「リツ子・その死」(昭和二五(一九五〇)年)で文壇に復帰、「長恨歌」「真説石川五右衛門」で同年下半期の直木賞を受賞した。しかし、三人とも梅崎春生(大正四(一九一五)年二月十五日生まれ)の先輩作家でありながら、彼よりも長生きしていることが何とも言えない。]

 マダムは三十過ぎの小柄な女で、ドイツ人か何かと関係があるとかあったとか、そんな噂のある女性だった。年甲斐もなく文学少女(?)で、そういう高名な文士たちがやって来たことが、なかなか嬉しいらしいのだ。そしてその嬉しさを僕ら大学生たちにも分けたかったのだろう。

 僕も東京に来てまだ一年足らずだから、文士飲酒の光景に接するのは、これが始めてだ。ちょっと珍しいことだから、時に横目でそちらを眺めながら、こちらもピッチを上げる。俺もいつかは文士となりあんな具合に酒を飲んでやろうと、僕がその時思ったかどうか、十六年も前のことだから覚えていない。そのうちに座が乱れて、酔える川崎長太郎はビール瓶をぶら下げ、ひょろひょろとこちらにやって来て、いきなり僕の肩をがしりと摑(つか)み、

「やい、大学生、ビールを飲め!」

 ビール瓶の口を僕の口にあてがい、ごくごくと注(そそ)ぎ入れた。僕は突然のことだから、ビールにむせて泡を宙にふき出したりした。

 かれこれしてカンバンになり、僕らが外に出たのは、もう午前二時を過ぎていたと思う。正確に言うと、一月九日ということになる。月が出ていた。月はつめたく本郷の家家の瓦を照らしていた。

 もちろん僕らは相当に酔っていた。愛静館まで二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]足らずしかない。僕らはよろめきながらその道を歩いた。

 客蒲団の交渉をしてくるから君はここで待ってろと、霜多を表の電信柱の下に待たせ、僕は勢いよく愛静館の玄関の大ガラス扉をがたがたと押しあけた。

 帳場にはれいの婆さんがひとり火鉢にうずくまっていたが、その音を聞きつけて顔を上げた。ぎろりと僕の顔を見た。

 僕はつかつかと帳場の台まで行き、その仕切りのガラス障子を押しひらいた。

 婆さんは極端につめたい眼付きで、僕をにらんでいる。僕も負けずに婆さんをにらみつけながら、押しつけるような声で言った。

「客が泊るんだから、客蒲団を出して呉れ」

「蒲団を出せって、あんた今何時だと思ってんだね」

「何時だって、時計を見りゃ判るだろ」

 と僕は大玄関の大時計の方をあごでしゃくった。婆さんは少しむっとしたらしかった。

「こんなに遅く帰ってきて、そんなムリはお断り!」

「なに。ムリだと?」

 僕もむっとした。ムリは最初から承知はしているが、僕は承知していても、僕の酔いがそれを承知しなかったのだ。それに霜多も表で待っている。

「ムリだとは何だ。ここは客商売だろう。そんなら客の言うことをきけ!」

「うちでは客蒲団は十二時までですよ。それ以後は出せません。皆寝てるんだよ」

「寝てるって、婆さんがそこに起きてるじゃないか。骨惜しみもいい加減にしたらどうだね。なんだい、俺の付添いをいじめたりしやがって!」

「おや、あたしが何時誰をいじめました?」

「付添いだよ。それに俺のことをダラク書生とか何とか、カゲ口をきいたそうだな」

「何だね、あんたは」

 婆さんは急に鎌首をもたげて、中腰になった。

「真夜中に帰ってきて客蒲団を出せとか、カゲ口をきいたとかきかんとか、そりゃちゃんと下宿料を払ってから言うもんだよ。第一あたしゃあんたに雇われちゃいないんだ」

 僕はたちまち逆上した。この一夜の酔いが一時に顔に燃え上るようで、くらくらと何もかも判らなかった。帳場の台の上には、どういうわけか小さな糊壺が一つおかれてあった。反射的に僕はそれを摑(つか)んで、婆さんめがけて力一ぱい投げつけたらしかった。

「おまわりさん。おまわりさん。その悪党をひっくくって下さい。死刑にして下さい。なんだい、あんなの、死刑にしたっていいんだ。くたばってしまえ」

 巡査たちが来ると、婆さんは更に狂乱状態になって、大声でわめき、しきりに罵り続けた。今考えると、おでこのコブがあまりにも痛いので、それをまぎらわすためにわめいていたのではないかとも思う。それならば気の毒なことをした。

 一方僕は土間にしょんぼりと佇(た)ち、小刻みにがたがたと慄えていた。巡査が恐いからではなく、寒さがひしひしと身に沁みてきたからだ。糊壺を投げ椅子をふり廻した、それだけの運動で、あれだけの酔いが一時に発散してしまったらしい。しらじらとしたものが、そのかわりに僕の胸をいっぱいに充たしてきた。

 巡査は婆さんの怒声にあまり耳もかさず、寝巻姿の連中に事情を聴取したり、糊壺を証拠品として押収したり、そんなことばかりをしている。僕のことも、逃亡のおそれなしと見たのか、あまりかまわない風だった。僕ももうジタバタしたって仕様がないので、そこにつっ立って、巡査の動作をぼんやりと眺めているだけだった。その時僕が感じていたのは、悔悟の念というよりも、むしろ開放感というものに近かったかも知れない。

(これでとにかく一応の決着がついたというわけかな)

 僕はぼんやりと、そして呑気にもそんなことを考えた。今思っても、これで決着がついたと考えたのは、呑気も甚だしいことだった。実際新しい苦労がそこから始まったようなものだったからだ。そして僕は考えた。

(俺は俺を取巻く現実を憎んでいた。ところが現実一般を漠然と憎悪するわけには行かないので、この婆さんを代表に立てて、唯一の仮想敵だと思ってたのかも知れないな)

 事件もそろそろ終ったと見極めたのか、それとも寒いのか、そこらにうろうろしていた寝巻姿の止宿人たちは、一人減り二人減り、そして皆部屋に戻ってしまったらしい。やがて婆さんもいくらか落着いて、くどくどと巡査の一人に何か訴えている。

 もう一人の巡査が急に僕に近づいて、僕の肩をごくんとこづき、そして険のある声で言った。

「おい、一緒に来るんだ」

 その巡査と一緒に、僕は表へ出た。霜多があとからついて出た。表へ出ると巡査はぶるっと身ぶるいをした。

「やけに寒いな、車でも拾うか。おい、お前、金あるか?」

「持ち合せありません」

 と僕は出来るだけおだやかに答えた。巡査は舌打ちをした。そして霜多の方をふりむいた。

「あんたは少し金ないですかね?」

 霜多に対しては言葉使いがていねいだった。そういうことかも知れないけれど、実のところ僕はあまり愉快な気持ではなかった。

「ないです」と霜多がカンタンに答えた。巡査はフンといった顔をした。

 そして僕の腕をつかんで、不機嫌な声でうながした。

「さあ、さっさと歩くんだ。手間をとらせやがって!」

 そして僕ら三人は、各々の月の影を平たく地面に引きずって、駒込警察署の方にむかって歩き出した。

 

譚海 卷之三 譚海の事 / 譚海 卷之三 電子化注~了

譚海の事

○譚海一書時々人の物語を聞置しわざのわすれがたき事を書とめぬれど、わかき程は聞捨たるまゝにて書(かき)も止めざりしを、四十歲計(ばかり)の此より思ひ立てかくはしるしたれど、もと聞し事も覺束なく成(なり)て書もらしぬる事多し。殊に此卷は傳聞のたがひ、事案のあやまりもおほかるべけれども、せめては聞すてん事の名殘(なごり)なく覺えて、閑(かん)を消(しやう)するなぐさめに一わたり書しるせる事となりぬ。猶あやまりあらん事をば、見ん人あらため補(おぎなは)んわざをねがふにこそ。

[やぶちゃん注:「譚海」の一つの区切りとして記したもの。これを以って「譚海」の「卷之三」は終わっている。]

   *

今日は、睡眠薬を飲んでいるのに、御前三時前にすっかり目が覚めてしまった。仕方なく、只管、「譚海 卷之三」完結に勤しんだ。七時間ぶっ通しで、やっと終わった。2015年2月9日に始めて六年で全三巻、か……しかし……「譚海」は……全十五巻……このペースでは……生きてるうちには無理かもな…………

譚海 卷之三 山崎の妙喜庵

山崎の妙喜庵

○山崎に妙喜庵と云寺あり。其數寄屋(すきや)三疊大目(さんじやうだいめ)の根本也、千宗易作る所にて、豐臣太閤の袖すり松と云も此庭に有。今は枯たるを其樹を取て香合(かふがふ)に製したるもの、名ぶつにて世中に有。京都はすべて數寄屋の本色(ほんしよく)とするもの、千家をはじめ諸寺院にあまたあり、大德寺塔中は殊に多し。茶器の細工も釜師を始め、一閑張(いつかんばり)細工・茶碗師の類迄、その家を傳へて今に絕ず、精密なる事いふべからざるもの也。

[やぶちゃん注:「妙喜庵」京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう)にある現在は臨済宗。山号は豊興山。江戸時代には一時、地蔵寺の塔頭であった。室町時代の明応年間(一四九二年~一五〇一年)の開創で、開山は東福寺開創聖一国師法嗣の春嶽士芳。国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることで知られる。当該ウィキによれば、待庵は『日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。寺伝には』、天正一〇(一五八二)年の「山崎の戦い」の折り、『羽柴秀吉の陣中に千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し』、『移築したとある』。慶長一一(一六〇六)年に『描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに「かこひ」(囲い)の書き込みがありこのときにはすでに現在地に移築されていたものと考えられる。同図には、妙喜庵の西方、現在の島本町の』連歌師山崎宗鑑の『旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことを伺わせる。したがって待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられる』。『茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建つ。茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間である。南東隅ににじり口を開け、にじり口から見た正面に床(とこ)を設ける』。『室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風とする。この荒壁は仕上げ塗りを施さない民家では当たり前の手法であったが、細い部材を使用したため壁厚に制限を受ける草庵茶室では当然の選択でもあった。床は』四尺幅(内法三尺八寸)で、『隅、天井とも柱や廻り縁が表面に見えないように土で塗りまわした「室床(むろどこ)」である。天井高は』五尺二寸ほどで、『一般的な掛け軸は掛けられないほど低い。これは利休の意図というより』、『屋根の勾配に制限されてのことと考えられる。床柱は杉の細い丸太、床框は桐材で』、三『つの節がある。室内東壁は』二『箇所に下地窓、南壁には連子窓を開ける。下地窓(塗り残し)の小舞』(「木舞」とも書く。屋根や壁の下地で、竹や貫を縦横に組んだもの)『には葭が皮付きのまま使用されている。炉はにじり口から見て』、『部屋の左奥に隅切りとする。現在では炉と畳縁の間に必ず入れる「小板」はない。この炉に接した北西隅の柱も、壁を塗り回して隠しており、これは室床とともに』二『畳の室内を少しでも広く見せようとする工夫とされている。ただ隅炉でしかも小板がないのだから、炉の熱から隅柱を保護する目的もあったと考えられる。天井は、わずか』二『畳の広さながら』、三『つの部分に分かれている。すなわち、床の間前は床の間の格を示して平天井、炉のある点前座側はこれと直交する平天井とし、残りの部分(にじり口側)を東から西へと高くなる掛け込みの化粧屋根裏とする。この掛け込み天井は、にじりから入った客に少しでも圧迫感を感じさせない工夫と解せられる。二つの平天井を分ける南北に渡された桁材の一方は床柱が支えていて、この桁材が手前座と客座の掛け込み天井の境をも区切っている。つまり』、『一見』、『複雑な待庵の天井の中心には床柱があり、この明晰性が二畳の天井を三つに区切っていても』、『煩わしさを感じさせない理由となっている。平天井の竿縁や化粧屋根裏の垂木などには竹が使用されており、障子の桟にも竹が使われている。このように竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせる。二畳茶室の西隣には襖を隔てて』一『畳に幅』八『寸ほどの板敷きを添えた「次の間」が設けられ、続けて次の間の北側に一畳の「勝手の間」がある。一重棚を備えた次の間と、三重棚を備え、ひと隅をやはり塗り回しとする勝手の間の用途については江戸時代以来茶人や研究者がさまざま説を唱えているが未だ明らかになっていない』とある(茶室の一九五二年刊の「国宝図録」第一集所収のモノクロームの写真が有る)。

「三疊大目」「三疊臺目」とも書く。丸畳三畳の客座と台目畳一畳の点前座で構成された茶席のこと。サイト「茶道」のこちらに詳しい。

「千宗易」千利休の号。

「豐臣太閤の袖すり松」「古美術ささき」のこちらに、その松材で作った茶杓(銘「老松」)というのがあった。製作者は武田士延(昭和六(一九三一)年生)氏で彼は妙喜庵住職(昭和三五(一九六〇)年就任)である。

「香合」「香盒」とも書く。香を入れる小さな容器。香箱。

「一閑張」紙漆(かみうるし)細工或いはその紙漆細工を作る方法のこと。「一貫張」とも書く。当該ウィキによれば、『明から日本に亡命した飛来一閑が伝えて広めた技術なので一閑張になったという説がある。農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので』、『一閑張と呼ばれるようになったという説もある』。『一貫』(三・七五キログラム)『の重さにも耐えるほど丈夫なのが由来なので漢字の書き方も一貫張という地方もある』。『竹や木で組んだ骨組み(最近では紙ひもを用いた物もある)に和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。張り子と作り方が似ている』。『食器や笠、机などの日用品に使われたが、現在はあまり一般的に使われていない。人形やお面などにも使われている』。『食器は高級料亭等でお皿として現在も利用されるが、日用品としては高価で一般に普及することがあまりない』とある。ウルシ・アレルギの私には永久に縁がない代物である。]

譚海 卷之三 桂昌院殿御寄附の燈籠

桂昌院殿御寄附の燈籠

○常憲院公方樣の御母堂桂昌院殿御寄附の燈籠といふもの、京都をはじめ五畿内諸寺社にあまた有、皆からかねの燈籠にして甚(はなはだ)精工也。又京都南山の石淸水には、古來の名將英哲の奉納ありし石燈籠甚多し。又堺(さかひ)住吉明神には、渡海の船頭はじめ海方(うみがた)のあきなひをするもの、みな石燈籠を奉納する事となり、年々に建(たて)つゞけたる事其數をしらず。又大和春日明神の末社に祓(はら)ひ殿と云(いふ)あり、その前にある燈籠は、世に用ふる火口(ほぐち)に鹿(しか)を鑱(ほら)[やぶちゃん注:底本のルビ。]したるものにて、春日形(かすががた)と稱する燈籠の本色(ほんしよく)也。又京都八瀨市原村小町寺にも燈籠あり、石のふりたるさま殊に幽致あり、世に小町形(こまちがた)と稱するもの也。雪見形(ゆきみがた)といふ燈籠の本色とするものは相國寺にあり。

[やぶちゃん注:「桂昌院」(寛永四(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)は徳川家光の側室で、第五代将軍綱吉(ここに出る「常憲院」は彼の諡号)の生母。通称は「玉」。当該ウィキによれば、『京都の大徳寺付近で産まれ』た。「徳川実紀」では『父は関白・二条光平の家司である北小路(本庄)太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。桂昌院と同時代の人物の記録では、朝日重章の日記』「鸚鵡籠中記」に、『従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首があったことが記されており、また戸田茂睡の』「御当代記」には『畳屋の娘という説が記されて』あり、また黒川道祐の「遠碧軒記」の「人倫部」には『二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。死後やや経ってからの』「元正間記」には『大根売りの妹、さらに後の』「玉輿記」(ぎょくよき)には、『父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている』。寛永一六(一六三九)年に『部屋子』(へやご:江戸時代に大奥や大名屋敷などの御殿の奥女中に仕えた召使い。部屋方(へやがた))『として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになる』。『長じて将軍付き御中』﨟『となり、家光に見初められて側室とな』って、正保三(一六四六)年に『綱吉を産んだ』。慶安四(一六五一)年)に『家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入』ったが、第四『代将軍・家綱の死後』の延宝八(一六八〇)年に『綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。貞享元(一六八四)年に従三位、元禄一五(一七〇二)年には『女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜』っている。享年七十九。

「大和春日明神の末社に祓ひ殿と云あり」現在の春日大社の末社祓戸神社(はらえどじんじゃ)。春日大社本殿へ向かう参道沿いにある「二の鳥居」の近くにある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「その前にある燈籠」個人サイト「アフター古希親父の霊場巡り」のこちらにある四枚の写真が細部まで見えてよい。笠が独特である。

「火口に鹿を鑱(ほら)したるもの」「鑱」は音「サン・ザン」で「彫る」の意がある。燈籠の灯を灯す部分を「火袋(ひぶくろ)」と称し、開口していない部分には彫刻を彫る。しかし、上記のリンク先の画像と解説には『火袋に飛天と家紋』とあり、不審。ただ、鹿を彫るものもある。次注参照。

「春日形」奈良の春日大社の石灯籠の形。また、その形を真似た灯籠。「土江明夫石材」公式サイトの「春日形」見本を見られたい。鹿が彫られてある。

「本色」本来の形質。本領。

「京都八瀨市原村小町寺」現在の京都府京都市左京区静市市原町(しずいちいちはらちょう)にある補陀洛寺(ふだらくじ)の通称。小野小町が晩年をこの地で過ごしたという伝説に基づいて、造立されたと伝えられる小町九十歳の頃の像が本堂内脇に祀られてある。小町燈籠があると書かれてあるが、画像は確認出来なかった。しかし、「京都府造園協同組合」公式サイト内の「八角石燈籠」に、「小町寺形」として石川県金沢市所在燈籠の画像があり、そこに『もと京都の小町寺にあったもの。京都系の特色がよく出ている名品の一つである。特に火袋の大面取式八角の四隅に半肉彫で刻出した四天王は、京都系では珍しい。鎌倉時代』とあった。私はこれで満足。

「雪見形」名の由来は諸説あるようだ。傘を広げた上に雪が積もった形に似ているとも、近江八景の「浮見堂」に因んで作られたものが訛ったなどの説がある。石材店の解説では「浮見」から「雪見」と言葉が変化したという説が適切ではないかと言われているとあった。グーグル画像検索「雪見形 燈籠」をリンクさせておく。

「相國寺」京都五山第二位臨済宗萬年山相國承天禅寺(グーグル・マップ・データ)。それらしい雪見燈籠はネット上では確認出来なかった。]

譚海 卷之三 古代の陵

 

○和州などにある古代の御陵(みささぎ)は、みな大石(だいせき)を積重(つみかさね)て築(きづき)たる物也、甚(はなはだ)大きくて一里塚の如し。所々田畑の間に有。寶永年中關東の御沙汰にして、古代の御陵ある所をば糺(ただ)し考へられ、皆除地(よけ)に命ぜられて、ながく木こり・牛かひなどの入(いら)ざるやうにせられたる事となりぬ。

[やぶちゃん注:「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。徳川綱吉・徳川家宣の治世。]

譚海 卷之三 御葬送の御車を引く牛

御葬送の御車を引く牛

○御葬送の御車(みくるま)を挽(ひ)く牛は、額(ひたひ)に月日星(つきひほし)の文(もん)あるを用らる、此牛崩御にあたりて必ず出(いづ)る事也。五畿内の民家に此文ある牛生(しやう)ずるときは、是はよからぬ事也といひて、其牛を大切に養ふ事也。御葬送はいつも夜陰也、内裏より泉涌寺(せんゆうじ)までにて送り奉る。公卿壹人(いちにん)御車に乘居(のりゐ)て、御棺(おんひつぎ)のかたはらに侍し、所々の町の名を申上(まうしあぐ)る也。御車のきしる音殊に哀々として遠く聞え、しかも其音(ね)さやかにして、聞人(きくひと)そゞろに淚を催す事なり。關白殿諸卿みなわらぐつにて步行(かち)の御供なり。上﨟の事(こと)故わらぐつの步行殊に難儀にして、甚(はなはだ)路次(ろし)の行列も遲々する事なり。御幸(みゆき)の道すぢの町家(まちや)皆火をけちて、くらやみに坐して拜見する事也。御車の簾(すだれ)をかゝぐる大臣の役也。其人いつも御簾(みす)に參(まゐる)とき詠歌ある事普通の定例也とぞ。御代々の御陵泉涌寺にあるはみな五輪のもの也、ことに小きやうに覺ゆる也。

[やぶちゃん注:「けちて」「消(け)ちて」。消して。

「御車の簾(すだれ)をかゝぐる大臣の役也」「御車の簾(すだれ)をかゝぐる」は、「大臣の役也」の意であろう。]

譚海 卷之三 京都の町家の有樣

 

京都の町家の有樣

○京都の町家建(たて)つゞきたる所は、二條より三條迄也。一條通も年は田野まじりて有、五條より七條までもかくの如し、八條九條は人家つゞかず、みな田地なり。さるがゆゑに叡山愛宕男山などに登り見るに、京都の町家は、すべてはじより端(はし)までのこりなく見わたされ、かくるゝ所なし。三條通四條通の外は、みな町の末田野なるゆゑ、そのさかひに木戶をたてて、初夜[やぶちゃん注:夜の初め頃。戌の刻(午後八時からの二時間)。]より門をとぢ、往來の人その所へ用あるよしいはざれば、門をひらきて通す事をせず。門のかたわらに小(ちひさ)き板こしらへの番屋を置て、晝は取のけ、夜は出(いだ)すやうに車にて引(ひき)やり、自由に成(なる)やうにこしらへたるもの也。ある人語りけるは、六條町尻(まちじり)の番屋によるよる戶をたゝきて番人の名をよぶ事たえず、戶を明(あけ)てみれば人なし、内より伺ひ見たるにむじな[やぶちゃん注:狸。]成(なる)べし、犬より大きなるもの、番屋の戶にうしろざまにより懸り、かしらにて戶をうちたゝき、番人の名をよぶありさまなり。いかで此むじな生捕(いけどり)にせんと、人にも牒(しめ)し合せて待居(まちゐ)たるに、例の如く來りてたゝく時、番人はもとより外にかくれ居(をり)、戶に繩を付て外にてひかへ居たれば、戶をうちたゝくに合(あは)せ繩(なは)を引たれば、戶のあくるに合せてあやまたずむじなうしろざまに番やにまろび入たるを、やがて戶をとぢ人を呼(よび)まはして、むじな生(いけ)とりたるを、いかにして取(とら)えんとさはぐに、あるもの蚊帳(かや)を持來(もちきたり)て番屋におほひ、蚊帳ごしに戶を引明(ひきあけ)たれば、むじなおどり出(いで)たれ共(ども)、蚊帳にまとひてうろたゆる[やぶちゃん注:ママ。]所を、みな集りて打殺しつ。扨むじなを料理(つくり)てくらはんとするに、誰(たれ)も鍋かすものなし。一人(いちにん)才覺をめぐらして、鍋屋に行て大きなる古鍋をとゝのへ價(あたひ)を渡し、先(まづ)此鍋持行(もちゆき)て主人に見すべし、心にかなひたらば調へ侍るべし、さもあらずば返し申さんと約して、持來(みちきた)て人々むじなを烹(に)てうちくひ、扨その鍋をば返し、やがて價をとりもどしぬといへり、をかしき事になん。

[やぶちゃん注:これ、落語みたようで、なかなか面白い。通りはサイト「平安京条坊図」を確認されたいが、北端に一条大路で、そこから二条大路までは方形半分(二画分)で五区画と長く、以下、南端の九条大路までは位置方区画四画分で均等にある。]

譚海 卷之三 京都にて店を借る

京都にて店を借る

○京都にて店(たな)を借(かり)るには甚(ははなはだ)むづかしき事也。先(まづ)店借る事を家主(やぬし)にいひ入(いる)るに、定(さだめ)たる請人(うけにん)判形(はんぎやう)を突(つき)て出(いだ)す事は勿論の事にて、判形請人の外に、又(また)口請(くちうけ)といひて、壹人(ひとり)家主に懸合(かけあひ)、當人(たうにん)別條なきものの由(よし)口上(こうじやう)にて請合(うけあふ)人有(あり)、已上請人二人なり、さなくては店借(かす)事をせず。又借座敷(かりざしき)といふものは是(これ)には異りて、さのみ請人に六か敷(むつかしき)事なし。京都はすべて醫者など學問に登りあつまるもの多きゆゑ、借座敷を建(たてて)て渡世にするもの多し。大抵臺所の道具すり鉢すり木の類(たぐひ)まで用にそなへ有(あり)て、一物(いちもつ)もあらたに調ふる事なし。それにて壹箇月の座敷料すべて疊一枚銀壹匁程づつに配する程なり。

[やぶちゃん注:「銀壹匁」江戸中後期で現代の約千二百五十円。]

譚海 卷之三 京都職人精工

京都職人精工

○京都の職人は何れも精工也。西陣の織物やなど皆諸大名の着料(ちやくれう)を織出(おりいだ)す、他邦に及ぶ者非ず、諸(もろもろの)染物(そめもの)色あひ殊に勝れたり。但(ただし)黑く染(そめ)たるものはつやなくして、江戶にて染たるには劣(おとり)たり。近來(ちかごろ)は西陣にて古代の切れ古金襴(こきんらん)をはじめ、竹屋町(たけやまち)の類(たぐひ)に至るまで織出す事甚(はなはだ)妙手を得たり。時代の切れに引くらべ見るに少しもたがへる所なし。是は其時代のふるき箔を調へいだし、それにて其切を織(おる)事故、たがへる所なき道理なり。筆工(ふでこう)なども京都にて製するは殊に勝れたり。そのゆゑは筆に作る所の毛、鹿(しか)兎(うさぎ)の毛の内にても毛先よく文字をかくにこゝろよく手にまかする所は、一つのけものの皮にて多分はなし。大かた脇毛の處などよろし、それを京都にてまづよき所を拔取て、そのよの皮を江戶或は他方へ下し遣(つかは)す故、他所にてこしらふる筆は、京都の製に劣れる事ことはりなり。すべて筆に作る毛は、皮を二寸四方程宛(づつ)にたちきりて、十枚づつを一からげにして下(おろ)すもの也。針の類も京都製すぐれたり。練(ねり)をとほすめの所、別に大きくて遣ひよし、扇子も御影堂(みえいだう)名物也。火打刄(ひうちは)がねは淸水坂より製し出(いだ)すを上品とす。又鍛冶の細工も他所の鍛冶は物壹つ作り出すにも目形(めかた)の論なし、たゞひたうちにこしらへ出(いで)て、出來あがりたる上にて目形何程なりと云事なるを、京都の鍛冶は左にはあらず、たとへば藥鑵(やくわん)壹つ製するにも、大さ何ほどなれば目かたなにほどにて出來る事と、こしらへかゝらぬはじめに定め置て、扨其銅をめかたの如くはかり置て、其後(そののち)うち出す事也。是は江戶地打(えどぢうち)などといへる職人のわざにはたえてならぬ事のよし。江戶の細工はこしらへあげて後(のち)めかたをはかるゆゑ、はじめより出來次第にこしらゆるまゝ、銅もあつく出來(いでく)るゆゑ、地うちをば丈夫なりといへるはこの理(ことわり)なり。京都にて遣ふ鋼(はがね)は皆まろがせにして取あつかふなり。百目の丸・五十めの丸・二十め・十匁めとまろがせにて、目かた定まりてある事也。

[やぶちゃん注:「竹屋町」竹屋町通(たけやまちどおり)は京都市内の東西の通りの一つで、東は平安神宮西端の桜馬場通から西は千本通まで。平安京の大炊御門大路(おおいのみかどおおじ)に当たり、江戸時代には職人の町として知られた。サイト「平安京条坊図」の北から五本目の大路。

「一つのけものの皮」の毛。

「練をとほすめ」練り絹の細い糸を通す目。

「御影堂」五条大橋の西詰南の御影堂町(みえいどうちょう)にあった新善光寺御影堂で、昔、寺僧が折った扇を言う。平敦盛の未亡人が始めたと伝え、近世には俗人も製造販売に従事して名物となった。現在の「扇塚」をポイントしておく(グーグル・マップ・データ)。

「火打刄(ひうちは)がね」「火打ち金・燧鐡」。火打ち石と打ち合わせて発火させるための鋼鉄片。「火打ち鎌 (がま)」「火口金 (ほくちがね)」とも。

「目形」重量。

「江戶地打」江戸の地金(じがね)打ち(鍛冶屋)か。

「百目……」「目」(め)は「匁」「文目」と同じで、重量単位。一貫の千分の一、分(ふん)の十倍。唐の開元通宝銭一文の重さを「もんめ」と称し、中世末期以降に用いられたが、斤両制と入りまじって複雑となって変動があったが、江戸中期以降に規格が統一され、約三・七五グラムとなった。]

譚海 卷之三 袞龍の御衣 祇園祭山鉾の切

袞龍の御衣 祇園祭山鉾の切

○京都の町人、袞龍衣(こんりようい)の切れを提物(さげもの)にして所持せし人有、紺地にて十二章の内の一つを織(おり)たる所を切はなちたる也。當時大嘗會に用ゐらるゝ御衣は皆赤地の十二章なるに、紺地成(なる)はめづらしき事也。古禮を考へたるもののいへるは、昔時の章服赤地を用ゐらるるは全く唐より以後の制度也。紺地を用る事は漢制にありといへり。然れば當時唐服を用ゐらるゝ故赤地なれども、紺地なるもののかく殘りて有は、殊に久遠の物にして、漢の時のものなれば、漢の時既に本朝へ冠服を贈りたる事あるにやといへり。祇園祭禮の山鉾の旗は、皆名物の織物にして、當時には稀なるきれなり。其町々に傳へとゞめて、今もかはらず年々飾り出すはめづらしき事也。又長刀鉾(なぎなたほこ)の長刀は、小鍛冶宗近がうちたるものにて、不思議の奇特あまたたびなるゆゑ、今はおそれつゝしみて、かへ長刀を作りて祭禮に用ひ、正眞の作は深く納め置(おき)て出(いだ)す事なしといへり。

[やぶちゃん注:標題の末の「の切」はママ。思うに、これは上が「袞龍の御衣の切」とあるべきところを誤記したものかと思われ、さらに下方を「の長刀」とするつもりを混同したものとも思われる。

「袞龍衣」「袞龍の御衣」(こんりょうのぎょい)。昔、天皇が着用した中国風の礼服。上衣と裳 (も) とからなり、上衣は赤地に、日・月・星・龍・山・火・雉子などの縫い取りをした綾織物。即位式・大嘗会・朝賀などの儀式に用いた。

「十二章」古代中国及び東アジア諸国の王・皇帝の礼服である袞衣(こんい)に用いられる模様。当該ウィキによれば、『十二の模様の名は』「書経」の「益稷篇」に『見えており』、『以下からなる。前』六『者は上衣に、後』六『者は裳に用いる模様であると』される(以下、番号を外し、「・」を入れて繋げた)。『日・月・星辰(星や星座の象徴。日、星と共に「明」を意味し、世の中を照らして人に福をもたらす、という意を持つ)・山(穏健に世の中を鎮める、という意)・龍(神意、変幻の意)・華虫(五色の羽毛を持つキジの雛。美しさ故からか古代の服飾の意匠に良く用いられた。鳳凰と見る説もある)』(ここまでが前六者)・『宗彝(宗廟で先祖をまつるための酒器。祭祀と孝行の意)・藻(水と清浄の意)・火(明かりの意。藻と対になる意匠)・粉米(米粒で花を象った模様。養うという意)・黼(ほ、斧の形をした模様』。『断ち切る、果断の意)・黻(ふつ、「亜」字形の模様』。『分別、明察、悪に背き善に向かうの意)・』。なお、「周礼の「春官」及び「司服」への『鄭玄』(じょうげん)の『注によると、この十二種類は古代の天子の冕服』(べんふく:唐風の天皇の衣装及び中国皇帝の専用漢服。礼服の一種で「天子御礼服」とも呼ぶ)『に用いられる模様であった。鄭玄によると』、『周の時代には目的によって異なる数の模様のついた服を着た』とある。

「長刀鉾」当該ウィキによれば、『祇園祭先祭の鉾。巡行の順番が決まっている「くじ取らず」で、山鉾の中で唯一』、実際の『稚児を乗せ』、『巡行の先頭に立つ。下京区四条烏丸(からすま)東入ル長刀鉾町(ちょう)に位置する』(ここ。グーグル・マップ・データ)『長刀鉾は名の通り、鉾頭に長刀を付け、疫病を払う役割を持つ』。『この鉾は』二〇二〇年現在も『女人禁制を取っている(一部の山鉾では女性が乗ることが許されている)』。「応仁の乱」『以前から名がある鉾で』、『山鉾の中で最も早く創建され、その時期は嘉吉元』(一四四一)年で『あるとも』、『それより古いともいう』。『八坂神社に最も近いところにあったことなどから』。『くじ取り式が始まった明応』九(一五〇〇)年から『現在に至るまで、常に巡行一番を勤めて』いる。長刀は『鉾頭に、謡曲「小鍛冶」で知られる平安時代の名工・三条小鍛冶宗近』(古来より一条天皇の治世、永延頃(十世紀末頃)の刀工と伝え、名は山城国京の三条に住んでいたことに由るとされる。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたと謡曲「小鍛冶」に謡われているものの、現存作刀に、この頃の年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、殆んど伝説的存在として扱われている。実年代については資料によって十世紀から十二世紀などと話にならない幅があり、現存する有銘作刀は極めて少なく、「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」である)『の作の長刀を立てたことから「長刀鉾」の名があるという』。『伝説によれば、宗近が娘の病気平癒を祈って祇園社に奉納した長刀(太刀)という』が、後の大永二(一五二二)年に『三条長吉が作った長刀に取り換えられ』、次いで延宝三(一六七五)年には『和泉守来金道』(らい きんみち)『の作ったものを用いるようになった』が、『真剣では重量があって危険であることなどから』、天保八(一八三七)年から『竹製に錫箔を押した模造』『が用いられている』『(長吉作の長刀は秘蔵されており』、『非公開』である)。『長刀の正面が八坂神社や御所に向かないよう、南向きに付けられている』。『天王座には、鎌倉時代初期の武士・和泉小次郎親衡』(ちかひら)『の人形が祀られている』。『和泉(泉)親衡は源頼家の遺児を奉じて北条氏打倒の兵を挙げた人物であるが(泉親衡の乱)』、『朝比奈義秀と並ぶ強力無双の勇士であったとする伝説が付与された。長刀鉾に伝わる伝承によれば、親衡は祇園社に宗近が納めた長刀(太刀)を懇望して愛用したが、さまざまに不思議なことがあったために、神仏を私』(わたくし)『することの非を悟って返納したという』とある。なお、ウィキの「祇園祭」の「山鉾巡行の成立」によれば、『祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴うようになった時期は明確には分からない。鉾の古い形式は、現在も京都市東山区の粟田神社(感神院新宮・粟田天王宮)をはじめ、京都周辺から滋賀県にかけて分布する剣鉾に残っており、祇園御霊会の鉾もそれに類するものであったと推定される』。『現在の山鉾巡行の原形は、鎌倉時代末期の』「花園天皇宸記」の元亨元年七月二十四日(一三二一年八月十八日)の『条の記述から窺える。それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである』。『南北朝時代には、富裕な町人層が』、『競って風流拍子物をくり出し、さらに室町将軍家が調進した「久世舞車」や西陣の大舎人座が出した「鷺舞」など、さまざまな形の付祭の芸能が盛んになった』。『室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。それまで単独で巡行していた竿状の鉾と、羯鼓舞を演ずる稚児を乗せた屋台が合体して、現在見られるような鉾車が成立し、さらに主に猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わることによって、室町時代中期には洛中洛外図に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したものと見られる』「応仁の乱」による中断後の天文二(一五三三)年には、『延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが』(祭りの主宰たる現在の八坂神社の祇園社は、当時、感神院と号して比叡山延暦寺に属し、中世を通じて、祇園社は比叡山延暦寺の末寺とされ、山門の洛中支配の拠点となっており、比叡山鎮守たる日吉権現の山王祭が行われない時には祇園御霊会の祭りも連動して中止・延期されることが多かった)『町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを窺わせる』。天文二 (一五三三) 年、「天文法華一揆」(戦国時代の京都に於ける天文年間に起きた宗教一揆。当時の京では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心として日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていたが、この前年に浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広まり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結み、本願寺教団の寺院を焼き討ちした。当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺は、この焼き討ちで全焼。その後、法華衆は京都市中の警衛などに於ける自治権を得、約五年に亙って京で勢力を拡大した。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼んだ)『のさなか、延暦寺と結託した幕府の祇園会停止の命令に対し』、『町衆たちが「神事ナクトモ山鉾渡シタシ」と迫り、神事は中止されたものの』、『山鉾巡行は行われたという。町衆の自治的性格を象徴する話として特に有名である。これに先立って』、明応九(一五〇〇)年に「応仁の乱」による三十三年もの『中断を経て』、『祇園祭を復興するにあたり、室町幕臣(奉行衆)の松田豊前守頼亮』(よりすけ)『が過去の山鉾について「古老の者」より聞き取りを行い、応仁の乱以前の』六十『基(前祭』三十二『基、後祭』二十八『基)』『の山鉾を知る唯一の史料とされている「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)として書きとめたほか』、『初めてのくじ取り式を頼亮私宅で行い』、『町人主体の祭りとなるよう』、『祇園執行に申し聞かせるなど、祇園祭の再興に尽力し、現在に続く山鉾の数と名称が固定した』。『頼亮も自身の在職中に祇園祭が再興されたことは冥加であると記している』とある。]

譚海 卷之三 七夕飛鳥井難波蹴鞠

七夕飛鳥井難波蹴鞠

〇七夕には飛鳥井(あすかゐ)・難波(なんば)兩家に蹴鞠(けまり)の興行あり、見物の人中庭より門外に至るまで群集する事也。すべて蹴鞠を嗜む人、飛鳥井家の弟子になり、官衣を得る事也、七段まで裝束のゆるしありて、最上はむらさきすそごの袴をきる事也。門人の中(うち)器用なるものをえらみて、飛鳥井殿より目代(もくだい)と號して諸國に有。その國の官位をのぞむ人は、目代に就(つき)て飛鳥井家へ願ひ入(いれ)てゆるしを受(うく)る事也。又式の鞠にははじめに露はらひといふ事あり。是は加茂の社人のみ傳へたる事にて、飛鳥井家にも傳へざる事也。夫ゆゑ禁中の御鞠などあるときは、加茂の社人先(まづ)はじめにかゝりに入(いり)て露はらひのまりを勤め、其後(そののち)飛鳥井殿始め諸卿(しよきやう)式の鞠を勤らるゝ事也。

[やぶちゃん注:「飛鳥井家」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家庶流。家格は羽林家。鎌倉前期の難波頼経の子雅経に始まり、代々、和歌・蹴鞠の師範を家業とした。参照した当該ウィキによれば、『頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府』二『代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で』、『雅経は後鳥羽上皇に近侍し』、『藤原定家などとともに』「新古今和歌集」撰進をし、『和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。室町時代には将軍家蹴鞠道師範を務め』た。「応仁の乱」では、一族が近江国や『長門国に移住し』、結果、『家業を広めた』。『戦国』『から江戸』『初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸』(まさつね)『は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。雅庸の子、雅賢』(まさかた)は慶長一四(一六〇九)年に処罰された「猪熊(いのくま)事件」(山科家分家の公家猪熊家当主で美男天下無双と称された多淫の左近衛少将猪熊教利(のりとし)が人妻や宮廷女官に手を出し、複数の朝廷高官を巻き込んだ前年からの醜聞事件。公家の乱脈が白日の下に曝されたのみでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化・後陽成天皇退位の契機ともなったスキャンダル。主犯猪熊教利は死罪に処せられた)に連座し、隠岐同ウィキでは佐渡とするが、辞書等で訂したに配流されて『同地で没したが、弟の難波宗勝が飛鳥井家を相続した。江戸時代の家禄は概ね』九百二十八『石で』、『幕末の飛鳥井雅典は武家伝奏をつとめたほか、徳川慶喜に対する将軍宣下の際には宣命使を務め』ているとある。

「難波家」藤原北家花山院流。羽林家の家格を有する堂上家の一つを成す公家で、分家の飛鳥井家と並ぶ蹴鞠の二大流派の一つ。南北朝時代に、一度、断絶したが、戦国時代に入ってから飛鳥井雅庸の次男宗勝によって再興された。江戸時代の家禄は三百石。飛鳥井宗勝がダブって不審を持たれる方もいようから、ウィキの「難波宗勝」で補足すると、飛鳥井宗勝は難波家十三代で後に飛鳥井家十四代当主となった。彼は、まず、難波宗富の死後に断絶していた難波家を継いで再興し、慶長五(一六〇〇)年に難波宗勝として叙爵して侍従に任ぜられたが、猪熊教利・兄飛鳥井雅賢らとともに御所の官女と密会して乱交した「猪熊事件」によって、後陽成天皇の勅勘を被り、慶長一四(一六〇九)年に伊豆国へと流された』が、慶長一七(一六一二)年に『勅免により帰京』し、翌慶長十八年八月三日、新規蒔き直しで『名を雅胤と改め、生家飛鳥井家の相続を赦された。難波家』の方は子の『宗種が継承した』。その後、彼は寛永一六(一六三九)年に『権大納言となるが、翌』年に辞した。寛永二一(一六四四)年には武家伝奏となり、慶安四(一六五一)年に従一位に昇り、同年三月二十一日に六十六歳で没している。因みに本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞録であるから、この父宗勝(雅胤)とその子の宗種の両家継承から百六十年も後のこととなる。

「目代」代理人。

「その國の官位をのぞむ人」蹴鞠の官位を望む人であるので注意。

「露はらひ」「露拂ひ」。宮中で蹴鞠の会が行なわれる際に、まず、鞠を蹴って「懸(かかり)」の木の露を払い落とすこと、及びその役を勤める人。ウィキの「蹴鞠」によれば、「懸」(「鞠壺(まりつぼ)」「鞠庭(まりば)」とも呼ばれる)とは、四隅を元木(もとき:鞠を蹴り上げる高さの基準となる木)で囲まれた三間(五メートル四十五センチメートル)程の広場の中で行う。その結界には砂を敷き、四隅の艮(東北)に桜、巽(東南)に柳、坤(西南)に楓、乾(西北)に松を植える。東を「堂上の入り口」、南を「地下の入り口」、西を「掃除口」とする。懸の樹木には梅や椿などの季節のものを用いることもあり、その樹と鞠垣(本式の際の懸の周縁部の広域結界)との間を「野」と称するなどとごちゃごちゃ書いておいて、やおらお最後に、但し、禁裏・仙洞・皇族・将軍家並びに家元は「懸」には松ばかり四本、また、臨時には枝又は竹を用い、「切立(きりたち)」というなどとある。「何じゃ? こりゃ?!」って感じ。]

譚海 卷之三 公卿地下えの會釋

 

○禁中參仕の靑侍、公卿御通りの時は平伏するに、笏(しやく)を擊(うち)て過(すぎ)らるゝ、是堂上の地下に挨拶の式也とぞ。

[やぶちゃん注:標題の「え」はママ。]

譚海 卷之三 東照宮御遺骸

 

○東照宮の尊骸をば、はじめ駿河の久能山へ納め奉り、後に御遺言にて下野日光山へ改葬し奉る。南光坊僧正御附屬をうけて、自ら鋤を取て事を行ひ給ふとぞ。又大猷院公方樣御靈屋(みたまや)も日光山に有、今若宮八幡宮と申(まうす)は其御靈屋の事なりとぞ。

[やぶちゃん注:「大猷院」家光。

「若宮八幡宮」日光山輪王寺にある大猷院(グーグル・マップ・データ)の旧称であろう。]

譚海 卷之三 御馬獻上

 

○每年秋八月、禁裏へ關東より馬を八疋づつ進獻有、是いにしへの駒牽(こまひき)の遺風なるべし。

[やぶちゃん注:「駒牽」宮中行事の一つで毎年八月に東国に置かれた勅旨牧(まき)から貢進された馬を内裏南殿(なでん)に於いて、天皇の御前にて披露した後、出席した公卿らに一部を下賜し、残りを馬寮(めりょう)・近衛府に分配する行事。勅旨牧は信濃・甲斐・武蔵・上野の四国に及んだため、牧単位で分散して行われ、「延喜式」・「政事要略」によれば、八月のうちから八日間に分けて儀式が行われた。また、「江家次第」によれば、東宮・上皇・摂関は不参であっても馬の下賜を受ける事が許された。但し、摂関への下賜は天禄三(九七二)年に恒例化されたものと考えられている。また、儀式に先立って、当日の朝に近衛府の将兵が貢進された馬を逢坂関で出迎える「駒迎(こまむかえ)の儀」も併せて行われていた。後、信濃国の一部の勅旨牧以外からの貢進は途絶したが、奥州から、予め購入、或いは、現地の有力者から貢進された馬で不足分を補いながら、「応仁の乱」頃までは断続的に続けられていた。また、これとは別に、毎年五月五日の端午の節会に先立って、「騎射・競馬の儀」の際に用いられる畿内周辺諸国から献上された馬を、親王・公卿らが来参して、天皇の御前に披露する別な「駒牽の儀」もあったと当該ウィキにある。]

譚海 卷之三 將軍家堂上方對談 附日光御門主の事

將軍家堂上方對談 附日光御門主の事

○關白殿或は大臣家など、關東へ下向御對顏の節は、公方樣の御しとね正面に有、關白殿御しとねは左によりて橫座に有。仰上(おほせあげ)らるゝ御用ある時は、關白殿座を立(たち)て、公方樣の御膝の許にすりよりて、直(ぢき)に御演說あり。公方樣其時御手を疊に少し突(つき)て御會釋(おんゑしやく)有。事終り御退座のとき、公方樣御座をたゝせ玉はんと被ㇾ遊る時、關白殿御手をもちて御膝をおさへてそのままと仰らるゝ、公方樣しからばと上意ありて、其まゝに御座におはします、是極(きはめ)たる御式也。又公方樣紅葉山へ御拜禮の時は、樂人相詰(あひつめ)音樂を奏す。東叡大王樣の板の間にをはしまして入御をまたせ給ふ。公方樣階を昇りましまして緣に上らせ給ふとき、東叡大王兩手をつき稽首(けいしゆ)有。公方樣神前に向ひ坐し拜し給ふ時、東叡大王御幣を取て奉らせ給ふ。御拜終りて又大王神前の御酒かわらけを三寶にのせてすゝめ給ふ。公方樣御酒まいる時、東叡大王瓶子(へいし)をとりてつがせ給ふ。さて還御の時大王はじめの如く緣に着て稽首して送り給ふとぞ。是皆兩院の別當の御あへしらひなるもの也。

[やぶちゃん注:「東叡大王」三山管領宮(原則として東叡山・日光山・比叡山の三山を管掌する輪王寺宮のこと)の敬称の一つ。総て宮家出身者又は皇子が就任したことから「東叡山寛永寺にまします大いなる親王殿下」の意で、かく呼んだ。既出既注

「紅葉山」江戸城の西丸の東北にある丘。本丸と西丸のほぼ中間に当たり、古くは「鷲の森」とも呼ばれた。徳川家康の廟所(東照宮)が置かれ、家康の命日である四月十七日には将軍が紅葉山の東照宮を参詣する「紅葉山御社参」は幕府の公式行事の一つであった。ここには秀忠以後の歴代将軍の廟所も置かれており、ここにも出る通り、「紅葉山御社参」などの重要な行事に備え、音楽を掌る「楽所」も設置されてあった。

「瓶子」酒壺の一種。口縁部が細く窄(すぼ)まった形の、比較的、小型のものを指す。]

譚海 卷之三 波の宮御哥

 

○惇信院公方樣御臺所は波の宮と申奉る、閑院の宮の姫君にや。關東御下向の時隅田川へ御船遊山ありし時の御歌に、

 

  思ふ事なき身ながらも故鄕の猶なつかしき都鳥哉

 

[やぶちゃん注:和歌は前後を一行空けた。

「惇信院公方樣御臺所」第九代将軍徳川家重(在任:延享二(一七四五)年~宝暦一〇(一七六〇)年)の将軍世子時代に迎えた御簾中(ごれんじゅう:原則、江戸時代の将軍の世子と御三家の正室を呼ぶ際のみに用いた)増子女王(ますこじょおう 正徳元(一七一一)年~享保一八(一七三三)年)。伏見宮邦永親王第四王女。幼称は比宮(なみのみや)。院号は證明院(しょうめいいん)。享保一六(一七三一)年に家重と数え二十一で婚姻し、江戸城西御丸に入って「御簾中様」と呼ばれた。年の享保一七(一七三二)年には家重と船で隅田川を遊覧した翌享保十八年に懐妊したものの、九月十一日に早産し、生まれた子は、まもなく死去し、増子も産後の肥立ちが悪く、十月三日に二十三歳で死去した。寛永寺に葬られ、従二位が追贈された。戒名は證明院智岸真恵大姉。家重はその後、二度と正室を迎えることはなかった(以上はウィキの「増子女王」に拠った)。]

2021/02/21

譚海 卷之三 東福門院御入内

 

○東福門院關東より御入内ありしかば、いかゞにやとうちうちに禁中にて申(まうし)あへるに、何事も覺束(おぼつか)なき事なくたがはせ給はで、みなおどろきかんじ奉りしとぞ。御歌の道もことに愚(おろか)ならずましまして、さくをまち得えては又散ぞうき花はおもひのたねにやはあらぬなどと云(いふ)御歌、口碑に申傳へたる事也。諸道に立入せ給ひ、香の方にも御流儀とて世に傳へもてあそぶ事多し。佛法にも殊に歸依ましまして、御一生涯御建立の佛像あまた有、御染筆の經卷等も寺々に傳へたるものおほくあり。

[やぶちゃん注:「東福門院」前条を参照されたいが、ウィキの「徳川和子」の「人物」の項によれば、『気が強い夫』『後水尾天皇と』、『天皇家を押さえつけようとする幕府の間を取り持つことに奔走する気苦労の多い生涯であった』とし、『修学院離宮を建てた費用の大半が和子の要請により』、『幕府から捻出された物とされる』。『後光明天皇の崩御直後にその弟の後西天皇の即位を渋る(後西天皇が仙台藩主伊達綱宗の従兄弟であったため)幕府を説得して即位を実現させたのも』、『彼女の尽力によるとされる』。『夫』『後水尾天皇は後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くしたことで知られるが、妻の和子自身もかなりのセンスの持ち主であった』とあり、『茶道を好み、千利休の孫である千宗旦を御所に招き茶事を行い、茶道具に好み物も多く、野々村仁清に焼かせた長耳付水指(三井記念美術館所蔵)が現存する』。『宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだのは和子といわれ、尾形光琳・乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立てたとされる』。『和子の注文した小袖のデザインは後に年号から』「寛文小袖」『と言われるようになった』という。慶安三(一六五〇)年には、『二十二社の上七社の一つである平野神社の「接木の拝殿」として知られる拝殿を寄進している』。『手先が非常に器用な女性であり、特に押絵を得意とした。現在』、『日本現存最古の押絵は和子の作成の物と言われる。また、京の文化人にとっては和子の押絵を拝領することは一種のステータスであり、現在千家では和子作の押絵を多数所蔵しているという』とあった。]

譚海 卷之三 禁裏四門の役人

禁裏四門の役人

○禁裏四門の役人は、關東より付置(つけおか)るゝ武家の人御番(ごばん)を勤る也。又御臺所の役人は、京住(きやうずみ)の人たりと云共(いへども)、皆關東の御臺所役人の名目にかはる事なし。是は東福門院御入内ありし時より、關東の人々御供にて參しかば、自然と臺盤所の名目ばかりは關東の役名に成りて、職原(しよくげん)に稱する官名は廢する事に成たりとぞ。

[やぶちゃん注:「禁裏四門」底本の武内利美氏の注に、『京都御所の四方の御門。京都御所の外郭諸門を「宮門」といい。内部には十二の門があり、「閤門」と呼んだ。宮門は建礼門外六門である』とある。

「東福門院御入内ありし時」後水尾天皇の皇后(中宮)であった徳川和子(まさこ 慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年)。徳川秀忠の五女で徳川家康の内孫。明正天皇の生母。女院号が東福門院。慶長一七(一六一二)年に後水尾天皇が即位すると、大御所家康は和子の入内を申し入れ、慶長一九(一六一四)年四月に入内宣旨が出されたが、「大坂の陣」や元和二(一六一六)年の家康の死去・後陽成院崩御などが続いたため、入内は延期された。元和四(一六一八)年に女御御殿の造営が開始されたが、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子が皇子賀茂宮を出産していたことが判明すると、入内は問題視され、翌元和五(一六一九)年、秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流とし、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意した。元和六(一六二〇)年、入内に先立ち、六月二日に従三位に除せられ、同月十八日に後水尾天皇の女御として入内した(以上はウィキの「徳川和子」に拠った)。

「職原」「職原抄」(しよくげんせう(しょくげんしょう))のことであろう。南北朝時代の北畠親房が著した有職書。全二巻。興国元/暦応三(一三四〇)年成立。本邦の官職の沿革を漢文で記述したもの。]

譚海 卷之三 公家衆足袋を不用

 

○禁中參仕の公家衆足袋を用ゐらるゝ事なし、寒中といへ共(ども)皆素足也、それ故公卿にひび赤ぎれのなき仁(じん)はまれなり。七十已上極﨟(きよくらふ)の公家はじめて足袋をはきて參内ある也。禁中すべて板敷なれば、冬月は誠に素足にて難儀なるもののよしをいへり。

[やぶちゃん注:「極﨟」六位の蔵人 (くろうど) で最も年功を積んだ人。]

譚海 卷之三 禁中にて御用仰せ付の事

 

○禁中の御用は、關東より御普請役を支配勘定に被ㇾ成、一人のぼせられ、京都に相詰居(あひつめをり)て臨時の事(こと)相辨(あひべん)ずるなり。御用有(ある)時は此支配勘定のもの參内する時、必(かならず)非藏人(ひくらうど)壹人(ひとり)指(さし)そひて出仕する也。是は堂上方の事(こと)關東の耳にわかりがたき事有(ある)時、聞返(ききかへ)す事はならぬゆゑ、仰付らるゝ口上を非藏人傍(かたはら)に居て聞とるべき爲にさしそへ出仕するなり。仰付らるゝ口上のうちにしれがたき事あれば、非藏人に聞糺(ききただ)して辨ずるなり。御用有時は、支配勘定の人麻上下(あさかみしも)にて、みすの外に兩手を疊に付(つき)ひかへをる。御用懸りの公卿奧の方よりすらすら步み來(きたり)て、みすの内に立(たち)て居(をり)ながら御用仰らるゝに、みすは立て居らるゝ公卿のをとがひの邊迄たれて有ゆゑ、公卿の顏は見えず、御用をいひすて又奧のかたに歸り入らるゝ時、兩手を收(をさめ)て公卿のうしろ影をみるに、奧の座敷迄幾重も簾たれてある下を過(すぎ)らるゝに、少しも冠に簾のさはる事なく、すらすらとさわりなく[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]步行(ありき)ある體(てい)也。みすの下を過らるれども、腰などかゞめらるゝやうにはあらず、只(ただ)首をしゞめてみすの下をさわりなく通らるゝと覺へ[やぶちゃん注:ママ。]たり、進退不思議なるもの也とぞ。くはんしかいかうなど仰付らるゝ事あり、くはんしは卷紙の事、かいかうは薰物(たきもの)をはまぐりの貝に詰たるをいふ、内に和歌會などの女房連、とりどりに薰物を用らるゝ時に仰付らるる事也。

譚海 卷之三 公卿集會の間硯臺

 

○禁裏御座敷公卿集合の間に、大きなる硯臺に居(をき)て有、塵埃に埋れていときたなげ也。硯は忠岑形(ただみねがた)と云物を用ゐらるゝ也、書記の用意に備へらるゝもの歟。

[やぶちゃん注:「忠岑形」不詳。平安前期の歌人で「三十六歌仙」の一人である壬生忠岑(貞観二(八六〇)年頃~延喜二〇(九二〇)年頃)であるが、「百人一首」のサイトのこちらに、『忠岑邸跡から発掘されたという忠岑愛用の硯があり、『「拾遺都名所図会」に「壬生忠岑の硯は壬生寺にあり。石の色紫にして硯の縁の傍らに忠岑の文字あり。当寺の北、田の中より掘り出す」と記されてあ』り、『この硯は旅硯というもので、古風なので中華物のようだという記述もあ』って、『壬生寺の冊子に紹介されてい』ると写真が載る。これがそうかどうかは知らない。]

譚海 卷之三 禁裏御能 (二条)

 

禁裏御能

○禁裏にて御能叡覽ある時は、紫宸殿の前に能舞臺を臨時に構へ興行する也。能終りぬれば卽刻舞臺を取はらひて、其跡へ砂利を敷て石ずへ[やぶちゃん注:ママ。「いしずゑ」が正しい。]の穴などみえぬやうにかくす也。舞臺はとり放ちのなるやうに拵らへ置て、又重ねての能に用るやうしけるもの也。仙洞御所には能舞臺常に建つゞけて有。能を仕(つかまつ)るものは四座の猿樂のものにはあらず、町人の其道に堪(たへ)たるものに仰付らるゝ也。嶋屋又助など云者年來(としごろ)勤來(つとめきた)る也。いつも御能の時は町人も拜見ゆるさるゝ事也。

[やぶちゃん注:「嶋屋又助」不詳。後に示す次の条では「嶋屋又介」と出る。

 以下、目録に標題がなく、内容が続くので、一緒に出す。]

 

○仙洞御所にて一年(ひととせ)御能ありし時、町人拜見ゆるされざりしかば、其時の落首に、町人に見せぬ能ならせんとおけ一二番して嶋屋又介といへりし也。又仙洞御所の御庭には田を作られたる所ありて、春より秋の取納めまで、稻のうへ付の事ありのまゝにして叡覽に入て、御なぐさめにするやうにかまひたり。その人は禁裏御領の百姓、御庭にいほりを結びて、住居し耕作する事也。

[やぶちゃん注:「嶋屋又介」「しまや」で、一、二番舞ったら、それで「仕舞うてしまえ」という意に掛けている。]

譚海 卷之三 月の輪

 

○月の輪は愛宕山の北谷に有、愛宕より一里餘下る所也とぞ。月輪(つきのわ)關白殿隱棲の地にして、今も其跡に草庵を結びて僧徒住せり。庵前に時雨の櫻と云有、いつも時雨ふるといひ傳ふ。深山なるゆゑ雲の陰晴さだめがたく、雨も常にふる事なるべし。愛宕より坂を下りに行程(ゆくほど)、谷水流れて道をさへぎり、人跡まれなる所なるよし。

[やぶちゃん注:現在の京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町(さがきよたきつきのわちょう)にある天台宗鎌倉山(かまくらやま/けんそうざん)月輪寺(つきのわでら/がつりんじ)(グーグル・マップ・データ)の北か。月輪寺自体は、御覧の通り、愛宕山の東方直近にある。

「月輪關白殿」鎌倉前期の公卿九条兼実(久安五(一一四九)年~承元元(一二〇七)年)。摂政・関白。従一位。藤原忠通の三男。京都九条殿に住み、九条家を創設し、月輪殿・法性寺(ほっしょうじ)殿と呼ばれる。源頼朝の信任を得て、摂政・関白となり、後白河法皇没後の朝勢を掌握し、頼朝の征夷大将軍宣下を実現させた。後に失脚し、浄土宗に帰依して出家し、法名を円証(えんしょう)と称した。但し、九条兼実が造営した山荘は、失脚から三年ほど経った正治元(一一九九)年頃、現在の東福寺の東から泉涌寺(せんにゅうじ)にかけての山谷に造営されたもので、妻が没した後に、この地に居住し始め、その後、兼実の呼称として用いられるようになったとされ、そこはご覧の通り(グーグル・マップ・データ)、愛宕山からは十五キロメートル以上離れた場所である。

「時雨の櫻」月輪寺に現存する。サイト「京都旅屋」の気象予報士吉村晋弥氏の書かれた「月輪寺 雫を落とす不思議な時雨桜」(二〇一二年五月十四日記事)に写真とともに解説が載る。『。月輪寺には、時雨桜という不思議な桜があり、ちょうど今の時期、涙を流すように葉から輝く雫を落としています』。『月輪寺は空也上人・法然上人・親鸞聖人などの宗教者とも関わりを持ち、鎌倉時代初期の公卿・九条兼実はこのお寺に隠棲したともいわれます』。『境内はシャクナゲ(石楠花)が知られ』、四『月下旬から美しい花を咲かせます。石楠花は花の見ごろの期間が一週間ほどと比較的短く、山中にあって気軽には来れないこのお寺で、満開の石楠花に出逢えるのはラッキーなことでしょう』。この『石楠花は明智光秀が植えたともいわれ、京都市の天然記念物に指定されています』。『もう一つ明智光秀といえば、本能寺の変の前におみくじを引いた話が伝わります。一般的には愛宕神社(白雲寺)と言われますが、この月輪寺との伝承もあり、月輪寺ではおみくじを引くことができます。光秀は』二『回凶を引いて』三『回目に大吉を引いてから出立したと言われます』(私は光秀ファンなので以上は省略出来なかった)。『さて、時雨桜は』四月から五月に『かけて』、『葉から雫を落とす不思議な桜です。この桜は親鸞聖人が植えたと伝わり、法然上人との別れを惜しんで、桜を通して涙を流しているのだといわれます。私が訪れた日は晴れた日でしたが、葉にはたくさんの雫が光り、風が吹く度にまさに時雨れのように涙を落していました。実際にその場で見ると、本当に不思議な光景。時雨れの時期は決まっていて、毎年春の』同時期『のみで秋には落とさないとのことでした。仏心というままにしておくのがよいのだとは思いつつも、科学的な理由が気になってしまいます』。『他のブログでは、空也滝のしぶきが飛んできているとの説がありました。しかし、空也滝にも行って実際に見た感想からすれば、それはあり得ないでしょう。まず、空也滝から月輪寺の距離が離れすぎていて、標高は』三百メートル『も違っています』。『加えて空也滝の目の前に立っても、さほどしぶきは飛んできませんでした。水が落ちる方向も月輪寺のほうを向いてはいません。仮に空也滝から飛んできているとしても、境内の他の木々は雫を垂らしておらず、この時雨桜だけが雫を落とすのは不自然です。以上のことから、空也滝説はないだろうと私は考えています』。『気象的な理由も考えてみましたが、湿気の多い日に雫を落とすことや特定の風向きで起こりえることはあるにしても、晴れて乾燥した日に、しかも』、この『特定の時期に、この木だけ雫を落とす理由は気象現象からは思い浮かびません。とすると、何が理由か?』 『全国には時雨○○という木が他にもあります。京都では出水の七不思議で「華光寺の時雨松(枯死)」がありましたし、広島県の宮島にはかつて「しぐれ桜」があったそうで、近年愛媛の満願寺にあるしぐれ桜から株分けされて復活しました。他にも、兵庫の福海寺には清盛遺愛の時雨松の碑が、大分県別府市の天然記念物には海門禅寺のしぐれ松が、和歌山の大光寺にもしぐれ松があります。いずれも葉から雫を落とす不思議な木と伝わるもの。とすると、松や桜にはごく稀に雫を落とす木があると考えるのが自然でしょう』。『ここからは私の想像ですが、根から過剰に吸い上げた水を、気孔ならぬ「水孔」という部分から出しているのではないでしょうか。春は植物の蒸散機能が活発になり、春の空が白っぽくなる一因ともなっています。つまり、根から吸い上げる水の量も他の時期よりは多いはず。加えて地面が湿っている環境下では、植物は気孔を使った蒸散が抑えられ、水孔を使って直接水を出しやすくなるそうです。考えてみると、月輪寺の境内にも湧き水があり、根の辺りにも水分は多そうです。また、水孔の機能は新しい葉ほど活性化しやすいそう。桜が散ったあとの』この時期は、『まさに新しい葉が繁ります。そのよう環境の中で、過剰に水を吸い上げるようになった木が「時雨○○」として、葉から雫を垂らす不思議な木としてあがめられるようになったのではないでしょうか。月輪寺の時雨桜も、雫はどこかから飛んでくるものというよりも、木が自ら生み出しているものという印象を持ちました。ただ、以上のことは私の勝手な想像で確証は全くありません。もちろん、奇跡としておくのもよいとは思います。しかし、やはり理由が気になる(笑)植物に詳しい方がいましたら、是非原理を教えて頂きたいと思います!』とある。とても素敵な文章と考証である。

「愛宕より坂を下りに行程、谷水流れて道をさへぎり、人跡まれなる所なるよし」先の吉村氏の月輪寺へのアプローチの解説を見ると、現在も『月輪寺は』『険しい愛宕山の山中に、古くからあるお寺です。かつては中国の五台山を模してそれぞれの峰に五つのお寺があり、朝日峯の白雲寺が現在の愛宕神社。他には大鷲峯の月輪寺と高雄山の神護寺が今も残ります。無くなってしまったお寺は滝上山の日輪寺と鎌倉山の伝法寺で、今やその場所もよくわからないそうです。山中で法灯を伝えるのは本当に大変なこと。実は月輪寺はその不便さもあって、近年存続の危機に立ってます。険しい山中で道路はなく、水道やガスもありません。現在は物資運搬用のリフトも壊れ、買い物は往復』三『時間。時には強力(ごうりき)を頼むこともあるのだとか。檀家も無く、資金不足も深刻だそうです。屋根は老朽化しており、時雨桜の手入れもままならないそう。しかしそれでも』千『年以上も続くこの場所で存続をさせたいと』、『お寺の方は考えておられます。京都を愛する皆様。月輪寺を通る際には少しばかりの志納金を入れて行って下されば幸いです』と記しておられる。]

譚海 卷之三 知恩院の風箏

 

○東山知恩院本堂の軒に、風箏(ふうさう)を掛られてあるといへり、此外に他所に風箏ある事をきかず。傘ある事は世人殊に口碑にする事なれども、風箏の事は沙汰なし。

[やぶちゃん注:「風箏」通常は風鈴を指す語であるが、これは京の知恩院の御影堂正面東側の高い軒裏にある「左甚五郎の忘れ傘」と呼ばれるものを指す。知恩院本堂は寛永一六(一六三九)年五月に家光の命によって再建され、現在の本堂がその時のものであるが、確かに知恩院の公式サイトのこちらを見ると、不思議な骨だけになった傘の柄のようなものが見える。一説に、これは「風箏」という風で音を出す一種の建築装飾物であるともされる。以上の公式サイトの解説には、『知恩院に伝わる七不思議の中で最も有名なものといえば、「忘れ傘」でしょう。見上げて、よく目をこらしていただければ、既に骨だけとなった一本の傘の先が目に入ります。何故こんな人の手の届かないところに傘が忘れられているのでしょうか。これには二通りの伝説があります』。『一つは、江戸初期の伝説の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)が御影堂を建てた際に、魔性をさえぎる力があるとされた傘を魔除けとして置いていったのだという説。この左甚五郎は、実在の人物とも、腕利きの彫刻職人の象徴化された存在だろうともいわれ、落語や講談などで多くとりあげられている人物です』。『もう一つ』、『興味深いのが、御影堂再建以前の地に住んでいた白狐が置いていったという説』で、『今の御影堂が当山第三十二世の霊巖(れいがん)上人によって再建され、その落慶法要という時、大雨の中に傘を持たない童子が』、『ずぶ濡れになってやってきました。この童子は実は白狐の化身で、住処を追われたことを恨みに思い、仕返ししようとやってきたのですが、霊巖上人の法話を聴いている内にすっかり改心してしまいました。そして、霊巖上人が貸してくれた傘を軒裏に置き、「これからは知恩院を守る」という証を立てたのでした。霊巖上人は白狐を濡髪童子(ぬれがみどうじ)と名づけ、山上に濡髪堂を建立し、篤くお祀りしたといいます。この濡髪堂は、その語感からか、今では縁結びをはじめ、さまざまな願い事をする若い人々の参詣が絶えません』とある。]

譚海 卷之三 南天坊天海

 

○南光坊天海師は、信長比叡山を燒討にせられし時住山(ぢゆうざん)にて、大師の像を奉じ衆徒を隨へて離山有、後に東照宮・台德院公方(たいとくゐんくばう)樣等に隨參らせて、兩御所殊に御信仰にて、國家の事をも御相談有、林道春ともに天下の綱常(かうじやう)を定め制せられけり。遷化の後(のち)慈眼大師と贈號有、東叡山に收葬して廟を建、兩大師と稱して月々三十六坊に迎へ、崇敬し侍るもことはり成(なる)次第也。國家太平の惠をうけ安樂に住するも、且は大師の德莫大成(なる)事と云べし。諸人の崇敬年を逐(おひ)て增(まさ)り、吉凶事に付て御鬮(みくじ)を得て決斷するに違(たが)ふ事なし。後世の利益ますますいちじるしきも有がたき事也。

[やぶちゃん注:「南光坊天海」天海(天文五(一五三六)年?~寛永二〇(一六四三)年)は天台僧・大僧正。南光坊は尊号で、院号は智楽院、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。徳川家康のブレーンとして幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。陸奥国会津出身とされるが、前半生は謎に包まれており、未だに判らない。徳川家康・秀忠・家光の三人の将軍に仕え、特に家康の懐刀(ふところがたな)と称された。十一歳で出家し、当初は随風と称した。十四歳で比叡山に登り、その後、三井寺や南都の諸寺を遊学、元亀二(一五七一)年に延暦寺が織田信長の焼打ちに遇うと、山門の衆徒を引き連れ、甲斐の武田信玄のもとに身を寄せた。天正五(一五七七)年には奥州会津の蘆名氏のもとに移り、天正一八(一五九〇)年には豊臣秀吉の「小田原の陣」に赴いて、秀吉に従った。この年、常陸不動院を復興、慶長四(一五九九)年に武蔵国仙波喜多院(埼玉県川越市にある星野山(せいやさん)喜多院。平安時代の天台僧慈恵(じえ)(元三)大師良源(延喜一二(九一二)年~永観三(九八五)年)を祀り、「川越大師」の別名で知られる。ここ(グーグル・マップ・データ))に入り、次いで下野の宗光寺に入った。天海の令名をきいた徳川家康は、慶長一二(一六〇七)年、比叡山の探題奉行に任命し、この時、東塔の南光坊に住んでいたので、後に南光坊天海と呼ばれた。翌年、家康の招きで駿府に赴き、慶長一七(一六一二)年、家康の指示により、仙波喜多院を修造して関東天台宗の総本山とし、東叡山と号した。二年後、豊臣秀頼が東山方広寺に大仏を再建し、巨鐘を鋳造すると、家康方の黒幕としていわゆる「鐘銘事件」に関わり、「大坂の陣」の戦乱を開く契機をつくった。元和二(一六一六)年、家康の死去に伴い、葬儀の導師となり、久能山に葬った。同年七月、大僧正。翌年、天海の指示で家康の遺骨が日光山に移された。寛永二(一六二五)年、江戸上野に東叡山円頓院寛永寺を開き、関東天台宗総本山とし、これまでの中核であった喜多院を元の山号星野山に戻し、その権限を寛永寺に移した。寛永一四(一六三七)年には寛永寺において活字版「大蔵経」の開板を開始し、十二年を経て、慶安元(一六四八)年に完成させ、世に「天海版」と称される。但し、天海はこの完成の三年前に伝百八歳で示寂した。天海の業績は大別して二つあり、一つは家康の葬儀での活躍、今一つは天台宗の宗勢拡大であった。家康の葬儀に際しては、山王一実神道を以って権現号で祀ることを主張したが、今一人の家康の宗教ブレーンで「黒衣の宰相」の異名を持った臨済僧以心崇伝(いしんすうでん 永禄一二(一五六九)年~寛永一〇(一六三三)年)が従来通りの吉田神道により明神号で行うよう主張して、対立した。結局、天海の主張通り、東照大権現の神号が附され、幕府内部に不動の地位を確保した。天台宗の宗勢拡大については、まず、将軍の権力を背景にして寺院法度の起草に参画、中世的宗教権力の集中していた比叡山の勢力削減する一方、別に関東天台宗の本山を草創して宗内の総本山としたことである。次いで、これを軸として本寺・末寺の制度を強化して幕府によす宗教支配を堅固なものにした。また、他宗寺院の改宗や、すでに廃寺となっていた古跡寺院を復興、数多くの寺を天台宗の寺院として組み込んだりもしたことから、天台宗中興の祖とも言える人物であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。なお、経歴の不詳から、昔から足利義晴の子という説や、明智光秀と同一人物とする説があるが、後者はあるテレビ番組で、光秀と天海の筆跡鑑定を行い、全く別人と言う結果が出たのを見たことがある。

「台德院公方」第二代将軍徳川秀忠。

「林道春」林羅山。前項で既出既注

「綱常」「綱」は「三綱(儒教で君臣・父子・夫婦の守るべき在り方)、「常」は「五常」(同前の基本的な人倫の五つの実践徳目。君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)で、「人の踏み行うべき道」の意。

「兩大師」東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正と、天海が尊崇していた慈恵大師良源大僧正。二人を祀るのが、寛永寺開山堂である。

「三十六坊」寛永寺を構成する子院の総称。嘗ては上野の山一帯が寛永寺の敷地で、寛永寺の敷地内に構える子院の数は最盛期には実際に三十六あった(現在は十九)。]

譚海 卷之三 惺窩先生

惺窩先生

○惺窩(せいか)先生は下冷泉家の嫡流也。亂世に生れて世中を倦(うま)れければ、隱者に成(なり)て世を送られ、甥の爲景(ためかげ)朝臣に家をば讓り傳られたり。性質文學を好み、京洛の間に遊れしゆゑ、其門に參じて業をうけたる人おほし。那波道圓(なばだうゑん)・林道春など、皆先生の門人にて名を顯したる人々也。殊に道春は國初草創の時に用られて、國家の制度をも上意をうけて走られけるゆゑ、終(つひ)に家を興し時の儒宗(じゆそう)と仰がれける事も、皆惺窩の餘德の及ぶ所也といへり。惺窩先生は名を肅(しゆく)と稱し、字を斂夫(れんぷ)といはれたり。大かた儒者の字(あざな)つくる事も昔よりなかりし事なりしに、此後みな字を稱する事に成たり。先生常に嵯峨の大井河に遊て勝景を愛し、其山水の地名をも風流に改め名付られたり、叫猿峽・群書巖・石門關・烏舶灘(うはくたん)・觀瀾石・浪花瀧などといふ所、皆鳴瀧(なるたき)の川上に有。先生の和歌は萬葉の古風を好(このみ)て詠ぜられたり、當時萬葉の風を好み詠ずる者多(おほき)も、惺窩その俑を作たりと云べし。木下長嘯子(ちやうしやうし)など常に和歌の友にて往來の贈答おぼし。先生の居所をば夕顏庵と號せられしが、後に此號を道春に屬せられたり。

[やぶちゃん注:「惺窩先生」藤原惺窩(永禄四(一五六一)年~元和五(一六一九)年)は江戸初期の儒者で近世儒学の祖とされる。播磨生まれで、藤原定家第十二世の子孫で、冷泉為純(ためずみ)の子であったが、庶子であったため、下冷泉本家を継がず、幼時に出家し、京都相国寺で修行し、五山や博士家の儒学を学び、徳川家康にも進講したが、出仕しなかった。文禄五・慶長元(一五九六)年には明に渡航を試みて薩摩まで行ったものの、失敗し、後の「文禄・慶長の役」の捕虜であった朝鮮の朱子学者姜沆(きょうこう)と交わって学問を深めた。その後、還俗して儒者となった。門下として林羅山ら多数の学者を出した。惺窩の学風は単に朱子学(宋学)というよりも、陸・王(南宋の儒学者陸象山(りくしょうざん)と明代の儒学者王陽明)の学も排せず、老荘・仏教をも採り入れた包容力ある学風で、寧ろ、明の心学の流れの上にあったとされる。著書に「惺窩文集」・「寸鉄録」など。

「爲景」惺窩の長男冷泉為景(慶長一七(一六一二)年~慶安五(一六五二)年)。下冷泉家第八代当主。惺窩は弟の為将に下冷泉家を継がせたが、正保四(一六四七)年、為将が死去し、勅命により、下冷泉家を相続した。父の影響もあり、幼い頃より、歌を能くしたという。後光明天皇の侍講として活躍し、松永貞徳ら当時の一流の文人達とも交流があった。水戸藩第二代藩主徳川光圀とも交流を持ち、慶安四(一六五一)年の朝廷使節団の江戸下向の折りに対面を果たしている。しかし、結核のため、辞世の句も読めぬまま、享年四十一で亡くなった。

「那波道圓」儒学者活那波所(なばかっしょ 文禄四(一五九五)年~正保五(一六四八)年)の字(あざな)。名は信吉・方など。通称は平八。播磨生まれ。初め、熊本藩の俸禄を受けたが、後、紀州藩主徳川頼宣に仕えて思想的ブレーンとなった。惺窩の高弟で、林羅山らとともに「藤門四天王」と称された。活所の儒学思想は朱子学から次第に陽明学に接近し、法と諫言を重視した。著書に「人君明暗図説」・「活所備忘録」など。

「林道春」幕府儒官林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の法号。京都出身。名は忠・信勝。朱子学を惺窩に学び、徳川家康から家綱まで四代の将軍に侍講として仕えた。上野忍岡の家塾は、後の昌平坂学問所の元となった。

「浪花瀧」音読みで「らうくはらう(ろうかろう)」と読んでおく。

「鳴瀧」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「俑を作たり」この場合、「悪しき例の最初を作った」の意となる。ここで突然、批判するのはちょっと不審だが、津村は「万葉集」嫌いだったものか?

「木下長嘯子」(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年は織豊時代から江戸前期の大名で歌人。木下家定の長男で、豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年に備中足守(あしもり)藩主となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れ、所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新にして自由な歌風で知られた。歌集に「挙白集」がある。

「夕顏庵」羅山の号の一つにあり、彼の庵名にも用いている。しかし、これは羅山の江戸の邸宅に夕顔の花があったことによるもので、惺窩のそれを貰ったという記事はない。]

譚海 卷之三 堂上にて名字を細く書く事

堂上にて名字を細く書く事

○堂上にては自他の名字をしるすに、墨かれにほそくちいさくなど書事は無禮なり。我名など殊に大きく書事は卑下に成也。其ゆゑは文字小(ちいさ)く書時は、目にみえかぬるやうに書事にて無禮なれば、大きく書しるす程よくみゆるゆゑ、是を謙退(けんたい)とする事とぞ。されば下賤の衆へ賜る書などには、華押ばかり、或は一向に名を書れざるもあるは、高位の人のしわざなり。

[やぶちゃん注:「謙退」へりくだって控え目にすること。また、そのさま。]

譚海 卷之三 本願寺東叡山拜禮

本願寺東叡山拜禮

○東西本願寺關東下向の時は、東叡山へ拜禮に詣らるゝ、其時は山中の休息所は凌雲院大僧正の屋(をく)を定(さだめ)らるゝ事恆例也。但(ただし)休息に立入るゝばかりにて主客對面はなし、對面あればいづれも大僧正なるゆへ威儀むづかしき事ゆゑ然る事といへり。

[やぶちゃん注:「凌雲院大僧正の屋」現存しない。寛永寺子院凌雲院跡(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之三 諸大名公家緣邊有事

 

○諸大名大かた公家衆に内緣なきは少(すくな)し、淺野家などは代々川鰭殿(かはばたけどの)緣者にて、息女を簾中(れんちゆう)に定(さだめ)らるゝ事時々たえず、佐竹家なども高倉殿緣者也。佐竹の一門の者在所に有(ある)には、烏丸殿(からすまるどの)より息女を妻に下さるゝ事也。

[やぶちゃん注:「川鰭殿」「河鰭家」(かわばたけ)。藤原北家閑院流滋野井(しげのい)支流の公家。平安末期の権大納言滋野井実国の次男参議藤原公清(きんきよ)を祖とする。家格は羽林家。家学は神楽。戦国の頃に一時、中絶したが、江戸時代に持明院基久の子基秀が入って再興された。家禄は始めは百石、後に百五十二石。

「淺野家」宗家は安芸広島藩(当初は紀伊和歌山藩)主。ウィキの「浅野氏」を参照されたい。

「佐竹家」江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続した。ウィキの「佐竹氏」を参照されたい。

「高倉殿」高倉家。藤原北家藤原長良の子孫である南北朝時代の従二位参議高倉永季を祖とする堂上家。家格は半家。江戸時代の家禄は八百十二石、分家に堀河家・樋口家の両羽林家がある。

「烏丸殿」烏丸家(からすまるけ)。藤原北家日野氏流の公家。家格は名家。室町時代の権大納言日野資康(裏松資康)の三男豊光を祖とする。家業は歌道。江戸時代の石高は千百五十三石。豊光の子資任は准大臣で、室町幕府第八代将軍足利義政の生母日野重子の従弟に当たり、義政の養育に努め、成長後は、その寵臣となった(この時、義政が成長するまでは資任の屋敷である「烏丸(からすま)殿」が将軍の御所として用いられた)。今参局(いままいりのつぼね:通称「お今」。義政の乳母)・有馬持家(義政寵臣)とともに権勢を振るい、「おいま・ありま・からすま」の三人で「三魔」と呼ばれ、恐れられた。江戸初期の光広は、歌人・能書家として知られた文化人で、細川幽斎から古今伝授も受けている(以上はウィキの「烏丸家」に拠った)。]

譚海 卷之三 攝家政所方花見

攝家政所方花見

○攝家の政所(まんどころ)がたなど花見に御出の時は、京都の町人、けふは九條樣の奧方花見に御出被ㇾ成ゆゑ、御供しまいらせんとて、行列の跡に付そひ參りて、御駕籠を留(とむ)る所にては我もとゞまり、花御覽ずる所にては我も傍に床几(しやうぎ)など借(かり)て休らひ、饌具(せんぐ)やうの物くひのみて、終日(ひねもす)付そひありく事、京師の風俗にて、前駈(まへがけ)の者も咎(とがむ)る事なし。

[やぶちゃん注:「饌具」膳立の器一式。無論、自分らで用意してきたそれである。]

譚海 卷之三 壬生念佛

 

○壬生地藏の念佛會は、其寺の櫻咲初むれば勤行を始る事也。念佛中(ちゆう)當所の百姓狂言を催して本堂にて興行する也。花見の女房、出家の狂したるまねなど、皆定(さだまり)たる滑稽にて、往古よりせし作法のまゝに年々勤(つとむ)る事也。但(ただし)其狂言は身振(みぶり)のみにてものいふ事なし。

[やぶちゃん注:京都市中京区壬生にある律宗大本山壬生寺(みぶでら)で、旧暦三月十四日から二十四日まで(現在は四月二十一日から二十九日まで)行なわれる大念仏の法会。正安年間(一二九九年~一三〇二年)円覚が始め、その際に教理を会衆に知らせるために無言の狂言を演じたと伝え、今も「壬生大念仏狂言」として行われ、鉦や太鼓、笛の囃子に合わせ、面を被り、無言で演じる。演目は全部で三十あり、勧善懲悪などの教訓を伝える話や、「平家物語」や「御伽草子」などに取材した話がある。煎餅を観客席に投げる「愛宕詣」、紙で出来た糸を観客席に投げる「土蜘蛛」、綱渡りをする「鵺」・「蟹殿」、素焼きの焙烙(ほうらく)を割る「炮烙割」といった派手な見せ場を持つ演目もある。鉦と太鼓の音から「壬生寺のカンデンデン」の愛称で親しまれている(以上は辞書及びウィキの「壬生狂言」に拠った)。]

2021/02/20

畔田翠山「水族志」 メダヒ

(一四)

メダヒ

形狀棘鬣ニ似テ淡紫黑色遍身黑斑アリ頰及下唇淡紅色ヲ帶脇翅淡黃色腹下翅淡黑色背鬣淡黑色ニ乄上鬣黑淡ヲ混シ下鬣ノ末尾上ニ至リ淡黃色尾岐アリテ淡紫紅色淡黑斑アリテ下尾外黃色ナリ腰下鬣本淡黑色ニ乄端淡黃色味不美腹ニ臭氣アリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(一四)

メダヒ

形狀、棘鬣〔マダヒ〕に似て、淡紫黑色。遍身、黑斑あり。頰及び下唇、淡紅色を帶ぶ。脇翅〔わきのひれ〕、淡黃色。腹下の翅〔ひれ〕、淡黑色。背鬣〔せびれ〕、淡黑色にして、上鬣〔うへのひれ〕、黑淡を混じ、下鬣の末、尾〔をの〕上に至り、淡黃色。尾、岐ありて、淡紫紅色、淡黑斑ありて、下尾外〔したのをのそと〕、黃色なり。腰下鬣本〔こししたのひれのもと〕、淡黑色にして、端、淡黃色。味、美〔うま〕からず。腹に臭氣あり。

 

[やぶちゃん注:久々の更新だが、これは、スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科ヨコシマクロダイ亜科メイチダイ属メイチダイ Gymnocranius griseus と比定してよいように思われる。「WEB魚図鑑」の本魚の記載によれば、『南日本では本種が最も多いもの。体高が高く、本種の体長は体高の2.2倍以下』で、『幼魚には暗色の横帯が体側と頭部に複数あり』、『よく目立』ち、その中で『頭部のものは』、『眼を通る。尾鰭は中央部が透明。成魚では横帯が不明瞭になる。これら』は、『また、瞬時に出したり』、『消したり』も『できるようだ。頭部にサザナミダイ』(メイチダイ属サザナミダイ Gymnocranius grandoculis )『にあるような青色線が現れるものもいる。体長40cmに達する』。『分布』は『千葉県・新潟県以南の』『海岸』・『九州沿岸』・『琉球列島』・『太平洋』及び『オーストラリア』で、『水深100m以浅の砂底、岩礁域に生息する普通種。幼魚は浅瀬でもよく見られる。産卵期は夏~秋(南日本)』。『魚や甲殻類などを主に捕食する』。『本種は』『中でも温帯域に多く生息して』おり、『他の種は、琉球列島以南に多い』(これが私が本種を限定する根拠でもある)。『本種は釣りや沿岸、沖合の定置網で普通に漁獲される。食用魚で肉は白身で淡白、刺身などにすると美味しい』とある。因みに、宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)を見ると、「オホメダイ(メイチダイ) 大眼鯛 Gymnocranius griseus」(これは同属でインド洋と西太平洋に棲息する一種)として挙げられており、紀州地方の「方言」として、『メイチ』(『田邊』その他)、『メダイ(和歌浦)』、『メイチ(太地)』、『メイチャ(尾鷲)』を掲げられ、ヘダイ(タイ科ヘダイ亜科ヘダイ属 Rhabdosargus sarba )に『類し、全體美しき光澤あり帶紫灰白色で、不明瞭に橫帶狀の暗色斑紋を有する。體長八九寸。近海に棲み、七月產卵する。四季を通じて漁獲せられるが、秋冬の候多い。夏美味』とある。味? 既に述べた通り、畔田は実は魚食が好きではなく、味覚記載は全く当てにならんのですよ!]

譚海 卷之三 小野閻魔堂の像

 

○北野千本の閣魔王の像は、元來皐陶(こうえう)の像なりしを、後世とりあやまりて閻魔王にせしとぞ。往古大内裏の時は、此地に彈正臺ありし所なれば、彈正の官人刑罪を司るゆゑ、皐陶は虞(ご)の司徒なるゆへに此像を彈正省にまうけたるが、殘りたるもの也といへり。

[やぶちゃん注:これは京都市上京区千本通廬山寺上る閻魔前町にある真言宗引接寺(いんじょうじ)で、一般には「千本ゑんま堂」と通称されている。当該ウィキによれば、『引接とは、仏が衆生を浄土に往生させること』を意味し、『その名の通り』、『この寺は、かつての京都の』三『墓地であった化野、鳥辺野、蓮台野(れんだいの)の一つである蓮台野の入り口に立っている。現在でも地獄の裁判官である閻魔の像を祀』る。寛仁年間(一〇一七年~一〇二一年)に本邦の浄土教の始祖とされる『源信の弟弟子の定覚により開山されたと伝える。現世と冥土を行き来して、閻魔王とも交流したという伝承のある小野篁』『を開基に仮託する説もある』。文永一〇(一二七三)年に『明善律師によって中興された』。『安土桃山時代、京都に来た宣教師ルイス・フロイス』は「日本史」(Historia de Iapan)中に、永禄八(一五六五)年『当時の本寺の境内の様子が記されている』。天正二(一五七四)年に『織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ、京の名所と町衆の姿を描いた国宝』となっている「洛中洛外図屏風」『(米沢市上杉博物館蔵)の左隻右上に』は『「千本ゑんま堂」が描かれている。その境内では銘桜普賢象桜や十重石塔とともに、ゑんま堂狂言「閻魔庁」を演じている様子が描かれている』とある。私は残念なことに見たことがない。グーグル画像検索「引接寺 閻魔像」をリンクさせておく。

「皐陶」現代仮名遣では「こうよう」。当該ウィキによれば、『古代中国の伝説上の人物。皋繇・咎陶・咎繇とも』書き、『帝堯や帝舜の時代に公平な裁判をおこなった人物として知られる。一説には顓頊』(せんぎょく:「史記」に記される帝王で、高陽に都して高陽氏と称したと言われ、「五帝」の一人で、黄帝の後を継いで帝位に就き、在位七十八年と言われる多分に伝説上の聖王である)『の子であるという』。『司法をつかさどる官吏(司空・司寇)として力をふるったといい、どのような事件に対しても公平な裁決につとめたとされる。その判決には、正しい者を判別して示すという霊獣である獬豸(かいち)を使った』(私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獬豸(かいち)(仮想聖獣)」を参照されたい)『ともいい、後の時代に司法官のかぶる帽子を獬豸冠(かいちかん)と称することの由来にもなっている』。『日本では、皋陶の像が神像のようなあつかいで祀られていたこともあるようだが、何の像か分からなくなってしまい、いつの間にか閻魔の像として取り扱われてしまった例もあるという』とあるが、どうだろう? 上にリンクさせた引接寺のそれは、どう見ても、閻魔にしか見えんがねえ? 研究者でそう主張しているという論文でもあれば別なんだが、ネットには「皋陶 引接寺 閻魔」の三題噺はどこにもないんだけど?

「彈正臺」律令官制の一つで警察機関。内外の非違を糾弾し、風俗を粛正することを職掌とした。長官である「尹 (かみ)」 は従三位相当官で、親王が任ぜられることが多く、高位高官の非違をも、直接に奏聞する権限を有していた。尹の下に「弼 (すけ) 」・「忠 (じょう)」・「疏 (さかん)」や巡察弾正などがあった。九世紀の検非違使設置後は有名無実化した。最後に出る「彈正省」という言い方は見当たらない。

「虞」舜が尭から譲られて帝位にあった王朝の名。

「司徒」中国で耕作地・財貨・教育などを司った官職であって、不審である。刑罰及び警察を司った「司寇」か、刑徒(囚人)管理(治獄)・治水・や各種土木工事を司った「司空」でないとおかしい。]

   *

昨日より、遅々として進まなかったカテゴリ『津村淙庵「譚海」』の集中電子化注を始めた。この「卷之三」、実は私の関心が最もない公家方についての記載が非常に多いこと、そうでなければ、私が殆んど冥い京都の話ばかりであるために食指が殆んど動かなかったのが原因である。謂わば、それにケリをつけるための仕儀である。と言っても、注は疎かにはしていないつもりである。

譚海 卷之三 貴船奥院

貴船奥院

○貴船(きふね)奧の御前(ごぜん)は本社より半道ばかり山中に入てあり、愛宕・鞍馬につゞきて、殊に幽邃の地也。常に參詣する人稀なるゆゑ、左右の松杉しげりて、年へし杉の樹などは皮はげて藤かづらも掛り、空よりさがりたるやうにいくらも道に有。山中苔滑らかにしてすべり安し、社の拜殿には幣帛壹つあり、たふれて板に貼(ちやう)したるが、霧にしめり付(つき)てとる人もなき樣子也。かばかり山深き所、京師近き社(やしろ)には覺えずといへり。

[やぶちゃん注:「貴船奧の御前」現在の貴船神社奥宮。本宮の上流約七百メートルの場所にあり、以前はここが本宮であった。ここは珍しく二度行ったことがある。]

譚海 卷之三 宇治の茶師

宇治の茶師

○宇治の茶師、江戶より諸大名の登せらるゝ茶壺を二通(とほり)づつ預りて、一通りは愛宕山にのぼせ、來春詰かへの壺來るまでは、山上の坊に預置(あづけおく)事也。茶壺は什器(じふき)成(なる)ゆゑ、火災を恐れてかくする事に成(なり)たるとぞ。

[やぶちゃん注:「什器」ここは元義。仏教の什物(じゅうもつ)に由来し、寺で宗徒が使う器具・日用品・生活用品を指す。これらは「什」(数字の「十」と同義)「聚」(「集まったもの」の意)などと呼び、一つや二つなどではなく「十」を一単位として数えなければならないほど沢山あり雑多であることから、中国で宋代に禅宗寺院内で使われ始めた語であった。後に「什器」とも呼び、これが一般化し、日常生活で使用される食器や家具を指す語に転じた。]

譚海 卷之三 加茂附木を不用

 

○加茂神領の一村は附木を用る事なし、ほだを埋(うづ)み置(おき)て薄のかれくきに吹付(ふきつけ)、火を取(とり)て燈(ともし)にも點ずる事なり、神代の儀を傳ふといへり。又あたご山にしきみが原とてしきみの限り生ずる地有、京中の人每月十四日登山のたよりに、此しきみを萱把づつ取歸り、家にたくはへて每朝竃下(かまどした)の火に一葉づつ焚(たき)て、ひぶせのまじなひにする事也。

[やぶちゃん注:「加茂神領の一村」不詳。上賀茂と下賀茂神社の周辺か(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「あたご山」愛宕山

「しきみが原」「樒が原」。愛宕山の峰筋を北西に入ったところに京都市右京区嵯峨樒原宮ノ上町(さがしきみがはらみやのうえちょう)の他、「樒原」を含む地名が四ヶ所も見出せる。]

譚海 卷之三 京師の送り火

 

○每年七月盆に京都の山に火をともすは、大もんじ山・妙法字山・船岡等也、十六日の夜の事也。大文字山は禁庭より見ゆれば叡覽に入(いる)事なり、そのよの山は禁裏より見えがたし。十六日夕より山下の民たきぎをになひて山にのぼり、文字の鑿(うがち)たる山穴へ薪(たきぎ)を埋(うづ)め、油松明(あぶらあたいまつ)をなげ込(こみ)にげ歸る事也、踟躊(ちちゆう)[やぶちゃん注:「躊躇」に同じい。]すればうはゞみ出ると云傳へて、いそぎにげ歸る事也。京都よりのぞむに、始めは螢火の如くちらちら火(ひ)見ゆるが、一遍に火つら成(なり)起(おこり)て大文字の筆勢火光あざやかにみゆる、いつも十六日夜戊の刻一時[やぶちゃん注:午後八時前後二時間。]ばかりを壯觀とする事なり。此大文字の跡平日山に入(いり)て見れば、大きなる穴をいくらも掘つゞけたるものにて、文字の形勢分ちがたし、火を點ずる時も穴一つを壹人づつ請取(うけとり)て、薪を穴へうづむ事也。火の盛成(さかんなる)時火勢つらなりて大の字の形(かたち)鮮(あざやか)に見ゆる也。往古弘法大師創立ありし文字なれども、星霜をへて文字の畫(かく)わろく成しに、近世相國寺(しやうこうじ)の橫川(わうせん)和尙筆勢を直されたりといへり。

[やぶちゃん注:ウィキの「五山送り火」を読まれたい。私は見たことがない。

「相國寺の橫川和尙」同ウィキの「大文字の起源・筆者に関する諸説」を見られたいが、「相國寺」京都市上京区にある臨済宗萬年山相国寺。「橫川和尚」は室町中期から後期にかけての臨済僧横川景三(おうせんけいさん 永享元(一四二九)年~明応二(一四九三)年)。後期五山文学の代表的人物で、室町幕府第八代将軍足利義政の側近で外交や文芸サロンの顧問格であった。横川は道号で、法諱が景三。]

 

譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)

 

〇一とせ京都旱魃(かんばつ)のありしに、近江の湖水減じ、鹿飛(ししとび)の落口(おちぐち)干(ひ)あがりて、水底の石悉く顯れたりしに、種々の奇石見え、見物のもの目を驚しける、振古(しんこ)以來珍敷(めづらしき)事也といへり。同時(おなじとき)禁裏にて雨乞せさせ給ふ事あり。其式は北山八瀨(やせ)の村より嫁せざる十五六歳の女子を壹人召れ、五つ衣(ぎぬ)緋(ひ)の袴(はかま)等を借し下され、官女の衣體(いたい)に仕立られ、女子沐浴潔齋して此服を着し、三重(みへ)がさねの扇子をもち、高き臺の上に座せしめらる、其臺は白木にてこしらへ、高さ壹丈餘なる物にて四楹に笹竹をたて、其竹に院中より始め、堂上公卿の雨乞に詠ぜられたる和歌を、短册に書(かか)れたるを結(ゆ)ひ付(つけ)、堂上の雜掌かはるがはる其下に番をする事也。扨(さて)潔齋の日限(にちげん)終りて、女子を官服のまゝ手輿(てごし)にうつし、大の字山へかき行也。供には雜掌(ざつしやう)殘りなく倶し、炎天に蓑笠を着て行列をとゝのへ、晚景に出京し、彼(かの)山に行登(ゆきのぼ)りて、神泉苑の水を硯にうつし墨にすり、女子に書(かか)せたる呪文を谷に投入(なげいれ)て歸路に赴く時、やがて一天かきくもり、大雨車軸を流す如く降(ふり)たりとぞ。其日は河原表(かはらおもて)へ茶店を構へ、洛中の貴賤群集して見物せしが、歸路は防ぎあへぬ程の雨に逢(あひ)て迷惑して歸りたり。翌日晴たるよし、不思議成(なる)事也。一說には大文字山にうはばみ住(すみ)て有(あり)、それに請雨の法をおこなはるゝ事也といへり。

[やぶちゃん注:「鹿飛」琵琶湖から南流した瀬田川が西へ折れ曲がる、現在の滋賀県大津市石山南郷町に瀬田川の奇岩の景勝地の一つである鹿跳渓谷(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)がある(サイド・パネルの、例えば、この写真を見ると、水量が減じた時は、半端なく凄いことになる感じが判る)。MY氏のサイト「WALK & TALK」の「瀬田川(鹿跳渓谷)」によれば、ここは両岸が迫って川幅が狭まり、水の流れも急に激しくなるとあるから、「落口(おちぐち)」という謂い方が腑に落ちる。『瀬田川右岸の立木山を七百数段の石段で登ったところに「立木(たちき)』『観音」がある』が、これは、その昔、空海が『瀬田川の対岸に光り輝く霊木を発見し』たものの、『瀬田川の急流のため』に『渡れないでいると』、『突然』、『白い鹿が現れて』、『空海を背中に乗せて渡してくれ』、『霊木の前まで来ると』、『白い鹿は観世音菩薩に姿を変え』、『感激した空海』は、『立木に等身大の観音像を刻んだといわれて』おり、『鹿跳』『の名もここから来ている』とある。ここには鹿跳橋(ししとびばし)もあるが、この橋の初代は明治二八(一八九五)年架橋で当時はない。

「振古」大昔。太古。

「北山八瀨(やせ)の村」京都府京都市左京区八瀬野瀬町(やせのやせちょう)附近。ここは例えば、「八瀬童子」(やせどうじ/はせどうじ:この付近の旧山城国愛宕郡小野郷八瀬庄の住人で、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(かよちょう:輿を担ぐ役)を務め、室町以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされ、寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らした所謂「大童(おおわらわ)」の体(てい)を成し、履物も草履をはいた子供のような姿であったため「童子」と呼ばれた)の出身地でもあり、一種の呪的な選ばれた民の村落共同体であった。

「五つ衣(ぎぬ)」女房装束で、表衣(うわぎ)と単(ひとえ)との間に五枚の袿(うちき)を重ねて着た装束を言う。「五つ重(かさ)ね」。

「三重(みへ)がさねの扇子」「三重襲の扇(あふぎ)」が正しい。檜扇 (ひおうぎ) の板数八枚を一組とし、それを三つ重ねたもの。女房が用いた。想像し難いが、かなり大きな相応の重さを持ったものである。

「四楹」「楹」は漢音では「エイ」、呉音では「ヤウ(ヨウ)」で意味は「柱」である。一応、「しえい」と読んでおく。台の四隅に立てたもの。所謂、結界を示すものである。

「大の字山」京の東山にある如意ヶ嶽(山頂は京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。標高四百七十二メートル)の西の峰の支峰大文字山(だいもんじやま:標高四百六十五・四メートル)。八月十六日に行われる京の伝統行事「五山の送り火」の「大文字」として知られる。現在の地理学上では全く別個の山である(国土地理院図参照但し、古くから現代に至るまで、如意ヶ嶽と大文字山は混同され続けており、津村もここでそれを同一のものとして記述している可能性を否定出来ない(江戸時代の随筆には両者を混同した記載が有意に見られるからである)。また、如意ヶ嶽の東には「雨神社」があり、ここは雨社大神(「あめのやしろおおがみ」か? ネット上に読みが出ない)があり、ウィキの「如意ヶ嶽」によれば、『かつてはここに赤龍社、龍王社、龍王祠(りゅうおうのやしろ)、龍王宮などと呼ばれる社があり、それを継ぐもの。大山祇命などが祀られている、雨乞いのための社』とし、「京都坊目誌」によれば岡崎神社の末社で、『かつて如意寺の鎮守社であった。地図上では大文字山頂と如意ヶ嶽山頂の間に位置する』。「昭和京都名所図会」によれば』、大正六(一九一七)年に一度、『岡崎神社に遷されたが、その後再興。如意越の中程より北に分け入ったところにあり』、七月十六日に『例祭が行われているという。かつては周囲に大きな池が有ったが、現在は小さな池と、かつての堤などが残るのみである。雨神社と赤龍社の同定が、如意寺発掘調査の足がかりの一つとなった』とある。この「如意寺」というのは山岳寺院でよく判っていないが、同寺由来の「楼門の滝」(「楼門の瀑布」「如意滝」とも。高さ約十メートル)もあり、明らかに大文字山から離れた如意ヶ嶽方向にこそ、雨乞のキメとなる場所があることからも、私は現行の「大文字山」ではないのではないかと感じられるのである。

「神泉苑」現在は京都市中京区にある東寺真言宗の寺院。二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。季節を問わず、また、如何なる日照りの年でも涸れることがないとされた神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むとされ、天長元(八二四)年に西寺の守敏と東寺の空海が「祈雨の法」を競って、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し、空海が勝利したという話はとみに知られる。また、空海以降も真言宗の僧による雨乞いが何度も行われている(京に疎い私でさえも神泉苑と言えば雨乞と反応する)。]

譚海 卷之三 京師にて天氣を考る

 

○京都の天氣、比叡山に雲の起るを見て、雨の候とする事也。雲(くも)麓より立のぼりて、再々に半腹に及び、既に山の頂までおほひ隱せば、京都のうち四面雲ちかくなりたる樣におぼへ[やぶちゃん注:ママ。]、やがて雨は降出(ふりいづ)る也。叡山雲おほへども山のいたゞき少しも見ゆる程は、いまだ雨ふりいでずとさだむる事なり、京都は江戶の冬月より凌(しのぎ)がたし、寒氣底より冷(ひゆ)る樣に身にしみて覺ゆるは、山の内につゝまれたる所なるべしといへり。又ある人の云(いはく)、京都は暴風なきゆゑ、江戶よりは寒氣は凌ぎやすき樣なれ共、暑氣は殊にたへがたし。四面の山にさへられて、江戶の樣にひやゝか成(なる)風ふく事なし、其故は終日(ひねもす)炎氣にてらされて、山々蒸し薰ずる其山より吹てくる風なれば、すゞしき風はなき事なり。夏月暑氣甚しき日は、暮はつるころより洛外の山々黃金の色になり、初夜すぐる此までは暗夜といへども、山の色それと見分るゝほどの事也。やうやう初夜すぐる此より炎氣醒(さめ)ぬれば、山のいろ消(きえ)て見えず、さる間(あひだ)暑中には哺時(ほじ)の飯(めし)も宿にてくふ事は堪がたければ、過半河原に行て涼しき方を求め、露席してものくふ事を興とする事也。豪富のものは河原にて飯を焚(たき)こしきへうちあけ、河原の流水に冷し洗ひあげて、茶をせんじ食する事を第一のおもむきとする事也。大てい京都の人家は停水なきゆゑ蚊はすくなけれども、蟻は家ごとに多きゆゑ、座敷をも度々掃ひ、蟻をはきあつめて捨(すつ)るなり、うるさき程の事也。人家のある地はみな牢(かた)き赤砂なり、家をつくるに土臺木をかまへて建(たつ)る事なし、みな掘たての家なり、蟻は此沙土より生ずる事とて、みなおほきなる山蟻なりとぞ。

[やぶちゃん注:「考る」「かんがふる」ではなく、「はかる」か。

「初夜」夜の初め頃。戌の刻(午後八時からの二時間)。

「哺時の飯」日の入り前の早い夕食。古代中国人の食事の時間帯に由来する。それは「食時」(じきじ)と「晡時」で、古くは一日二度の食事を、日の出後と日の入り前にとったとされることによる謂い。

「露席」「ろせき」か。露天の食席。

「こしき」「甑」。米や豆などを蒸すのに用いる器。鉢形の瓦製で、底に湯気を通す幾つもの小穴をあけ、湯釜にのせて蒸した。後、方形又は丸形の木製と成し、底に簀子(すのこ)を敷いたものを「蒸籠」(せいろう)と称する。ここは後者。

「停水」溜り水。

「牢(かた)き」「堅き」に同じい。

「山蟻」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科ヤマアリ亜科ヤマアリ属クロヤマアリ亜属クロヤマアリ Formica japonica 。或いはヤマアリ属 Formica 。

譚海 卷之三 禁裏修造の大工

禁裏修造の大工

○京都に禁裏修造せし大工有て、其時の作料を年々金壹兩づつほど何十年ともなく賜る。いつの此の修造料と云事をしらず、元和(げんな)以前戰國の此の事なるべしといへり。

[やぶちゃん注:「元和」慶長の後で寛永の前。一六一五年から一六二四年まで。]

譚海 卷之三 泉湧寺御陵

 

○泉涌寺に代々帝王の陵有、九重の石塔にて甚だ狹小なる物也。客殿よりのびあがりて見ゆる也。又櫻町天皇御持彿の辨財天本堂に有、莊嚴端麗殊に無類なるものなり。東福寺塔中海藏院にも、後水尾院・東南門院兩宮の御隨身(ずいじん)の器・御服など納(をさめ)ありて、一とせ江戶にて其本尊開帳の席に拜見せさせたる事あり。

[やぶちゃん注:目録の「泉湧寺御陵」はママ。

「泉涌寺」せんゆうじ。せんにゅうじ:「せんゆうじ」の連声。「せんにゅじ」とも読む。京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の大本山。山号は月輪(がちりん)山または泉山(もと東山(とうぜん))。天長年間(八二四年~八三四年)に空海が創建し、当初は法輪寺と称した。斉衡三(八五六)年、藤原緒嗣(おつぐ)が再建して、天台宗に改め、仙遊寺と改称。建保六(一二一八)年、俊芿(しゅんじょう)が堂宇を再建し、台・密・禅・律四宗兼学の道場とし、現名に改めた。四条天皇以後、歴代皇室の菩提寺として崇敬をうけた。

「東福寺塔中」(塔頭に同じい)「海藏院」京都府京都市東山区にある臨済宗東福寺の塔頭寺院。臨済宗東福寺派。かつては専門道場が設置されていた。]

譚海 卷之三 荒木周平の畫の事

 

○池野秋平[やぶちゃん注:底本ではここに『別本に荒木周平』と割注するが、目次がそれであることは注されていない。]と云(いふ)者は、祇園のゆりといへる女の聟也。畫事に名有て門人もあまた有。黃檗山の書院に西湖の圖を望まれ、殊に辛苦して西湖の圖ある書(しよ)は、悉く華本を求め集め、大鵬和尙に折衷して書(かき)たり。其裏に五百羅漢の圖を望まれしに、人物には工ならざるゆゑ、山水の人形(ひとがた)にて書たり。水行に數百人、陸行に數百人、雲中に數百人と三行(さんかう)に分ち書たるが、殊に逸筆にして奇絕也といへり。又大鵬和尙は墨竹に名ある人にて、大鵬竹とて賞翫したる事也。又宮常之進といふ京師の人なるが墨竹殊に妙を得たり。第一を常之進、第二を大鵬と定めあへる事なり。一とせ飢饉成しに、常之進へ竹を望む者あれば、米壹斗にかへて書てやりける、常之進が斗竹(とちく)とて稱美せし程の事とぞ。

[やぶちゃん注:前の「宇治黃檗山」をまず参照されたい。

「荒木周平」「池野秋平」前者は不詳。後者は南画家・書家の名匠池大雅(いけのたいが 享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)の通称「池野秋平」(いけのしゅうへい)を名乗った。彼には数多くの雅号があるが、前者は見当たらない。彼は京都銀座役人の下役の子として生まれ、七歳から本格的に唐様の書を学び始めたが、習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出され、文人画を伝えられ、中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風や、本邦の風景を軽妙洒脱な筆致で描くなど、作風は変化に富む。彼は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現をも取り入れ、独自の画風を確立した(以上は主に当該ウィキに拠った)。

「祇園のゆりといへる女」池大雅の妻池玉瀾(ぎょくらん 享保一二(一七二七)年~天明四(一七八四)年)。夫と同じく画家で歌人・書家としても知られた。本名は町(まち)、旧姓は徳山。当該ウィキによれば、『京都祇園の茶屋・松屋の女亭主の百合と旗本の徳山秀栄との間に生まれ』た。『玉瀾は幼時から茶屋の常連客だった柳沢淇園に絵を学び、彼の別号である「玉桂」から一字とった「玉瀾」の号を授けられた』。『弟子の一人の池大雅を彼女に紹介したのも淇園だった』。『玉瀾の夫の大雅は、南画の画風を彼女に教え』、『また、夫婦ともに和歌を冷泉家より学んだ』。『玉瀾と大雅は互いに影響を及ぼし合って、一緒に芸術を創り出した。女性が依然として男性より劣っていると広く考えられていた当時の日本では、これは非常に珍しいこと』で、『玉瀾は、当時の既婚女性では一般的だった引眉をしていないこと』も『注目される』。『大雅は生前、自分の死後に彼女が困窮することがないようにと書画を数多く制作しており、そのため』、安永五(一七七六)年に『夫が没した後も、玉瀾は不自由することなく生活を送った』。『なお、玉瀾は大雅の葬られた浄光寺ではなく、母の百合が眠る金戒光明寺の塔頭・西雲院に埋葬されたが、その理由については不詳である』。『フィラデルフィア美術館長アン・ダーノンコートによれば』、「十八世紀の日本の女性が画家であることは非常にまれだった」』記す。『玉瀾と夫の大雅は、作品を作り、金をかけずに生活し、時には作品の合作に専念した』。『彼女は京都の祇園社の隣の小さな小屋で大雅と一緒に住んでいた。玉瀾は、屏風絵や襖絵、巻物、掛け軸、扇絵などを描いた』。『祖母の梶子、母の百合、町(玉瀾)の』三『人で祇園三女として知られ』、明治四三(一九一〇)年には三人の歌が「祇園三女歌集」として『出版された。時代祭の江戸時代婦人列には、祖母の梶子と共に登場する』。『大雅夫妻の有名な逸話に、大雅が難波へ出かけた際に筆を忘れていったのを玉瀾が見つけると』、『これを持って走り、建仁寺の前で追いついて渡すことができたが、大雅は筆を押し頂くと「いづこの人ぞ、よく拾ひ給はりし」と答えて別れ、彼女も何も発言することなく帰宅した、というものがある』。『玉瀾は栄誉や恥辱をものともしない大雅の行いに付き従い、彼が三弦を演奏して歌えば彼女は筝を弾いて歌った』。『二人で一日中』、『紙墨に向き合い、音楽や酒を楽しみ、釜や甑が埃をかぶっても落ち着いており、その様は後漢の梁伯鸞の妻・孟光にたとえられた』。『夫婦ともに欲の少ない性格で、他人から謝礼金を受け取っても』、『紙包みを開かぬまま屑籠に入れておき、必要な時にそこから取り出して用いていたという』。『また、大雅の家に宿泊し、その晩に垢で汚れた甲斐絹布団を提供された客人が、夫妻の部屋を見てみると、大雅は毛氈にくるまり、玉瀾は反故紙の中で眠っていたとも伝わる』。『和歌を学ぶため』、『夫とともに初めて冷泉家に参上した際、場所柄から、同家の女房らは「玉瀾」という名の美しさから』、『どのような婦人だろうかと待っていたところに、糊の強い木綿の着物を着』、『魚籠』(びく)『を提げた、裸足の大原女のような姿をした玉瀾が現れたため、人々は大いに驚いたという話も伝わる』。『大坂文人の木村蒹葭堂』(既出既注)は、十三歳の時の寛延元(一七四八)年に『大雅と面会したことを後に回想しているが、玉瀾については「年の頃二十二三歳にして顔は丸顔のさして美しといふ程にもあらねど、人並勝れたる面色何処となく気高き処ありて、さすがは百合の娘と思はるるばかりなりし、後年玉瀾女史とその名天下に高く聞え、大雅堂と共に人に称せらるるやうになりたるは、珍しき事と謂ふべし」と振り返っている』とある。

「華本」中華の画本。

「五百羅漢の圖」「京都国立博物館」公式サイト内の「五百羅漢図」がそれであろう。但し、その解説には、『池大雅』『と万福寺の因縁は浅からぬものがある。大雅』七『歳の折、中国人住持杲堂(こうどう)の前で大書をなし、「神童」と称賛されたのである。本図は、もと襖絵で、大雅が万福寺東方丈に揮毫した障壁画群の一部をなす。従来は』明和二(一七六五)年に『十代目住持大鵬が退隠したときの作品と考えられていたが、近時、それよりもおそく明和』九『年の隠元和尚百回忌に東方丈が改修されたのを契機として制作された、とする説が有力になっている。また、「羅漢図」』八『面のうち一部に指墨がつかわれているともいわれていたが、見たところすべてが、指墨と判ぜられることを付け加えておこう』とある。リンク先では全幅を見ることが出来る。

「三行に分ち書たる」三種のシチュエーション(様態)別に分けて描いた。

「宮常之進」江戸中期の儒学者で詩画もよくした宮崎筠圃(いんぽ 享保二(一七一七)年~安永三(一七七五)年)は、名は奇、字は子常、通称は常之進。享保二(一七一七)年に尾張国海西郡鳥池村にて宮崎古厓の長男として生まれ、十八の時、両親とともに京に移り、儒者伊藤東涯(儒者伊藤仁斎の長男)に師事して学び、東涯没後は、東涯の弟伊藤蘭嵎(らんぐう)に師事した。詩画も得意としたが、特に墨竹画に関しては、当時、山科李蹊・御園中渠・浅井図南(となん)とともに「平安の四竹」と称された。しかし、画名が高まった結果、「人から儒者ではなく、画工と見られている」と母に諌められ、筆を折り、その後、終生、画筆をとることがなかったという。また、俗習に染まらず、世情に疎い人物であったとされ、ある日、雨に降られた筠圃が、慌てて駆け込んだ軒下が娼家であった。娼家の妓たちは、しきりに「お入り、お入り」と筠圃を招いた。筠圃は客引きされたと分からず、帰宅してから、弟子たちに、「傘を貸そうとしたのだろう。仁というものは実に人の固有である」などと語ったことから、以来、弟子は筠圃を「仁先生」と綽名したという逸話が残されている。備考録・論考・詩文集数巻を著したが、いずれも成稿に至らず、終わった(当該ウィキに拠った)。]

譚海 卷之三 宇治黃檗山

 

○宇治黃檗山(わうばくさん)は、代々唐山(たうざん)の僧にて法嗣を傳ふる寺也。今時(きんじ)大鵬和尙と申(まうす)は、嶺南の人なる由。一旦隱居有けれども、後嗣の唐山僧なきにより再任有、終(つひ)に淸朝に請へども來る僧なき故、遷化後本朝の僧を住持に任ぜらる人事(じんじ)に成たり。大鵬までは稀に本朝の僧住持有といへども、唐山の僧絕(たえ)ず連綿して住持せしが、二代此邦(このくに)の僧住持續きたるは、此時始(はじめ)也。是まで例とせし公儀拜借金なども許しなく、六箇敷(むつかしく)なりたりといへり。

[やぶちゃん注:「宇治黃檗山」京都府宇治市にある黄檗宗黄檗山萬福寺(グーグル・マップ・データ)。寛文元(一六六一)年に明末清初の禅僧で渡来僧であった隠元隆琦(いんげんりゅうき 一五九二年~寛文一三(一六七三)年)によって開創された。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅くに開宗した黄檗宗の大本山で、建物・仏像様式・儀式作法・精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を持つ。

「唐山」中国。

「大鵬和尙」大鵬正鯤(たいほうしょうこん 一六九一年(福建泉州)~安永三(一七七四)年(宇治))清の黄檗僧で「長崎派」の画僧としても知られる。本姓は王、名は正鯤、号は笑翁。享保六(一七二一)年に来朝し、長崎の福済(ふくさい)寺の全巌広昌の法嗣となり、後の延享二(一七四五)年には黄檗山萬福寺のそれを嗣いだ。宝暦八(一七五八)年に再び同寺の住持となった(これが本文の「再任有」の謂い)。力強く品格の高い墨竹図で知られる。本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞奇譚であるから、示寂した後である。

「嶺南」普通は現在の広東省及び広西チワン族自治区の全域と湖南省・江西省の一部に相当する地域を指す語で、彼の生まれた福建泉州は含まれない。

譚海 卷之三 五山長老對州輪番

 

〇五山長老輪番に對州(たいしう)へ詰(つめ)て、朝鮮國より到來の書翰返書等を認(したたむ)る役に走らるゝ也。さるが故に五山僧徒は學文(がくもん)なくては成がたき寺也。五山長老の中(うち)順番に當りて、對州發行の人定(さだま)る時は、先(まづ)關東へ下り登城致し、五山和尙位に任ぜられ、謁見の禮あり、時服(じふく)其外拜領物例(ためし)有(あり)て過分の事なり。其後上京對州へ着船の上、都(やが)て朝鮮の書翰を司る、別館に住して饗應丁寧をつくす、寒暑に人參一斤(きん)づつ對州より贈る事とぞ。朝鮮より來書あれば封のまゝ長老へ渡す。長老開封して事の次第を和語に寫(うつ)し關東へ傳達し、御下知を得て漢字返翰を認め、對州役人へ渡し、則(すなはち)朝鮮へ送る事也、此勤役(きんやく)三年(みとせ)づつ也。三年事濟(ことすん)で後の長老に委託し、出船上京して和尙位を辭し隱居する也、其和尙生涯公儀より年々百石づつ下し給ふ事とぞ。

[やぶちゃん注:私も全く知らなかったが、これは「以酊庵(いていあん)輪番制」という制度である。ウィキの「以酊庵」によれば、『以酊庵』『は、かつて長崎県対馬市に存在した日本の寺院である。山号は瞎驢山(かつろざん)』。『日本と中国、朝鮮との外交は、基礎教養として漢詩文を学び漢文能力に優れる、禅僧が担当してきた』。天正八(一五八〇)年、『対馬の戦国大名宗義調』(そうよししげ)『により景轍玄蘇』(けいてつげんそ:日本人臨済僧。筑前国宗像郡西郷生まれ。俗姓河津氏)『が招かれ』、『朝鮮との外交に当たり、文禄・慶長の役では豊臣秀吉の命で明との交渉を担当した』。『その後』慶長二(一五九七)年若しくは慶長十六年に『玄蘇が対馬天道茂(対馬市厳原町天道茂)の地に寺院を建立し、玄蘇の生まれた』天文六丁酉(ひのととり/ていゆう)の『年にちなんで以酊庵と名づけられた』。享保一七(一七三二)年の『大火で本堂を焼失したため、国分(対馬市厳原町国分)にあった西山寺を末寺の瑞泉院に移転させ、その跡に以酊庵を移した』。『玄蘇の跡を継いだ規伯玄方は』、寛永一二(一六三五)年の「柳川一件」(対馬藩主宗義成(よしなり)と家老柳川調興(しげおき)が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事件。家光の裁定は義成は無罪、柳川調興は津軽へ流罪、規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に配流となった)で『流罪となり、対朝鮮外交の実務者を失った対馬藩は玄方に代わる人材(対朝鮮外交文書の解読・作成には高度な漢文知識を必要としていた)を得ることが出来ず、江戸幕府に援助を求めた。これを受けて幕府は同年東福寺の玉峰光璘を以酊庵に派遣、以後』、『幕府は京都五山の禅僧の中でも特に「五山碩学」の呼ばれた者』『の中から朝鮮修文職(朝鮮書契御用・対州書役)に任じ、以酊庵に』一年(後に二年)(本記載と異なる)『交替の輪番制で派遣して、外交文書作成や朝鮮通信使などの使節の応接、貿易の監視、双方の外交文書をまとめた』「本邦朝鮮往復書」る文書の『作成と対馬藩への提出などを扱わせた。このシステムを以酊庵輪番制と言う。朝鮮修文職は幕府の任命による外交機関とも言うべき存在であり、対馬からの帰還後は元いた寺院の住持に任ぜられ、更に京都五山の筆頭である南禅寺の坐公文』(ざくもん・すわりくもん)『(名誉職としての住持の公帖)を授かることとされていた』。『江戸幕府の衰退によって』慶応二(一八六六)年に『江戸幕府から対馬藩に対して以酊庵輪番制の廃止が通告され』、翌年一月に第八十九世(通算百二十六代目)『玉澗守俊が東福寺に帰還、更に江戸幕府に代わった明治政府が対馬藩から対朝鮮外交権を剥奪したこともあり、無住となった以酊庵は明治元』(一八六八)年に『廃寺となった。明治以後は西山寺が復帰することになり、玄蘇の遺品や以酊庵関係資料は同寺に伝来している』とある。

「時服」毎年春と秋または夏と冬の二季に朝廷や将軍などから諸臣に賜った衣服。

「一斤」約六百グラム。]

譚海 卷之三 日光御門主入室

 

○日光御門主御入室の例は、たとひ遠孫の親王たりとも入室に走らるゝ時は、童形(だうぎやう)にて參内引見の上、したしく今上の親王に准ぜらるゝ事にて、御猶子(ごいうし)の禮有て二品位を授られ、其後(そののち)前門主の御弟子に成、受戒剃髮候事也。親王前門主の房に向(むかは)るゝ時は、夜陰に素足(すあし)にて禁中を退出有事(あること)也。所司代同敷(おなじく)跣足(はだし)にて自身燈(ひ)を取て前驅(まへがけ)する事とぞ。世尊王宮を逃れ出て出家有し故事を學(まなば)るゝ事といへり、智恩院入室も大抵かくのごとしとぞ。

[やぶちゃん注:「世尊」釈迦。]

譚海 卷之三 紫衣を給ふ事

 

○賜紫沙門引見の禮、天子御座に立せ給ひて紫衣を御肩にかけて渡らせ給ふ。沙門傳奏の公卿に從て參入致し、御座の下段五六疊外に蹲居し拜し奉りて、頭を擧(あげ)て、龍顏を拜する事良(やや)久しくす。沙門龍顏を拜み奉る時は、天子沙門の衣體を御覽有、節有て稽首する時に至りて、二たび謹で拜し奉る事不ㇾ能、公卿卽(すなはち)賜衣を取て傳ふる時、沙門拜受膝行して退(しりぞ)く事とぞ。

譚海 卷之三 淨土宗和尙號の綸旨

 

○淨土宗の僧徒和尙號の綸旨を頂戴に登るには、諸入用都(すべ)て四十金程費(つひやす)る事といへり。長橋(ながはし)より賜る所の綸旨、薄墨の紙を用らるゝ也。綸旨所持の僧はあやまち有ても、脱衣死刑に處せらるゝ事なしといへり。

[やぶちゃん注:「長橋」宮中の清涼殿から紫宸殿に通じる廊下。]

譚海 卷之三 西本願寺の庭(附 西本願寺代替り)


○西本願寺の庭は池水海の如く磨くして、奇花異草なき物なし、京都名園の中の第一なるよし。又東本願寺庭は、別に佳園をまうけて寺より外に有、是も佳地也と云り。西本願寺地中に輿正寺御門跡と云有、これも本願寺同格にて、僧正に任ずる寺也。元來高田門跡なりしを、蓮如上人に歸依して寄住せられ、其後後見をせられ寺務を行ひし事あり、夫より巳來岡流となりて鄰寺にならびて、精舍門跡同樣にて有事(あること)也。

 

[やぶちゃん注:目録に標題なし。西本願寺絡みであるので前に添えておく。]

○西本願寺代替りには、かならず江戶へ出仕あり、誓紙を捧られ拜謁有、公儀にても南本願寺御取扱は武家の如く嚴然たる事也。年々使者兩寺より奉るには、前後の席をあらそひて六箇敷(むつかしき)ゆゑ、御返書等も同時にたまはる事也とぞ。

譚海 卷之三 大津走井

 

○大津に走井(はしりゐ)ある所は、今は茶屋の庭に成(なり)てあり。庭は傳教大師造らせ給ふよし、殊に見るべきもの也しを、先年地震に崩れて其跡纔(わづか)に殘れりと云、惜むべき事也。

[やぶちゃん注:「東京富士美術館」のサイト内に歌川広重の「東海道五拾三次之内 大津 走井茶店」(錦絵・天保(一八三三)四~五年)の画像とともに以下の解説が載る。『大津宿から離れ』、『京へ向かう山間に走井の里があった。走井とは溢れ湧き出る清水との意味があり、良質な水の水量豊かな所である。この図に描かれた茶店の軒端には清水が湧き出る走井が描かれているが、この水を使って作られた走井餅は旅人の土産物として人気があった。街道には米俵や薪を積んだ牛車が三台並んで行く。画中遠景にシルエットで見える山が逢坂山。逢坂山は絶えず湧き水で道がぬかるみ、牛車での運搬は大変に苦労したという。現在の滋賀県大津市』とある。また、「株式会社 走り井餅本家」の公式サイト内のこちらに、『「走井は下の大谷町にあり、石を畳みて一小の円池とす。其の水甚だ清涼にして、冷気凛々たり。今は茶店の庭とし、旅人憩いの便とす。茶店の主、築山泉水を設け、且つ薬を売る。誠に此の水の如きは、清うしてなめらかなり。右より名を得しもことわりかな、湧き出づる水の勢走井の名もうべなり』。「枕草子」に『走井は逢坂なるがおかし』と」(「近江与地志略」享保一九(一七三四)年)とあるとし、『走井茶屋は、明治初期まで賑わいました。その後、茶屋は姿を消したものの、茶屋旧跡は大正四年』(一九一五年)に『日本画家の橋本関雪』『が別荘として購入』し、『関雪没後の現在は臨済宗系の単立寺院「月心寺」となって、京津線追分駅と大谷駅の中間あたり、往来激しい国道沿いにひなびた門灯を掲げています』。『山門をくぐると、こけむした石組の庭が別世界のように広がっています。滝のある美しい庭は室町時代、相阿弥作とも伝わるもの。滝の水は、いまもこんこんと湧く走井に発します。「水神諸霊」を祭る石碑が立つ本井戸の一角は、木立と岩に囲まれ』、『「神域」の雰囲気を感じさせます。岩が濡れ、冷気漂う様は、通過車両の騒音をしばし忘れさせます』。『この月心寺では、村瀬庵主手作りの胡麻豆腐をはじめとする精進料理がつとに名高』いそうである。『茶屋は姿を消したものの、「走り井餅」の製法は走井市郎右衛門の末裔である片岡家に伝承され「走り井餅本家」において商標とともにその味と技術を今日まで守り続けています』とある。]

譚海 卷之三 金閣寺萬人講

 

○北山金閣寺も萬人講と云事ありて銀子壹兩奉納すれば、萬人講の衆中に入られ、金閣假山等一覽する事なり。銀閣寺は案内なくては猥(みだり)に一覽をゆるさず。大德寺塔中にもいづれも名人の造(つくり)たる庭あり。細川家を始め諸大名家の墳墓塔中に有て、皆々人の知る所の精舍也。五山ともに昔時の座敷張付(はりつけ)・園地など、そのまゝに殘りて、珍重すべき所多し。

[やぶちゃん注:「萬人講」一般名詞。神社仏閣に参詣したり、堂塔の建立修理などに寄進したりするために、多人数で作る講中。

「假山」庭園内に人工的に造った築山(つきやま)のこと。

「座敷張付」座敷の四方の紙或いは布や箔などを貼りつけた戸又は壁。]

譚海 卷之三 松花堂器物

 

〇八幡山瀧本房に松花堂猩々翁(しやうくわだうしやうじをう)の器物所持せり。好事のもの茶を乞へば、會席をまうけ悉く器物を陳(ならべ)て見する也。銀一兩づつを出して所望する事也。

[やぶちゃん注:「八幡山瀧本房」京都府八幡市にある石清水八幡宮神社(旧称は男山八幡宮)のめ「男山四十八坊」と呼ばれた宿坊の一つ。現存しない。

「松花堂猩々」江戸初期の真言僧で文人の松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう 天正一〇(一五八二)年~寛永一六(一六三九)年)。男山八幡神社社僧。旧姓は喜多川、通称を滝本坊、別号に惺々翁(しやうじやうをう(しょうじょうおう):本文はこの誤記であろう)・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。書道・絵画・茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久(さきひさ)に学び、大師流・定家流も学んで、独自の松花堂流(滝本流とも称した)という書風を創出、近衛信尹(のぶただ)・本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。絵は狩野山楽に師事している。晩年は男山に松花堂を建てて隠棲した。なお、現行の松花堂弁当は、日本料理吉兆の創始者が見そめ、工夫を重ねて、茶会の点心等に出すようになった「四つ切り箱」であるが、それを好んだ昭乗に敬意を払って「松花堂弁当」と名付けられたとする説があるという(以上は当該ウィキを主文として、底本の武内利美氏の注を加味したが、最後の説は同八幡宮公式サイトのこちらでは断定されてある)。また、彼の隠棲した方丈跡が現存し、同八幡宮公式サイトの「松花堂跡」に、『表参道から影清塚の分岐点を右に上がり、石清水社へと向かう途中に江戸時代初期、松花堂昭乗』『が営んだ「松花堂」という方丈の建っていた跡地があります』(写真有り)。『瀧本坊の住職であった松花堂昭乗は』、寛永一一(一六三四)年『以前に弟子に坊を譲り、泉坊に移って隠棲し』、『寛永』十四『年には泉坊の一角に方丈の草庵を結び』、『「松花堂」と称したことから』、『松花堂昭乗と呼ばれるようになりました』。『松花堂と泉坊の客殿は、明治初年のいわゆる「神仏分離」後もしばらく男山に残っていましたが』、明治七(一八七四)年『頃に京都府知事』(この糞野郎を調べた。長谷信篤(ながたにのぶあつ)である)『より「山内の坊舎は早々に撤却せよ」との厳命が下ったため、当時の住職が山麓の大谷治麿氏に売却し、幸運にも破却されずに残りました』。『その後、幾度かの移築を経て、現在の松花堂庭園は』昭和五二(一九七七)年に『八幡市の所有となり』、『管理運営されています』とある。

「一兩」本書は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年にかけて書かれた。江戸後期のそれは概ね現在の四~六万円ほどに当たる。]

2021/02/19

譚海 卷之三 石川丈山閑居地

 

○石川丈山閑居の地は、北山一乘寺村にありて、詩仙堂とて今に殘れり。今は尼寺となりて丈山の器物など、什物にてその寺に傳へたり、國初(こくしよ)[やぶちゃん注:江戸幕府開府の初め。]學者の翹楚(げうそ)といはれたる人也。又牡丹花老人の隨身(ずいじん)の器は、今に攝州池田に傳へて、一とせ諸人に見せたる事有、自然の机などあり隱者の興多しといへり。

[やぶちゃん注:「石川丈山」(天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての武将で文人。十六歳で徳川家康に仕えたが、三十三歳の「大坂の陣」で、手柄を立てながら、軍令に背いたことから、論功を受けることが出来ず、それを契機に退官して浪人となった。一時は浅野家に仕官したが、致仕し、京都郊外に隠棲して丈山と号した。江戸初期における漢詩界の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。幕末の「煎茶綺言」には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、「煎茶の祖」ともされる。洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に凹凸窠(おうとつか)を寛永一八(一六四一)年)に建て、終の棲家とした。現行では「詩仙堂」と呼ばれる。これは屋敷内の一間の、中国の詩家三十六人の肖像を掲げた「詩仙の間」に由来する。この詩仙は日本の三十六歌仙に倣って、林羅山の意見を求めながら、漢・晋・唐・宋の各時代から選ばれたもので、肖像画は狩野探幽によって描かれたものである。現在は曹洞宗の寺院でもあり、丈山寺(グーグル・マップ・データ)という。京に冥い私が、唯一、親しく訪れて、非常に惹かれたところである。

「翹楚」「翹」は「高く抜きん出る」、「楚」は「高く伸びた雑木」の意。才能が衆に抜きん出て優れていること、また、その人を指す語。

「牡丹花老人」室町中期の連歌師・歌人牡丹花肖柏(ぼたんか(げ)しょうはく 嘉吉三(一四四三)年~大永七(一五二七)年)。公家の中院通淳(なかのいんみちあつ)の子。和歌を飛鳥井雅親(あすかいまさちか)に学び、連歌を宗祇に師事して、古今伝授を受けた。宗祇・宗長と吟じた「水無瀬三吟」で知られる。

「隨身」ここは「常に傍に置いた遺愛の物」の意。

「攝州池田」現在の大阪府池田市(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「肖柏」によれば、『宗祇から伝授された「古今和歌集」、「源氏物語」の秘伝を、池田領主池田一門や、晩年移住した堺の人たちに伝え、堺では古今伝授の一流派である堺伝授および奈良伝授の祖となった』とあり、また、十六世紀、永正(一五〇四年~一五二一年)の『初期に摂津国池田を訪れ、大広寺後園の泉福院に来棲し、これを「夢庵」と称し、次の句を詠んでいる』。

    呉服(くれは)の里に隱れて

    室を夢庵と號して

 笹の葉の音も賴りの霜夜かな

この『「呉服の里」とは、中世の池田地方に呉庭荘という荘園があったことに拠り、現在も町名や呉服神社に名を残している。「夢庵」の肖柏は以後、自らを「弄花」と号し、連歌を詠んだ。同地の国人領主池田充正の次代の正棟が肖柏を庇護し、これを通じて連歌に親しみ、池田一門の連歌流行をもたらしたため、「連歌の達人」と呼ばれた。こうして後世になって大広寺苑内には、肖柏の遺跡が残されることとなった』。『その後』も『度々』、『上洛したが』、永正一五(一五一八)年に『和泉国堺に移り、その地の紅谷庵に住み』、『没した』とある。]

譚海 卷之三 建仁寺内傳正殿院

 

〇四條建仁寺塔中に正傳院とてあるは、織田有樂齋(うらくさい)の茶事を構られし所にて、其墳墓も其まゝ寺に有。正傳院は有樂の法名也。茶事のこしばりに曆(こよみ)の反古(ほうご)を用ひられたるは、則(すなはち)元和(げんな)の比(ころ)の曆の切れなり。其外塔中に慈照院左府の眞蹟春林院と云(いふ)額などもあり。建仁寺の西門は、小松内大臣の臺盤の門なるよし、往古(わうこ)此地(このち)六波羅に鄰(となり)て、内府のこゝに住(すま)れける所成(なる)を、鎌倉の時(とき)賴家將軍千光國師の爲に、今の建仁寺を造立ありしが、門の殘りたるをそのまゝに寺に用ひ來(きた)るといへり。又同所に夷(えびす)の宮とてあるは、防鴨河司(ばうかし)の祠(まつ)る所の禹王(うわう)の像なりといり。

[やぶちゃん注:「建仁寺内傳正殿院」現在の臨済宗大本山建仁寺の塔頭正伝永源院(グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代の開山時には正伝院と永源庵の二ヶ寺であったが、明治時代に合わせて正伝永源院となった。

「織田有樂齋」安土桃山から江戸初期の大名で茶人として知られた長益系織田家嫡流初代の織田長益(ながます 天文一六(一五四七)年~元和七(一六二二)年)。信長の父織田信秀の十一男。有楽・如庵(じょあん)と号した。先の正伝院を再興し、ここに立てた茶室「如庵」は国宝に指定されている。私は小学校五年生の時、まだ如庵が神奈川県の大磯にあった時、父母と訪れ、他に客がいなかったため、管理されている方が、非常に丁寧に総て案内して下さったのを忘れない。小雨の降る日だったが、私が生涯でただ一度、茶室というものの新の清閑を感じ得た瞬間であった。

「こしばり」「腰張り」。壁・襖(ふすま)・障子などの下部に紙や布を張ること。

「元和」慶長の後で寛永の前。一六一五年から一六二四年まで。徳川秀忠・家光の治世。

「慈照院左府」室町幕府幕府第八代将軍足利義政のこと。彼の戒名は慈照院喜山道慶で、生前は左大臣まで昇りつめた。

「春林院と云(いふ)額」ネットでは見出し得ない。

「小松内大臣」平重盛。

「臺盤」狭義には平安時代の宮廷や貴族の飲食調度の一つで、節会・大饗などに用いた食物を盛った盤 () を載せる木製の机状の台で、それを置く場所を台盤所といい、転じて台所となった。ここは重盛の屋敷の台所の門ということであろか。

「千光國師」平安末期から鎌倉初期の本邦の臨済宗開祖で建仁寺開山であった明菴栄西(みょうあんえいさい/ようさい 永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)の諡号(しごう)。当時は廃れていた喫茶の習慣を本邦に再び伝えたことでもよく知られる。

「夷(えびす)の宮」建仁寺の東直近にある現在の「京都ゑびす神社」(グーグル・マップ・データ)。西宮神社・今宮戎神社と並んで「日本三大えびす」と称され、「えべっさん」の名で親しまれているあれである。実はこの社は建仁二(一二〇二)年に栄西が建仁寺を建立するに当たって、その鎮守社として自身が建久二(一一九一)年に南宋から帰国する際、海上で暴風雨から守護してくれた「恵美須神」を主祭神として勧請して創建されたものであった。なお、「応仁の乱」後に現在地に移転しているが、本来は孰れにしても建仁寺の境内にあったものである。

「防鴨河司」現代仮名遣「ぼうかし」「防鴨河使・防河使」とも書く。平安初期に設置された令外の官で、京都鴨川の堤防修築のを司った職。建仁寺の東を鴨川が流れる。

「禹王」中国古代の夏王朝の始祖とされる伝説上の帝王。父の鯀(こん)の事業を継いで、治水に成功し、聖王舜(しゅん)から帝位を禅譲されたことで知られる。]

譚海 卷之三 古繪馬已下の事

 

○淸水寺(きよみづでら)觀音堂・北野天滿宮などに掛る所の繪馬、殊に古代の物多し、見つべき事也。又高雄山の鐘の銘は、三絕とて世に聞えたる物也。時々遊覽の人榻來るを見たり[やぶちゃん注:底本は「榻」に『(摺)』の補正注を打つ。されば、「すりきたる」と読む。]。又大和の般若寺の六重の塔の九輪の臺に銘有、舍人(とねり)親王の作る所といへり。たがねにて彫たる物也、是も榻來る[やぶちゃん注:同前の訂正注有り。]を見たり。此外に安永中大和のくらがり峠より掘出したる、伊奈鄕の銅棺と云物に彫付たる銘文あり、天平勝寶の年號也。大坂の壺井屋吉右衞門と云者(いふもの)好古の者にて、兼葭堂(けんかだう)と世に稱する男也。此銅棺を求て石摺に致し、その棺をば天王寺塔中明靜院といへるにおさめたり。

[やぶちゃん注:「六重の塔」現在の般若寺にある十三重石塔の旧塔か。これは嘗ては石造相輪・銅製相輪であったという。

「舍人親王」(天武五(六七六)年(飛鳥にて)~天平七(七三五)年(奈良にて)は奈良時代の皇族政治家。天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の子新田部皇女(にいたべのひめみこ)。刑部(おさかべ)親王の死後は、新田部親王とともに皇室の長老として重んじられ,養老二(七一八)年、一品。「日本書紀」の編纂を主宰し、同四年に完成し、紀三十巻・系図一巻を奏上している。この年、藤原不比等の没後、知太政官事(ちだいじょうかんじ:左右大臣の上に位し、太政大臣に代って百官を統率するために置かれたものと考えらえている)に就任した。死に際し、太政大臣を贈られており、また、子の大炊(おおい)王が淳仁天皇となったことから、「崇道尽敬皇帝」の称が追号されている。歌人としても知られ、「万葉集」に短歌三首が入集している(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「安永」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。

「くらがり峠」暗峠(くらがりとうげ)。現在の奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある国道三〇八号及び大阪府道・奈良県道七〇二号大阪枚岡奈良線(重複)にある峠。古くは「闇峠」とも書かれた。標高四五五メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊奈鄕の銅棺」不詳。「伊奈鄕」は江戸初期から明治五(一八七二)年まで対馬国にあった郷の一つ。旧伊奈郡の区域に相当する。「銅棺」は銅製の棺桶。

「天平勝寶」七四九年から七五七年までで、女帝孝謙天皇の治世。

「大坂の壺井屋吉右衞門と云者好古の者にて、兼葭堂(けんかだう)と世に稱する男也」江戸中期の文人で・画家・本草学者であり、骨董蒐集でもともに知られた木村蒹葭堂(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)。大坂北堀江の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや:家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれた。名は孔龔(こうきょう:「孔恭」とも)、幼名は太吉郎(多吉郎)、字を世粛、蒹葭堂は号で、坪井屋(壺井屋)吉右衛門は通称。家業の傍ら、学芸を好み、小野蘭山に本草学を、片山北海に漢学を、池大雅らに文人画を学び、柳沢淇園(きえん)とも親交があった。博学多芸で詩文・書画・篆刻をよくした。大坂以外にも諸方の名士が彼のもとを訪れ、当時の知識人のサロンの主宰者のような立場にあった。骨董だけでなく、奇書珍籍の蒐集でも有名で、著作としては「山海名産図会」・「本草植物図彙」・「蒹葭堂雑録」(没後に暁鐘成(あかつきかねなり)が編した)などが知られ(これらは私もよくお世話になる)、一種の民間の博物学者と言ってよい。「蒹葭」とは「葦」のことで、「蒹葭堂」とは本来は彼の書斎の号で、庭に井戸を掘った際に葦が出て来たことを愛でて、かく名付け、後にこの書斎名を以って彼を呼ぶようになったもの。本作の著者津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)とは生年も同じい完全な同時代人である。

「塔中」「塔頭(たつちゆう(たっちゅう))に同じ。

「天王寺」「明靜院」読みは「みやうじやうゐん」で大坂の四天王寺であろうが、現存しない。]

譚海 卷之三 南殿の櫻

 

○南殿(なでん)の櫻枯てそのたねなき時は、梅にうえかへらるる當例也。江戶東叡山御門主の庭にも、梅橘左右に植られてあり、紫宸殿(ししんでん)に櫻を植らるゝ時は、東叡山には梅を植らるゝなり、其まゝに擬する事を遮る事といへり。

[やぶちゃん注:「南殿(なでん)」「なんでん」の撥音の無表記。紫宸殿の異称。内裏の南側の中央に位置しているのでかく言う。内裏の正殿で、内裏の南部分にある第一の御殿で、当初はは節会(せつえ)・季御読経(きのみどきょう)・立后・立太子・天皇元服などの通常の公事(くじ)が行われたが、大極殿(だいごくでん)の廃亡とともに、即位や大嘗会(だいじようえ)・朝賀などの重要な儀式も行われるようになった。内裏のほぼ中央の位置に仁寿殿(じじゆうでん)があり、その南にある。南に広い白砂の南庭を配した。なお、桜の品種に南殿桜(なでんさくら)があるが、これは、この紫宸殿の南側の庭に自生していたことに由来する。紫宸殿の有名な「左近の桜、右近の橘」の「左近の桜」がそれ。花は薄い桃色を呈し、気品があり、豪華な花を咲かせる八重桜(花弁数が六枚以上で八重咲の桜の総称)の中でも一際、美しい品種である。グーグル画像検索「南殿桜」をリンクさせておく。

「東叡山御門主」三山管領宮の敬称の一つである東叡大王(とうえいだいおう)のこと。「東叡山寛永寺にまします親王殿下」の意。ウィキの「東叡大王」によれば、上野東叡山寛永寺貫主は江戸時代の宮門跡の一つで、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあり、全て宮家出身者又は皇子が就任したことから、三山管領宮とも称された。『これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の戦略だったとも考えられる。こうすれば、朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができるからであり、実際に幕末には東武皇帝(東武天皇)の即位として利用している』。十三代、続き、その内、第七代に限り、『上野宮(寛永寺貫主)と日光宮(日光輪王寺門跡)が別人であるが、第』七『代日光宮は第』五『代の重任であるため、人数の合計が』十四『人にはならない。また出身は閑院宮から』三『人、伏見宮から』二『人、有栖川宮から』三『人、あとはすべて皇子である』。『主に上野の寛永寺に居住し、日光には年に』三『ヶ月ほど滞在したが、それ以外の期間で関西方面に滞在していた人物もいる』とある。]

譚海 卷之三 淸水谷家廊間櫻

淸水谷家廊間櫻

○淸水谷殿(しみづだにどの)御庭にらうまと云櫻有、もと禁中より移されたる花にして、後水尾院勅命の花也。御所の廊の間に生じたる櫻ゆゑ、かく名付させ給ふと云。又近衞殿にも八重櫻とて名木有、今は枯てなきよし、其木の枝を祕し置れて器物に造るといへり。

[やぶちゃん注:「淸水谷家」私の知るところでは、西園寺家一門である。それは、「耳囊 卷之九 淸水谷實業卿狂歌奇瑞の事」で知り得たことである。そちらの主人公は公家・歌人であった清水谷実業(さねなり 慶安元(一六四八)年~宝永六(一七〇九)年)で、信濃飯田藩初代藩主堀親昌(ちかまさ)の子で元は武士であったが、母方の叔父三条西公勝(さんじょうにしきんかつ)の養子として三条西家で育った。二十五の時、公勝次男で清水谷家を継いだ従兄の公栄(きんひさ)の養嗣子となった。陽明学者熊沢蕃山に学び、元禄元(一六八八)年には霊元院(第百十二代天皇)から古今伝授の初段階とされる『和歌「てにをは」口伝』を受け、中院通茂(なかのいんみちしげ)・武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ)とともに霊元院歌壇の中心的歌人の一人として活躍した。作品・著書としては元禄一五(一七〇二)年の「百首歌」、宝永二(一七〇五)年の「到着百首歌」、寛文一二(一六七二)年の「高雄紀行」などがある、と注しておいた。時代的に本篇はこれよりずっと後のことであり、彼は以下の後水尾天皇の存命期と一部重なるから、取り敢えずは無意味ではあるまい。

「後水尾院」(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年/在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)は江戸初期の天皇。幕府開府は慶長八年二月十二日(一六〇三年三月二十四日)。

「廊の間」内裏内の廊下に囲われた坪庭か。

「近衞殿」五摂家の一つ。通称「陽明家(ようめいけ)」。藤原北家近衛流嫡流。摂関家には二流あるが、近衛流は藤原忠通四男を、九条流は同六男を祖としている。五摂家の中で初めて藤氏長者を務めたのも、この近衛流である。]

2021/02/18

甲子夜話卷之六 26 誠嶽公、誓詞血判のときの御敎訓

 

6-26 誠嶽公、誓詞血判のときの御敎訓

誠嶽君【諱、誠信。肥前守。】、淸に謂給ひしは、

「我は御代替の誓詞を、兩度まで、老職の邸にて、爲たり。其時、坐席に小刀を用意してあるが、其小刀にて指を刺せば、出血、こゝろよからずして、血判、あざやかならず。因て、大なる針を能く磨き、懷中して、是にて其事を遂たり。又、豫め、膏藥を懷にし、事、畢れば、乃、これをつけたり。」

と、の給ひたる故に、淸も當御代替の誓詞のときは、誨の如く、針を以て指を刺たるに、快く血出て、血判の表も、恥しからざりし。

 其席を退きて、血流、止らざりければ、卽、右を以て、用意したる膏藥を疵口につけたれば、血止りぬ。慈敎、かたじけなきこと也。

■やぶちゃんの呟き

「誠嶽君」(せいがくくん)「諱」(いみな)「誠信」「肥前守」松浦誠信(まつらさねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)。肥前国平戸藩第八代藩主。従五位下・肥前守。本書の筆者同第九代藩主静山(本名・清(きよし))の祖父。静山の父は誠信の三男政信で宝暦七(一七五七)年に兄で嫡子であった邦が早逝したため、代わって嫡子となったが、彼も結局、家督を継ぐことなく、明和八(一七七一)年に三十七歳で亡くなってしまったことから、祖父の命によってその長男であった清が嫡子となった。因みに、静山(清)の十一女愛子は中山忠能に嫁し、慶子を産んだが、この慶子は明治天皇の母であるから、静山は実は明治天皇の曾祖父なのである。

「御代替」「おだひがはり」。

「兩度」実子政信に譲るために事前に書き置いのが一度、静山に譲るために二度ということであろう。

「淸も當御代替の誓詞のとき」静山は文化三(一八〇六)年、数え四十七で三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した。なお、本書はそれから十五年後の文政四(一八二一)年十一月甲子の日(十一月十六日:グレゴリオ暦十二月十日)の夜に執筆を開始したことが、書名の由来とする。

「誨」「をしへ」。

「血流」「けつりゆう」。

「慈敎」「じきやう」。

芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3) 四通

 

大正二(一九一三)年八月二十九日・井川恭宛(封筒欠)

 

廿二日に東京へかへつて來た

どこの海水浴場でも八月の廿日になると客がぐつとへる 江尻もさうだつた それから廿日海水浴場で一中にゐる知り人にあつた 其人が明日かへると云ふのをきいたら羨しくなつた

それから丸善から本が來たしらせがうちからあつた

そんなこんなで急にかへる氣になつた 東京へかへつたら大へんうれしかつた 露の多い夕がた新橋の停車場を出て大な CARPET-TRANK をさげたまゝ電燈の赤みがかつた黃色い灯 瓦斯の白けた黃色い灯が錯落とつゞくのをみた時の心もちは未にわすれられない 矢張〝東京の小供〟の一人なんだらう

それから今日迄例の通り漫然とくらしてゐる 本も少しよんだ 午睡は大分した

其後君の方はどうきまつたかね

こつちでは君のまた東京へくると云ふ事が大分評判らしい 昨日谷森君にあつたらさう云つてた へえさうかねと感心してきいて來た 谷森君の話しではもう來るときまつた樣な事だつたが愈さうなつたのだらうか

この間の歌は面白かつた 湖の歌の始の方の五首「DIAN に」[やぶちゃん注:欧文は明らかに右に寄っている。]の六つが殊によかつた「霧靑む」「もの狂」は少し明星すぎる あの六首の外に「さりとては」「國引きに」「追分の」「とほじろく」がいゝ「あきらめの」の賛成だ

どつちにしても九月の初旬には君にあへる事と思ふ

 

  追憶二章

   I 外

今日もまた黃なる雲ゆく桐の木の葉かげにひとりものを思へる

車前草のうす紫の花ふみてものを思へば雲の影ゆく

小使部屋の外バケツの中に植ゑられしダリアの花の赤きが悲し

   Ⅱ 内

敎科書のかげにかくれて歌つくるこの天才をさはなとがめそ

禿頭のユンケルこそはおかしけれわが歌を見て WAS? ととひける

首まげてもの云ふ時はシーモアもあかき鸚鵡の心ちこそすれ

   秋

埃及の靑き陶器の百合模樣秋はつめたくひかりそめける

秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

額ぶちのすゝびし金をそことなくほの靑ませて秋は來にけり

銀座通馬車の金具のひゞきより何時しか秋はたちそめにけむ

仲助の撥のひゞきに蠟燭の白き火かげに秋はひろがる

秋風は淸國名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

 廿九日朝              龍

恭 君 案下

 

[やぶちゃん注:既注の清水の新定院(その近くの海水浴場「江尻」も既注)での静養から新宿の自宅へ帰っての一通。短歌は底本では前書を含めて全体が三字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて、総て行頭まで引き上げた(以下の書簡でも同じ)。

「CARPET-TRANK」絨毯地を張ったトランク。龍之介(満二十一)、なかなかお洒落だ。

「谷森」谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。一高への入学は芥川龍之介の入学の前年であるが、同期となった。非常な勉強家で卒業時の成績は官報によれば、井川・芥川に次いで三番で、東京帝大入学後は国史学を専攻し、大正五年七月に論文「検非違使を中心としたる平安時代の警察状態」を提出して東京帝国大学文科大学史学科を卒業、その後、東大史学会委員として編纂の任に当たり、優れた平安時代研究をもものしたが、惜しくも、結核のために満二十八で夭折した。芥川龍之介との交流を考証したものは、高重久美(くみ)氏の論文「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介 ―第一高等学校時代の交友と文学(大阪市立大学国語国文学研究室文学史研究会『文学史研究』二〇一七年三月発行。PDFでこちらで読める)が恐らく唯一である。

「もう來るときまつた樣な事だつたが愈さうなつたのだらうか」これを読むに、井川はかなり進学に悩んだことが判り、龍之介は彼が戻ってくることに、内心、喜んでいたことが抑制しながらも、字背に読める。ここで後に掲げる同年九月十三日附の井川宛書簡で、それが空喜びに終ることを知らずに。

「湖」宍道湖であろう。

「DIAN」不詳。

「ユンケル」既出既注。一高のドイツ語のドイツ人講師。

「WAS?」ヴァス。ドイツ語で「何?」。

「シーモア」既出既注。一高の英語のイギリス人講師。

「仲助」不詳。「なかすけ」で歌舞伎役者三代目中村仲助か。]

 

 

大正二(一九一三)年九月五日・新宿発信・藤岡藏六宛

 

君の手紙をもらつたのは四日の夜遲くであつた投函の日附は二日になつてゐるこれから返事を出したのでは間にあはないかなと思つたが兎に角出してみる半切をかひにゆくのもLETTERPAPER[やぶちゃん注:縦書。]をかひにゆくのも兩方共きらした今は億劫だから一帖一錢五厘の紙で間に合はせる

東京へかへつてから何と云ふ事なくくらした罪と罰をよんだ四百五十何頁が悉心理描寫で持きつてゐる一木一草も hero の心理と沒交涉にかゝれてゐるのは一もない從つて plastic な所がない(これが僕には聊物足りなく感ずる所なのだが)其代りラスコルニコフと云ふ hero のカラクタアは凄い程强く出てゐるこのラスコルニコフと云ふ人殺しとソニアと云ふ淫責婦とが黃色くくすぶりながら燃えるランプの下で聖書(ラザロの復活の節―ヨハネ)をよむ scene は中でも殊に touching だと覺えてゐる始めてドストイエフスキーをよんで大へんに感心させられたが英譯が少ないので外のをつゞけてよむ訣には行かないで困る ブランドはよんだかね

僕はブランドにそんなに動かされなかつた今よんだらどうだかしらないが イブセンでは僕は「人形の家」と「ガブリエルボルクマン」が一番すきだ夏休の始にヴイリエ リイル アダンの「反逆」をよんだ「『人形の家』に先つた『人形の家』」と云はれる程この戲曲は人形の家と同じ樣な題材を取扱つてゐるのが面白い一八七〇年に出たのだから「人形の家」より餘程先に(人形の家は一八七九年)性の關係の問題を捉へてゐる事になる この間近郊をあるいたもうどこにも「秋」が來てゐる玉川の河原へ來たら白い磯の間に細い草がひよろひよろとはえて黃色くくれかゝつた空に流れてゐる雲までがしみじみ旅でもしてゐるやうな心もちをよびおこさせる日野 立川 豐田――玉川の沿岸の村々は獨步のむさし野をよんでから以來秋每に何度となく行つた事がある村である柿の肌が白く秋の日に光る頃になると茅葺の庇につもる落葉の數が一日一日と多くなる村の理髮店の鏡の反射にうす赤い窓の空ではけたゝましく百舌がなき跛[やぶちゃん注:「びつこ」。]の黑犬も氣安くあるいてゆく街道の日なたには紺の手甲をかけた行商人の悠々とした呼聲がきこえる村役場の栅にさく赤いコスモスの花にも小さな墓地にさく枯梗や女郞花にもやさしい「秋」の眼づかひがみえるではないか

秋が來るのが待遠い

   秋の歌

金箔に靑める夕のうすあかりはやくも秋はふるへそめぬる

秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

秋風よユダヤ生れの年老いし寳石商もなみだするらむ

秋風は淸國名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

銀座通馬車の金具ひゞきよりいつしか秋はたちそめにけむ

鳶色の牝鷄に似るペツツオルド夫人の帽を秋の風ふく

仲助の撥のひゞきに蠟燭の白き火かげに秋はひろがる

夕雨は DOME の上の十字架の金にそゝげり秋きたるらし(ニコライ)

すゞかけの鬱金の落葉ちりしける鋪石道の霧のあけ方

やはらかき光の中にゆらめきて金の一葉のおつるひとゝき

わくら葉の黃より焦茶にうつりゆくうらさびしさにたへぬ心か

 九月五日朝             龍

藤岡君 案下

 

[やぶちゃん注:「plastic」この場合は「人工的な・不自然な・創作的な」の意か。

「カラクタア」character。

「touching」感動的。

「ブランド」ヘンリク・イプセンの一八六五年作の詩劇「ブラン」(Brand )。ノルウェーの劇作家イプセンの五幕の詩劇。主人公の牧師ブランは、あらゆる妥協を排し、「一切か無か」を信条として、ノルウェー西海岸のフィヨルドの村で、理想社会の建設に精魂を傾ける。ただ、聖書だけを心の拠り所として、自分の幸福を少しも顧みない。浅薄な村長の人道主義、財産作りに余念のない母親、さては断崖の上で踊り狂っている恋人たち、総てに彼は不満で、次第に、堕落した時代全体に戦いを挑む形となる。それでも、最後に念願の新しい教会が完成するが、その時は、既に最愛の母も妻子も総て失っていた。彼は不思議な寂しさを感じ、教会を去って、雪に覆われた山へ登ってゆくが、雷鳴と雪崩のなかに倒れて死ぬ。この作は、当時の作者の戦闘的理想主義を遺憾なく発揮した奇作として、世界を驚かし、それまで殆んど無名だったイプセンを、一夜にして世界文学の第一線に押し出した作品とされる。「ブランは最上の瞬間の私自身だ」と作者は述べている(梗概その他は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

はよんだかね

「ヴイリエ リイル アダン」サンボリスムを代表するフランスの作家・劇作家ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste Villiers de l'Isle-Adam 一八三八年~一八八九年)。「反逆」は一八七〇年初演の一幕物の戯曲‘La Révolte ’。好利を手に入れた夫に対して妻が去ることを宣言する反ブルジョア劇。

「豐田」現在の東京都日野市豊田附近(グーグル・マップ・データ)。

「ペツツオルド夫人」筑摩全集類聚版脚注によれば、『ハンカ・ペスツオルド夫人。東京音楽学校教師として声楽の指導をした』とある。ノルウェーのピアニスト・声楽家(ソプラノ)ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold 一八六二年~一九三七年)。当該ウィキによれば、『パリでフランシス・トメ』『とエリ=ミリアム・ドラボルド』『とマリー・ジャエルに、ヴァイマルでフランツ・リストにピアノを学んだ。パリに戻ると』、『同地でマチルデ・マルケージに、さらにドレスデンでアグラヤ・オルゲニ』『に声楽を学んだ。バイロイトではコジマ・ワーグナーにリヒャルト・ワーグナーのオペラについて学』び、『その後、ドイツでオペラ』「タンホイザー」の『エリーザベト役が好評を博』した。明治四二(一九〇九)年に来日、大正一三(一九二四)年まで『東京音楽学校で声楽とピアノの指導に携わった。夫はドイツの仏教研究者ブルーノ・ペツォルト』。多くの日本人声楽家が彼女の薫陶を受けた。昭和一二(一九三七)年に『心臓病のために聖路加国際病院に入院し、同年』八月に亡くなった。『死後、夫と共に比叡山に葬られた』とある。或いは、芥川龍之介は音楽会で彼女を見知っていたのであろう。

「夕雨」私は「ゆふだち」と読みたい。

「DOME」「ニコライ」東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂ニコライ堂(グーグル・マップ・データ)。「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライに由来し、正式名称は「東京復活大聖堂」で「イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂」の意である。]

 

 

大正二(一九一三)年九月十三日・京都府京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 至急・十三日 龍之介

 

敬啓

君の所から御禮狀が來たと云つて母が持つてきたからあけてみたら京都大學への轉學願と其理由書がはいつてる

多分間違だらうと思ふから早速送る いくら二度轉學するからと云つてかう迄あはてるには當るまい

序にかくが、僕のおやぢの名は道章で道昭ぢやあない 道昭では道鏡の甥のやうな氣がする

十五日からいろんな講義が始まる 英語を齋藤勇さんに敎はる 獨乙は大津さん 一體にあんまり面白くなささうだ 大學生におぢいさんの多いには驚く

時間の都合(五時迄一週中三日心理槪論がある)で曉星へも外語へも行かれない フランス語は來年迄延期しやうかとも思つてゐる

今日八木君や藤岡君にあつた

 

   そことなくさうびの香こそかよひくれうらわかき日のもののかなしみ

 

    十三日夕           龍

  井川君

 

[やぶちゃん注:「さうび」(薔薇)の〈愛人〉の喪失の苛立ちと哀しみが行間からいよよ燻ってくる。

「齋藤勇」(たけし 明治二〇(一八八七)年~昭和五七(一九八二)年)は英文学者・東京帝国大学名誉教授・国際基督教大学名誉教授・文学博士。日本に於ける英語・英米文学研究の生みの親であり、牧師植村正久に師事した敬虔なクリスチャンで日本のキリスト教界でも重鎮として信望を集めた。この当時は東京帝国大学文科大学講師嘱託に就任したばかりであった。彼は悲惨な事件で亡くなられたことを記憶している。

「大津」筑摩全集類聚版脚注は大津康とし、新全集「人名解説索引」では同人で『東大のドイツ語講師』とする。この名では大津康(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)しかいない。山梨県中巨摩郡三川村生まれで東京帝大独文科卒。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」では『学習院、第一高等学校で教鞭を執った。大正』八(一九一九)年に『ドイツに留学を命じられるが、病気になり』、『研学の中途で帰国した』とする。ところが、筑摩の脚注では卒業を『明治四十』(一九〇七)『年東大法文科卒』としている。講師であれば、履歴に出ないのは別におかしくはないが、筑摩の「法文科」は不審。当時の東京帝国大学は文科大学と法科大学に別れていたからである。

「曉星」筑摩全集類聚版脚注は、『九段にあるフランス系カトリックの学校』とする。現在の私立暁星小学校の前身であろう。現在の地番は千代田区富士見一丁目であるが、この附近は九段の旧地名との錯雑が激しい。

「外語」旧制の公立専門学校である東京外国語学校(東京外語大学の前身)。明治三二(一八九九)年に高等商業学校(一橋大学の前身)附属外国語学校が東京外国語学校と改称して分離・独立していた。

「八木」一高時代の同級生八木実道(理三)。既出既注

「藤岡」一高以来の友人。藤岡蔵六。既出既注。]

 

 

大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

大學の講義はつまらなけれど名だけきくと面白さうに思はるべく候今きいてゐるのを下にあぐれば 美學槪論、希臘羅馬文藝史、言語學槪論 支那戲曲講義 德川時代小說史 メレヂスのコミカル フイロソフイー、ゴールドスミスよりバアナアド シヨウに至る英文學上の HUMOUR、沙翁の後年期の戲曲に現れたる PLOT と性格、英文及英詩の FORM& DICTION 等に候堂々たるにあてらるゝ事と存候一笑大學程しかつめらしき顏したる馬鹿者の多き所はなかる可く候退屈なればなる可く出ずにうちでぶらぶらしてゐる事に致候

この頃ゴーチエをよみ候ゴーチエの著作は三十册に餘り候へど

CAPITAIN FRACASSE, M’D’LLE DE MAUPIN, ROMACE OF THE MUMMY の三卷のみ有名にて他は殆忘れられ居候三册共この緋天鴛絨のチヨツキを着た髮の長いロマンチシストの特色を現し居り一讀の値有之候へど殊に木乃伊のロマンスは君にすゝめたく候 三册のうちにて僕の最愛するはこれに候 短かけれどモーゼの埃及を去るに關係ある愛すべき LOVE-STORY に候

西鶴は持つて參つてもとりに御出下さつてもよろしく候

今日 YEATS SECRET ROSE を買つてまゐり一日をCELTIC LEGEND のうす明りに費し候

秋になり候

額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

秋たてば硝子のひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

「秋」はいま泣きじやくりつゝほの白き素足にひとり町をあゆむや

銀座通馬車の金具ひゞきよりいつしか秋はたちそめにけむ

埃及の靑き陶器の百合模樣つめたく秋はひかりそめける

秋風は中華名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

秋風よユダヤうまれの年老いし寶石商もなみだするらむ

鳶色の牝鷄に似るペツツオルド夫人の帽を秋の風ふく

わくら葉の黃より焦茶にうつりゆくうらさびしさに堪へぬ心か

そことなく秋たちしより蓼科の山むらさきにくれむとするらむ

みすゞかる科野(シナヌ)に入りぬつかのまもこのさびしさのわすれましさに (上二首信濃なる人に)

原がまゐり候 明日露西亞女帝號にて渡米 コロンビア大學に三年其後二年を歐大陸に費す由に候 仕立おろしの背廣か何かにて半日繪の話や音樂の話をしてかへり候 紐育でゴーガンのタヒチの女の復製があつたら早速送る由申居り難有お受けを致置候へど餘りあてにはならざる可く候

西洋へゆきたくなり候 誰か金でも出してくれないかなと思ひ候

一高へはいつた人から手紙をもらひ候 三年間の追憶がなつかしくない事もなく候もう一度岩本さんに叱られてみたい樣な氣にもなり候

禿頭のユンケルこそはおかしけれわが歌をみて WAS? ととひける

敎科書のかげにかくれてうたつくるこの天才をさはなとがめそ

首まげてもの云ときはシイモアもあかき鸚鵡のこゝちこそすれ

昔がなつかしいやうにやがて今をなつかしむ時がくるのかと思ふとさびしく候

そことなくさうびの香こそかよひくれうらわかき日のもののかなしみ

 十七日夜           ANTONIO

DON JUAN の息子ヘ

 

[やぶちゃん注:「メレヂス」イギリスの小説家ジョージ・メレディス(George Meredith 一八二八年~一九〇九年)。絢爛たるヴィクトリア朝式の文体を駆使し、ウィット溢れる心理喜劇風の作品を多く残した。代表作は「エゴイスト」(The Egoist :一八七九年)。早くに、坪内逍遙や夏目漱石が本邦に紹介し、特にその思想は「虞美人草」などの初期漱石作品に影響を与えていることが知られている。されば、この「コミカル フイロソフイー」とは、「メレディスの小説に於ける喜劇原理」という講義名であろう。

「ゴールドスミス」アイルランド生まれの詩人・小説家・劇作家オリヴァー・ゴールドスミス(Oliver Goldsmith 一七三〇年?~一七七四年)。主著に小説「ウェイクフィールドの牧師」(The Vicar of Wakefield:一七六六年:ドイツ文豪ゲーテは本作を「小説の鑑」と絶賛した)・喜劇「お人好し」(The Good-Natur'd Man:一七六八年初演)・喜劇「負けるが勝ち」(She Stoops to Conquer:「彼女は屈服して征服する」:一七七三年初演)。

「バアナアド シヨウ」アイルランドの文学者・脚本家・劇作家にして教育家・評論家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)。英語圏に於けるマルチプルな業績で知られ、社会主義者・ジャーナリストでもあった。まさにこの龍之介の書簡が書かれた同じ年、彼はイギリス階級社会への辛辣な風刺を込めた芝居「ピグマリオン」(Pygmalion)が初演(ウィーン)されている(完成は前年)。同作は後の舞台ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(My Fair Lady:一九五六年ブロードウェイ初演)及びその映画化作品の原作である。

「DICTION」語法。

「ゴーチエ」フランスの詩人・小説家・劇作家ピエール・ジュール・テオフィル・ゴーティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)。かのシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)が名詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal:一八五七年初版)を彼に献辞しており(ボードレールの死後にゴーティエは追悼文と作家論を書き、それは後の新版「悪の華」の序文ともなっている)、若き日のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が愛読して英訳も行っている作家である。以下の彼の著作は、「CAPITAIN FRACASSE」が「キャピテン・フラカス」(Le Capitaine Fracasse:「フランカッセ隊長」:一八六三年)で冒険活劇小説、「M’D’LLE DE MAUPIN」は「モーパン嬢」(Mademoiselle de Maupin:「マドモアゼール・モーパン」:一八三五年)で耽美的な書簡体恋愛小説、「ROMACE OF THE MUMMY」は「木乃伊(ミイラ)の物語」(Le Roman de la momie:一八五八年)で、彼の「死霊の恋」(La Morte amoureuse:一八三六年)ともに私の大好きな幻想小説である。

「緋天鴛絨」「ひビロード」。

「YEATS の SECRET ROSE」アイルランドの詩人・劇作家で民族演劇運動から「アイルランド文芸復興」の担い手となり、モダニズム詩の新境地を拓き、二十世紀英語文学に於ける最も重要な詩人の一人と評されるウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)の幻想作品集「神秘の薔薇」(The Secret Rose:一八九七年)。芥川龍之介は、この翌年の大正三(一九一四)年六月発行の『新思潮』(第五号。署名は目次が「柳川隆之介」、本文は「押川隆之介」)に、当該作品集中の一編である「The Heart Of The Spring」を『春の心臟』として翻訳して公開している。新字正仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。これは翻訳であるが、その《老い》というモチーフに於いて、芥川龍之介の処女小説である「老年」(リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)や、初期習作である「風狂人」(リンク先は私の「《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)」で注釈附き)との強い連関が認められる。しかし、龍之介にとっては、《老い》が、常に《死》への願望傾斜と、その反発への振り子の釣り合い点を示すテーマとして、終生、纏わりつき続けたのであり、このテーマは初期の彼の文学のみでなく、芥川龍之介文学という一体全身を精緻に銀のピンセットで解剖する際の重大なマーカーの一つであると私は思っている。

「CELTIC LEGEND」ケルトの伝説。

「うす明り」芥川龍之介は別に、やはりイエーツの「The Celtic Twilight」の抄訳(芥川龍之介によるコメント附き)翻訳『「ケルトの薄明」より』(大正三年四月『新思潮』第三号。署名は「柳川隆之介」)がある(リンク先は新字正仮名の「青空文庫」版)。

秋になり候

「みすゞかる科野(シナヌ)」「水篶〔みすず〕かる信濃」「水篶〔みすず〕かる」は信濃の枕詞(但し、近世以降)。「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 いはな」の私の注の冒頭の太字部分を参照されたい。「信濃」の原型「科野」の表記は「古事記」に現われ、その初期の読みも「しなぬ」である。

「信濃なる人」不詳。二人の可能性までは考えたが、特に示す必要はなかろう。

「原」原善一郎(明治二五(一八九二)年~昭和一二(一九三七)年)三中の一年後輩。神奈川県生まれ。横浜の大生糸商・貿易商であった原富太郎(号・三渓)の長男として生まれた。三中から早稲田高等学院に進み、そこを卒業したこの年、アメリカのコロンビア大学に留学した。祖父の原善三郎の養子となり、原合名会社副社長となり、家業を継ぐ一方、横浜興信銀行・「帝国蚕糸」の重役を務めた。他にも美術・文学の後援者としても知られ、岸田劉生・阿部次郎・和辻哲郎・安倍能成とも親交があった。ここでは龍之介が彼に羨望の眼を向けつつも、かすかにその軽薄な感じを蔑視している雰囲気が感じられる。「西洋へゆきたくなり候 誰か金でも出してくれないかなと思ひ候」とは、龍之介が実は生涯感じ続けたならぬ夢だったのである。せめても彼に舞い込んだのは、「毎日新聞社特派員」としての中国への旅だけであった。

「露西亞女帝號」不詳。エカテリーナが一番しっくりくるが。当時の日米航路の船名には見当たらない。

「岩本」一高のドイツ語及び哲学担当の教授岩本禎。既出既注

「ANTONIO」何となく「AKUTAGAWA」のアナグラムっぽい感じはする。

「DON JUAN の息子」ドン・ファン(スペイン語:Don Juan:十七世紀のスペインの伝説上の人物で、ティルソ・デ・モリーナ(Tirso de Molina 一五七九年~一六四八年)の戯曲「セビリアの色事師と石の客」(El burlador de Sevilla y convidado de piedra:英訳 The Trickster of Seville and the Stone Guest )が最も完成した基原作。美男で好色な放蕩的な人物として多くの文学作品に描かれ、「プレイボーイ」「女たらし」の代名詞としても使われる(「ドン」はスペイン語圏等における男性の尊称))。]

只野真葛 むかしばなし (14)

 

 袖崎は、小鳥おほく渡る所故、「はご」を揚げて【「はご」とは、かれ枝へもちを付て、鳥をとる物なり。】[やぶちゃん注:原割注。]小鳥を取り、よき鳥かゝれば、かい[やぶちゃん注:ママ。]鳥に被ㇾ成しとぞ。

「其中に、雀のおほきさにて、毛色うつくしく、八寸ばかりなる先に、玉の付たる尾、一本有(ある)鳥、かゝりしが、誰も名をしらず、前町の鳥屋にて餌付させしが、餌つかずして、おちたり。をしきこと、めづらしき鳥。」

とて、ばゞ樣、ふだん被仰出し。

 又、大嵐のしたるあした、髮毛の大こゞり一、緣側のはしに、ふきいれて有しを、御覽被ㇾ成しに、四十からの巢にて有しとぞ。子は三十ばかり入て、はや、巢立ちぎわなりし故、すり餌にて御やしない被ㇾ遊しに、口を明(あけ)て、まちくひしほどに、みな、巢だちたり。あまり數おほき故、はなせしに、羽に任せて、とびさりしかども、分(わけ)て、かしこく、なれたる鳥、五羽ばかり有(あり)て、餌を、はみにきたり。かごを明ておけば、入て、とまりし。後(のち)は來ずなりし。中にたゞ一羽、かごの戶を明ておけば、晝は、あそびありきて、夕がたには、入(いり)てふす鳥、有し。殊外、ふびんにおぼしめされしを、

「ある夕方、戶をたてぬ間に、猫にとられて、惜しかりし。」

と被ㇾ仰し。

 ぢゞ樣、籠かひにてならされし鶯の、聲よき有しを、夜中、戶をやぶりて、猫のとりたること有し。ぢゞ樣、腹たてられて、父樣に、

「其猫、とらへよ。」

と被仰付し故、撒餌《まきゑ》に、すかして、八疊敷の間へ、たてこめて、人、みたりばかり入て、とらへんとするに、中々、手にいらず。柱づたひに天井の筋をわたるを、打おとしたれば、ふと、見うしなひたり。

 黑ぶちの猫なりしが、人々、あきれて有しが、持たる手燭の下の影のなかに、身をちゞめてはひまわるを、父樣、ふと、御見付、

「それ、そこに。」

と聲かけらるゝやいなや、はしり出たり。

「人のすきをはかりし所、つねていの猫ならず。」

と被ㇾ仰し。ふすまをほそく明たれば、にげんとしたる時、

「ひし」

とたて付て、おさヘたりしを、ぢゞ樣、

「爰へ。」

と被ㇾ仰し故、父樣、御そばへ御持出、かたく、おさへて、いらせられしを、ぢゞ樣、頭へたゞ一ツ、しつぺいを御あて被ㇾ成、

「それ。すてよ。」

と被ㇾ仰し故、御覽ありしに、かしらの骨、ことごとく、くだけて有し。

「ぢゞ樣武藝の御手ぎわ御覽有しは、是ばかりなり。『とつほうの當り』とかいふ手なり。」

と、ばゞ樣、御はなし被ㇾ成し。

[やぶちゃん注:「はご」木の枝や竹串に鳥黐(とりもち)を塗布して鳥を捕獲する猟具。二種あり、一つは囮(おとり)の鳥を入れた鳥籠を高所に配しておき、それに惹かれて近づいてきた鳥を当該具で捕獲するのを「高はご」と称し、多数の「はご」を配置して捕獲するものを「千本はご」と称した。

「雀のおほきさにて、毛色うつくしく、八寸ばかりなる先に、玉の付たる尾、一本有(ある)鳥、かゝりし」スズメ目レンジャク科レンジャク属ヒレンジャク Bombycilla japonica が候補になるか。体長は約十八センチメートル、翼開長は約二十九センチメートル。♀♂ともにほぼ同色で、全体的に赤紫がかった淡褐色を呈するが、頭や羽などに特徴的な部位が多い。顔はやや赤褐色みを帯び、尖った冠羽、冠羽の縁まで至る黒い過眼線、黒い咽喉(♀は黒斑の下端の境界が曖昧)などをである。初列風切は黒褐色で、外弁は灰色、♂は白斑があるが、♀は外弁にのみ、白斑がある。次列風切に灰色で先の方は黒色、先端部は赤く、大雨覆の先端は暗赤色。腹は黄色みを帯び、腰から上尾筒は灰色、下尾筒は赤、尾は灰黒色で、先端に赤色をポイントする。シベリア東部・中国北東部のアムール川・ウスリー川流域で繁殖し、越冬地に日本が含まれ、沖縄県中部より北の地域で十一月から五月にかけて滞留する。東日本に多いキレンジャク(Bombycilla garrulus:羽の先に赤い蝋状突起を持つ)に対して、ヒレンジャクは西日本に多く渡来する(さすれば、江戸では珍しく、鳥屋が知らなくても不審でない)。参照した当該ウィキ画像(♂であろう)をリンクさせておく。

「前町」不詳。現在の西大井一は旧大井森前町(それ以前は大井町字森前)であったが、ここかどうかは不明。工藤の屋敷のある品川袖ヶ先(東京都品川区東五反田附近。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)及びその南東直近の現在の品川区東大井にあった仙台藩下屋敷との位置関係からは、こことしても腑には落ちる。

「おちたり」とまり木から落ちる。死んだことの忌み詞。

「髮毛の大こゞり一」髪の毛の大きな堅く固まったものが一つ。実際の髪の毛であったどうかは判らないが、そうであったとしてもおかしくはない(次注参照)。

「四十から」スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属シジュウカラ亜種シジュウカラ Parus minor minor 。同種は樹洞やキツツキ類の開けた穴の内側などに♀が主にコケを組み合わせ、覆うように獣毛やゼンマイの綿・毛糸などを敷いた椀状の巣を作り、本邦では四月から七月に、およそ七~十個の卵を年に一、二回に分けて産み、♀のみが抱卵し、抱卵期間は十二~十四日で、雛は孵化してから十六~十九日で巣立つ。参照した当該ウィキ画像(♀)と、グーグル画像検索「シジュウカラの雛」をリンクさせておく。

「子は三十ばかり入て」上記の一般から見ると多い。

「しつぺい」「竹篦」(しっぺい)。通常は禅宗で師家が参禅者の指導に用いる法具。長さ六十センチメートルから一メートル、幅三センチメートルほどの割り竹で作った弓状の棒。グーグル画像検索「竹篦」をリンクさせておく。

「とつほうの當り」「突放の當り」であろう。]

怪談登志男 廿七、麤工醫冨貴 / 怪談登志男~全電子化注完遂

 

    廿七、麤工醫冨貴(へたいしやのふうき)

 世のなかに怪しき事は、さらになし。

 「これも此理(り)、彼(かれ)も此理」と、理屈いふ人もあれど、心を付て見るに、さりとては、怪しき事も、おほき物なり。

 まづ、第一に聖賢の書を人に敎へ、「先生」とあがめらるゝわろを、中の町で、時々、見懸る。最(いと)怪(あやし)ならずや。

 出(で)る息、入間(いるま)もまたず、

「ああ、悲しひかな、ばせを。泡沫(ほうまつ)の此身。」

と、婆(ばゝ)・嚊(かゝ)には、無常を說ひて、氣をへらさせ、我は、五、六ねんもかゝる無盡(むじん)、企(くわたて)る和尙、又、怪しむべし。

 娘に、豐後ぶし、習はせて、駈落・心中を、すゝむる親、大に、怪し。

 女房が、羽織、着て、夜の内から、物參りするを、鼻毛(はなげ)延(のば)して、見て居る夫(おつと)。

 伊勢講・太々講に、三社(しや)の託、懸(かけ)て置(おい)て、博奕(ばくゑき)する、やから。

 神を馬鹿にした、せんさく、甚、怪しむべし。

 律義如法(りちぎによほう)なおとこが、貧苦に迫りて、身を投(なげ)て死んだと、邪見非道な奴が、家を買(かふ)て、長生(ちやうせい)するのと、何(いつれ)も、怪しむべし。

 亦、亡八(くつは)が、經書の講談、聞に、朱硯(しゆすゝり)、懷(ふところ)に入てあるくは、綠林(りよくりん)に伯夷(はくゐ)を祭るがごとし。最、怪しむべきの、甚しきなり。

 其外、高利(かうり)金借(か)しながら、後世[やぶちゃん注:「ごぜ」。]、ねがふ親仁。魚(うを)喰(くは)ぬ法師。意地のよい座頭の坊。念仏坂に住居する法華宗など、一々、かぞへも盡(つく)されず。

 怪しむべき物、いかほどもあるべき中に、極めて怪しかりしは、いにしへ、寬文[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の頃にや、都の町に「やはら道順」と異名せし、下手醫者(へたいしや)、住(すみ)けり。

 抑(そもそも)、「やはら」と號する事は、「かゝると、なげる」といふ心にや、又、別号を「岡崎先生」と云ける。其意は、「ゆふベも殺して、又、殺した」と、歌から出たる名なりけり。

 されども、怪しむべきは、ある大家(け)の出頭人(しゆつとうにん)の、風ひきたるに、ふと、賴まれて、「香蘇散」二ふくで、忽、平癒せしより、一家中へ推擧(すゐきよ)せられ、程なく、扶持人[やぶちゃん注:「ふちにん」。]と成すまし、日々に仕合[やぶちゃん注:「しあはせ」。]つのりて、六枚肩の乘物、六尺に、尻、ふらせて、飛あるき、夏も、「ほうろく頭巾」で、かさ高に出かけ、歷々の良醫を、下目に見こなし、橫平(おうへい)にあひしらへど、時の勢(いきほひ)、いかんともしがたく、幼年より、學問の功を積て、内經の奧旨(あうし)にも通ぜし醫者も、座を讓て、下に屈(かゝみ)、平(ひら)がな付の囘春(くわいしゆん)、漸(やうやう)、讀(よめ)れど、段々と、冨榮(とみさかへ)て、次第に、一家も廣く、「御(おん)」の字の「大醫」と、もてはやされ、むかし、煉藥(ねりやく)の押賣せし事をも忘れ、盛殺(もりころ)せし、そこばくの幽靈共も、恨[やぶちゃん注:「うらみ」。]をもなさで、只、寺町を通る時、

『あの寺にも、此寺にも、我手にかけし人の、石塔、あるべし。』

と、心底には、少し、氣の毒もありしが、一生、ゆたかに暮して、終わりぬ。

 また、緒方玄仲(おがたげんちう)とかやいひし人は、形こそ「新竹齋(ちくさい)」の繪に其儘なりしが、醫學の淵底(ゑんてい)を極め、儒學は闇齋(あんさい)の門人、療治功者(りやうじかうしや)の甲斐もなく、一代、妻子もなく、僕(こもの)一人、使ひて、本所の片土(へんど)に埋(うづ)もれ果(はて)、今は名をしる人も、なし。

 德ありて、斯(かく)、埋(うづ)もれ、無能にて、道順が榮へたりし。

 ともに、あやしき事なり。

 一つ眼(まなこ)・見越(みこし)入道のみ、怪しむべきに、あらず。

 いにしへも顏囘(かんくはい)のびんぼう、盗妬(とうせき)が幸(さいはい)、あやしく、心得がたき事なり。

 これをおもへば、此篇にしるせし數々の妖怪(はけもの)は「誠に怪し」とするに、たらず。

 これを見ん女中も童(わらべ)も、さのみ「怖(こは)し」と、おもひ給ひそ。

 白晝(はくちう)の化(はけ)ものにこそ、油斷したまはざれ、と、慙雪舍(さんせつしや)の閑窻(かんそう)に、筆をなげて、やすみぬ。

 

 

怪談年雄德巻㐧五大尾

[やぶちゃん注:「わろ」「和郞」。野郎。奴。人を罵って言う語。

「中の町」江戸深川の地名。現在の東京都江東区門前仲町(グーグル・マップ・データ)。富岡八幡宮の門前町で、江戸時代には茶屋が多くあった。後継される筆者の草庵も近く、そうした鼻につく連中のいるロケーションとしても腑に落ちる。

「ああ、悲しひかな、ばせを。泡沫(ほうまつ)の此身」世阿弥の改作かとされる謡曲「葵上」(シテは「六条御息所の生霊」)の一節。冒頭のサシの『凡そ輪𢌞は車の輪の如く 六趣四生を出でやらず 人間の不定(ふじやう)芭蕉(ばせを)泡沫(はうまつ)の世の慣らひ 昨日の花は今日の夢と 驚かぬこそ愚なれ 身の憂きに人の恨みのなほ添ひて 忘れもやらぬわが思ひ せめてや暫し慰むと 梓(あづさ)の弓に怨靈の これまで顯はれ出でたるなり』。

「無盡(むじん)」「無盡講」。「賴母講」(たのもしこう)とも呼ぶ。相互に金銭を融通し合う目的で組織された講で、世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って、定期的に集会を催し、籤(くじ)や入札(いれふだ)などの方法によって、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、当初は無利子・無担保であったが、掛金を怠る者があったりした結果、次第に利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後でも近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間で普通に行なわれ続けた。

「豐後ぶし」既出既注。豊後節は三味線楽曲の一流派。哀艶で扇情的な傾向を強く持ち、特に心中物を扱い、一時期、江戸で大流行した。

習はせて、駈落・心中を、すゝむる親、大に、。

「女房が、羽織、着て、夜の内から、物參りするを、鼻毛(はなげ)延(のば)して、見て居る夫(おつと)」「鼻毛を伸ばす」とは「女の色香に心を奪われてだらしなくなる」ことを謂う。ここは言わずもがなであるが、女房の夜の物詣でに不倫密通を嗅ぎだせない夫の愚鈍さにとどめを刺している。

「伊勢講・太々講」下は「だいだいこう」と読むが、これらは同じもの。伊勢参宮を目的とした講で、旅費を積み立て、籖で代表を選んでは、交代で参詣した。太太神楽 (だいだいかぐら:伊勢神宮に奉納される太神楽の中で最も大がかりな神楽のこと) を奉納することから「(伊勢)太太講」とも呼ばれた。中世末より近世にかけて盛んに行われた。

「三社(しや)」伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社(或いは春日大社)。

「託」神に神聖な祈誓をして願掛けを託すること。その核心は博奕で大儲けすることしかないという為体を指す。

「神を馬鹿にした、せんさく」特に仏・菩薩を本地として、日本神話の神を垂迹とする仏教側の本地垂迹説に拘る、仏教宗派のファンダメンタリストの神道批判であろう。

「亡八(くつは)」ここは遊女屋の主人の異称。昔の江戸初期に大橋柳町(京橋)に女郎屋あった頃、十文字に町を開削して家作りをしたため、その頃、「轡丁」(くつわちょう)と呼んだことに由来する当て訓。「亡八」は「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの徳目総てを失った者の謂いから、遊廓(くるわ)通いをすること、その者。転じて遊女屋及びその主人をも指した。女郎屋の主人は学識・文才のある者も多かった。

「綠林(りよくりん)に伯夷(はくゐ)を祭るがごとし」伯夷(歴史的仮名遣は「はくい」でよい)は「史記」列伝第一に挙げられた殷末周初の伝説上の人物。孤竹君の子。国君の後継者としての地位を弟の叔斉(しゅくせい)と譲りあって、ともに国を去り、周に行った。後、周の武王が暴虐な天子紂(ちゅう)王を征伐しようとした際、父の喪が明けていないことと、臣が君を弑(しい)するのは人道に反するとして、諌めたが、聞き入られなかったため、二人とも武王の元を去り、首陽山に隠れ、やがて、食べるべき草がなくなっても山を下りず、遂に餓死したと伝えられ、二人は中国史における最も清廉な人間のシンボルとされる。その彼を豊饒の緑なす林に祀るといのはお門違いの際たるものである。

「高利(かうり)金借(か)しながら、後世、ねがふ親仁」我利我利亡者は地獄決定(けつじょう)。

「魚(うを)喰(くは)ぬ法師」よく判らないが、ある意味、人(の葬式)で食っている罪深い存在である僧侶の中に、魚は殺生となるとして食べないという者がおり、中途半端なそれを筆者はせせら笑ったものであろう。蠅・蚊・蚤・虱を殺さずに生きることは所詮、不可能であるからねぇ。

「意地のよい座頭の坊」江戸時代の検校は盲官を金で買うために、非常な貯蓄や高利の金貸しをすることで悪名が高かった。さればこそ「人間として人格の優れた座頭や検校」というのは、あり得ないものの代名詞であったものであろう。

「念仏坂に住居する法華宗」法華宗=日蓮宗は仏教内でもファンダメンタルな存在として知られる(特に日蓮宗徒でない者との相互の布施を完全拒絶した「不受不施派」は江戸時代を通じて禁教であった)が、確かに「念仏坂」という名の坂の途中に日蓮宗寺院があったら、これはもう、吹き出さざるを得ない。というより、天皇の日蓮宗化を今や外してしまった現代の日蓮宗や創価学会は宗祖の基礎基本理念に反したものであるのを、どう鳧をつけるのかと私は強く言いたい。

「やはら道順」不詳。筆者が最後の最後で、最早、怪談から完全に脱線して怨念さえ感じる語り口で述べ始めるこのヘボ医者、実在していないと、おかしいと思うんだが? どなたか、モデルでも結構です、お教え下され!

『「やはら」と號する事は、「かゝると、なげる」といふ心にや』最後の最後にしっかり笑かして呉れる。この名前自体が嘘臭い気はするね。「柔」道だもの。彼の診断に「かかると」、即、彼は文字通り、匙を「投げる」というわけ。

「岡崎先生」『其意は、「ゆふベも殺して、又、殺した」と、歌から出たる名なりけり』これは全く原拠が判らない。お手上げである。識者の御教授を乞う。当初は、私の好きな浄瑠璃「伊賀越道中双六」の「岡崎の段」を直ちに想起したのだが(私の劇評『平成25(2013)年9月文楽公演 竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言「伊賀越道中双六」』参照)、同作は天明三(一七八三)年四月大坂竹本座初演で、安永五(一七七六)年十二月に大坂嵐座で上演された奈河亀輔作の歌舞伎を翌年三月に大坂豊竹此吉座で人形浄瑠璃化した当り作「伊賀越乗掛合羽(いがごえのりがけがつぱ)」の改作で、本書(寛延三(一七五〇)年板行)より後であるから、話にならないことが判った。或いは、「伊賀越乗掛合羽」の元になった本編よりも前の作品があるのかも知れないが、私はその辺りに全く冥いので、解明する事が出来ない。

「出頭人(しゆつとうにん)」室町時代から江戸初期にかけて、幕府又は大名の家で、主君の側近にあって政務に参与すした者。「三管領」・「四職」・「奉行」・「老臣」などが含まれる。後代、それから転じて、「主君の寵愛を得て権勢を揮っている者」をも指すようになった。

「香蘇散」宋代に編纂された医学書「和劑局方」(一一〇七年)に初出する薬方。構成生薬は香附子(こうぶし)・蘇葉(そよう)・陳皮・生姜・甘草で、名は主薬である香附子と蘇葉から。普段から慢性的に胃腸が優れず、気分もよくない人が、頭痛・発熱・悪寒などの風邪症状がある際に用いる。体表から病邪を汗で除く発表剤(はつひょうざい)として風邪の初期に服用され、そうした風邪の初期の他、腹痛を伴う風邪・気鬱や血の道証(どうしょう:肩こり・耳鳴り・頭痛など)・蕁麻疹・神経衰弱にも適応される(「内外薬品株式会社」のこちらを参照した)。

「六枚肩」(ろくまいがた)「の乘物」六人の駕籠舁きが交代で駕籠を舁くこと。また、その大型の駕籠。

「六尺」輿や駕籠を担ぐ駕籠舁き人足の異名。「陸尺」とも書く。これは「力者(りきしゃ)」が転訛したものとされ、肩から模様のある長袖の法被を着していた。他に古代中国の天子の輿が六尺四方だったからとか、駕籠舁きには長身の者が求められ、六尺(百八十二センチメートル)に及ぶ大男たちが務めたからという説もあるという。

「ほうろく頭巾」「焙烙頭巾」。歴史的仮名遣は「はうろくづきん」が正しい。既出既注だが再掲しておく。焙烙の形をした丸い頭巾。僧や老人が多く用いた。「大黒頭巾」「丸頭巾」「錣(しころ)頭巾」とも呼ぶ。グーグル画像検索「焙烙頭巾」をリンクさせておく。

「橫平(おうへい)」「橫柄」。歴史的仮名遣は「わうへい」或いは「あふへい」。元は「おしから(押柄)」の音読からかとされ、「いばって人を無視した態度をとること・無礼無遠慮なこと」。「大柄(おほへい)」ともかく。

「内經」「黃帝内經」(くわうていだいけい(こうていだいけい))のこと。中国の古典医学書で、戦国時代から秦・漢にかけて医学文献を集大成したものとされる。現存本は「素問」(そもん)と「靈樞」(れいすう)に分けられ、黄帝と岐伯(きはく)・雷公らとの問答形式で生理・病理・診断法・治療法を述べてある。

「平(ひら)がな付の囘春(くわいしゆん)」十六世紀後半に当寺の中国伝統医学であった〈李朱医学〉に於いて漢方などを用いた、所謂、〈回春剤〉の処方を纏めた「万病回春」という医学書(宮廷御典医龔廷賢(きょうていけん)著)で、同書は江戸初期に著者の弟子であった戴曼公(たいまんこう)が来日して、当該書を最初に紹介し、日本全国に広めたという。

「緒方玄仲(おがたげんちう)」不詳。全く資料に掛かってこない。仮名にしてあるか?

「新竹齋(ちくさい)」浮世草子。西村市郎右衛門未達作。貞享四(一六八七)年板行。滑稽な遍歴紀行物。

「闇齋(あんさい)」江戸前期の儒学者・神道家山崎闇斎(元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年)。諱は嘉。朱子学の一派〈崎門学(きもんがく)〉や、神道の一派〈垂加神道〉の創始者として知られる。

「顏囘(かんくはい)」(紀元前五二一年?~紀元前四九〇年?)は孔子と同じ魯の生まれで、孔子が最も愛した第一の高弟。貧しかったが、孔子の教えを心から楽しんだことで知られる。歴史的仮名遣は「がんくわい」が正しい。

「慙雪舍(さんせつしや)」本書の原型「怪談實妖錄」を書いたとされる慙雪舎素及子(ざんせつしゃそぎゅうし:以下の「後序」にも名が出るが、その歴史的仮名遣は「そぎふし」が正しい)。詳細事績不詳。]

 

 

   後序

「怪談實妖錄」は、素及子(そぎうし)の著(あらは)す所、皆、近世の事實にして、其卷(まき)は秋の野の千艸(ちくさ)より多く、その文は、夏山の茂りより、增りぬれば、讀者(よむもの)、睡(ねむり)を引の媒(なかたち)となれるを、あたら、櫻の咎(とが)にもならじと、こゝかしこの要(かなめ)を摘(つまん)で、扇橋(あふぎばし)の草庵に綴り、師の房(ほう)が忍ぶの岡の隱(かくれ)家に外題(げだい)を求つ。   好話門人 靜話房書

 

  寬延三正月吉祥日

 ○年雄德後篇(としおとこかうへん)五冊後ゟ出戶候

 

         東都書林

          通油町

            須原屋太兵衞板

 

[やぶちゃん注:最後の底本奥附は殆んどのポイントが大きいが、総て同じにした。

「櫻の咎(とが)」西行の「山家集」の「上 春」にある(八七番)、

    閑(しづ)かならんと思ひける頃、

    花見に人々まうできたりければ

 花見にと群れつゝ人の來るのみぞ

   あたら櫻の科(とが)には有(あり)ける

   *

で、世阿弥の謡曲「西行櫻」にも引かれる知られた一首である。

「要(かなめ)を摘(つまん)で」以下の「扇橋」の「扇」の要に掛けたもの。

「扇橋の草庵」筆者静観房静話(じやうくわんばうじやうわ(じょうかんぼうじょうわ))のそれ。深川扇橋町(おうぎばしまち)にあった。現在の江東区白河四丁目・三好四丁目・平野四丁目相当。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「師」冒頭注で述べた、談義本の創始者として知られ、本篇の「序」もものしている静話静観房好阿(こうあ)のこと。

「忍ぶの岡」東京都台東区の北西部にある上野台地(忍の森・上野山)の旧称。江戸時代は東叡山寛永寺の境内で、現在の上野公園。

「求つ」「もとめつ」。

「寬延三庚午」(かのえうま/こうご)一七五〇年。

「年雄德後篇」「五冊」「後ゟ出戶候」(「あとより、とをいでさふらふ」か。「後から続いて刊行致します」)しかし、残念ながら、この後篇は出版されていない。

「通油町」(とほりあぶらちやう)は現在の中央区日本橋大伝馬町(グーグル・マップ・データ)。

 最後に。本書は前半の、まことにオリジナリティに富んだ怪談の、絶妙なキレの割には、後半、急速に凋んで、先行作品の使い回しが激しくなってしまうのが、まことに惜しい気がしている。筆者の内実に何か大きな変化があったように思われてならない。かく変質してしまっては「後篇」自体出ようがない。出さなくてよかった。

2021/02/17

怪談登志男 廿六、天狗誘童子

 

   廿六、天狗誘童子(てんぐ、だふじを、さそふ)

 過し寶永年中[やぶちゃん注:一七〇四年~一七一一年。]の事とぞ。

 讃岐國羽床(はゆか)の近所の百姓、父にはなれ、母ばかりありしが、ある時、隣(となり)村に用事ありて、立出しに、あるべき路(みち)をゆかで、麥畑の中をはしり行。

 見る者、怪しび、

「いかに、左は[やぶちゃん注:「さは」。]猥(みだ)りなる事をするぞ。人の畑も、己(おのれ)が畑も、皆、荒して、何事をか、なすぞや。」

と口々に呵(しか)りけれど、真直(まつすく)に分入しが[やぶちゃん注:「わけいりしが」。]、終(つゐ)に、形を見うしなひぬ。

 皆々、驚き、此由、母に告ければ、大に悲しび、走り𢌞、泣さけべど、甲斐なし。

 せんかたなけれども、

「せめても、母が心を慰めん。」

と、村中の者共、每夜、鉦(かね)・太鼓をならして、

「返せ。返せ。」

と、よばはりあるけど、いたづらに日をつゐやし、村中、これが爲に、つかれたり。

 ある時、國分寺の觀音堂の後拜(ごはい)の上に、彼(かの)わらは、忽然として、立居たり。

 人々、あはてさはぎて、漸々(やうやう)として、抱下たれど[やぶちゃん注:「いだきくだりたれど」。]、四、五日が程は、物もいはで、正氣、さらに、なかりけり。

 やゝ、程經て、人心つきぬ。

 人々、取かこみて、

「はじめ、麥畑に走り入し時は、いかに。」

と問へば、

「山臥[やぶちゃん注:「やまぶし」。]二人、來りて、我手を取て、息つかせず、走りしなり。其後、あなたこなたと𢌞りて、近き頃は、『八栗(くり)が嶽(たけ)』に住し事もあり。又、觀音堂の破風(はふ)に居たりし。ある時、山臥、三人にて、一人は歌を諷(うた)ひ、一人は三味線を彈き、一人は我を手玉にとりて遊ぶを、鼠色の衣(ころも)着たる老僧あらはれ、

「さなせそ。其童子を、我に得させよ。さのごとくせば、命、あらじ。」

と、のたまふ。

 山臥、聞入ざるを、ひたすら乞給て、放給ふ迄は覺えて、其後は、しらず。」

と答たり。

 これ、まさに、近き世の事にて、其時の人、皆、現存せり。うたがふべからず。

[やぶちゃん注:ずるいね。これも前の篇で出た蓮体の「役行者靈驗記」に載っているのを、小手指でふくらましただけのものだね。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある同書原本の下巻PDF)の「22」コマ目の右頁の後ろから二行目以降。そこでは最後が、童子の命が危ういことを言ったの対して、天狗らしき僧(本篇の山伏)が、『此程(コレホド)面白(ヲモシロ)キ事(コト)ヲ何(ナニ)ト宣(ノ玉)フゾトテ聞不入(キヽイレズ)。然(シカ)ルヲ老僧(ラウソウ)强(シイ)テ乞(コヒ)玉ヘバ。赦(ユルサ)レテ歸(カヘ)リケリト云。此男(コノヲトコ)子懷中(クワイチウ)ニ觀音經(クワンヲンギヤウ)アリ。然(シカ)レバ彼(カノ)老僧(ラウソウ)ハ觀音(クワンヲン)ノ化身(ケシン)ニテ救(スク)ヒ玉フナルベシト。近處(キンジヨ)ノ僧面會(マノアタリ)予(ヨ)ニ語レリ』とあるんだ。元は蓮体が直接に採取した話なんだぜ? きたないね、やり口が。気に入らないね。

「讃岐國羽床(はゆか)」現在の香川県綾歌(あやうた)郡綾川町(あやがわちょう)羽床(はゆか)地区(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「父にはなれ」亡くなったととる。

「村中の者共、每夜、鉦(かね)・太鼓をならして」「返せ。返せ。」「と、よばはりあるけど」子どもの行方不明は「神隠し」或いは「天狗」・「妖狐」・「夜道怪(やどうかい)」・「隠し婆さん」・「隠れ座頭」の仕業などされて、村中、総出で、鉦・太鼓を叩いては「もどせ、かえせ」と叫んで捜したものであった。

「國分寺の觀音堂」香川県高松市国分寺町国分にある讃岐國分寺(グーグル・マップ・データ)。直線で羽床の北北東凡そ十キロメートル前後に当たる。

「後拜(ごはい)」神社や仏殿に於いて、前後に向拝 (こうはい:屋根を正面の階段上に張り出した部分。参拝者の礼拝する所。階隠 (はしがく) し) がある場合の後ろの方のものを指す。

「八栗(くり)が嶽(たけ)」「八栗山(やくりさん)」は香川県高松市牟礼町牟礼にある五剣山(ごけんざん)の別名。(グーグル・マップ・データ航空写真)。中将坊大権現(讃岐三代天狗)が祀られている。山名は国土地理院図を見られたい。

「觀音堂」香川県内では複数あるので特定困難(グーグル・マップ・データ)。]

怪談登志男 廿五、天狗㩴慢心人

 

   廿五、天狗㩴慢心人(てんぐ、まんしんのひとを、つかむ)

Tengumansin

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 近き頃は、世人(よのひと)、小賢(こさかし)くなりて、「生物知(なまものしり)、渕(ふち)へはまる」といへる諺のごとく、口にまかせて、鬼神(きじん)はなきもののやうにのゝしる。然れども、まのあたり、天駒に攫(つかま)れたる者、あまた、あり。其事跡(じせき)、書(ふみ)にもしるし語りも傳へて、數々ある中に、やごとなきおほんかたの御園(みその)[やぶちゃん注:禁中。内裏。]に、いやしき百姓の、天狗にさそはれ、入たる事を、遠からぬ代の事、しるせしふみに、載(のせ)たり。

 近くは、寬文年中[やぶちゃん注:一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。]、夏のことなりし。

 大坂人、

「暑さ、堪へがたし。」

とて、大肌(おゝはだ)脫(ぬぎ)、團(うちは)つかひて、大空(おゝそら)を詠やるに[やぶちゃん注:「ながめやるに」。]、人に似たるもの、南のかたより、飛(とび)來る[やぶちゃん注:「きたる」。]。

「何ものにや、あらんずらん。」

と、目をも、はなさず、詠居たれば、次第に近くなりて、天神橋の上に、

「ひらひら」

と落たり。

 急ぎ、立寄て見れば、僧なり。

「何國(いづく)の人ぞ。」

と問へども、いらへもせず、正體(せいたい)なし。

 爰に、備前岡山の古金屋(ふるかねや)、折ふし、大坂に來り居しが[やぶちゃん注:「をりしが」。]、大勢、立集りたる中を、さしのぞきて見れば、知音(ちかづき)の僧にて、高嶋の松林寺といふ寺にありし人なり。

 久しく高野に住して、學問せしが、何とかしたりけん、天狗に攫(つかま)れて、行衞なかりしに、今、此所に落たり。

 彼人、連(つれ)て、故鄕(こきう[やぶちゃん注:ママ。])にへ送りぬ。

 此事、「役(ゑん)の行者靈驗記(きやうじやれいげんき)」にも載(のせ)られたり。

 まさに、近き事にて、しかも白晝(はくちう)なり。見屆たる人、近き頃迄、皆、存命せり。

「『なきもの』と、あなづりて攫(つかま)れ給ふな。」

と、ある人の語りき。

[やぶちゃん注:「生物知(なまものしり)、渕(ふち)へはまる」「生物知、川へはまる(川へ流れる)」。なまじい、多少の知識があると、それを頼んで軽率に振舞う結果、大きなしくじりをすることの喩え。「生兵法(なまびょうほう)は大疵(おおきず)の基)」に同じい。

「やごとなき」「やんごとなき」の擬古文的無表記。原本(右頁五行目)はちゃんと敬意を示す字空けが前に施されてある。私の電子化したなかには、「天狗」の話は枚挙に暇がないのだが、以下の出典は今のところ、不詳。見出したら、追記する。

「天神橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「古金屋(ふるかねや)」「古鐡屋(ふるがねや)」。壊れた鍋や釜など、使い古した金属製品を買い取ってリサイクルした商人。

「高嶋の松林寺」現在は岡山市宮浦に移っている、真言宗新花山松林寺普門院(グーグル・マップ・データ)。元は現在地の北方に臨む児島湾内の高島(リンク地図に入れてある)にあった高島宮社(現在は高島神社)の社僧の寺で、寺伝によれば、天平一一(七三九)年に備前国分尼寺として創建され、仁寿年間(八五一年~八五四年)、安行僧都が再興し、寛永一一(一六三四)年に僧宥算が伽藍を再建した。明治二八 (一八九五)年に本堂のみを残して焼失、明治四〇(一九〇七)年、高島から本堂を宮浦に移して、当地の福寿院・千手院を合併して現寺号としたものである。

「役(ゑん)の行者靈驗記(きやうじやれいげんき)」真言僧蓮体(れんたい 寛文三(一六六三)年~享保一一(一七二六)年:河内出身。俗姓は上田。叔父浄厳(じょうごん)に学び、河内延命寺を嗣いだ。文章に優れ、仏教説話集「礦石集」・「観音冥応集」などを著わした。平易な言葉で教化に勤めた)が享保六(一七二一)に板行した「役行者靈驗記」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある同書原本の下巻PDF)の「20」コマ目に「△三十七 天狗(テング)ニ攫(ツカマ)レシ人人(ヒトヒト)ノ事」の冒頭に記されてある。ほぼ同じであるが、最後の部分が、『國(クニ)ニ具(グ)シテ歸(カヘ)リシガ。後(ノチ)ニハ縊死(ヱイシ/クビクヽリシス[やぶちゃん注:右左のルビ。])セリトカヤ。正(マサ)シク此(コレ)ヲ聞(キケ)リ』となっている。]

怪談登志男 廿四、亡魂通閨中

 

   廿四、亡魂通閨中(ばうこん、ねやにかよふ)

 慶長の頃、成田治左衞門と云武士ありけり。京都に住し頃、あてやかなる女をかたらひぐして、深く契りけるが、三年餘りありて、女、死しぬ。末期(まつこ)におよんで、成田が手を取、淚を流し、

「形は煙(けふり)ともなれ、土ともなれ、魂(たましゐ)は、君が傍(そば)を、はなれじ。」

と云しが、死後、數(す)十日の後、夜ふけて、亡妻、來りて、成田が枕もとに居寄て、打しほれたる姿なり。

 成田、起(おき)上りて、

「一度[やぶちゃん注:「ひとたび」。]死たるものの、二度[やぶちゃん注:「ふたたび」。]來るべき理なし。汝は、定て、妖魔(ばけもの)なるべし。然れども、女房が姿なれば、斬(きる)に忍びず。立さるべし。」

と、刀を取て、白眼(にらみ)ければ、

「うらめしき殿の御詞(ことば)かな。最後に申置し言葉は、はや、思召忘れ給ひしか。形はむなしくなれども、魂は朽やはてなん、いつまでも、君があたり、立はなれずあるべし。斬(きり)たまふとも、形、なければ、疵つく事、なし。三年[やぶちゃん注:「みとせ」。]が程、契りし事は、おもひ出し[やぶちゃん注:「いだし」。]たまはずや。」

と、うらみかこち、泣しが、あけ方近くなりて、立さりぬ。

 是より、疾風甚雨(しつふうちんう)といへども、かならず、來りける程に、後は、馴れて、生前のごとく、打かたらひしが、何とやらん、心、解(とけ)ず。

 俄に、

「駿府へ下りて、これを遠ざけん。」

とせしに、駿府にいたりし夜、又、來りて、

「生を隔(へだつ)れども、心は、へだてぬ物を、何とて、嫌ひ給ふや。」

と、うらむ。

 斯て[やぶちゃん注:「かくて」。]、此所に、一兩月、暮しけるが、

『海路(かいろ)をへだてなば、來らじ。』

と思ひ、豐後の國に所緣あれば、大坂より、舩に乘り、順風にて、六、七日が程に、いたり着ぬ。

 女房、又、來る事、まへのごとく、

「千万里の波濤(はたう)はおろか、盡大地(ぢんだいぢ)の内、日月の照らし給はん所迄は、はなれはせじ。」

と云に、治左衞門、今は、術計(じゆつけい)盡(つき)て、此所に、一兩年を送りける。

 成田は、心ばへ、やさしきものにて、相親む人[やぶちゃん注:「あひしたしむひと」。]、おほかる中に、毛利・舩橋・石田・尾關・村井何某(かし)、此五人は、別(べつ)して入魂(じつこん)なれば、云合て[やぶちゃん注:「いひあはせて」。]、日暮より來りて、

「今宵、斯(かく)連立(つれだち)來るは[やぶちゃん注:「きたるは」。]、常に貴殿に不審なる事あるを、見屆(みとゞく)べき爲なり。夜あくる迄は、歸るまじ。」

と、酒くみかはし、遊び居たり。

 亭主治左衞門も、せんかたなく、物語して居たるが、夜の更(ふく)るに隨ひ、睡(ねふり)入て、前後もしらぬ躰[やぶちゃん注:「てい」。]なり。

 推(おし)うごかせど、鼻息ばかりありて、死したるごとく、五人の侍、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、心得ず、打守りたる所に、俄に、そゞろさぶく、齒の根もあはず、身の毛、彌立(よたち)、戰々慄々(せんせんりつりつ)として、互(たがい)に拳(こぶし)を握り、膝に當て、目を見合たる斗なり[やぶちゃん注:「みあはせたるばかりなり」。]。

 斯(かく)すること、しばしありて、漸[やぶちゃん注:「やうやう」。]、心落付たるに、外より、障子をあくる音、あり。

 これを見れば、十七、八には過じと見ゆる女の、色白く、髮、うるはしく、長きが、閨の内にあゆみ入を、石田・舩橋、跡に付て、入り、先、戶を閉(とぢ)たり。

 毛利・尾關・村井、手に手に、燈を持て、葛籠(つゝら)・挾箱(はさみばこ)などの、隈々(くまぐま)まで、尋、搜(さぐ)りけれど、何もなし。

「今は。これまでぞ。」

と、五人の侍は立出て、各、私宅に歸り、翌日、成田に具(つぶさ)に語りければ、

「今は、何をか包むべき。京都より、是まで、付そひ、一夜も、はなれず、つきしたふ亡妻が㚑(れい)なり。我、此事を他人に漏さば、命、あるまじ。」

と、いゝし。

「斯(かく)、露顯せし上、各へ、つゝむべきやうもなし。是非におよばず、語り侍る。」

と云しが、果して、成田は、五、三日、打惱(なやみ)けるが、終(つゐ)に、空しく成りぬ。

「をそろしきは、女の一念なりけり。」

と、ある人の語りき。

[やぶちゃん注:標題は「亡魂、閨中に通ず」。ところが、である。試みに主人公「成田治左衞門」の名で検索をかけたところが、肥前国平戸藩藩士熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳六(一七一六)年に刊行されたとする「武將感狀記」(ぶしやうかんじやうき(ぶしょうかんじょうき):戦国時代から江戸初期までの武人について著された行状(ぎょうじょう)記。全十巻二百五十話。熊沢淡庵は諱は正興で、号を淡庵又は砕玉軒とも称し(本書は別に「砕玉話」とも呼ぶ)、備前国岡山藩藩士で著名な陽明学者熊沢蕃山の弟子とされている。但し、『東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということ』で、『これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない』と参照したウィキの「武将感状記」にあった)の巻之八の二話目に、「成田治左衛門契二亡妻事」(成田治左衛門亡妻(ばうさい)と契(ちぎ)る事)という話をこちら(PDF)の版本に見出した68コマ目)。その内容たるや、お読みになれば判るが、本篇と酷似しており、細部の描写などで完全に一致する箇所もあった(本篇よりも実録的雰囲気を高める工夫が成されてはいる)。本「怪談登志男」は寛延三(一七五〇)年刊であるから、四十四年も後であり、これはどう考えても、原著者とする慙雪舎素及子或いは編者静観房静話が、「武將感狀記」のそれをほぼ丸ごとお手軽に援用したとしか思われないことを言い添えておく。なお、宮負定雄(みやおいやすお 寛政九(一七九七)年~安政五(一八五八)年:下総香取の人。名主の家に生まれたが、三十五歳の時、その仕事に嫌気がさし、酒食に溺れ、生家を逐われ、遊女と駆け落ちをするなど、漂泊放浪の人生を送るが、後に平田篤胤の門人となり、多くの民俗採集を行い、「太神宮靈驗雜記」「幽現通話」「農業要集」などを著した人物)の「奇談雜史」(これは柳田国男の論文「山の神とヲコゼ」を生み出す素材を与えたものとしてとみに知られる)にも、酷似したものが載るサイト「日本古学アカデミー」のこちらで、清風道人氏の現代語訳が読めるが、こちらは、享保年中(一七一六年~一七三六年)と時制を引き下げ、成田治左衛門は浪人で、『大阪谷町』辺りに住んでいたとし、『元来は西国の方の侍で』あったが、わけ『有って国を立ち退き、大阪へ来て』、『新蔭流の武術を指南して生計を立て、後妻を迎え』たとする変更が加えられあるものの、展開の基本はほぼ同じであることが判る。これはまず、都市伝説の変容過程をよく伝えてるものと思う。

「慶長」一五九六年~一六一五年。

「成田治左衞門」不詳。というより、冒頭注の通り、以下に出る彼の友人らも、実在を調べること自体、著しく空しい気になったので、それらも検索もしないし、注もしないことにした。悪しからず。

「盡大地(ぢんだいぢ)」総ての大地。全世界。

「入魂(じつこん)」「昵懇」に同じい。

「葛籠(つゝら)」「つづら」。調度品の一種で、衣服などを入れる、蔓性植物や竹や檜で編んだ蓋付きの箱。「衣籠」「葛羅」などとも書く。古くはオオツヅラフジ(キンポウゲ目ツヅラフジ科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum )のつるを用いて、縦を丸蔓、横を割った蔓で編み、四方の隅と縁は、鞣(なめ)し革で包んだという。後には竹や檜の剥片を網代に編んで作り、近世に至ると、さらにこれに紙を張って、柿渋や漆などを塗るものも現れたが、形は、概ね。長方形であった。

「挾箱(はさみばこ)」近世の、道中の着替えの衣服などを中に入れて棒を通して従者に担がせた箱。二枚の板の間に衣服を入れてそれを竹で挟んだ戦国期の「竹挟(たけばさみ)」から転じたものとされる。]

怪談登志男 廿三、吉六虫の妖怪

 

   廿三、吉六虫(きちろくむし)の妖怪

Kitirokumusi

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 「世人(せいじん)、交(まじはり)を結(むすぶ)には、黃金(わうごん)を用ゆべし。黃金、おほからざれば、交、深からず、たとひ、相許容(あひゆるし)て、しばらく交るとも、終(つい)に是、悠々たる行路(かうろ)の人」と、唐の錢(ぜに)なしが、いきどほりしも、實(げ)に去(さ)る事ぞかし。人は、只、金次第にて、大なる馬鹿ものも、上座に胡座(あぐら)[やぶちゃん注:底本は「胡床」。原本に拠った。]かきて、片こと、いへども、

「御尤(ごもつとも)。」

と、うけがひ、世上の是非をも、わきまへ、少し道しれる人でも、金氣、薄ければ、片隅におしこまれ、「月見れば千々に物こそ」と讀むべき風情に、そらうそぶきたるさま、かたはらに見る目も、餘程、太儀なる。人情輕薄、殘ましき人ごころならずや。

 こゝに、下野國古河(が)に隣(となり)て、二つ山赤間(あかま)村などいふ里あり。

 此あたりに、延寳の頃、吉六とかやいふ者、住(すみ)けり。

 ある時、庄屋が内に寄集ることありて、村中の百姓・禰宜(ねぎ)・山臥(ふし)まで、着到(ちやくとう)したる事ありしに、「彼吉六は、母かたの一門に穢多ある」よし、何者か、尋ね聞て、次第に語り傳へ、さゝやき合、百姓のならひ、吟味、張(はり)、庄屋が座敷に寄合の時も、俄(にはか)に、座を押下(おしさけ)、小百姓・水吞風情の者より、末に坐せしめ、咄しあふ事も、万事の談合・評定、吉六へは、一向(かう)、面(おもて)もむけず。

 吉六、甚、怒(いかり)、

「扨々、無念の事かな。我は當村、數年、親代々、筋目も人に負(まけ)ぬ者を。何とて、かくは、ふるまふやらん。」

と、堪へがたく、其座を蹴(けり)立、歸りける。

 庄屋は、此事、心づかず、

「公用の儀を申渡す所に、待かねて歸りたるは、不屆の事なり。」

とて、呼かへして、吟味すれば、吉六は、右の段、有の儘に語りけるにぞ、庄屋も、

『尤の事。』

と、おもひ、座中を呵(しかり)て、

「いづれも、甚、無骨の振舞(ふるまひ)なり。何とて、吉六が座をうばひて、末座(ばつざ)には押下(おしさけ)けるぞ。」

と、吉六を相應の席につけんとするに、百姓共、膝を押合、座を讓るべき氣色もなく、手持ぶさたに見えける所に、當村にて「口利(くちきゝ)」とよばるゝ邪(よこしま)もの、與六兵衞とて、かさ高成中[やぶちゃん注:「かさだかなるなか」。]、百姓、大聲、あげて、

「面倒なり。吉六、一村に住ばこそ、[やぶちゃん注:「すめばこそ」。]言葉もかはせ、人中へ交(まじ)はらんとは、法外(ほうくはい)なり。末(ばつ)座に置も、是非なけれど、我等が了簡にて、さし置なり。庭にても、居よ、吉六。」

と、恥辱をあたへければ、名主をはじめ、年寄など、氣の毒におもひ、

「吉六、堪へられよ。」

と、すかしなだめ、與六兵衞を叱り、

「大切なる評議最中に、甚、不屆千万。」

と、立かゝりて制し、其日は、事なく、皆々、宿へ歸りける。

 吉六、無念に思ひ、其夜、與六兵衞が念仏講に、近所へ行て歸る所を、しのび寄て、

「いかに、與六兵衞、吉六なるぞ。覺へたるか。」

と、拔(ぬき)打に切付たるに、左の腕より、乳(ち)の下へ切込たり。

「わつ。」

と、さけびて、己(おの)が家へ迯籠(にげこも)りたり。

 家内は、いふにおよばず、村中の者、

「盗人よ。」

と、聲々によばはり、松明(たいまつ)を振(ふり)、棒を持て、集(あつま)り、

「ここよ。」

「かしこ。」

と、搜しける。

 吉六は、與六兵衞を迯せし無念さに、猶、

『忍び寄て、本望、とげん。』

と、壁を、うがつ所へ、村の者、

「其、すは。盜人こそ、こゝにあり」

と、目鼻もわかず、打ければ、吉六、聲をはかりに[やぶちゃん注:「ばかりに」。]、

「情なし、人々。盗人にはあらず。吉六なり。晝の無念さをはらさんと、切りかけしが、仕損(しそん)じて、與六兵衞をにがせし故、壁を破り、入べしと、かくは、はからひたり。『一錢半紙もむさぼらぬ我なり』とは、日頃にても、知るべし。きゝつけて給べ。」

と、おめき、さけべど、村の者ども、

「吉六が意趣討(いしゆうち)ならば、猶、ゆるさじ。」

と、たゝきふせ、庄屋・年寄も、はせ來り、村中の年貢藏(ねんぐぐら)に押(おし)入、嚴(きひ)しく守護し、代官所へ達し、吟味の上、「衆口(しゆこう)、金(きん)を消(けす)」とやらん、大勢に、いゝすくめられ、吉六が言譯、にぶく聞へ、盜賊の罪に落され、獄に下りしが、初(はしめ)、亂暴に打ふせられし所の疵(きず)、痛(いたみ)しが、終(つひ)に、獄中に於て、空しくなりぬ。

 與六兵衞、疵も平癒して、何事なく打過けるに、與六兵衞が家に、怪しき事、出來ぬ。

 吉六が古家より、與六兵衞が家内へ、白き玉、一つ、轉(まろ)び入、庭の中を、まろびて、うせぬ。

 かゝる事、每日々々、日をかさねければ、家内は勿論、近隣の者迄、恐れあひ、巫女(みこ)・山臥(ふし)等、入替り、入替り、樣々に祈禱すれど、さらに其しるしもなく、外に怪しき事も、見えず。

 白晝に、かくのごとく、白き玉の飛𢌞(とひめぐ)るのみなり。

 元來、肝太(きもふと)き與六兵衞なりしが、此あやしびに、心をいため、食事を絕(たや)し、打臥(ふし)たるに、例の白玉、枕もとを、轉あるき、與六が五躰(たい)に取附、苦しめ、十日斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]なやみて、死したり。

「吉六が怨念の致す所。」

と、皆人、おそれける所に、打續(つゝき)て、與六が家内、一月を出ず、皆、亡(ほろび)うせぬ。

 それのみならず、彼白玉、田畑の中を、まろびあるく程に、五穀も枯(かれ)渡り、亦、目なれぬ虫の出生(しゆつしやう)して、村中、大きに、苦しむ。

 又、彼玉の轉(こけ)來れば、老若・男女・小兒を隔てず、十日ばかりも煩ふ事、あり。

 是、皆、吉六が怨念なれば、村中、一同に立合て、法事をなして、吊(とふら)ひ、怨㚑(おんりやう)をなだめ、秋每には吉六を祭(まつり)て、田畑の虫を、はらふ。

 今におゐて、彼村には、「吉六虫」と名付て、恐れあへり。

「與六兵衞が、よしなき事、仕出して、永く、一村の憂(うれひ)となれり。」

と、古河(こが)の老人、物語せり。

[やぶちゃん注:『「世人(せいじん)、交(まじはり)を結(むすぶ)には、黃金(わうごん)を用ゆべし。黃金、おほからざれば、交、深からず、たとひ、相許容(あひゆるし)て、しばらく交るとも、終(つい)に是、悠々たる行路(かうろ)の人」と、唐の錢(ぜに)なしが、いきどほりし』盛唐の官僚で詩人の張謂(七二〇年~七八〇年:酒好きの淡白な性格であり、山水を愛し、李白とも親しかった叛乱に関与したとして斬罪に処された)の七言詩(平仄に従っていない部分が多いため、七絶ではなく、古詩に近い拗体(ようたい)である)「題長安主人壁」(長安の主人の壁に題す)に基づく。

   *

世人結交須黃金

黄金不多交不深

縱令然諾暫相許

終是悠悠行路心

 世人(せいじん) 交はりを結ぶに 黃金(わうごん)を須ふ

 黃金 多からざれば 交はり 深からず

 縦令(たとひ)然諾(ぜんだく)して 暫くは相ひ許すとも

 終(つひ)に是れ 悠悠(いういう) 行路の心

   *

詩人が拝金主義の長安人を難じて、泊まった宿所の主人の家の壁に書きつけたというもの。「然諾」許諾して引き受けること。「悠悠」ここは「遥かに遠く隔たるさま」で、疎遠にして無関心にして無慈悲な様態を意味する。

「月、見れば、千々に物こそ」「小倉百人一首」の二十三番で知られる大江千里の「古今和歌集」(巻第四「秋上」・一九三番)の、

    是貞(これさだ)のみこの

    家の歌合によめる

 月みればちぢにものこそ悲しけれ

      わが身一つの秋にはあらねど

である。

「下野國古河(が)」関東地方のほぼ中央、現在の茨城県西端の県西地域に位置する古河市(こがし)附近(グーグル・マップ・データ)。

「二つ山赤間(あかま)村」不詳。

「延寳」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・徳川綱吉の治世。

「穢多」江戸以前の被差民の一つで、中世以降に賤民視された一階層。特に江戸時代の幕藩体制下では、民衆支配の一環として、非人とともに最下層に位置づけられて差別された。身分上、「士農工商」の外に置かれ、皮革製造・死んだ牛馬の処理・罪人の処刑及び見張り(警固)など末端の警察業務等にも強制的に従事させられ、城下の外れや、河原などの特定の地域に強制居住させられた。明治四(一八七一)年に法制上は「穢多」「非人」の称は廃止されものの、新たに「新平民」という呼称を以って差別され、それは現在に至るまで陰に陽に不当な差別として存続し続けている。より詳しい解説は、「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の注を参照されたい。但し、この場合、これは誰かが悪意を以って流した偽情報の可能性もある。それは或いは与六兵衛でなかったとは言えない。

「吟味、張(はり)」主だった者たちが秘かに談合して彼を囲い込んで差別することに決し。

「水吞」水呑百姓(みずのみびゃくしょう)。「貧しくて水しか呑めないような百姓」という喩えに始まる江戸時代の貧農の呼称。主に江戸時代の年貢の賦課基準となる石高を所有せず、田地を持てない農民を指した。年貢などの義務がない代わりに、村の正式な構成員とは認められず、発言権も与えられなかった。但し、出自は多くあって、親族からの身分継承だけでなく、百姓の次男・三男以下、本百姓から転落した者などもおり、江戸時代の農村の貧農層を形成していた。

「筋目も人に負(まけ)ぬ者を」血筋を問題にしていた陰の噂を聴きつけていて、暗にそれを否定するものであれば、「家代々の血筋は決して恥じるようなものではない」の意ととれ、別に「貧しくとも当村の農民の確かな一人として、物事の道理は何時もしっかり通してきた」という自負ともとれる。ダブルでよかろう。

「口利(くちきゝ)」この場合は弁舌が巧みなことから出た綽名であろう。但し、「邪(よこしま)もの」と添えるており、後の吉六への罵倒の内容からみて、三百代言みたような詭弁を弄する中身のない口巧者(くちごこうしゃ)とみてよかろう。

「かさ高成中」明らかに座の百姓たちの憤懣が気分として高まっているなか。

「百姓」与六兵衛。

「吉六、一村に住ばこそ、言葉もかはせ、人中へ交(まじ)はらんとは、法外(ほうくはい)なり」「こそ」「かはせ」(已然形)「、人中へ……」の逆接用法。「一村に住んでいるから、仕方なく言葉も交わすけれども、お前のような奴が人並みに村人と同等に交わろうなんどというのは、これ、もう、法外の極みじゃ!」。

「念仏講」念仏を唱えることを契機として結成されている講。普段は毎月、日を決めて、寺や堂に集まり、その本尊や路傍の石仏などへ念仏を唱え、村内安全や五穀豊饒などを祈願する。特に村落内で死者が出た場合には、その弔いのための念仏を唱える集団ともなった。

「一錢半紙」通常は「一紙半錢」(いつし(いっし)はんせん)で「一枚の紙と半文(はんもん)の銭(ぜに)」。謙譲を含めて仏教で「寄進の額が少ないこと」を謂うが、広く「ごく僅かな物或いは金銭の喩えとする。

「衆口(しゆこう)、金(きん)を消(けす)」私は「衆口(しゅうこう)、金(きん)を鑠(と)かす」で知っている。多くの人の言葉、特に悪口が重なると、恐るべき結果を招くことの喩え。讒言の恐ろしさをいう言葉。出典は「国語」の「周語下」に拠る。

「食事を絕(たや)し」食欲が全く無くなり。

『彼白玉、田畑の中を、まろびあるく程に、五穀も枯(かれ)渡り、亦、目なれぬ虫の出生(しゆつしやう)して、村中、大きに、苦しむ。又、彼玉の轉(こけ)來れば、老若・男女・小兒を隔てず、十日ばかりも煩ふ事、あり。是、皆、吉六が怨念なれば、村中、一同に立合て、法事をなして、吊(とふら)ひ、怨㚑(おんりやう)をなだめ、秋每には吉六を祭(まつり)て、田畑の虫を、はらふ。今におゐて、彼村には、「吉六虫」と名付て、恐れあへり』「実盛虫」で知られる、もう典型的な御霊信仰と「虫送り」農事祭事の集合した民俗事例である。しかもこの話、サイト「妖怪条件検索」の「常元虫(つねもとむし)」に、『悪口雑言をいわれたのに腹を立て、その男を殺したために獄につながれ』、『獄死した怨みで虫と化した下野国(栃木県)の〈吉六虫(きっちょんむし)〉、冤罪で打ち首になった怨みで虫となった山梨県六郷町の〈平四郎虫〉、大根を盗んだだけで生き埋めにされ死んだため虫となった大和国(奈良県)の〈きくま虫〉、など数多い』と出るのである。但し、少し調べてみると、位置にズレがあるものの、どうも伝承の震源地は本話のような感じがする(そう指摘する記載もあるようである)。]

2021/02/16

只野真葛 むかしばなし (13)

 

○袖崎御やしきへ御うつりがけには、色々のあやしきこと有しとなり。他[やぶちゃん注:底本は「多」と訂正注を打つ。]年、人もすまぬ山を御ひらき被ㇾ遊し故なるべし、長屋の内へ石つぶてを打いるゝこと、度々、其内、晝夜をわかず、うたるゝ長屋、三所ばかり有し、となり。雨ふりてくらき夜には、別《べ》してつぶて打こと、おほかりし、となり。ぢゞ樣長屋へも、兩三度、打いれしこと、有し。大がいのむすび程の石、打(うち)いれしが、一番、大きかりしを、紙につゝみて御持(おもち)、御出勤被ㇾ成、御覽に入れられし、となり。

 御殿中にも、色々、ふしぎのこと、有。

 泊番(とまりばん)の人、かならず、「枕がへし」する所、有。

 又、ともし火、ねむると、すぐに消(きえ)、蚊帳(かや)の釣手、おちる所、有し、となり。

 獅山樣、御選《ゑ》り人にて、

「丈庵、ふして、事のよし、見よ。」

と、仰有(おほせあり)て、一夜御とまり被ㇾ成しこと有。【此御ゑり人は、御そばの衆、いかでか、左樣の事を見あきらめぬ程のことも有まじけれど、『侍にては、ことがまし』と思召(おぼしめし)、わざと、長袖(ながそで)の中より、つかはされしならん。】[やぶちゃん注:原割注。]さばかりの、きこん人(のひと)なれども、ねむき事、かぎりなく、おもはず、少しまどろまれしに、

『ともし火、くらく成たり。』

と、おぼへ[やぶちゃん注:ママ。]られし故、目をひらかんとするに、しぶくて、あかず、やうやう、橫目に、

「ちら」

と御覽ぜられしに、大きなる猫か、狸などの、おほひかくすかと、おもはるゝ[やぶちゃん注:底本は「おはるゝ」。「日本庶民生活史料集成」及び「仙台叢書」で訂した。]やうなりしが、

「はた」

と、あかしのきゆるやいなや、四方のつり手、一度に切(きれ)おちたり。

 人をよびて、ともし火、付させ、御馬屋より、くさりをとりよせて、蚊帳つらせ、御やすみ有しが、後、何事もなかりしとぞ。

 餘り妖怪がちなる故、下役の人に仰付られて、晝夜、空《から》筒を放させられし故、

「耳、かしましかりし。」

と御はなしなり。から鐵砲にはおそれぬ所を見せんとや、ある日、大犬(おほいぬ)ほどの毛物(けだもの)、あか毛にて、尾のしたゝかにふときが、白晝に、御うゑこみの梢を、はしりわたりしを見つけて、

「それ。打とめよ。」

と、四方八方より、雨あられのごとく、鐵砲を打かけしかども、飛鳥のごとく、かなたへはしり、こなたへはしり、終に、かたち見えず成し、となり。

「是、何物にや。ふしぎ千萬のこと。」

と[やぶちゃん注:底本は前に続きで「ゝ」。]、父樣・ばゞ樣、御はなし、度々、うかゞひし。

 人のすみなるゝまゝに、つぶて打ことも間遠(まどほ)になりしに、ある長屋の軒下のひさしの端に、おほきな猫の晝寢してゐたるを、となり長屋より見付て、にくゝおぼへしまゝ、有合(ありあふ)鐵砲にて打とめしが、大(おほ)ふる猫にて有し。

「打(うち)たる人も、一寸(ちよつと)、なぐさみに、せしことにて、さのみ、ほこりても人にかたらず、御家中にしらぬ人も、おほかりしが、其猫、うちて後(のち)、あやしきこと、たへてなかりしは、其猫のせしことにや。さあらば、打し人は、かろからぬ手がらならんを、何のさたも、なかりし。」

と、折々、被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「袖ケ崎御やしき」既出既注

「うつりがけ」移った当初。

「色々のあやしきこと有しとなり」真葛はやはり怪奇談趣味が非常に強いことが判る。直後の怪異発生の主因を「人もすまぬ山を御ひらき被ㇾ遊し故なるべし」と推定するところも、とても、いい。

「石つぶて」通称は「天狗の石礫(いしつぶて)」と呼ぶ疑似怪奇現象である(多くの典型事例では、激しい投げ打たれるバラバラという音や、巨石の落ちる音がするものの、石も見えず、損壊もないというのが一般的であり、本話のように実際に石が発見されて採取されるというのは極めてレアなケースである)。この現象、必ず、未成年の精神的に不安定な状態の娘が現場にいるか、或いは、ある特定の村落の出身の女性がそこにいるのである。既に私は「耳囊 卷之二 池尻村の女召使ふ間敷事」や、「北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)」それらについて考証しているので繰り返さないが、所謂、そこで働くのが厭で、意識的或いは半無意識的な詐欺として偽の石打現象を巧みに行うのである。近世後期から明治期にかけては、これを解釈するに、「池尻の女」とか「池袋の女」という都市伝説をぶち上げ、当該の村落の産土・氏神が、他の場所に遣られ、使役され、そこで生まれの違う土地の男と結ばれることをお嫌いになるからこの現象が起こるのであるという説を、俚俗ばかりか、まともな学者までも主張したのである。また、この袖ヶ崎の工藤の屋敷は恐らく町屋に近接しており、武士でもない医師が、仙台藩のお墨付きを戴いて、新しい屋敷を構えたことを、快く思わなかった古くから周縁に住まいする武家・町人・漁師などがおり、彼らが嫌がらせとして、複数人、礫打ちを行った可能性も考えておく必要があるように私には思われる。

「雨ふりてくらき夜には、別《べ》してつぶて打こと、おほかりし」意識的に人がやらかすには最も犯行を隠すにうってつけの状況であることにこそ注意すべきである。

「兩三度」何度もの意。

「大がいのむすび程の石、打(うち)いれしが、一番、大きかりしを、紙につゝみて御持(おもち)、御出勤被ㇾ成」「大がい」「大槪」であろう。普通に見る「おむすび」ほどの、人が手で摑める大きさを越えていないことにこそ、注意すべきである。沢庵漬の重石の石は紙に包んで持って行けぬからな。

「御殿」同じところで既注の、近くの東大井にあった仙台藩下屋敷。

「枕がへし」就寝中、知らぬうちに身体の位置が逆になることで、怪奇現象として古来、妖怪の仕業などとされた。当該ウィキを読まれたいが、私の「怪奇談集」の中では、佐渡怪談藻鹽草 枕返しの事」が突出してよく書かれており、リアリズムもすこぶる高く、お薦めである。

「獅山樣」既出既注。第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)。

「御選《ゑ》り人」藩主直々の選抜指示者。

「ふして」「臥して」。一晩泊まって。

「侍にては、ことがまし」武士に、その程度のしょぼい怪異の検分をさせて、それが漏れて噂が立っては、面目が立たぬ、面倒なことになろう。

「長袖(ながそで)」」袖括(そでぐく)りをして鎧を着る武士に対して、長袖の衣服を着ているところから公卿・神官・僧・医師・学者などを指す。「長袖者 (ちょうしゅうしゃ)」という謂い方もあるから、「ちゆあいしふ」でもよいが、真葛は女性だから、訓読みとした。

「きこん人」「氣根人・機根人」。「きこんのひと」で、一つの物事にじっと耐える精神力・根気・気力のある人ととった。

「しぶくて」上手く目蓋が動かずに。

「おほひかくす」視野を覆い隠すの謂いであろう。

「空《から》筒」「から鐵砲」空砲。但し、これは以下の実砲発射とともに、幕府から重い咎めを受ける仕儀と私は思う。

「うゑこみ」「植ゑ込み」。

「人のすみなるゝまゝに、つぶて打ことも間遠(まどほ)になりし」この事実から見ても、これは超常現象ではない。

「にくゝおぼへしまゝ」「憎く覺えし儘」。

「有合」たまたまあった。この発砲も当時なら、大問題である。

「大(おほ)ふる猫」これなら、「大經(古)る猫」で納得したが、「仙台叢書」では『大なる』で、苦労して読む必要もない。しかし、私は前者の方が腑には落ちると言っておく。]

怪談登志男 廿二、妖怪浴溫泉

 

怪談登志男卷第五

 

   廿二、妖怪浴溫泉

 江州安土(あつち)の城は、天正四年丙子[やぶちゃん注:「ひのえね」或いは「へいし」。]の二月、普請、成就し、其頃の武將の御居城にて、要害堅固の地なり。

 此城の面の小屋に、極めて妖物(ばけもの)出る[やぶちゃん注:「いづる」。]長屋ありけり。側に、底深き井戶あり。此ゆへに「井戶端(はた)の小屋」とて、勤番の侍も、此所には剛氣(かうき)の人ならでは、住事[やぶちゃん注:「すむこと」。]、なかりし。

 天正七年の秋の頃、氏家(うじへ[やぶちゃん注:原本のママ。後も同じ。])武者之助とて、大剛(かう)の武士、兼て妖物の事、聞及ければ、

「面白きことこそあれ。」

と、所望して、此小屋に住しが、廿日ばかりが程、何の怪しき事もなかりしに、ある夜、厠(かはや)に行、戶をあけ、内に入て見れば、誰やらん、内にありて、物も、いはず。

 尋常(よのつね)の人ならば、恐れもすべきに、元來、大膽(たん)成[やぶちゃん注:「なる」。]男なれば、

「此厠は我ならで來る[やぶちゃん注:「きたる」。]ものなし。外より來る人のあるべくもなし。定めて古(ふる)狐殿の御遊興(ゆうけう)とこそ覺ゆれ。ひとちそう[やぶちゃん注:「一馳走」。]、仕ベし[やぶちゃん注:「つかまつるべし」。]。」

と、つぶやき、立歸りて、刀を帶(たい)し、手燭(てしよく)、取て、又、厠の戶を開きて見れば、大牛一疋、狹(せま)き所を輾(きしり)て蟠(わたかま)る。

 眼の光り、すさまじく、前足を折て、臥(ふし)居たるを、手燭を投捨(なけすて)、拔打(ぬきうち)に疊掛(たゝみかけ)て、切付る[やぶちゃん注:「きりつくる」。]。

 太刀音[やぶちゃん注:「たちおと」。]、臺所に臥(ふし)たる若黨(わかとう)侍、火を灯(とも)して駈(かけ)來るを、

「何の仔細もなかりしぞ。入て休め。」

と云付、厠を見るに、何もなし。

 手答(こたへ)は、ありけれども、血(のり)も、ひかず。

「本意(ほい)なき事。」

と、おもひながら、緩々(ゆるゆる)と閑(かん)所[やぶちゃん注:厠の雅名。]にありて用を足し、庭など見𢌞し、閨(ねや)に來りし。

 其後、何のあやしびも、なし。

 爰に、武者之助が斷金(だんきん)の友に、玉川の某[やぶちゃん注:「なにがし」。]といふ侍、兼々、持病の申立にて、江州より發足(ほつそく)し、攝津國有馬の溫泉に至り、「かやの坊」といふに舎(やと)り、溫泉に浴(よく)する所に、板壁一重(へ)隣(となり)の湯舩に、人の來る音す。

 穴、ありて、あなた此方(こなた)、互(たがい)に見通したるに、其隣なる湯に入たるは、撫付頭(なでつけあたま)の大男なり。今、一人も、甚、逞き[やぶちゃん注:「たくましき」。]大の法師の、仰々敷(ぎやうぎやうしく)鉢卷し(はちまき)して、二人一同に入ぬ。撫付がいふ樣、

「足下(そこ)は、何ゆへ、事々敷(しき)鉢卷ぞや。」

と、問ふ。

 法師、答て、

「さればとよ、詮なき所へ參りし故、餘程、怪我(けか)を致せしゆへ、かくのごとし。」

と、答へり。

「その疵(きす)は、何者の所(しよ)爲にや。」

と、問ぬ。

「是は、江州安土の氏家(うぢへ)武者之助めが、しわざなり。是、御覽あれ。」

と、鉢卷を取しを見れば、眞頭(まつかう)、二所迄、切られたり。

「扨も。危(あやう)し。」

など、評判して、出行ぬ。

 玉川氏、

「心うき事を聞くもの哉。日ごろ、斷金の友なる武者之助、若(もし)、徃來にて喧嘩などせしか。首尾、心もとなし。」

と、おもへば、兼て、此あたりの名所舊跡をも尋𢌞らんと、志(こゝろざし)つれど、此事、心にかゝり、早々、歸り、まづ、武者之助が宿所へ立越けるに、何のかはれる風情もなければ、湯治の間の物語、件(くだん)の法帥が事、語り出ければ、武者之助、橫手を打て、厠の妖怪を咄[やぶちゃん注:「はなし」。]、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、不審、はれやらず。

 されど、

「怪力亂神(くわいりよくらんしん)は、ひじりの掟にて、語らぬ事なり。是は、此座、際(きり)。」[やぶちゃん注:底本では「際」は「限」であるが、原本で訂した。]

と、互たがひ)に口を閉(とぢ)て、語ることなかりしが、はるかに代[やぶちゃん注:「よ」。]うつり、歲を經て、慶長の末にいたり、玉川氏、長生して、東國に下り、

「此物語も、昔を忍ぶ、一つぞ。」

と、ある剱術者(けんじゆつしや)に語りけるとぞ。

[やぶちゃん注:標題「妖怪浴溫泉」(原本には訓点なし)は本文内表現に合わせて「妖怪、溫泉に浴(よく)す」と訓じておく。

「江州安土(あつち)の城」琵琶湖東岸の近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町(ちょう)下豊浦(しもといら))にあった安土城(あづちじょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、天正四(一五七六)年一月に織田信長が、総普請奉行として丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始している。天正七(一五七九)年五月には完成した天主に信長が移り住んでおり、同年頃に落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書「日本史」に記している。天正一〇(一五八二)年五月十五日には、明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われて、光秀が打擲される事件が起き、同二十九日の京都本能寺にて信長が光秀の謀反により自害した「本能寺の変」の際には、蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後、信長の家臣であった蒲生賢秀(かたひで)・氏郷父子が本拠地日野城に信長の妻子らをここ安土城から移動させ退去した。その後、明智軍が安土城を占拠したが、「山崎の戦い」で光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が焼失してしまう(焼失の経緯や理由については諸説あるが、不明)。「本能寺の変」以降も、暫くは織田氏の居城として信長の嫡孫秀信が「清洲会議」の後に入城するなど、主に「二の丸」を中心に機能してはいた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、天正一三(一五八五)年を以って廃城されたと伝わっている。以上から、本話を事実として仮定した場合、「天正七年の秋の頃」とあるので、まさに信長が移り住んだその年の秋という絶妙のタイミングに設定してあることが判る。ごく近年に起こったとするものが多い本書の中では、一つの古い中でも知られたメジャーな時制とロケーションということになる。

「氏家(うじへ)武者之助」不詳。この読みは現在の氏家姓でも「うじえ」として存在する。

「輾(きしり)て」まろび、転がって。

「若黨(わかとう)侍」「わかたうざむらひ」。若い従者。江戸時代には、武家で、足軽より上位の小身の従者を指した。読者もそれで読んだことと思われる。

「本意(ほい)」実際には原本(左頁三行目)では「本」のそれは、何か書かれてはいるものの、判読は出来ない。私の趣味で「ほんい」ではなく、「ほい」とした。

「斷金(だんきん)の友」『「斷琴の友」の誤りであろう』などと、知ったぶって揚げ足を取ると、致命的な怪我をする。「二人が心を合わせたならば、金属をも切断するほどに固く結ばれた友情である」ことの喩え。「易經」の「繫辭上傳」の孔子の解説に、「君子之道、或出或處、或默或語。二人同心、其利斷金、同心之言、其臭如蘭」(君子の道は、或いは出(い)で、或いは處(を)り、或いは默し、或いは語る。二人、心を同じうすれば、其の利(と)きこと、金を斷つ。同じい心の言(い)ひは、その臭(かを)り、蘭のごとし)に基づくので、「斷琴」より遙かに古いからである。

「かやの坊」不詳。但し、有馬温泉は入湯の宿屋を今も多く坊名で呼ぶ。

「橫手を打て」「横手(よこで)を打つ」は、感心したり、思い当たったりした際になどに、思わず、両方の掌を打ち合わすことを指し、中世後期以降の文章では頻繁に登場する。

「怪力亂神(くわいりよくらんしん)は、ひじりの掟にて、語らぬ事なり」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)に基づく語。「怪」は尋常でない事例を、「力」は粗野な力の強さを専ら問題とする話を、「亂」は道理に背いて社会を乱すような言動を、「神」は神妙不可思議、超自然的な人知では解明出来ず、理性を以ってしても説明不能の現象や事物を指す。孔子は「仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない」と諭すのである。しかし、この言葉は実は逆に、古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。

「慶長の末」慶長は二十年までで、一五九六年から一六一五年まで。慶長八年に江戸幕府が開府している。慶長二十年とすると、天正七(一五七九)年からだと、三十五年ある。玉川氏が二十代から三十半ばぐらいだったとすれば、不審ではない。]

怪談登志男 廿一、木曾路の蟒蛇 / 怪談登志男卷第四~了

 

  廿一、木曾路(きそぢ)の蟒蛇(うはばみ)

 信濃國沓掛(くつかけ)は、淺間山の裾野にして、こゝかしこ、燒石(やけいし)、落散(おちちり)、秋の末より、寒風に苦しび、過る人も稀にて、いと淋しさ所なり。夏は刈(かり)ほす秣(まくさ)なんど、㙒より山邊(べ)に、人の、おほく出で、營(いとなみ)、さまざま、おほし。

 爰に、小田井(おだゐ)の驛に、安川庄右衞門といふものは、家、冨、人、あまた仕ふ中に、壱人の男、馬を牽(ひゐ)て、裾野に出立、長(たけ)にあまる草の中を、かなたこなたと刈散(かりちら)して[やぶちゃん注:原本は「刈落(かりちら)して」。]、

『馬を、つながん。』

と思へど、あたり、皆、草のみにて、せんかたなく、そこら見𢌞したるに、むかし、山燒(やけ)の時、倒れたると見えて、まつくろに焦(こかれ)たる大木の、草むらに朽(くち)殘ちたるを、幸に、やがて、馬の端綱(はづな)を、つなぎとめ、何心なく、草を刈て居たるに、つなぎ置たる馬、頻(しきり)に高く嘶(いばひ)て、四足を空にし、飛て行。

 草刈、あはて、寄て見れば、馬を繫(つなぎ)し朽木、動き騷(さは)ぎて、馬に牽(ひか)れ走を見るより、大に驚き、足にまかせ、馬を慕(した)ひ、追行ければ、馬は、端綱を引きりて、廣野へ飛歸るを、

「得たり。」

と打乘り、一さんにはしりて、沓懸(くつかけ)の家居[やぶちゃん注:「いへゐ」。]、近くなりければ、跡、ふり返り見るに、件(くだん)の松の朽木と見しは、蟒蛇(うはばみ)にて、ほのほのごとくなる舌を出して、馬・人共に、唯(たゞ)、一吞(のみ)にせんありさま。

 間近く、追來りしに、日頃、馬に馴(なれ)たる一德、一息(いき)に人家へ乘込たれば、蛇(じや)は、何方へか去りけん、形もなく、漸[やぶちゃん注:「やうやう」。]、人心地つきしが、顏色(がんしよく)、土のごとく、

「からき命を助りぬ。」

と、悅あヘり[やぶちゃん注:「よころびあへり」。]。

 此日、沓掛の人家より、農(のう)人、あまた、草刈に出たるが、彼[やぶちゃん注:「かの」。]うはばみを見て、皆々、逃(にげ)歸りたり。

 或人、

「其面(つら)を見たるが、大さ、臼(うす)にも增りて見えたり。」

と、いひし。

 其長(たけ)は、何程、有つらん、二目[やぶちゃん注:原本は「一タ目」。]とも見ず、皆、逃たりと語りし。

 此事、ちかく享保年中の事なりとぞ。

 

[やぶちゃん注:「信濃國沓掛(くつかけ)」「沓懸(くつかけ)」中山道の旧沓掛宿(くつかけしゅく)。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢附近(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「淺間山」長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある現在は標高二千五百六十八メートルの、今も活発な活火山である。本篇は末尾に「享保年中」(一七一六年から一七三六年までで十二年に元文に改元される)のこととする。本書は寛延三(一七五〇)年に江戸で板行されている。さて、浅間山の噴火を見ると、享保六(一七二一)年に小噴火が起こり、有意な火砕物が降下して噴石のために登山者十五名死亡・重傷一名とある(ウィキの「浅間山」に拠る)。その後では、有名な「天明噴火」があるが、これは天明三年七月八日(一七八三年八月五日)である。本篇を殊更に実話として、この小噴火の前か後ろかなんどと検証する必要はないが、資料としては掲げておく。

「小田井(おだゐ)の驛」長野県佐久市小田井附近。直線で旧沓掛の南西十キロメートルほどに位置する。

「嘶(いばひ)て」「いばふ」(中古からの古語)は「嘶(いば)ゆ」の音変化で、「嘶(いなな)く」の意。

「四足を空にし」「人が落ち着きを失い、足が地につかないほどに浮き立つ」さまを、連語で「足(あし)を空にす」と古語で普通に言う。ここは「四足」は「しそく」と読んでおく。

「あはて」「慌て」。歴史的仮名遣は「あわて」でよい。

「慕(した)ひ」つけて。

「家居」集落。]

芥川龍之介書簡抄15 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通

 

大正二(一九一三)年八月四日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

朝床の中で君の手紙をよんだ

何にしても大した變動もなく事がすんだのなら御目出度いと思ふ 又君自身が正當と考へてした事ならそれは誰の考へるよりも更に正當なものでなければならないと思ふ(秋たつ頃に詳しい話をきかせてもらへるだらうと思ふけれど)ANATOLE FRANCE[やぶちゃん注:縦書。]がこんな事を云つてゐる

  You are not a child: if you love and are loved,

  do what you think right. and don't complicate

  love by material interests which have nothing

  to do with feeling. That is the advice of a friend.

咋日平塚を訪ねた 三中の宿直室も久しぶりで行つてみるとなつかしい まづしく土鉢の中にさく天竺蜀葵の赤もしめつぽいビスケツトをもつた白い皿も 静にあの四疊で獨乙語の独習をしてゐる平塚にはふさはしいやうな氣がする 平塚に依田が鵠沼へ行つた事をきいた それから依田から君が大へんふさいでゐる事をきいたと云ふ事もきいた どうしてふさいでゐるのかなつてきいて見たら平塚は幼稚な論理と單純な推側から君のふさいでゐる理由を体の弱い事と叔父さんに澤山用を云ひつけられる事とその二つから来る大學入學後の心配とに歸着させた それを聞いてる間に僕は平塚がしみじみ氣の毒になつた さうしてこんな事をきかなければよかつたと思つた それのみならず第一僕自身が君の内事をきくだけの資格があるだらうかとそれさへ疑はしくなつて來た そこで僕も其三つの理由に賛成して「さうにちがいない」と斷定に應援を添へてやつた そのあとで Grimm märchen の中のわからない所をきかれたが一寸よんでみても判然しないからいゝ加滅な事を敎へて「さうにちがいない 獨乙語にはこんな使ひ方が澤山ある」と誤譯にまで應援を加へて來た

六日の朝の汽車で僕はたつ事にした 行くさきは静岡縣安倍郡不二見村新定院

一二週間は西川と一緖にゐてあとは獨になるかもしれない 本を少しよむつもりでもつてゆくけれどこれも大部分よまずにもつてかへるやうな事になるかもしれない、

君の方も多分さうだらうが東京はこの二三日大へんすゞしかつた 少し眼がわるくなつた

杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]の銘を刻つて貰はうかとも思つてる 赤百合か何かの中に杖の頭へ女の泣顔を刻んで MISERY OF HUMANITY て云つてる詩人の事を思ひ出す

頭がわるくなつてすゞしくつても勉强が出來ない

 

   つかのまのゆめのなかなるつかのまをめづるあまりに身をおとしける

 

   あゝ遂にみぢかきゆめをつゞけゆく逸樂びととなりにけらしな

 

   によひよき絹の小枕(クツサン)薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓[やぶちゃん注:「によひ」はママ。]

 

   香料をふりそゝぎたるふしどより戀の柩にしくものはなし

 

いやみな歌だつてわらはれるかもしれない 午前十時サルヒアの花が暑い日の光を吸つてゐる

四日             龍

   JOY兄 案下

 

[やぶちゃん注:最初の引用英文は完全に続いて底本では二行であるが、二行目も二字下げであることから、ブラウザでの不具合も考えて、以上のように四行に分割した。短歌の前後は一行空けた。

「何にしても大した變動もなく事がすんだのなら御目出度いと思ふ 又君自身が正當と考へてした事ならそれは誰の考へるよりも更に正當なものでなければならないと思ふ(秋たつ頃に詳しい話をきかせてもらへるだらうと思ふけれど)」芥川龍之介が山本の気持ちの整理に一ヶ月ぐらいは時間がかかるらしいと踏んでいること、また、英文引用で家人の目に触れても意味が判らぬようにしている、その忠告の内容(後で訳す)、失恋の自作短歌を並べた後に「いやみな歌だつてわらはれるかもしれない」と言っていること、そうして何より、次に掲げる八月十一日の同じ山本宛書簡に於いて、俄然、芥川龍之介が自分自身の持つ結婚観をぶち上げ、しかもその中で、『第一に平凡な世間並の忠告――愛さない女はもらふな――を第二に自分を理解する事の出來ない女をもらふなをすゝめたいと思ふ』と記していることからも、ここで起こった山本を廻る家内の騒擾は、親から示された山本の婚約・結婚話を山本が拒否したことに基づくものではないかと想像される。

「ANATOLE FRANCE」芥川龍之介の好きなフランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)。以下のその引用(小説から。後述する)は、

   *

 あなたは子供ではない。あなたが人を愛し、愛されているのなら、あなたが正当であると思うことをするべきであって、感情とは何の関係もない物質的な興味などによって、愛を複雑にしてはならない。それが友人としての忠告である。

   *

か。これは一八九四年に発表された、恋愛長編小説「紅い百合」(Le Lys Rouge:十九世紀末のパリとフィレンツェを舞台として軽薄奢侈な社交界に飽きて真実の愛と自由を求めた貴婦人テレーズの官能的で儚い恋愛模様を描く)の「XVII」(第十七章)の末尾に現われる台詞である。例えば、Internet archive」にある英訳本(発行は原作と同年)のここを見られたい(右の「167」ページ七行目)。今少しボリュームがあるが、ほぼ同一の内容の英訳が読める。

「平塚」既注。「僕は平塚がしみじみ氣の毒になつた」理由もそちらで判るように注してある。

「天竺蜀葵」フウロソウ目フウロソウ科テンジクアオイ属 Pelargonium のことであるが、一般には「ゼラニウム」の名で知られる園芸品種である。当該ウィキによれば、属名は『ギリシャ語の「こうのとり」』(ラテン文字転写:pelargo)」『に由来し、果実に錐状の突起があり、こうのとりのくちばしに似ているためである』。『普通、園芸植物として栽培されるものはゼラニウムと総称されるが、紛らわしいことに、ゼラニウムとは同じ科のゲンノショウコなどが含まれるフウロソウ属(Geranium)のことでもある。この』二『つの属に属する植物は元は Geranium 属にまとめられていたが』、一七八九年に『多肉質の Pelargonium 属を分離した。園芸植物として栽培されていたテンジクアオイ類はこのときに Pelargonium 属に入ったのであるが、古くから Geranium(ゼラニウム、ゲラニウム)の名で親しまれてきたために、園芸名としてはゼラニウムの呼び名が残ったのである。園芸店などでも、本属植物の一部をラテン名でペラルゴニウム(Pelargonium )で呼び、その一方で本属植物の一部を「ゼラニウム」と呼んでいることがあり、これらは全然』、『別の植物のような印象を与えていることがある。ペラルゴニウムとゼラニウムを意識的に区別している場合は、ペラルゴニウム属のうち』、『一季咲きのものをペラルゴニウム、四季咲きのものをゼラニウムとしているようである』。『最初に栽培されたのは南アフリカ原産の Pelargonium triste である』(この元品種、調べてみたが、岩のような塊根で花も地味で、凡そ私の「ゼラニムウム」のイメージではない(愛好家には人気種である)。種小名「トリステ」でこれはラテン語の「つまらない・鈍い・さえない」で、同種の小さい地味な花に由来しているらしい)。『バラを思わせる芳香を持つPelargonium graveolens は』単に「ゼラニウム」、或いは「ローズ・ゼラニウム」、別に「貧乏人の薔薇」『(英語:poor-man's rose)と呼ばれ、和名は「匂い天竺葵」。香水や香料の原料として昔から栽培されていた』とある。

「依田」依田誠。龍之介の三中時代の同級生。三年次、担任で英語教師であった広瀬雄(芥川龍之介書簡既出)と龍之介と三人で明治四一(一九〇八)年七月の夏休みに関西旅行に出かけ、高野山などを訪れている。

「Grimm の märchen」「グリムのメルヒェン」。グリム兄弟の御伽噺。

「六日の朝の汽車で僕はたつ事にした 行くさきは静岡縣安倍郡不二見村新定院」「一二週間は西川と一緖にゐてあとは獨になるかもしれない 本を少しよむつもりでもつてゆくけれどこれも大部分よまずにもつてかへるやうな事になるかもしれない」既注

「杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語の銘を刻つて貰はうかとも思つてる」芥川龍之介は終生、ステッキ好きであった。私の、芥川龍之介を素材とした田中純の実名小説「二本のステッキ」(昭和三一(一九五六)年二月『小説新潮』発表。佐藤泰治の挿絵)を読まれたい。

「MISERY OF HUMANITY」「人類の悲惨さ」。フランス語なら、‘La misère de la vie’か。私の好きなドリュ・ラ・ロシェル(Drieu La Rochelle)の‘Le Feu Follet’(「消えゆく炎」・「鬼火」。私のサイト・ブログ名の起原)の主人公 Alain Leroy の言いそうな台詞だ。フランス語原本初版の‘Le Lys Rougeも「Internet archive」で縦覧したが、相応するシークエンスには行き当たらなかった。龍之介自身が「赤百合か何かの中に」と言っているので、最低限度以上(フル・テクストの各単語による検索)に穿鑿する気にならなかった。悪しからず。

「小枕(クツサン)」「クツサン」はルビ。フランス語 ‘coussin’。クッサン。「クッション」のこと。

「サルヒア」シソ目シソ科イヌハッカ亜科ハッカ連アキギリ属サルビア Salvia splendens

「JOY」英語で「喜び」の意であるから、山本の名の「喜譽司」に掛けた英語の綽名であろう。この前の八月一日附書簡でも宛名・敬称に『M. JOY 案下』と既に記している。実は「J」は下方が有意に長く伸びている活字なのだが、表示出来ない(以下も同じ)。]

 

 

大正二(一九一三)年八月八日・不二見村新定院発信・淺野三千三宛(絵葉書)

 

僕はこんな寶物をみるのがすきです本物でも贋でもかまはない唯其製作者か所持者が古ければ古い程いゝのです丁度古老の口から中世紀の傳說をきいてゐる樣な気がするからです眞贋とか作の善惡とかを標準にして寶物を拜見するほど人の好いのんきな事はないと思ひます此處には此外に蜷川新左衞門の念持佛と云ふしやれた觀音樣があります顔の長い未來派の作品の樣な觀音さまです

    八日朝  蜜柑の木の下にて 芥川生

 

[やぶちゃん注:既注の臨済宗妙心寺派雲門山新定院の歴史は公式サイトのこちらを参照されたい。

「淺野三千三」(みちぞう 明治二七(一八九四)年~昭和二三(一九四八)年)は千葉県生まれで、三中の芥川龍之介の後輩。後に東京帝国大学薬学科に入学し、大正八(一九一九)年に卒業後、母校帝大薬科の教授となり、「伝染病研究所」化学部・薬学科植物化学・生薬学講座を担当した。地依成分研究で知られ、脂肪族地依酸を五型に分類し、その体系化を図り、微生物領域の脂肪酸研究を進めるなど、天然物有機化学の分野で大きな業績を残した。昭和一一(一九三六)年の「プルビン酸系地依色素に関する研究」で学士院賞を受賞、没した翌年には「ジフテリア菌脂肪酸の研究」に対して日本薬学会学術賞が贈られている。

「蜷川新左衞門」は室町時代の連歌師で俗名を蜷川新右衛門親当(ちかまさ)と言った智蘊(ちうん ?~文安五(一四四八)年)のことか。宮道(みやじ)氏の出で、足利義教に仕えたが、義教の死後に出家し、智蘊と称した。和歌を清巌正徹に学び、「正徹物語」下巻は彼の聞き書きとされる。連歌では、後に飯尾宗祇が選んだ「連歌七賢」の一人とされ、永享五(一四三三)年の「「北野社一日一万句連歌」に参加するなどして活躍した。高山宗砌とともに連歌中興の祖となった人物で、「一休さん」の相手としてもお馴染みである。但し、現在の新定院の寺宝には記されていない。聖観世音菩薩はあるが、それがこれかどうかは判らぬ。]

 

 

大正二(一九一三)年八月十一日(年月推定)・「相州高座郡鵠沼村加賀本樣別莊にて」・山本喜譽司樣 親披

 

     +

君の手紙をみていろいろな事を考へた 僕は容易に自分を忘れる事の出来ない性分だから何を考へるのでも必自分が中心になる だから僕の考へは僕だけに通用する考へは人には通用しないのにちがひない けれども君の手紙をみたら何か書きたくなつたからとりとめのない考をかいて送らうと思ふ 此 ink の色が僕は大嫌なのだが外に ink がないから仕方がない 紙も Note‐book からさいた罫紙の外に紙がないのだから仕方がない

     +

僕には結婚が〝二個のbeimgの醜い結合〟とも〝corps of love〟とも考へられない かうした語が普遍的な意味を持つてゐるのでなく世間並な結婚に對する嘲罵の語であるなら贊同の意を表さない事もないが結婚と云ふ事が其事の性質上必然的にかうした語のやうな結果に陷らねばならぬと云ふ事はどうしても信ずる事が出來ない(僕は夢想家だからこれも illusion の一つかもしれないが)僕は結婚によつて我々の生活は完成を告げると思ふ しかしこゝに云ふ結婚を世間並に一對の男女を結びつける形式と考へたら大へんな間違になる 結婚と云ふのは宇宙に存在する二の實在が一体になる事を云ふのだ 原始神の炎のやうな熱と愛とを以て二つの星宿を一つの光芒の中に合せしめる事を云ふのだ 二實在が一体[やぶちゃん注:ママ。]をなす爲には先其間に愛がなければならない(僕は性欲と愛とを同一とは考へない)次いでは其間に円満な理解がなければならない この二物を缺いた結婚は葡萄も酵母も持たない酒造りで生活の酒は決して其手から釀される事はないと思ふ かうして自己が他人の中に生き又他人が自己の中に生きる落寞とした〝生〟の路はかくして始めて薔薇と百合とに蔽はれる事が出來るのではないか 人はかう云ふかもしれない〝それなら二人の男女が相愛すればいゝではないか 何に苦んで結婚と云ふ Bond を帶びる必要があらう〟しかし人間はアダムとイブとの樣に生きてゐるのではない 個人は社會と對立してゐる 結婚の Bond なくして同じき結果を得んが爲に他の欲望を犧牲にしなければならぬ(たとへば道義慾)さうすると結婚の Bond を帶びると云ふ事は一所に死して萬所に生きるのである 一所に死するのではない その結婚の完全に行はるゝ限り唯萬所に生きるのである どうして之が love corps であらう

IBSEN は結婚問題に解決を與へて相愛する男女は結婚するなと云つてゐる しかし之は解決ではないと思ふ 何となれば問題は how にあるのに IBSEN は問題そのものを否定する だから之は無解決と同じである

君の場合に於ても僕としてすゝめ得る事があるなら第一に平凡な世間並の忠告――愛さない女はもらふな――を第二に自分を理解する事の出來ない女をもらふなをすゝめたいと思ふ

理解し得る得ないは女の敎育程度の如何にあるのではない 女の頭のいゝ惡いにあるのではない(全然之によらないとも云へない 少くも敎育程度の如何が理解に關係するより頭の善惡が理解に關係する方が遙に多いと思ふ)自分のと同じ心の傾向を持つてゐるかどうか 自分と同じ感情を持つ事が出來るかどうかにあると思ふ

僕のいゝかげんな想像を元にして推想してみるとお鶴さんを貰ふのが一番よささうだ しかしさうなるとおしもさんも少しかはいさうだなと思ふ 一寸二人とも見たいやうな氣もする

さうさうもう一つかく事があつた 一度嫁に行つた女はいけない 別れたのでもつれあひがしんだのでもその男の幽靈がついてゐるからね

よみかへしてみると議論が甚 conventional な上に實際自分はこんなに結婚を高く estimateしてゐるかなと疑はしくもなつた いゝやどうせなまけものがなまけながら考へた事だ そのつもりで君もよんでくれるだらう

何でも人の噂によると僕は influencial で人にbad influenceを及ぼしながら自分はすまして見てゐるのださうだ 僕の云ふ事は皆詭弁で Paradox で論理を無視してゐるのださうだ もしさうなら君もこんな手紙のinfluence なんかうけないやうにしたまヘ

僕はいつかも日記にかいた事がある「我 我と同じくつくられたる人を求む かゝる人ありやなしや われは之をしらずされど何となく世界のいづくかにかゝる人ありてわれをまてるが如き心ちするなり これ亦夢なるやも知らざれどかゝる人なくしては われ 生くるに堪へず」一人でもいゝ 一人でもいゝと思ふ 年上でも年下でもいゝ 男でも女でらいゝと思ふ かぎりなくさびしい 僕は何時でもかぎりなくさびしい

そのうちに君にあひたい 事によつたら東京へかへる時に鵠沼へ二三時間よるか藤澤迄君に出て來てもらふかもしれない

    十一日朝   蜜柑の木の下にて 龍

   MY‘JOY’

 

[やぶちゃん注:「相州高座郡鵠沼村加賀本樣別莊にて」二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」(石割透編)では「にて」が『から』となっているが、孰れも不審である。この住所は当時、山本の居た住所であり、この発信日には龍之介は清水の新定院にいた。従ってこれは芥川龍之介の誤記と考えられる。にしても、底本の旧全集と以上が異なるのは、これまた、おかしな話である。新全集を所持しないので判らぬ。石割氏はこの不審に注してもいない。

「beimg」存在物。人間。

「corps of love」「恋愛感情の群れ」か。

「illusion」幻想・錯覚・迷い・勘違い・誤解。

「Bond」ポジティヴには「絆(きづな)」であるが、龍之介は以下でフラットな「結合・同盟・盟約」、さらにはネガティヴな「束縛・拘束」の意も含ませているように読める。

「IBSEN」既出既注のノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)。

「相愛する男女は結婚するなと云つてゐる」イプセンの「人形の家」を始めとして、彼がそう訴えているのは判る。

「how」どのようにするべきか。

「お鶴さん」岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の注で石割氏は、『本所で「藍問屋」を営んでいた娘。「本所両国」(一九二七年)では、山本の姪の芥川夫人が、山本が「好きだつた人」と話している』とある。芥川龍之介の「本所兩國」(リンク先は私の電子化注)は最晩年の昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(二回休載)で、『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記四六――六〇」を附して、連載されたもの。当時は龍之介は大阪毎日新聞社の特別社員であった。その「方丈記」と題した一節で、旧地の本所をその日訪ねて田端の家に帰り、家族らと話をする中で、

   *

 妻「お鶴さんの家はどうなつたでせう?」

 僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋の娘さんか。」

 妻「ええ、兄さんの好きだつた人。」

 僕「あの家どうだつたかな。兄さんのためにも見て來るんだつけ。尤も前は通つたんだけれども。」

   *

と出るのを指す。

「おしもさん」不詳。宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊・旧全集対象)の「人名索引」でもこの書簡のみを指示する。

「一度嫁に行つた女はいけない 別れたのでもつれあひがしんだのでもその男の幽靈がついてゐるからね」これは実の姉ヒサを念頭に置いていると考えられる。既に注した通り、彼女は葛巻義定(義敏は彼との間の子)と結婚したが、明治四三(一九一〇)年九月に離婚している(後にヒサは西川豊と再婚したが、彼が鉄道自殺し、晩年の芥川龍之介はその後始末に奔走する羽目となり、龍之介は遺書(リンク先は「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)でこの実姉ヒサ及び実弟新原得二と義絶することを妻文に命じていたと推定されている(その部分は死後に遺族によって破棄されている。因みにそこには義敏の扶養の指示もあったと推定される)。なお、ヒサはその後に最初の夫である義定と再々婚している)。

conventional」因習的な・紋切り型の・独創性を欠いた・陳腐な。

estimate」見積もる・評価する・価値判断する。

「influencial」influential であろう。他者に対して有意な影響を及ぼすさまを謂う。

「bad influence」悪い影響。

「Paradox」逆説。

『僕はいつかも日記にかいた事がある「我 我と同じくつくられたる人を求む かゝる人ありやなしや われは之をしらずされど何となく世界のいづくかにかゝる人ありてわれをまてるが如き心ちするなり これ亦夢なるやも知らざれどかゝる人なくしては われ 生くるに堪へず」一人でもいゝ 一人でもいゝと思ふ 年上でも年下でもいゝ 男でも女でらいゝと思ふ かぎりなくさびしい 僕は何時でもかぎりなくさびしい』これは、芥川龍之介の後の、多数の女性との恋愛関係を持つことになることを知っている我々には、何んとも言えぬ、甚だ苦いものを感じさせざるを得ない。しかも、この時、龍之介は、相手の山本の姪である塚本文のことを、未だ、その恋愛対象の範疇に、一抹も全く含んでいなかったであろうことを思うにつけても、である。]

2021/02/15

怪談登志男卷第四 二十、舩中の怪異


   二十、舩中(せんちう)の怪異(あやしひ)

Ayakasi

[やぶちゃん注:標題の「怪異」の読みはママ。見られたいが、「あやしい」とも読めなくもないが、名詞でないとおかしいので「あやしび」の濁点無表記ととっておく。因みに本文に出る「あやかし」では絶対にない。挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像をトリミングした。]

 

 「物は、皆、あたらしき、吉[やぶちゃん注:「よし」。]、唯(たゞ)、人は、古(ふり)たるのみぞ、宜(よろし)かりけり」とは、萬葉の歌とかや。げに、さる事なり。人は、つねに老(おい)たる人の差圖(さしづ)に隨へば、あやまり、すくなし。何程(なにほど)、「賢し」と、みづからも思ひ、他人も譽(ほむ)る人も、若きは、世變(へん)[やぶちゃん注:「せいへん」。]に馴(なれ)ず、つまづく事、おほし。これを、「老圃(らうほ)・老農(らふのふ)に問ふ」とて、其道々の事は、いやしき業(わさ)する者にも、謙(へりくたり)て、問ふが、よし。

 一歲[やぶちゃん注:「ひととせ」。ある年。]、長崎へ赴きし人の、歸りて語りしは、長州下の關より、豐前の内裏(たいり)へ、此間、一里が程の舩中にて、舩長(ふなおさ)の冨藏(とみそう)が物語せしは、

「『此所を乘通る舩に、「盛衰記(せいすいき)」・「平家物語」などの双紙(そうし)あれば、必[やぶちゃん注:「かならず」。]、其船に、難(なん)あり』。又、『古き物語など、語り慰(なくさ)む中に、若(もし)、元曆(けんりやく)・壽永(しゆゑい)のむかしを語り出せば[やぶちゃん注:「いだせば」。]、必、妖怪(あやかし)あり』とて、老て物馴(なれ)たる舩頭は、きびしく禁(いましむ)。」

とぞ。

 爰に、一とせ、西國方へ下る武士の、此所の磯に舩懸(かゝり)して、日も漸々(やうやう)、かたぶき、雨雲、催(もよ)ふし、心細きに、壹越調(こつてう)を出して、『長門(なかと)の國へもかたむきひかふと聞しかば、又、舩にとりのりて、いづくともなく、おし出す。心の内ぞ、哀なる、保元の春のはな、壽永の秋の紅葉とて、ちりぢりになり、うかぶ一葉の舟なれや、柳が浦の秋嵐の、追手がほなる跡の浪(なみ)、白鷺(さき)のむれ居る松見れば、源氏の旗をなびかす多勢かと、肝を消す』と、舷(はた)、叩(たたき)、うたひながら、海上を見やりたれば、沖の方より、波につれて、白々と、漂ふ物、有。

 幾等(いくら)ともなく、見へけるを、心を留て、能[やぶちゃん注:「よく」。]見れば、皆、是、女の首(くひ)ばかり。

 雪のかんばせ、みどりの髮、

「さつ」

と、ちらして、波間に亂し、目と、めを、見合[やぶちゃん注:「みあひ」。]、

「わつ」

と叫んびたるやう、おそろしく、あはれに、物凄き事、いふばかりなし。

 舩底に居たる人に、

「あれ、見給へや、あれ、あれ。」

と、いふうちに、皆々、波に打かくされて、跡には、白浪、のみ。

 夜、既に三更[やぶちゃん注:午後十一時又は午前零時からの二時間。]に及び、滿舩(まんせん)の淸夢(せいむ)、星河(せいか)を壓(おす)。

 夜あけて、此事を人々に語りしを、乘合たる老人、急に押留て、

「舩中にては、左樣の噂は、いわぬ物なり。」

とて、其後は此事、語り出ず、まして、平家の事ある謠(うたひ)・淨瑠璃等(とう)も堅く愼(つゝしみ)ければ、其後は、さして、怪しき事も見ず、つゝがなく、長崎におもむきけるとぞ。

 又、ある武士、主君の御供して、西國へ下向するとて、一の谷・須磨の邊より、日暮、風、替り、後(うしろ)の山風、吹落(ふきをち)て、舩板にひゞく波の鼓(つゝみ)に、夢も破れて漂ふ所に、見渡したる海上、拾町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]もやあらん、此舩より先へ、大舩一艘、浮(うか)み見えたり。

 近く成時、挑灯(てうちん)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。以下同じ。]の紋(もん)を見れば、主人の關(せき)舩なり。

「供(とも)舩の中にも、此舩は、先達て押(おす)べき手配(てくばり)なるに、今、本舩の後(あと)へ下るは、いかなる間違にや。」

と、上下、騷動し、水主(かこ)に聲をはげまし、しばらく挑灯を消し、

「何とぞして、主人の御座舩を漕(こぎ)ぬけばや。」

と、片帆(かたほ)に掛(かけ)て押(おす)程に、

「今は、さりとも、こぎぬけつらん。」

と見渡せば、件(くだん)の關舩、蝶(てう)・鳥(とり)などの舞(まふ)やうに、幽(かすか)に成ほど、先へ行。

 舩中、猶々、力を落し、

「追風も、汐(しほ)も、心の儘なり。いかゞして、此舩の、是程には、おくれたるぞ。」

と、手に汗(あせ)握りて、身をもだへたるを、舩頭、急度[やぶちゃん注:「きつと」。オノマトペイア的副詞で「即座に・キッ! と」。]、思ひ出し、小聲になりて、

「此海上には、『あやかし』と申[やぶちゃん注:「まうす」。]事、侍りて、樣々の形を顯(あらは)し、山を見せ、陸(くが)を見せ、舩となり、人とあらはれ、圍洲(いす)へ乘かけさせて、此[やぶちゃん注:「これ」。]、舩、損(そん)ぜんたくみにて、種々(しゆしゆ)の形の見ゆる事の候。殿の御紋の見へたる舩は、『怪(あやかし)』にて候はん。其證據には、波の立樣、潮[やぶちゃん注:「うしほ」。]の色、舩路(ぢ)にて候はず。各樣[やぶちゃん注:「おのおのさま」。皆さま。]、以後の御難には成まじくと奉ㇾ存間[やぶちゃん注:「ぞんじたてまつりさふらふあひだ」。]、しばらく、此御舩をば、湊(みなと)を目掛(かけ)て、着(つけ)申べし。夜のあけなん程、御見合[やぶちゃん注:「おみあはせ」。]有べし。」

といふに、人々、心付て、

「兎も角も、汝等(なんじら)、心得よ。」

と、舩頭も、乘人(のりて)も、漸(やうやう)、圍洲をまぬがれて、「阿古が崎」といふ浦ヘ、舩を付て[やぶちゃん注:「つけて」。]、東の空を詠居たれば[やぶちゃん注:「ながめゐたれば」。]、夜も、ほのぼのと、あけわたりぬ。

 斯(かく)ても、前後に關舩は見えず。

「乘出さんか、いかゞ。」

と評議したる時、はるか南に、殿の關舩、見へ來れり。

「扨こそ。宵に見しは、『怪(あやか)し』にてありけり。はやく心付て、危き難を遁(のが)れたり。」

と、舩頭に褒美して、是より、前後の備へをみださず、つゝがなく、主人の供して下りしとぞ。

 かゝる怪しき事、まゝあれば、ものなれたる人の言葉に從ひたるが、よし。

 舩中に限らず、万の事、若き人は、老人に聞合たるが[やぶちゃん注:「ききあはせたるが」。]、よろしきなり。己が才にほこり、老人を、あなどるべからず。

[やぶちゃん注:底本では「舩」は総て「船」であるが、原本が総て「舩」なのでそれで揃えた。

『「物は、皆、あたらしき、吉、唯(たゞ)、人は、古(ふり)たるのみぞ、宜か(よろし)りけり」とは、萬葉の歌とかや』「万葉集」巻第十「春の雜歌」の一首(一八八五番)。前の歌への応じたものと思われるので、一八八四番と並べて示す。

   *

 

    舊(ふ)りぬるを歎く

 冬過ぎて

  春の來たれば

    年月は

   新(あらた)れども

       人は舊りゆく

 

 物皆(ものみな)は

  新(あらた)しき吉(よ)し

    ただしくも

   人は舊りにし

       宜しかるべし

 

   *

「あらたし」は間違いではない。「あらたし」こそが「新しい」の意で、「あたらし」は「惜しい」の意である。後者も結局は語源的には「あらたし」の音位の転倒によって、平安時代に「あたらし」となり、それが主となってしまって現代語の「新しい」となったものである。なお、古語の「あたらし」の意味は「勿体ない」の意として、現在も「あたら、命を粗末にして」等の用法や、一部の方言強調語としての「あったら」として残っている。

「老圃(らうほ)・老農(らふのふ)に問ふ」「老圃」も「老農」も、「農事に熟練している人」「長く耕作に従事して経験の豊かな農夫」の意。一般には「稼(か)は老農に如かず、圃は老圃に如かず」で知られる。「稼」は「穀物」で、「圃」は「蔬菜を植えること」で、孰れも農事である。原拠は「論語」の「子路」で、

   *

樊遲請學稼、子曰、「吾不如老農。」。請學爲圃、曰、「吾不如老圃。」。樊遲出、子曰、「小人哉、樊須也。上好禮、民莫敢不敬。上好義、則民莫敢不服。上好信、則民莫敢不用情、夫如是、則四方之民襁負其子而至矣、焉用稼。」。

   *

 樊遲(はんち)、

「稼(か)を學ばん。」

と請ふ。子、曰はく、

「吾、老農に如かず。」

と。

「圃(ほ)を爲(つく)るを學ばん。」

と請ふ。曰はく、

「吾、老圃に如かず。」

 樊遲、出づ。

 子、曰はく、

「小人(せうじん)なるかな、樊須(はんしゆ)や。上(かみ)、禮を好まば、則ち、民、敢(あ)へて敬せざる莫(な)し。上、義を好まば、則ち、民、敢へて服さざる莫し。上、信を好まば、則ち、民、敢へて情を用ひざる莫し。夫れ、是くのごとくんば、則ち、四方の民は、其の子を襁(むつき)負おひ而して至らん。焉(いづくん)ぞ、稼を用ひんや。」

と。

   *

「百姓仕事なら年とった農夫に聞けば、一番よく判る」で、「直接にそのことに携わっている者が、その万事に最もよく通じていること」の喩え。「蛇の道は蛇」「餅は餅屋」に同じ。

「豐前の内裏(たいり)」「だいり」。旧豊前大里(おおさと)宿。現在の福岡県北九州市門司区大里本町附近(グーグル・マップ・データ)。古くは「柳」や「柳ヶ浦」と呼ばれていたが、平安時代から「内裏(だいり)」と呼ばれるようになった。江戸時代になって、朝廷から「異国族舟平定」の命を受けたため、時の藩主が「内裏という名の海に血を流すのは畏れ多い」として「大里」に書き改めたという。参勤交代の宿場として発展したが、幕末の内戦によって多くが焼失してしまい、現存するものは殆どない(以上は「門司区」公式サイト内のこちらの解説に拠った)。

「盛衰記(せいすいき)」私は個人的は「げんぺいじやうすいき」と読むことにしている。

「元曆(けんりやく)・壽永(しゆゑい)」年表的には「寿永」(じゅえい)が先。「養和」の後で「元暦」(げんりゃく)の前。一一八二年から一一八四年までの期間を指す。源平の「治承・寿永の乱」の時代であったため、源頼朝の源氏方では、この元号を使用せず、養和の前の治承(私は「ちしょう」と読むことにしている。現行の年譜上では一一七七年から一一八一年までの期間を指す)を引き続き、使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格的に行われ、朝廷から寿永二年十月の宣旨が与えられた寿永二(一一八三)年以降は、京に合わせた元号が鎌倉でも用いられることになった。逆に、平家方では「都落ち」した後も、次の「元暦」と、それに次ぐ「文治」の元号を使用せず、この「寿永」を、その滅亡に至るまで使用し続けた。元暦は一一八四年から一一八五年。

「妖怪(あやかし)」「あやかし」と言う語は、現行では不思議な対象や「妖怪」の意で広く用いられることが多くなったが、第一義としては、本来は狭義に海の怪異や海の妖怪の名として用いるのが正しく、船が難破する際に海上に現れるという化け物で、舟幽霊や海坊主に強い親和性を持った海産妖怪である。但し、私も響きが「えうくわい(ようかい)」「ばけもの」「おばけ」より遙かにお洒落で好みなために、海の妖怪以外にも頻繁に広義に用いてしまっていることは告白せねばならない。ウィキの「アヤカシ(妖怪)」によれば、『「あやかし」は、日本における海上の妖怪や怪異の総称』。『長崎県では海上に現れる怪火をこう呼び、山口県や佐賀県では船を沈める船幽霊をこう呼ぶ』。『西国の海では、海で死んだ者が仲間を捕えるために現れるものだという』。『対馬では「アヤカシの怪火」ともいって』、『夕暮れに海岸に現れ、火の中に子供が歩いているように見えるという。沖合いでは怪火が山に化けて船の行く手を妨げるといい、山を避けずに思い切ってぶつかると消えてしまうといわれる』。『また、実在の魚であるコバンザメ』(条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属 Echeneis のコバンザメ類)『が船底に貼り付くと船が動かなくなるとの俗信から、コバンザメもまたアヤカシの異称で呼ばれた』。『鳥山石燕は』「今昔百鬼拾遺」(安永一〇(一七八一)年板行の妖怪画集)『「あやかし」の名で巨大な海蛇を描いているが、これはイクチのこととされている』(「いくち」については、私が喋り出すとエンドレスになるので、私の古い電子化注「耳囊 卷之三 海上にいくじといふものゝ事」の私の注を参照されたい。全く独自の正体説をブイブイ言わせている)。『江戸時代の怪談集『怪談老の杖』に、以下のような記述がある』。『千葉県長生郡大東崎でのこと。ある船乗りが水を求めて陸に上がった』。『美しい女が井戸で水を汲んでいたので、水をわけてもらって船に戻った。船頭にこのことを話すと、船頭は言った』。『「そんなところに井戸はない。昔、同じように水を求めて陸に上がった者が行方知れずになった。その女はアヤカシだ」』。『頭が急いで船を出したところ、女が追いかけて来て船体に噛り付いた。すかさず櫓で叩いて追い払い、逃げ延びることができたという』とある。

「壹越調(こつてう)」「壱越調」(現代仮名遣「いちこつちょう」)の原義は、雅楽の六調子の一つで「壱越」の音、則ち、洋楽音名の「ニ」の音(D・「レ」)を主音とした音階。但し、ここは「低い声の調子」の謂いであろう。他に「張り上げた声」の意もあるが、ここに相応しくない。

「長門(なかと)の國へもかたむきひかふと聞しかば、又、舩にとりのりて、いづくともなく、おし出す。心の内ぞ、哀なる、保元の春のはな、壽永の秋の紅葉とて、ちりぢりになり、うかぶ一葉の舟なれや、柳が浦の秋嵐の、追手がほなる跡の浪(なみ)、白鷺(さき)のむれ居る松見れば、源氏の旗をなびかす多勢かと、肝を消す」修羅能の代表的な一つとして知られる世阿弥が出家する以前の自信作の一つとする謡曲「清経」の一節。

   *

〽〔地〕 かかりける所に 長門の國へも 敵向ふと聞きしかば また舟にとり乗りて いづくともなく押し出だす 心の内ぞ哀れなる げにや世の中の 移る夢こそまことなれ 保元の春の花 壽永の秋の紅葉とて 散りぢりになり浮かむ 一葉の舟なれや 柳が浦の秋風の 追手顏なる後の波 白鷺の群れ居る松見れば 源氏の旗を靡かす 多勢かと肝を消す ここに淸経は 心を籠めて思ふやう さるにても八幡の ご託宣あらたに 心根に殘ることわり まこと正直の 頭(かうべ)に宿り給ふかと ただ一筋に思ひ取り

   *

「舷(はた)」「舷(ふなばた)」。

「舩底に居たる人」舟の中で横になっていた人。

「滿舩(まんせん)の淸夢(せいむ)、星河(せいか)を壓(おす)」元末明初の詩人唐珙(字は温如)の七絶「題龍陽縣靑草湖」(龍陽縣の靑草湖に題す)という題の以下の結句らしい。

   *

西風吹老洞庭波

一夜湘君白髮多

醉後不知天在水

滿船淸夢壓星河

 西風 吹き 老洞庭の波

 一夜 湘君 白髮 多し

 醉後 知らず 天 水に在るを

 滿船の淸夢 星河を壓(お)す

   *

満点の星が反映した小船の中の小宇宙の清らか夢は、虚空の無限にして夢幻の天の川へと、この小舟を大船の如くに押し出だすとでも言うのか? この詩、知らなかったが、なかなかいい。

「關(せき)舩」「せきぶね」。中型の軍用船の呼称。当該ウィキによれば、『日本の水軍で中世後半(戦国時代)から近世(江戸時代)にかけて使われた。大型の安宅船』(あたけぶね)『と、小型の小早』(こはや)との中間の大きさの軍船。『性能的には安宅船より攻撃力や防御力に劣るが、小回りが利き、また速力が出るため』、『機動力に優る。安宅船を戦艦に喩えるなら、関船は巡洋艦に相当する艦種である。名称の由来も、この種の船が機動性に優れていて、航行する他の船舶に乗りつけて』、『通行料を徴収する水上の関所としての役割に適したことに基づくといわれる』。また、「日葡辞書」には「xeqi」(関)を「関所」・「海賊」、「xeqibune」を『「海賊船」と記しており、水上の関所と海賊衆、そして関船が密接な関係にあったことを示唆している』。『構造的に見ると、船体のほぼ全長に渡り矢倉と呼ばれる甲板を張った上部構造物を有する形態(総矢倉)で、艪(ろ)の数が』四十から八十挺で『あるものが関船に該当するとされる。総矢倉を有する点では安宅船と共通するが、安宅船の船首が伊勢型や二形型の角ばって水中抵抗の大きな構造だったのと異なり、一本水押』(いっぽんみよし:船首にある部材で、波を切る木。舳先が純粋に一本のみのもの)『の尖った船首である。船体の縦横比も安宅船よりも細長く、高速航行に適している。一本水押』『など基本的な構造は、江戸期の主力商船である弁才船に近い。総矢倉の周囲は楯板と呼ばれる木製装甲で囲われており、戦闘員や艪をこぐ水夫を矢や銃弾から保護しているが』、『安宅船よりも楯板が薄く防弾性能は低い。軽量化のため竹製の楯板になっていることもある。帆柱は取り外し可能で、巡航時には帆走し、戦闘時に帆柱を矢倉の上に倒して艪によって航行する』。『攻撃手段としては、乗船した武者が装備する火縄銃や弓矢による射撃と、敵船に接舷しての移乗攻撃が主なものである。射撃のため、楯板には狭間と呼ばれる銃眼が設けられている。当時の和船に共通する特徴として、関船も竜骨を用いずに板材を釘と』、『かすがい』『で繋ぎ止める造船法をとっており、軽量かつ頑丈であるものの、衝突による破損には弱く体当たり攻撃には適さない。そのため、西洋船や中国船より採れる戦術の幅が狭い』。『江戸時代に入ると幕府により』五百『石積み以上の大型軍船の建造が禁止されたこと(大船建造の禁)と、平時の海上取り締りには』、『安宅船よりも快速の関船のほうが使い勝手に優れることから、関船が最も大型の軍船となった。西国諸大名が参勤交代に用いる御座船にも、豪奢な装飾が施された関船が用いられるようになった。幕府も将軍の御座船として関船「天地丸」を使用している』とあるから、ロケーションとしても腑に落ちる。

「しばらく挑灯を消し」命に反して遅れているために、本船の者に気づかれぬように灯を消して運航したのである。

「圍洲(いす)」これが判らぬのだが、恐らくは突如、あり得ない深いはずの海の海上に出現するところの怪砂州・怪岩礁である。こいつは、一発で座礁させてしまい、乗り手が助かる可能性も低いから、凶悪にして致命的な「あやかし」の一つである。私が直ちに想起したのは、復刻を所持する「絵本百物語」(天保一二(一八四一)年板行の彩色絵入奇談集。桃花山人著(江戸後期の戯作者桃花園三千麿のことともするが、実際には不詳である。挿絵は竹原春泉斎である)の三巻の六丁に出る「赤ゑいの魚」である。ウィキにそれを単独で扱った「赤えい(妖怪)」があり、図もここで見られる。私は、真正の海異としての「あやかし」の有力な一つとして、ポピュラーなチャンピオン「舟幽霊」と「海坊主」の三番手に挙げたいのが、実はこいつなのである。

「阿古が崎」この名では不詳。しかし、これは先に「一の谷・須磨」の南の瀬戸内海を航行しているのだから、「あこがさき」→「あこうがさき」で、兵庫県赤穂市御崎(みさき)(グーグル・マップ・データ)のことではなかろうか?

「はるか南に、殿の關舩、見へ來れり」西でない以上は全く問題ない。]

只野真葛 むかしばなし (12)

 

○獅山(しざん)樣御代に御家へめしかかへられし、工藤丈庵と申(まうす)ぢゞ樣は、誠に諸藝に達せられし人なりし。

 いつの間に稽古有しや、ふしぎのことなり。

 醫術はたつきの爲に被ㇾ成しことにて、實は武士になりたき内心と見へて、やはら・劍術・馬・弓・鎗など、みな御きわめ被ㇾ成しなり。

 傳書の卷物有て、年々、蟲干にいでしを覺たり。

 繪もよほどけいこ被ㇾ成しと見へて、極彩色の「いんこ」の繪、「緋《ひ》いんこ」と、又、外(ほか)のと、二、三枚、其外、繪本も一箱に入(いれ)て有し中に、一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]四方ほどの紙をつぎて、洋弓をいる所をうき繪にしたる若もの、御くふうにて被ㇾ成しとて有し。今はヲランダ繪を見習て、若もののうき繪、誰もよくすれど、其頃は、めづらしかりしなり。

 象棋(しやうぎ)は三段目くらいのさし手にて、詰象棋の若ものなど、外よりくれば、圖(ず)に書て、天上にはり、夜、おしづまりて、たのしみに考られしとなり。

 氣根のよきこと、たぐひなし。

「人は、一時、休めば、よきもの。」

と被ㇾ仰て、

「夜は九(ここのつ)過迄。」[やぶちゃん注:午前零時過ぎ。]

とて、朝は夜のあけぬ内より、お目ざめなり。

「誠に、『子(ね)に臥し、寅(とら)に起く』とは此ぢゞ樣のことよ。」[やぶちゃん注:「寅」午前四時前後。]

と、ばゞ樣、常に被ㇾ仰し。

 大部の書を外より御借り見る。晝夜に、一筆にて、寫されしこと有しに、折節、夏なり、袖ケ崎は、殊の外、蚊のおほき所なるに、蚊帳なしに、夜ひとよ、目まぜもせず、蚊の付(つく)を、ことゝも不ㇾ被ㇾ成、うつされしほどに、夜明(よあけ)てみれば、御座のまわり、拘杞(くこ)の實をちらしたる樣に、血をすひ、ふくれたる蚊のおちて有しとなり。

 げんき、常のごとくにて、朝めし、上り、御出勤被ㇾ成、御下後(おさがりののち)より、また、あくる日迄、御うつし物なり。其頃は、ばゞ樣にも、御引うつりがけ、ろくに御なじみもなきに、

「かまはずに、寢よ。」

と被ㇾ仰ても、帳の外にて、うつし物被ㇾ成を、よしよしとも、御やすみかね、御めいわくなりし、と被ㇾ仰し。

 ばゞ樣と父樣は、十日、廿日のたがひにて、おなじ頃に御引とり被ㇾ成しとなり。其故は、めしかゝへに成て奧方(おくがた)へ相通(あひとほ)さるゝに、妻子もちならでは、成がたき故、きうに、家内、御もとめ被ㇾ成しなり。

 ばゞ樣は廿八、父樣は十三にて、いらせられしとなり。

 ばゞ樣、しごくの當世人にて、はなはだしく賑やかなる生(しやう)なり。其頃、「おきやうこつ」といふこと、大はやりにて、ばゞ樣、何にもかにも、

「おきやうこつ、おきやうこつ。」

と被ㇾ仰しとなり。

 其頃のはなしなるべし。

○ある大名の奧、急火にて、立のきなり。ぼだい所、通筋(とほりすぢ)故、御たちよりにて御休所と成(なせ)し時、女中達、息をきらして、出家をよびかけて、

「もしもし、どうぞ、おひやを一ツ被ㇾ下。」

と、いひしが、わからず、勝手にて、いろいろ、もめてゐるを、

「はやく、はやく。」

と、せつかれ、辨舌達者の坊主、

「おれがいつて、よろしく斷らん。」

とて、いで、

「さて。先刻より、『おひや』の御むしんでござりますが、先年の大火に、やきはらひまして、ござりません」。

女中一とう、

「おや、おきやうこつ。」

「いや、其(その)『きやう・こつ』ともに、やきはらひました。」

 是は後に人のはなしたることなれど、序に書付たり。

[やぶちゃん注:「獅山樣御代」第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指す(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文化八(一八一一)年から翌年春に成稿されたもの。

「工藤丈庵と申ぢゞ樣」真葛の祖父。父周庵平助の養父工藤丈庵安世(やすよ 元禄八(一六九五)年~宝暦五(一七五五)年)。真葛の出生の八年前に亡くなっている。当該ウィキによれば(太字下線は私が附した)、『工藤丈庵安世は』『藩主伊達吉村が』寛保三年に『江戸品川袖ヶ先』(東京都品川区東五反田附近。ここ(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。袖ヶ崎神社をポイントした)。本文に出る「袖ケ崎」はここのこと。南東直近の現在の品川区東大井に仙台藩下屋敷があった)『に隠居するにあたり、その侍医として』三百『石で召し抱えられた』。延享三(一七四六)年『頃、仙台藩医になる際に妻帯が条件であったため』、二十三『歳年下の上津浦ゑん』(これが真葛の言う「ばゞ樣」の本名)『と結婚し、同時に紀州藩江戸詰の医師長井大庵の三男であった』十三『歳の平助を養子とした』。真葛の本篇「むかしばなし」に『よれば、養子平助にはまったく医学を授けなかった。しかし、実家で学問らしきことをほとんどしていない平助に対し、朝』は「大学」を『始めから終わりまで通して』三『度教え、翌日まで復習するようにと命じ』、『みずからは出勤するという教授法で』、十『日ばかりで四書のすべてを教え、それによって平助は』、三『ヶ月程度で漢籍はすべて読めるようになったという』(後で出る)。宝暦元(一七五一)年、『伊達吉村逝去の際、願い出て』、『藩邸外に屋敷を構えることを許され』、『伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てた』。宝暦五年二月二十日に死去、享年六十。『墓所は深川(東京都江東区)の心行寺にある』。『丈庵安世は、すぐれた医師であったばかりでなく、学問、歌道、書道および武芸百般に通じていた。また、「うき絵」という一種の遠近法の手法を駆使する絵師でもあった。仙台藩では安世に対し』、『和歌の添削なども命じている。孫にあたる工藤あや子(只野真葛)は』、本書の中で、『「工藤丈庵と申ぢゞ様は、誠に諸芸に達せられし人なりし。いつの間に稽古有しや、ふしぎのことなり」と記している。同書には』、『また』、『「ぢゞ様はそうぞくむき巧者にてありし」の記述があり、蓄財も巧みであったといわれる。また、京都にいた蝦夷開拓論者の並河天民から北方に関する情報を得ており、蝦夷地開発は安世にとって長年の重大な関心事であった』。『養子となった工藤平助には』、『医業や自分の仕事向きのことは伝えなかった』。本書によれば、『あるとき、平助が茶屋で休んでいたとき「工藤丈庵様のお子様か」と声をかけられた逸話が収載されている。声をかけられた平助が「左様だが」と答えると、「丈庵様は格別の御名医でありました。自分が若い頃、松坂屋の手代が病を得て様々に治療したがいっこうによくならず、自分がたのまれて丈庵様のところへいき様子を申し上げると、『患者はかねてよりアサツキを好んで多食していないか。それなら』、『行ってみるに及ばない。薬をひかえて生姜のしぼり汁を一日に茶碗いっぱい、三度斗』(ばかり)『に用いよ。平癒するであろう』とおっしゃられて、その通りにしたところ完全に治りました。そのとき、わたしは工藤様の御紋所を見覚えていたのです」と言われたという』(これも無論、後に出る)とある。

『極彩色の「いんこ」の繪、「緋《ひ》いんこ」と、又、外のと、二、三枚』これが見たかった。残念。

「うき繪」「浮(き)繪(うきゑ)」。江戸時代に西洋画の透視図法を取り入れた遠近感のある絵。実景が浮き出るように見えることからかく称した。初め、「のぞきからくり」の眼鏡(めがね)絵に用いられ、芝居小屋内部を描いた浮世絵などにも応用された(以上は「大辞泉」に拠る)。当該ウィキによれば、『「くぼみ絵」、「遠視画」ともいう。劇場内部や室内の様子を描いた作品が多くみられる』。但し、『西洋画の遠近法に直接学んだというよりもむしろ、その影響を受けた中国版画の流入により生み出されたとされる。さらにこの浮絵が、後にレンズを通して見る眼鏡絵につながっていく』。『浮絵は奥村政信』(貞享三(一六八六)年~宝暦一四(一七六四)年:江戸前期の江戸の浮世絵師で板元)『が初めて描いたと見られ、記録によると享保』(一七一六年~一七三六年)『の頃の作品が最も古いとされており』、『西村重長』(元禄一〇(一六九七)年?~宝暦六(一七五六)年:江戸の浮世絵師)『などの作品が残っている。肉筆浮世絵による浮絵もある。さらにその後、明和から天明』(一七六四年~一七八九年)『にかけては歌川豊春による作品が多く、その後葛飾北斎やその弟子の柳々居辰斎』(りゅうりゅうきょしんさい)『昇亭北寿ら多数の浮世絵師が浮絵を描いている。しかし天保』(一八三〇年~一八四四年)『以降はあまり描かれなくなり、通常の風景画が描かれるようになっていった』とある。発生期からみて、影響元はウィキの言っていることが正当であろう。

「若もの」当初、弓を射る若者をモチーフとした絵かとも思ったが(パースペクティヴとして腑に落ちる)、どうも、書き方が私にはそれではおかしい気がする。思うに、これは「我がもの」で、「模写ではないオリジナルな自分の作品」の意と私には思われる。「仙台全書」では『わか物』である(但し、同書でもあとの詰将棋をしに来る若者は同じく『わか物』ではあるのだが)。

「子に臥し、寅に起く」俚諺。「寝る間も惜しんで働くこと」の喩え。

は、殊の外、蚊のおほき所なるに、蚊帳なしに、夜ひとよ、目まぜもせず、蚊の付(つく)を、ことゝも不ㇾ被ㇾ成、うつされしほどに、夜明(よあけ)てみれば、御座のまわり、拘杞(くこ)の實をちらしたる樣に、血をすひ、ふくれたる蚊のおちて有しとなり。

「御引うつりがけ」書写作業。

「ろくに御なじみもなきに」言わずもがな、全く興味が持てないので、側で起きていても、退屈で面白くないのである。かと言って、夫より先に寝るということも出来ない。因みに、結婚当時、丈庵は既に五十二歳前後、妻ゑんは以下に出る通り、二十八であった。

「よしよし」「はいはい」。

「ばゞ樣と父樣は、十日、廿日のたがひにて、おなじ頃に御引とり被ㇾ成しとなり」上津浦ゑんを嫁に迎えたのと、養子として真葛の父(周庵)を十三で迎えたのが、期を一(いつ)にしていたことを言う。

「めしかゝへに成て奧方(おくがた)へ相通(あひとほ)さるゝに、妻子もちならでは、成がたき故」妻子持ちでない男が、藩屋敷の奥方ヘ出入りするのは認められない、というのは倫理上や危機管理上から判る。要は一人前の男ではない、何か、問題があると見られるからである。因みに、私が若い頃(一九八〇年代)でさえ、神奈川県では未婚者は高等学校の校長にはなれなし、未婚者であることが管理職への昇進の障害となる、と聴いていた(本当かどうかは知らない)。

「きうに」「急(きふ)に」。

「おきやうこつ」「輕忽・輕骨」(きやうこつ(きょうこつ))であろう。小学館「日本国語大辞典」によれば、基本を名詞とし、音「キョウ」は「軽」の呉音とした後、第一義に『かるがるしく不注意なこと。落ち着きがなく、そそっかしいこと。かるはずみ。粗忽。軽率。けいこつ』(形容動詞)とまず挙げ、使用例は古くは平安中期の公卿藤原実資(さねすけ)の日記「小右記」や鎌倉時代の「吾妻鏡」を引く。次いで、『人の様子や人柄が軽はずみで頼りにならないようにみえること』として「源平盛衰記」を引く。三番目に『他人から見て軽はずみで不注意に見えると思われるような愚かなこと。とんでもないこと。笑止』とし、狂言や浄瑠璃の例を引く。以下、四番目に『気の毒なこと』(形容動詞)、五番目に「きょうこつする」と使って、『おろそかに扱うこと。軽蔑すること』の意(太政官符・「正法眼蔵」・「太平記」を引用)とする。最後に「けいこつ」とも読む場合があるとする。そちらを引くと、『かるがるしく不注意なこと。かろがろしくそそっかしいこと。また、そのさま。粗忽。軽率。きょうこつ』として、享保二(一七一七)年刊の「釈書言字考節用集」から坪内逍遙・樋口一葉・徳冨蘆花の近代の使用例を引く(言っておくが、私は同辞典を所持する書籍本で確認している)。また、近藤瑞木(みずき)氏の論文「石燕妖怪画私注」(『人文学報』二〇一二年三月発行所収・PDFでダウン・ロード可能)の『二 「狂骨」』で、井戸の上に浮かぶ白骨の妖怪「狂骨(きやうこつ)」の画とこの奇体な妖怪名を考証される中で、まさに、この「むかしばなし」を引用されて記しておられる。但し、近藤氏はそこで最終的には、この「むかしばなし」の中の流行したとする『「おきやうこつ」のニュアンスはよくわからない』と述べられいる。しかし、最後の注(「5」)で、この後半部のエピソードを現代語訳された上で、『この場合の「おきょうこつ」は、「火事で冷水を焼き払った」という返答への反応であるから、「まぁ、ばかばかしい」という程度の意味であろう』と述べておられる。私も、そのような意味でとらえたので、甚だ同感である。所謂、「おちゃらけること」が基原みたような謂いであろうと私は思うている。

「ある大名の奧」さる御大名屋敷の奥向きで。

「急火にて、立のきなり」急なかなり大きな火災が発生し、御台所を始め、奥向きの者たち総てが避難せねばならぬ事態となった。

「ぼだい所、通筋(とほりすぢ)故」その奥方たちの避難のルートが、たまたま、その大名家の菩提寺の近くを抜けるそれであったため。

「おひや」「御冷や」。今でこそ判らぬ者はおらぬが、これは女房詞(その起源は室町時代の初期に宮中に使える女性が使い始めたものとされる)の「お冷やし」の略から「冷たい飲み水」の謂いであるものの、江戸時代の江戸では通用しなかった言葉であることが判る。特に女のいない寺内であることも関係していよう。

を一ツ被ㇾ下。」

「勝手」寺の厨(くりや)。

「一とう」「一党」。

「きやう・こつ」「經・骨」。絶妙なオチであるが、それだけに、どうもこの話、作り話しっぽいね。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語(異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)――オリジナル電子化注一括縦書PDF版公開

南方熊楠の「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」のオリジナル電子化注一括縦書PDF版を公開した。

2021/02/14

怪談登志男卷第四 十九、白晝の幽靈

 

   十九、白晝の幽靈

 ちかき頃、上州安中のかたはらに、善次といふ者あり。

 享保元年の冬、暮の市に立て、

「己(おの)が身程の正月もふけに。」

とて、錢四、五百を腰にまとひ、鶴に乘(のり)て揚州(やうしう)に至る心地して、嗚呼(おこ)がましく、疾(とく)、出けるが、寒氣、忍びがたく、

「今年も、最早、暮にけり。無事なるこそ、物種(たね)なれ。」

と、

「かくと、心を勞して、年をよらせて、何かせん。身後(しんこ)の風流(ふうりう)、陌上(はくしやう)の花、生前(せうせん)一盃の酒には、しかじ。」

と、無分別、きざし、吞倒(のみたほ)れねば、腹、ふくれぬ、持病、せんかたなく、酒店(さかや)に長居して、思ふほど、吞潰(のみつぶ)れ、今は、快[やぶちゃん注:「こころよく」。]、覺え、宿[やぶちゃん注:自分の家。]に歸るベき心もなく、其日の七ツ時[やぶちゃん注:定時法では午後四時頃。不定時法では三時半過ぎ。]、松井田の、少、此方[やぶちゃん注:「すこし、こなた」。]、不動寺とかやいふ寺にまよひ行、所こそおほきに、卵塔に倒れ臥(ふし)て、日の暮るゝも知らず、寺中の僧徒も墓守迄も、何となく心せはしき大晦日なれば、かゝる者ありとも心づかで、捨置しに、手習に通ふ童ども、何となく心せはしき大晦日なれば、かゝる者ありとも心づかで、捨置しに、手習に通ふ童ども、文庫(ふんこ)仕廻(しまひ)て歸るさに見付て、はじめの程は、あやしみて詠居しが[やぶちゃん注:「ながめをりしが」。]、石を打、垣(かき)など、ゆすりて、驚かしみれども、酒の匂ひ、鼻を衝(つき)て、高鼾(たかいびき)に前後も知らぬ躰(てい)、

「よき慰(なぐさみ)なり。」

と、一同に擧(こそ)り寄て、なぶりける中に、八百屋の長太郞・たばこやの石まつ、納所部屋[やぶちゃん注:「なつしよべや」。]の剃刀(かみそり)、求め來り、善次が髮を剃(そり)落し、白紙を三角に折て、片かなの「シ」[やぶちゃん注:底本(右頁上段八行目)は「三」であるが、原本で訂した(右頁最終行の上から二字目)。「死」の意であろう。またしても底本の判読の杜撰さを思い知った。]の字を書付、額(ひたひ)に張(はり)付、麻殼(あさがら)の杖迄、側(そは)に添(そへ)て、

「どつ」

と、笑て、歸りける。

 されば、見咎むる人もなく、猶、寬々(くわんくわん)と寐(ね)入程に、夜の八ツ頃[やぶちゃん注:午前二時頃。]に至り、漸(やうやう)、醉(ゑい)も覺(さめ)、咽(のとの)、乾(かはき)ければ、あたりを見るに、闇々(あんあん)として、燈(ともしひ)も、なし。

 茫然として、いかなる故とも知りがたく、頭(かしら)に手をやりて見れば、

「こは、いかに。」

額(ひたひ)には、紙をあて、髮はそりこぼちて、あり。

 何と、案じても、心得ず。

「我市に出て、酒吞し事は覺えしが、其後をしらず。扨は、頓死(とんし)して、冥途に至りしにや。」

と、大に驚き、

「まづ、道ある方へ、行てみん。」

と、麻殼の杖にすがりたどり行に、一つの川有。

『こゝや、聞およびし「三途(さんづ)のわたり川」なるべし、娑婆にて、我、住し所の、「琵琶(びは)の窪(くぼ)」にかはる事なし。』

と、思ふぞ、おかしけれ。

「されど、罪は淺かりけり。膝(ひざ)ぶし迄も、とゞかぬ川なり。」

と、たやすく、向に越ぬ[やぶちゃん注:「むかふにこえぬ」。]。

「人の衣をはぐ婆(ばゝ)も、おはせず。仕合なり[やぶちゃん注:「しあはせなり」。]。」

と、よろこびぬ。

 向をみれば、閻魔王宮(えんまわうぐう)と覺しきあり。

 肌、ふるひ、堪がたく、恐しけれど、門に立寄、さしのぞき見れば、大王、鐡札(てつさつ)を繰(くり)ひろげ、頭を傾(かたぶ)け給ふが、

『地獄も、次第に風流を好み、冠の物、堅きを和らげ、「ほうろく頭巾」。まづ、きつゐ、しやれ樣かな。』

と、おもへば、其傍(かたはら)に、筆を取、算を敷(しく)官人、皆、羽織(はおり)着(き)て、當世風の卷(まき)鬢も、あり。

 これなん、倶生神(ぐせうじん)にてやあるべき。

 かたへを見れば、獄卒、並居(なみい)て、猛(めう)火を燒(やく)有さま、善次、身の毛も彌立(よたち)、背を屈。[やぶちゃん注:原本(左頁四行目下から三字目)は「屈」に「かゝめ」とルビするが、私はシチュエーションから、「かがむ」で切ることとした。]

 上州松井田町に隱(かくれ)なき、神津某(かうづなにがし)が濳戶(くゝりと)を覗(のそ)き入て、唯(たゝ)一筋に、地獄とのみ思居(おのひい)けるぞ、愚(おろか)なれ。

 内には、亭主・手代、ならび居て、歲暮の請勘定、米商賣(しやうはい)、造(つくり)酒・味噌・醬油の帳面の仕切(しきり)等、居並び記る躰(てい)、蠟燭の光に、何とやらん、常に替れる賑(にぎはひ)なり。

 走り𢌞る下男が、門の戶、明て[やぶちゃん注:「あけて」。]、出ん[やぶちゃん注:「いでん」。]としたるに、幽㚑、壱人、凄(すご)々と立たり。

 肝を消して、轉び倒れ、内へ入て、

「斯(かく)。」

と告(つげ)たり。

 主(あるし)をはじめ、驚入て[やぶちゃん注:「おどろきいりて」。]、火をともし、大勢、立出て見れば、日每(こと)に、此町へも來る、善次なり。

 いよいよ、あきれて、

「善次。何とて、其ごとくには、出立て來るぞ。」

と尋ければ、ふるひふるひ、

「私、娑婆にて盜(ぬすみ)仕りし事も、さふらはず、御法度(はつと)のちよぼいち・長半[やぶちゃん注:ママ。「丁半」賭博。]は、扨置[やぶちゃん注:「さておき」。]、『よみがるた』さへ、手にふれず候。其外、惡事と申事、一切、覺[やぶちゃん注:「おぼえ」。]、無御座候。あはれ、御慈悲に、極樂へは、おごりにて候、地獄の門番に成とも、被仰付被ㇾ下べし。」

と眞實(しんじつ)の云分(いゝわけ)。

 手代共、おかしく、

「扨は。狂氣したるならん。」

と、

「いかに。善次。汝、いまだ、ぢやう業(こう)の者ならず。娑婆へ、歸れ。」

と、いふを聞て、善次、手を合、拜禮して立さり、夜のあくる比(ころ)、安中町に立戾り、我家の窻(まど)より、覗きて、妻子を起しければ、

「きのふより、氣遣ひせしに、いかゞし給ふぞ。」

と、立出、亭主が姿を見て、大に驚き、裏口より、迯(にけ)出、常に心安き尼の所へ行て、

「かく。」

と、告ければ、近隣の人、皆々、駈(かけ)[やぶちゃん注:原本は「欠」の字で表記してある。]來りて、

「是は。いかなる姿ぞ。心をしづめ、能[やぶちゃん注:「よく」。]、前後の事を思ひ出して見給へ。まさしく、狐狸(こり)のわざなるべし。」

と、取かこみて、額(ひたひ)の紙を取捨(すて)、衣類を改(あらため)かへんとすれば、

「皆々、御不審は尤ながら、娑婆と冥途は、生(しやう)を隔(へた)つれば、恐るゝも理(ことわり)なれども、我は、ゑんま王のゆるしにて、再(ふたゝひ)、娑婆へ歸り來れば、かならず、『おそろし』と、ばし、思ひ給ひそ。」

と、まがまがしき顏色(かんしよく)、人々、氣のどくがり、

「其方、死にはせず。酒に醉倒(ゑひたをれ)しを、人のわるさに、かくの躰(てい)になりたるならん。十方(ほう)もなき醉(ゑひ)やうかな。」

と、叱りければ、漸(やうやう)、心付て、

「扨は。左樣にありしか。先、此あたまにて、正月は遠慮なもの。」

と、思ひがけず、閉籠(とぢこも)りしが、此事、世上、次第に流布(るふ)し、「晝(ひる)中の幽㚑」と仇名(あだな)立て[やぶちゃん注:「たちて」。]、

「地獄の案内、聞べし。」

など、惡口(わるくち)いふて、耳かしましく、恥かしめ通る者のみ多かりければ、此所に住がたく成り、武州忍領の在鄕(ざいこう)へ移り住て、道心者となり、近國を修行しける。

 おもへば、酒が出離(しゆつり)の媒(なかた[やぶちゃん注:原本のママ。「なかだち」。])となりぬ。

[やぶちゃん注:疑似怪談だが、面白い。映像がリアルに想起出来る。

「上州安中」群馬県安中市(グーグル・マップ・データ)。

「享保元年の冬、暮の市に立て」享保元年の十二月はグレゴリオ暦では一日が既に一七一七年一月十三日で、大晦日(この年の十二月は小の月で十二月二十九日)一七一七年二月十日であった。ズレが大きいのはこの年は閏二月があったせいである。本書は寛延三(一七五〇)年板行であるから、三十三年前の設定となる。

「鶴に乘(のり)て揚州(やうしう)に至る心地」李白の名七絶「黃鶴樓送孟浩然之廣陵」(黃鶴樓にて孟浩然の廣陵へ之(ゆ)くを送る)で知られる、武漢市武昌区にかつて存在した江南三大名楼の一つである黄鶴楼(こうかくろう)の伝承に洒落掛けたもの。李白のそれ、

故人西辭黃鶴樓

煙花三月下揚州

孤帆遠影碧空盡

唯見長江天際流

 故人 西のかた 黃鶴樓を辭し

 煙花 三月 揚州に下る

 孤帆の遠影 碧空に盡き

 惟だ見る 長江の天際に流るるを

の承句を効かしつつ、先行する崔顥(さいこう)の私の好きな七律「黃鶴樓」、

昔人已乘黃鶴去

此地空餘黃鶴樓

黃鶴一去不復返

白雲千載空悠悠

晴川歷歷漢陽樹

芳草萋萋鸚鵡洲

日暮鄕關何処是

煙波江上使人愁

 昔人(せきじん) 已に黃鶴に乗りて去り

 此の地 空しく餘(のこ)す 黃鶴樓

 黃鶴 一たび去りて 復た返らず

 白雲千載 空しく悠悠

 晴川(せいせん) 歷歷たり 漢陽樹

 芳草(はうさう) 萋萋(せいせい)たり 鸚鵡洲(えいぶしふ)

 日暮 鄕關 何(いづ)れの處か是れなる

 煙波 江上 人をして愁へしむ

を想起させるもの。黄鶴楼の酒絡みの仙人伝承は、ウィキの「黄鶴楼」から引くと、『昔、辛氏という人の酒屋があった。そこにみすぼらしい身なりをした仙人がやってきて、酒を飲ませて欲しいという。辛氏は嫌な顔一つせず、ただで酒を飲ませ、それが半年くらい続いた。 ある日、道士は辛氏に向かって「酒代が溜まっているが、金がない」と言い、代わりに店の壁にみかんの皮で黄色い鶴を描き、去っていった。客が手拍子を打ち歌うと、それに合わせて壁の鶴が舞った。そのことが評判となって店が繁盛し、辛氏は巨万の富を築いた』。『その後、再び店に仙人が現れ、笛を吹くと黄色い鶴が壁を抜け出してきた。仙人はその背にまたがり、白雲に乗って飛び去った』。『辛氏はこれを記念して楼閣を築き、黄鶴楼と名付けたという』とある。私は高校時代にいたく感動し、教師になってからも、これらを皆、授業するのが大好きだった。懐かしい。

「今年も、最早、暮にけり」先に示した崔顥の「日暮 鄕關 何(いづ)れの處か是れなる」を遠くかがせている。

「身後(しんこ)」死後。伏線である。

「陌上(はくしやう)の花」畦道或いは路上に美しく咲き乱れる花。現世の儚い栄華の象徴。しかし、先の黄鶴楼といい(それは筆者の装飾としても)、安中の酒飲みの善次がかく確かに諦観の比喩に思いに至るというのは、伏線としても大いに無理があり、作話性が露呈してしまうのは少し残念だ。

「不動寺」群馬県安中市松井田町にある真言宗龍本山松井田院不動寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は千手観音であるが、通称「松井田不動尊」で知られる通り、不動堂には鎌倉初期の中央仏師の作と推定される不動尊像が有名。当該ウィキによれば、寛元元(一二四三)年に下野国国司にして「留興長老」の号を賜った慈猛上人によって開山された。戦国時代の元亀・天正年間には、武田信玄より寺領を賜り、徳川氏の治世となってからも三代将軍家光の帰依が篤かったため、栄え、往時は成就院・正法寺など脇寺九ヶ寺・末寺八ヶ寺の計十七ヶ寺を有する大寺であった。不動の像は元禄一五(一七〇二)年に奈良唐招提寺塔頭蔵松院より寄付されたものという銘があり、総高二十六センチメートルほどの小さい座像であるが、優秀精巧な技法のため、その小ささを感じさせない迫真力を持っているとある。

「所こそおほきに」前注で示した通り、非常に大きな寺院であったにも拘わらず、よりによって墓場に入り込み、ということであろう。

「文庫(ふんこ)」 習字の手本や紙筆など、手回り品を入れておく文匣(ぶんこう)。手文庫。

「納所」狭義には、禅宗寺院に於いて、金銭などの収支を扱うところや、その役を受持つ僧を指すが、広義に寺院の庶務を司るところや、その役の者をも言う。

「麻殼(あさがら)の杖」皮をはいだ麻の茎。七月の盂蘭盆の精霊祭の箸や迎え火・送り火を焚くのに用いることで知られる(童子らが持たせた意図はそうした習俗に合わせた悪ふざけであろう)。大きく長いものがあり、東北地方では茅葺屋根の下地として使用される。白くて軽いが、折れやすい。亡者の霊魂なら、杖にもしようが。

「寬々(くわんくわん)と」実にゆったりと。

「我、住し」「われ、すみし」。

「琵琶(びは)の窪(くぼ)」アンドー氏のサイト「街道歩き旅どっとコム」の「中山道歩き旅」の「15 安中宿から松井田宿へ」に、「■国道18号~松井田駅」の項に『●琵琶窪』とあり、『ここの道は明治天皇道といって、天皇行幸のときに開通した道。本来の旧道はもっと手前を左に入る道で逢坂の道といっていたが、崩れて通れないそうだ。このあたり全然人の気配のない少々ぶっそうな道であった。すぐ県道33号線に合流して松井田宿へ向かう』とあるのを見出した。その「歩行地図」で凡その位置が特定出来た。ここは先の不動寺から南東に二キロメートル圏内で、ロケーションとして全く問題がない。

「膝(ひざ)ぶし迄も、とゞかぬ川なり」現在の不動寺の墓地のグーグル・マップ・データ航空写真はこれだが、国土地理院図(中央の「卍」が不動寺)を見ると、墓地の西に小流れが確認出来る。これは不動寺西にある松井田八幡宮の裏を流れるもので、ストリート・ビュー(同航空写真のこのカーブのそれ)のこの先の凹み部分がその流れと思われ、ここなら、まさ膝頭までも届かない浅い川である可能性が強いかと思われる。

「鐡札(てつさつ)」鉄製の罪人の亡者名簿。

「ほうろく頭巾」「焙烙頭巾」。歴史的仮名遣は「はうろくづきん」が正しい。焙烙の形をした丸い頭巾。僧や老人が多く用いた。「大黒頭巾」「丸頭巾」「錣(しころ)頭巾」とも呼ぶ。グーグル画像検索「焙烙頭巾」をリンクさせておく。

「きつゐ、しやれ樣かな」という感想に余裕があって面白い。まだ、酔ってるって感じ。

「算を敷(しく)」算木(さんぎ)を床に配して計算をしているのである。

「卷(まき)鬢」(まきびん)は江戸時代の男の髪の結い方の一種。鬢の毛を下から上へかきあげ、月代(さかやき)の際(きわ)で巻き込んで結んだもの。巻上鬢。ネットの小学館「精選版日本国語大辞典」のこちらの挿絵画像を見られたい。

「倶生神(ぐせうじん)」歴史的仮名遣は「ぐじやうじん」が正しい。人が生まれた時から、その左右の肩の上にあって、その人の善悪の所行を総て記録し続けるという「同名(どうみょう)と同生(どうしょう)の二神。一説にこの二神は男・女で「同名」が男で左肩にあってその人の善行を「同生」は女神で右肩にあって悪行を記しており、その人の死後に閻魔王の前でそれらを読み上げ、断罪の資料とするという。また、別に閻魔王の横で罪人を訊問し罪状を記録する書記神ともする(私は後者で認識している)。ただ、この男女云々というのは別に閻魔庁にある備品で私の好きな人頭杖(にんずじょう:女の首と男(憤怒の鬼形で示されることもある)が同じ分担で亡者の善行・悪行を語るという)のそれに外化してもいる。

「猛(めう)火を燒(やく)有さま」単に年押し詰まって決算の期限が迫っているから、皆、必死で夜を徹して煌々と灯台を灯して仕事をやっているのを見て、大いに勘違いしたのである。映像でおどろおどそろしく面白く撮りたいところだ。

「彌立(よたち)」原本のルビは二字への当て訓。「身の毛がよだち」の意であるが、「彌」が「いよいよ」の意味をダブらせるので効果的である。

「上州松井田町に隱(かくれ)なき、神津某(かうづなにがし)」不詳。但し、調べてみると、この松井田町には、この神津姓が今も多いようである。

「濳戶(くゝりと)」「くぐりど」。門の扉などに設けたくぐって出入りする小さい戸口。切り戸。

「請勘定」「請取勘定建(うけとりかんじょうだて)」に於ける換算の確認計算か。当該ウィキによれば、『江戸時代の三貨制度のもとで行われた金銀為替相場の表示方法』。『江戸時代には関東を中心とした金貨幣本位の金遣』(きんづかい)『地域と関西を中心とした銀貨幣本位の銀遣』(ぎんづかい)『地域が併存しており、両地域間において』、『取引の決済の行う際には為替相場を必要とした。その際、当時の政治的中心地であった江戸が金遣地域に属していたことや、銀貨幣が』十『進法のみであったために換算表示が分かりやすい(金貨幣は』四『進法と』十『進法の混合)ことから、金貨』一『両を基準とし』、一『両に対する銀貨の価値を表示するようになった』。『例えば、金』一『両=銀』六十『匁が相場であった場合、江戸などの金遣地域では銀遣地域からの入金においては、金』一『両あたり銀』六十『匁を受け取ることになったために、この為替相場を「請取勘定建」と称した。もっとも、大坂などの銀遣地域からみれば、支払勘定建に相当していた』とある。

「帳面の仕切(しきり)」帳簿の最終決算。

「ちよぼいち」「樗蒲一」中国渡来の賭博 の一種。一個の骰子(さいころ)で出る目を予測し、予測が当たれば、賭け金の四倍又は五倍を得る賭博。「樗蒲」は中国古代の賭博で後漢頃から唐まで流行った。骰子ではなく平たい楕円板を五枚投げて、その裏表によって双六のように駒を進めるゲームであったらしい。「一」は骰子を一個しか使用しないことに由来する。

「よみがるた」「百人一首かるた」や「いろはかるた」或いはそれに派生して有象無象に生じた各種かるた。狂歌物や妖怪物など多種の「物尽くし」のかるたが江戸時代には甚だ流行した。ここでは賭博ではない、そうした遊びの「かるた」にさえも手を出していないと弁解しているのである。

「あはれ、御慈悲に、極樂へは、おごりにて候、地獄の門番に成とも、被仰付被ㇾ下べし」という懇請は、まことに吹き出しものである。しかし、それが「眞實(しんじつ)の云分(いゝわけ)」であるところ、私は善次が憎めない。

「ぢやう業(こう)」「定業」で歴史的仮名遣は「ぢやうごふ」(現代仮名遣「じょうごう」)

が正しい。厳密には「前世から定まっている善悪の業報(ごうほう)。決定業(けつじょうごう)」を指すが、ここは単にそれによって予め決められた寿命のことを指している。

「『おそろし』と、ばし、思ひ給ひそ」「ばし」は体言及び格助詞「に」「を」「と」・接続助詞「て」に付く副助詞で「~なんど」「~なんか」といった強調を表わす中世以降の口語。係助詞「は」に副助詞「し」が付いたものが、意味の強調性から濁音化し、一語化したもの。実際に軍記物などの会話文に多く見られる。

「十方(ほう)もなき」「とほうもなき」。とんでもない。

「武州忍領」「忍領」は「おしりやう(おしりょう)」。武蔵国埼玉郡に存在した忍藩(おしはん)の領地。同藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸。グーグル・マップ・データ)に置かれた。安中からは直線で南東へ五十五キロメートル附近である。善次は町人であるようで

あるから、あるいは、先に出た神津のような商人に雇われて、商売絡みでまず、そちらに伝手を得て、雇われる形となったものか。妻子が気になるが、行脚僧になるのであってみれば、それを気にする必要はない。

「酒が出離(しゆつり)の媒」(なかだち)「となりぬ」これは、やはり、私は笑えない。江戸時代の国学の興隆によって、こうした行為を笑う者は知識人ほど多かったであろうが、中世までは、出家遁世・道心堅固なそれは、真っ向から真面目に讃えられたものだからである。きっかけが馬鹿げたことであっても、それが、自身の発心に繋がればよいのである。これは今でも同じである。自己の女性差別発言を一抹もおかしいと感じていない大悪業の誰かなんぞこそ、よほど、笑い飛ばしてやるが、よかろうぞ。]

怪談登志男卷第四 十八、古城の蟒蛇

 

   十八、古城(こじやう)の蟒蛇(もうじや)

Kojyounomoujiya

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像をトリミングした。]

 津の國矢田部のこほり花熊(はなくま)の城は、永祿十年、荒木攝津守、家臣野口(のくち)與一兵衞に命じて築(きつき)たる名城なり。神戶(かうべ)村の上にありて、今も其跡、殘れり。

[やぶちゃん注:「花熊城」摂津国八部(やたべ)郡花熊村(現在の兵庫県神戸市中央区花隈町)の元町駅西方にあった花隈城(はなくまじょう)の別名。ここ(グーグル・マップ・データ)。神戸の北部に当たる当該ウィキによれば、永禄一〇(一五六七)年に『織田信長が荒木村重に命じて築かせたと言われているが、この時期信長はまだ入京しておらず』、『摂津に力を及ぼす状況ではなかった。従って』、翌永禄十一年十月に『和田惟政に摂津を任した時に築いたか』、天正二(一五七四)年に『石山本願寺と毛利氏との警戒用に荒木村重に命じて築城したのではないかという説もある。築城には近江の「穴太衆」』(あのうしゅう)『を呼び出し』、『かなりの石垣を使用し』、一『年程度で完成させたと言われている』。天正六(一五七八)年に『村重が信長に反旗を翻したため(有岡城の戦い)、花隈城は荒木方(有岡城)の支城として戦ったが、池田恒興などに攻められ』、天正八(一五八〇)年に『落城した。合戦の功によりこの地を与えられた池田恒興は兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となった』とある。

「永祿十年」「丁卯」は「ひのとう」或いは「テイバウ(テイボウ)」。先の伝承に一致。

「荒木攝津守」私の大嫌いな戦国武将荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)。後で「荒木彌左衞門」と出るが、村重は「弥介」或いは「弥助」とは名乗っているので、まあ、いいか。

「野口與一兵衞」「花隈城の戦い」の最後の天正八(一五八〇)年七月二日の池田勢の総攻めの緒戦で戦死している。彼は攻勢方の主力兵であった鉄砲傭兵地侍集団であった紀伊雑賀衆と同じ出であった。]

 

 されば、此城内にて、不思議の事ありけり。

 頃は八月半(なかば)過、廣間に詰(つめ)たる荒木彌左衞門、馬𢌞りに深井甚太夫・佐助榎(ゑ)七・關岡(せきおか)市郞治、其外、表小姓・當番の若侍、晝過る頃、西側の障子をはづさせ、或は多門に「眼印(めじるし)の日圭斗(とけい)」・「總曲輪(くるは)の武者走(むしやはしり)」・「見積りの町見(てうけん)」など竊(ひそか)に論じて、當番の鬱氣(うつき)を慰め、何心なく詠(ながめ)居たるに、多門の邊、一同、白氣(はつき)、地中より起り、布(ぬの)をはへたるごとく立出るを見て、各、目を見合[やぶちゃん注:「みあはせ」。]、

「ばらばら」

と座を立、近付寄て見るに、何とも、さだかならず。

 珍らしき事に思ひ、其氣の出所へ間近く寄て見し若侍二人、忽(たちまち)、絕入(せつしゆ)して、白氣は、猶、立登る。

 此由、大將荒木氏の耳に入て、早速、立出、絕入の者の脈をうかゞはしむるに、醫師(いし)、考へて、

「是は、毒氣(どくき)に當たるなり。」

とて、藥を用ひければ、各[やぶちゃん注:「おのおの」。]、蘇生しける。

 荒木、つぐづく、其氣の生ずる所を見て、印(しるし)を付置、十日經て、其所を掘て見るに、大なる穴ありて、此あなの淺深(せんしん)をはからんとするに、始(はしめ)にこりて、立寄者(よるもの)、一人も、なし。

 大將、大に怒りて、自身、穴の邊にすゝみ寄を、渡り徒士(かち)の森四五右衞門、

「此穴の様子、某、見分仕度候[やぶちゃん注:「それがし、けんぶんしたくさふらふ」。]。まづまづ、御ひかへ遊ばさるべし。」

と、小頭[やぶちゃん注:「こがしら」。]を以て、言上(ごんじやう)しければ、荒木、

「けなげなるものかな。望(のぞみ)にまかすべし。」

と、ゆるしければ、勇(いさ)ひ[やぶちゃん注:ママ。下の「悅ひ」(原本)に引かれた「勇み」の誤字であろう。]悅び、九寸五分の懷剱を拜領し、腰に大綱(つな)を付て、穴の内に飛入ぬ。

 主人を始、老若(らうにやうく)の諸士、かたづをのんで控へたり。

 しばらくありて、綱のうごくを、

「すは。」

と、大勢、立寄、引あげたるに、四五右衞門、朱(あけ)になりて、穴の内にて絕(たへ)入たり。

 人々、打寄りて見るに、髮、焦(こかれ)て、正氣なし。

 醫師、此躰(てい)を見るに、是又、

「毒氣に强くあたりたるなり。」

とて、藥を與へ、正氣付て、物いふ事あざやかになりて、大將、其樣子を直(ぢき)に尋とひ給ふ。

 四五右衞門、畏(かしこま)りて其趣を演(の)ぶ。

「まづ、穴の底に至るに、二、三間[やぶちゃん注:三・七~五・四五メートル。]もあらんと思ふ所におよんで、身の暑き事、燒(やく)がごとく、兩眼(がん)、ひらく事、あたはず。

 一つの癖(くせ)物あり。

 下(くだ)し給はりたる懷剱を以て、彼(かれ)が身につき立たりしが、命も今は限りなるかと、苦しく罷成候故[やぶちゃん注:「まかりなりさふらふゆゑ」。]、綱をうごかしたる迄は、慥(たしか)に存て[やぶちゃん注:「ぞんじて」。]候へども、其後、さらに覺えずして、爰に至り候。」

と申す。

「扨は。癖物も少は[やぶちゃん注:「すこしは」。]弱りつらん。」

と、四五右衞門が身を吟味するに、朱(あけ)に染(そま)りたる斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]にて、手疵(きず)、少も、なし。

「是も、くせものの血なりけり。其正躰(たい)、見屆(とゞけ)ざるも、いかゞ。」

と、評議、取々なり。

 四五右衞門、又、申けるは、

「迚(とても)の儀に、今一度[やぶちゃん注:「いまひとたび」。]、罷越候て見屆申度[やぶちゃん注:「みとどけまうしたき」。]。」

由。

 荒木氏、大に悅[やぶちゃん注:「よろこび」。]、

「早々、罷むかへ。」

と下知せらる。

 四五右衞門、悅て、此度は、いかなる所存にや、拜領の短刀を懷(ふところ)に納(おさ)め、己(おの)が指料(さしりやう)の脇差(わきざし)を拔(ぬき)もち、飛入らんとするを、久保川伯周(くぼかははくしゆう)といふ良醫、袂(たもと)をひかへ、藥をあたへ、

「毒氣、おかす事、あたはじ。心やすかれ。」

と、見送りぬ。

 四五右衞門は、地中に入に[やぶちゃん注:「いるに」。]、腥(なまくさき)き氣、鼻を衝て[やぶちゃん注:「つきて」。]、堪(たへ)がたく、はじめのごとく、火氣、盛(さかん)なれど、伯周が藥のしるしにや、更に、つゝがなく、眼(め)も、閉(とぢ)ざれば、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、勇氣百倍して、あなの底に下りて見るに、癖物、上を下へと、うねり𢌞(まは)りぬ。

「得たり。」

と、悅て、脇差を取直し、

「柄(つか)も通れ。」

と差貫(さしつらぬ)き、腰の綱の半(なかば)を、脇差の柄(つか)と、きつ先(さき)に引むすび、餘る繩を動(うごか)しければ、大勢、聲を懸て、急に引あげたるに、四五右衞門は、いさゝか、毒氣にもあたらず、

「につこ」

と笑て、飛上り、つぶさに言上しければ、城主をはじめ、老若・上下、一同にさゞめき、悅びぬ。

「さらば、癖物を引あぐべし。」

と、人數を倍して、

「ゑい、ゑい。」

聲を上て、漸々(やうやう)と、引上たり。

 重き事、磐石(ばんしやく)のごとく、あたりの土を崩して上りたるを、大將、殊に興(きやう)じ給ひ、

「四五右衞門、仕留(しとめ)よ。」

と、ありければ、はしり寄て、五刀(いつたち)迄、さし通し、

「今は、是までぞ。人々、御覽候ヘ。」

と云。

 上下、打寄て見るに、甚、若しみて、一纏(まとひ)に蟠死(わたかまり)したり。

 凡、引のばしたらば、七、八丈[やぶちゃん注:約二十一~二十四メートル。]もあらんずらん、と、おもふ蟒(うはばみ)なり。

 口を開きて死したるが、箕(み)を二つ合たるやうにてありしとぞ。

 音にのみ聞て、今、目前に見るははじめなれば、誰(たれ)も、皆、肝を消(けし)たり。

 其尸(かばね)は、城外の艮(うしとら)[やぶちゃん注:東北。鬼門。]の萱原(かやはら)に捨(すて)られたり。

 四五右衞門は、徒士(かち)より、當座百石の新地を給(たまは)り、馬𢌞りを勤けるとぞ。

 かゝる勇者なれば、戰塲の武功、かずかずなりけん、傳へ聞ざるぞ、本意[やぶちゃん注:「ほい」。]なけれ。

[やぶちゃん注:「帰ってきたカイダントシオトコ」って感じ。いいね!

「馬𢌞り」(うままはり)は、騎馬の武士で大将の馬の廻りに付き添い、護衛・伝令・決戦時の兵力として用いられた武家の職制。平時にも護衛役を勤め、事務の取次ぎなどの側近として官僚的な職務を果たすこともあった。武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在であった。

「深井甚太夫」不詳。

「佐助榎(ゑ)七」不詳。

「關岡(せきおか)市郞治」不詳。

「表小姓」対象に側近する奥小姓に対し、中奥(なかおく)に伺候して、儀式時の配膳・役送・雑務を勤めた中奥小姓。

「多門」城の石垣の上に築いた長屋造りの建物。兵器庫と防壁を兼ねた。松永久秀が大和国佐保山に築いた多聞城の形式に由来する呼称という。多聞櫓 (たもんやぐら) 。

「眼印(めじるし)の日圭斗(とけい)」よく判らぬが、籠城や野戦の戦中にあって、太陽の位置を目印に、現在時刻を、ある程度まで正確に読み取る術のことであろう。

「總曲輪(くるは)の武者走(むしやはしり)」不詳。推理するに、「曲輪」は城の内外を土塁・石垣・堀などで区画した防衛区域の名称で、山寨や城郭に於いては複数のそれを持つ。ここの「總(さう)」は砦のそれら総てをひっくるめた謂い。一方、「武者走」(むしゃばしり)は名詞では、城の天守の各層の入側(いりがわ)。又は、城の土手の垣(かき)の内部後背の通路。幅三間の通路で武者が往来するところからかく呼んだから、思うに、これは戦時に於いてそれぞれの曲輪を総て一度に走り抜けて点検・保守・索敵を行う術のことか。

「見積りの町見(てうけん)」歴史的仮名遣は「ちやうけん」が正しい。「町間」とも書き、「ちやうげん」とも読む。特定区域の遠近・高低の距離(町・間・尺)を綿密に事前測量すること。これはまず、戦時に於ける戦法展開に必要不可欠な「見積もり」と判る。

「はへたる」「生(は)えたる」であろう。内部から外面に伸び出でて立ち上がるの意。

「絕入(せつしゆ)」「ぜつじゆ」で、失神すること。

「渡り徒士(かち)」あちこちを渡り歩いては、主人を替えて「渡り奉公」した武士。

「森四五右衞門」不詳。

「小頭」兵や火消などの大きな集団を纏める大頭 (おおがしら) の下に属し、小集団を管理した長。

「九寸五分」「くすんごぶ」狭義には刃の部分の長さが九寸五分(約二十九センチメートル)の短刀で別名「鎧通し」とも呼ぶ実戦用短刀。この場合は荒木村重の護身・装飾用の懐剣であるが、長さはそれに限らずにかく呼んだ。

「朱(あけ)になりて」血だらけになって。

「焦(こかれ)て」焦がして。

「久保川伯周(くぼかははくしゆう)」不詳。

「良醫」「七、老醫妖古狸」に既出既注。]

2021/02/13

只野真葛 むかしばなし (11)

 

○長庵ともだちに、門ならび、小倉勝之進樣といふ旗本衆の家來の子に、安太郞といひし人、有(あり)し。殊の外、「氣に入(いり)」にて、九ツのとしより、出入(でいり)はじめ、日々、あそびに來りし。司馬が息子の、もと、次郞こと、養純なりしが、いづれも、廿五のさかいにてなくなりしぞ、哀(あはれ)なる。長庵は、茶の湯、至極、好(このみ)にて有し。山城樣の御ひぞう弟子にて有し。

「すみなどは、三年も稽古して後(のち)ならでは、よくならぬものを、はじめより、よくする。」

とて、人にも御吹聽(ふいちやう)被ㇾ遊しとなり。

 病中、御たづねなど、日ごとのやうにて、御膳下ばかり、いたゞきて有しとなり。

 長庵なくなりし時、山城樣にても、殊の外、いたませられし、と、うかゞひし。

 たかき、いやしき、しるとしれる人の、をしみ歎かぬはなかりし。

[やぶちゃん注:「小倉勝之進」不詳。

「司馬」不詳。

「養純」「8」に出た「養しゆん」と同一人物ではないか?

「山城樣」「山城守」で茶の湯好きの大名か旗本の隠居であろうが、不詳。

「すみなどは」炭の扱いなどは。

「御膳下」不詳。御膳の下にそっと判らぬように置く見舞金の一封のことか。

ばかり、いたゞきて有しとなり。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 8 / 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:以下の段落は前の「7」の補足で、底本では全体が一字下げとなっている。]

 吾邦の高僧、海外に名を馳せ乍ら、本國に知られざる例少なからず、之例[やぶちゃん注:「たとへば」。]、慈覺大師入唐求法巡禮行記に見えたる、日本國靈仙三藏如き、中々の學僧にて、淳和帝より學資を賜はりしが、支那にて毒殺され、異國の緇徒[やぶちゃん注:「しと」。僧衆の意。]その跡を弔ひしのみ、其詳傳は傳らず、茅亭客話(五代詩話卷八に引)に、瓦屋和尙、名能光、日本國人也、嗣洞山悟本禪師、天復年初入蜀、僞永泰軍節度使鹿虔扆、捨碧雞坊宅、爲禪院居之、至孟蜀長興年末遷化、時齒一百六十三、此僧德望高かりしのみならず、海外で二百歲近く迄長生とは、偏えに日本の面目也、迥か[やぶちゃん注:「はるか」。]降て十七世紀の初めに伊太利の旅行家「ピエトロ、デラ、ヷレ」が波斯國イスパハンで逢し日本の碩學、「ピエトロ、バオリノ、キベ」(木部か)如き、自在に拉丁語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]を使い、道を求てローマに留學したりと(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 492)、

[やぶちゃん注:「慈覺大師入唐求法巡禮行記」「につたうぐほふじゆんれいかうき(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」と読む(「法」は通常の歴史的仮名遣「はふ」であるが、仏教用語に限っては「ほふ」と読むのを通例としている)。最後に実施された遣唐使(承和五(八三八)年出発、翌年到着。この後、寛平六(八九四)年に、かの菅原道真を大使とし、絵巻で知られる紀長谷雄を副使とする遣唐使が立案されたが、唐国内の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議によって停止となった。その後、大使の任は解かれなかったが(但し、道真は失脚し、延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)に失意のうちに大宰府で没した)、その十三年後の九〇七年に唐が滅亡したため、遣唐使はそこで名実ともに廃止となった)における入唐請益僧(にっとうしょうやくそう:「更に教えを請う」の意で、本邦で既にそれぞれの学業を規定通りに身につけたとされる僧が、その業を深め、疑問を解決するために短期に留学する場合に用いられた呼称)であった慈覚大師円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年:下野国生まれ。出自は壬生氏。最澄に師事した天台僧で、後に「山門派」の祖となった。仁寿四(八五四)年六十一歳で第三代天台座主となった)の出発(当時、四十五歳)から帰国に至る九年六ヶ月に亙る日記。これより前の承和三年・四年と二回の渡航に失敗した後、承和五年六月十三日に博多津を出港した日から記し始め、博多津に到着して鴻臚館に入り(承和十四(八四七)年九月十九日の条)、朝廷から円仁を無事連れ帰ってきた新羅商人たちへの十分な報酬を命じた太政官符が発せられた同年十二月十四日で日記は終わっている。その間の波乱万丈の一部始終は彼のウィキを参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正一五(一九二六)年東洋文庫刊の写本本文(影印)全四冊と活字本の解説一冊が視認出来る。

「日本國靈仙三藏」平安前期の法相宗の僧霊仙(りょうせん 天平宝字三(七五九)年?~天長四(八二七)年?)。日本で唯一の三蔵法師(「三蔵法師」とは名前ではなく、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶を指す一般名詞で、後には転じて「訳経僧」を指すようになった)。当該ウィキによれば、『出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される』。『興福寺で学んだ後』、延暦二三(八〇四)年に第十八次『遣唐使の一人として入唐した』。『同期に最澄・空海・橘逸勢らがいる。長安で学び』、八一〇年には『醴泉寺(れいせんじ)にて、カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受』(経典を漢訳する際に梵語の口述を漢文で筆記する係の者)や『訳語(をさ)』(漢語・漢字に置き換える係。現代の翻訳に相当する)『を務めた』。八一一年に『「三蔵法師」の号を与えられ』た。『時の唐の皇帝・憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて、大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって、日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移』った。八二五年には『淳和天皇』(じゅんなてんのう:在位:弘仁一四(八二三)年~天長一〇(八三三)年。桓武天皇第七皇子)『から渤海の僧・貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利や経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に、阿波国の稲千束を支給するよう計らった。その後』、八二八年(中唐末期。本邦は天長五年)までの『間に没したようで、一説によれば』、『霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから』、『死ぬまで』、『日本の地を踏むことはなかった』。八四〇年に『霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧・霊仙の最期の様子を聞いている。また』、承和五(八三八)年に『円行・常暁が入唐した際には、霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという』とある。

「緇徒」「緇」は黒い色で墨染めの衣で「僧侶」の意となる。

「茅亭客話」(ぼうていかくわ:現代仮名遣)宋の黄休復の撰になる、五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもの。全十巻。私の「怪奇談集」「老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)」がある。その三巻(「漢籍リポジトリ」の完全電子データ)の「勾居士」に、

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勾居士名令𤣥蜀都人也宗嗣張平雲有學人問答隨機應響著火蓮集無相寶山論法印傳况道雜言百餘篇有敬禮瓦屋和尚塔偈曰大空無盡刼成塵𤣥步孤高物外人日本國來尋彼岸洞山林下過迷津流流法乳誰無分了了教知我最親一百六十三嵗後方於此塔葬全身瓦屋和尚名能光日本國人也嗣洞山悟本禪師天復年初入蜀僞永泰軍節度使禄䖍扆捨碧雞坊宅為禪院居之至孟蜀長興年末遷化時齒一百六十三故有是句

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とある(リンク先では影印本も見られる)。当該部のみの訓読を試みる(字体は熊楠のそれに従った)。

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瓦屋(ぐわをく)和尙、名は能光(のうくわう)、日本國の人なり。洞山悟本禪師を嗣ぐ。天復の年初、蜀に入る。僞(ぎ)永泰軍節度使鹿虔扆(ろくけんい)、碧雞坊(へきけいばう)の宅を捨(ほどこ)し、禪院として之(ここ)に居(きよ)せしむ。孟蜀(まうしよく)の長興(ちやうこう)年末に至りて遷化(せんげ)す。時に齒(よはひ)一百六十三なり。

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もし「能光」が正式な日本名の俗名であったなら「よしみつ」と読める。日本ではあり得ないが、中国での名乗りであるから、あり得ないとは言えない気がする。「天復」は唐の昭宗の治世に用いられた元号(九〇一年~九〇四年)。「僞永泰軍節度使鹿虔扆」唐滅亡後の五代まで及んだ官人で詩人のようである。「永泰軍節度使」は五代の旧唐の南を治めた官名であるから、その上の「僞」というのは甚だ不審であったので、調べてみると、「古今詞話七」(影印本。「中國哲學書電子化計劃」)の「鹿虔扆」を見ると、「鹿爲永泰節度使」とあった。鹿爲永泰節度使」とあった。何のことはない、「鹿、永泰節度使たり」じゃあねえか。阿呆臭! 「碧雞坊」鹿虔扆の所有していた道観の僧坊か或いは彼の別邸か? 「捨(ほどこ)し」喜捨し。「孟蜀」五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した後蜀(こうしょく 九三四年~九六五年)の別称国名。「長興」は五代の二番目の王朝であった後唐の明宗李嗣源(しげん)の治世に用いられた元号。九三〇年~九三三年。

「五代詩話」清の王阮亭の原編で、鄭方坤の刪補になる一七四八年序の詩話集成。

 以下、表記は本文レベルに戻る。冒頭の字下げがないのはママ。]

 

之を要するに、段氏決して全く虛構して酉陽雜俎を著したるに非ず、又況んや上に引ける葉限の物語は、往古南支那土俗の特色を寫せる點多く、之を談りし人の姓名迄も明記したれば、其里俗古話學上の價値は、優に、近時歐米又本邦に持囃さるゝ仙姑譚、御伽草紙が、多く後人任意の文飾脚色を加え含めるに駕する者と知るべし、

[やぶちゃん注:「持囃さるゝ」「もてはやさるる」。

「仙姑譚」女性の仙人の話群。なお、中国の代表的な女仙で、「八仙」(中国では仙人は実在の人物と考えられている)の唯一の女仙に何仙姑(か せんこ)がいる。因みにこの「八仙」が七福神の起源とする説があり、とすれば、弁天の原型ということにもなろう。

「駕する」他を凌(しの)ぐ。

 さて。以下は全体が一字下げで「附記」を除いて、本文は本篇のそれよりもポイント落ちである。しかし、これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」への附記ではなく、先に同じ『東京人類学雑誌』に載せた論考「本邦に於ける動物崇拜」(リンク先は私のPDF一括版)の追加記事である。本来なら、「南方随筆」として纏めた際には、それをその記事の後ろに配すべきものであった。私の以上の一括版やブログ版の最後では、そのように処理しておいた。さらに、熊楠が追加した「橘南谿の西遊記卷一」の「榎木の大虵(だいじや)」は、私のお節介で「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)」の注で既にして電子化してある(PDF版も同じ)ので、一切の注を必要としないのである。

 

 附記 人類學會雜誌二九一號に、予が載せたり野槌に似たる事、橘南谿の西遊記卷一に出づ、其略に云く、肥後の五日町、求摩川[やぶちゃん注:初出では「求麻川」とする。]端の大なる榎木の空洞に、年久しく大蛇住り、時々出で現はるゝを見れば病むとて、木の下を通る者必ず低頭す、太さ二三尺、總身白く、長さ纔に三尺餘、譬へば[やぶちゃん注:初出では「譬ば」である。]犬の足無き如く、又芋蟲に似たり、土俗之を一寸坊蛇と云ふ、[やぶちゃん注:初出では「下略、」とし、下方二字上げで「(完)」(これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」の論考の「完」の意)とする。]

    (明治四十四年三月、人類第二六卷)

 

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7

 

予現に參考書を缺くを以て、歐州「シンダレラ」物語の最古きは、何時代に記されたるを詳かにせず、隨て、此譚の早く筆せられしは、東西孰れに在るを斷ずる能はずと雖も、兎に角、千餘年前に成し酉陽雜俎に、此特色ある「シンダレラ」物語を書付たる、唐の太常卿、段成式の注意深かりしを感謝する者也、この人相國文昌の子、詩名高く、宏學博物、殆ど張華「プリニウス」の流也、(尉遲樞の南楚新聞に、今より千四十八年前、咸通四年六月、卒せる後、其靈書を友人溫庭因筠に贈る由載たり)、平素好んで書を藏し、又下問を耻ず[やぶちゃん注:「はぢず」。]、天上天下、方内方外の異譚奇事を錄して、酉陽雜俎二十卷、續集十卷を撰せり、唐代の事物、是れに據て初て見るべき者頗る多し、然るに楊愼の丹鉛總錄卷五、段成式好張虛大之言、其著酉陽雜俎、亦似郭子橫洞冥記、唐人杜陽雜編全構虛誑、殊無一實也[やぶちゃん注:「中國哲學書電子化計劃」の原本影印本の当該部を確認し、一部の漢字の誤りを訂した。]と評し、江村北海も亦雜俎を丸啌[やぶちゃん注:「まるうそ」。]也と排せり、こは後世支那人が、書籍の穿鑿のみに腐心して、實際に迂なると、吾邦の儒者が、世界の廣き事を知らざる僻言[やぶちゃん注:「まるうそ」に応じて「ひがごと」と読んでおく。]にて、成る程段氏の記述に怪異の事多きも、是れ却つて、當時唐土に行はれたる迷信、錯誤の實況を直筆せる者なれば、其頃支那に於る一汎人智の程度を察するに最も便利有る事、歐州にも、遠く「アリストテレス」「プリニウス」より、中頃天主敎諸大德を歷て、近く「ゲスネル」「アルドロヷンヅス」に至る迄、牛屍を埋れば蜜蜂に化し、人の脊髓死して蛇となり、露[やぶちゃん注:「つゆ」。]海に入て眞珠と變じ、航魚(タコフネ)[やぶちゃん注:底本は「タコウネ」。初出は「タコフ子」(「子」は「ネ」の漢字型表記)。初出に従い、「子」をカタカナ表示した。]を見れば凶事有り、印魚(コバンフネ)[やぶちゃん注:底本は「コバンネ」。初出は「コバンフ子」(「子」は「ネ」の漢字型表記)。初出に従い、同前の仕儀で示した。]は訴訟事件を長引かし、印度の象は每度龍と鬪て相討ちて果る、其外、人魚山男抔、呆れ返つた事共を飽く迄夥く書連ねたるに異ならず、段氏が智識を求る用意極て周到なりしは、卷十八に、諸外國の植物を載せたるに、啻に記文の詳きのみならず、多くは其本國名稱を添たり、紫鉚の眞臘名勒佉(ラツク)、波斯棗[やぶちゃん注:「ペルシアなつめ」。]のペルシア名窟莽(クルマ)、偏桃の波斯名婆淡(バダム)、無花果のペルシア名阿駔(アンジル)、拂林名底珍(「アラビヤ」名テイン)等也(De Candolle, ‘Origin of Cultivated Plants,’ 1890, passim.)、從來「エゴノキ」に宛てたる齊墩果如き、其記載の正確なるが上え[やぶちゃん注:ママ。]、雜俎に波斯名齊墩、拂林名齊虛[やぶちゃん注:「虛」は「選集」では「虛」に「厂」を懸けた字。]と擧げたるはペルシア語 seitun ヘブリウ語 sait に恰當[やぶちゃん注:「かふたう(こうとう)」。相当。]すれば、實は「オリヴ」樹の事也(明治四十年十二月、東洋學藝雜誌、拙文「オリヴ」樹の漢名に出)、其卷十九に見ゆる、梁の延香園の異園の如き、詳細の記載、明かに「コムソウダケ」の或種を眼前に想見せしむ、(予の “The Earliest Mention of Dictyophora,”  Nature, vol. 1, 1894) 其驗仙書、與威喜芝相類と云るは、偶ま、以て、支那の古道士輩が、自然に、窒素分多き菌類の、畜肉と等く滋養分に富るを覺て[やぶちゃん注:「さとりて」。]、之を嗜み重んじ、隨て菌類に就て智識廣かりしを、諒するに足れり(仙書に、上帝肉芝を某仙に賜ふと有るは、紀州抔に多き Fistulina hepatica ならん、形色牛肉に酷似し、且つ鮮血樣の紅液を瀝る[やぶちゃん注:「たれる」。]故、英語に牛肉蔬(ヴエジタブルビーフステーキ)と呼ぶ)同卷に見ゆる、昆明池水網藻の記は、支那人が歐人に前て[やぶちゃん注:「さきだちて」。]、「アミミドロ」(英語 waler Net)を識りしを證す、(予の ‘The Earliest Mention of Hydrodictyon,’ Nature, vol. lxx, 1904)、又松下見林の異稱日本傳卷上にも引る如く、雜俎三に[やぶちゃん注:以下の引用は「酉陽雑爼」及び「異称日本伝」を閲するに脱字があったので特異的に訂しておいた。]、國初、僧云玄奘往五印取經、西域敬之、成式見倭國僧金剛三昧、言甞至中天、寺中多畫玄奘麻屩及匙筯、以綵雲乘之、蓋西域所無者、每至齋日、輙膜拜焉と有り、見林之を評して、眞如親王羅越にて遷化し給ひけるを、師鍊賛して曰、自推古、至今七百歲、學者之事西遊也以千百數、而跂印度者、只如一人而已、蓋不考金剛三昧事也と言り、件の千餘年前に渡天の壯行を遂げたる日本僧は、其姓名すら本國に傳存せざれども、吾邦曾て斯る偉人を出せしを知り得るは、一に親しく之に遇せし話を、雜俎に載たる段氏の賜物也(予の ‘The Discovery of Japan,’ Nature, vol. lxvii, p. 611, 1903 參照)、

[やぶちゃん注:「太常卿」「たいじやうけい」。天子の宗廟の祭礼を職掌とした。

「張華」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)。彼の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻はよく知られる。

「プリニウス」古代ローマの将軍で博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二三年~七九年)。大百科全書「博物誌」三十七巻を編み、古代科学知識を集大成した。ベスビオ火山噴火の際、調査に行き、遭難死した。甥の政治家ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus 六二年頃~一一四年頃)と区別して「大プリニウス」と呼ばれる。

「尉遲樞の南楚新聞」底本は「南楚紀聞」であるが、調べたところ、誤字であることが判ったので、特異的に訂した。「尉遲樞」(生没年未詳)は晩唐の人で、この「新聞」とは「風聞」の意で、そうした南楚の風聞を記した随筆。完本は伝わらないようであるが、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで引用文の集成が読め、そこに「太平廣記」卷三百五十一からとして、

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○段成式

太常卿段成式、相國文昌子也、與舉子溫庭筠親善、咸通四年六月卒。庭筠居閒輦下、是歲十一月十三曰冬至、大雪、凌晨有扣門者、僕夫視之、乃隔扉授一竹筒、云、「段少常送書來。」庭筠初謂誤、發筒獲書、其上無字、開之、乃成式手札也。庭筠大驚、馳出戶、其人已滅矣。乃焚香再拜而讀、但不諭其理。辭曰、「慟發幽門、哀歸短數、平生已矣、後世何云。況複男紫悲黃、女靑懼綠、杜陵分絕、武子成卷君。自是井障流鸚、庭鐘舞鵠、交昆之故、永斷私情、慨慷所深、力占難盡。不具、荊州牧段成式頓首。」。自後寂無所聞。書云卷君字、字書所無、以意讀之、當作群字耳。溫段二家、皆傳其本。子安節、前沂王傅、乃庭筠婿也、自說之。

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とある。

「咸通四年」唐末期の八六三年。

「溫庭筠」(おんていいん 八一七年?~八六六年?)は晩唐の知られた詩人。娘は段成式の子の段安節の妻となり、宰相であった温彦博(びんはく)の末裔に当たる。晩唐を代表する詩人の一人で、同時代の妖艶にして唯美的な詩風で知られる李商隠(八一二年又は八一三年~八五八年)とともに「温・李」と並び称される。優れた才人であったが、彼のウィキによれば、『試験場で隣席の者のために詩を作ってやったり、遊里を飲み歩いて警官と喧嘩をしたりするなど、軽率な行為が多く、科挙には』結局、『及第出来なかった。宰相の令狐綯』(れいことう)『の家に寄食したが、令狐綯を馬鹿にしたので追い出された』。八五九年頃、『特に召し出されて試験を受けたが、長安で任官を待つ間、微行していた宣宗に会い、天子と知らずにからかったので、随県の県尉に流された。襄州刺史の徐商に招かれ、幕下に入ったこともあるが、満足せず、辞職して江東の地方を放浪し、最期は零落して死んだ』。『詩風は六朝時代の宮体詩に近く、同年代の李商隠に比べてやや退廃的。また、温庭筠の性格も相まって少々』、『軽薄な美しさがある。李商隠と共に、宋代初期の西崑体に強く影響を残している』。現在、「温飛卿詩集」九巻が残る、とある。

「楊愼の丹鉛總錄卷五、……」(一四八八年~一五五九年)は明の学者・文学者。一五一一 年に進士に及第して翰林修撰となった。後に世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について帝に反対したため激怒を買い、平民として雲南永昌衛に流され、約三十五年間を配所で過して、没した。神童の呼び名高く、十二歳の時に書いた「古戦場文」は人を驚かし、詩は政治家で詩壇の大物として一時期を作った李東陽に認められた。博学で、雲南にあって奔放な生活を送りながらも、多くの著述を残した。その研究は詩・戯曲・小説を含め甚だ多方面に亙るが、特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料となっている。著作は「升庵全集」全八十一巻に収められている。以下、訓読しておく。

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段成式、虛大の言を張るを好む。其の著「酉陽雜俎」、亦、郭子橫が「洞冥記」、唐人の「杜陽雜編」に似て、全く虛誑(きよきやう)を構へ、殊(とりわ)け、一つの實(じつ)も無きなり。

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この『郭子橫が「洞冥記」』は後漢の郭憲の撰になる道教系の志怪小説集。「杜陽雜編」は晩唐末期の進士蘇鶚(そがく)の撰になる伝奇小説集。

「江村北海」(えむらほっかい 正徳三(一七一三)年~天明八(一七八八)年)は江戸中期の儒者・漢詩人。彼のウィキによれば、福井藩の儒者伊藤竜洲の第二子であったが、『明石藩士であり母の兄にあたる河村家で生まれ、そこで養育された。はじめ学問には無関心だったが、北海の俳諧を見た梁田蛻巖に激励され』、『勉学に専念。父の友人である丹後宮津藩の儒者・江村毅庵の養子となる。藩主・青山幸道は北海に吏才があることに気づき』、『次第に重用』された。宝暦八(一七五八)年、『美濃郡上藩に移封の際、病を理由に辞任を願ったが許されず』、『郡上に同行』している。宝暦十三年には『許されて京都に帰ったが、その後も時々郡上に行』って『教授し、または藩の諮問に応じた』。安永四(一七七五)年、『幸道が隠居したのを機会に致仕し、京都の室町に対梢館を建て隠居』した。

「實際に迂なる」現実の事実に疎いこと。

「段氏の記述に怪異の事多きも、是れ却つて、當時唐土に行はれたる迷信、錯誤の實況を直筆せる者なれば、其頃支那に於る一汎人智の程度を察するに最も便利有る」私は「酉陽雜俎」の愛読者であり、博物学的民俗学的観点から熊楠に完全に同感である。

「ゲスネル」スイスの博物学者で書誌学者コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner 一五一六年~一五六五年)。医学・神学を始めとしてあらゆる分野に亙って博覧強記で、古典語を含めた多言語に通じ、それを活用して業績をあげた碩学。著書「動物誌」全五巻 (一五五一年~一五五八年)は、近代動物学の先駆けとされ、植物学にも長じた。また、書誌学の基礎を築いたとされる「世界書誌」(一五四五年~一五五五年)を著わし、「書誌学の父」とも呼ばれる。当該ウィキによれば、『世界的な博物学者である南方熊楠はゲスナーに感銘を受け』、『北米時代の日記に「吾れ欲くは日本のゲスネルとならん」と記している』とあるのは、熊楠ファンの間では有名なエピソードである。

「アルドロヷンヅス」イタリアの博物学者ウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi 一五二二年~一六〇五年)はである。「Aldrovandus」という名を用いることもある。、ボローニャ大学で医学と哲学を教授した。研究対象は多岐に渡り、昆虫・動物・植物・科学一般などあらゆる分野に精通した。ゲスナーの「動物誌」を参考にした「怪物誌」(Monstrorum historia)はそのモンストルム・ワールドの強烈な一冊である。

「航魚(タコウネ)」頭足綱八腕形上目タコ目アオイガイ上科アオイガイ科アオイガイ属タコブネ Argonauta hians の美しい貝殻様の卵保護の殻を成形する♀(♂は作らない)の異名。私はビーチ・コーミングで採取した三個を持っている。但し、同種は太平洋及び日本海の暖海域に分布するので、ここでは、西洋の古博物書を含むので、他に似た殻をやはり♀のみが持ち、分布も広汎(全世界の熱帯・暖海域。太平洋・インド洋・大西洋・地中海)の表層に棲息するアオイガイ属アオイガイ Argonauta argo も挙げておく必要がある。但し、以下のこれを「見れば凶事有り」という伝承は私は寡聞にして知らない。原拠が何か、非常に興味があるところだ。なお、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子」(ブログ版)や、サイト版の「栗氏千蟲譜 巻十(全) 栗本丹洲」の最後のそれ(画像多数。まず、失望させないと自負する)や、「和漢三才圖會卷第四十七 介貝部【蚌類 蛤類 螺類】」の「貝鮹(かひたこ たこふね)」もよろしければ、読まれたい。

「印魚(コバンフネ)」条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属 Echeneis のコバンザメ類のことであるが、「フネ」は不審。前の「タコフネ」に引かれて熊楠が誤った可能性が高い気がする。或いは紀州で「サメ」を「フネ」と呼ぶのだろうか?(形が舟に似てはいるけれど) 私の「栗本丹洲 魚譜 白のコバンザメ」を参照されたい。以下、「印魚」「は訴訟事件を長引かし」については、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 2魚類」(一九九四年平凡社刊)の「コバンザメ」の項の「博物誌」の最後に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『この魚をもっていると、裁判に勝つことができるという俗信がある。これは裁判を長びかせれば、結局勝つことができるという考えによるらしい(谷津直秀《動物分類表》)』(引用書は一九一四年刊)とある。これは、少し意味が判りにくいが、要はコバンザメのその吸着力を以って裁判相手から決して離れないで訴訟闘争を続けることで勝つという覚悟の意味が元であろうと私は解釈している(他意味があるとなれば、是非、お教え戴きたい)。私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(3)」も参照されたい。

「印度の象は每度龍と鬪て相討ちて果る」これも原拠が判らない。但し、インドでは蛇或いは大蛇が象の天敵とされてはいる。大蛇(ナーガ)は中国では龍とは成ったが、これも原拠が知りたいところ。

「段氏が智識を求る用意極て周到なりしは、卷十八に、諸外國の植物を載せたるに」「酉陽雜俎」の「卷十八」は「廣動植物之三」。

「紫鉚の眞臘名勒佉(ラツク)」「紫鉚」は「しりう(しりゅう)」と読んでおく。同字の音はネットで調べると、一応、呉音が「ル」で、漢音が「リュウ(リウ)」である。納得のゆく読みだが、しかし、所持する「東洋文庫」(一九九四年刊)の今井与志雄氏の訳注の中では「鉚」に『こう』とルビされておられ、また、サイト「和漢薬・生薬の読み方」のこちらでは『紫鉚(しきょう)』である。しかし現代の拼音では「liǔ」で、これは「リ(ォ)ウ」であるからして、私は最初の読みでゆく。さても「紫鉚」とは、マメ目マメ科マメ亜科インゲン連ブテア属ハナモツヤクノキ Butea monosperma (紫鉚樹・紫柳)或いは同じく紫鉚樹・馬鹿花と漢字表記する同属の別種 Butea suberecta を指す(これは植物では最も信頼のおけるサイト「跡見群芳譜」のこちらに拠った)。ブテア属はインドから東南アジアにかけて広く分布する。最初に示したハナモツヤクノキは、当該属のウィキによれば、『ラックカイガラムシの宿主としてしられる。ラックカイガラムシの分泌する樹脂を採取して、花没薬(はなもつやく)という生薬や染色の臙脂に用いられる』とある。虫体被覆物質と虫体内色素の両方を利用する Lac に代表されるラックカイガラムシ科 Kerriidae については、解説が非常に面倒なので、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」の私の注を参照して戴きたい。今村氏の「酉陽雑俎」の訳によれば、カンボジア(原本では「眞臘國」)に産出し、現地では『勒佉(ローキア)と呼んでいる』。『子(み)を結ばない』が、『濃霧、露および雨が樹の枝々にかかってぬらすと、その樹から、すぐ紫』鉚(原本自体で段成式が字を誤っている)『が出る』とある。まさにラックカイガラムシの体を覆う樹脂状の物質で、精製して塗料・接着剤などに現在も普通に用いられているところの「ラック」のことである。

「波斯棗のペルシア名窟莽(クルマ)」私は本文内で「ペルシアなつめ」と当て読みしたが、今村氏は「ペルシア『そう』」と読んでおられ、「窟莽」には「くつもう」とルビされる。訳によれば、『形は、バナナに似てい』て、『花に二つの甲があり、徐々に開花する。裂け目に十余、種子の房があ』って、『核が熟するとき、朱氏は黒である。形は乾した棗(なつめ)に似ている。味は甘く』、『食用になる』とあって、今井氏はこの「窟莽」について、『ナツメヤシ』『のペルシア名という』と注されておられる。ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera である。実はデーツ(Date)と呼ばれ、北アフリカや中東では現在も主要な食品の一つである。

「偏桃の波斯名婆淡(バダム)」「偏桃」はバラ目バラ科モモ亜科サクラ属ヘントウ Amygdalus dulcis で、ご存知、種子の殻を取り除いた仁の部分が生の「アーモンド」である。

「無花果のペルシア名阿駔(アンジル)」底本は「駔」の(つくり)が「貝」であるが、中文ウィキの「無花果」によって特異的に訂した。バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica 同ウィキにはペルシャ語のラテン文字表記で「anjir」と確かに出る。「酉陽雑俎」では第十八巻の最後に「阿驛」として登場する。

   *

阿驛、波斯國呼爲阿馹拂林呼爲底珍。樹長丈四五、枝葉繁茂。葉有五出、似椑卑麻。無花而實、實赤色、類椑卑子、味似甘柿、一月一熟。

   *

但し、今村氏の注で、「阿驛」については、『案ずるに、『本草綱目』三一「果」部「夷果類」の「無花果」』に『引』かれる『「阿駔」』と字注され、訳注では、その漢字表記について『新ペルシア語で、無花果を示す語は、anjir であるが、中国語の転写は、それとは無関係で、ペルシア語のより古い段階、中世ペルシア語とかかわりがあるらしい』と解説しておられる(今村氏の解説はもっと詳しい(もっと複雑である)ので、より詳しくは必ず引用書を参照されたい)。その「拂林」(アラビア)「名」が「底珍」「テイン」であるという点についても、今村は詳しい注を附しておられ、『アラビア語』では『tin, tine, rina』とある。

「De Candolle, ‘Origin of Cultivated Plants,’ 1890, passim.」フランス系のスイスの植物学者アルフォンス・ルイス・ピエール・ピラム・ドゥ・カンドール(Alphonse Louis Pierre Pyrame de Candolle 一八〇六年~一八九三年)。「国際藻類・菌類・植物命名規約」(ICBN)の制定に功績があった。この原本は一八八二年に刊行されたフランス語で書かれた「Origine des plantes cultivées 」(「栽培植物の起原」)である。

「エゴノキ」ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属エゴノキ Styrax japonica 。本邦で全国の雑木林に多く見られる落葉小高木であるが、果皮に有毒なエゴサポニンを多く含むことはあまり知られているとは思われない。それから果汁を絞ったりしたら、飲むどころか、触っただけでも炎症を起こすぞ(溶血作用もあるという)! 当該ウィキによれば、『「齊墩果」が漢名とされる場合があるが、これは本来はオリーブの漢名であ』り、『現代中国語では「野茉莉」と呼ぶ』とある。

「齊墩果」(さいとんくわ)「如き、其記載の正確なるが上え、雜俎に波斯名齊墩、拂林名齊虛[やぶちゃん注:「虛」は「選集」では「虛」に「厂」を懸けた字。ここで「※」としておく。]と擧げたる」これは、やはり、第十八にある、

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齊暾樹、出波斯國。亦出拂林國、拂林呼爲齊※【音「湯」兮「反」。】。樹長二三丈、皮靑白、花似柚、極芳香。子似楊桃、五月熟。西域人壓爲油以煮餅果、如中國之用巨勝也。

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である。この記載を見ても判る通り、これは明らかに、シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea である。

ペルシア語 seitun ヘブリウ語」(ヘブライ語に同じい)「sait」今村氏の「齊暾樹」の注に「齊暾」は『オリーヴ』で、『ペルシア語の zeitum の転写である』とされた後、熊楠が以下で挙げる、論文を引かれて詳述されておられる。その今村氏の熊楠の以下の論文の引用部を恣意的に正字化して以下に示しておく。

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其邊[やぶちゃん注:今村氏によって『東羅馬帝国の亜細亜領』とある。]の諸氏がオリーヴを呼ぶ名に、齊暾に合ひ又は近き者多し。ヘブリウの Sait 又は Zeit、波斯の Seitun、アラビヤの Zaitun、土耳其人[やぶちゃん注:「トルコじん」。]及びクリメヤ脫脫[やぶちゃん注:意味不明。クリミア半島に勢力を持った元のチンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配して興亡した遊牧政権の言語、或いはタタール語ということか?] Seitun、アラビアの Jit、ヒンスクニ[やぶちゃん注:ヒンズークスのことだろう。]の Zeitun 等なり……[やぶちゃん注:このは今村氏の中略であることを、サイト「私設万葉文庫」こちら(ここで当該論文は一応(表示文字に不全があるが)読める)で確認した。]因みに言ふ。古アラビヤ人はジェルサレムをオリーヴに因んで齊暾邑 Aaituni-yah と呼び、又、七八世紀の頃より、支那の泉州をも齊暾と呼り、當時の唐人が泉州府を楚桐城 Tseu-tung-ching と綽名せしをオリーヴのアラビヤ名と混じての事也

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『明治四十年』(一九〇七年)『十二月、東洋學藝雜誌、拙文「オリヴ」樹の漢名』こう表記しているが、国立国会図書館の書誌データの「目次」(本文画像は閲覧出来ないので御注意あれ)を見る限りでは、「オリーヴ樹の漢名」である。

「其卷十九」「酉陽雑俎」のそれは「廣動植之四」で「草類」が続く。

「梁の延香園の異園」梁の第二代皇帝簡文帝蕭綱(五〇三年~五五一年:武帝蕭衍の三男。土嚢を身体の上に積まれて圧殺された)の作った庭園名らしい。以下は、著者段成式の自分の屋敷の竹林を手入れしていたところ、不思議な菌(きのこ)が生えてきたことを記した後に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認した)、

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又、梁簡文延香園、大同十年、竹林吐一芝、長八寸、頭蓋似雞頭實、黑色。其柄似藕柄、内通幹空【一曰柄幹通空】、皮質皆純白、根下微紅。雞頭實處似竹節、脫之又得脫也。自節處別生一重、如結網羅、四面同【一曰周】、可五六寸、圓繞周匝、以罩柄上、相遠不相著也。其似結網衆目、輕巧可愛、其柄又得脫也。驗仙書、與威喜芝相類。

   *

と出るのを指す。今村氏の訳文を参考に訓読してみる。

   *

又、梁の簡文が延香園にて、大同十年[やぶちゃん注:五四四年。]、竹林、一つの芝(くさびら)を吐(はきい)だす。長(たけ)八寸、頭の蓋(かさ)は雞頭の實に似て、黑色たり。其の柄、藕(ぐう)[やぶちゃん注:蓮根。]の柄に似、内は幹に通じ、空(くう)たり【一つに曰はく、「柄幹は通空たり。」】。皮質、皆、純白にして、根の下、微かに紅(あか)し。雞頭の實のやうなる處は、竹の節に似て、之れを脫(は)がせば、又、脫(は)がすを得るなり[やぶちゃん注:同じようなものを剝さなくてはならない。]。節の處より、別に一重(ひとえ)のもの生ぜしに、網羅(まうら)を結べるがごときにて、四面、同じくして【一つに曰はく「周(まは)り」。】、五、六寸ばかり、圓(まる)く繞(ねう)して周匝(しうせう)し[やぶちゃん注:丸く纏わってぐるりと取り囲み。]、以つて柄の上を罩(おほ)ひて、相ひ遠(はな)れて相ひ著(つ)かざるなり。其れ、結べる網の衆(おほ)くの目に似て、輕く巧(たくみ)なること、愛すべく、其れ、柄と又(とも)に脫(は)がし得たりしなり。仙書を驗(けみ)するに、「威喜芝(いきし)」と相ひ類(たぐひ)せり。

   *

「仙書」は道教の仙術書。その代表作は以下にも語られる晋代の葛洪(二八三年~三四三年)の著「抱朴子」(ほうぼくし)である。「威喜芝」については、今村氏が、『案ずるに、『抱朴子』内篇一一「仙薬」でいう木威喜芝であろう。同書によると、「そもそも木芝とは、松柏(はく)の脂がしずんで地に入り、千年たつと茯苓(ぶくりょう)にかわる。茯苓が一万年たつと、その上に小さな木が生ずる。形は蓮(はす)の花に似ている。名づけて木威喜芝という。夜、みると、光がある。持つと、たいへん滑らかである。焼いてももえない。これを身に帯びると武器をよける。雞につけて、他の雞を十二羽まぜ、一緒に籠にいれて、十二歩離れたところから箭(や)を十二本射ると、他の雞はみな傷つくが、威喜芝をつけたのは、ついに傷つかないのである」。それであろう』とある。文中で「木」を外して「威喜芝」と言っているのは所持する原本でも確認した。これは恐らく、「霊芝」(レイシ Ganoderma lucidum )に代表される菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属 Ganoderma の茸類の仲間であろうとは推定される。なお、「森林微生物管理研究グループ」サイト内の「キヌガサタケとスッポンタケ」にここを簡略記載した記事が載る(脱字を補った)。

   *

 特異な形のため記録に残っている。唐代の随筆集である酉陽雑俎には、「梁の簡文帝の延香園では、大同十年(五四四年)、竹林からきのこが出た。長さは八寸、頭の傘は鶏頭に似て黒く、その柄は中空であった。皮質はみなとても白く、根の下は、わずかに紅色だった。鶏頭の実のところは竹の節に似ている。節のところから、別に一重に網のような物が生えていた。四面は周囲が五、六寸ばかり、円形にぐるりととりまき、柄の上にかぶさって、互いに付着していない。それは網の目を結ぶのに似ていて、軽く巧妙なことは愛らしく、柄とともにはずすことができた。」とあり、割合正確な描写をしている。著者の段成式は、竹林の手入れをして、病気で枯れた竹を伐ったところ、三年後(八三八年)の秋に枯根からキヌガサタケが発生した。高さは一尺余で、昼頃には黒ずんでしおれてしまったという。

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これは間違いなく、菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科キヌガサタケ属キヌガサタケ Phallus indusiatus である。私は偶然、京都嵐山の竹林を散歩している最中に実見した。まことに妖艶で美しいものであった。しかし、当初、――「熊楠にしてどうしたものか? 彼は『「コムソウダケ」の或種』と言っているが?」と甚だ腑に落ちなかったのだが? 菌蕈綱ハラタケ目フウセンタケ科フウセンタケ属ショウゲンジ Cortinarius caperatus という茸の異名として「コムソウ(ダケ)」が一般に知られていたからである。――しかし、以下の、「“The Earliest Mention of Dictyophora,”  Nature, vol. 1, 1894」(題は「デイクティオフォラ属に関する最古の言及」)については、幸いにして、「Internet archive」のこちらで原文を読むことが出来(左ページ右段の中央)、さらに私は邦訳された「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊)を持っていることから、苦労せずに熊楠の記している内容を理解出来た。しかも、そこでは、まさにこの「酉陽雑俎」を英訳して、これは「コムソウダケ」世界最古の記録ではないか? と述べているのである。而してやおら、Dictyophora」を調べると、キヌガサタケのシノニムに Dictyophora indusiata があったのであった。

「仙書に、上帝肉芝を某仙に賜ふと有る」出典不詳。「抱朴子」に無論「肉芝」は出るが、こうした内容は記されていない。

「Fistulina hepatica」真正担子菌綱ハラタケ目カンゾウタケ(肝臓茸)科カンゾウタケ属カンゾウタケ Fistulina hepatica である。当該ウィキによれば、『全世界に広く分布し、欧米では広く食用にされている。アメリカなどでは"Beefsteak Fungus"・「貧者のビーフステーキ」、フランスでは「牛の舌」(Langue de boeuf)と呼ばれている』。『梅雨期と秋に、スダジイ、マテバシイなど(欧米ではオークや栗の木、オーストラリアではユーカリ)の根元に生え、褐色腐朽を引き起こす。傘は舌状から扇型で、表面は微細な粒状で色は赤く、肝臓のように見える。裏はスポンジ状の管孔が密生し、この内面に胞子を形成する。他のヒダナシタケ類と異なり、この管孔はチューブ状に一本ずつ分離している』。『カンゾウタケ科に属するキノコは、世界中で数種類しかない小規模なグループを形成している。現在、カンゾウタケ属は本種を含む』八『種が命名されている』。本種は『近年の分子系統解析において』、同科の『ヌルデタケ』属 Porodisculus 『やスエヒロタケ科』Schizophyllaceae『の菌類と近縁であることが示されている』。『肉は、霜降り肉のような独特の色合いを呈しているうえ赤い液汁を含み、英名のBeefsteak Fungusの名の通りである。生ではわずかに酸味があるが、管孔を取った上で、生のまま、またはゆでて刺身や味噌汁にしたり、炒めて食べたりする』とある。

「ヴエジタブルビーフステーキ」Vegetable beefsteak。英文ウィキの「Fistulina hepaticaには「beefsteak fungus, also known as beefsteak polypore, ox tongue, or tongue mushroom」の異名が並ぶが、英文サイトのこちらには、「The Vegetable Beefsteak. The Beefsteak Mushroom. Fistulina Hepaticaがしっかりあった(太字は私が附した)。

「昆明池水網藻の記」「酉陽雑俎」の巻十九には、「昆明池」二箇所で出て、水草と水藻が語られてある。二つ並べて示す。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認した(前者がここ、後者がここ)。ここで熊楠が問題にしているのは後者であるが、私はヒシが大好きなので、敢えて挙げた。

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芰、一名水栗。一名薢茩。漢武昆明池中有浮根菱、根出水上、葉淪沒波下、亦曰靑水芰。玄都有菱碧色、狀如雞飛、名翻雞芰,仙人鳧伯子常採之。

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 芰(し)、一名、水栗(すいりつ)。一名、薢茩(かいこう)。漢の武が昆明池中に浮根菱(ふこんりやう)有り。根、水上に出で、葉、波下に淪沒す。亦、「靑水芰」と曰ふ。玄都に菱の碧色なる有り、狀(かたち)、雞の飛ぶがごとし。名づけて「翻雞芰」、仙人鳧伯子(ふはくし)、常に之れを採れり。

   *

水網藻、漢武昆明池中有水網藻、枝橫側水上、長八九尺、有似網目。鳧鴨入此草中、皆不得出、因名之。

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 水網藻(すいまうさう)。漢の武が昆明池中に水網藻有り、枝、水上に橫側(わうそく)し[やぶちゃん注:水面に突き出して水面上に広く広がっていて。]、長さ、八、九尺[やぶちゃん注:唐代の一尺は31.1㎝であるから、約2.49~2.80m。]にして、網の目に似たる有り。鳧鴨(のがも)、此の草中に入れば、皆、出づるを得ずと。因りて之之れに名づく。

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「アミミドロ」(英語 waler Net)」網深泥。緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目アミミドロ科アミミドロ属 Hydrodictyon 。種は当該ウィキによれば、Hydrodictyon africanumHydrodictyon indicumHydrodictyon patenaeformeHydrodictyon reticulatum の四種を挙げるものの、本文内では『種の同定にはやや疑問があるようである』と記す。以下、同ウィキから引用する。『淡水性の藻類で、網の目のような形をしている』。『大きいものは全体で30cmにもなり、淡水藻では大型の部類に属する。全体は細長い袋状で、五角形か六角形の網目構造からなっている。つまり、金網を円筒形の袋の形につなげたような形である。その長さは1cm足らずのものから前述のように大きなものまで様々である。ただし大きいものは全体の形が壊れてしまっている場合も多い。固着のための構造はなく、浅い水域で浮遊するか、何かに引っ掛かって固まっているだけである。色は鮮やかな黄緑』。『網目の各々の辺が1個の細胞からなっている。個々の細胞は円柱形。それぞれが当初は単核であるが、成長に伴って次第に多核になる』。『その姿に特にまとまりが感じられないこと、あまりに大きいことから、この藻類はアオミドロなどと同じように簡単ながらも』、『多細胞藻類であるように見えるが、実は違っている。アオミドロなど多細胞藻類は細胞分裂によって細胞を増やしながら、全体が成長して行くのであるが、アミミドロの場合、小さい藻体も大きい藻体も細胞数は変わらず、個々の細胞の大きさが異なるだけである。成長は、細胞それぞれが大きくなるだけであり、したがって、小さい藻体では網の目も細かく、大きい藻体では網の目は粗い』。『つまり、この藻類は非常に大柄ながら、クンショウモ』(アミミドロ科クンショウモ属 Pediastrum )『やボルボックス』(緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科ボルボックス属 Volvox )『と同様に、細胞群体である。群体全体の細胞数は一定で、細胞数が増えるのではなく、細胞が育つことだけで成長する。ただし、大きくなる間に破れるようにして藻体の形がくずれることがある。網が破れても細胞の壊れていない部分は生きているから、群体全体の形を止めない場合もままある』。『なお、細胞群体のことを別名を定数群体と言う。これは、群体を構成する細胞の数が一定(たいていは2の階乗、群体ができる時の細胞分裂回数による)なためであるが、アミミドロの場合、細胞数は約2万個で必ずしも一定しない』。『主として無性生殖で増える。暖かい時期には、大きく成長した群体において、細胞内がすべて鞭毛を持つ遊走子に分かれる。遊走子は泳ぎ回る余裕がないぐらい密生し、細胞内側の表面に並ぶ。やがてそれらが群体を構成する細胞に変わり、網目を形成する。やがて細胞壁が壊れると、新しい群体が放出される。つまり、親群体の個々の細胞から、それぞれ新しい群体が作られる。群体が円筒形をしているのは、もとの細胞の形を反映したものである』。『有性生殖は細胞内に多数の配偶子が形成され、それが泳ぎ出して接合することで行われる。配偶子は先端に2本の等長の鞭毛を持つ、同型配偶子である。接合子は発芽するとポリエドラ』(polyedra:藻類の生活環上の特定形態期の名)『となり、その内部に多数の遊走子を形成し、それが網状の群体を作る。接合核は発芽時に減数分裂を行う』。『ごく浅い、富栄養な水域に生育する。水田にもよく見られる。その他、河川のよどみのごく浅いところなどにも出現する』。『特に役に立つ場面はない。迷惑することもほとんどない。まれに増え過ぎて水路の邪魔になったり、金魚などの養魚場で増えて、小魚が藻体の網の目に引っ掛かって死ぬ、などという話がある程度である』。『アミミドロは細胞群体を形成することや、その繁殖法がクンショウモと同じで、これらは同じ群に属する』。『従来はクロロコックム目』Chlorococcales『とすることが多かったが、現在では、遺伝子解析などからヨコワミドロ目』Sphaeropleales『に分類されることが分かっている』とある。

「The Earliest Mention of Hydrodictyon,’ Nature, vol. lxx, 1904」標題は「アミミドロ属に関する最古の言及」。Internet archive」のこちらで原文が読める(左ページの左下段から)。見ると、先の「ネイチャー」への投稿と同じく、「酉陽雑俎」の「水網藻」のの英訳を示して、現在のアミミドロの生態を誇張して描写したものと思われるとし(但し、「長八九尺」という寸法は巨大に過ぎると退けている)、これはアミミドロに関する最古の記述であろうと記している。

「松下見林」(まつしたけんりん 寛永一四(一六三七)年~元禄一六(一七〇四)年)江戸前期の医師で儒者・国学者。本姓は橘、名は秀明・慶摂。大坂の医師松下見朴の養子。儒医古林見宜(けんぎ)に学び、京で医業の傍ら、「三代実録」を校訂し、ここに出る「異称日本伝」の外、「公事根源集釈」「習医規格」などを著わしている。後年、讃岐高松藩主松平頼常に仕えた。

「異稱日本傳」外交史書。全三巻。元禄元(一六八八)年に書き上げ、同七年に板行された。中国や朝鮮の歴史書から、日本関係の記事を抜粋し、これに見林が考証と批評を加えたもの。外交関係史としては日本初の試みである。国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧』」のここが当該部。「酉陽雑俎」の巻三「貝編」(ばいへん:仏教経典のこと。貝多羅樹(ばいたらじゅ:現在ではインドのそれは単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科パルミラヤシ属オウギヤシ Borassus flabellifer に同定されている)の葉に経典を書写したものの意である)訓読を試みる。

    *

國[やぶちゃん注:唐。]の初め、僧玄奘、五印[やぶちゃん注:天竺を東西南北と中に分けた五天竺全部でインドのこと。]に往きて經を取(もと)めたり。西域、之れを敬す。成式[やぶちゃん注:著者の自称。]、倭國の僧金剛三昧(こんがうざんまい)[やぶちゃん注:熊楠が述べる如く、現在も、この名の日本人僧が誰だったのか、全く判っていない。]に見(まみ)ゆるに、言はく、「甞(かつ)て中天[やぶちゃん注:上記の中天竺。中部インド。]に至りしに、寺中、多く、玄奘が麻の屩(くつ)及び匙(さじ)[やぶちゃん注:「異称日本伝」では「カイ」とルビ。]・筯(はし)[やぶちゃん注:音は「チヨ(チョ)」。箸。]、綵雲(さいうん)を以つて之れを乘せて畫(ゑが)けり。蓋し、西域には無き所の者なればなり。齋日(さいじつ)の至る每に、輙(すなは)ち、膜拜(もはい)す。」と。

   *

最後の「膜拜」は「跪いて両手を挙げて礼をすること」を指す。仏教に於ける最高無条件の礼式である。

「眞如親王」澁澤龍彥最後の名作で知られる高岳親王(たかおか 延暦一八(七九九)年~?(貞観七(八六五)年とも元慶五(八八一)年ともされるが不明))、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、「薬子の変に」より廃された。後に復権して四品となるが、出家し、僧侶とななったその法名が「眞如」であり、空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)の十大弟子の一人となり、仏法を求めて六十四という老齢で入唐を決意、貞観六(八六四)年に長安に到着して在唐三十余年になる留学僧円載の手配により、西明寺に迎えられた。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(「会昌の廃仏」)の影響により、仏教は衰退の極みにあったことから、親王は長安で優れた師を得ることが出来なかった。そこで、遂に天竺行を決意し、貞観七(八六五)年、皇帝の勅許を得て、従者三名とともに、広州より海路、天竺を目指して出発したが、その後、消息を絶った。なお、在原業平は甥に当たる。

「羅越」羅越国はマレー半島の南端にあったと推定されている国。ここで元慶五年に亡くなったというのは、「日本三代実録」の元慶五年十月十三日の条にある、当時、在唐していた留学僧中瓘(ちゅうかん)らの報告によるものである(前の注とここは概ね当該人物のウィキに拠った)。

「師鍊」不詳。「自推古、至今七百歲」という時代がまた訳が判らない。松下見林はどこかで空海が高岳親王の天竺行を讃嘆したという、トンデモ記事を読んだものか? にしても「七百歲」が合わない。空海は親王在日中に遷化しており、彼も看取っている。【同日夜削除・訂正追記】いつも御指摘を頂くT氏よりメールを頂戴し、私のトンデモない誤りであることが判った(「師鍊」とあるのを「師」のみで誤認した致命的なもの)。これは、鎌倉後期から南北朝時代にかけての臨済僧で五山文学の代表者の一人である虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)のこと。元亨二(一三二二)年に白河済北庵で優れた仏教史の史書「元亨釈書」を著したが、そのこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの永禄元(一五五八)年の写本の当該箇所の画像。左頁の後ろから三行目以下)に、この叙述が出ることを御指摘戴いた。いつも乍ら、T氏に心より御礼申し上げるものである。

「自推古、至今七百歲、學者之事西遊也以千百數、而跂印度者、只如一人而已。蓋不考金剛三昧事也」「推古より今に至るまで七百歲。學者の西遊を事(こと)とするや、千百を以つて數ふ。而れども、印度に跂(つまだちてむか)ふ者は、只、一人のみのごとし」。と、けだし、金剛三昧のことを考えざりしなり」

「‘The Discovery of Japan,’ Nature, vol. lxvii, p. 611, 1903」「日本の発見」。Internet archive」のこちらで原本が読め、その第二段落後半に以上の「酉陽雑俎」の内容が短く記されてある。]

2021/02/11

西岡純先生に感謝

先般、嘗て京都府水産事務所にお勤めされていた(現在は『昆虫の同定と計数のパート』をされており、高知大学農学研究科修士課程御卒業(在学期間:1971年~1973年)で現在は徳島県板野郡の御在住と御自身のフェイスブックに記しておられる)西岡純先生より友達申請を戴き、海藻の『アカモクと神馬藻のパンフレット作成に際しホームページを参考にさせていただきました』とメッセージを頂戴したことが、専門外である、しかし、相応に海産生物を愛してきた私には、殊の外、嬉しいことであったことを、ここでご報告させて戴く。
追伸:恐らく、「京都府」公式サイト内の「京都府農林水産技術センター海洋センター研究報告(旧京都府立海洋センター研究報告)」の十件の海洋生物研究論文(PDF・総てダウン・ロード可能)が先生のものと思われる。

怪談登志男卷第四 十七、科澤の强盗

 怪談登志男卷第四

 

    十七、科澤(しなさは)の强盗(とう)

 むかしむかし、麻生の松若、三國(くに)の九郞が強盗の張本となりて、往家の人を惱せしと聞へしは、越前國「科澤の岡」とて、人家稀に、荊棘(けいきよく)茂りたる間道、獵人(かりうど)の外、徃通ふ人も絕(たへ)て、最(いと)淋しき所なり。敦賀への近路(みち)なれど、旅人(りよじん)、怖れて、さらに此道に出る事なし。

 爰に、此近鄕、貫(ぬき)手村といへる在家に、綜田道喜とて、隱なき福醫ありけり。家(いへ)、富、財寶、藏に滿て、近國迄、その聞へありける。

 或夜、門に、人音して、

「福井領小發知村の富民田松彌十郞。」

とかや、名高き者の許より、

「今宵、世忰彌七郞、食傷仕、難儀至極に候へば夜中、御太儀千萬に候得共、御見舞賴入。」

との口上。則、駕龍を持せ、拙者、『御供申せ』との事。」

と、臺所に入、挑灯[やぶちゃん注:ママ。提灯(てうちん)。]の火で、たばこ、吞ながら、道喜が下部と、

「宵より、急病の難儀。」

彼是と、つぶやく様子、聞とどけ、道喜も、夜中、迷惑なれども、

「彌十郞殿の病用、捨置がたし。」

と、迎の駕籠に打乘、藥箱、打入て、出たる。

 頃は亥の刻の半[やぶちゃん注:「なかば」。]なりし。

 いつも半時斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]には、發知村ヘ至るに、

「今夜はいかゞ遲かるらん、九ツ時にも過ぬベからん。」

と、思ふに心付て見れば、廿六夜の月、後にひかりて、山の端にさへわたりぬ。不審におもふ時、駕籠、卸せば、道喜、心得ず覺えて、

爰は、そも、いづく。」

と尋ねければ、駕籠舁も、供の男も、詞をそろへ、

「爰は、我等が家業の祖師、三國の九郞殿の奮跡『科澤の細美知』よ。誠は發知村の彌十が方には、病氣も、寸白も、おこらず。今比は鼻に矢倉あげて、よい夢見て居るなるらん。我々が酒手を設けん爲ばかりなり。」

と、無二無三に引出しければ、道喜、肝(きも)を消して、しばらく、物もゑいはで居たりしが、

『今は。遁れぬ所。』

と、

「是は、おもひもよらぬ難儀にて候。それがし、元來、在鄕醫者にて、貯へとても、なし。我宅へ連(つれ)行給はゞ、家財を傾ても、まいらすべけれど、爰には一錢の所持も、なし。只、ゆるし歸させ給へ。」

と詫けれども、盗人共、笑(わらひ)て、

「汝が言葉に乘(のり)て、うかうかと、貫手(ぬきて)村へ金取に行樣な[やぶちゃん注:「ゆくやうな」。]、靑い盗人と、おもふか。己(おのれ)、慥に身にも金銀は着てあるらん。命に及ぶぞ、いつはるな。」

と、駕籠に仕込し棒・息杖(いきづへ)より、刀を取出して、橫たへ、道喜を捕へ、赤裸にして、松の梢に縛り上、衣類・藥箱・合口ともに、引さらへ、大笑して、立さりける。

 道喜は、梢にいましめられ、人倫絕たる山中に、初(はつ)秋の風、ひやゝかに、物凄(すご)き狐の鳴聲、淋しさ、いふばかりなく、苦しさに、神佛を祈り、明わたる空を待間[やぶちゃん注:「まつあひだ」。]、千歲を過る心地にて、漸[やぶちゃん注:「やうやう」或いは「やうやく」。]、東の峯もしらみわたり、木立のあやめも見わくる斗、ほのぼのと成にける。

「あはれ、獵人(かりうど)、炭燒なんど、通れかし。」

と待處に、麓の道に、鉦の音、聞へて、殊勝なる念佛のこゑ、次第に近く聞へながら、此道には、かゝらずして、一段、下なる岨道[やぶちゃん注:「そばみち」。崖道。]を行人[やぶちゃん注:「ゆくひとの」。]聲(こへ)、道喜、聲をあげて呼ども、松柏、生茂り[やぶちゃん注:「おいしげり」。]ぬれば、隔たりて聞へず、過行を[やぶちゃん注:「すぎゆくを」。]、猶、聲をはげまして、よべば、六十六部のしゆ行者二人、立とゞまり、

「まさしく此尾の上に呼なり。」

と、茨(いはら)、搔分(かきわけ)、攀登れば[やぶちゃん注:「よぢのぼれば」。]、道喜、うれしく、心の内に、

『佛神の守らせ給ふ事の難有さよ。』

と、兩人にむかい、はじめ・おはりを語り、

「あはれ、此繩を、ときて助(たすけ)給はれ。」

と、最(いと)苦しげに賴けるを、在所・家名を委しく尋聞て、

「痛はしき事なり。」

と、甲斐甲斐しく、木の枝に傳ひあがり、繩を切ほどき、抱をろし、笈(おひ)の中より着替の衣服、取出し、打着せて、道喜が宿ヘ、つれ行ける。

 道喜が家内は、此由(よし)を聞て、手を合せ、修行者を拜(おがみ)、

「御禮申べき樣なし。偏に佛神の御道引(みちひき)か。」

と淚を流し、隣(りん)家の者迄、來り集(つとい)て、

「蘇生も同然の事なり。」

と、悅あへり。

 宿にては、

「心許(こゝろもと)なさに迎(むかい)を遣したるに、發知(ほつち)村には、おはせざれば、北川(きたがは)・上瀨(かみのせ)・額田(ぬかだ)・羽川(はねがは)の邊、聞及びたる療治塲(りやうじば)を尋させ、途方に暮れたり。」

と語るに付ても、

「御僧の御恩、いかゞして報ずべき。」

と、一家(け)、打寄、尊(たつと)びける。

 二人の僧は、

「行先、とほく候へば、又こそ、尋ね申すべき。」

と旅用意するを、夫婦、衣の袖に取付、

「今迄の御厚恩、せめて、三、四日も滯留(とうりう)し給へ。麤飯(そはん)ながら、一日も緩々(ゆるゆる)と供養し奉りたし。」

と、ひたすらにとゞめて、一、二日、留り、諸國の咄(わ)、さまざまの珍說、夜すがら、語り慰み、六、七日が程、休息せしが、あめ風、暴(あらき)夜の紛(まきれ)に、何處(いづく)へか消失(きへうせ)けん、跡かたもなく、家内、周章(あはて)騷ぎ、

「扨は。佛・菩薩の化(け)現なるべし。あな、たふとや。」

と、信心、肝に銘じながら、心を付て見れば、數年(すねん)貯(たくはへ)たる金箱(かねはこ)をはじめとして、衣類・小道具、下部等が一衣(ゑ)の木綿(もめん)物迄、眼(め)にさはるもの、のこらず、さらへて、塵(ちり)もなく、かさねがさねの損をせし、とぞ。

 是、正眞(しやうしん)の盗人(ぬすひと)に笈(おい)なるべし。

[やぶちゃん注:「科澤(しなさは)」不詳。

「麻生の松若、三國(くに)の九郞」能「熊坂」には、美濃赤坂の青野が原で、「金売り吉次」を襲うも、同行していた牛若丸(後の義経)に返り討ちに遇って命を落としたという盗賊熊坂長範の霊が出るが、その配下の盗賊の名を挙げる中に「麻生の松若、三國の九郞」とあり、この二人の盗賊の名は、それを元にしたと思われる浄瑠璃・歌舞伎「熊坂長範物見松」にも見出せ、それに基づくらしき浮世絵やその役者物を見るに、「麻生の松若」には「越前」と記すのが見出せる。例えばサイト「浮世絵検索」の歌川国芳のこれ

「貫(ぬき)手村」不詳。

「粽田道喜」不詳。「ちまきだだうき」と読んでおく。

「隱なき」「かくれなき」。知られた。

「福醫」「七、老醫妖古狸」に既出既注。

「福井領小發知村」不詳。こんなに地名が全く判らない話も珍しい。「小發知」は後からの読みで「こほつち(こほっち)」らしい。

「田松彌十郞」不詳。無論、後の展開から、道喜の普段から上客の金蔓である「富民」である。

「世忰」「せがれ」。倅。

「食傷仕」「食傷(しよくしやう)仕(つかまつ)り」。「食傷」は食中(しょくあた)り・食中毒。

「御太儀千萬に候得共」「ごたいぎ、せんばんに、さふらえども」。

「御見舞賴入」「おみまひ、たのみいる」。

「亥の刻の半」午後十時頃。

「半時」現在の約一時間。

「九ツ時」午前零時頃。

「廿六夜の月」「有明の月」とも呼ぶことで判る通り、月の出は午前三時を過ぎる。

「鼻に矢倉あげて」「矢倉」は「櫓」で、「鼻提灯を揚げて、高鼾(たかいびき)でおネンねしてる」の謂いであろう。歌舞伎の台詞っぽい。

「我々が酒手を設けん爲ばかりなり」「そう、弥十郎が安眠してるってえことはだな、即ち! 曰はく! おいらたちが、お前さんから、酒手(さかて)をまんまと儲けるためって、いうだけのことだわな!」。

「引出しければ」「ひきいだしければ」。道を駕籠から乱暴に引き出したので。

「駕籠に仕込」(しこみ)「し棒・息杖(いきづへ)より、刀を取出して」駕籠の天秤棒に打擲するための棒を隠し入れ、それぞれの舁子の杖には刀を仕込んであったのを取り出して。小道具がバレないように巧妙に作られてある。

「橫たへ」棒を振るために横に構えたり、刀を横ざまに抜き身にすることを指している。

「合口」護身用の装飾を施した「合口(あひくち)」。鍔のない短刀。よく「九寸五分(くすんごぶ)とも呼ぶ。

「六十六部」私の「北原白秋 邪宗門 正規表現版 驟雨前」の「六部(ろくぶ)」の注を見られたい。

「まさしく此尾の上に呼なり。」「確かに! この尾根の上から呼んでいる!」。

「宿にては」道喜の留守宅では。

「北川(きたがは)・上瀨(かみのせ)・額田(ぬかだ)・羽川(はねがは)」北川は川の名で福井県小浜にあったり、上瀬の地名は若狭湾岸に二箇所はあったりするが、それらが簡単に調べ得る近距離には存在しない。「額田」「羽川」は判らぬ。そもそもが先行する地名が判らぬ以上、調べても意味がないと思い、深く調べるのは馬鹿々々しいからやめた。

「聞及びたる療治塲(りやうじば)」「常より伺っております患者のいるところ」の謂いであろう。

「滯留(とうりう)」「逗留」の当て訓。

「麤飯(そはん)」粗末な食事。謙譲語。

「盗人(ぬすひと)に笈(おい)」(歴史的仮名遣は「おひ」が正しい)「なるべし」「盜人(ぬすびと)に追(お)ひ錢(ぜに)」に洒落たもの。盗人に物を盗まれた上にお目出度いことに更に金銭を与えることで、「損を重ねること」の喩えであるが、ここは何故「正眞の」となるかと言えば、「六十六部」が奉納する書写する法華経と仏像を入れた厨子を背負うに「笈(おひ)」を背負っているケースが殆んどで、そこでも洒落になるからである。この最初の駕籠舁と供の男と、この二人の六十六部は同じ盗賊団の一党であり、この騙しの二件が最初から連携された「ダマシの手口」であることは論を俟たない。後半は誰も騙されていると気づかない劇場型詐欺で、こちらが盗賊団の本番だったのである。読者も「六十六部」が辛くも道喜を見つけるリアルなシークエンスでまんまと騙されるのである。私? 私は疑り深いからね、吊り下げられた男のそれを木を「するするっつ」と登って、「あっ」という間に繩を解くところで、すぐ疑ったわ。

只野真葛 むかしばなし (10)

 

○母樣、氣質も、このたぐひにて、萬(よろづ)を察せらるゝこと、明かにて、すみのぼりし所、俗に、あわず[やぶちゃん注:ママ。]。

 「げん」といひし、「おてる」が乳母は、大のねぼうにて、いねぶりをしても、中々、めつたに、目をさまさぬ生(しやう)なりし。

 夏、ひとつ蚊帳(かや)に入て寢(いね)しが、ねぞうも、あしく、ふみぬきて、橫筋かいに成(なり)てねるを、よなかに、二、三度づゝ、御手づから、枕させ、足をなほし、きる物、かけてつかはされしを、每夜のことなるに、終に一度も、「かく」すると、御言葉だして被ㇾ仰し事は、なかりし。

 ワ、夜《よる》、めさめてみれば、餘り、もつたいなきやうなる故、

「おこして、ねなほさせん。」

と申せば、

「いやいや。それではやかましゝ。此ねぼうを、ひとり、おこさば、内中(うちぢゆう)のものゝ目も、さむべし。すておきて、寢びへ・かぜ引(ひき)などすれば、やはり、おてるが、めいわくになる。」

と被ㇾ仰て、病身の御人の介抱、おこたらず、被ㇾ遊しを、かくべつの御慈悲心と感じて見あげたりし。

 さやうに被ㇾ遊し故にや、「げん」も、殊の外、したひ奉りて、神佛のごとくに有難がりて有し。

 おてるなどのそだてやうも、誠に御慈悲の行屆(ゆきとどき)しことなりし。

 其かたはしを語きかせる間(ま)もなく、はなしといへば、其身の病(やまひ)をかぞふるばかりにて、はてしぞ、口おしき。

[やぶちゃん注:「母樣、氣質も、このたぐひにて、萬(よろづ)を察せらるゝこと、明かにて、すみのぼりし所、俗に、あわず」なかなかに複雑な謂い方である。まず、母遊の気性もこの類い――どんなことでも事前に察することに明らかであるという特異な能力を持つ――という点に於いて――前の長庵の病いと早逝を見切った不思議な僧と同じであった、というのである。「すみのぼりし所」は「濟み昇りし所」或いは「角上りし所」で、「突き詰めたところに於いて」の意で、「究極に於いて世俗一般の考え方や習慣とは合わなかった」というのであろう。

「おてる」遊の五女で真葛の末の妹照子。

「もつたいなきやうなる」「勿體無き樣なる」。一介の乳母の毎夜の寝相の悪さを一家の主婦が、何度も直してやることは、確かに、勿体ないことと見える。

「寢びへ・かぜ引」「寢冷え・風邪引き」。老婆心乍ら、但し、誰がそうなるのを恐れるかと言えば、乳母の「げん」がそうなっては面倒を見ている「おてる」の迷惑になるから、と主婦の遊が気を使っているという迂遠な謂いなのである。

「病身の御人の介抱、おこたらず」これは広く遊の様子を言っているのであろう。病身の御方があれば、どのような相手であれ、その人を、怠ることなく介抱されたというのである。

被ㇾ遊しを、かくべつの御慈悲心と感じて見あげたりし。

 さやうに被ㇾ遊し故にや、「げん」も、殊の外、したひ奉りて、神佛のごとくに有難がりて有し。

「其身の病をかぞふるばかりにて、はてしぞ、口おしき」母遊自身の病いと闘病を語るばかりで、話の果てに、母さまの果てられたことに及ぶのは、何んとも口惜しいことなのです、の謂いか。]

只野真葛 むかしばなし (9)

 

○六(むつ)ばかりなる頃、「たよ」といふ守女、外へつれいでゝ、あそばせゐたりしに、いつか、うしろに、坊主壱人、立(たち)て、長庵を見て居(をり)しが、

「さて、よき生(しやう)の子なり。さりながら、やがてかたわに成(なる)べし。耳が引付(ひつつく)か、目に申分(まうしぶん)あるか、さなくば、命、みじかゝるべし。」

と、いひしとなり。

 守、驚きて、

「おや、この人は、氣味のわるいことをいふ人だ。」

と、いひながら、かきいだきて、家ににげ入(いり)て、いき切(きれ)、いき切、有しことを、かたる。

 御二方、はじめ、さして耳にもとめられぬやうなりしが、後、おもふに、此言葉たがはざりし。

 むし氣(け)になれば、かため、おほきく成(なり)て、ゑりをまげてゐたりしを、父樣、御くふう被ㇾ成、御りやうじにて、直り、八、九の時分、兩耳のうしろ、只、かゆく成て、水、いで、其水のねばること、もちのごとく、夜中、

「ひた」

と、兩耳、付(つき)て有しを、朝、引(ひき)はなせば、あかはだに成て、血、出(いで)しを、每朝、每朝、むりにはなして、油藥(あぶらぐすり)を綿に付(つけ)てはさませて、なほりし。

 十七、八の頃、まぶち、はれて、上を見あぐる事、あたはず。書をみれば、殊(こと)に、はれまさりて、するわざなかりしをも、御くふうにて、「はんめう」の粉(こ)を、のりにおしまぜて、ゑりにはり、其所、水ぶくれに成(なり)しを、すひ藥(やく)にて、水をとりしに、たちまち、まぶちのはれ、引(ひき)て、常のごとくに成たり。

 かやうに、いゑがたき病(やまひ)をも、みな、御くふうにて直(なほ)れば、

『命に及ぶほどのことは、よもあらじ。』

と、おもひ賴(たより)て有(あり)しを、はかなくなりし故、はじめて、おどろかれし。

[やぶちゃん注:どうもいちいちの症状が尋常でない。片方の目だけや両瞼が腫脹する、耳の後ろから強い粘性を持った体液様のものが浸潤してはばりばりに張りつくというのは、ちょっと原因が想像し難い。前者は何らかの病原体による感染症のようにも見えるが、後者は聴いたことがない症状である。一つ、水頭症(浸潤するそれを「水」と表現しており、透明であることから、脳脊髄液(髄液)のようにも見える)か、そうした脳脊髄液の浸潤や脱漏が挙げられるか? 髄液が眼窩へ浸潤すれば、その影響で前者のような眼球や瞼の症状も起りそうな気がする。この僧は何者かは知らぬが、微妙な長庵の頭部の変異を感じ取り(水頭症では頭部の肥大がよく見られる)、そうした脳関連の疾患を感じたものかも知れない。小児科の医師は知り合いにいない。どなたか、可能性のある疾患を御指摘戴けると助かる。

「申分」欠点。欠陥。

「むし氣」「蟲氣」(虫気(むしけ))で、当時、子供の体質が弱く、神経質で、すぐに怒ったりする体質を広く言った語。

「あかはだ」「赤膚」。癒着していたものを剥がした結果の皮下の組織が糜爛。

「はんめう」この場合は、真正の「ハンミョウ」類(鞘翅目(コウチュウ)食肉(オサムシ)亜目オサムシ科 Carabidae 或いは、その下位タクサであるハンミョウ亜科 Cicindelinae 或いは、それ以下の Cicindelini族 Cicindelina 亜族ハンミョウ属 Cicindela に属する種群)ではない、鞘翅目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類を基原とする漢方剤料である。主成分はカンタリジ(cantharidin)で、ツチハンミョウ科の昆虫が外敵から身を守るために分泌する刺激性の物質であり、皮膚に付着すると、炎症を起こし、水疱(すいほう)を生ずる所謂、病原体に冒された皮膚をわざと「発疱」させてそれらを除去する「刺激発疱剤」である。内服では利尿作用や、尿道を刺激することから、催淫剤としても用いられた。漢方でも取り扱いが厳しい劇薬で、発疱剤としても毒性が強過ぎ、用いる機会も少ないことから、現在、「日本薬局方」からは削除されている。詳しくは、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫」の私の注を参照されたい。発疱剤は言葉として和漢の本草書で以前より知ってはいたが、実際に処方事例を記したものを見るのは、恐らく私は初めてである。

「すひ藥(やく)」「吸ひ藥」で吸収剤であろう。よく「蛸の吸出し」などと呼ばれる軟化・吸収・排出剤に似たものか。知られた現在のそれは、含まれるところの腐蝕作用を持つ硫酸銅と角質軟化作用を持つサリチル酸によって、腫れ物の口を開かせ、膿を排出して患部を治すものである。

「いゑ」ママ。「癒ゆ」であるから、「いえ」でよい。]

芥川龍之介書簡抄14 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通

 

大正二(一九一三)年六月十五日・牛込區赤城元町廿一番地竹内樣方 山本喜譽司樣(葉書)

 

わざわざうちを御知らせ下すつて難有うございました 休になつたらあがります

試驗がいやで早くすめばいゝと思つてます それはよみ初めたヒユイズマンズが試驗にさまたげられたからでもあるので每日つまらない獨乙語や漢文をよむのがうんざりしてしまひます

英文科へ行かうか外の科へ行かうかそれも今では迷つてゐます(勿論法科なんぞへはかはりませんけれど)昔の樣な HEDONIST でゐられたらこんな心配も起らないのですけれど

蒲田へ行つてカーネーシヨンの切り花をかつてきて机の上へのせて置きました 甘いにほひが部屋中一杯になります

 

   靑簾丹前風呂のよき湯女がひとり文かく石竹の花

 

            さようなら

    十五日朝        龍

 

[やぶちゃん注:短歌の前後は一行空けた。

「ヒユイズマンズ」フランスの幻想作家ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans 一八四八年~一九〇七年:本名 Georges Charles Huysmans)。著名な画家を輩出したフランドルの家系に生まれ,早く父を失った。法律を学んで、一八六八年以来、三十年間に亙って内務省に勤務した。散文詩「香料箱」(Le Drageoir à épices:一八七四年を発表した後、小説「マルト」(Marthe:一八七六年)でゾラに認められ、自然主義作家グループと交わった。精彩ある生活描写に個性的作風を示し、幾つかの作品を発表したが、病的に鋭い感覚とデカダンスにあふれた傑作「さかしま」(À rebours:一八八四年)を著した後、超自然的世界への関心を深め、悪魔主義に傾斜、中世の幼児殺戮者ジル・ド・レーを探究した「彼方」(Là-bas:一八九一年)を経て、修道院に入り、カトリックに改宗、「路上」(En route:一八九五年)、「伽藍」(La Cathédrale:一八九八年)、「修練者」(L'Oblat:一九〇三年)などを発表した。また、美術批評にも優れ、「近代美術」(L'Art moderne:一八八三年)、「画家論」(Certains:一八八九年)などで「印象派」の紹介にも努めた。その小説はフランス 十九世紀末の美学・知性。精神生活の諸段階を要約したものと言え(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)、イギリスのオスカー・ワイルドとともに代表的な「デカダン派」作家とされる。ここで龍之介が読んでいるのが何かは定かでないが、怪奇趣味へ傾倒していた当時の彼からみて、私も偏愛する幻想小説「さかしま」や「彼方」であるようには感じられる。

「HEDONIST」快楽主義者。]

 

 

大正二(一九一三)年六月二十三日・消印二十四日・東京市牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣(繪葉書)

 

水楢落葉松白樺の若葉 山つゝじのにほひ 鶯の聲 その間に燻し銀のやうな湖が鈍く光つてゐます 何處かに人の好い顏の赤いすこつとらんど人がゐて BAG-PIPE を吹てゐるやうな氣がしてしかたがありません

    廿三日  赤城にて   龍

 My heart is in the Highland!

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この前の六月十二日から二十日が一高の卒業試験で、それが終わった二日後の六月二十二日から同級生の井川恭・長崎太郎・藤岡蔵六とともに赤城山方面へ旅行に出立、この二十三日には午前四時に起床し、赤城山に登頂、下山して伊香保に宿泊、翌二十四日には榛名山に登頂、二十五日に伊香保に滞在、二十六日に藤岡とともに帰京している(井川と長崎は、二人と別れ、妙義山から軽井沢に向かっている)。

「落葉松」「からまつ」。

「湖」赤城山南西山麓の大沼であろう。]

 

 

大正二(一九一三)年七月十七日・消印十八日・消印内藤新宿・井川恭宛[やぶちゃん注:本文中で示した通り、二種を合成して原書簡を推定復元した。]

 

 卒業式をすませてから何と云ふ事もなくくらしてしまつた。人が來たり、人を訪ねたりする。ほかの人に遇はない日は一日もない。休みになつた割合に忙しいのでこまる。本も二、三册よんだ。

この休暇にかぎつて、今から休みの日數が非常に少いやうな氣がしてゐる。もうすぐに新學期にはいる。學校がはじまる。それがいやで仕方がない。いやだと云ふ中には、大分新しい大學の生活と云ふ不氣味な感じが含まれてゐるのは云ふまでもないが、同時にまた君がゐなくなつたあとの三年のさびしさを豫感するのも、いやな感じを起させる大きな FACTOR になつてゐる。顧ると自分の生活は何時でも影のうすい生活のやうな氣がする。自已の烙印を刻するものが何もないやうな氣がする。自分のオリギナリテートの弱い、始終他人の思想と感情とからつくられた生活のやうな氣がする。「やうな氣がする」に止めておいてくれるのは、自分の VANITY であらう。實際かうしたみすぼらしい生活だとしか考へられない。

 たとへば、自分が何かしやべつてゐる。しやべつてゐるのは自分の舌だが、舌をうごかしてゐるのは自分ではない。無意識に之をやつてゐる人は幸福だらうが、意識した以上こんな不快な自己屈辱を感ずる事は外にはない。此いやさが高じると、隨分思ひ切つた事までして自已を主張してみたくなる。自分はここで三年間の自分の我儘に對する君の寬大な態度を感謝するのを最適當だと信ずる。自分は一高生活の記憶はすべて消滅しても、君と一緖にゐた事を忘却することは決してないだらうと思ふ。こんな事を云ふと、安つぽい感情のエキザジェレーションのやうに聞えるからしれないが、自分が感情を誇張するのを輕蔑してゐる事は君もつてゐるだらう。兎に角自分は始終君の才能の波動を自分の心の上に感じてゐた。此事は君が京都の大學へゆく事になり、自分が獨り東京にのこる事になつた今日、殊に痛切に思返へされる。遠慮なく云はせてくれ給へ。自分と君との間には感情の相違がある。感覺の相違がある。君は君の感情なり感覺なりを justify する爲によく說明をする(自分は之を好かない)。僕も同樣に說明する事が出來る(この相違から君と僕の間の趣味の相違は起るのだが)。かうした相違は橫の相違で、竪の相違ではないからである。對等に權利のある相違で、高低の批判を下す可らざる相違だからである。しかし理智の相違はさうはゆかない。自分が君の透徹した理智の前に立つた時に、自己の姿は如何に曖昧に、如何に貪弱に見えたらう。君の論理の地盤は如何に堅固に、如何に緻密に見えたらう。之は思想上の問題についてばかりではない。實行上の君の ability の前に自分は如何に自分の弱小を感じたらう。こんな事がある。二年の時、僕が寮へはいつて間もなくであつた。散步をしてかへつて見ると誰もゐない。一寸本をよむ氣にならなかつたので、口笛をふきながら室の中をあるいてゐると、君の机の上にある白い本が見えた。何氣なくあけて見ると、フランス語のマーテルリンクであつた。(其時まで僕は君がふらんす語が出來る事をしらなかつた)。自分はその本の表紙をとぢる時に、讃嘆と云ふより寧ろ不快な氣がした。その時に感じた不快な氣はその後數月に亙つて僕を剌戟して、何册かの本をよませたのであつた。[やぶちゃん注:以下、ここまでの底本である岩波旧全集第十巻(一九七八年刊)では『〔この間二十四行ばかり省略〕』とある。以下は、岩波文庫の石割透編「芥川龍之介書簡集」(二〇〇九年)で復元されてあるものを参考に(岩波の新全集原拠)、漢字を概ね正字化し(その際は岩波旧全集のここまでの表記に従った)、芥川龍之介の癖を参考に現代仮名遣を歴史的仮名遣にした。以下最後まで改行字下げ等は岩波文庫に概ね従った。こんなに君は自分が自他の優劣を最[やぶちゃん注:「もつとも」。]明白に見る事が出來る鏡であつた。自分は誰よりも君を評價する點に於て誤らないと信じてゐる。君と僕とは友人と友人との時より或は師と弟子との時の方が多かつたかもしれない(唯幸に主と隷とにはならなかつた)。君の才能の波動を自分の心の上に感ずれば感ずるほど、自分の君に對する尊敬と嘆稱との念が增して行つたのは當然であらう。獨[やぶちゃん注:「ひとり」。]之に止らず自分は屢〻自ら顧みて(殊に君以外の人に對してゐる場合に)、「自己の傀儡」が「君の思想」を以て口をきいてゐるのを發見した。オリギナリテートの少ない人間にとつてはこんな事も家常茶飯[やぶちゃん注:「かじやうさはん」。]かもしれない。寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]已むを得ない事なのかもしれない。しかし自分には之が如何にも卑劣に如何にも下等に見えた。目をきくばかりではない。更に進んでは「自己の傀儡」は「君の思想」と「君の感情」とを以て手をうごかし足をうごかした。自分には之が愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]下等に見えた。自分抔の君に對する尊敬は君の他人に對する(この中に勿論自分も含まれる)侮蔑を感じてもこれに反感を起し得ない程强くなつてゐる。けれども自分の行動を定めるものは常に自己でなくてはならない。自分は自分の言動を飽く迄も吟味して模倣と直譯とは必[やぶちゃん注:「かならず」。]避けなければならないが。[やぶちゃん注:以下、岩波旧全集に戻る。]

 かうして尊敬と可及的君の言動と逆に出ようとする謀叛心とが吸心力[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]と遠心力のやうに自分の心の中に共在してゐた。[やぶちゃん注:以下、同様に底本は『〔この間十行ばかり省略〕』とある。同前の仕儀で復元した。]橫道へそれるがこの遠心力を養成したのは一部分石田の功績である。笑つてはいけない。實際少し滑稽だが我々が何か論ずる時になると石田は何時でも曖々然[やぶちゃん注:「あいあいぜん」。如何にも曖昧な感じであることを言う。]とした中間を彷徨しながら旗色のいい方へ不離不卽に賛同する一種の技術を持つてゐる。このアートに対する反感は(このアートを用ゐる結果として石田は論をする際に常に君に賛成するから)自分を石田に反對させる爲に特に君に反對させた事が少くなかつた。[やぶちゃん注:以下、岩波旧全集に戻る。]自分はこの遠心力も全[やぶちゃん注:「まつたく」。]無益だつたとは思はない。前にも云つたやうに、これがあつた爲に君と自分とは主と隷とにならずにすんだ。けれども又之がある爲に自分は如何にも頑迷に、如何にも幼稚に、君に對して内の EGO を主張した事が度々ある。今から考へると冷汗の出るやうな事がないでもない。よく喧嘩をせずにすんだと思ふ。しかも喧嘩をせずにすんだのは全く自分の力ではない。終始君の寬大な爲であつた。自分が没論理に感情上から卑しい己を立て通した時に、自分の醜い姿が如何に明に君の眼に映じたかは、自分でも知つてゐる。地を換へたなら、自分は必ずかうした態度に出る男を指彈したに相違ない。いくら寬大でも、嘲侮はしたに相違ない。此點で自分は君がよく自分の我儘をゆるしてくれたと思ふ。さうしてさう思つたときに、今まで感じなかつたなつかしさが新しく自分の心にあふれてくる。

 井川君、[やぶちゃん注:以上四字は岩波文庫「芥川龍之介書簡集」で補った。]君は自分が君を尊敬していることはしつてゐるだらうと思ふ。けれども自分が如何に君を愛してゐるかは知らないかもしれないと思ふ。我々の思想は隅の隅迄同じ呼吸をしてゐないかもしれない。我々の神經は端の端までもつれあつてはゐないかもしれない。しかし自分は君を理解し得たに近いと信じてゐるし、君も又これを信じて欲しいと思つてゐる。[やぶちゃん注:岩波旧全集ではここで改行が入るが、前記岩波文庫の復元版に従って続けた。]一諸にゐて一緖に話してゐる間は感じなかつたが、愈々君が京都へゆくとなつて見ると、自分は大へんさびしく思ふ。時としては惡み、時としては爭つたが、矢張三年間一高にゐた間に一番愛してゐたのは君だつたと思ふ。[やぶちゃん注:同前で続ける。]センチメンタルな事をかいたが、笑つてはいけない。こんな事を考へるやうでは少し神經衰弱にかかつたのかもしれないと思ふ。しかし今は眞面目で之をかいてゐる。かきつつある間は少くとも僞を交へずにかいてゐると思つてゐる。自分は月並な友情を感激にみちた文句で表白する程閑人ではない。三年の生活をふりかへつて、しみじみと之を感ずるから書いてゐるのである。[やぶちゃん注:同前で続ける。]君のゐなくなつたあとで、自分の生活はどう變るか。遠心力と吸心力とは中心を失つた後にどう働く事が出來るか。それは自分にもわからない。君によつて初めて拍たれた鍵盤は、うつ手がなくなつた後も猶ひびく事が出來るか。出來るとしても、始と[やぶちゃん注:岩波旧全集は『殆ど』であるが、ここは前記岩波文庫のそれを採った。]同じ音色でひびくだらうか。それも自分にはわからない。

 今時計が十二時をうつ。もうペンを擱かなくてはならない。長々とくだらない事をかいたが、まだ書きたい事は澤山あるやうな氣がする。寢ても、こんな調子では寢つかれさうもない。[やぶちゃん注:岩波旧全集はここに『〔この間十二行省略〕』とある。同前の仕儀で復元した。]この手紙の二枚目は書いてゆく紙面の順序が外のとちがつてゐるから赤いんきで12としるしをつけておく。よくこの印をみてよまなくつちやあいけない。

 忙しいので石田にはまだあはない。一、二年の成蹟をみに行つたら小栗栖君にあつた。廿日頃京都へゆくつて云つてた。一高の入學試驗もすんだ。城下良平さんは少しあぶなさうだ。國語に「さすがになめくて」と云ふのが出たのでよわつたと云つてゐた。

 この頃「剪燈新話」だの「金瓶梅」だの古ぼけた本を少しよんだよ。[やぶちゃん注:岩波旧全集に戻る。]村田さんのところへは行つた。君が藪のある所を曲ると云つたから、山伏町で下りて、二番目の橫町をはいつてから藪ばかりさがしたが、藪が出ないうちに先生の門の前へ來てしまつた。村田さんのうちは村田さんのあたまのやうな家ぢやあないか。紅茶を御馳走になつた。女中が小さいくせに大へん丁寧なので感心した。

 よみにくいだらうが我慢してよんでくれ給へ。遲くなつたからもう寢る事にする。

 蚊がくふ。蒸暑い。御寺へは八月の二、三日頃ゆく事にした。さようなら。

    十七日夜           龍

   恭君

  追伸 また田中原だか内中原だかわすれたから曖昧に上がきをかく。今度手紙をくれる時かいてくれ給へ。

 

[やぶちゃん注:「卒業式」七月一日。成績は二十六日中、二番で、首席は井川恭であった。

「新しい大學の生活」龍之介はこの年の九月に東京帝国大学文科大学英吉利文学科に進学した。

「君がゐなくなつた」井川は同じく、九月、結局、京都帝国大学法科への進学を決め、東京を去ることになる。新全集の宮坂年譜によれば、井川は、『一時は』東京帝国大学『入学の意志もあったが』、九月十日頃、『芥川に』京都帝国大学『転学願いとその理由書が送られている』(後に電子化する)とある。但し、京都行きはこの時点で以下に現われる。転学というのは、法科へのそれを言っているものととる。井川は龍之介と出逢う以前の松江にあった時から、文芸作品を多くものしており、文科への進学希望があったものと思われ、しかし、芥川龍之介という類稀なる文才に触れて、文科進学から法科へ転ずるという経緯があったものとも私は推察している。

「オリギナリテート」Originalität。これはドイツ語で、「独創性」。

「VANITY」虚栄。自惚れ。

「エキザジェレーション」exaggeration。誇張。

「justify」正当化する。

「ability」能力。

「二年の時、僕が寮へはいつて間もなくであつた。散步をしてかへつて見ると誰もゐない。一寸本をよむ氣にならなかつたので、口笛をふきながら室の中をあるいてゐると、君の机の上にある白い本が見えた。何氣なくあけて見ると、フランス語のマーテルリンクであつた。(其時まで僕は君がふらんす語が出來る事をしらなかつた)。自分はその本の表紙をとぢる時に、讃嘆と云ふより寧ろ不快な氣がした」これには非常に腑に落ちる事実がある。既に示した明治四三(一九一〇)年四月二十三日附の親友山本喜誉司へ宛てた書簡で龍之介が山本にメーテルリンクの「青い鳥」を読むことを強く勧めている事実である。龍之介が井川と親しくなったのは、一高一学年の二学期頃からであった(翰林書房「芥川龍之介新辞典」に拠る)。一年の二学期の終了は明治四十四年三月であった。しかし、ここで龍之介が告白している事実は、龍之介がいやいや寮生活を始めた明治四十四年の九月以降の一高二学年の初めの頃であることが明白である(龍之介が時制上の噓をついている可能性はシークエンスからしてあり得ないと私は思う)。則ち、英文で前年に自分が読んで感銘して親友山本に推薦した「青い鳥」を、この時、井川がフランス語版で読んでいるという事実を知ったことは、正直、当時の文学的語学的才能を自負していた龍之介にとっては、すこぶるショックであったことが想像に難くないからである。「不快な氣はその後數月に亙つて僕を剌戟して、何册かの本をよませた」「こんなに君は自分が自他の優劣を最明白に見る事が出來る鏡であつた」という告白がのっぴきならないものであったことが判るのである。

「可及的」及ぶ限り。出来るだけ。

「石田」既出既注の石田幹之助。

「小栗栖」小栗栖国道(?~昭和二(一九二七)年)。大分生まれ。一高時代の同級生。一高を井川・芥川に次いで三番の成績で卒業し、井川と同じく京都帝国大学法科に進学した。後に母校京都帝大教授となった(新全集「人名解説索引」に拠る)。

「城下良平」不詳。たまんねえな。検索かけたら、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「四」』が掛かってって来やがったぜ。井川・龍之介共通の友人ではある。「さん」付けしているので、龍之介よりも年齢が上かも知れない。井川は内臓疾患と思われる病気で、中学卒業後に三年間の療養生活を送ったため、龍之介よりも四歳年長であり、或いは、井川から紹介された人物かも知れない。判らない。

「さすがになめくて」「さすがに無禮くて」そうは言っても無礼・無作法で。出典は不詳。

「剪燈新話」明の瞿佑(くゆう)の撰になる伝奇小説集。全四巻。一三七八年頃の成立。華麗な文語体で書かれ、唐代伝奇の流れを汲む夢幻的な物語が多い。後代の通俗小説・戯曲及び本邦の江戸文学に与えた影響が大きく、浅井了意の怪奇小説集「御伽婢子(おとぎぼうこ)」や三遊亭円朝の落語「怪談牡丹燈籠」はその一部を翻案したものである。龍之介の怪奇趣味が私とびちっと一致する。

「金瓶梅」明代の長編小説。全百回。作者未詳。「水滸伝」の一挿話に題材を採り、薬商西門慶(せいもんけい)が大富豪に成り上がって、破滅するまでを描く。色欲生活の描写が多く、題名は相手の三人の女性の名に由来する。中国四大奇書の一つ。

「村田」「先生」一高の英語教授村田祐治(文久四・元治元(一八六四)年~昭和九(一九四四)年)か。現在の千葉県生まれ。

「山伏町」現在の市谷山伏町(いちがややまぶしちょう)附近か(グーグル・マップ・データ)。東京都新宿区の地名で旧牛込区に当たる。当時、芥川家が住んでいた場所から比較的近い。

「御寺へは八月の二、三日頃ゆく事にした」龍之介は同年八月六日から同二十二日まで、静岡県安倍郡不二見(ふじみ)村(現在の静岡県静岡市清水区北矢部町)の臨済宗雲門山定院(しんじょういん:グーグル・マップ・データ)に滞在し、午前中は読書、午後は海水浴、夕方は散歩という生活を半月ばかり送っている。最初の一、二週間は友人の西川英次郎は一緒であったらしい(一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」に拠る)。新全集宮坂年譜では、朝六時『起床、読書(英文原書。英訳本など)をしたり、手紙を書いたり、新聞を読んだりして過ごした。午後には、近所の子供と江尻』(当時、現在の清水駅は「江尻驛」で直近の東が海岸になっていた。「今昔マップ」のこちらを参照されたい)『の海水浴場に出かけたりもしている』とある。

「田中原だか内中原だか」井川実家の松江の地名。後の書簡で「松江市内中原」(グーグル・マップ・データ)と確認出来る。]

2021/02/10

芥川龍之介書簡抄13 / 大正二(一九一三)年書簡より(1) 二通

 

大正二(一九一三)年一月五日・消印内藤新宿局・「龍之介」・芝區高輪北町四十八番地中島行蔵樣御内 中島達樣・(自筆絵葉書)

 

Butannoruobitohutari

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集第十巻(一九七八年刊)のものをトリミングした。自筆の絵の上部に、

 

Viel Glück im neuen Jahre.

―1913―

R.  AKUTAGAWA.

 

とある。ドイツ語で「新年の幸運を祈る。」の意。絵は、御伽噺の小人のような二人が、それぞれに四葉のクローバーの葉を右手に持って、豚に跨って花々の咲く野道を走る図柄で、道は奥に繋がり、彼方に二本の樹木も描かれてある。所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の解説には、『龍之介の絵の中で珍しいモチーフを扱ったもの』とある。但し、豚と幸運のアイテムとして知られる四つ葉のクローバーは、現在でもドイツの新年に一般的なもので、「ドイツ大使館」公式サイト内のこちらに、「Glücksschwein」の語を挙げ、「グリュックスシュヴァイン」の「Glück」は「幸運」、「Schwein」は「豚」の意で、「幸福の豚」『という意味で』、『ドイツでは豚は幸運の象徴の一つとされていて、よく新年にデコレーションや、お菓子のモチーフとして使用されてい』るとあり、挿絵も豚の周りに四葉である。実際に「Viel Glück im neuen Jahre.」のフレーズで画像検索(グーグル)を掛けた結果でも、豚と四葉がずらりと並ぶ。トラベル・サイトのブログの「チューリンゲン州旅行記」にある「幸福をもたらすものとは何でしょう? Was ist der Ueberbringer des Gluecks?」に、『古くはゲルマンの時代からドイツでは Schwein シュバイン=豚(あるいは Eber エーベル=イノシシ、雄豚)は豊饒(子宝に恵まれる=つまり財産に恵まれる)と強さの象徴と見なされ、繁栄と富をもたらすものとされてきた』とあり、『Thueringen テューリンゲン州北部の Billeben ビレーベンで、ドイツ最古の13世紀のものと思われる「豚の塑像」・貯金箱が掘り出されている』。『長さ22cmほどで、中が空洞で背中に細い穴(硬貨を入れる)の開いた塑像は赤茶色の粘土で作られていた』。『垂れた耳と巻いた尻尾が見られ、明らかな家畜用豚の特徴があった』。『Das aelteste Sparschwein Deutschlands, 13. Jh., gefunden in Billeben, Thueringen (Keramik, Kopie).』とあり、『ドイツで最も古い豚の貯金箱は13 世紀のもので、テューリンゲン州の Billeben ビレーベンで発掘されたものである』とし、『(ケルンの貨幣歴史博物館のものは陶器の複製、実物がテューリンゲン州立博物館にあるのか不詳)』とあって、その豚の貯金箱の画像も載る。豚と幸運のそれは一説には、かの聖アントニウスのエンブレムであるともされ、個人ブログ「今日のことあれこれと・・・」の「豚の日」に、これは『民間信仰「アントニウスの豚」に由来している。エジプト生まれの聖職者で、家畜及び豚飼育者の守護聖人アントニウスは、常に豚と火炎を従え、ある貴族の「聖なる火」と呼ばれる病を治した。豚』『は、その油が丹毒に効くとされたため聖人の持ち物となった。以後この病は、丹毒「アントニウスの火」と名づけられたという』。『外国では古くは金の卵を生むニワトリ、勤勉な蜜蜂と蜂の巣、幸運を呼ぶてんとう虫、慎重な亀、かしこい象など、多彩』な動物のシンボリック・アイテムがあるが、『とくに、豚はニワトリとともに古くから貯金箱に使われた。これは多産、謙虚さ、有用性などから幸運のシンボルとされたほか、村民がお金を出し合い、貧しい人のために豚を買ったという「アントニウスの豚」のお話しに由来しているという説がある』とある。なお、この絵は完全なオリジナルなのか、或いは、何らかの絵を参照したか、或いはヒントになった物語があったのかは判らない。なお、この年の三月一日で彼は満二十一となる。

「中島達」未詳。]

 

 

大正二(一九一三)年三月二十六日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

敬啓

FAUST[やぶちゃん注:縦書。]御招き下さつて難有う存じます 唯今切符落手致しました

試驗準備のいやなのは誰でも同じです

けれども僕の方は廿七日ぎりなので今日一日かと思ふと大分張合ひになります

法制や經濟は殆復習仕ないでうけるのですからいつもしくじつてばかり居ります 其上一週間程前から胃病になつたので餘計弱つて居ります 醫者は輕い胃擴張だと云つてゐますけれど何だか持病にでもなりさうな氣がして仕方がありません

窓からみる枯草の土手の下に一列の鮮な綠りの若草が春のいきづいてゐるのを感じさせます 春の歌四首――御笑ひまで

 

   片戀の我世さびしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり

 

   晚春の銀器のくもりアマリリスかぎつゝ獨り君をこそ思ヘ

 

   たよりなく日ごとにふるふ春淺き黃水仙(ナツシイサス)の戀ならなくに

 

   片戀の若き庖丁(コツク)が物思ひ春の厨に靑葱も泣く

 

             匆々

    三月廿六日夕         龍

   きよ樣 御許

 

[やぶちゃん注:短歌の後は一行空けた。

「FAUST御招き下さつて難有う存じます 唯今切符落手致しました」新全集の宮坂年譜によれば、これは森鷗外訳の帝国劇場での近代劇協会による第二回公演(公演劇団データは岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注に拠った)で、この切符は三月二十七日の初演(その後、三十一日まで)とする。但し、二人でこの公演をみたとする記録は当日の年譜にはない。

「黃水仙(ナツシイサス)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科 Amaryllidoideae スイセン連 Narcisseae スイセン属 Narcissus のスイセン類の属名。「黃水仙」は Narcissus jonquilla でヨーロッパ原産。日本には江戸時代に渡来した。ギリシア神話でナルキッソスが変貌した種は何かはよく判らない。私の友人の歴史家はスイセン属ラッパスイセン Narcissus pseudonarcissus とするが、個人サイト「小さな園芸館」の「水仙」ではクチベニスイセン Narcissus poeticus とする説を載せる。因みに、知られたサルバドール・ダリの「ナルシスの変貌」の卵のを割って顔を出しているそれは、同属ナルキッスス・トリアンドルス品種「タリア」(シズクスイセン(雫水仙))Narcissus triandrus 'Thalia' であるという。 ]

只野真葛 むかしばなし (8)

 

 八に成し年の夏、桑原へ行て、養しゆんとあそび居(をり)しに、十六、七の弟子若黨有しが、下におちたる物をとらんとするとき、養しゆん、むかふよりかけてくるはづみに、したゝか、鼻をけたりしが、血、はしりてやまず。

「足を、ひやせ。」

「それ、ぼんのくぼの毛を、ぬけ。」

と。ひしめきしを、長庵、聞て、

「のぼせなどにて、おのづから出でたるにこそ。さやうのことはせめ。怪我にて、出でたるには無用なり。」

と、いひしとぞ。

 二、三日過て、常八、工藤へ來りしが、

「此程、桑原にて若だんなの被ㇾ仰しこと、感心なり。かやうかやうのこと有しに、〆が、そばから世話せしを、かやうに被ㇾ遊しが、誠に、『せんだんはふた葉よりかぐはし』とは、是ならん。」

と、ほめて、母樣へかたりしを、長庵、聞ゐて[やぶちゃん注:ママ。]、

「いや、〆が仕(し)たことなら、そふは、いひません。養けんが、うろたた[やぶちゃん注:底本に編者のママ注記あり。「仙台叢書」では『うろたひた』であるから、「うろたへた」の誤記であろう。]ことをするから、それで、そふ、いひました。」

と、いひし故、

「一きわ、まさりて、おとなしきこと。」

と、御賞(よろこ)び有しなり。其時の養けんといひしは、すでにひとりばみをもする程の男、年も三十のうへにて有しなり。早く死(し)したり。

 一、二、覺(おもえ)たるも、かくのごとし。朝夕の間、上下(うへした)・男女(なんいよ)、かんぜしこと、たへず。ワを御ひぞうのばゞ樣は、

「子供のやうでない。隱居ぢゞのやうだ。」

とて、御きらいなりし。うきうきとは、せぬ生(しやう)なり。

[やぶちゃん注:先の聰明譚に続く真葛の弟で長男の長庵の追想。小学校二年生レベルで、かく処方を言うというのは、舌を巻く限りである。父を継いで優れた医師になったであろうに。本当に二十二の早逝が惜しい。

「ひやせ」鼻からの出血を止める処置として、眉間や首の後ろを冷やすというのは、現在、誰もが正しい処方と考えるかも知れぬが、救急医の見解によれば、大量出血している患者に対して最初に行う処置の大切な一つが、「保温」(体を温めること)である。身体が冷えていると血液の凝固機能が低下し、出血が止まらなくなってしまうからである。国際医療福祉大学医学部救急医学講座教授・国際医療福祉大学病院救急医療部・「日本救急医学会」救急科専門医・指導医の志賀隆氏もこちらで、『体温が下がると血は止まりにくくなる』『と覚えていただき、鼻血が出たときも』、『冷やすことなく』、『正面を向いて圧迫止血してください』と記しておられる。

「うきうきとは、せぬ生(しやう)なり」桑原の婆さまが主語。(6)の記載で腑に落ちる。]

怪談登志男 十六、本所の孝婦 / 怪談登志男卷三~了

 

   十六、本所の孝婦

 國豐山回向院(こくぶざんゑかういん)は、念佛三昧一向專修(せんしゆ)の道場、その地、甚、繁華にして、年々諸國よりの開帳、おほくは、此寺内をかりて、いにしへより、嵯峨の釋迦、善光寺の如來をはじめ、靈佛の數々、皆、此地にて、金まふけ、したまひ、別當寺(べつたうじ)僧(そう)迄、黃金(わうごん)のはだへ、こまやかに、各、故鄕へ錦をかざる。

 玆に、此寺の門前に年久しく住居する燒餅(やきもち)屋の甚五郞といふもの、あり。一文不通(ふんふつう)の野人なれど、天性(うまれつき)、至孝(しかう)にして正直第一のをのこなり。禮儀作法といふこともしらず、ありの儘なる男なり。

 父は五兵衞といひし、遠州向坂(さきさか)とかやいふ所のものにて、まづしき百姓の子なり。若き時、江戶にくだり、いろいろとかせぎけれど、極めて貧賤にして、おなじ里より下りし人の、みな、相應の分限(ぶげん)となれども、五兵衞ひとり、まづしくて、やうやう、兩國ばしの東に、うら店(たな)住ゐ、子ども、五人まで持しが、此養育に、ますます、わびしき暮しなりしに、天の惠(めくみ)にやありけん、兎角して、子共も、皆、生長し、總領をはじめ、みなみな、相應に片(かた)付、少し心もやすんぜしに、妻に別れぬ。

 子共、おほけれど、何れの子にも、かゝらず、末(まつ)子の甚五郞が、中にも、やつやつしき住家に起臥(おきふし)しけるが、次第に年より、足・手も、おもふ儘につかゐがたく、世渡る業(わさ)も、勤る事、あたはざりしを、甚五郞、樣々と、かせぎて、父を養ひける。

 所の者共、

「斯(かく)ても、あられじ。」

とて、甚五郞に、妻をむかへさせたり。

 此女、甚五郞が父に仕へて孝なる事、筆にも、言葉も、およばず。

 甚五郞が父は、極(きはめ)て短氣にして、老(おい)ぬるほど、日々に、腹(はら)あしく、怒る事、たえざれど、一向(つく)々々、いとはで、樣々に、すかしなだめ、立居(たちい)起臥に、小兒(せうに)をあつかふごとく、いたはり、いだきかゝへ、日每(ひごと)に洗湯(せんとう)ヘ行ば、手を引つれゆき、風呂に入時は、いだきて入置、湯を汲置て、

「あがらん。」

と、いへば、又、いだき上て、かゝり湯させ、足・手まで、洗ひおはりて、衣類を着せ、手を引て歸り、まづ、茶を汲てあたへ、其儘にて晝も臥(ふす)事をこのめば、枕をあたへ、ふすま、うちかづけ、よく寐入たるを伺ひ、我、世渡りの燒餅など、いとなみて、回向院へ詣(もふで)ぬる人の家土產(いへつと)に賣(うる)といへども、あたりには、今川燒(いまかはやき)など、口かしましく、花をかざりて、賣る中なれば、はかばか敷[やぶちゃん注:「しき」。]あきなひも、なし。

 されど、假(かり)にも、渡世のくるしきやうを、父に見せず、夫婦、まめやかに、老父を、いたわる。凡、此娵(よめ)が孝行、其所の者、感ぜずといふもの、なく、

「かゝる孝女をば、公(おゝやけ)にも申て、末の世に名をも殘したき事なり。」

と、いへど、さすが、人の惡事(あくじ)仕たる[やぶちゃん注:「したる」。]噂ほどに、われも、人も、とりどりに沙汰せず、語りもつたへざれば、誰(たれ)ありて、所の長(おさ)たる人の耳にもふれず、況(いはんや)、公(おゝやけ)に申上るよしもなくて、過つる程に、父、五兵衞は、此四とせばかりさきに、死しぬ。

 甚五郞夫婦、悲歎して、父が別れをいたみしありさま、見るもの、あはれび、聞もの、己が孝心の薄きを恥(はち)て、是がために感發(かんはつ)して、不孝の非を、あらためたり。

 されど、此娵(よめ)が孝は、雪中(せつちう)に筍(たかんな)もほらす、氷(こほり)に臥(ふし)て魚もとむる類(たくい)の、けやけき行跡(ふるまい)ならねば、取あげて、「何樣成孝行なりし」と、いゝ立べき事もなきゆへ、心なき人は孝行とも思はで、過も[やぶちゃん注:「すぐすも」。]理(ことはり)なれど、あした・ゆふべに、志(こゝろさし)を盡(つく)せしさま、氷(ひやう)上に寐(いね)、股(また)を剝(そぐ)のくるしみに、などか、おとらん。

 世には、しうと・しうとめに、あらく、あたり、おのが親里へにげ歸り、また、異方(ことかた)に嫁(か)するも、あり。父母を捨、豐後ぶしの食(しよく)あたりして、出奔・心中の不孝者は、恆河(ごうが)の砂(いさご)、大空(おふぞら)の星ほどあれど、孝子・順孫は、たまたま、ありても、惡(あしき)人が憎(にくみ)嫌らひ、つい、何(なん)のかのと云消(いゝけ)して仕𢌞(しま)ふ故に、其名を發(はつ)し、人の鑑(かゝみ)となること、かたし。

 此甚五郞が女房は、今、存生(そんしやう)にて、しかも其所の人、善(よき)人は、隨分、ほめ、惡人(あしきひと)も、さすがに恥(はぢ)て、あしくは、いはず。

 去年、寬延辰(たつ)[やぶちゃん注:寛延元年戊辰(つちのえたつ)。一七四八年。本書は寛延三(一七五〇)年に江戸で板行だから、実に二年前の直近となる。]の夏、所の人、あつまり、傾き倒(たおれ)し家を、こぼち、新(あらた)に建(たて)てあたへしも、夫婦が孝を感じてぞ、各(おのおの)、ちからを、あはせける。

 甚五郞が兄は、ゆへありて、遁世して、父に歎きをかけ、其外の女子共も、あるひは死し、又は、父が心にそぶきし中に、ひとり、無骨の野人ながら、甚五郞は父を養ひ、月々の墓參りも、おこたらず。

 然れども、甚五郞は、父子(おやこ)の事なり。尤、かくあるべき筈(はづ)なり。

 女房は、たゞ、娵(よめ)といふばかりなれば、世間なみにて過るとも、誰(たれ)か、にくみ、うとんずべきに、一町の人は勿論、隣町(りんちやう)にしも、人の感ずる程に、しうとに仕(つか)へし女、世上に、澤山には、あるまじ。

 回向院參詣の人々、

「今川燒より、さもしくとも、此孝女が燒餅をかふて、娵(よめ)の土產(みやけ)にし給はゞ、あやかりて、孝行になるべし。ばゝさま達、必、かふてやり給へ。」

と、息筋(いきすじ)はるも、世の人に、孝をすゝめ、孝婦が名をも、永き世にとゞめんと、つぶさに書付、此怪談の中に、くはへ、

「隅田川の流れのすへにも、かゝる渚(なきさ)の玉やある。」

と、都人に、我(か)[やぶちゃん注:「が」。]、をらせん[やぶちゃん注:「折らせん」。]と、師の房(ぼう)が命(めい)にまかせ、篇中に書いれ侍れば、素及子(そぎうし)の㚑(れい)も、見ゆるし給ふべし。

 

[やぶちゃん注:「十四」の「江州の孝子」に次いで、またしても非怪談の世話話は、流石にちょっと勘弁してほしい気がする。

「國豐山回向院」現在の東京都墨田区両国にある浄土宗諸宗山(一時期は山号はここに出る「國豐山」を称した)無縁寺回向院(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。墨田区本所地域内にあることから「本所回向院」とも呼ばれる。後のものだが、歌川国貞による嵯峨清凉寺本尊釈迦如来出開帳の画(天保七(一八三六)年)が「回向院」公式サイト内のこちらで見られる。回向院で行われた御開帳時の賑わいが、回向院を正面に、両国橋を西から東に見た構図で表わされていると解説がある。

「嵯峨の釋迦」京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山清凉寺の本尊である釈迦如来。輿で運ばれ、その輿が清凉寺に現存する。ブログ「京都発! ふらっとトラベル研究所」の「嵯峨・清凉寺の釈迦如来は奥深い (その2)」が本寺の江戸出開帳について回数・ルート・出開帳収支報告など、非常に詳しい。また、佐藤直市氏の論文「清涼寺本尊の地方開帳について(中間報告)」(大手前女子学園(大手前女短大研集)『研究集録』第九号・一九八九年・PDF・ダウン・ロード可能)もある。

「善光寺の如來」本尊は一光三尊阿弥陀如来像で三国渡来の絶対秘仏の霊像とされる丈一尺五寸のレプリカである金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が本尊の分身として出開帳し、やはり回向院でのそれが江戸時代には著名であった。

「遠州向坂(さきさか)」多くの資料に現在の静岡県西部の遠江国磐田(いわた)郡向坂村とするが、これは現在の静岡県磐田市匂坂(さぎさか)地区である。資料によっては、誤記とする。「匂」を「さぎ」「さき」と読むのは難読であるから、古くから、こう書かれて誤認されていたものか。

「妻に別れぬ」死別ととっておく。

「洗湯(せんとう)ヘ行ば、手を引つれゆき、風呂に入時は、いだきて入置……」江戸の湯屋(ゆや)は男女混浴であった。後の寛政三(一七九一)年の「男女入込禁止令」や、後の「天保の改革」の中で混浴禁止が取り決められたものの、実際には、それでも守られてはいなかった。但し、江戸では隔日或いは時間を区切っての男女を分けて入浴する試みは行われた(ウィキの「銭湯」に拠る)。本書は寛延三(一七五〇)年江戸板行であるので、混浴禁止のお触れが出るずっと以前である。

「今川燒(いまかはやき)」ウィキの「今川焼き」によれば、『「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされる説に』よれば、『江戸時代中期の安永年間』(一七七二年~一七八一年)に、『江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋』『付近の店で、桶狭間合戦にもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となったため』、『一般名詞化して広がったとする説がある』とあるが、前に記した通り、本書の刊行は、それよりも二十年以上前で、この説は承服出来ない。別に、『現在の静岡県中部にあたる駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である二つ引両(引両紋)を由来とする説がある』とあるのをとっておく。

「雪中(せつちう)に筍(たかんな)もほらす、氷(こほり)に臥(ふし)て魚もとむる」前夜は「雪中の筍(たけのこ)」で、三国時代の呉の孟宗が、冬に竹林に入って哀歎したところ、母の好む筍を得たという「呉志孫皓傳」の注に引かれる「楚國先賢傳」に見える故事により、後者は「氷の魚(うを(うお))」で、「二十四孝」の一人である晉の王祥が、生魚を欲する継母のために、氷上に裸身を臥したところ、氷が解けて鯉が躍り出たという「晉書王祥傳」などに見える故事により、孰れも、孝心の深い喩え。後代、単に有り得ないもの・得難いものの喩えとしても使われる。

「けやけき」際立って優れている・素晴らしい。中古以降の古語。

「何樣」副詞。如何にも。全く。

「股(また)を剝(そぐ)のくるしみ」人からは見えない股の肉を削ぎ落すことで、人に知られぬ塗炭の苦しみを比喩する。出典があるはずだが(私の記憶では自分で自分の股の肉を削いで父母(?)の食に当てたものだったように思われる)、辞書に見出し字体が見えない。

「豐後ぶしの食(しよく)あたりして」よく判らないが、一応、私の解釈を示す。豊後節は三味線楽曲の一流派で、通常は宮古路豊後掾の創始した浄瑠璃を指すが、広義にはそこから派生した常磐津節・富本節・清元節の総称としても用いる (この場合は「豊後三流」とも称する)。狭義の豊後節は、宮古路豊後掾が一中節から出ているため、同流の影響が強く、彼は柔らかく艶麗な一中節の語り方を、一層哀艶で扇情的なものに変え、特に心中物を扱ったため、豊後節は短時日のうちに、特に江戸で大流行した。しかし、そのため、「相対死(あいたいじに)」(心中)を厳罰に処した江戸幕府から元凶として憎まれ、同流は元文元 (一七三六) 年と同四年に行われた大弾圧を受けて、ほぼ消滅した。しかし、豊後掾の弟子たちによって種々の流派が派生し、上方では宮古路薗八(そのはち)が薗八節を、豊美繁太夫(とよみしげたゆう)が繁太夫節を創出した。江戸では文字太夫が常磐津節を興し、そこから富本節・清元節が派生し、これら「豊後三流」は歌舞伎の舞踊音楽として発展してゆくこととなった。また、現在、豊後節の語り口を最も残していると言われる新内節は、豊後掾の弟子加賀太夫が改姓独立して名のった富士松薩摩掾の系統を引くもので、遊里を活躍の場とした。駆落・心中を誘う豊後節に「食中りして」と洒落たものか。なお、豊後節は流行した当初、前代の三味線引きたちから、非常にいやらしい演奏としても憎まれている。それも嗅がせたものか。豊後節を鰹節の一種と最初は考えた(「食中りしようがないものに中る大馬鹿な恋人たち」。但し、鰹節は食中毒を起こす。昨年十一月にも保育園で集団で発生したが、鮪・鰹などの赤身魚にはアミノ酸が多く含まれるが、温度管理などの不良によって、そこからヒスタミンが多量に発生して、アレルギー中毒を引き起こすのである)。豊後は鰹節の名産地の一つだからである。或いはそれもダブルで掛けているのかも知れない。

「恆河(ごうが)」インダス川の漢訳。また、言わずもがなであるが、「恒河沙(ごうがしゃ)」は漢字文化圏での数単位の一つで、「ガンジス川全体の無数の砂」の意で、本来は「無限の数量の例え」として古く仏典で用いられていた。現在、一般的には1052とされる。

「順孫」(じゆんそん(じゅんそん))は、よく祖父母に仕える孫。

「息筋(いきすじ)はる」「息筋張る」。精一杯に努力する。

「師の房(ぼう)」冒頭注で説明した静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)。談義本(宝暦年間(一七五一年~一七六四年)から安永年間(一七七二年~一七八一年)頃にかけて多く刊行された滑稽本の濫觴となった読本)の創始者として知られる人物。本書は彼の弟子である静観房静話が命ぜられて編集したものとされている。

「素及子(そぎうし)」本書の原型である「怪談實妖錄」をものしたとされる慙雪舎素及子(ざんせつしゃそきゅう:詳細事績不詳)。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。] 

 「ペドロソ」の葡萄牙里談、第二十四頗る之れに似たり、云く、鰥夫[やぶちゃん注:「やもめ」。]あり、三女を有せるが長女次女は衣裳飾りのみし、季女[やぶちゃん注:「すゑむすめ」。]は好んで厨事を務めけるを、兩姉嘲て竈猫[やぶちゃん注:「かまどねこ」。]と呼り[やぶちゃん注:「よべり」。]、一日、其父一魚を獲、季女に料理を命ぜしに、季女其魚の色黃に美なるを愛し、父に乞て之を自分の室に置き、水中に養ふ、夜に及び、魚女に向ひ、吾を井に放てと言しかば、起て之を井に投ず、翌日季女魚見んとて井に近くに[やぶちゃん注:「ちかづくに」。]、魚「娘子井に來れ」と連呼す、女大に惧れて去る、次日、二姉宴會に趣ける不在中、季女復た井に近けば、魚呼ぶ事昨日の如し、因て進で井に入しに、魚女の手を牽て[やぶちゃん注:「ひきて」。]、金玉の殿に導き、無比の美服を着、一雙の金履を踏せ[やぶちゃん注:「はかせ」。]、輅車[やぶちゃん注:「ろしや」。大きな車。]に乘て宴會に趨かしむ[やぶちゃん注:「おもむかしむ」。]、戒めて曰く、必ず二姉に先つて退き、此所に來て衣飾を脫せよと、宴會に趣くに及び、滿堂季女の美を驚嘆せざる無し、宴竟り[やぶちゃん注:「をはり」。]急ぎ去らんとせしに、履一を落し王に拾はる、王廼ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]國中に令し、此履の本主を娶ん[やぶちゃん注:「めとらん」。]といふ、季女家に還つて、井中の王殿に上り、衣を脫せる時、魚來て問ふ可き事有れば、今宵又來れと云ふ、二姉還りて、季女の厨事に急がしきを見、其日宴會で、無上の美人、金履を落し、王其持主を娶んと熱望する由を語る、又言く、吾等是より王宮に詣り、彼履を試みんに、一人の足必ず之を合ふ可ければ、后と爲し事必定也、爾時[やぶちゃん注:「そのとき」。]厨猫に一新衣を遣さんと、二姉出行くを見て、季女井に到るに、魚忽ち、「汝吾妻たるべし」と勸むる事甚だ力めければ[やぶちゃん注:「つとめければ」。]、遂に從ひぬ、其時魚即ち化して人となり言く、吾は當國王の子、久しく呪封されて此井に在り、吾れ今日、汝が履を落せるより、吾父令して履主を娶らんと望むを知る、汝直ちに王宮に趣き、妾既に婚を君の子に約せりと言へり、季女、井を出で家に入れば、二姉還りて、二人の足如何にするも彼履に適せざりしと嘆き、季女吾も行て試んと言ふを聞き、大に之を嘲る、季女王宮に詣り、履を試るに、合ふて寸分を差え[やぶちゃん注:ママ。「たがえ」。]ざりければ、王之を娶んと言ふ、季女因て王子の告げし儘に答て、之を辭せしに、王驚喜措く所を知ず、百官を遣して井より王子を迎へ、竈猫女を娶らしめければ、兩姉羨み嫉み、恐言[やぶちゃん注:ママ。「怨言」の誤りではないか?]を放て罰せらる、其後、王子父に嗣で立ち、竈猫は后たりと、按ずるに、古今魚類を崇め神とせる民族多し(F. Schultze, ‘Fetichism,’ trans., New York, 1885, p.79; Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol.ii, pp.118-122; Leo Frobenius, ‘The Childhood of Man,’ 1909, p.243  Seqq.) 例せば、鯉神變有り、山湖を飛越え、鱧[やぶちゃん注:「やつめうなぎ」。]夜北斗に朝し、之を殺さば罪を益す[やぶちゃん注:「ます」。増す。]等、支那に靈魚の談多し(淵鑑類凾卷四四一[やぶちゃん注:底本は「四四二」であるが、「選集」は「四四一」とし、原本を確かめたところ、後者が正しいので、特異的に訂した。])、本邦で魚を崇めし遺俗に就ては、本誌二八八及び二九一號を見よ[やぶちゃん注:これは既に既に電子化したもので、前者が山中笑の「本邦に於ける動物崇拜」であり、後者がそれを受けて熊楠が書いた「本邦に於ける動物崇拜」である。]、又古え鮪、鰹、目黑[やぶちゃん注:「めぐろ」。ウルメイワシの異名。節分に魔除けとして鰯を掲げることを想起せよ。]、鯛、鮒、「ヲコゼ」、「コノシロ」、鯖(玄同放言卷三)、鎌足(カマス)房前(ハゼ)(石野廣通著繪そら言)等、魚に資れる[やぶちゃん注:「よれる」。]人名多く、神佛が特種の魚を好惡する傳說頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]少なからざるは、今日迄蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]、愛爾蘭[やぶちゃん注:「アイルランド」。]に、地方に隨て魚を食ふに好惡ある(Gomme, op.cit., p. 290)に同く、古え「トテミズム」盛んなりし遺風と見ゆ、古歐州及び印度の諸神、魚形なりし例多く Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ p.329 seqq. に出づ、古埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]に、魚神「レミ」あり、又鰻鱺[やぶちゃん注:「うなぎ」。]等諸魚を神とし、(Budge, ‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol. i, p.303; vol.ii, p.382)、日神「ラア」は二魚「アブツ」「アント」を使ふ、(‘The Book of the Dead,’ trans. Budge, 1898, p. 4)、古カルデア人、無智にて禽獸と別無かりしを、智神「エア」、晝間のみ海を出で、上陸して、言語、農工、書畫萬般を敎えたり、此神は魚形也、其前後にも、斯る魚形神出で、民を開導せる事、佛敎に一佛・二佛有るが如し(Maspero, ‘The Dawn of civilization,’ London, 1894, p. 565, &c; Boscawen, ‘The First of Empires,’ 1903, pp. 67―68)而して、魚屬其他動物の骨を尊敬する民族屢ば有るは Frazaer, op.cit., pp.118―20, 122.  seqq. に其論有り、去ば雜俎、葉限、魚骨に祈て福を得し話は、支那南部に、舊く斯る崇拜迷信行れたる痕跡ならん歟、履を手懸りとして美女を求むる話は、「ストラボン」(耶蘇と殆ど同時)の書に出づ、西曆紀元前六百年頃の名妓「ロドペ」浴する間に、鷲其履を捉み去り、メムフヰスの王の前に落せしを、王拾つて、其履の美にして小さきに惚込み、履主を搜索して、遂にロドペを娶れりとなり。

[やぶちゃん注:『「ペドロソ」の葡萄牙里談』「5」で既出既注。

「第二十四」「Internet archive」の英訳版(ロンドン・一八八二年)の「XXIV. THE MAIDEN AND THE FISH.」

「F.Schultze, ‘Fetichism,’ trans., New York, 1885, p.79」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」で既出既注であるが、再掲すると、ドイツの哲学者フリッツ・シュッエ(Fritz Schultze 一八四六年~一九〇八年)の書いた「呪物崇拝」の一節。「Internet archive」で原本が見られる。ここ(右ページ左の中央)。直ぐ後にはミクロネシアでのウナギ崇拝の記事も続いている。

「Frazer, ‘The Golden Bough,’」イギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」(The Golden Bough)。私の愛読書の一つである。

「Leo Frobenius, ‘The Childhood of Man,’ 1909, p.243  Seqq.」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」で既出既注。

「鱧」漢籍のそれであるから、これはハモではなく、脊椎動物亜門無顎上綱(円口類=無顎類) 頭甲綱ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科 Petromyzontidaeに属する生物であるヤツメウナギ類である。体制が似ているために「ウナギ」の呼称がつくものの、生物学的には、タクソン上、魚上綱に含まれないため、魚ではないという見解があるが、では、その習性から、魚に付着して体液を吸引する魚類寄生虫とするのも、私には馴染まない気がする。複数種が知られるが、本邦の場合は食用有益種としては同科ヤツメウナギ目 Petromyzontiforme のカワヤツメ(ヤツメウナギ)Lampetra japonica 及びスナヤツメ Lethenteron reissneri である。両者はともに中国北部にも分布するので、これらに比定しても構わないだろうが、ヤツメウナギ類は実に世界で三科十属三十八種がいる(中国・日本に分布しない種も含む)ので、中国のそれは、他の種も含まれると考えた方が無難である。ヤツメウナギ類はウナギ類のレプトセファロス(Leptocephalus)同様に、幼生が成魚と大きく異なった形態をしており、アンモシーテス(Ammocoetes)と呼ばれる。幼生は目が皮下に埋没していて、無眼に見え(但し、負の走光性を示すので感覚器としては機能していると思われる)、口吻もロート状又は頭巾状(成魚は吸着吸引に特化した吸盤状)で、川床の泥中に四年間程(ある記載では一~七年と幅が広い)、底棲している。変態後(変態後は開眼する)は海に下り、魚類に吸着して体液を吸う(ヤツメウナギ目には降河しない種がおり、彼等は産卵まで餌を全くとらないという)、二~三年後(スナヤツメではこの期間が短く半年程度であるらしい)に産卵のために、再び、川に遡上する。その際にはもう摂餌をせず、目も消化管とともに退化してしまい、体長もアンモシーテス期より逆に小さくなるとも言う。再び盲(めし)い、飲まず食わずで身を細らせての皮つるみ、そして死――ドラキュラのごとく忌み嫌われる彼等も確かな生物の厳粛な営みの中にいる(後半のアンモシーテス幼生とライフ・サイクルについては幾つかの記載を総合的に参照した)。私の古い電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「鱧 やつめうなき」の項を参照されたいが、そこで李時珍の「本草綱目」を引いて、

   *

頭の斑點、七つ有り、北斗の象(かたち)を作(な)す。夜は、則ち、首を仰(あをむ)け、北に向ひて、北斗に朝す自然の禮、有る故、字、「禮」の省(はぶ)くに从(したが)ふ。蛇と氣を通じて、色、黑く、北方の魚なる故、「玄」・「黑」・「烏」の諸名有り。

   *

という、辛気臭い載道的生態行動解釈が載る。ヤツメウナギは体側の目のやや後方に七つの鰓孔を持つところから命名されているが、鰓孔は後部に向って体に平行に等間隔で開いており、北斗星の形などにはなっていないから、数の相同を牽強付会したに過ぎない。私は八目鰻を親しく観察したことはないから、確証を持っては言えないが、このような実際の生態行動はないであろう。北斗星は中国では古来より時刻・季節の推移を予兆する星として重要視され、後に道教の北斗神君などとして神格化され、寿命・禍福を司るものとして信仰された。また、この「朝す」とは「拜む・礼拝する」の意である。則ち、「八目鰻は夜になると、首を仰向けにして、常に北に向け、神聖な北斗神君のシンボルであるところの北斗星を『禮』拝し、自然の『礼』をとり行うが故に、その漢字は『禮』を省略して(「示」を「魚」に換えて)『鱧』という字に造るのである」というトンデモない意味なのである。なお、中国語では「大鰻(おおうなぎ)」の意が第一義にある。

「淵鑑類凾卷四四一」同書は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「中國哲學書電子化計劃」の四百四十一巻の「魚一」にごっそり書いてあるが、よく見ると、「鯉最爲魚中之主形既可愛又能神變乃至飛越山湖所以琴髙乘之」とあり、「雅俗稽言曰鱧俗呼烏魚又名火柴頭頭戴七星夜禮北斗道家謂之水厭忌食之養生家亦忌其膽臘月收取隂乾遇喉急痺少許㸃之卽愈白小銀魚也小於麵條鰣魚初夏有餘月無故謂之」とあるのが、熊楠のネタ元であることが判る。

「古え鮪、鰹、目黑、鯛、鮒、「ヲコゼ」、「コノシロ」、鯖(玄同放言卷三)」曲亭馬琴の随筆で琴嶺(馬琴の長男)・渡辺崋山画。文政元(一八一八)年から同三(一八二〇)年刊。天然・人事・動植物について和漢の書から引用して考証を加えたもの。「玄同」は「無差別」の意。当該部は巻三上の「第廿九」の「人事」にある「姓名稱奈謂」の一節。「KuroNetくずし字認識ビューア」のここの左頁二行目の「鯨」から始まる魚名を名前に持つ〈人名魚尽くし〉の箇所。以上を視認して訓読し、電子化する。表題は底本では囲み罫であるが、[ ]で挟み、目立つように太字にし、且つ、改行した。【 】は割注。一部に句読点・記号を添え、また、変更もした。なお、本来ならば、「鯖」までの引用で十分なのだが、今少し、魚類関連のものが続くので、このパートの最後まで電子化しておいた。

   *

[鯨【クジラ】]には、同名多かり。大伴の連(むらじ)鯨、【「書紀」廿三。舒明紀。】河内の直(きみ)鯨、【同廿七。天智紀。】民の直(きみ)鯨、【同廿八。天武紀。】廬(いほ)井の連(むらじ)鯨、【同紀。】粟田の朝臣鯨、【「續日本後紀」。十六。】大伴の宿祢鯨、【同―一一。】刑部造眞鯨(をさかべのみやつこまくじら)、【「三代實錄」七。淸和紀。】。

[鮪【シビ】]も亦三人あり。八口(やく)の采女鮪女(しびめ)、【「書紀」廿三。舒明紀。】物部の朴(えの)井の連鮪、【同廿五。齊明紀。】」吉士小鮪(きしこしび)、【同廿七。天智紀。】この他、「萬葉集」第十六に、土師(はじ)の宿祢水通(みゆき)、字(あさな)は志婢(しひ)麻呂、といふ者(ひと)見えたり、この志婢(しひ)も、鮪(しび)の假名にはあらぬか。考べし。

[堅魚【カツヲ】]をもて、名とせしは、石上(いそのかみ)の朝臣勝雄(かつを)、【「續紀」十一。聖武紀。】河原の毗登(ひと)堅魚、【同卅。孝謙後紀。】縣犬養(あがたいぬかい)の宿祢堅魚麻呂、【同卅七。桓武紀。】安倍の朝臣堅魚、【「殘缺後紀」廿二。嵯峨天皇紀。】大伴の宿祢雄(を)堅魚、【又、小堅魚に作る。「殘缺後紀」廿二。】伴(とも)の宿祢眞(ま)堅魚、【「類聚國史」九十九。天長中の人なり。】」この他、豐岡の宿祢眞黑(まくろ)麻呂、【「續後紀」二。】この眞黑麻呂の眞黑も、目黑(まくろ)堅魚の事ならんか。目黑堅魚の名目は、「東鑑」に見えたり。

[鯛]をもて、名とせしものは、凡(おほち)の直(きみ)鯛、【續紀廿九。孝謙後紀。】大中臣の朝臣鯛取、【「殘缺後紀」十七。平城天皇紀。】安倍の朝臣鯛繼(つぐ)、【「續後紀」七。】髙道の宿祢鯛釣、【同八。】この他、鯛身の命(みこと)、【「姓氏錄」十八。】小鯛王、【「萬葉集」十六。】又、仁明天皇嘉祥二年、十一月廿日、賣買家地の劵書(けんしよ)に、秦(はだ)の忌寸(いみき)鯛女【「好古目錄」上卷。】あり。

[鯽魚【フナ】]にも、亦、同名あり、吉備の品遲部(ひちべ)の雄鯽(をふな)、【「書紀」十。應神紀。】難波玉造部(つくりべ)の鯽魚女、【同十五。欽明紀。】鴨の朝臣子鯽(こふな)。【「續紀」十八。孝謙紀。】

[鰧【をこし】[やぶちゃん注:オコゼのこと。]]にも、亦。同名あり。物部尾輿(をこし)、【「書紀」十九。欽明紀。】蘇我の臣(おみ)興志(をこし)、【同廿五。孝德紀。】尾張の宿祢乎己志(をこし)、【「續紀」四。元明紀。】大神(おほみわ)の朝臣興志(をこし)、【同六、同紀。】凡(おほち)の連(むらじ)男事志(をこし)、【同九。元正紀。】これらの名すべて「䲍(をこし)」の假字(かな)なり。

[鯯魚【このしろ】]にも、亦、同名あり。鹽屋の鯯魚(このしろ)、【「書紀」廿五。孝德紀。分注に云はく、「鯯魚(このしろ)は、此に云ふ「挙能之盧(このしろ)」[やぶちゃん注:実際に魚の「コノシロ」にこの漢字四字を当てる。]。】堺部の宿祢鯯魚(このしろ)。【同廿九、天武紀。】」

[鯖【さば】]にも、亦、二人あり。紀の朝臣鯖(さば)麻呂、【「續紀」卅八。桓武紀。】田口の朝臣佐波主(さはぬし)、【「續後紀」四。】この他、林の宿禰娑婆(さば)【「殘缺後紀」五。桓武紀。】あり、こは娑婆國の娑婆なるべし。

 この餘(よ)、魚をもて名とせしもの、衆夥(あまた)なり。枚挙(かぞへあぐる)に遑(いとま)あらず。按ずるに、魚は陰中(いんちう)の陽(やう)なり。こゝをもて、むかし、百官の名に、多く取れるなるべし。

 「蠡海集(れいかいしふ)」[やぶちゃん注:宋の王逵(おうき)著。天文・地理・人身・庶物・暦数・気候・鬼神・事義類に分類した雑考。]に【庶物類。】曰はく、『水族(すいぞく)は、乃ち、陰中の陽なり。何を以つて其の然を[やぶちゃん注:「しかるを」。]知るか』云々(しかしか)、『魚、乃ち、陰物にして、陽氣を得ること多し。故に腹内、脬(はく)[やぶちゃん注:浮袋。]を生ず。是れを以つて、能く浮き躍(おど)る[やぶちゃん注:ママ。]。魚の目は、晝夜、瞑(ねふ)らず。因りて、其の、陰物、爲(たれ)ども、陽を得ること、多き者なるを知るなり』といへり。この「小」をもて「大」に譬(たとへ)ば、人主(みかど)は陽なり、庶民(たみ)は陰なり、百官(もゝのつかさ)は陰中の陽なり、之加(くはふるに)、諸魚、天神御子(あまつかみのみこ)に仕(つかへ)奉りし故事(ふること)あり。「古事記」【上卷。】に、天津日髙日子番能迩迩藝命(あまつひたかひこほのににぎのみこと)、天降(あまくだり)まして、竺紫(つくし)の日向之髙千穗(たかちほ)之久布流多氣(くふるのため)に座(ゐま)せしとき、底度久御魂(そことくみたま)、都夫多都御魂(つづたつみたま)、沫佐久御魂(あはさくみたま)等(たち)、猨田毗古古命(さるたひこのみこと)を送(おくり)て、還(かへ)り到(いた)る條下(くだり)に云はく、『乃(すなは)ち、悉(ことごと)く鰭廣物(はたのひろもの)・鰭挾物(はたのさもの)を追聚(よびつど)へて、以(も)て問へらく、「汝(いまし)は天神御子(あまつかみのみこ)に仕(つか)へ奉(まつ)らんや」と言ふ時に、諸(もろもろ)の魚(うを)、皆、「仕へ奉らん」と白(まう)すの中(なか)に』云々(しかしか)、後生(のち)の人臣、名(な)を鱗介(いろくづ)に取るものゝ多かりしも、これらに緣(より)ての事なるべし。

 又、按ずるに、同書【上卷。】に、大穴牟遲神(おほなむちのかみ)、欺(あざむか)れて、八十神(やそのかみ)に燒(やか)れ給ふ段に云はく、『神産巢日(かむみむすひ)之命(みこと)、時に乃ち、黑貝(いかひ)と蛤貝比賣命(おほかひひめのみこと)とに告(の)り訓(をし)て[やぶちゃん注:ママ。]作活(いけらしたまふ)』云云(しかしか)といへり。鱗介(いろくづ)をもて、名とすること、はやく、こゝに見えたり。

 又、按ずるに、都の宿祢腹赤【「類聚國史」九十九。弘仁十四年正月叙位。】と、粟(あは)の宿祢鱒(ます)麻呂【「三代實錄」六。】とは、その名を等類(とうるい)とせんか。一説に『「腹赤(はらか)」は「鱒(ます)」なり』と、いへり。今、俗は、「鮏(さけ)」の子を「腹赤子(はらゝこ)」といふなり。又、一説に、『「腹赤(はらか)」は地の名なり。肥後の國玉名の郡、長渚(ながはま)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]に、「腹赤濱(はらかはま)」あり。この海濱にて漁取(すなと)る魚を、「久尓倍(くにべ)」[やぶちゃん注:ニベのことではないか?。]といふ。「腹赤」は、卽(すなは)ち、「久尓倍(くにべ)」の事なり。その濱によりて、名を得たり』と、いへり。いまだ孰(いづれ)か是(よき)を、しらず。「江家次第」、【卷之一。元日節會。】腹赤の奏の條下(くだり)を考ふべし。

   *

「鎌足(カマス)房前(ハゼ)(石野廣通著繪そら言)」石野廣通(ひろみち 享保三(一七一八)年~寛政一二(一八〇〇)年)は旗本で歌人・国学者。本姓は中原。家禄三百石。従五位下・遠江守。「繪(ゑ)そら言(ごと)」寛政九(一七九七)年頃に成ったかなりくだけた調子の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読め、当該部はここ(左ページ八行目から。直前で藤原鎌足を出しておいて、

   *

「御存の通り愚臣が名はかますにて、むかし魚の名を付事がはやり物のやうににて、君の御骨折らせ打亡されし入鹿なども海豚といふ魚の名を付、鮪の大臣なども魚の名、蘇我の赤兄なども赤鱝といふ魚の名、鹽屋の連鯯(齊明御宇の頃の人)そのゝち廬井造(天武の御宇の人)、又愚臣が孫の房前などもふさゝきにてはなく、房はほう前はぜんにてはぜといふが實の義、すなはち鯊の名なるをとなへ誤れり、此外にも魚の名付たる人あまた也、もろこしにても伯魚といひ鯉といひ玄孫を禮鮒といふ、祝鮀といふも魚の名也、魚の名付侍る事大䳡鷯尊(仁德天皇)[やぶちゃん注:「䳡鷯」はミソサザイを指す。]木兎宿禰(武内)隼別王子(人德の弟)飯豐も(人德の曾孫)鳥の名也、其外、數々こゝにいひたつるに及ばず、臣が名をかますと申證據は足の字はそくともすうとも兩音にて、論語にも足恭をすうきやうとよむがが如く、足はすうの音にて鎌足と書ても鎌子と書てもかますなるを、子の字もつねに申金子などのすといふには心付ずして、鎌足一名は鎌子とぼへ大系圖などには大職冠鎌たり一名鎌子としるせり、入鹿退治の時かまをもつて打たるゆゑ名付て淨瑠璃にも大津眞島を宿禰兼道が鎌をもつては向ふ思ひ入、これは百姓すがたにやつして居れば相應によく取合せてつくりたれど、それがし何故帶劒を用ひずにも子麿等と同時劒をもつて入鹿をきることたしかにしるせり、其鎌をおさめた所を鎌倉山といふなふなどとよひかげんなうそを取つけいひなす義に候と申さるれば、しへいの大臣尊公にはしかなれども、後代までおろそかにはいはず、名武峰にある所の御像が明應七年にやぶれたる時も、國家に變ある時はいにしへより御廟鳴動し、御像やぶれさくるなどゝあがめ申さるゝ、誠に御本望の至り也、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

てな感じで、何となくこの人、博識なんだろうが、どうも好きになれない文章だ。

「Gomme, op.cit., p. 290」前に出たイギリスの民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の一九〇八年の著作「歴史科学としての民間伝承」。ずっと後の版だが、「Internet archive」の原本のここで読める(左ページ)。

「Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ p.329 seqq.」「Gubernatis」はイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。この「動物に関する神話学」は「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が読める

『魚神「レミ」』「Budge, ‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol. i, p.303; vol.ii, p.382」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年:古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた)の原本の当該部は「Internet archive」で見られ、第一巻がこちらの右ページで、英文の「レミ」の綴りは「Remi」で、舌から六行目の頭にヒエログリフ(hieroglyph)が記され、そこにスズキ目ベラ亜目カワスズメ科 Cichlidae カワスズメ(ティラピア:Tilapia)を表わすそれが記されてあり、英文では「the Fish-god」とある。後者の第二巻のそれは同書の最後の部分で、「382」ではなく、「383」ページの一行目末から三行目にかけてに、

   *

The Phagrus, or eel, was worshipped in Upper Egypt, and mummied eels have been found in small, sepulchral boxes.

   *

と書かれてある。「Phagrus」とはスズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属ヨーロッパマダイ Pagrus pagrus である。しかし、この英文には、正直、ちょっと驚いた。ミイラ化されたウナギが墓の中の箱から発見されているとあるのである。これはもう、確かに神さまだわ!

「‘The Book of the Dead,’ trans. Budge, 1898, p. 4」Internet archive」の原本のここ。太陽神ラー(英文綴りは「Rā」)が使役する魚として「Ȧbțu」及び「Ȧnt」が記されてある。

「古カルデア人」ウィキの「カルデア」によれば、カルデア(Chaldea・Chaldæa)はメソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称で、紀元前十世紀以降に『この地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族はカルデア人と呼ばれるようになった。カルデア人は紀元前』七『世紀に新バビロニア王国を建国した』。『短命に終わったバビロン第』十一『王朝』(紀元前六世紀)『を、歴史家は慣習的にカルデア王朝、カルデア帝国、あるいは新バビロニア王国と呼ぶ。と言っても、この王朝の歴代の支配者のうち、カルデア人であると分かっているのは最初の』四『人だけである。最後の支配者ナボニドゥス(そしてその息子であった摂政ベルシャザル)の出自ははっきりしていないが、一説にはアッシリア出身とも言われる』。『カルデア人が定住した地域はバビロニア南部にあり、主にユーフラテス川の東岸沿いにあった。カルデアという名は一般にメソポタミア南部全域を指す言葉として使われるようになったが、本来のカルデアは実のところ、ユーフラテス川とチグリス川の堆積物によってメソポタミア南東端に形成された、この』二『つの川の流れに沿った長さ約』六百四十四キロメートル、幅およそ百六十一キロメートルに『広がる広大な平原であった』。『ヘブライ聖書ではカルデア人を指して』「カスディム」『という言葉が用いられており、七十人訳聖書ではこれをカルデア人と翻訳している。アブラハムの出身地もカスディムのウルと書かれている』。『古代ギリシア人がカルデア人』(カルダイオス)『と呼んだのは、バビロニアがアケメネス朝ペルシアの支配を受ける前のバビロニアの支配階級であった。現在ではカルデア人がバビロニアの最初の定住民であったとは考えられていないが、ヘレニズム期の歴史家シケリアのディオドロスは、カルデア人を最古のバビロニア人とした。古代世界においてカルデア人は天文学・占星術を発達させていたことで高名であり、「カルデア人の知恵」とは天文学・占星術のことであった』。『占星術を司るバビロニアの知識階級『乃至、『祭司階級を』単に『カルデア人と呼ぶようにもなった』。『カルデア人が使用した言語はアッカド語のバビロニア方言であった。これはアッシリア・アッカド語と同じセム語であるが、発音と文字に若干』、『変わったところがある。後期にはアッカド語のバビロニア方言もアッシリア方言も話されなくなり、メソポタミア中でアラム語がこれに取って代わった。アラム語は今日までイラクとその周辺国のアッシリア人と呼ばれるキリスト教徒(アッシリア東方教会やカルデア・カトリック教会』『の信徒)の母語であり続けている(アッシリア現代アラム語、カルデア現代アラム語)』とある。

「一佛・二佛」通常は釈迦如来と弥勒菩薩を指す。千仏という謂いもあり、これは過去・現在・未来の三劫 にそれぞれ現れるという千人の仏で、特に現在の賢劫の千人の仏を指し、釈迦はその四番目の仏とされる。

「Maspero, ‘The Dawn of civilization,’ London, 1894, p. 565」フランスの考古学者ガストン・カミーユ・シャルル・マスペロ(Gaston Camile Charles Maspero 一八四六年~一九一六年)。一八六九年から高等研究実習院でエジプト語を講義し、一八七四年にはコレージュ・ド・フランス(Collège de France:国立フランス教授機関)で、ロゼッタ・ストーン解読やヒエログリフ解明で知られる「古代エジプト学の父」ジャン=フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion 一七九〇年~一八三二年)の後継の地位に就いた。一八八〇年にエジプトへ派遣され、オギュスト・マリエット(Auguste-Ferdinand-François Mariette 一八二一年~一八八一年)の後を継いで、エジプト考古学庁最高責任者となった。また、政府の委託でカイロ考古学研究所を設立したことでも知られる。カイロ博物館の第二代館長でもあった(以上は彼のウィキに拠った)。当外原本は「Internet archive」の刊行年が異なるものの(1897年)、ここでよかろう。カルデア人の記載が続き、尾鰭を持った半人半魚の二体の神像画が示されており、次の「566の十行目に「Ea」の神名を確認出来る。

「Boscawen, ‘The First of Empires,’ 1903, pp. 67―68)」筆者はアッシリア学者ウィリアム・セイント・チャド・ボスコーウェン(William Saint Chad Boscawen 一八五四年~一九一三年)。Internet archive」で原本が見られ、当該箇所はここ。左ページ下方から「Ea」の記載が始まる。

『「ストラボン」(耶蘇と殆ど同時)の書』古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者ストラボン(ラテン語文字転写:Strabo 紀元前六四か六三年~紀元後二四年頃の書いた全十七巻から成るギリシャ語で書かれた「地理誌」(同前:Geōgraphik:ゲオグラフィカ)であろう。この大著は当時の古代ローマ人の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。

『西曆紀元前六百年頃の名妓「ロドペ」浴する間に、鷲其履を捉み去り、メムフヰスの王の前に落せしを、王拾つて、其履の美にして小さきに惚込み、履主を搜索して、遂にロドペを娶れりとなり』「履物」の「履物と文化」の「西洋」の項に以下のようにある。「ロドペ」の伝承もさること乍ら、全体に本篇との親和性の高い内容なので、前の部分も含めて引く(コンマは読点に代えた)。

   《引用開始》

 片方の履物にまつわる多くの伝承がギリシア文化圏にはある。トゥキュディデスは、プラタイアイの兵士の一隊が片方のみはだしで城塞(じようさい)から脱出したことを伝え(《戦史》第3巻22章)、女怪ゴルゴンを退治したペルセウスはサンダルを片方しかはいておらず、片方のサンダルの男に注意せよとの神託を受けていたイオルコス王ペリアスの前に現れたイアソンはそのままの格好であったために、金羊皮を求めて旅に出ることになる。J. G.フレーザーは《金枝篇》で、はだしの右足を犠牲獣の皮の上に置いて行われるギリシアの宗教儀礼に言及しているが、履物の片方だけをはいたいわば異形の姿と、神の加護あるいは神意の顕現という観念には強い関連のあることが予想される。なお、ヘロドトスによれば、ペルセウス崇拝はエジプトにも及んでおり、ケンミスなる町にはその神殿があるが、ペルセウスはしばしばここを訪れ片方のサンダルを残していくという。そして、このサンダルの出現はエジプトの繁栄を約する吉兆であると信じられている(《歴史》第2巻91節)。

 またヒュギヌスによれば、ヘルメスには次のような伝説がある。すなわちヘルメスは美神アフロディテに恋したが拒まれ、これを哀れんだゼウスが鷲に変じてアフロディテのサンダルの片方を盗んで彼に与えたため愛はかなえられた。同趣向の伝説はストラボンも伝えており、鷲に盗まれたロドペ Rhodopē のサンダルの片方がエジプト王プサンメティコスの胸の上に落ち、王はその持主を国中に捜し求めたという。いずれも履物と愛の成就、後者はさらに身元確認の主題が結びついている点で、シンデレラの〈ガラスの靴〉などとの共通性や、履物の性的な象徴性を示唆しており興味深い。なお、履物が身元の証明の手だてとなる例はテセウスの伝説にも見られ、上記ペルセウス、ヘルメスはともに有翼のサンダルの持主として知られる。

   《引用終了》

熊楠の表記する「メムフヰスの王」は、この引用によれば、エジプト第二十六王朝初代ファラオ(在位:紀元前六六四年~紀元前六一〇年)のプサメティコス(「プサムテク」とも表記)Ⅰ世のことであろう。]

2021/02/08

只野真葛 むかしばなし (7)

 

○母樣、御產は八度なり。はじめの出生は、よわく、七夜前になくなり、其後はワはじめ、皆、人となりしなり。兄弟の内、身體丈夫なるはワが一ばん、はつめいなる事は長庵におよぶ人、無(なし)。

 父樣、周防樣の女隱居樣にひさしき御出入(おでいり)にて有しが、木挽町御屋敷故、居宅はちかし。折ふし、初午(はつうま)なりしを、御隱居被辿ㇾ仰(おほせらるる)は、

「そこの子達、初午、見ながら、こされよ。」

と被ㇾ仰し故、其よし、父樣、被ㇾ仰て、

「長庵、お遊、のちがた、上(あげ)よ。」

と被仰付し故、二人の子共に、守女(もりをんな)兩人、男・女、付(つけ)て、つかはせしに、うすうす御ぞんじにや、飼殺しのばゞに、「さわ」といひしもの有しが、眞(まこと)のいなか人、いくとしを經ても、江戶氣(えどけ)うつらず、りちぎ一ペんの取得(とりえ)にて、夜中、めざとく、人がねしづまりて、一ペん、家内の火の元をみとゞけねば、寢(いね)ず。せいさなく、腹(はら)、立(たて)やすく、周防樣の御門(ごもん)へ行(ゆく)といなや、ゆかりもなく、

「仙臺屋敷から參りました。」

とて、通りしとなり。

 たいこの音をきいて、すぐに稻荷の立(たち)たる所へ行ても、

「是(これ)、子共衆、仙臺屋敷から、きました。此子たちに、ちと、太鼓うたせて被ㇾ下。」と、いひしとなり。

 周防樣の子供、中々、うけつけず、

「何、仙臺やしきのがきめらだ。」

とか、

「何しにうせた。」

などゝ、わる口して、以(もつて)の外(ほか)のやうすなり。

 さわ、大きに、はらだち、すぐに、つれてかへりたり。

 上(うへ)にては、

「周庵子共、上(あが)るや。」

と、御心まち被ㇾ成しに、あがらねば、のち、御さた有しとなり。

 さわは、家に入るやいなや、

「なぜ、あのやうな所へつかはされました。『仙臺やしきの、がきめらが、きたきた』とて、子共衆がわらひものにしました。」

とて、眞黑になりて、腹立(はらたて)し、となり。

 母樣にも、何の故といふことも御ぞんじなし。

 長庵、七ツばかりの頃なりしが、さわが退(しりぞ)きし跡にて申(まうす)やう、

「さわは、あのやうに腹をたちますが、あちらの子共の咎(とが)では、ござりません。はじめ、御門を入(いる)時から、『仙臺やしき』からといひました。木挽町の御手前、やしきと隣(となり)故、たしかに、子共が、ふだん、凧(たこ)の喧嘩のしませう、そこへ、いつて『仙臺やしきからきた』と申(まうし)たから、隣の子共とまちがへて、わる口致したものでござりませう。周庵方よりと申(まうし)たら、誰(たれ)もわるくは申(まうし)ますまい。」

と、いひし。

「心中のあきらかなること、小兒の了簡ならず。」

と、殊外(ことのほか)、御二方、御かんじ被ㇾ遊(あそばされ)しをおぼえたり。

[やぶちゃん注:「母樣、御產は八度なり。はじめの出生は、よわく、七夜前になくなり、其後はワはじめ、皆、人となりしなり。兄弟の内、身體丈夫なるはワが一ばん、はつめいなる事は長庵におよぶ人、無」最初の子は「お七夜」(子供が生まれてから七日目の夜にその日までに考えておいた名前を子供に命名し、家族・嫁の実家・親類・知人を招いて祝い膳を囲んだが、これは父方の祖父が主催して行うものであった)前に亡くなっているために、名がない。工藤周庵平助と遊の子を総て示すと、

   *

長女「あや子」。工藤家内での通ニック・ネームであった七草名は「葛」。

長男「長庵元保」。幼名は安太郎。「藤袴」。あや子より二歳下。二十二歳で早逝した。

次女「しず子」。「朝顔」。雨森家に嫁した。

三女「つね子」。「女郎花(おみなへし)」。加瀬家に嫁した。

次男「源四郎鞏卿」(きょうけい)。幼名は四郎・元輔・「尾花」。あや子より十一歳下。工藤家後継ぎとして期待されたが、既に述べた通り。文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで急死した。

四女「拷子」(たえこ)。瑞照院(これはウィキの「只野真葛」の記載。「日本庶民生活史料集成」の注で中山氏は『瑞性院』とする)。「萩」。婚せずに文化九(一八一二)年に剃髪して「萩尼」と号した。

五女「照子」。「撫子」。中目家に嫁した。あや子の二十三歳下。

   *

である。

「周防樣の女隱居樣」「木挽町御屋敷」から江戸切絵図で確認したところ、「松平周防守」があるのだが、ここ(現在の「国立がんセンター」附近)は江戸後期に棚倉藩(たなぐらはん:陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを領し、藩庁は白河郡棚倉城に置かれた。現在の福島県東白川郡棚倉町)上屋敷となる。ただ、ここで言う「松平周防守」のが誰なのか、同藩上屋敷となるのは、ずっと後年である。この木挽町の「松平周防守」に時代的に合うのは、岩見浜田藩藩主で周防守であった松平康定(延享四(一七四八)年~文化四(一八〇七)年)であろうか。彼の養子松平康任(やすとう)は密貿易(竹島事件)によって強制隠居・永蟄居処分となった後を継いだ松平康爵(やすたか)にも父のせいで懲罰的移封が天保七(一八三六)年に行われて陸奥棚倉へ移ったのである。因みにこの二人も「松平周防守」である。さてそうすると、この「周防樣の女隱居樣」というのは、康定の正室で、浜田藩主であった松平康福(やすよし)の娘(名前不詳・生没年未詳)が候補となろう。

「初午」旧暦二月に最初に来る「午の日」。稲荷社の本社である伏見稲荷神社の穀物神である宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が伊奈利山へ降りた日が、和銅四(七一一)年二月の初午の日であったと伝えることに拠る。全国の稲荷神社でこの日に「初午祭」が行われ、お参りをして五穀豊穣を祈る。稲荷神社の「稲荷」は「稲生り」に由来するとされる。

「長庵、お遊、のちがた、上(あげ)よ」不審は「お遊」である。「日本庶民生活史料集成」も「仙台叢書」も同じなのだが、全く解せない。この「お遊」は、私は真葛が自称で「あや」と書くべきところを、母の思い出を綴っているためにうっかり誤ったのではないかと思うのである。以下、「二人の子共」と言っていること、「木挽町御屋敷」へ行った描写に臨場感があることなどから、私は長男で真葛(あや子)の弟である長男長庵と、話者である彼女が、一緒に行ったのだと考えるのが、自然だと思うからである。「のちがた」は「後方」で、「あとで」の意、「あげよ」は御隠居さまのところへ向かわせることを謙譲表現したものととる。或いは、「お」は「ワ」と書いたものを馬琴が読み違えたともとれる。本書では冒頭で真葛が自分のことを言う場合には「ワ」とすると述べていた。直接話法でも、それを自分の名を書くのの転用として用いたとするなら(そうする可能性は高いように私は思う)、「長庵ワ遊のちがた上よ」で「長庵とあや子を、遊び終わった後で、御隠居さまのところへ参らせよ。」と父が言ったともとれる。ともかくも、原本を見てみたくてしょうがない。

「うすうす御ぞんじにや」平助四女の拷子「萩」への語りかけ。「記憶の中にうっすらとあるのではありませんか? 「さわ」というひどく年老いた下女がいたことを。」の意でとった。

「飼殺しのばゞ」この場合は悪意はそれほど強くない言い方で、「役に立たなくなった家畜を死ぬまで飼っておくこと」を転じたものであろう。

「せいさなく」意味不明。「精査」で、怒る前に、その内容を「詳しく調べることをせずに」の意か。

「ゆかりもなく」自分は縁もないくせに。狭義には間違って正当な表現でないことを言う。仙台藩上屋敷は前に少し述べたが、父平助方の祖父で同じく江戸詰藩医であった工藤丈庵は宝暦元(一七五一)年の主君伊達吉村逝去の際に願い出て、藩邸外に屋敷を構えることを許され、伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てていた。父平助も、また、遊と結婚後に、築地に邸宅を構えていた。仙台藩上屋敷は現在の東京都港区東新橋一丁目(グーグル・マップ・データ)にあった。仮に最も近い現在の築地地区に居宅があったとすれば、五百メートル内外で、確かに隣りではあった。しかし「仙臺屋敷からきました」は、はっきり言ってまずい言い方とは言える。例えば、それを、たまたま門の前を通り過ぎた仙台藩士が聴いたら、咎めるに決まっている。

「たいこの音をきいて、すぐに稻荷の立(たち)たる所へ行ても」この日は初午祭であるから、江戸中の稲荷社で太鼓が打たれていたのである。

「何、仙臺やしきのがきめらだ」「何、仙臺屋敷の餓鬼めらだ」。「何? 仙台屋敷の餓鬼どもだぁ?!」。

「のち、御さた有しとなり」後から「初午の時に来なかったが、どうされた?」とわざわざのお言葉があったという、の意。

「仙臺やしきの、がきめらが、きたきた」「仙台屋敷の御子様でも御女中でもあるまいに、『仙臺屋敷からの』餓鬼め等(ら)が、來たぞ、來たぞう!」。注する必要もないと思うかも知れぬが、原本は「仙だいやしきのがきめらがきた」に踊り字「〱」で、これ、そうさらりとは読めないからである。但し、実際には、この周防守の家の子供たちが彼らをかくも嫌ったのは、その後で長庵が解き明かしているように、仙台屋敷内の或いはその近辺の子供らと、凧上げでしばしば喧嘩をし、中が非常に悪いから、かくも罵倒することが判明するのである。

「眞黑になりて」真っ赤になってのところを、色黒の婆さんであったのであろう。真葛って、けっこう、おちゃめ!

「母樣」お遊。

「何の故といふことも御ぞんじなし」何故、そんなひどい言い方がされるのか、よく判らないからである。だいたいが「仙臺屋敷の餓鬼」という呼称が意味不明で不審であったのである。

「長庵、七ツばかりの頃」彼は明和元(一七六四)年生まれであるから、この時制は「ばまり」を外すと、明和七(一七七〇)年二月十日戊午(つちのえうま)でグレゴリオ暦三月七日に限定出来る。

「木挽町の御手前」木挽町の松平周防守の屋敷の前が、広場(火除け地かも知れない)になっていたことを言っているのであろう。先の「周防守」の地図を見てもらえば、築地が隣りで仙台屋敷とも近いのがよく判るはずである。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 5

 

「シンダレラ物語」は、何人も知らぬ者なき通り、歐米で最も盛んに行なわるる仙姑傳(フエヤリーテイル)也、「シンダレラ」、繼母に惡まれ、常に灰中に坐し、厮役厨務[やぶちゃん注:「しえきちゆうむ」。]に苦しめられ、生活全く、異母妹の盛飾遊食するに反せり、一旦仙姑の助けにより、貴公子に見初められしが、公子之を執へんとする每に、駛く[やぶちゃん注:「はやく」。]去て影を留めず、然るに或夕べ、例のごとく公子眼前に舞踏濟み、遁れ去んとして、仙姑が吳たる履を落す、公子之を拾ひ、衆女を試るに、「シンダレラ」の足のみ之に合ふ、公子因て意中の人を認め、之を娶る、此譚西洋に弘く行はるゝ丈け、其作り替えも多きは、例せば C. Pedroso, ‘Portuguese Folk-Tales’;London, 1882. 葡萄牙の古話三十を載たる中、「シンダレラ物語」に屬する者、三つ迄有るにて知るべし、偖[やぶちゃん注:「さて」。]予廿三年前在米の間、酉陽雜俎續集卷一に、支那の「シンダレラ」物語有るを見出し、備忘錄に記し置き其後土宜法龍師抔[やぶちゃん注:底本「杯」と誤字する。特定的に訂した。]に報ぜし事有り、英國の俚俗學會、曾て廣く諸國に存する「シンダレラ」物語の諸種を集め、出版せし一册あり、予在外中、好機會多かりしも、多事なりし爲め、遂に之を閱せざりしぞ遺憾なる、近日倫敦の學友を賴み、右の書に支那のシンダレラ譚有りやと調べ貰ひたるに、全く無しとの返事也、然し其人斯る事に趣味を持ざれば、實際は知れず、兎に角、自分折角、久しく取って置きの物を、其儘埋め去る事の惜しまるれば、爰に其文を載す、縱ひ既に學者間に知悉されし事なりとも、此物語を、歐州特有の物と思ひ居る人々の、耳目を廣むるの少益有りなんか、云く[やぶちゃん注:以下の底本の漢字表記には疑義があるので、「中國哲學書電子化計劃」の影印本画像を視認して一部を特異的に訂した。読点も不審な箇所があるので訂した。]、南人相傳、秦漢前有洞主吳氏、土人呼爲吳洞、娶兩妻、一妻卒、有女名葉限、少惠善鈎金、父愛之、末歲父卒、爲後母所苦、常令樵險汲深、時嘗得一鱗、二寸餘、赬伯鬐金目、遂潜養於盆水中、日長、易數器、大不能受、乃投於後池中、女所得餘食、輒沉以食之、女至池、魚必露首枕岸、他人至不復出。其母知之、每伺之、魚未嘗見也、因詐女曰、爾無勞乎、吾爲爾新其襦、乃易其弊衣、後令汲於他泉、計里數百也、母徐衣其女衣、袖利刃行向池、呼魚、魚卽出首、因斫殺之、魚已長丈餘、膳其肉、味倍常魚、藏其骨於鬱棲之下、逾日、女至向池、不復見魚矣、乃哭於野、忽有人被髮麄衣、自天而降、慰女曰、爾無哭、爾母殺爾魚矣、骨在糞下、爾歸、可取魚骨藏於室。所須第祈之、當隨爾也、女用其言、金璣衣食隨欲而具、及洞節、母往、令女守庭果、女伺母行遠、亦往、衣翠紡上衣、躡金履、母所生女認之、謂母曰、此甚似姊也、母亦疑之、女覺、遽反、遂遺一隻履、爲洞人所得、母歸、但見女抱庭樹眠、亦不之慮、其洞隣海島、島中有國名陀汗、兵强、王數十島、水界數千里、洞人遂貨其履於陀汗國國主得之、命其左右履之、足小者履減一寸、乃令一國婦人履之、竟無一稱者、其輕如毛、履石無聲、陀汗王意其洞人以非道得之、遂禁錮而栲掠之、竟不知所從來、乃以是履棄之於道旁、卽遍歷人家捕之、若有女履者、捕之以告、陀汗王怪之、乃搜其室、得葉限、令履之而信、葉限因衣翠紡衣、躡履而進、色若天人也、始具事於王、載魚骨與葉限俱還國、其母及女卽爲飛石擊死、洞人哀之、埋於石坑、命曰懊女塚、洞人以爲奠禖祀、求女必應、陀汗王至國、以葉限爲上婦、一年、王貪求、祈於魚骨、寶玉無限、逾年、不復應。王乃葬魚骨於海岸、用珠百斛藏之、以金爲際、至徵卒叛時、將發以贍軍、一夕、爲海潮所淪、成式舊家人李士元聽說、士元本邕州洞中人、多記得南中怪事。

[やぶちゃん注:「シンダレラ物語」平凡社「世界大百科事典」の「シンデレラ(Cinderella)」を引くが、意想外に記載が短い(コンマを読点に代えた)。『世界的に分布の広い継子話の女主人公の英語名。話の起源はオリエントと考えられている。フランスではシャルル・ペローが《昔々の物語ならびに教訓》』(一六九七年)『に〈サンドリヨン〉の名で、口伝えの再話作品をのせ、ドイツでは《グリム童話集》』二十一『番に〈灰かぶり〉がある。口伝えの類話にも多様な変化と組合せがあるが、ほぼ次のような骨格をもつと考えられる。継娘が継母とその実子に虐待されるが、親切な動物が食物や贈物をくれる。実子がそれを知り、継母が動物を殺す。シンデレラがその死体を埋葬すると、墓に上等な服がおいてある。王子が祝宴を開くことになると、継母は難題を与えてシンデレラを行かせまいとする。動物たちの援助で難題を片づけ、墓の上等な服を着てシンデレラが祝宴に行くと,王子は美しさに打たれて娘をひきとめるが』、二『度までは逃げられ』、三『度目に娘の靴だけを手に入れる。王子はその靴に合う足の娘を探し、ついにシンデレラを発見して結婚する。この話は他の継子話、《一つ目、二つ目、三つ目》や《千びき皮》などと混じりあいながら』、『多様な変化をして伝承されている。動物の墓は、しばしば実母の墓ともいわれ、そこに木が生えて美しい着物を出してくれるという。死霊が植物に化成するという古い宗教観念の反映と考えられる。日本の《米福糠福》もこの系統の話と考えられるし、《姥皮》もこの話の後半部分と関係がある』。ウィキの「シンデレラ」も熊楠の起源説探求としては引くに値しない。因みの英文表記の「Cinderella」とは「Cinder」(灰)に対象が女性や子供を表わす際の接尾語「-ella」が附された「灰だらけの汚い娘」という卑称の綽名である。

「仙姑傳(フエヤリーテイル)」fairy tale。原義は「妖精(精霊)についての物語」であるが、転じて「御伽話」「信じられないほど美しい話」の意。形容詞としても用いられる。

「厮役」召使い。

「C. Pedroso」ポルトガルの歴史家・民俗学者ゾフィモ・コンシグリエリ・ペデルゾ(Zófimo Consiglieri Pedroso 一八五一年~一九一〇年)。当該英訳書は「Internet archive」のこちらで読める

「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。本文は後掲する。

「土宜法龍」(どきほうりゅう 安政元(一八五四)年~ 大正一二(一九二三)年)真言僧で真言宗高野派管長。名古屋生まれ。本姓は臼井。四歳の時に伯母の貞月尼を通じて出家し、「法龍」と称した。明治二(一八六九)年に高野山に登って、真言・天台などの教義を学び、仏教教学の研究に努めた。明治二六(一八九三)年、アメリカのシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本仏教の代表の一人として参加した。その会議終了後、ヨーロッパに渡り、パリでは「ギメ博物館」仏教部の要請を受けて五ヶ月間、滞在しており、また、ロンドンでは、まさに滞欧中であった南方熊楠と出会い、互いに意気投合して、パリ滞在中にもロンドンの南方と書簡を交わすようになり、西域・チベットへの仏教探訪の旅を語り合ってもいる。また、南方が紀伊に帰ってからも、文通が頻繁に行われ、南方の宗教観、特に曼荼羅論・宇宙論に大きな影響を及ぼしている(この往復書簡は甚だ面白い)。明治三十九年に仁和寺門跡御室派管長、大正九(一九二〇)年に高野派管長となり、真言宗各派連合総裁・高野山大学総理などを兼任した。

「俚俗學會」民俗学会。

「酉陽雜俎續集卷一」の「支諾皋(しだくこう)上」の最初の方に出る。所持する「東洋文庫」(一九九四年刊)の今井与志雄氏の訳文を参考に訓読を試みる。今まで言っていないが、平凡社「選集」版は勝手に訓読したものが載るが、これが現代仮名遣で、しかも訓読者が漢籍に詳しい人物でないようで、甚だ不審に思う箇所が多く、殆んど参考にしていない(というか、ならない)ことをお断りしておく。

   *

 南人(なんじん)、相ひ傳ふ。

 秦・漢の前に洞主(どうしゆ)[やぶちゃん注:村長。]の吳氏あり、土人、呼んで「吳洞」となす。兩妻を娶る。一妻、卒(そつ)し、女(むすめ)有り、「葉限(せふげん)」[やぶちゃん注:現代仮名遣「しょうげん」。この名は中国南部の伝説の女性の名として知られる。]と名づく。少(をさ)なきより惠(さと)く、善(よ)く金を鈎(さぐ)る[やぶちゃん注:探し出した。]。父、之れを愛す。

 末歲(まつさい)[やぶちゃん注:ある年の末。]に、父、卒し、後母(ままはは)に苦しめらるる所と爲(な)る。常に險(けは)しきに樵(きこ)らせ、深きに汲(みづく)ましむ。時に、嘗て、一つの鱗(うを)を得たり。二寸餘りにして、赬(あか)き伯鬐(ひれ)、金の目たり。遂に潜(ひそ)かに盆水に養ふ。日(ひにひ)に長じ、數器を易(か)ふるも、大にして、受くる能はず。乃(すなは)ち、後ろの池中に投ず。女(むすめ)は、得させらるる所の餘食を、輒(すなは)ち、沉(しづ)めて以つて之れに食らはす。女、池に至れば、魚、必ず首を露はして岸に枕(まくら)す。他人の至るも、復たと出でず。其の母、之れを知りて、每(つね)に之れを伺ふも、魚、未だ嘗て見(あら)はれず。因りて、女に詐(いつは)りて曰はく、

「爾(なんぢ)、勞する無からんや[やぶちゃん注:疲れてはいないかい?]。吾、爾が爲めに其の襦(うはぎ)を新たにせん。」

と。

 乃ち、其の弊(やぶ)れし衣を易(か)へ、後(のち)、他(ほか)の泉に汲ましむ。里を計れば數百なり[やぶちゃん注:唐代の百里は約五百六十キロメートルで、あり得ない誇張である。]。母、徐(おもむ)ろに其の女の衣を衣(き)て、利(と)き刃(さすが)を袖にし、池に行きて向かひ、魚を呼ぶ。魚、卽ち、首を出だせり。因りて、之れを斫(き)り殺す。魚、已に、長さ丈餘、其の肉を膳(くら)ふに、味は常の魚に倍す。其の骨を鬱棲(うつせい)[やぶちゃん注:人糞・獣糞などを貯留して「肥え」にする場所。]の下に藏(かく)す。日を逾(こ)えて、女、至り、池に向かへども、復た、魚を見ず。乃ち、野に哭す。忽ち、人、有り。被髮・粗衣にして、天より降(くだ)り、女を慰めて曰く、

「爾、哭すなかれ。爾の母は爾の魚を殺せり。骨は糞の下に在り。爾、歸りて、魚の骨を取りて、室に藏(かく)すべし。須らく、第(つぎ)に、之れに祈らば、當に爾に隨ふべし。」

と。

 女、その言を用ひ、金璣(きんき)[やぶちゃん注:金と宝玉。]衣食、欲するに隨ひて、具(そな)はれり。

 洞の節(せつ)[やぶちゃん注:洞主であった父の命日。]に及び、母、往きて、女をして、庭の果(くだもの)を守らしむ。

 女、母の行くこと遠きを伺ひ、亦、往く。翠紡(すいばう)[やぶちゃん注:翡翠の羽で紡いだもの。]の上衣を衣(き)て、金の履(くつ)を躡(は)けり。

 母の生みし所の女、之れを認め、母に謂ひて曰はく、

「此れ、甚だ姊に似たり。」

と。母もまた、これを疑ふ。[やぶちゃん注:このシークエンスはタイム・ラグがあって少しおかしい。脱文或いは錯文が疑われる。]

 女、覺りて、遽(にはか)に反(かへ)り、遂に一隻(いつせき)[やぶちゃん注:片方。]の履を遺(のこ)し、洞人(むらびと)の得る所と爲る。

 母、歸りて、但(ただ)、女の庭樹を抱(いだ)きて眠れるを見、亦、之れを慮(おもんぱか)らず。

 其の洞、海の島に隣りし、島中に、國、有り、「陀汗(だかん)」と名づく。兵、强くして、數十の島と、水界數千里に王たり。

 洞人、遂に其の履を陀汗國に貨(う)り、國主、之れを得(え)、其の左右[やぶちゃん注:侍従。]に命じて、之れを履かしむるも、足の小なる者、履けども、一寸を減ず[やぶちゃん注:元の大きさより一寸小さくなって履けなかったのである。唐代の一寸は約三センチメートル。]。乃ち、一國の婦人をして、之れを履かしむるも、竟(つひ)に、一(ひとり)として稱(あ)ふ者、無し。

 其の輕(かろ)きこと、毛のごとく、石を履(ふ)むに、聲(おと)、なし。

 陀汗王、

「其の洞人、非道を以つて之れを得しか。」[やぶちゃん注:何か非人道的で怪しい手段で入手した呪物かと思ったのである。]

と意(おも)ひ、竟に禁錮して、之れを拷掠(かうりやう)[やぶちゃん注:拷問。]すれども、遂に從(よ)つて來たる所を、知らず。

 乃ち、この履を、以つて、是れを道旁(だうばう)に棄て[やぶちゃん注:この部分は文意が続かず、何らの錯文が疑われる。]、卽ち、人家を遍歷して之れを捕へんとし、若(も)し、女の履ける者有らば、之れを捕へ、以つて、告げさす。

 陀汗王、之れを怪しみ、乃ち、其の室を搜し、葉限を得たり。

 之れを履かしむるに信(しん)なり[やぶちゃん注:本人であった。]。

 葉限、因りて、翠紡の衣を衣(き)て、履を躡きて進むに、その色(しよく)[やぶちゃん注:姿。]や、天人のごとし。始めて、事を、王に具(まう)す。

 魚骨と葉限とを載せて、俱(とも)に國に還る[やぶちゃん注:主語は王。]。

 其の母及び女は、卽ち、「飛石(ひせき)」と爲し、擊たれて死す[やぶちゃん注:「石打ちの刑」に処せられて沢山の石を投げつけられて死んだ。穴を掘ってそこに罪人を立たせ、庶民に次々と石を投げつけさせて殺す刑罰がイスラム圏に現在もあるが(罪名は不貞で男女を問わない)、それと同様のものであろう。]。洞人、之れを哀れみ、石坑に埋(うづ)め、命(なづ)けて「懊女塚(わうぢよづか)」[やぶちゃん注:「懊」は「恨む・悩み悶える」の意。一種の本邦の御霊信仰と同じである。]と曰ふ。洞人、以つて禖祀(ばいし)[やぶちゃん注:祭祀。「禖」中国古代に於いて祀られた神の名。]をなし、女(むすめ)[やぶちゃん注:女の子の出生。]を求むれば、必ず、應ず、と。

 陀汗王、國に至り、葉限を以つて上婦[やぶちゃん注:正室。]と爲せり。

 一年、王、貪(むさぼ)り求めて、魚骨に祈れが、寶玉、限り無からんも、年を逾(こ)えれば、復たと應ぜず。

 王、乃ち、魚骨を海岸に葬り、珠(しゆ)[やぶちゃん注:真珠。]百斛(こく)[やぶちゃん注:唐代で五千九百リットル。]を用ひて之れを藏(かく)し、金を以つて際(へり)と爲せり。徵(ちやう)せし卒の叛(むほん)する時に至りて、將に發(あば)きて以つて軍を贍(たす)けんとするも、一夕(いちゆう)[やぶちゃん注:ある夜。]、海潮の爲に淪(しづ)めらる。

 成式[やぶちゃん注:作者。]の舊家人の李士元の說けるを聽けり。士元は、元(もと)、邕州(ようしう)の洞中(むらうち)の人にて、多く、南中の怪事を記し得たり[やぶちゃん注:記憶していた。]。

   *

「東洋文庫」の今井氏は、本篇の注で熊楠の本論考にも言及された後、以下のように述べておられる。少し長い引用となるが、熊楠の考証と原拠本篇を理解する上で非常に重要なので、引かさせて戴く。

   《引用開始》

 楊憲益(ヤンシェンイー)[やぶちゃん注:一九一五年生まれで二〇〇九年没。中国文学の英語翻訳者として著名。妻は同じ仕事を成したイギリス人グラディス・マーガレット・テイラー(Gladys Margaret Tayler:中国名:戴乃迭)。文化大革命中、夫婦は四年刊投獄されている。]の「中国の掃灰娘(サオホイニヤン)(Cinderella)譚」に、『酉陽雑俎』のこの話を全文抄録し、つぎのような案語[やぶちゃん注:中国語で「注釈」の意。]を加えている――この説話は、あきらかに、西方の掃灰娘(Cinderella)譚である。段成式は、西暦九世紀の人であり、この説話が、遅くとも九世紀、あるいは、八世紀にはすでに中国に伝わっていたことがあきらかである。篇末に、説話の語り手は邕州の人だという。邕州は、すなわち、いまの広西の南寧[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データでここ。]である。この説話が、東南アジア経由で中国に入ってきたことがわかる。イギリス人、コックス(Marian Rolfe Cox)[やぶちゃん注:マリアン・ロールフ・コックス (一八六〇年~一九一六年)はイギリスの民俗学者で、このシンデレラ伝承の研究家として知られる。]の考証によると、この説話は、ヨーロッパと近東で、合計、三四五種の大同小異の伝説がある。惜しいことに、この本はいま、さがすすべがない。ヨーロッパでもっとも流行した二種の伝説は、一七世紀(原文「七世紀」。十七世紀」の誤植であろう)のフランス人、ペロー Perrault の物語集と一九世紀のドイツ人、グリム Grimm 兄弟の説話集に見られる。グリムの伝説によると、この「掃灰娘」の Aschenbrödel, Aschen という名の意味は、「灰」であり、英語の Ashes である。アングロ・サクソン語 Aescen, サンスクリットの Asan である。もっとも面白いのは、中国語テキストである。その娘は、依然、葉限という名である。あきらかに Aschen あるいは、Asan の訳音である[やぶちゃん注:「葉限」は中国語カタカナ音写で「イエ・シィェン」である。]。通行の英語テキストは、フランス語テキストからの転訳である。そのなかで掃灰娘のはく鞋(くつ)は琉璃(ガラス)である。これはフランス語テキストでは、毛製の鞋(くつ)(Vair)で、イギリスの訳者が琉璃(verre)と誤認したからであろう。中国語テキストでは、金の履(くつ)というけれども、『毛のように軽く、石をふんでも音がしなかった』というから、多分、本来は、毛でつくったものなのであろう(揚憲益『零墨(れいぼく)新端』に収む。一九四七年二月、中華書局刊、上海)。

 ただ、楊憲益氏の指摘した、シンデレラの履いたくつが、ガラスか、それとも毛製のくつかという問題については、同氏の説明の仕方に疑問がある。シャルル・ぺロー(Charles Perrault(一六二八-一七〇三年)の説話集とは、hisutores ou contes du temps passé avec des moralities (in 1697) 、またの名、Contes de ma Mère Loya であるが、ペローの説話集(ペンギン叢書本)の英訳者G・ブレレトン氏 Geoffrey Brereton によると、シンデレーフ(ペローでは、フランス語風に、サンドリョンという)の履いたくつをガラス製としているのは、おびただしいシンデレラ説話のなかで、ペローとペロー以後の少数の版だけに見出されるという。最も古い版では、verre(ガラス)となっており、のちの版で、vair(白い毛皮)と改められているという。ガラスのくつに関しては、説話研究者の間で、かつてはげしい論争があったらしい。それは、別として、楊憲益氏の説明は、右の事実をとりちがえている。思うに、これは同氏の右論文執筆時期とかかわりがあるのかも知れない。同氏は、コックスの本は、「いま、さがすすべがない」という。動乱か、戦争による流亡の時期の執筆なのであろう。コックスの本とは、G・ブレレトン氏によると、つぎのとおりである――

 Marian Rolfe Coxs, Cinderella :Three Hundred and Forty-five Variants of Cinderellas, Catskin and Capo’ Rushes  (London. Folklore Society, 1893)

 なお、シンデレラ譚は、ペローのものの前には、イタリアのジアンバスティスタ・パジーレ Giambastista Basile(一五七五-ニ八三二年)の『ペンタメローネ』Pentamerone(1634‐6)に訳述されているという。くわしくは、つぎの英訳書の序説を見ていただきたい。

 Charles Perrault : Fairy Tales Translated with an Intoroduction by Geffrey Brereton (Penguin Books, 1957)

   《引用終了》]

殺人鬼譚読書夢

今朝の夢。

――私は漢籍のシリアル・キラーの事件を集めた奇書を読んでいる[やぶちゃん注:私の知る限りでは、幾つかの部分的なそれに類するものや、裁判凡例集「棠陰比事」は愛読書であるが、ここまで完全に特化した漢籍は知らないから、架空のものであろう。]。――ただ、それはごく近代の出版で、横書きである。但し、「?」「!」などは用いられていないから、今のものではない。――

読んでいると――しかし――その犯行のシーンの部分にかかるや、その部分は細長いカラーの動画となって本の中で映し出されるのである。しかもその登場人物は中国人ではない欧米人なのである――[やぶちゃん注:その幾つかの映像はついさっきまで記憶していたのだが、この一年前、二時・三時に覚醒してしまうことが続いたため、主治医から睡眠薬を処方して貰って服用している。どうも睡眠剤は私の場合、夢との相性が悪いらしく、嘗てのように夢を見ることが(或いは覚醒後に記憶しておくことが)ごく少なくなった。]――ということは、その書物は、海外のシリアル・キラー物を漢訳した近代のものなのだろうか――

一つだけ――最後の記憶がある――そのシリアル・キラーは――水頭症のような頭の異様に大きな少年(小児)であった――彼は自分の家族を一人一人――巧みな方法で殺害してゆくののであった――因みに映画のフレーミングから色彩は偏愛するアンドレイ・タルコフスキイのそれにそっくりであったことだけは覚えている――

2021/02/07

芥川龍之介書簡抄12 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(5) 山本喜譽司宛(「僕のELGARのDESIGN」とキャプションとする自筆絵葉書)

 

大正元(一九一二)年十二月六日・牛込區赤城元町廿八竹内樣方 山本喜譽司樣・「龍」(自筆絵葉書)

 

Elgers-design

 

僧房夢[やぶちゃん注:「さうばうむ」。]をみて悲觀しちまいました 葛城文子の拙劣なのは殆御話しにも何もなりません ユンケルの演奏會は面白う御座んした 土耳古の毛氈のやうに美しいガーデや わすれな草の花のやうに幽艷なグリーヒや 靑と銀とのタペストリのやうにしみじみとしたシポーアがユンケル氏のあの指揮杖のさきから寶石のやうに流れ出したときの事を考へると今でもうれしいやうな氣がします

試瞼が始まるので忙いでせう[やぶちゃん注:ママ。]

同じやうな事をしてイラシヨナルな其日其日を送つてゐるのが退屈で仕方がありません さようなら

    十二月一日

  投函遲れて今日に及び候 六日

 

[やぶちゃん注:行末改行の一部に字空けを施した。画像は所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のカラー版をトリミングした。キャプションは(示したものは、下部がごく僅かだが、切れている)、

僕のELGARのDESIGN:

となっている。「ELGAR」は以下の「僧房夢」(ドイツの劇作家ゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann  一八六二年~一九四六年)が一九〇五年に書いた一幕物(全六場)の夢幻劇「エルガ」(Elga )を森鷗外が明治四二(一九〇九)年の一月~三月の雑誌『歌舞伎』に翻訳連載した際の邦題)の原題の綴りを誤ったものであろう。但し、鷗外は重要なヒロイン役(ネタバレもあり、説明しにくいが、全体は一人の騎士が陰気な僧院に泊まって奇体な夢を見るという入れ子構造になっている)である伯爵夫人の名を「エルガア」と訳しているからして、龍之介のせいとは言い難い。なお、この「僧房夢」という外題は上演記録をネットで探すと、「さうぼうのゆめ」と読んだり、「僧坊の夢」とあったりして一定しない。但し、所持する「鷗外選集」では『そうばうむ』である。以上の自筆画はその「僧房夢」の舞台の最初と最後の僧院のロケーション・イメージ(舞台大道具というよりも、映画的なセットの感じ)をデザインしたものの謂いである。

「葛城文子」(明治一一(一八七八)年~昭和二〇(一九四五)年)は女優。本名は増田ユキ。旧制東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)を卒業し、満二十七歳を迎える明治三八(一九〇五)年から文士劇の舞台に上がった。井上正夫の主宰する東京有楽町の「有楽座」での女優劇や、井上が製作した連鎖劇等に出演した。この後の大正六(一九一七)年に井上が主演・監督する無声映画「毒草」に出演し、映画界にデビューした。これは一般に「日本の映画女優第一号」と呼ばれた花柳はるみよりも二年早く、彼女が最初の映画女優とされるべきである(以上は彼女のウィキに拠った)。彼女が出演した舞台劇「僧房夢」の記録は見出せなかったが、鷗外の発表から二年も経っているから、何ら、不思議はない。新全集の宮坂年譜では、本書簡を根拠としてと思われるが、直前の十一月二十九日或いは三十日に、『有楽座でハウプトマン作・森鷗外訳「僧房夢」を見る』とあるので、新全集では当該公演は検証済みであるようだ。

「ユンケルの演奏會」新全集の宮坂年譜に、この十二月一日に東京音楽学校講師のユンケル演奏会に出かけたとある。彼のウィキによれば、アウグスト・ユンケル(August Junker 一八六八年或いは一八七〇年~昭和一九(一九四四)年東京)はドイツ出身で、アメリカと日本でも活動したヴァイオリニストにして指揮者。東京音楽学校の「お雇い外国人」としての音楽教師であった。『ケルン音楽院でヨーゼフ・ヨアヒムにヴァイオリンを師事』し、一八九〇年に『ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第一ヴァイオリン奏者として入団(後にコンサートマスターに昇格)』、一八九一年から一八九七年まで『渡米し、シカゴ交響楽団などでヴァイオリン奏者を務めた』。明治三二(一八九九)年に『来日し、東京音楽学校教師として』大正元(一九一二)年まで『ヴァイオリンと管弦楽の教育にあたり』、『多くの』著名な『音楽家を育てた』。翌年には『勲二等瑞宝章を受章』している。後に『アーヘン音楽大学教授、アーヘン室内交響楽団指揮者として活動の後』、昭和九(一九三四)年に再来日』して、『以後、武蔵野音楽学校教授となり』、『晩年まで指導に当たった』とある。

「土耳古」トルコ。

「毛氈」「まうせん(もうせん)」。

「ガーデ」デンマークの作曲家ニルス・ウィルヘルム・ゲーゼ(Niels Wilhelm Gade 一八一七年~一八九〇年:音写では「ガーゼ」或いは「ガーデ」ともなる)であろう。北欧諸国の音楽界の近代化に貢献した人物として知られる。

「グリーヒ」ノルウェーの作曲家エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg 一八四三年~一九〇七年)のことではないか? 語末の「g」が無声化して発音されるドイツ語読みの影響では「グリーク」と表記されることがあり、この表記に近似するからである。前のニルス・ゲーゼ(ガーデ)の影響を受けており、グリーグのピアノ作品集「抒情小曲集」の中には「ゲーゼ」(Gade ) という題する小品があるが、これは一八九三年に発表されたもので、作曲の三年前に没したゲーゼへの回想のために書かれた曲である(ウィキの「エドヴァルド・グリーグに拠った)。

「シポーア」ドイツの作曲家ルイ・シュポーア(Louis Spohr 一七八四年~一八五九年)か。ウィキの「ルイ・シュポーアによれば、『シュポーアは著名なヴァイオリニストで』も『あり、顎あての発明者であった。名指揮者として、最初に指揮棒を使い始め、アルファベットの大文字による練習番号を使い始めた最初の作曲家でもある』とある。以上は総て、私の推理に過ぎない。誤りとあれば、御教授あれかし。

「イラシヨナル」irrational。非合理的。

 なお、底本の岩波旧全集では十二月三十日附の小野八重三郎宛の自作漢詩を記した書簡が載るが、これは既に、私は「芥川龍之介漢詩全集 二」で書簡も電子化して注してあるので、ここでは省く。]

芥川龍之介書簡抄11 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(4) 四通

 

大正元(一九一二)年八月十六日・新宿発信・小野八重三郞宛(転載)

 

   旅といふこの一語に心うるほひぬろまんちつくの少年の眼は

 

   旅人よいづくに行くやかぎりなく路はつゞけり大空の下

 

  ――一、八、一六、朝 新宿にて――

                  龍生

 

[やぶちゃん注:短歌は前後を一行空けた(以下の書簡も同じ)。前回分で注した通り、この八月十六日から友人(新全集宮坂年譜によれば、『中塚癸巳男か』とする)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出かけている。十七日には御嶽山に登り、十八日には名古屋に到着、二十日名古屋を立って帰宅している。因みに、前に述べた通り、この間は学年末休暇である。

「小野八重三郞」(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)は既注の東京生まれの、府立三中時代の一つ下の後輩。]

 

 

大正元(一九一二)年八月十六日・消印十七日・出雲國松江市田中原町 井川恭樣(葉書)

 

   酒ずきの豚のやうなる藥賣り醉ひて眠りて汽車に日くれぬ

 

   何思ひ夕日に黃なる窓による首をたれし月琴彈きは(車中)

 

   まひる日の靑草原にかなしきはつりがね草の夢の銀色(沿道)

 

     一、八、一六、木曾に向ふ 芥川生

 

 

大正元(一九一二)年八月十七日・消印長野御嶽山十八日・神田猿樂町永井方 小野八重三郞樣(絵葉書・転載)

 

   薄黃なる石楠花にほふ八月の谷間の霧に山の鳥なく

 

   皮肉なるあげあしとりの借らしき汝(ナ)を忘れえず山に來れども

 

   汝(ナ)は今日も BAR の夕に曹達水の盃あげてものを思ふや

 

    十七日    御嶽山頂にて   龍

 

 

大正元(一九一二)年八月三十日・「卅日夕 芥川龍之介」・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・「親披」

 

もう二週間で學校がはじまると思ふとうんざりする ほんとうにうんざりする 埃で白くなつた敎室の机さ 落書きだらけの寮の硝子窓さ 一つだつていゝ心もちを起させるものはありはしない VULGAR な SLANG や VULGAR な SCANDAL だけでもぞつとするのに STORM のすぎた後にはいつも酒のにほひがするんだらう 正直な所僕はもう二週間と思つたら八木君の ETERNAL な昔讀の調子が耳にうかばずにはゐられなかつた ETERNAL と云ふのは全く善意で音讀から他に及ぼす迷惑なぞは毛頭考へてゐない 唯あの調子は ETERNAL と形容すると一番いゝやうな氣がするからつけた迄だ ETERNAL だらう さうぢやあないか 更に正直な所このうんざりした心もちはみんなに逢ふ事が出來ると云ふたのしみよりも遙に力强い うんざりせずにすむのならば皆と一つ處に集らなくたつていゝ 第一僕は君と寐ころんで話しでもする外にそんなに逢ふのを樂しみにする程の人を知らないの(尤も誰でもさうかもしれないけれど)だから何も二ケ月間の洗練を經た顏を合せて「やあ」とか何とか云ふ必要はないんだ 逢つて見たくなれば訪ねてゆく 實際木曾へゆく前に君の國へ行かうと思つてゐた さうして「こいつは少し汽車へのりすぎるな」と思つて煑切らないでゐるところへ KANIPAN が一高へはいつた勢で木曾へゆく PLAN を立てたので とうとう一緖に蓙[やぶちゃん注:「ござ」。]をきて金剛杖をつくやうな事になつてしまつた 未に出雲の湖と出雲の山とを見る機會を失したのが一寸殘念に思はれる KANIPAN で思ひ出したが 僕の知つてるものがうまく三人共 pass した 工科の1│20は僕の友だちなんだからえらい 三人ともはいつたときはほんとにうれしかつたぜ

KANIPAN は今 abc を學つてるさうだ abcと云ふとゆんけるの細い褐色の頭の毛を思ひ出す ゆんけるを思ひ出すとしいもあ先生の桃色の禿も思出される しいもあ先生の娘は死んだかしら

木曾は大へん蚤の澤山ゐる所だつた 福島へ泊つた晚なんぞは體中がまつ赤にふくれ上つてまんじりとも出來なかつた、これから木曾へゆく旅客は是非蚤よけを持つてゆく必要がある 矢張福島で橫濱商業の生徒と相宿になつた 休格のいゝ立派な靑年だつたが驚くべく寐言を云ふ 夜中にいきなり「冗談云つてら そんなことがあるもんか」とか何とか云はれた時には思はずふき出しちまつたものだ

御嶽の頂上の小屋で福島中學の生徒二人と一緖になつた 二人とも寮歌をよく知つてゐる 僕なんぞよりよく知つてゐたかもしれない、きいて見るとすべての寄宿舍の制度は一高に模倣してやつてるんださうだ「鐡拳制裁も STORM もあります」と云ふ 一高なんてえらいもんだと思つた そんなに影響の範圍が廣いだけでも御互に隨分つゝしまなくちやあならないと思つた 尤も其時は僕は決してつゝしんだ方ぢやあなかつたけれど

「先輩には今どんな人がゐます」つてきいてみたら隣室の金井君がさうださうだ 一寸奇遇のやうな氣がしたが直又奇遇でも何でもないやうな氣がした 二人とも氣壓の少いので半熟な飯を何杯も食つた、一杯も食へないで持つて來た SALTMEAT の罐詰ばかりつつついてゐた僕には金井君は好箇の後輩を得たとしか思はれなかつた かけはしだの寐覺の床だのに低徊してからやつと名古屋へ行つた、僅少な日子を費しただけだから精細な事はわからないが何しろ名古屋はべらぼうな町のやうだ、均一制のない電車は市の一端から他端迄ゆくのに六十枚ばかりの切符を買ふ事を要求する それも一枚一錢の切符なんだから呆れる外はない、僕たちは伊東屋吳服店の木賊色と褐紅色と NUANCE を持つた食堂でけばけばしいなりをした女どもを大勢見た 偕樂亭の草花の鉢をならべた VERANDAH であいすくりいむの匙をとりながら目の下の灯の海をあるく名古屋人を大勢見た さうしてその中のどいつをとつてみても皆いやな奴であつた 僕たちは眞晝間に汗を流して方々の工塲を訪問した 埃くさい應接室で黃色い西日に照りつけられながら某々の會社からの紹介狀や名刺を出して參觀を賴んだ、帳簿や書類の間から黃疸やみのやうな顏を出す書記や給仕や職工に大勢遇つた さうしてそのどいつをとつてみてもみないやな奴ばかりだつた。

至るところで旅烏の身に與へた不快な印象を負つていたるところの工塲で參觀を拒絕されて僕たちは三日目にとうとう[やぶちゃん注:ママ。底本は後半は踊り字「〱」。]中京と誇稱する尊敬すべき名古屋を御免蒙つた、僕は名古屋と甲府ほど嫌な都會を見た事がない 尤も名古屋も蚤のゐないだけは木曾より難有つたけれど、

秩序もなくいろんな事を書いた、もうぢき君にもあへる 寮に又半年をくらして瘦せるべく 君は肥つて東京へ來ることだらうと思ふ 匆々

    卅日夕  新宿にて   芥川生

   井川君 案下

 

[やぶちゃん注:英単語は総て縦書である。内容から判断して行末改行部の一部に字空けを施した。

「もう二週間で學校がはじまると思ふとうんざりする」この翌日九月一日(日曜日)で一高三年に進級しているが、学年末休暇はさらに二週間ほどあったものらしい。主たる憤懣の要因は偏に寮生活の粗暴野蛮性にあることが判る。

「VULGAR」「俗悪な・野卑な・低級な・下品な・卑猥な」の他に、「一般大衆の・庶民染みた・俗間の」の意もある。

「SLANG」ここは寮内で用いられる特別な隠語であろう。

「STORM」ストーム。日本の旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校、また、新制大学などの学生寮などに於いて学生が行う「蛮行」。「バンカラ」の一種のこと。ウィキの「ストーム(学生生活)によれば、『「storm」(嵐)を語源とする』。『「バカ騒ぎ」を基本とし、窓ガラスを叩き割るなどの破壊行為にまで至ることも少なくなかった。歓迎ストーム・返礼ストーム、街に出て気勢を上げる街頭ストーム、巨大な火を焚きそれを囲んで行うファイヤーストーム、夜中に入学の抱負などを言わせ』、『説教のようなものを続ける説教ストームなどもあった。現在でも』、『学生らによって「ストーム」と称する行事が行われる学校がある。無理やり饗宴に他者を巻き込んでいくストームという行事には、「俺たちはこんなに楽しいんだから、お前たちも一緒に楽しもう」といった類の連帯意識が底流にある』。大抵の『旧制高校ではストームが行われていた。公式の行事ではないため、また、形が多岐にわたるため、起源の特定は難しい』が、十九『世紀終わりから』二十『世紀初頭頃までには、よく知られている形のストームはすでに存在していたとされ、また』、一八八〇『年代前半頃には、寮』二『階の住人が床を踏み鳴らし』、一『階の住人は天井をほうきで突くといった行為がよく行われていたという』。『旧制高校の学生生活を描いた作品には、夜、学生寮で睡眠中に叩き起こされ』、『ストームが始まるという場面が描かれていることも少なくない。説教ストームを除き、デカンショ節や寮歌などの歌と踊りが伴うやり方が多く見られる』。『真夜中に突如、鍋や太鼓を打ち鳴らし』、『寮歌やデカンショ節などを蛮声で歌いながら、数人から数十人が互いに肩を組んだりして寮の廊下を踏み鳴らし、棒で壁や床を叩き、各部屋で寝ている者を叩き起して回った。ストームの被害にあった者には、布団越しに叩かれた者あり(布団蒸し)、服を剥ぎ取られた者あり、酒を飲まされた者あったと言う。それをはやし立てる者、迎え撃つ者は水を浴びせる場合もある』。『学校当局や寮の規則によって、時間帯や、試験期間中、対抗戦前などの期間によってストームを禁止していたり、あるいはストームそのものを禁止する場合もあった。しかしそれらは守られないことが多かったという』とある(以下、新制学校のそれが続くが略す)。

「八木君」一高時代の同級生八木実道(理三)。生没年未詳。愛知県生まれ。後、東京帝大哲学科を卒業し、宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校生徒主事兼教授となった(以上は新全集の関口安義氏の「人名解説索引」を参照した)。

「ETERNAL」ここで龍之介は、哲学的な永遠性・不滅性ではなく、口語英語の意のネガティヴな「果てしなくだらだらと続く、絶え間なき単調さ」を指している。

「KANIPAN」既に推定した通り、中塚癸巳男(なかつかきしお)と考える。綽名の意味は不明。ただ「塚」の「」、「癸」の字が「發」(つ)に似ていること、「巳」の字が崩すと「ん」に見えることなどが私には想起される。

「1│20」縦書。二十分の一。

「ゆんける」筑摩全集類聚版脚注に、『一高のドイツ語の講師。ドイツ人』とある。上村直己氏の論文「一高及び四高教師エミール・ユンケル(日本独学史学会発行『日独文化交流史研究』二〇〇五年号所収・PDFでダウン・ロード可能)の摘録によれば、『日本では独語教師は亡くなると、たとえ生前の功績が大きくても、そのまま忘れられるのが普通である。そして外国人教師の場合はよりその傾向が一層強い。しかし、ドイツ語教育に占める外国人教師の役割は明治・大正期においては現在より大きかったことを考えれば、彼らの生涯と業績はもっとしられよいはずである。今回取り上げるエルンスト・エミール・ユンケル(Ernst Emil Junker,1864-1927)はそうした外国人教師の中でも独語教育の面で特に功績の大きかった一人である。彼は一八八五年(明治十八)に来日以来』、『一九二七年(昭和二)に東京で亡くなるまで約四十年間日本に滞在し、その間第四高等学校、第一高等学校、独逸学協会学校等でドイツ語教師として熱心にその職に当たった人であり、また当時の有力な独語雑誌、即ち東京外語系並びに独協系の『独逸語学雑誌』や東大独文系の『独逸語』などに度々寄稿するなど』、『広く日本の独語教育学界のために献身的に尽力した人であった。さらにドイツ東アジア協会』(通称 OAG)『の維持発展のために尽くした功績も大きい。だが』、『これまでユンケルについて断片的に語られるだけで纏まった研究は全くされていない。以下、新資料も取り入れながら』、『ユンケルの生涯と独語教師としての活動を中心に述べることにしたい』とある人物である。

「しいもあ先生」筑摩全集類聚版脚注に、『一高の英語の講師。イギリス人』とある。ジョン・ニコルソン・セイモア(John Nicholson Seymour)。イギリス人のお雇い英語講師。「国立公文書館DIGITALアーカイブ」のこちらの文書画像で、「第一髙等學校教師」として、明治四〇(一九〇七)年九月十一日から明治四十二年七月十日までの分の「雇入」簿冊が確認出来る。

「福島」長野県木曽郡木曽町(きそまち)福島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「福島中學」正確な記載なら現在の福島県立安積(あさか)高等学校。

「隣室の金井君」寮の隣室にいる同級生で福島中学卒の可能性を考えると、新全集の「人名解説索引」を見るに、龍之介の一高の同級生で金井階造なる人物がいる。彼は長野県生まれである。

「氣壓の少いので」御嶽山は標高三千六十七メートルある。私も一度登ったが、登りの最後には少し往生した。

「SALTMEAT」塩漬け肉。

「かけはし」「木曾の棧(かけはし)」。断崖の難路としても、また、歌枕としても知られる。長野県木曽郡上松町(あげまつまち)の旧国道十九号(現上松町道)の下にある「桟道(さんどう)」を指す。

「寐覺の床」同じ長野県木曽郡上松町にある渓谷美で知られる古くからの景勝地。木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然地形。上の地図の南に入るようにセットしてある。

「日子」「につし(にっし)」。日数に同じい。

「伊東屋吳服店」百貨店「松坂屋」の前身。正確には当時の表記は「いとう吳服店」。創業は慶長一六(一六一一)年。織田家小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道(すけみち)が名古屋本町で呉服小間物商「いとう呉服店」を開いたのに始まる。龍之介らが訪れる二年前の明治四三(一九一〇)年二月一日 に、伊藤次郎左衞門十五代に当たる伊藤祐民(すけたみ)が「株式会社いとう呉服店」を設立して初代社長に就任すると同時に、名古屋栄町に百貨店を開業している。

「木賊色」「とくさいろ」。くすんだ青みを帯びた緑色。

「NUANCE」ニュアンス。「何とも言えない微妙な変奇を持った」という謂いであろう。

「偕樂亭」西洋料理店。梅沢角造が名古屋錦で明治五(一八七五)年に開業した。

「VERANDAH」ヴェランダ。ベランダ。

「僕たちは眞晝間に汗を流して方々の工塲を訪問した」二人が物見遊山ばかりでなく、しっかりエリート候補生として社会見学をしている点を見逃してはいけない。]

芥川龍之介書簡抄10 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(3) 藤岡藏六宛(明治天皇崩御直後の一通)

 

大正元(一九一二)年八月二日・新宿発信・藤岡藏六宛

 

御不例中に手紙をかいて君の所へ出すばかりにして置いたが號外の連發される騷ぎについわすれてしまつたので書棚の上へのせたまゝ封筒の上に埃がたまるやうになつたその中に君のところから桃色の狀袋にはいつた君の手紙が來たので前の手紙を裂いて新に之をかく

御不例中に夜二重橋へ遙拜しに行つた姊が小學生が三人顏を土につけて二十分も三十分もおじぎをしてゐたと淚ぐんで話したときには僕でも動かされたが其内に御命に代り奉ると云つて二重橋の傍で劇藥をのんだ學生が出たら急にいやな氣になつてしまつた、電車へのつて遙拜にゆくつもりでゐたのがそんな奴ばかりの所へゆく位なら家にゐて御平癒を祈つた方が遙にいゝと考へるやうになつたさうすると直[やぶちゃん注:「ぢき」。]崩御の號外が出た、あけがたの暗い中に來た黑枠の號外を手にとつた時矢遙拜に行つた方がよかつたとしみじみさう思つた

昨日(一日)は學校で御哀悼の式があつた在京の生徒が可成あつまつた講堂であの緋と金との校旗の下に菊池さんが哀悼の辭よんだそのあとで可成長い菊池さんの話しがあつたさうしてそれが非常に暑かつた其前寮の委員が菊池さんの所へ寮生の御見舞狀を捧呈する爲に行つた所が夜の十一時すぎになつても歸つて來ない仕方がなく歸らうとすると路で先生にあつた所が先生は醉顏を風にふかせながら「陛下の御病氣はまことに痛心にたへない」とのべたそれがあの廿八日の夜だときいてゐるまた委員が谷山さんの所へ行つた時舍監は「こんな騷ぎなのに堀さんは淺草へ行つて遊んでるんだから仕方がない」と云ひ云ひ自分は酒をのんでやめなかつたときいたそんな scandal を聞いてゐるだけにあんな哀悼の辭より何の學問もない僕の母や伯母の方がはるかに尊いと云ふ反感が起つた實際崩御の號外が出た時には僕のうちのものは皆泣いたんだあんな調子ですべてをやつて行くんだから學校だつて駄目なんだと思ふ

もし旅が娛樂に關する催しの中に算入されないとしたならば僕は御停止がやんだら旅に出ようかとも思つてゐるまだ何ともきまらない時々僕のあたまの中には猪苗代の湖の靑い平面がきらりとうつる事があるあの近所へでも行かうかと思ふ

東京は暑いうんざりするほど暑いさうして場末だから僕の方は蚊が澤山くる灯をとりに黃金蟲やうんかや羽蟻のやうなやつが澤山はいつてくる夏はほんとうにいやだ

ヒヤワタは一寸面白い。プリミチブなアメリカインヂアンの獸皮に描く畫のやうな圓葉柳のかげにふく蘆笛の聲のやうな感じがする、僕はPeace-Pipe. Hiwatha and Mudjekeewis. The Son of Eveing Star. Hiawatha’s Departure がいゝと思ふあの中に出てくる幽靈はあんまり感心しない何と云つても Longfellow では Evangeline がすぐれてゐるのだらうと思ふ

鈴木は大連から手紙をくれた支那料理の饗應をうけて支那の芝居をみにゆくのださうだうまくやつてるなと思ふ灰色の平原と靑い海の鋼鐡のやうな面とが眼にうかぶ紅い灯の光になげく鳳管や月琴の聲が耳にひゞく此頃南淸へ行けと人に誘はれたが金がないので斷つた滿洲は黍が疎にはえた中で黑い豚が鼻をならしてゐるやうな氣がするけれど楊子江の柳に光る日の光は是非一度あびたいと思ふ

Mysterious な話しを何でもいゝから書いてくれ給へ、文に短きなんて謙遜するのはよし給ヘ

如例靜平な生活をしてゐる時に圖書館へ行つて怪異と云ふ標題の目錄をさがしてくる此間稻生物怪錄をよんだら一寸面白かつた其外比叡山天狗の沙汰だの本朝妖魅考だの甚現代に緣の遠いものをよんでゐる何でも天狗はよく「くそとび」と云ふ鳶の形をして現はれるさうだ「くそとび」は奇拔だと思ふ

健康を新る

                   龍

 

[やぶちゃん注:明治天皇は持病の糖尿病が悪化、それに尿毒症を併発し(直接の死因は心臓麻痺とされる)、明治四五(一九一二)年七月三十日午前零時四十三分に崩御した。本書簡は天皇崩御への彼の感懐と人々(一般人もさることながら、誰もが酒をくらっている一高教員への痛烈な非難は鋭い)それへのさまざまな批判的視線が知られて、非常に興味深い。それはしかし、本邦の総帥の死を悼みながらも、ある程度まで冷静であり、また、夏目漱石が二年後『朝日新聞』に大正三(一九一四)年四月二十日から連載した、かの「こゝろ」の「先生」のような一つの時代が終わる新たな区切りといった認識がある訳では全くなく、かと言って、学生の「私」のクールな捉え方とも、また、異なる点も見逃してはならない(リンク先は私の詳細注附きの新聞初出のサイト版三分割(前者が後の単行本の「先生と遺書」パート、後者が「兩親と私」パート))。

「藤岡藏六」既出既注

「號外」岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の「御不例中に」への注に、『七月二〇日、宮内庁は明治天皇が重態であることを発表。以後、号外が飛び交い、皇居前に天皇の無事を祈願する人が集まった』とある。

「姊」既に何度も述べた実姉ヒサ。

「菊池さん」一高の教授であった菊池寿一(ひさと 元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)。岩手県出身。明治二六(一八九三)年に東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。明治二九(一八九六)年、陸軍教授となり、二年後の明治三十一年に第一高等学校教授に転じた。後の大正八(一九一九)年に第一高等学校校長に就任し、大正十三年に退官した。退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、昭和六(一九三一)年には第一高等学校名誉教授の称号を受けている。

「谷山」筑摩全集類聚版脚注によれば、『谷山孫七郎。一高の教授で舎監』とある。

「堀さん」堀鉞之丞(えつのじょう 生没年未詳)は、愛知英語学校出身の理学士で、儒学者堀杏庵の子孫。明治二四(一八九一)年に衛生試験所技師。その後か、第一高等学校教授となっている。一九〇八年から一九一四年まで尾張徳川家の相談役となり、一九一四年九月からは同家の家令を務め、一九一七年には明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた人物である。尾張徳川家整理については、彼のウィキに詳しいが、にも拘らず、生没年が未詳というのはちょっと解せないが。

「娛樂に關する催し」「御停止」前記の同書の石割氏の注に、『天皇の病状悪化により、七月三〇日、歌舞音曲などの娯楽の興行を三十一日から八月四日まで控えるべく通告され、その後も自粛ムードは続いた』とある。なお、夏目漱石がこれに大いに違和感を覚えたことはよく知られている。彼の同年七月二十日土曜日の日記に以下のようにある(所持する岩波旧「漱石全集」より)。

   *

晩天子重患の號外を手にす。尿毒症の由にて昏睡狀態の旨報ぜらるる。川開きの催し差留られたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし。細民是が爲に困るもの多からん。當局者の沒常識驚ろくべし。演劇其他の興行もの停止とか停止せぬとかにて騷ぐ有樣也。天子の病は萬臣の同情に價す。然れども萬民の營業直接天子の病氣に害を與へざる限りは進行して然るべし。當局之に對して干涉がましき事をなすべきにあらず。もし夫臣民中心[やぶちゃん注:ママ。「夫(それ)臣民衷心」。]より遠慮の意あらば營業を勝手に停止するも隨意たるは論を待たず。然らずして當局の權を恐れ、野次馬の高聲を恐れて、當然の營業を休むとせば表向は如何にも皇室に對して禮篤く情深きに似たれども其實は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に釀すと一般也。(突飛なる騷ぎ方ならぬ以上は平然として臣民も之を爲すべし、當局も平然として之を捨置くべし)新聞紙を見れば彼ら異口同音に曰く都下闃寂火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聽す。天子の德を頌する所以にあらず。却つて其德を傷くる仕業也。

   *

「闃寂」は「げきせき・げきじやく」でひっそりと静まりかえって寂しいさまを謂う。

「旅に出ようかとも思つてゐる」実際に、猪苗代ではないが、この八月十六日から友人(新全集宮坂年譜によれば、『中塚癸巳男か』とする)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出かけている。十七日には御嶽山に登り、十八日には名古屋に到着、二十日名古屋を立って帰宅している。因みに、前に述べた通り、この間は学年末休暇である。

「ヒヤワタ」アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)の代表作の一つである全十二章からなる長編叙事詩「ハイアワサの歌」(The Song of Hiawatha)。ハイアワサは十六世紀のアメリカ・インディアンのモホーク族の英雄である男性戦士・部族間調停者の名。モホーク族・カユーガ族・オナイダ族・オノンダーガ族・セネカ族の五部族を纏め上げて「イロコイ連邦」を成立させた。ウィキの「ハイアワサの歌」によれば、『インディアンの英雄を謳った英雄譚で』、『主人公の「ハイアワサ」は、イロコイ連邦をまとめ上げた、実在のモホーク族インディアンの戦士、酋長である。しかし、実際のストーリーはハイアワサの部族とは関係のない、オジブワ族のトリックスターである「ナナボーゾ」の神話をベースにしている。これは』、十九『世紀中頃にこの詩を編纂したヘンリー・スクールクラフトによる混同がもととなっている。つまり、ロングフェローは「ナナボーゾの歌」のつもりであったが、いつの間にか「ハイアワサの歌」にすり替わってしまい、現在も誤解されたままになっているのである』。『北欧神話の』「カレワラ」と『イメージが共通しているが、これは』、『インディアン神話も北欧神話も』、『そのモチーフを「水の中から大地が生まれ世界が形成された」と伝えている』点に由来する。『結局、何の関係もないハイアワサは、この詩による誤解によってステレオタイプなインディアンのイメージを植え付けられることとなった』。『イロコイ連邦国のひとつ、タスカローラ族のエリアス・ジョンソン酋長はこの「ハイアワサの歌」が植え付けるインディアンへの「悪いイメージ」についてこう抗議している』。『「ありとあらゆるインディアンの肖像が、手に頭皮剥ぎのナイフとトマホークを持った姿で描かれて、まるで野生の蛮人の象徴扱いにされている。それはキリスト教徒たちの国が、彼らの仕事、正義の象徴として、常に大砲や弾丸、剣、およびピストルを伴っているのと同じような具合で行き渡らされているように思える」』とある。フル・テクストが英文「Wikisource」のこちらで読める。芥川龍之介が勧めている「Peace-Pipe」は第一の歌I. The Peace-Pipe(「平和の煙管(パイプ)」)、「Hiwatha and Mudjekeewis」はIV. Hiawatha and Mudjekeewis(「ハイアワサとマジェキーイス」)、「The Son of Eveing Star」はXII. The Son of the Evening Star(「宵の明星の息子」)、「Hiawatha’s Departure」は終曲のXXII. Hiawatha's Departure(「ハイアワサの旅立ち」)である。

「圓葉柳」落葉高木キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属マルバヤナギ Salix chaenomeloides 。本邦では本州東北以南から九州に自生し、他に朝鮮半島・中国中部以南の湿地に分布する(従って、細かいことを言えば、アメリカには植生しないから、アメリカ・インディアンが本種を描くことはない。但し、同属のカナダ・アメリカ原産のアメリカマルバヤナギ Salix amygdaloides がアメリカ北部に自生する)。雌雄異株。一本立ちで、高さは十~二十メートル。花期は四~五月頃と、日本に自生するヤナギ属の中では最も花期が遅い。葉身は長さ五~十五センチメートル、幅二~六センチメートルの楕円形を成し、葉の先端は尖り、基部は広い楔形で、葉の縁には先端が腺になっている細かい鋸歯が全縁に分布する。新葉は赤味を帯びる。ヤナギ類は細長い葉の種が多いため、標準和名をかく呼ぶ。また、新芽が赤いことからアカメヤナギの別名もある。サイト「葉と枝による樹木検索図鑑」の「マルバヤナギサイコクキツネヤナギバッコヤナギヤマヤナギ」のページがよい。

「あの中に出てくる幽靈はあんまり感心しない」「ハイアワサの歌」(The Song of Hiawatha)のXIX. The Ghostsであろう。龍之介が「あんまり感心しない」と言っているのは、それが現実感を持った恐怖を惹起させないからであろう。

「Evangeline」「エヴァンジェリン」(Evangeline)はロングフェローが一八四七年に発表した長編詩。彼の代表作の一つ。岩波文庫の解説によれば、『十八世紀半ばの北米。英仏の植民地争奪戦により引き裂かれた恋人たちが、互いを探し求め、すれ違う悲しい運命を描いた物語詩』とし、『美しくてやさしい娘エヴァンジェリンは村の若者と婚約するが、軍の移住命令でふたりはひきさかれてしまう。恋人の行方をたずねて放浪した末にめぐり会ったとき、男は死の床にあった――この悲しい物語の中に歌われた熱烈な愛、貞節、豊かな情趣と敬虔な信仰とは、人の心を清め、人間の尊さに対する人の信念を高めずにはいない』とある。ロングフェローの友人でアメリカの小説家ナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne 一八〇四年~一八六四年)が作品のアイディアを提供した。日本語では「ホーソン」と表記されることもある。The Project Gutenberg」のこちらで全詩の電子データが複数用意されてある

「鈴木」不詳。諸本注せず。

「鳳管」「ほうくわん(ほうかん)」。吹奏楽器の笙(しょう) の異称。

「月琴」「北原白秋 邪宗門 正規表現版 狂人の音樂」の私の「月琴(げつきん)」の注を参照されたい。

「南淸」「なんしん」。清国の南部の意。

「Mysterious な話しを何でもいゝから書いてくれ給へ」先の「ハイアワサの歌」の幽霊への批判と言い、直後の「圖書館へ行つて怪異と云ふ標題の目錄をさがしてくる」と言っていること、以下の濫読書名からも、例の芥川龍之介の怪談蒐集癖がまさに病膏肓に入る域に入っていることが判る。

「稻生物怪錄」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく:現代仮名遣)は江戸中期の寛延二(一七四九)年に、備後三次(現在の広島県三次市)に実在した武士(後に安芸国広島藩藩士)稲生正令(まさよし 享保二〇(一七三五)年~享和三(一八〇三)年)、通称「稲生武太夫(幼名は平太郎)が十六歳の折りに実際に体験したとする、波状的に彼を襲う妖怪に纏わる怪異を取り纏めた物語及び絵巻。私は古くからのフリークで、絵巻・図鑑・諸評論を含め、十数冊を所持する。実録怪談としては、展開の連続性が一ヶ月余り全く途絶えずに続く点を含め(小説や芝居のような大きなあざとい場面転換やインターミッションが殆んどない)、非常なオリジナリティを持ち、他の凡百の怪談集の追従を許さぬ。ウィキの本人「稲生正令」から引いておくと、『稲生平太郎』十六『歳の』『寛延』二(一七四九)年五月『末の夕方、隣家の三ッ井権八とともに、比熊山で肝試しの百物語をしたことがきっかけで』、七月一日から三十日間の『うちに、彼らの身の回りで怪異現象が続出した』彼は、自身でこの時の体験を「三次實錄物語」という書として記され、『原本は広島市在住の稲生武太夫の子孫に』現在も『伝えられてきている。妖怪の親玉、山本』(さんもと:異界の親玉であるから、読み方が通常の人名の読み方からわざとズラされてあるのである)『太郎左衛門から貰った木槌は享和』二(一八〇二)年に『平太郎の』自身の『手により』、『國前寺に納められ、現存している』。『また、柏正甫』(かつらせいほ)『という武太夫の同役の武士が、夜を徹して本人から詳しい話を聞き出し』、天明三(一七八三)年に「稻生物怪錄」として『書き留めた』ところ、これを神変超常現象フリークでもあった国学者『平田篤胤が』寛政一一(一七九九)年に『筆写して秘蔵し』、文化八(一八一一)年に『門下生に校訂させた』が、この『校訂本が元になって、読物や絵巻となり、明治時代以降、泉鏡花や巖谷小波の小説、折口信夫の俄狂言の題材とな』り、現在もそのブームは続いていると言える。

「比叡山天狗の沙汰」芥川龍之介の怪奇蒐集ノートである、私のサイトの最旧下層に属する電子化である「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」の、冒頭「魔魅及天狗」の「22」の「此叡山天狗の沙汰」を参照されたい(長いので引かない)。

「本朝妖魅考」筑摩全集類聚版脚注は『未詳』、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」はスルーして注していないが、これは平田篤胤の「古今妖魅考」(全七巻・文政四(一八二一)年刊)と、林羅山の書いた「本朝神社考」(中世以来、仏教者のために王道が衰えて神道が廃れたことを憤って筆を執ったもので、神仏混淆を斥け、国家を上古の淳直の世に立ち返らせんことを闡明し、口碑縁起を訪ね歩いて、これを記紀・「延喜式」・「風土記」その他を照覧して本邦の主な神社の伝記その他を記したもの)を混同した誤記である。但し、この誤りは同情出来るレベルで、実は「古今妖魅考」は、神道家としても知られた篤胤が「本朝神社考」を親しく読み、その中の天狗に関する考察に共鳴して執筆したものだからである。さらに、同前の「椒圖志異」を見ると、先の「22」の前の「21」の天狗話(「天狗」の文字はないが)が、まさに羅山「本朝神社考」からの引用になっているのも考慮してやってよいだろう。

『天狗はよく「くそとび」と云ふ鳶の形をして現はれるさうだ「くそとび」は奇拔だと思ふ』同前の「椒圖志異」の「魔魅及天狗」の「24」が親和性のある話である。

   *

下總國香取郡萬歲村の若者ども五人連立ちて、後の山へ木こりにゆきけるが、少し傍なる山の端に、常よりは汚なげに見る鳶一つ羽をやすめ居たり、それをみて中なる一人が恐しげなる山伏の立居たると云ふ 然るに四人の者の目には唯鳶とのみ見ゆれば云ひ諍ふに 彼者正しく山伏なるものをと云てきゝ入れず、山より歸りて忽熱發して死にける、殘の四人は何事もなかりき 文化頃の事なり、

   *

天狗の眷族である鴉鳶(からすとんび)で知られる天狗と「糞鵄(くそとび)」の連関性は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その1)』及び『(その2)』が参考になる。私の「怪奇談集」でも枚挙に暇がないほどに出る。この如何にも不名誉な名の鳥は、現行では、タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus に取り敢えず同定し得る。「糞鳶」という蔑称は、思うに、恐らくは「鷹狩り」に使えない鷲鷹類であったためかと思われる。但し、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus も含んでいるか、或いは「くそとび」はノスリでなく、チョウゲンボウである可能性も充分にある。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)」を見られたい。]

2021/02/06

怪談登志男 十五、信田の白狐

 

   十五、信田の白狐(しのだのびやくこ)

Sinodanobyakko

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 四(よつ)の海(うみ)、浪(なみ)靜(しつか)に、風、枝をならさねば、「くず」の葉の、うらみなき世にて、民も淳直(すなを)に、各、身過の餘計(よけい)あれば、いとまある日、

「都の名所舊跡を尋ねん。」

と、東武神田を立出しは、高松何某(なにがし)、日ごろ、むつまじく語る友、三人(みたり)、四人(よたり)、連立(つれだち)、京都三條大橋、東詰(つめ)の旅宿にありて、洛中は、いふにおよばす、嵯峨・大原・あたご・くらま・宇治・八幡・醍醐・山崎の邊(へん)まで、日每(こと)に見𢌞り、夫(それ)より、大坂に至り、有馬に遊び、河内に行て、畿内近國(きないきんごく)の靈社・寺院・舊跡・古戰場など尋し間[やぶちゃん注:「あひだ」。]、樣々の物語、色々の事種(ぐさ)ありしを家產(いへづと)にして、歸り來り、近きあたりの町田源兵衞といふ人に、つぶさにはなせし百千々(もゝちゞ)の中に、きはめて怪しき事を、まのあたり見たりし話は、

「和泉國『信田の森』の稻荷の宮居、尋ねん。」

と、かしこに至りし折から、「つぼの石碑(いしふみ)」建(たて)る國の、「赤坊(あかんぼう)」と仇名(あだな)たちし猛者(もさ)共、四、五人、落合(おちあい)、ともに「信田の森」を問へば、何の文左衞門とかやいふ豪富(がうふ)の家の後園(かうゑん)に、垣(かき)、結(ゆひ)廻し、一がまへの木立(こだち)、

「これなん、名高き『信田の森』よ。」

と、おしゆるにまかせ、

「其家にあなひして、宮居を拜せん。」

といへば、今は、屋敷のかまへの内にて、猥(みだ)りに人の入る事をゆるさゞれば、再三、乞(こう)といへども、

「垣の外(そと)より、おがまれよ。」

と、あいそうもなく、門、さして、入ぬ。

 ちからおよばで、垣のそともに徘徊して、内の樣子を見るに、宮居の結構・木立の物舊(ふり)たる、神さびたるさま、殊勝(しゆしやう)にて、いとゞ、内へ入、近く拜し奉り度[やぶちゃん注:「たく」。]おぼへたる所に、年の頃、廿斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]の、いとうつくしき女の、はゝきもちて、落葉、かき集(あつめ)、朝淸(あさきよめ)する風情、姿・形、凡(たゞ)ならず、下女・はしたものとも見えずして、しかも、かゝる業(わざ)する、いと心得がたく、しばし見やりて居たるが、高松氏、垣の側に立寄、

「我々は東路(あづまじ)の者にて候が、はるばる來りて、舊社拜せん事を願へど、固くいなみて、ゆるし給はず。何とぞ、此門あけて、神拜(しんはい)をとげさせたびてんや。」

と、いへば、女、うちゑみて、

「やさしき旅人(りよじん)にこそあれ。此家の者はいかゞ心得て、かたがたの望には、まかせざりけん、いぶかしき事なれ。いざ、こなたへ。」

と、戶ざしたる門をひらきて、階前(かいせん)を少しヘだてしこなたにて拜させければ、各、禮謝を述(のべ)て、立出れば、元のごとく、門、さしかため、『宮居のかたへゆくよ』と見へしが、かき消(けし)て、うせぬ。

 人々、

「こは、ふしぎや。」

と、むねもとゞろく計[やぶちゃん注:「ばかり」。]なるを、同道の猛者どもは、棒、取直(とりなを)し、斜にかまへ、

「今の女郞(ぢよらう)が美目(みめ)も、こゝろも、あんまりよすぎたと思ふたが、扨こそ、扨こそ、よめ申た[やぶちゃん注:「まうした」。]。あれは、かの『戀しくば尋てござれ』と、うたよみをした、『信田の森』の『こんくわい殿』さ、をや、おつかない。」

と、まつ毛(げ)をぬらし、

「皆さま、おさらば、おさらば。御ゑんあらば、又、京都にて出あい申すべい。京は三條のはし詰(づめ)、丸屋善五郞どのが、おらが國の定宿(ぢやうしゆく)、あれで、四、五日、休息して、下ります。」

と、無骨(ぶこつ)がらも、關東ものは、やさしき所のあるものなり。

 高松氏も、

「げに、げに。これは、猛者どもが、いふ通り、當社の使者の『白狐』なりけん。あな、たふとや。」

と、おそれみ、おそれみ、かしはで、うちならし、再拜して、かへりしとぞ。

 此一件(けん)は、高松氏が直談を、町田源兵衞といふおのこ、一卷に書つゞりし。其大略を玆にしるしぬ。

[やぶちゃん注:最後の「一件(けん)」の読みは判読の自信がない。右頁三行目九字目。下は「无」で「ん」の崩しと見えるので、かく読んだが、上の崩し字が判らぬ。

「信田の白狐」狐と人との異類婚姻伝承として「恨み葛の葉」「信太(信田)妻(しのだづま)」などの呼称で知られる伝承。「葛の葉」は狐の化けた女の名で、後代の人形浄瑠璃及び歌舞伎の「蘆屋道滿大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」、通称「葛の葉」で知られる。稲荷大明神(宇迦之御魂(うかのみたま))第一の神使とされ、かの最強のゴースト・バスター安倍晴明の母ともされる。私の「宿直草卷四 第十五 狐、人の妻に通ふ事」の「今、思ひいづみの信田(しのだ)の契(ちぎり)」の注でウィキの「葛の葉」を引用して説明してあるので、知らない方はそちらを参照されたい。ロケーションとなる和泉国和泉郡の「信太の森」は現在の大阪府和泉市葛の葉町にある信太森葛葉(しのだのもりくずのは)稲荷神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近となり、話に見え隠れする歌は、

 戀しくば尋ね來て見よ和泉なる

      信太の森のうらみ葛の葉

である。

「四(よつ)の海(うみ)」元は「四方(よも)の海」であるが、通常は転じて「四方の海の内の」意から「世の中・天下」の意で専ら用いられる。

「身過」「みすぎ」。暮らしを立てていくこと、或いは、その手だて。生業(なりわい)。

「餘計(よけい)」ゆとり。

「京都三條大橋、東詰(つめ)」ここ

「事種(ぐさ)」「ことぐさ」。「言草」とも書く。話の種。

「家產(いへづと)」「家苞」。土産(みやげ)。

『「つぼの石碑(いしふみ)」建(たて)る國』当時の陸奥国。或いはそれがある仙台城に藩庁を置いた仙台藩。「つぼの石碑」は多賀城跡(現在の宮城県多賀城市市川字城前周辺)にある、この当時は征夷大将軍坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)が巨石の表面に矢の矢尻で文字を書いたと伝承されていた碑を指す。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑』の注を見られたい。

『「赤坊(あかんぼう)」と仇名(あだな)たちし猛者(もさ)』不詳。このような呼ばれ方をされた若年の無頼集団がいた(謂いからすれば、現在の多賀城市附近か仙台藩内でということにあろうか。或いは、京都でそうした半グレの青二才連中を呼んだものか)のかどうかは、私は知らない。但し、小学館「日本国語大辞典」にはそうした意味の記載はない。この謂いは附には落ちる。御存じの方がおられれば、是非、御教授あられたい。

「猛者(もさ)共、四、五人」底本は「共」が『廿』となっている。初めて読んだ時、「幾ら何でも、二十四、五人? これって、連れ多過ぎ!」と口に出して驚いた。原本を見て納得した。にしても、「徳川文芸類聚」第四(怪談小説)の判読者或いは校訂者、レベル、低過ぎだろ!!!

「落合(おちあい)」たまたま道連れになり。

「物舊(ふり)たる」「ものふりたる」で一語。何とも言えず、風情のある感じに古びた様子であること。

「はゝき」「箒」。掃(は)き箒(ぼうき)。

「朝淸(あさきよめ)」一単語。「朝淨め」とも書き、平安中期に既に「あさぎよめ」と濁音でも書く。朝の掃除。

「はしたもの」「端者」。賤しい身分の召使い。

「こんくわい」「吼噦」で狐の鳴き声のオノマトペイアの一つ。「こうこう」「こんこん」に等しい。転じて狐のことも指すようになった。狂言演目(「釣狐(つりぎつね)」の鷺 (さぎ) 流での題名)や江戸時代の地唄に「狐會(こんくわい)」がある。

「まつ毛(げ)をぬらし」睫毛に唾する。夜道を行く際に睫毛を唾で濡らせば、狐狸に化かされることから避けられるという伝承は古くからある。これは狐に化かされる際には、その人はその妖狐に眉毛の数を読まれてしまうからであると信ぜられていたためで、真偽の疑わしいものを「眉唾物」と呼ぶのもこれに由来する。

「和漢三才圖會」(江戸中期の大坂の医師寺島(てらじま)良安によって、明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた類書(百科事典)。全百五巻八十一冊。約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)完成)の巻第十二の「唾(つばき)」の最後にも、『相傳夜行以唾濡睫則避狐狸災亦所以乎』(相ひ傳ふ、「夜行、唾を以つて、睫(まつけ)を濡せば、則ち、狐狸の災ひを避きといふも、亦、所以(ゆゑ)有るか」と記している(所持する原本より起こした)。

「此一件(けん)は、高松氏が直談を、町田源兵衞といふおのこ、一卷に書つゞりし。其大略を玆にしるしぬ」本書では珍しく、採録経緯を記して、実話譚と主張しているが、だったら高松の名を示さないなど、却って不全で成功しているとは言えない。]

只野真葛 むかしばなし (6)

 

 母樣は、餘り餘りなるまで、無欲にて、御身のまはり、少しにても、とりかざること、被ㇾ遊(あそばされ)ざりし。

 御病身なることは、月に十四、五日は、おしづまりて有し。第一、頭痛持(づつうもち)にて、それがおこれば、二、三日、絕食にて平臥(へいが)なり。

 常に、食、ほそく、紅猪口(べにちよく)ぐらい[やぶちゃん注:ママ。諸本同じ。]の碗にて、一、二膳ほど、めし上りし。其上、つゆ氣(け)の物、御きらい、干ざかな、少々上り、煮まめ、殊に御好(おすき)にて、かたく煮たる豆、たえず、こしらへて、上りし。

 髮なども、櫛卷に被ㇾ遊しかた、おほかりし。

 歌はうちまかせて御よみ被ㇾ遊ば、御上手なるべし。三島などは、ほめたりしが、しゐて[やぶちゃん注:ママ。「日本庶民生活史料集成」は「しひて」。]も、よませられざりし。

[やぶちゃん注:「餘り餘りなるまで」度を越していると表現するほどにまで。

「紅猪口」内側に紅を塗りつけた猪口(ちょく)形の容器。指先で溶いて唇に塗る。べにちょこ。画像を見るに、盃を少し大きくしたほどの浅い丸小皿である。

「三島」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家としても知られた三島自寛(享保一二(一七二七)年~文化九(一八一二)年)。本名は景雄。賀茂真淵門下の荷田在満(かだのありまろ)らと交遊し、安永九 (一七八〇) 年の歌合「角田川扇合(すみだがわおうぎあわせ)」を主催している。かれの一首を掲げておく。

   *

 鶯の初音の小松引く袖に

    あるじ顏にも匂ふ梅が香

   *]

 

 桑原ばゞ樣は、縫物、手きゝ。髮、上手。書もよく被ㇾ成、物語類(ものがたりのたぐひ)、好(このむ)。手跡は、眞を草に書(かき)かふること迄、御ぞんじにて、をぢ樣幼年の時分、見事に書を被ㇾ成しは、もはら、ばゞ樣のせわなりし。物がたりには、よほど委しかりしと見え、先年、「うつぼ」のとしだて、御考被ㇾ遊しが、春海さへ感ぜしといふこと、有し。心のちから、つよく、かんしやく持(もち)にて、きらい[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のこと、おほし。わらひくるふこと、大(だいの)御きらい、うわうわと、おもしろそふなことは、殘らず、きらいなり。その内に、あだな付(つく)ることは、御きらいなりし故、そのかみは、『わるきことか』とのみ、おもゑて[やぶちゃん注:ママ。]有しが、後物がたりをみれば、もはら、あだなつけること、なりき。佛學、少々、被ㇾ成て、御さとり被ㇾ遊しより、

「世の中の人は、我に、あわぬもの。」

と、みづからおぼしめしとりて、一生、かんにんを、ことゝ被ㇾ成しなり。

 ワ、子供の時分、あそびに行ても、

「そふは、せぬもの。こうも、せぬもの。」

と被ㇾ仰、

『さてさて。氣のつまるばゞ樣。』

と、おぽえたりし。

[やぶちゃん注:「桑原ばゞ樣」ここで真葛母方の祖母桑原やよ子(くわはらやよこ 生没年不詳:仙台藩医桑原隆朝の妻)について、当該ウィキから引く(太字は私が附した)。『仙台藩江戸詰めの藩医桑原隆朝如璋』(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)『の妻で、古典文学に通じていた。特に平安時代の長編小説』「うつほ物語(宇津保物語)」の『年立の研究では先駆的な役割をになった』(本文の『「うつぼ」のとしだて』がそれ)。『著書に研究書』「宇津保物語考」があり、それは現代の昭和初期に刊行された「日本古典全集」の「宇津保物語」などに『収載されている』ほどに学術的に価値の高い論考である。また、その中で『やよ子のつくった系図は、日本において、複雑な人間関係を』見事に『図示した最初と』さえ『いわれている』。「宇津保物語考」は『安永年間』(一七七二年~一七八〇年)成立とみられ、国文学者の村田春海(はるみ 延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年:本文にも名が出る、国学者・歌人。本姓は「平」氏。通称は平四郎。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王の一人。江戸の干鰯問屋に生れた。幕府連歌師阪昌周(ばん しょうしゅう)の養子となり、後に本家の干鰯問屋をも相続した。その生活は豪奢なもので「十八大通」の一人にも挙げられた。その結果、家産を傾け、隠居後は風雅を友とした。漢籍を服部白賁(はっとりはくひ)に、国典を賀茂真淵に学び、国学者で歌人の加藤千蔭(橘千蔭)とともに「江戸派」歌人の双璧をなし、陸奥国白河藩主で幕府老中も勤めた松平定信の寵愛を受けた。春海は、特に仮名遣いに造詣が深く、「新撰字鏡」を発見し、紹介してもいる。また、若い頃は漢学をもっぱら学んだこともあり、儒教を排せず、漢詩をよく作ったことも知られている。仙台藩江戸詰の藩医工藤球卿(平助)とも親交があり、その娘只野真葛の文才を評価している。著書には歌文集「琴後集」・漢詩集「錦織詩草」などがある。歌文の才能はもとより、書もすばらしい反面、「人の悪口は鰻より旨し」などと言うほど傲慢で不遜な一面があったという。以上は彼のウィキに拠ったが、「日本庶民生活史料集成」の中山氏の注には、『工藤家に出入りしていたため「宇津保物語考」を書写していたものと思う』とあるが『これを読んで感心し』、『人に書き写させて寛政』三(一七九二)年、『巻末に自分の手でその経緯を説明した写本をつくった』。『この写本は天保年間』(一八三〇年~一八四三年)『に井関隆子』(いせきたかこ 天明五(一七八五)年~天保一五(一八四四)年)は女流歌人・物語作家)『によっても書写されており』、『江戸後期の国学者のあいだでは有名であった』。『孫にあたる工藤あや子(只野真葛)は、自著『むかしばなし』のなかで「心の力つよくかんしゃく持ち」で大笑いすることやおもしろげな浮ついたことなどの大嫌いな、「気のつまるばば様」であったと記している。『むかしばなし』によれば、子を厳しくしつけ、裁縫や結髪など「女のわざ」に秀で、また書道も堪能であったという』。真葛が十三歳の頃(安永四(一七七五)年頃)に、仏教の教えを学んで悟りを開き、穏やかな人柄になったという。『子としては、娘』『と息子の隆朝純(じゅん)の名が知られる』。『姉娘は工藤平助に嫁し、その子只野真葛(工藤あや子)は女流文学者として知られる。息子の桑原純は、夫の如璋のあと』、『仙台藩医を継いだ。純は、母やよ子の手ほどきによって能書家であり、優れた手跡を残している』。『純の娘桑原信(のぶ)は伊能忠敬の後妻となった。只野真葛と桑原信は、ともにやよ子の孫娘にあたり』、二『人は従姉妹同士であった』とある。本篇の注として最適な引用となった。

「うわうわと」(ママ)「おもしろそふなこと」「うはうはと」が正しい。如何にも落ち着かない、喋っている本人の気持ちがしっかりしていないことが窺われるような、浮ついた滑稽話。

「あだな付(つく)ることは、御きらいなりし」とすれば、真葛の父母(母は自分の娘である)が「秋の七草」の別名を子供らに与え、それで呼び合うのを、彼女は絶対に嫌っていたことになるが。

「おもゑて」「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は『おぼえて』である。この後者の違いは、底本解説で鈴木よね子氏が同一底本としていることに疑問が生じる。同一底本で「仙台叢書」が補校するなら、「おもひて」とするだろうからである。

「もはら」「專ら」。

「佛學」仏教。

「被ㇾ成て」「ならせられて」はしっくりこない。

「御さとり被ㇾ遊し」少々学んだぐらいで「悟り」はないだろう。寧ろ、勝手な他者・現世解釈として、自分を棚上げした「世の中の人は、我に、あわぬもの」という利己的な自得に陥ったとすれば、これは変な謂いだと私は思う。

「かんにん」「堪忍」。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 4

 

 晋朝に成る三輔故事には[やぶちゃん注:底本の以下の引用は、原影印本の当該部(「中國哲學書電子化計劃」)を見ると、ひどい不全があるので、特異的に訂した。これは編集時のミスで、初出はほぼ問題がない。]、漢の衞太子嶽鼻、太子來省疾、至甘泉宮、江充告太子、勿入、陛下有詔、惡太子嶽鼻、當㠯紙蔽其鼻、充語武帝曰、太子不欲聞天子膿臭、故蔽鼻、武帝怒太子、太子走還り遂に殺されし由言り、序でに述ぶ、「デカメロン」、第七日第六譚、武士の妻其夫の不在に、若き男と密會する處へ、平素此女を慕へる荒武者來り逼る、女已むを得ず、男を牀下に慝し、荒武者を引入る、俄かに其夫歸り來り、荒武者の馬を維ぎ[やぶちゃん注:「つなぎ」。]たるを見、大に怪む、妻頓智もて荒武者に訓え[やぶちゃん注:「をしへ」の誤り。「え」は熊楠の癖。]、拔刀して、「必ず何處で[やぶちゃん注:「いづこかで」。]思ひ知せん」と叫び乍ら出去しめ[やぶちゃん注:「いでさらしめ」。]、夫入り來るに先ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]寢室に退き、密夫に聞ゆる樣、高聲に夫に語りけるは、彼荒武者狂氣して、見知らぬ若き男を追ひ、其男忽ち此室に逃籠れりと、夫則ち彼男を搜し出し、飮食させ、その宅え送り屆けたりと、此話に多少似たる者、亦韓非子卷十に出づ、曰く[やぶちゃん注:底本の以下の引用は、原影印本の当該部(「中國哲學書電子化計劃」)を見ると不全があるので、特異的に訂した。]、燕人李季好遠出、其妻私有通於士、季突至、士在内中、妻患之、其室婦曰、令公子裸而解髮直出門、吾屬佯不見也、於是、公子從其計、疾走出門、季曰、是何人也、家室皆曰無有、季曰、吾見鬼乎、婦人曰然、爲之奈何、曰取五姓之矢浴之、季曰諾、乃浴以矢、(A. C. Lee, op. cit., p.184. 武士幽靈の體にて夫を紿き[やぶちゃん注:「あざむき」。]、妻に謝罪する譚參看すべし)、

[やぶちゃん注:「三輔故事」「さんぽこじ」。漢の趙岐らの撰になる首都長安の地誌とその関連故事を集めたもの。我流で訓読しておく。原文では最後に「」とあるのでそれを添えた。

   *

 漢の衞太子(ゑいたいし)は嶽鼻(がくび)たり。來たりて、疾ひを省(みま)ひて、甘泉宮に至る。江充、太子に告げて、

「入る勿(なか)れ。陛下より詔(せう)あり。『太子が嶽鼻を惡(にく)む』と。當(まさ)に紙を㠯(も)つて其の鼻を蔽ふべし。」

と。

 充、武帝に語りて曰はく、

「太子、天子の膿臭を聞(か)ぐを欲せず。故に鼻を蔽ふ。」

と。武帝、太子を怒り、太子、走り還れり。

   *

「衞太子」武帝の皇后衛子夫(えいしふ)の子ということであろうが、この佞臣江充(?~紀元前九一年:詳しくは彼のウィキを参照)と対立した武帝の長男で太子であった戾(れい)太子劉拠(紀元前一二八年~紀元前九一年)は逆に「巫蠱の禍(ふこのか)」の乱で江充を斬殺している(ウィキの「劉拠」を参照。但し、乱の直後に自身も誤解した武帝により自害している)。熊楠の「太子走還り遂に殺されし由言り」というのは、原本の略述部(改行して、衛太子の死を記してある)を勝手にそう解釈してしまったものと思われる。

「韓非子卷十に出づ、曰く……」我流で訓読しておく。

   *

 燕人(えんひと)李季、遠出を好む。其の妻、士に私(ひそか)に士に通ずる有り。突(にはか)に至る。士、内(へや)の中にあり、妻。之れを患(うれ)ふ。其の室婦[やぶちゃん注:下女。]曰はく、

「公子をして、裸となして、髮を解き、直ちに門より出でしめよ。吾が屬(ともがら)[やぶちゃん注:私達下女らは。]、『見えず』と佯(いつは)らん。」

と。

 是に於いて、公子、其の計に從ひ、疾走して門を出づ。

 季曰はく、

「是れ、何人(なんぴと)ぞや。」

と。家室、皆、曰はく、

「有る無し。」[やぶちゃん注:「何も見えませんが?」。]

と、季曰はく、

「吾、鬼(き)を見たるか。」

と。婦人曰はく、

「然(しか)り。」

と。

「之れを爲(な)すこと、奈何(いかん)。」[やぶちゃん注:「その厄を祓うにはどうすればよかろう?」。]

と。曰はく、

「五牲(ごせい)の矢(くそ)をとってこれに浴せよ。」[やぶちゃん注:「五牲」牛・羊・豚・犬・鶏。「矢」は「糞・屎」の意。]

と。季曰はく、

「諾(だく)。」

と。乃(すなは)ち、浴するに、矢(くそ)を以つてす。

   *

原本では流石に動物の糞尿を浴びるのが気が引けたか、最後に「一曰浴以蘭湯。」(一つに曰ふ、「蘭の湯を以つて浴す」と。)とあるのが面白い。

「A. C. Lee, op. cit., p.184. 武士幽靈の體にて夫を紿き、妻に謝罪する譚參看すべし」当該ページには見当たらない。]

2021/02/05

怪談登志男 十四、江州の孝子

 

   十四、江州の孝子

 近江國分部(わけべ)といふ所に、年月(としつき)、修行したる僧の物語せしは、分部より、少(すこし)隔(へだて)たる村に、傳四郞と云(いふ)男あり。年の程、廿一、二斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]の時、父にはなれ、日ごろ、貧しかりけれど、父母の心に、露(つゆ)違(たが)ふ事のなかりしが、今日(けふ)、別れて、二たび、つかふること、あたはざるを、深くうれひ、身のまづしくて、孝(かう)のたらざる事を悔歎(くいなげき)て、夜晝(よるひる)となく、啼沈(なきしづみ)て、其聲、隣家(りんか)にも、もれ聞へ、袂(たもと)をしぼらずといふもの、なし。

 母は、若き時、高所より落(おち)て、腰をいたみけるが、年たけ、よはひ、おとるふるに隨(したがい)て、立居も心に任(まか)せざりしかば、門の外へ出る事もせざりしを、かなしく思ひ、手を引て、庭のせんざいへ、つれゆき、心を慰め、

「遠く、あそばん。」

といふ時は、せなかにおふて、つれゆきぬ。

 耕作の時には、母のいねたる後(のち)に、田畑(たはた)へ出で、闇(やみ)にも月夜にも、終夜(よもすがら)、すきさぐりて、草を引など、しけり。

 其村の人に、つかはるゝ、こゝろなき、しもべ・わらはまで、傅四郞が田に行て、ともにたがやし、たすけぬ。

 爰(こゝ)に、となりの貧家(ひんか)の子、同國の内、「八まん」と云所へ、したしき者をたよりに、住居[やぶちゃん注:「すまゐ」。]しける。此所には、福裕なる者、多く有所なり。

 其地の風俗として、子共に、家(か)とくを讓る時は、かならず、一族・親類を呼集(よびあつめ)て、美々敷(びゞしく)、饗應し、扨、たくはへ置る[やぶちゃん注:「おける」。]、金銀を始(はじめ)、諸々(もろもろ)の財寶をとり出し、祖父よりの讓狀(ゆすりじやう)・證文抔(など)、取出し、

「ゆづり得たる所の金銀何萬兩・幾千萬貫目、其後、我等、たゞ今迄、もふけけためたる所、何萬兩と、新古(しんこ)の金銀、いか程、今日、是を讓りあたふ。其方、相續(つゝい)て仕合(しあはせ)、能(よく)、金銀・財賓、增倍(そうばい)して、また、かくのごとく、子孫に、しらべ、あたへられよ。」

と、言渡して、隱居するを、此地のふうぞくとす。

 其中に、すぐれて、「有德(うとく)人」と、もてはやさるゝ者ありしが、子、なきを憂へ、親族の中にも、似合敷(にあいしき)も、なく、又、此男の心、世上の人に替り、持參金などに心をよせぬ氣性(きしやう)なれば、常にいふ樣、

「我、養ふて子とすべき者は、早速(さつそく)には、ありがたし。京・田舍にもあれ、其人の貧賤(ひんせん)をも、嫌ふまじ。唯、人倫の道をさへ、わきまへたる者ならば、水吞(のみ)百姓の子にても、ゑりぎらいは、夢々(ゆめゆめ)、せじ。其子の親、道(みち)に志(こゝろざし)たる者は、かならず、其子も、あしくは、そだてず、養ひても、純熟(じゆんじゆく)する者なり。とかく、互(たかい)に、人の心のよしあしこそ、第一なれ。財寶の有無は、たのまれぬものなり。」

と、いひしが、金銀第一の人心なれぱ、彼(かの)ものが望は、かなひがたく見へける所に、天のめぐみにや有けん、傳四郞が隣(となり)より、此所へ引こしたる男、ある時、

「我故鄕(ふるさと)の隣なる傳四郞と申者こそ、足下(そこ)の御心には、かなひ侍らん。常(つね)の行(おこない)、斯々(かくかく)。」

と、つぶさに語りければ、

『其事、誠ならば、心よせなり。』

と思ひて、又、ひそかに、傅四郞があたりの者を近付て聞に、はじめ聞たるは巨海(こかい)の一滴(てき)なりける有難き人なり。

 いそぎ、隣家の者を賴て[やぶちゃん注:「たのみて」。]、金銀をつかはし、傅四郞親子、ともに、呼(よび)むかへ、先、かたはらに置て、男女の召仕(めしつかい)を附(つけ)、金銀・財寶、有べき程あたへて、其心ばへを見聞するに、其意(こゝろざし)、廉直(れんちよく)にして、まめやかに、智惠、ふかふして、慈悲あり、言葉、すくなにして、しかも、辯舌、さはやかなり。元より、母につかふる事、夜晝、とこしなへに、はゝ親もまた、片時も、傅四郞が見へざれば、憂ふる色あり。

 爰におひて、一族共をあつめ、

「我、天の惠に依(よつ)て、此人を得たり。」

と、家督、不ㇾ殘(のこらず)讓りあたへければ、一門中も、違論に、およばず、皆々、悅び賀して、歸りける。

 此後、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、家門、はんじやうして、子孫、ながく相續しけり。

 世中の習(ならい)、養子も、嫁入も、先だつものは、先(まづ)、金銀にて、親もとの財寶を、たがひにはかり合せて、其人の行跡(かうせき)には、かまはず。それゆへにこそ、末を、とげず、出入も出來[やぶちゃん注:「しゆつたい」。]、他人迄の厄介(やつかい)となる中に[やぶちゃん注:「なかに」。]、此富人(ふじん)が、財用を不ㇾ論(ろんぜず)、人のよしあしを見るに、常人(つねひと)より見れば、「怪(あやし)」とこそ見ゆれ。又、傳四郞が隣家の男の、其孝行をほめて、富人にすゝめしも、世俗の人の、よきをねたみ、あしきをあぐるならいよりみれば、怪しく、これを怪談の中に書とも、無理とはいはじと、爰に、しるしぬ。

[やぶちゃん注:最後に確かに言われてみれば、その通りだ。

「近江國分部(わけべ)」この地名は現存しないが、江戸時代に近江国高嶋郡大溝地方を領有した大溝藩があり、この藩は元和五(一六一九)年に京極氏の後に、分部(わけべ)光信が伊勢上野から移って、二万石を領して以来、廃藩置県まで十代に亙って在封している(外様・江戸城柳間詰)。現在の滋賀県高島市のここ(グーグル・マップ・データ)に大溝城跡や近くに陣屋跡がある。この附近であろう。

「今日(けふ)、別れて、二たび、つかふること、あたはざる」言わずもがなであるが、対象は亡くなった父である。

「せんざい」「前栽」。

「すきさぐりて」「鋤き探りて」。夜でよく見えぬから「探りて」とあるのである。

、草を引などしけり。

「しもべ・わらは」身分の低い、下部や未成年の若僧。

「八まん」現在の滋賀県近江八幡市(グーグル・マップ・データ)ととっておく。大溝とは琵琶湖対岸の南東に当たる。

「しらべ」「調べ」。先祖から受け継いだ土地・金銀・財宝及び自分の代で儲けたそれらを逐一明らかに調べ上げて。

と、言渡して、隱居するを、此地のふうぞくとす。

「似合敷(にあいしき)も」譲るに満足出来るような人物も。

「持參金」対象人物がどれくらいの財産を持っている相応の経済人かということ。

「純熟(きゆんじゆく)」相応の為人(ひととなり)と成る機が熟すること。

「互(たかい)に」「たがいに」は、この場合、「お互いに」の意ではなく、観察・判定する対象物があることを言っている。漢文でよくみられる「相對」と同じである。

「心よせ」期待出来ること。頼りにし得ること。

「とこしなへに」「常(長)しなえ」「永久へに」。いかなる時もずっと。

「一門中も、違論に、およばず、皆々、悅び賀して、歸りける」これは永いこの地での家督相続のシステムを正統に行使している点で、誰の文句も言わぬばかりか、言祝いでいるのである。民俗社会の共同体の典型的理想像の一つと言える。

「行跡(かうせき)」その人が行ってきた経歴。その人の過去の行状・身持ち。この本文では人倫の良きを採る話だが、筆者の言うここでは一般論であって善悪を問わないことは注意が必要である。であるから、しばしば、或いはその方が圧倒的に多い悪しき場合の、「それゆへにこそ」以下の展開があるからである。

「末を、とげず」行く末までの繁栄を遂げることが出来ず。

「出入も出來」土地・金・財宝がどんどん失われていってしまう事態が起こって。

「あしきをあぐる」本質に於いて経済をのみ優先して結果として悪い方を支持する。]

只野真葛 むかしばなし (5)

 

○をぢ樣ほどの才人なれども、此〆が息にふかれて、工藤家がにくまるゝとは、御心つかざりしぞ、くやしき。よく御心をたぎれなば、かやうには有まじきを。

 すべて親里といふものは、誰(たれ)も心のこびるものといふうち、ばゞ樣も御長屋にて氣つめがち故、年に、一、二度、高田へ御出(おいで)、御逗留を、何分、氣ばらしと思召れしなり。母樣にも、ひろびろと、田はた・野山を御覽、心のまゝにあそびありくを、

「おもしろく、うへなき氣のべ。」

と、おぼしめししみて、折々ごとの御はなしにも、

「高田、高田。」

とて、御したひ被ㇾ遊しなり。

 源四郞は、とり分(わき)て、御ひぞうの上、そなたの乳《い》迄御のませ被ㇾ成し故、御懷(おんふところ)の中(うち)の寢ものがたりにも、高田のことを被ㇾ仰しなるべし。

 源四郞、末期(まつご)にいたり、このみて、高田へゆかれしは、母樣の御いきのはしなり。

 母樣には、御心ばせ、おとなしく、ぎやうぎよきにいたりては、似るものなし。誠に觀靜院とはうらはらの御人がらなりし故、かれと是とを、おもひくらべ、ふと、昔、しのばしくなられしものと察しられたり。

 人、御乳母《ちおも》のならはしによるといふは、則(すなはち)、是なり。

[やぶちゃん注:「たぎれなば」意味不明。「滾れなば」で「激する気持ちを盛んに沸き起こしたならば」か。にしても、普通の言い方ではないし、文脈に合わない。「仙台叢書」では、清音で『たきれなば』であるが、ますます判らぬ。或いは、「なされなば」の誤記か?

「氣つめがち」「氣詰め勝ち」。

「高田」不明。現在の高田馬場を含む江戸の辺縁に当たった旧高田周辺か。江戸時代は現在の豊島区高田や西の中野区上高田に至る広域を「高田」と呼んでいたし、明治中期の地図を見ても(今昔マップ)、丘陵と田圃が広がっていることが判る。

「御出」お出でになり。

「御逗留」当時、泊まることは考えられないので、ここは、高田辺りをぐるりと巡って帰ってくる(「御出」)だけでなく、そこを目的地として、例えば、昼の半日をそこに滞在して過ごしたことを言っていよう。

「氣のべ」「氣延べ」。気晴らし・気散じ。

「源四郞」真葛(あや子)の次弟(周庵(平助)の次男)。例の七草のそれでは「尾花」と呼ばれた。真葛より十一年下であった。既に述べたが、長弟で長男であった長庵元保(幼名は安太郎。七草名「藤袴」。真葛より二歳下)は早逝している。「日本ペンクラブ」公式サイト内の「電子文藝館」の門(かど)玲子氏の「只野真葛小伝」によれば、亡くなった時、『嫡男長庵』は、『まだ二十二歳の若さであった』とある。

「そなたの乳《ち》迄」四女拷子(たえこ・七草名「萩」)を産んだ後の母乳をまで。

「源四郞、末期(まつご)にいたり」源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、ウィキの「只野真葛」他によれば、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで急死した。源四郎は『江戸に風邪が大流行し』、陸奥仙台藩第九代藩主伊達周宗(ちかむね:寛政八(一七九六)年に特例の生後一年足らずで藩主となり、親族であった幕府若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)の後見を受けたが、疱瘡のために文化九(一八一二)年に十四で夭折した。一説に死去は十一歳であったともされる)『の重要な縁戚である堀田正敦』(当時は近江堅田藩藩主で幕府若年寄。第六代藩主伊達宗村の八男。周宗は曽孫)『夫人も罹患したので』、『源四郎は常にその傍らにいて看病した。夫人はその甲斐なく亡くなっている。公私ともに多くの患者をかかえていた源四郎は、休まず患家をまわって診療したあげく、自らも体調を著しく衰弱させてしまったのであった』。『真葛は、みずからのよき理解者でもある大切な弟を亡くし、また、源四郎を盛り立てる一心で』、『みずから江戸から仙台に嫁したことがむなしくなったと悲しんだ』とある。

「母樣の御いきのはしなり」「母樣の御意氣の端なり」。母さまのご気性の繋がりであります。

「觀靜院」遊の母桑原やよ子の戒名か。

「乳母《ちおも》」乳母(うば・めのと・ちも)の別読み。]

芥川龍之介書簡抄9 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(2) 山本喜譽司宛(ビアズリーのワイルド「サロメ」の挿絵の「舞姫の褒美」の部分模写添え)

 

明治四五(一九一二)年七月二十一日・相模國高座郡鵠沼村加賀本樣方 山本喜譽司宛(自筆絵葉書)

 

The-dancers-reward

 

ひどい暑さです あまり暑いのでどこへもゆく氣にならない位です 昨日平塚がきました あんでるせんの御伽噺をよんでゐると云ふのが大へんかあゆさうでした、僕はひるねばかりしてゐます 目のさめてる時はくれおぱとらとあんとにいをよんでます 暑いのを我慢をして芝居をみに行つたら長距離競爭をした時ほど汗をかいたのでそれからやめにしちまいました 朝早く海へはいつて人魚に kuß でもして貰ひ給へ さようなら

                  龍

 

[やぶちゃん注:挿絵は所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の原葉書のカラー画像をトリミングした。本芥川龍之介の模写(原画とは細部に有意な違いが認められる)スケッチのカラー版はそうそう見ることがない。私は上記の展覧会で現物を見た時、「彩色なんだ!?!」と思わず声を挙げたのを思い出す。というより、モノクロ版でさえ、ネット上では見かけないので、以前から甚だ残念に思っていた。ここに首尾よく私の憂鬱は完成した。

 絵の皿の脚の左右に芥川龍之介によって組み込まれた英文は、

 

THE

    MYSTERY OF LOVE

       is greater

than that OF LIFE.

           WILDE.

 

である(後述)。訳そうなら、「愛の謎は人生の謎よりも大きい」か。

 これは言わずもがな、アイルランドの詩人・作家・劇作家オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde 一八五四年~一九〇〇年)が一八九一年にフランス語(これはフランス語の発音の持つ独特の音楽性に惹かれたことによるとワイルドは言っている)で書き、一八九三年にパリで出版された戯曲「サロメ」(Salomé)の英訳版(フランス語版の翌年に刊行)に入った、知られたヴィクトリア朝の世紀末美術を代表するイギリスのイラストレーター(詩人・小説家でもあった)オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 一八七二年~一八九八年)の有名な挿画群の中の、恐らく最も知られた一枚で、近親凌辱の血にまみれたユダヤ王エロドから、舞いの褒美として彼女の恋を拒絶した預言者ヨカナーン(フランス語:Iokanaan(Jean le Baptiste:バプテスマ(洗礼者)のヨハネ))の首を断固要求し、銀の皿に載せられて運ばれてきたそのシーン(本文挿絵の終わりから三枚目)を元にしたものである(但し、本作のビアズリーの挿絵は作品に忠実な挿絵ではなく、中には明らかに無関係な、ワイルドを嘲笑してカリカチャライズしたものさえ含まれている。それでも私は甚だ偏愛しているが)。同挿絵の全体は以下である。同作邦文ウィキの中型の画像をダウン・ロードした。

 

751pxaubrey_beardsley__the_dancers_rewar

 

 因みに、同作の英訳出版は当時のワイルドの同性の恋人であったイギリスの作家ロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas 一八七〇年~一九四五年)が担当したものの、訳の出来が甚だ劣悪であったためにワイルド自身が「失望した」と言って翻訳を修正している。また、「サロメ」は、そのテーマの「聖書」を穢す激しい背徳性という理由から、公演の禁止令が出され(フランスの名女優サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年がロンドンのパレス・シアターで公演に向けて稽古を始めた直後であった)、イギリスでは一九三一年まで、実に四十年間、上演が出来なかったいわくつきの作品でもある。初演はパリで一八九六年二月であったが(主演不詳)、ワイルドは既に獄中にあった。ワイルドはこの前年四十一歳の時、ダグラスの父第九代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスに告訴の応酬の果てに敗れ、猥褻罪で投獄され、破産宣告も受けていた。一八九七年に出獄したが、晩年は獄中詩篇を刊行した程度で、既に「過去の人」となっていた。

 このスケッチに添えられた英文は、「サロメ」の終局で、サロメがヨカナーンの首に延々と語りかけ、接吻をする直前の最後の台詞の終わりの(太字は私が附した)

   *

I was a princess, and thou didst scorn me. I was a virgin, and thou didst take my virginity from me. I was chaste, and thou didst fill my veins with fire.... Ah! ah! wherefore didst thou not look at me, Jokanaan? If thou hadst looked at me thou hadst loved me. Well I know that thou wouldst have loved me, and the mystery of love is greater than the mystery of death. Love only should one consider.

   *

death」を「life」に変えたものである。一九五九年岩波文庫刊の福田恆存訳「サロメ」から部分引用しておく。太字は私が附した。

   《引用開始》

あたしは王女だつた、それをお前はさげすんだ。あたしは生娘だつた、その花をお前は穢してしまったのだ。あたしは無垢(むく)だつた、その血をお前は燃ゆる焰で濁らせた……あゝ! あゝ! どうしてお前はあたしを見なかつたのだい、ヨカーナン? 一目でいゝ、あたしを見てくれさへしたら、きつととしう思うてくれたらうに。さうとも、さうに決まつてゐる。戀の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのこともあるまいに。戀だけを、日とは一途に想うてをればいいものを。

   《引用終了》

 さて。新全集宮坂年譜を見ると、この書簡の日附から八日前の七月十三日に、龍之介はオスカー・ワイルドの『Lord Arthur Savile's Crime, the Portrait of Mr. W. H. and other Stories』を読了した、とある。これは「アーサー・サヴィル卿の犯罪」という一八九一年にワイルドが刊行した中短編小説集の改版で、「W. H. 氏の肖像」という一篇が追加挿入された版である。かくも、龍之介がワイルドの熱烈なファンだったことが判る。

 さらにダブルで、まだ、大事なことがあるのである。それは、まさにこの年、この書簡から四ヶ月後の、改元して大正元年十一月十一日に、龍之介は級友の井川恭・久米正雄・石田幹之助とともに、横浜にあった横浜ゲィティ座へ赴き、イギリス人一座の演じた、まさにワイルドの、この「サロメ」を観劇しているのである。しかも、その思い出を、芥川龍之介は十三年も経った最晩年、大正一四(一九二五)年八月発行の雑誌『女性』に『「サロメ」その他』の標題で、『一「サロメ」』「二 變遷」「三 或抗議」「四 艶福」として掲載しているのである(これは後に最初の『一「サロメ」』の項だけを独立させて、『Gaity座の「サロメ」』という標題で、翌大正十五・昭和元(一九二六)年十二月に発行された生前最後の作品集(実際にそのような意識で編されたものと言われる)随筆集「梅・馬・鶯」に所収された)。無論、ぬかりはない――Gaity座の「サロメ」――「僕等」の一人久米正雄に―― 附やぶちゃん注」を参照されたい。また、新全集の宮坂年譜によれば、相当に、この「サロメ」には入れ込んでいたらしく、この日横浜に宿泊し、翌十一月十二日には、『横浜沖大演習観艦式を新子安の丘に登って見』た後、その『夜、イギリス海軍ミノトール艦のオーケストラが加わった「サロメ」を再び観る』とある(前日のメンバーと一緒であったかどうかは不明)。なお、今回、上記電子化注に記した英文学者佐々木隆氏のページに「書誌から見た日本ワイルド受容研究(補遺)」として、新たに「大正時代のワイルド劇」(平成27年3月)という資料(PDF)が追加されているのを発見、それを読むと――芥川龍之介がゲイティ座で行われたアラン・ウィルキィ一座の「サロメ」を観劇したのは十一月九日一回きりしかあり得な――という驚くべき結論が示されてある。

「平塚」既出既注であるが、「大へんかあゆさうでした」の意味が判るように再掲しておく。府立三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。この後、岡山の第六高等学校に進学したが、ここで「肋骨はぬかずにすンだ」(気胸術式を指す)で判る通り、結核で出戻ってきて、後に千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。或いは、龍之介が「death」を「life」に変えたのも、彼への龍之介流の優しさ故かも知れぬ。

「くれおぱとらとあんとにい」かく記しているが、シェイクスピアの戯曲「アントニーとクレオパトラ」(Antony and Cleopatra)であろう。確信犯で、「サロメ」に合わせて、わざとクレオパトラを前に出したものと思われる。

「芝居」時期が半月以上前になるが、先に示した明治四五(一九一二)年六月二十八日附井川恭宛に出た通り、六月二十六日にバンドマン喜歌劇団のオペレッタ「The Quaker Girl」を帝国劇場で観覧している。この日が暑かったとは書いていないが、この劇団の公演は毎日出し物が変わると書簡に龍之介は書いており、また、英語が予想以上に聴き取れなかったことに若干の不満を抱いている感じがある。されば、年譜にはないが、或いは、その後に同じ劇団の別な芝居を見に行った可能性は十分にあるのではないか? 先の和歌山県立図書館刊『南葵音楽文庫紀要』第二号PDF)の「資料紹介」によれば、バンドマン喜歌劇団は同じく帝国劇場で、六月三十日に「ダラー・プリンセス」(The Dollar Princess)という日本初演のそれを上演している。例えば、この日が甚だ蒸し暑い日であったとして、それから七月上旬が暑さが続いたとすれば、私は腑に落ちるのである。

「それからやめにしちまいました」「外出するのは」の意であろう。

「kuß」「クス」。ドイツ語で「接吻」の意。最後に「サロメ」に引っ掛けたのである。]

2021/02/04

只野真葛 むかしばなし (4)

 

○大町りうてつが壱人むす子に、春長といひしは、御おぼへ有べし。をぢ樣に二、三、としをとりて有し。

 それを、をぢ樣は不代の才人、春長はすぐれたる不器用もの、ならべておなじく物をならわせやうとは、無理の一番なることを、りうてつ、覺らず、何をさせても、歲は、をとるに、智惠は、をとるを、氣の毒がり、ひどく折檻して有し故、後々、父子の中(なか)あしく、他人よりも、そばそばしかりしなり。

[やぶちゃん注:「大町りうてつ」「(3)」に既出。

「そばそばしかりし」「稜稜しかりし」。よそよそしかった。]

 

 母樣、手習は、玉手八郞左衞門といふ、御家中の手書(しゆしよ)の弟子なりし。手本、あまた有し。瀧本流にて、見事の手なりしが、父樣、手ふう、御氣にいらず、

「よし。」

や、

「あし。」

とて、母樣と御あらそひ被ㇾ遊しを、子ども時分、おぼえたり。

 母樣には、朝ばん、後仕舞(あとじまひ)できれば、すぐに、手習、厚一寸ばかりの奉書のそうし、五册ヅヽ、御ならい被ㇾ成(なられし)ことなり。少しもゆるぎ無(なく)、御二親(おんふたおや)の鼻の先にて、御習(おならひ)のこと故、折々、氣(き)すゝみなきとき、又、たいくつの時などは、

『世の中には、ぢゞ・ばゞといふもの有て、孫、あいす、と聞(きく)ぞ、うらやましき。物陰にて習へば、水など、草子にかけておくことも有といふを、少しもゆるぎなきぞ、くるしき。』

と、おぼしめして、淚ぐまるゝこと、おほかりし、と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「玉手八郞左衞門」岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)3」に「玉手次左衛門」と「玉手八兵衛」の名を見出せる。

「手書」「てかき」と訓じてよい。ここは右筆のことであろう。

「瀧本流」書道の一派。江戸前期に石清水八幡宮の別当滝本坊昭乗(「寛永の三筆」の一人)が始めた書道の一流派。松花堂流とも呼ぶ。

「朝ばん、後仕舞(あとじまひ)できれば、すぐに」朝餉と夕餉の後片付けをやっと終わったと思うやいなや。

「水など、草子にかけておくことも有」何度も考えたが、意味が今一つ、よく判らない。爺婆が可哀そうに思って、こっそり手習いの正書(草子本)に水を掛けてやり、「覗いてみたら、大泣きして手本が涙でぐっしょりになっておったぞ!」と父母に告げにゆくこともある、という謂いであろうか。手本が濡れたままでは困るので、乾さねばならぬから、手習いは中止となるからである。しかし、遊の場合は、目と鼻の先に父母がよろしく監視しているので、厭になっても、身じろぎ一つ出来ないというのであろうか? もっと別な意味だというのであれば、御教授願いたい。]

 

 「古今集」・「新こきん」・「伊勢物がたり」などは素讀にて御おぼえ、自讃歌、其外、「大和物がたり」などの類(たぐひ)、すべて、物がたりを、くりかへし、くりかへし、御よませられ被ㇾ成しとなり。

「今日は雨がふる。さみしいから、物がたりでも、よめ。」

と被ㇾ仰るゝ。夜(よ)に入(いり)て、「むだ書(がき)」とて、文(ふみ)のぶんを、こしらへて書(かき)、其外は「貝覆(かひおほひ)」・「哥(か)せんたけ」・「きさごはぢき」などなり。いづれも、おもしろからず、氣ばかりつまることなり。

[やぶちゃん注:『「むだ書」とて、文のぶんを、こしらへて書』これは、誰に出すというあてもない手紙文を拵えて書く故の「無駄書き」なのであろう。

「貝覆(かひおほひ)」平安時代から主に貴族の間で遊ばれた室内遊戯。実は同一のものと思われている傾向が強い「貝合」(かいあわせ:「物合せ」の一種で、左右に分かれ、持ち寄った珍しい貝を示してその形状や色彩などの優劣を競う遊戯。平安貴族の間で流行った。時に貝にそれに因んだ和歌が詠み添えられたり、海浜の風景などを貝を散りばめて作り成した洲浜(すはま)を設えるなどの風流な遊戯であった)とは本来は別のものであったが、後世、混用されて使われるようになり、区別が出来なくなってしまった。「貝覆」は蛤(はまぐり)の貝殻が、一対だけしか嵌り合う相手がないという特性(これが暗に「まぐわい」のメタファーとなって「貝覆」のセットが嫁入道具となることになったのである)を利用した遊びで、通常百八十対又は三百六十対の蛤を左右の貝片、則ち、「地貝(じがい)」と「出貝(だしがい)」に分けておき、その遊戯の場には地貝を同心円状に伏せて並べる。次に、場の中央に出貝を一つずつ伏せて出し、その外側の地模様に合う「地貝」で「出貝」を掬い取り、多く取った者を勝ちとするが、その際の合せ方には儀礼的な作法が決められている。

「哥(か)せんたけ」「歌仙竹」。今の「知恵の輪」。「お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ」の「教育資料」の「歌仙竹」を見られたい。

「きさごはぢき」「細螺(きさご)彈(はじ)き」。「おはじき」の原型。巻き貝のキサゴの貝殻を散らして、指で弾き当てる子供の遊び。「きしゃごはじき」とも呼ぶ。「キサゴ」は、現在の標準和名としては、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科キサゴ属キサゴ Umbonium costatum

を指すが、

キサゴ属イボキサゴ Umbonium moniliferum

サラサキサゴ属ダンベイキサゴ Umbonium giganteum

なども流通では「キサゴ」として扱われる。されば、広義の、

キサゴ亜科Umboniinae

の種群も「キサゴ」に含まれると考えねばならない。例えば、

キサゴ亜科 Monilea 属ヘソワゴマ Monilea belcheri

キサゴ亜科Ethalia 属キサゴモドキ Ethalia guamensis

などは非常によく似ていて、一緒に並べたら、正直、素人には全く区別がつかないと思われるからである。但し、キサゴ類は他にも「シタダミ」「ゼゼガイ」などの異名が多いが、その分だけ、上記以外の、巻き方に扁平性が有意にあり、同一域に棲息する似たような他種も多いことから、それらをも広く包含して称していた/いる可能性は現在でも非常に高いので、これらだけに限定するのは考えものではある。なお、「チシャゴ」は「小さき子(かひ)」の意ととるよりは、「キサゴ」の転訛とするのが良いと思うし、通汎の「きさ」とは古語に「橒(きさ)」があり、これは「樹の木目(もくめ)」の意であるから、これらの貝類の表面の模様から見ても、それが語源の可能性が高いように私には思われる。ダンベイキサゴ(本集中部以南に分布)の成貝は殻幅四・五センチメートルを越える個体も珍しくない、日本産キサゴ類の最大種であるが、漢字では「団平喜佐古」と書き、この「団平(團平)」は、昔、荷を運んんだ頑丈な川船を指す名であるから、腑に落ちる。キサゴ類は、古く(縄文時代)から食用とされ、また、その殻が子どもの「おはじき」の原材料とされたことでも知られるが、特に私の住む三浦・湘南や関東地区では「シタダミ」という呼称は、明らかに現在も普通に食用とするダンベイキサゴを専ら指す。より詳しくは、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 チシヤコ(キサゴ)」を参照されたい。また、万一、どんな貝か判らない方は、私の『毛利梅園「梅園介譜」 ダンベイキサゴ』及びその博物画を見られたい。]

 

 夏の夕がた稽古をも仕𢌞(しまはし)、ぎやう水、つかいて後、湯殿のわきに、隣(となり)長屋と、さかゐの日あわひ、一間(いつけん)ばかりの所、人のゆかぬ所故、くものすみかにて、色々のくも共、おもひおもひに巢をかけて、暮がたは、殊に、いそがしげにふるまひて、蟲のかゝるをまちて、壱、蟲がかゝれば、あまたのくも、いでゝあらそふを、いつも、をぢ樣と、ふたり、くらくなる迄御らん被ㇾ成しが、一年中の氣ばらしなりし、と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「一間」一メートル八二センチメートルほど。]

 

 錢金(ぜにかね)などいふ名は、たかく人のいふもきかず、見ふれもせず、まして手などにとらせられしことはなかりし故、この家にきてより、不自由せしほどに、子供、餘り、行儀高にそだつれば、のち、あしゝ、とは被ㇾ仰しが、やはり、私共兄弟、世間なみよりは、さることに、うとし。

[やぶちゃん注:「名は」「事は」の意。

「たかく人のいふもきかず」声高に意味あり気に言う人も家内にはおらず。

「私共兄弟」真葛の兄弟姉妹のこと。]

只野真葛 むかしばなし (3)

 

 そのかみ、けいこ被ㇾ成しは、よみ物・手習・縫物なり。よみ物は「朗詠集」、第一、御二方(おふたかた)、御好(おこのみ)にて、をぢ樣と、ふたりに、御世話被ㇾ遊(あそばされ)て御(お)よませ、朝な朝な、めし前に、ふくしの所、をぢ樣、きついきらい、母樣も、おなじく、きらいにて有し故、いつのほどよりか、二人、いひあわせて、二枚、三枚、よまずにあけて、ふくせしまね被ㇾ成て有し故、後、少しも御おぼへ不ㇾ被ㇾ成(なさられず)、御二方の、せつかく、御せわ、被ㇾ遊しかども、

「眞實(しんじつ)に、『いや』とおもふことは、後(のち)、かならず、とほらぬもの故、子共、きらいのことは、深く世話せぬ。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「朗詠集」「和漢朗詠集」。

「ふくし」復習のことと思われる。父母は前日に読んだものを、朝餉の前に必ず復誦させたのである。

「きついきらい」「きつう、嫌い」の意であろう。]

 

 奧へとほる男客とては、大町りうてつ、是は、ぢゞ樣、むかしよりのなじみのよし。扇屋吉兵衞夫婦、是は御やしきへ御引こし前、ぎん座町にかり宅被ㇾ成し時、この扇屋のうらに御いで被ㇾ成し故、御懇意となりしよしなり。この外に、母樣御逢被ㇾ成る客、なし。吉兵衞、少し、をどけものにて、この人きたれば、わらふことも有。其外に、をかしきことなど、たへてなし。

[やぶちゃん注:母遊の寂しさが胸を撲つ。

「大町りうてつ」不詳。仙台藩士には「大町」姓は複数いるが、藩士であるかどうかは判らない。ここで言っておくと、筆記者である眞葛は生まれて後、三十五歳で仙台藩上級家臣で江戸番頭(当時)であった只野行義と結婚して、仙台に移るまでは、江戸にいた(仙台藩江戸詰の医師であった父工藤周庵は藩の許可を得て、藩邸外の築地に屋敷を持っていた)。母親の思い出の記載と、真葛の幼少期の記憶が一部で交じり合っているので、その辺りの判別が難しいが、例えば、このシークエンスは江戸の話としてとらないと、次の段あたりで、矛盾が生じてくる。

「扇屋吉兵衞」不詳だが、次の段で突然、当時の扇を持つのが流行ったことを語っており、そこに吉兵衛の語りがあるところを見ると、扇を細工する職人、或いは、扇を扱う小間物屋ででもあったのかも知れない。

「ぎん座町」現在の銀座。]

 

 むかしは、扇、ことのほか、はやりて、其頃、今ふうの人たちは、あたひをいとはず、色々の新くふうをして、あつらへ、「我先(われさき)に」と、めづらしきをあらそひ、大きに繁昌せしとなり。かなめは銀・角(つの)などにて、はしりやすく、商賣も多かりしを、近頃は扇の物好(ものずき)する人なく、其うへ、「萬年かなめ」といふ物いでゝから、一(いつ)とう、扇、うれ、すくなく成し、と吉兵衞、いひしとなり。年々、山王まつりには、よばれて行しが、三間口のみせにて、よほど、よき居(すまひ)なしなりしを、火事【辰年。[やぶちゃん注:頭注。]】後、だんだん、おとろへて、後(のち)は、うらやと引込(ひきこみ)、かすかになりて、子供の代(だい)には有し。

[やぶちゃん注:「今ふうの人たち」その昔の当時の流行りを好む多くの人たち。

「角」動物の角・牙製。

「はしりやすく」扇がさっとスムースに開けやすく。

「萬年かなめ」「かなめ」は「要・金目」或いは「鹿目」などの漢字もある。扇の要。恐らくは、高価な銀や象牙ではなく、真鍮などで成形したものであろう。

「一(いつ)とう」「一等」「一統」で副詞。「一段と・押しなべて」。

「山王まつり」山王祭(さんのうまつり)とは、 東京都千代田区にある日枝神社(グーグル・マップ・データ)の祭礼のこと。正式名称は「日枝神社大祭」。ここで先の地図を見て戴くと、最後の部分は直接体験過去で語っていることから、真葛の記憶と読め、すると真葛のいた築地の父の屋敷と、銀座と、日枝神社の地理的関係が私には腑に落ちるのである。

「三間口」五・四五メートル。江戸時代の商店間口の一般的な基本単位であった。

「火事【辰年。】」真葛が惨状とその後の庶民生活の塗炭の苦しみを見て、僅か数え十歳であったが、激しいショックを受け、それが後に彼女をして「経世済民」の考え方に導いたとされる「明和の大火」である。明和九壬辰(みずのえたつ)年二月二十九日(一七七二年四月一日)午後一時時頃に目黒の大円寺から出火し(僧による放火)、当該ウィキによれば、『炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの』、午後六『時頃に本郷から再出火』し、『駒込、根岸を焼いた』。翌三十日『昼頃には』一度、『鎮火したかに見えたが』、その翌日三月一日の午前十時頃、『馬喰町付近から』またしても『再出火』して、『東に燃え広がって』、『日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町数は』九百三十四、『大名屋敷は』百六十九棟、橋は百七十本、寺は三百八十二を『数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災し』、『死者は』一万四千七百人、『行方不明者は』四千人を超える大惨事となった。『老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼し』ている。

「うらやと引込(ひきこみ)」恐らくは当初の吉兵衛の店は本通りに面していたのであろう。それが未曽有の回禄のために、火災後の区画整理の中で、裏通りにされてしまい、そのまま、商家の裏側や路地などに引っ込んだ粗末な「裏屋」に変じてしまった(恐らくは商売もやめて仕舞屋(しもたや)となっていたことを言っているように思われる。

「かすかになりて」みすぼらしくなってしまい。

「子供の代(だい)には有し」私の少女時代(真葛の満十一歳以降)には、まだ、その吉兵衛の家はあった。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 3

 

[やぶちゃん注:以下より、底本では、字下げの附記内容の二段を終えて、本文に戻って、新たに行最上部から始まっている。

 

次に、古話の同似せるものの記錄、東洋が西洋より古き二三の例を擧げんに、一五二五年頃初めて刊行され、殘缺本のみ現存せる英文‘A Hundred Merry Tales’ed. Hazlitt, London, 1881,pp. 123-124)に云く、「昔し倫敦に畫工有り、若き艷妻を持るが、用有て旅するに臨み、豫て其妻の心底を疑ひければ、其腹に羊を畫き、己が歸り來るまで、消失ぬ樣注意せよと命じて出行きぬ、不在中に、未だ妻を持ざる好色の若き商人來り、畫工の妻を說き落し、屢ば室に入て之と婬す、會し畢て[やぶちゃん注:「くわいしをはりて」。交接を終わって。]女の腹に復た羊を畫きける、夫在外一年許[やぶちゃん注:「ばかり」]して歸り來り、妻と同床し、件の所を覽て大に驚き言く[やぶちゃん注:「いはく」。]、豫が汝の腹に畫けるは角無き羊なりしに、今此羊に二角あり、必定予の不在中不貞の行ひぞ有つらめと、是に於て妻夫に向ひ短く」と有て、下文缺けたり、友人「エー、コリングウツド、リー」氏、予の囑托に應じ、此話に似たる伊佛獨諸國の譚を聚め、報じ來りしを見るに、何れも十六世紀より古きは無し、然るに、西曆十三世紀に筆せる、無住の砂石集[やぶちゃん注:ママ。]七卷、六章に、此話有るのみならず、其前後の結構、歐州の諸話に比して一層詳細なり、惟ふに根本は小乘佛典より出しならん、予目下多忙にて、藏經を調査する暇無ければ、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]無住の所筆を引んに云ふ、「遠江國、池田の邊に庄官有りけり、彼妻極めたる嫉妬心の者にて、男を取詰めて、あからさまにも差出さず、所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊けるに、見參の爲宿へ行かんとするを、例の許さず云々、如何見參せざらん、許せと言ふに、去ば印を附ん迚、陰れたる所に、すり粉を塗りてけり、扨宿へ行ぬ、地頭皆子細知て、いみじく女房に許されておはしたり、遊女呼で遊で給へと云に、人にも似ぬ者にて、六かしく候、しかも符を付けられて候と云て、云々と語りければ、冠者原に見せて、本の如く塗可しとて、遊で後、本の樣に違へず、摺粉を塗て家へ歸りぬ、妻云々、摺粉をこそげて甞めて見て、さればこそしてけり、我摺粉には鹽を加へたるに、是は鹽が無きとて、引伏せて縛りけり、心深き餘りに疎ましく覺えて、頓て打ち捨て鎌倉へ下りけり、近き事也、舊き物語りに、或男他行の時、間男持る妻を符附ん迚、隱れたる所に牛を描てけり、去程に、まめ男の來るに、斯る事なん有と語ければ、我も繪はかけば描くべしとて、去ば能々まみて、元の如くも描で[やぶちゃん注:「ゑがかで」。]、實の男は臥る牛を描るに、間男は立る牛を描きてけり、扨夫歸で見て、去ばこそ、間男の所爲にこそ、我描る牛は臥る牛なるに、是は立る牛なりと叱りければ、哀れやみ給へ、臥る牛は一生臥るかと云ければ、さもあらん迚許しつ、男の心は淺く大樣なる習ひにや、嗚呼がましき方も有れども、情量の淺き方は、罪も淺くや、池田の女人には事の外似ざりけり」委細は、予の ‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body,Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, pp. 261-262, 1910. に載せたり、又三年前刊行 G.L.Gomme, ‘Folklore as an Historical Science,’ p.67 Seqq. に、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]の古語出づ、云く、富る老翁、多くの子成長したるに畑地を分與たり[やぶちゃん注:「わけあたへたり」。]、老妻死しければ財產を悉諸子に分ち、自ら巡廻して諸子の家に客たり、諸子父を倦厭し、之を除き去んと謀る、老翁大に悲しみ、道傍に哭くを見て、舊友一人問て其故を知り、伴て自家に置き、黃金一鉢を授け、云々せよと敎ゆ、翁其言に從ひ、諸子寺へ詣で、孫共が留て塚上に遊べる所へ往き、日向で大石上に黃金を擴げ出し、呟て言く、「噫[やぶちゃん注:「ああ」。]黃金、汝は久く蓄へられて、黴が生へさうだ、どりや日に乾してやらう」と、孫共塚に上り之を窺ひ、走り來て問ふ、「ぢいさま何ぢや」と、翁應ふらく、「お前等の構ふ事で無い、こらこら觸れちあいけねー」と、言終りて黃金を大袋に盛り、舊友の許へ去る、諸子寺より還て、孫の報告に接し、何とか老翁の金を得んと、爭て機嫌を取る事甚だ勉む、老翁又友の訓えに由て、小作りな頑丈な箱を造り、常に隨身して步く、皆々その何たるやを尋ぬる每に翁唯「此箱を開く時が來たら自ら知れる」と答るのみ、扨兒孫の追從一方ならぬ中に、老翁沒しければ、一族爭ひ飭りて[やぶちゃん注:「かざりて」。]、善美を盡せる[やぶちゃん注:底本は「儘せる」であるが、初出で訂した。]葬式濟まして後、相會して其箱を開き見れば、茶碗の破片と、石數塊と、長柄の槌有るのみ、一同宛込み大外れ乍ら、槌の頭の銘を讀むに、

    この槌は、子に分け盡し、鵜の毛だに、

         身に添えぬ馬鹿の、頭をぞ打つ、

「ゴム」氏いわく、この話馬鹿氣たりと雖も、次の史實を包存せり、(一)古え諸國に、地面持ちの子供長ずる時、各に地面を分與し、子供別れ住み親は僅に一小地片を自有する風有し事、(二)父老ゆれば、財產を擧て子に讓る風有し事、(三)昔し此話の本國(蘇格蘭)には、同源の諸家一團に群立し、近傍の畑地を、諸家通じて共に耕せる風有し故に、老翁產を子供に分ち悉し[やぶちゃん注:「つくし」。]、巡廻して諸子に客たりしと言ふ也、(四)古え歐州の或部に、人老れば子に打殺さる俗ありし等是也と、熊楠按ずるに、史記陸賈傳に、呂后擅政[やぶちゃん注:「せんせい」。恣(ほしいまま)に政治を執ること。]の際、陸生、自度不能爭之、乃病免家居、以好畤田地善、可以家焉、有五男、廼出所使越得橐中裝、賣千金、分其子、子二百金、令爲生產、陸生常安車驢馬、從歌舞鼓琴瑟侍者十人、寶劒直百金、謂其子曰、與汝約、過汝、汝給吾人馬酒食、極欲十日而更、所死家、得寶劍車騎侍從者、一歲中、往來過他客、率不過再三過、數見不鮮、無久慁公爲也、予は是れ史實なるか小說なるかを知らず、又決して、俄に、蘇格蘭の古話が、支那の陸賈傳に基くと斷ぜずと雖も、子が成長して親を厭ふの情狀を敍せる此類の記錄は、東洋が西洋より早く、而して老父を槌殺せし風習の痕跡だに留めざる支那の德化が、迥に[やぶちゃん注:「はるかに」。]北歐より古く進めるを認む(予の“The Neglected Old Father: Chinese Parallel,” Notes and Queries, Aug. 20, 1910, p.145 に出)又伊國の大文豪「ボツカチオ」の「デカメロン」、第七日第九譚に、淫婦「リヂア」、老夫の氣力乏しきを嘆ち[やぶちゃん注:「かこち」。]、美少年「ピロ」に懸想し、幽情勃動、病んで死せんとするの狀を通じけるに、男三難題を出し、夫人能く悉く之を成就せば、戀を叶ふべしと答ふ、其第三の難題は、夫人須く其夫の齒を拔き、吾に贈るべしとあり、是於、「リヂア」計て[やぶちゃん注:「はかりて」。]、兩侍童に訓ゆらく[やぶちゃん注:「おしゆらく」。]、主翁汝等の口臭を忌む、汝等給侍する每に、顏を橫向けよと、兩童然くせしかば夫之を怪しむ、夫人進で說て言く、君の齒朽ち臭甚き故也と、輒ち爲に其齒を拔き、情人に遣る、[やぶちゃん注:初出で読点を補った。]「クラウストン」氏此類の譚を集めしに、歐州に十二世紀より前に之を記せし者無し、(W. A. Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol.ii, p.444 Seqq.; A. C. Lee, ’The Decameron, its Sources and Analogues,’ 1909, p.231 Seqq.)しかるに、予、韓非子(西曆紀元前三世紀の作)卷十に、是に似たる話有るを見出せり、云く、荆王所愛妾、有鄭袖者、荆王新得美女、鄭袖因敎之曰、王甚喜人之掩口也、爲近王、必掩口、美女入見近王、因掩口、王問其故、鄭袖曰、此固言、惡王之臭、及王與鄭袖美女三人坐、袖因先誡御者曰、王適有言、必亟[やぶちゃん注:底本は「丞」であるが、「韓非子」原本で訂した。また、次にくる読点位置も不全なので訂した。]聽從王言、美女前近王、甚數掩口、王勃然怒曰、劓之、御因揄刀而劓美人、因て之を譯し、Notes and Queries, Dec.24, 1904, p. 505 に揭げしに、「リー」氏評して、是れ此類の諸譚中最も古き者たり、古話の學する者、一齊に南方氏の發見を感謝すべしと言れたるは、不慮の過賞予慙汗三斗たらざるを得んや(A. C. Lee, “The Envied Favorite,” N. & Q., Jan. 28, 1905, pp.71-73 を見よ)、

 

[やぶちゃん注:「一五二五年」本邦では大永五年で戦国時代真っ只中。

「‘A Hundred Merry Tales’ed. Hazlitt, London, 1881,pp. 123-124)」著者はイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)。底本ではページが「pp. 23-4」となっているが、初出と「選集」で訂した。それらしき原本をネットで見つけたが、しかし、孰れのページにもそれらしい内容が書かれていない。不審。

「エー、コリングウツド、リー」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」に「A. C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か)と出た著者のアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であろう(詳細事績未詳)。

「砂石集」「沙石集」(しゃせきしゅう)が正しい。鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立(原本はカタカナ漢字交り)。当該話は、第七の「六 嫉妬の心無き人の事」。但し、これは複数話から成るオムニバス構成で、その中の二篇である。所持する一九四三年岩波文庫刊筑土鈴寛校訂本からその部分のみを引く。句読点を追加し、段落を成形した。底本は一部が伏字になっているので(呆れかえるほど馬鹿々々しい戦時下の自主規制コードの仕儀である)、所持する岩波の古典文学大系本の「拾遺」で補った。話の変わる箇所に「+」を挿入しておいた。

   *

 遠江國、池田の邊(ほとり)に、庄官ありけり。かの妻、きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて[やぶちゃん注:異常に思い入れて。]、あからさまにもさし出ださず。

 所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊びけるに、

「見參のため、宿へ行かん。」

とするを、例の[やぶちゃん注:「例の通り」の意。]、ゆるさず。

「地頭代、知音なりければ、いかが見參せざらん。許せ。」

と言ふに、

「さらば、しるしをつけん。」

と、かくれたる所にすり粉(こ)を塗りてけり。

 さて、宿へゆきぬ。地頭、みな、子細知りて、

「いみじく女房に許されておはしたり。遊女呼びて、遊び給へ。」

と言ふに、

「人にも似ぬ者にて、むつかしく候ふ。しかも、符(しるし)付けられて候ふ。」

と言うて、

「しかじか。」

と語りければ、

「冠者ばらに見せて、本のごとく、塗るべし。」

とて、遊びて後、もとの樣にたがへず摺(すり)粉を塗りて、家へ歸りぬ。

 妻、

「いでいで、見ん。」

とて、摺粉をこそげて、なめてみて、

「さればこそ。してけり。わが摺粉には、塩をくはへたるに、これは、鹽が、なき。」

とて、ひきふせてしばりけり。

 心深さ、あまりにうとましく覺えて、頓(やが)てうち捨てて、鎌倉へ下りにけり。

 近きことなり。

   +

 舊き物語に、ある男、他行の時、まをとこ持てる妻を、

「しるしつけん。」

とて、かくれたる所に、牛をかきてけり。

 さるほどに、まめ男の來たるに、

「かかる事なん、あり。」

と語りければ、

「われも繪はかけば、かくべし。」とて、さらば、能々[やぶちゃん注:「よくよく」。]見て、もとのごとくもかかで、實[やぶちゃん注:「まこと」。]の男は、ふせる牛をかけるに、まをとこは、立てる牛をかきてけり。

 さて、夫、歸りて、見て、

「さればこそ、まをとこの所爲にこそ。わがかける牛はふせる牛なるに、これは、たてる牛なり。」

としかりければ、

「あはれ、やみ給へ。ふせる牛は、一生、ふせるか。」

と言ひければ、

「さもあるらん。」

とて、ゆるしつ。

 男の心は、あさく、おほやうなるならひにや。をこがましきかたもあれども、情量のあさきかたは、つみもあさくや。

 池田の女人には、事のほかに、似ざりけり。

   *

この「すり粉」(摺り粉)は、米を擂り鉢で擦り砕いて粉にしたもので、湯で溶いて乳児に母乳の代わりとして与えた。後の江戸時代には火にかけて汁飴(しるあめ)を加えて甘味をつけて吸わせたりもした。「人にも似ぬ者にて」とは妻の妬心が尋常でないことを言うものであろう。「いでいで」は感動詞。「さあ! さあ!」と、異様にせかしているのである。「ひきふせてしばりけり」となると、妬心の鬼と言うよりは、サディズムの性向さえ窺える。「情量」は仏教用語で、「凡夫に於ける妄想的な不全の分別」を指す。

「惟ふに根本は小乘佛典より出しならん」私は忙しくはないが、熊楠の代わりに、この原拠を探すために仏典を引っ繰り返す気は毛頭ない。悪しからず。

「予の ‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body,’ Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, pp. 261-262, 1910.」不詳。

G.L.Gomme, ‘Folklore as an Historical Science,’ p.67 Seqq.」イギリスを代表する民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の一九〇八年の著作「歴史科学としての民間伝承」。ずっと後の版だが、「Internet archive」の原本のこちらから読める。

「史記陸賈傳に……」「陸賈」(りくか 生没年未詳)は前漢初期の学者・政治家。楚の人。高祖劉邦に仕え、天下統一に貢献した。著に秦漢の興亡を述べた「新語」十二編がある。自然流で訓読を試みる。

   *

 陸生、自(みづか)ら之れと爭ふ能はざるを度(はか)りて、乃(すなは)ち、病ひもて、免ぜられて、家居す。以(おもへら)く、

「好畤(こうし)[やぶちゃん注:旧県名。現在の咸陽市乾県陽洪鎮好畤村一帯。]の田地、善(よ)ければ、以つて家とすべし。」

と。

 五男、有り、廼(すなは)ち、越(えつ)に使ひして得る所の橐中(たくちゆう)の裝(しやう)を出だし[やぶちゃん注:「橐」は中央に口があって両端に物を入れて担ぐ袋のこと。]、千金に賣りて、其の子に分かつこと、子ごとに二百金、生產を爲さしむ。陸生、常に安車・驢馬もて、歌舞して琴瑟を鼓(う)つ侍者十人を從へ、寶劒は直(あたひ)百金たり。其の子に謂ひて曰はく、

「汝(なんぢら)と約す。汝に過(たちよ)らば、汝、吾が人馬に酒食を給せ。欲を極むること、十日にして、更(か)へん。死する所の家は寶劍・車騎・侍從の者を得よ。一歲の中(うち)、往來して他に過(よぎ)りて客たらんとせば、率(おほむ)ね、再三、過ぐるに過ぎざるべし。數(しばしば)見(まみ)えんは、鮮(せん)ならず。久しく、公(きみら)を慁(みだ)すことを爲すは無からん。」

と。

   *

「予の“The Neglected Old Father: Chinese Parallel,” Notes and Queries, Aug. 20, 1910, p.145 に出)」「Internet archive」の原本のここから次のページにかけてがそれ。かなり長いが、幸いなことに、前に出たスコットランドの昔話も採録されているので、以下に電子化する。

   *

   THE NEGLECTED OLD FATHER :  CHINESE PARALLEL.― A Gaelic story is quoted as follows from J. F. Campbell in Mr. Gomme's ' Folk-lore as an Historical Science,* London, n.d., pp. 67-8 :

   "There was a man at some time or other who was well off, and had many children. When the family grew up the man gave a well-stocked farm to each of his children. When the man was old his wife died, and he divided all that he had amongst his children, and lived with them, turn about, in their houses. The sons got tired of him and ungrateful, and tried to get rid of him when he came to stay with them. At last an old friend found him sitting tearful by the wayside, and, learning the cause of his distress, took him home; there he gave him a bowl of gold and a lesson which the old man learned and acted. When all the ungrateful sons and daughters had gone to a preaching, the old man went to a green knoll where his grandchildren were at play, and, pretending to hide, he turned up a flat hearthstone in an old stance [ = standing-place], and went out of sight. He spread out his gold on a big stone in the sunlight, and he muttered, 'Ye are mouldy, ye are hoary, ye will be better for the sun.' The grandchildren came sneaking over the knoll, and when. they had seen and heard all that they were intended to see and hear, they came running up with, 'Grandfather, what have you got there?' ' That which concerns you not ; touch it not,' said the grandfather, and he swept his gold into a bag and took it home to his old friend. The grandchildren told what they had seen, and henceforth the children strove who should be kindest to the old grandfather. Still acting on the counsel of his sagacious old chum, he got a stout little black chest made, and carried it always with him. When any one questioned him as to its contents his answer was, ' That will be known when the chest is opened.' When he died he was buried with great honour and ceremony, and the chest was opened by the expectant heirs. In it were founa broken ; potsherds and bits of slate, and a long-handled white wooden mallet with this legend on its head :

    Here is the fair mall

    To give a knock on the skull

    To the man who keeps no gear for himself,

    But gives all to his bairn."

  Whether or not it has one and the same origin with this Scottish tale, a Chinese anecdote of a similar stamp is related, with all his characteristic eagerness, by Sze-ma Tsien, the greatest historian China has ever produced. It occurs in the ‘Life of Lu Kia’ in his ‘Shi-ki,’ written c. B.C. 97.  It tells us how in the year 196 B.C. the Emperor Hautsu sent Lu Kia, the great literate and diplomat, to Tchao To, the self-made monarch of Nang-yue, in order to subdue him without the use of arms (for the latter's life see Gamier, ‘Voyage d'Exploration en Indo-Chine,' Paris, 1873, torn. i. p. 469). The eloquent Lu Kia completely brought over Tchao To, so that the latter presented the former on his farewell with a bag containing valuables worth a thousand pieces of gold, to which he added another thousand for viaticum.

   After the Emperor Hiao-hui succeeded his father Hau-tsu (B.C. 194), the Dowager-Empress Lu was hankering to make kings of her own kindred, quite contrary to the will of her deceased husband. Well knowing his incompetence to stop this, Lu Kia pretended to be unwell, and retired to Hao-chi, there to live by keeping excellent farms.

   " As he had five sons," the narrative continues, " he took out of the bag the valuables Tchao-To had given him, and sold them for one thousand pieces of gold. These he divided amongst his sons, telling each to thrive with the fund of two hundred pieces. Lu Kia procured for himself a comfortable carriage drawn by four horses, ten attendants, all skilful in music and dancing, and a sword which cost him one hundred gold pieces. Then he spoke to his sons thus: ‘Now I covenant with you that whenever I come to any one of you, you shall supply me. my attendants, and my horses, with enough of food and drink, and I will go off after enjoying them for ten consecutive days. Should I happen to die in the house of any one of you, my sword, my carriage with horses, and my attendants, will all fall into his possession. But I will not visit any one of you more than twice or thrice a year, because to call on you more frequently would make you entertain me with less will, whilst a prolonged stay in one and the same house would inevitably be followed by your getting tired of me.' ……He died after enjoying longevity."

        KUMAGUSU MlNAKATA.

  Tanabe, Kii, Japan.

   *

機械翻訳でも、本文の内容と照らして十二分に理解出来る。

『「ボツカチオ」の「デカメロン」、第七日第九譚』多量の伏字があるが、国立国会図書館デジタルコレクションの河原万吉等訳「デカメロン」(昭和二(一九二七)年潮文閣刊)のここから読める。

『「クラウストン」氏此類の譚を集めしに、歐州に十二世紀より前に之を記せし者無し、(W. A. Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol.ii, p.444 Seqq.; A. C. Lee, ’The Decameron, its Sources and Analogues,’ 1909, p.231 Seqq.)』イギリスの民俗学者ウィリアム・アレキサンダー・クラウストン(William Alexander Clouston 一八四三年~一八九六年)。Internet archive」のこちらから原本当該部が読める。

「韓非子(西曆紀元前三世紀の作)卷十に、是に似たる話有るを見出せり、云く……」自然流で訓読を試みる。

   *

 荆王が愛する所の妾(せう)に、鄭袖(ていしう)なる者、有り。荆王、新たに美女を得たり。鄭袖、因りて之れに敎へて曰はく、

「王、甚だ人の口を掩(おほ)ふを口喜ぶなり。爲(も)し、王に近づかば、必ず、口を掩へ。」

と。

 美女、入りて見(まみ)え、王に近づくに、因りて、口を掩ふ。王、其の故を問ふ。鄭袖、曰はく、

「此れ、固(もと)より言へらく、王の臭(くさ)き惡(にく)む。」

と。王、鄭袖と美女と三人(みたり)坐ずるに及び、袖、因りて、先づ、御者(ぎよしや)[やぶちゃん注:侍従。]を誡(いまし)めて曰はく、

「王、適(たまた)ま言(げん)有らば、必ず亟(すみや)かに王が言に聽從せよ。」

と。美女、前(すす)みて王に近づくに、甚だ、數(しばし)ば、口を掩ふ。

 王、勃然として怒りて曰はく、

「之れ、劓(はなぎ)るべし。」

と。

 御(ぎよ)、因りて刀を揄(ひきぬ)きて、美人を劓る。

Notes and Queries, Dec.24, 1904, p. 505 に揭げし」「Internet archive」の原本のここの右ページ末から次のページで当該部が読める。

『「リー」氏評して、是れ此類の諸譚中最も古き者たり、古話の學する者、一齊に南方氏の發見を感謝すべしと言れたるは、不慮の過賞予慙汗三斗たらざるを得んや(A. C. Lee, “The Envied Favorite,” N. & Q., Jan. 28, 1905, pp.71-73 を見よ)』「リー氏」とは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」で「A. C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か。著者がアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であることしか判らない(生没年も検索で出てこない))と引いた人物。「Internet archive」の原本のここから。確かに冒頭で、

   *

   ALL students of folk-lore will be grateful to MR. KUMAGUSU MINAKATA for furnishing what is apparently the earliest version of the incident which may be termed ' The Foul Breath ' occurring in the above well-known story. The following references to various Eastern and Western sources I give from a collection of notes made for a work on the subject of the origin and diffusion of the tales in Boccaccio's ' Decameron,' which I hope may some day see the light, and which may perhaps be useful to the readers of ‘N. &Q.’

   *

と賛辞を掲げてある。]

2021/02/03

芥川龍之介書簡抄8 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(1) 八通

 

明治四五(一九一二)年一月一日・新宿発信(推定)・山本喜譽司宛(葉書)(転載)

 

春寒未開早梅枝  幽竹蕭々垂小池

新歲不來書幄下  焚香謝客推敲詩

 壬子元旦            芥川生

 

[やぶちゃん注:年賀状。同日附で井川恭(彼については後述する)に出したものでは、漢詩が、

 

春寒未發早梅枝  幽竹蕭々匝小池

新歲不來書幌下  焚香謝客獨敲詩

 

とある。私は既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で「芥川龍之介漢詩全集」を成し、サイト一括版「芥川龍之介漢詩全集」も公開してある(但し、九年前のもので漢字の正字化に不備がある)。そのブログ版の第一回でこの漢詩を挙げて訓読と注をしてあるので、そちらを参照されたい(今回、このブログの第一回分については一部の不全だった漢字を正字化しておいた)。なお、芥川龍之介はこの年の三月一日で満二十歳となった。]

 

 

明治四五(一九一二)年一月六日・消印内藤新宿局・神田區猿樂町一丁目二番地永井樣方 小野八重三郞樣(転載)

 

昨夜は失禮致候

「あつたつた」が「あつたんだ」にひとしきや否やまだはつきりわからず候へども若しひとしとすれば「んだ」=「のだ」=「なり」故完了ならずして決定の助動詞なるべく候 又ひとしからずとするも「あつたつた」が獨立して働く場合―例へば「本があつたつた」―があるかどうか どうもないやうな氣が致し候へども如何にや 所詮「あつたつた」は過去の完了として充分なる資格を備へないやうに思はれ候へどもこれも如何にやに候

「ませ」及「ましか」は矢張感じの上よりも形式の上よりも區別することは出來ないやうに思はれ候 形式の上より云ふ時は共に下にて「まし」に應じ稀に「べかり」に應ずべく感じの上より云ふ時は下の二文に於て

 1 げにかうならませしかばいかに心細からまし

 2 松立てる門ならませば訪ひてまし

考ふるも殆何等の差別も感ぜざるべく候(もとより一は「ませば」と云ひ一は「ましかば」と云ふことばの差異より來る微細な感じの相違を除きて)或は感じの上よりと云ふより意味の上よりと云ふ方適當とも存じ電車の中にて考へた事をだらしなく書き候 これも暇にまかせてのいたづらがきなるべく笑はれてもよろしく候 匆々

 

[やぶちゃん注:「小野八重三郞」(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)は東京生まれ。府立三中時代の一つ下の後輩で、後、東京帝国大学理科を中退、県立千葉中学校などの教諭を勤めた。龍之介はこの後輩を可愛がり、期待をかけていたという。彼の三中卒業時には自身が河合栄治郎(三中の龍之介の二年先輩で後に経済学者となった)から贈られたドイツ語独習書を贈っている(以上は新全集の関口安義氏の「人名解説索引」に拠った)。

「あつたつた」不明。私は使ったことがない(「やってやったぞ!」というのを「やったった!」と言ったことは幾らもある。考えてみると、これはまさに自己意志の決定の完了の意である)。調べてみると、「あったんだ」の意で東北弁としてある。私が発見したのは岩手釜石の事例で、「発信!方言の魅力―語(かだ)るびゃ・語(かだ)るべし青森県の方言 2018―」(平成三一(二〇一九)年二月・弘前学院大学文学部・「今村かほる研究室」作成の資料(報告書)・PDF)の五話目の「五徳と犬」北村弘子氏の語りの中に『ッさあァ~その夜ゥ、弘法様ァ旅籠さ泊まっだど』。『でェ、囲炉裏端っこさァ、へでねまって〈座って〉みだっけェ、その傍さしとぐ(四徳)あったったど』である。

「げにかうならませしかばいかに心細からまし」これは「源氏物語」(例えば「若紫」の、光の君が「おはせざらましかば、いかに心細からまし」等)っぽい例文である。

「松立てる門ならませば訪ひてまし」これは書信の時期から龍之介が作文したものであろう。]

 

 

明治四五(一九一二)年三月二十八日・消印内藤新宿局・神田區猿樂町永井方 小野八重三郞樣・(葉書)(転載)

 

   春かなし靑く濁れる朝の空に白木蓮の强き香をはく

 

試驗は三十日迄 今日歷史 Arabia Bgadad 王朝の學術を敍述せよと云ふ問題に大になやまされ候 明日岩本さんの獨乙語 明後日英語 木蓮は僕のみないうちにちつてしまふかもしれないと思ひ候

先生によろしく願ひ候 不悉

    二十八日午後         龍生

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の自作短歌所収の書信として特に引いた(以下の二通も同じ)。歌の後を一行空けた。

「岩本」岩元禎(てい 明治二(一八六九)年~昭和一六(一九四一)年)の誤記。一高のドイツ語及び哲学担当の教授。士族の長男として鹿児島県に生まれ、明治二二(一八八九)年に鹿児島高等中学造士館を卒業後、明治二十四年に第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科を卒業し、明治二十七年の東京帝国大学文科大学哲学科(ラファエル・フォン・ケーベルに師事)卒業後は、大学院に在籍しつつ、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。明治三二(一八九九)年から第一高等学校でドイツ語を教えたが、極めて採点が厳しい名物教授として知られ、安倍能成や山本有三らは、岩元の採点によって落第の憂き目を見た学生であった。学習院高等科時代の志賀直哉に家庭教師としてドイツ語を教えていたこともあったという。一高では、哲学の授業も担当し、授業の冒頭で述べ、且つ、教科書の表紙に書かれていた自身の言葉に「哲學は吾人の有限を以て宇宙を包括せんとする企圖なり」がある。著書に「哲学概論」(没後の編)がある。以上は彼のウィキに拠った。そこでも一説としてあるが、岩波新全集の関口氏の「人名解説索引」にも、かの夏目『漱石の「三四郎」の広田先生のモデルとされる』とある。]

 

 

明治四五(一九一二)年四月一日・消印二日・東京區牛込赤城元町加賀樣方 山本喜譽司樣 (葉書)

 

   旅人よいづくにゆくやはてしなく道はつゞけり大空の下

 

今日朝八時東京發大月下車七里の道を下吉田に參り候 空晴れて不二の雪さはやかに白く其處此處の山畑には桑の枯枝の下に菜の花の黃なるを見うけ候 宿の名は小菊 寒氣つよく炭火をあかく起したるをかこみて之をかき候

   四月一日            龍

 

[やぶちゃん注:龍之介はこの試験明けの翌日四月一日、午前八時に西川英次郎とともに、大月・静岡大宮方面の旅行に出かけ、ここにある通り、この日は下吉田に旅宿した。次の書信で判る通り、三日には富士の裾野を廻って静岡大宮に滞在している。本当に芥川龍之介は旅好きだ。]

 

 

明治四五(一九一二)年四月三日・消印「靜岡大宮局」・神田猿樂町永井方 小野八重三郞樣(転載)

 

   一しきり花白蘭の風にほふ木挽の小屋に鶯をきく

   うす靑き初春の空やほの白う雪の山見え野は花菜さく

   鶯の聲の流るゝ水色の空にけむれり樺の若芽は

 

裾野を半周して大宮に至る

   四月三日            龍

 

 

明治四五(一九一二)年四月十三日(推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

君が此手紙を見る時はもう僕が芝についてる頃だらうと思ふ

あれから家へ歸つて君にあつた事を話したら「御前とは違つて感心だ」と云つた「御前とは違つて」には驚いた

僕も家中つれて御花見に行かうかと思ふ 君をもつた御祖母さんが羨ましい

石崎が農科へ行くさうだ 農科流行だね 僕の方は依然として僕一人だ

殊に三中開闢以來未だ一人も通つたものがないのだからな

歸つて見たらヒヤシンスの花が細々と紫と白に咲いてゐた さびしい花だ

マアテルリンクの Blue bird をよむだ 二百四十頁を二日で讀ンだのだから NO よむ氣になつたンだから面白さがしれると思ふ 芝居も見たくなつちやつた 歌舞伎の番附を見たのも動機の一かもしれない

此頃は大分荷風の享樂主義にかぶれちやつた

最後に御願がある 一昨年の九月にあげた手紙は破るか火にくべるかしてくれ給へ どンな事を書いたか今になつて考へると殆取留めがない さぞ馬鹿々々しい事が書いてあつたらうと思ふ

何となく氣まりが惡いからどうかしちやつてくれ給へ 切に御願する

    十三日夜  芝へかへる十分前  龍

   喜君

 

[やぶちゃん注:この手紙の最後の部分の前年の書簡とは、或いは「明治四四(一九一二)年 十一日(年次推定)・山本喜譽司宛(写し)」を指すのではないか? と私が推理したものである。

「マアテルリンクの Blue bird をよむだ」龍之介は二年前の明治四三(一九一〇)年四月二十三日の同じ山本宛でも、メーテルリンク(そこではかく表記している)の中の「光」の精の台詞英文引用を記し、「青い鳥」を読むことを彼に強く勧めているのがちょっと不審だが、或いは、その時のものは抄訳の英訳本だったのかも知れない。]

 

 

明治四五(一九一二)年六月二十八日・井川恭宛(封筒欠)

 

井川君   六月廿八日午後 東京にて 龍

新聞を送つて下すつて難有う 幾日か君の歸鄕の道すぢをよむことが出來るのを樂みにしてゐる、

讀書三昧所か 每日半日は何かしら用が出來てつぶされてしまふ せめて七月にでもはいつたら少しは落つける事だらうと思ふ

廿六日の晚 OPERA をみに行つた 僕の行つた晚は Tanner と云ふ人の THE QUAKER GIRL と云ふ出し物だつた

每日曲がかはるので 廿九日にはあの Musume をやるんださうだ 見物には西洋人が可成澤山きてゐた 三等にさへ夫婦づれが二組來て居たと云へば BOX ORCHESTRA STALL に澤山きてゐたのはしれるだらう

藤岡君と一緖になる 豫想してゐたより割合に下品でその上豫想してゐたより遙に話す言葉がわからない、笑はせる事は隨分笑はせる 僕のうしろにゐた米國人らしい女なんぞは、黃色い薔薇の造花をつけたパナマの大きな帽子が落ちはしないかと心配するほど笑ふ PINK の襟飾をつけた品のいゝその亭主も時々笑ひ聲を何段にも鼻からきつて出す、唯不快だつたのはupper circle や gallery にゐる三等四等の日本人が偶[やぶちゃん注:「たまたま」。]、拍手さへ長くつゞけてゐれば必俳優はその技を何度でもくりかへすべき義務があるものと盲信して ENCORE の拍手を長々と何時までもやつてゐる事であつた

はねて明い灯のついた玄關を外へ出るときに 淺黃繻子の地へ雲と龍と騏麟との刺繡をした支那めいた上衣の女を見た その下から長くひいた淡黃色の JUPON も美しい、つれのもつとぢみななりをした年よりの女と自動車まで話しながら步いてゆくのである 話は英語のやうだつた、――OPERA よりもこの女に一人あつたので 餘程西洋らしい心もちがした、

廿四日か三日に寮へ行つた 敎室では札幌農大の試驗をやつてゐた あの廊下の練瓦の壁に貼つてある數學の問題をみると大槪やさしい 寮には鈴木と八木と黑田と根本がのこつてゐた 藤岡はときくと西寮の三階に獨りで住んでゐるのだと云ふ anchorite みたいだなと思ふ

今はもう皆國へかへつてしまつた 藤岡君だけは卅日頃かへると云つてまだのこつてゐる あの白い壁へ殆半年ばかりぶらさがつてゐた新島先生も もう鈴木の行李の底へはいつて仕舞つたらう Adieu

 

[やぶちゃん注:この六月下旬に学年末休暇に入り、龍之介は自宅に帰っている。

「井川恭」(いがは(いがわ)きょう 後に婚姻後に「恒藤」(つねとう)と改姓 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年)は島根県松江市で次男として生まれた。芥川龍之介とは一高時代の同級生で、後に京都大学法科に進学し、法哲学者として同志社大教授・京大教授(昭和八(一九三三)年の「京大事件」で自ら退官。戦後に復帰)・大阪商科大学長を務めた(彼は内臓疾患と思われる病気で中学卒業後三年間の療養生活を送ったため、龍之介よりも四歳年長である)。芥川生涯の盟友となり、彼の失恋の傷心を慰め、自死に向かう彼の晩年にも種々の気遣いをした、龍之介を語る上で非常に重要な人物である。先の年賀状を除くと、旧全集では彼への書簡の最初は本篇である。先に出した「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)で、龍之介は以下のように記している。

   *

 恒藤恭 これは高等學校以來の友だちなり。舊姓は井川。冷靜なる感情家と言ふものあらば、恆藤は正にその一人なり。京都の法科大學を出、其處の助敎授か何かになり、今はパリに留學中。僕の議論好きになりたるは全然この辛辣なる論理的天才の薰陶による。句も作り、歌も作り、小說も作り、詩も作り、畫も作る才人なり。尤も今はそんなことは知らぬ顏をしてゐるのに相違なし。僕は大學に在學中、雲州松江の恆藤の家にひと夏居候になりしことあり。その頃恒藤に煽動せられ、松江紀行一篇を作り、松陽新報と言ふ新聞に寄す。僕の恬然と本名を署して文章を公にせる最初なり。細君の名は雅子、君子の好逑[やぶちゃん注:「かうきう(こうきゅう)」。良き連れ合い。]と稱するは斯る細君のことなるべし。

   *

この「松江紀行一篇を作り、松陽新報と言ふ新聞に寄す。僕の恬然と本名を署して文章を公にせる最初なり」は二〇〇六年に私が公開した『芥川龍之介「松江印象記」初出形』がそれである。他に、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、それを含む井川恭自身の著になる「翡翠記」の全電子化オリジナル注(二十六回分割)も完遂している。

「OPERA」正確には「オペレッタ」(イタリア語:operetta)。通常の台詞と歌の交った軽い内容のオペラ。十九世紀後半以降にパリやウィーンを中心に流行した。「軽歌劇」「喜歌劇」などとも訳された。次の次の注参照。

「Tanner」筑摩全集類聚版脚注では『不詳』とするが、これはイギリスの舞台監督・劇作家 James Tolman Tanner(一八五八年~一九一五年)でミュージカルを多く手掛けている。彼の英文ウィキがあるが、そこの彼のプロデュースした演目の中にまさに、龍之介が見た前年一九一〇年作とする「The Quaker Girl」がある。以下も参照。

「THE QUAKER GIRL」筑摩全集類聚版脚注は「Tanner」ではしくじったが、ここには『バンドマン一座の喜歌劇の演目。たびたび来朝しているが、二十六、二十九日に「クェーカー娘」「日本娘」を出しているのは、明治四十五年の六月』と、以下の述べる通り、かなりいい線まで調べ上げている。さて、和歌山県立図書館刊の『南葵音楽文庫紀要』第二号(「南葵」は「なんき」と読む。後述する)PDF)の「資料紹介」の「オペレッタの楽譜」(79コマ目)の楽譜書誌に「クエーカー教徒の娘」とあり(太字は私は附した)

   《引用開始》

The Quaker girl : a new musical play in three acts / By James T. Tanner ; lyrics by Adrian Ross and Percy Greenbank ; music by Lionel Monckton.

London : Chappell & Co., c1910, 1911.

vocal score (225 p.) ; 28 cm.

Pl. no. 24514.

作曲者印(t. p.)

南葵文庫印

製本(775.4/MO)

* 日本初演 1911(明治 44)年 6 26日 バンドマン喜歌劇団 帝国劇場

   《引用終了》

まさにこの初演こそが芥川龍之介見たそれなのである(ここで英文に「クェーカーの少女」を「ニュー・ミュージカル・プレイ」と称しているのにも着目されたい)。因みに帝国劇場はまさに、この明治四十四年年三月一日に竣工したばかりであった。当該ページの解説の一部引く。

   《引用開始》

 南葵音楽文庫にオペレッタ、ミュージカルの楽譜がある。オペラと共存しつつ展開されてきたオペレッタは、20 世紀初頭アメリカ型娯楽演劇としてのミュージカルにとって代られる。オペレッタからミュージカルへ。文庫蔵書は丁度その時期に刊行された楽譜が多く、当時のオペレッタ、ミュージカルの傾向を反映した興味深い資料群となっている。

 明治 40 年代の東京に登場した純西洋式劇場の有楽座(1908年)や帝国劇場(1911年)は日本の舞台芸術に新たな場を提供したが、この2つの劇場の開場以降、東京でもバンドマン喜歌劇団 The Bandmann Opera Company(1906年初来日)や横浜在住の外国人たちによるオペレッタ(当時オペラと呼ばれていた)公演がしばしば行なわれるようになった。徳川頼貞が観劇を許されるようになったのもその頃からで、学習院の学友たちや4歳違いの弟・治と連れだってよく出掛けていったようである。著書『薈庭樂話』[やぶちゃん注:「わいていがくわ」。「薈庭」は徳川頼貞の雅号。]にはその時のエピソードが幾つか記されている。最初に観たのは有楽座のバンドマン公演「バルカンの王女」というから、1911(明治44)年6月のことで頼貞 18 歳、英語の勉強になるからと父を説得したという。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

先に言っておくと、「南葵音楽文庫」は政治家・実業家で紀州徳川家第十五代当主徳川頼倫(よりみち)が設立した私設の図書館「南葵文庫」の音楽部門に端を発するもので、関東大震災の直後に頼倫が「南葵文庫」の音楽部門を除いて東京帝国大学に寄贈した。頼倫の子息で音楽学者・政治家・実業家であった徳川頼貞(明治二五(一八九二)年~昭和二九(一九五四)年)は、その残った音楽部門を継承するとともに、蒐集を大幅に拡大し、音楽及び音楽学の専門図書館に向けて拡充したが、財務危機とその後の第二次大戦によって一時期は膨大な資料の所在も不明となっていたが、昭和四二(一九六七)年になってコレクションが再びに日の目を見、一九七七年以降は読売日本交響楽団が所蔵している。而して二〇一七年に和歌山県及び読売日本交響楽団の寄託契約に依って、紀州徳川家所縁の地である和歌山(県立図書館)で一般公開されたものである(以上は公式サイトの歴史の記載その他を参照した)。さても、以上によって、この「OPERA」の実態は十全に解明されたと言ってよかろう。また、引用した雑誌『南葵音楽文庫』のそれからは、今一つの意味を我々は知ることが出来る。則ち、このオペレッタ・喜歌劇を、芥川龍之介が、何故に好き好んで見に行ったのかという疑問である(「豫想してゐた」以上に内容が「下品」だとさえ言っている)。則ち、これは全てが英語で行われたそれで、龍之介としてはネィティヴがネィティヴに味わう英語を聴いてやろうという思いがあったからに他ならない。しかしそれは「豫想してゐたより遙に話す言葉がわからない」という軽いショックも受けているのも見逃してはならない。

Musume 」筑摩全集類聚版脚注に、内容が『外人の見た日本であるため』、『遠慮して上演の予定に入れていなかったのが、突然』、『変更されて』演目に加えられ、『評判になっていた』とあるから、これは日本語の「娘」の意であろう。

「BOX」ボックス・シート。劇場の一般席から隔てられた特別席。

「ORCHESTRA STALL」オーケストラ・ストール。劇場の一階席の舞台前のオーケストラ席直前の、一階前方にある一等席。

「藤岡君」藤岡蔵六(ぞうろく 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)は愛媛県生まれで、一高以来の友人。哲学者。東京帝大哲学科を卒業後、ドイツに留学し、帰国後、甲南高等学校教授となった。先に出した「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)で、以下のように記している。

   *

藤岡藏六 學校以來の友だちなり。東京の文科大學を出いで、今は法政大學か何かに在り。僕の友だちも多けれども、藤岡位損をした男はまづ外ほかにあらざるべし。藤岡の常に損をするは藤岡の惡き訣にあらず。只藤岡の理想主義者たる爲なり。それも藤岡の祖父に當る人は川ばたに蹲まれる乞食を見、さぞ寒からうと思ひし餘り、自分も襦袢一枚になりて嚴冬の緣側に坐り込みし爲、とうとう風を引いて死にたりと言へば、先祖代々猛烈なる理想主義者と心得べし。この理想主義を理解せざる世間は藤岡を目して辣腕家と做す。滑稽を通り越して氣の毒なり。天下の人は何と言ふとも、藤岡は斷じて辣腕家にあらず。欺かし易く、欺かされ易き正直一圖[やぶちゃん注:ママ。]の學者なり。僕の言を疑ふものは、試みにかう考へて見るべし。――芥川龍之介は才人なり。藤岡藏六は芥川龍之介の舊友なり、その舊友に十五年來欺されてゐる才人ありや否や。(藤岡藏六の先輩知己は大抵哲學者や何かなるべければ、三段論法を用ふること斯くの如し。)

   *

「upper circle」三階棧敷席。

「gallery」中二階席。これらの意味は構造によって相互に入れ替わることがあるが、通常は以上で、劇場の特別席は「dress circle」と呼ばれ、概ね視聴に最も適した二階正面席を指す。

「ENCORE」「アンコール」。フランス語で「もう一度」の意。但し、音写は「オンコゥ」に近い)。恐らくは後期ラテン語「in hanc hōra」(「この時間まで」)が語源とされる。しかし、現行、これを再演の要請に用いるのは英語圏やそれにかぶれた日本人が殆んどで、フランスでは専ら「Une autre !」(「ウノォトレゥ!」:「今もう一度」の意)或は「bis !」(「ビス!」:「再び!」ラテン語の「bi-」(「二度・二倍」)由来)が用いられる。

「繻子」「しゆす(しゅす)」と読む。布面(ぬのおもて)が滑らかで、つやがあり、縦糸又は横糸を浮かして織った織物。

「JUPON」フランス語「ジュポン」はスカートの下に着用する女性用の長い下着である英語の「ペティコート」(petticoat)のことだが、ここで龍之介はそれを裾を引きそうなほどに長井スカートの意で用いている。

「札幌農大の試瞼をやつてゐた」「札幌農大」現在の北海道大学の前身で、札幌農学校が明治四〇(一九〇七)年九月一日に改称した「東北帝國大學農科大學」が正式名である。東北帝国大学農科大学が東北帝国大学から分離されたのは大正七(一九一八)年四月一日のことである。一高が、この時、その遠隔地受験会場になっていたということである。

「鈴木」鈴木智一郎であろう。新全集の「人名解説索引」に(ピリオド・コンマを句読点に代えた。以下同じ)、『一高時代の同級生。兵庫県の生まれ。大兵肥満』で、二十『貫』(七十五キログラム)『を超え、柔道の名手であったとされる。のち北樺太セキュウに勤務』したとある。

「八木」八木実道(理三)であろう。同前で、『一高時代の同級生。愛知県の生まれ』。東京帝大『哲学科卒。宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校』(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)『生徒主事兼教授』とある。

「黑田」黒田照清(?~昭和三九(一九六四)年)であろう。同前で、『一高時代の同級生。石川県の生まれ。太平小学校長・東京聾学校長を歴任』とある。

「根本」根本剛(明治二五(一八九二)年~昭和六二(一九八七)年)であろう。同前で、『一高時代の同級生。茨城県の生まれ。旧制新潟中学校教諭を経て、中央大学教授。ホーソンの『ワンダーブック』の翻訳がある』とある。

「藤岡」先の藤岡蔵六。

「anchorite」アンカレット。英語で「隠者・世捨て人」の意。

「新島先生」かのキリスト教伝道者で教育家の新島襄(にいじまじょう 明治二三(一八九〇)年~天保一四(一八四三)年)の肖像画であろう。鈴木君は彼の信奉者であったようだ。

「Adieu」「アディユ」。フランス語で「さようなら」。]

 

 

明治四五(一九一二)年七月十六日・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・親展・「十六日朝 芥川龍之介」

 

御無沙汰をしてすまない

此間成蹟[やぶちゃん注:ママ。]をみに學校へ行つた 石田君だの大江君だの何だのに遭ふ前の日の午前に出る筈のがやつと翌日の午後になつて出たのである 其上大へん暑い日であのアスフアルトのやうに空までが白く爛れてゐた 折角暑い思をして見て來たものだから君の所へもしらせやうと思つたが 石田君が何でも大ぜいの人に通知をしなければならないと吹聽してゐた中に君の名もあつたから二度の手數をかけるのでもないとやめにした 鈴木は氣の毒な事をした 後藤さんは仕方がないにしても

休み前に思つた通りになる事は一つもない 本もそんなに早くよめない 旅行にも出かける氣にならない 每日ぼんやり硝子戶の外にふる雨の音をきいてゐるばかりだ 人も滅多に來ない 人の所へも更に滅多に行かない 胃が少し惡くなりかゝつてゐるのが閉口だが其外は格別苦になる事もない 布で大きな茶袋のやうなものを二つ拵へてその口に眞田紐[やぶちゃん注:「さなだひも」。]をつけてその中へ足をつゝこんで紐を膝の上でしめて蚊に食はれない豫防をして 本をよんだり晝寐をしたりしてゐる 何時までも休みがつゞくといゝなと思ふ

入學試驗がすんだ KANIPAN[やぶちゃん注:縦書。]は多分いけなからうと思ふ 問題は大へんやさしい 殊に國漢なんぞは御話しにならん 槪してやさしすぎる あれでは採点[やぶちゃん注:ママ。]の時先生の氣分の働く余地[やぶちゃん注:ママ。]が多からうと思ふ 漢文を例の爲に御覽に入れる

豐太閤磊々落々氣象。似石勒。而其膽畧過之。其代織田氏興。雖未免欺其孤兒寡婦。蕩掃海内。濟二百年塗炭之民。惜乎能治亂而不能成治也。

其上豐太閤と石勒にUNDERLINE[やぶちゃん注:縦書。]をして個有名詞たるを示してゐる 中學の二年生でもよめるにちがひない、

紫紅氏の戀の洞を帝劇へ見に行つた 大へんつまらないのでシアロツクホルムスと喜劇とは見てゐる氣になれなくつて早く電車にゆられながら家へかへつた 唯眼にのこるのは中幕辨慶上使の幸四郞の辨慶とかく子のおわさばかりである 蚊帳の中に橫になる時何時までも舊劇を翫賞する――舊劇以外に翫賞し得るものを見出し得ないのを心細く思つた、しかしこれは作劇が文藝に興味を有する若旦那の手に委ねらるゝ限り續くのに相違ない

MYSTERIOUS[やぶちゃん注:縦書。]な話しがあつたら敎へてくれ給へ あの八百萬の神々の軍馬の蹄のひゞく社の名もその時序にかいてよこしてくれ給へ ろせつちの詩集の序に彼は超自然な事のかいてある本は何でも耽讀したとかいてある 大に我意を得たと思ふ一笑 時々ろせちをよむ 願くは此詩人のやうに純なる詩の三昧境に生きたいと思ふ

ADIEU

   御盆の十五日         龍

  井川君

 

[やぶちゃん注:「此間成蹟をみに學校へ行つた 石田君だの大江君だの何だのに遭ふ前の日の午前に出る筈のがやつと翌日の午後になつて出たのである」この言い方から、成績発表が予定よりかなり遅れて発表された(七月上旬)ことが判る。岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注によれば、この時、総合成績の一番が書信の相手である井川恭で、二番が芥川龍之介であったとある。「石田」は後に歴史学者・東洋学者となった同級の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年:千葉市出身)のこと。「大江」は同級生と思われるが、不詳。

「鈴木」前の書簡の新島の肖像を飾っていた彼と思われ、井川にかく書くところからは、共通の級友であったようだ。

「後藤」筑摩全集類聚版脚注によれば、『後藤末雄。三中・一高の上級生』とする。彼のウィキによれば、(明治一九(一八八六)年~昭和四二(一九六七)年:龍之介より六つ年上)は作家・フランス文学者・比較文学及び比較思想史研究者。東京の「金座の後藤」と言われる工芸の旧家に生まれた。『浅草橋の小学校に通い』、『府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと第』二『次『新思潮』の創刊に参加し、小説家として出発』、大正二(一九一三)年に東京帝大『仏文科を卒業し』(英文科から転部したということか。なお、この年に芥川龍之介は同大英文科に合格している)、『陸軍士官学校の教師となる』。『華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中で、森鷗外らの愛顧を得て』、『創作を続け』た。大正五(一九一六)年には「女の哀話」物の『小説を「遊蕩文学」として赤木桁平に』批判されるが、『なおも創作を続けた』。大正六(一九一七)年から翌年にかけて大作「ジャン・クリストフ」を初訳刊行した』『が』、『同時期に創作の筆を絶ち』、大正九年、『永井荷風の世話で慶應義塾の教員となり』、後に『慶應義塾大学教授』となり、さらに『立教大学教授も兼任』した。昭和八(一九三三)年には『博士論文』「支那思想のフランス西漸」を『刊行し、儒教のフランス近代思想への影響を解明して、比較思想史の先駆的研究となった。』とある。岩波新全集の関口氏の「人名解説索引」によれば、後藤は『一高時代から小説・戯曲を書』いていたとある。龍之介らの第四次『新思潮』・谷崎潤一郎・赤木桁平と接点が数多くあるが、作家となってからの芥川龍之介と親しかった形跡は、これ、全くない。なお、これらを総合して考えると(正直、どうでもいいことだが気になるので言っておくと)、ここでは黒田は二年上級(最終学年)で落第したらしく、帝大でもダブっていないと勘定も合わなくなる。閑話休題。ともかくも、龍之介が井川に落第を「仕方がないにしても」と書き送るところを見ると、後藤は井川とも親しく、龍之介が観察するに、しばしば授業をサボっていたか、講義に身が入っていないことがよく知られていたようではある。

「入學試驗がすんだ」一高のそれ。

「KANIPAN」不詳。筑摩全集類聚版脚注も『未詳』、堀切透氏も注せず。芥川龍之介が井川に紹介した、三中の後輩か、昨年不合格であった友人か。【2020年2月7日削除・注記】後に示す大正元(一九一二)年八月三十日の井川恭宛書簡を見るに、確定ではないが、三中時代の同級生中塚癸巳男のことであろうと思われる。彼は三中時代の同級生で、芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録「槍ヶ岳紀行」(リンク先は私のサイト版)に同行した他、当時の龍之介の旅にしばしば同行しており、西川英次郎・山本喜誉司などとともに、非常に親しい仲間であった。彼は二浪して、明治四十五年に一高の第二部甲類に入学したことは、こちらで注した。

「太閤磊々落々氣象。似石勒。而其膽畧過之。其代織田氏興。雖未免欺其孤兒寡婦。蕩掃海内。濟二百年塗炭之民。惜乎能治亂而不能成治也」出典を探し得なかった。我流で訓読すると、

   *

太閤、磊々落々の氣象、石勒(せきろく)に似たり。而して其の膽、畧(ほぼ)、之れに過ぐ。其の代、織田氏に興(おこ)ると雖も、未だ、欺其の孤兒にして寡婦たるを免れず。海内(かいだい)を蕩掃して、二百年の塗炭の民を濟(すく)ふ。惜しいかな、能く亂を治め、而して、治を成すこと能はざるなり。

   *

か。私は秀吉が嫌いなので、悪しからず。「石勒」(せきろく 二七四年~三三三年)は五胡十六国時代の後趙の創建者で、上党郡武郷県(現在の山西省晋中市楡社県の北西)を本貫地とする羯(けつ)族(匈奴羌渠(きょうきょ)族の末裔)の出身。前趙の将軍として河北・河南を転戦し、王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷といった北方の諸勢力を次々と滅ぼした。三代皇帝劉聡の死に際には、後事を託されたものの、五代皇帝劉曜と対立するようになると、自立して後趙を興し、前趙を滅亡に追いやって華北に覇を唱えた。奴隷の身分から中原を統べる皇帝まで昇った中国史上唯一の人物ではある(以上は彼のウィキに拠った)。

「紫紅氏の戀の洞」山崎紫紅(明治八(一八七五)年~昭和一四(一九三九)年)は大正期の詩人・劇作家・歌舞伎作者。横浜市生まれ。本名は山崎小三(しょうぞう)。小学校卒。独学で文学を学び、明治三〇(一八九七)年頃から「文庫派」の詩人として知られる。『明星』『白百合』『文芸界』に詩作を発表し、「日蓮上人」「大日蓮華」の叙事詩を書いている。明治三十八年発表の「上杉謙信」が真砂座の新派劇の俳優伊井蓉峰(いいようほう)一座によって上演され、以後、劇作に専念したが、関東大震災後、創作から遠ざかり、神奈川県会議長・横浜市議・横浜生糸取引所理事などを歴任した。「戀の洞」については、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注によれば、当時の『帝国劇場』では、この年の七月『三日から山崎紫紅』作の『「恋の洞」』(「ほら」か?)『「シャーロックホームス」、益田太郎冠者栅「三太郎」などを上演。中幕の「弁慶上使」は、原名題「御所桜堀河夜討」』(ごしょざくらほりかわようち:浄瑠璃。五段。時代物。文耕堂・三好松洛合作。元文二(一七三七)年竹本座初演で、「義経記」等に取材し、弁慶・伊勢三郎などに関する伝説を取り入れて脚色したもので、三段目「弁慶上使」(別名「御所三」)・四段目「藤弥太物語」が今日上演される。義経の室卿の君は平時忠の娘なので、「その首を討て」という頼朝の命をうけて、弁慶は卿の君を預かる侍従太郎の館に上使に来るが、太郎は腰元信夫(しのぶ)を身替りに立てようと、信夫の母おわさに頼む。様子を聞いた弁慶は障子越しに信夫を刺し、「自分こそ信夫の父」と名乗る。おわさの「くどき」と弁慶が大振袖を現わしての述懐が見どころ(「弁慶上使」)。梶原に組する藤弥太は静御前の兄であるが、母に諭されて改心し、義経の住む堀川御所夜討の計画を告げ、討手を引き受けて美事な最期をとげる(「藤弥太物語」)というストリー。ここはサイト「立命館大学アート・リサーチセンター」のArtWikiのこちらの記載に拠った)『三段目のことで、弁慶は七世松本幸四郎の当り芸』であったとされ、『「かく子」は、女優村山嘉久子』(明治二六(一八九三)年~昭和四四(一九六九)年)で、『帝劇付属技芸学校の第一期生』とあった。

「MYSTERIOUSな話しがあつたら敎へてくれ給へ」芥川龍之介に怪奇談蒐集趣味が明確に表わされた現在確認出来る最初の一瞬である。私のサイトの最旧下層に属する電子化である「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」を見られたい。

「ろせつち」私の愛するイギリスのラファエル前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti  一八二八年~一八八二年)。現在では画家としての方が有名であるが、彼は詩人でもあった。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十五)』を参照されたい。]

只野真葛 むかしばなし (2)

 

 母樣、をさなだち、春のふたへ着は、郡内丹後の類のしまに、紅うらのみじかき振り袖なり。其頃より袖もしだいにながく、裾模樣などもはやりだしたるに、極(ごく)むかしのふうにて、たゞ人柄のよきをのみ、たけきことゝして、御そだち被ㇾ成しとぞ。よそ行御めし物、いくらできても、惣模樣(さうもやう)ばかり、あき人も、當世へむかぬ古ものゝはめ所にして持てくれば、いつも御とゝのへ被ㇾ遊とぞ。折々、橘家【橘隆庵樣、公儀御醫師。桑原家の師なり。】[やぶちゃん注:頭注。]へ逗留にいらせられゝば、女共、よりたかり、やれ、

「袖がみじかい。」

「はゞひろひ。」

「むかし繪の正(しやう)寫しよ」

など、いひて、わらひものにするを、をさな心に、はづかしくおぼしめされし故、御めし物いできても、

『なぞや、世の人の笑ぐさになる物よ。』

とおぼしめせば、御悅(およろこび)の色、なし。御二方も、

「いくら、着物きせても、うれしがらぬ子。」

と被ㇾ仰しとなり。工藤家へ御入(おはいりの)後は、としどし、父樣、御物好(おんものずき)にて、すそ模樣ばかり召させられしなり。

[やぶちゃん注:「をさなだち」「幼立ち」幼い頃。或いはその折りの御様子。

「郡内丹後」山梨県郡内地方で産出する絹織物の「甲斐絹 (かいき)」で作った丹後縞(本来は丹後地方から産出した縞の絹織物。多くは紬 (つむぎ) で、黒か茶色の地に朽葉 (くちば) 色か萌葱 (もえぎ) 色で縦縞を表したもの)のものの意であろう。丹後縮緬(白生地の縮緬)を真似たものでもよいが、丹後縮緬の技術創生が享保年間(一七一六年~一七三六年)とされるのと、真葛の母遊の推定生年(元文六/寛保元(一七四一)年)が近過ぎる気がすること、それが地方で産生されるようになり、流行するには、さらにタイムラグがあるはずで時期的に如何か? と疑問を持つこと、さらにそうだとすると、それは当時の最新の流行となったと考えるなら、そうした流行りの服と無縁であったとする彼女(遊)のありようからは、相応しいと感じないからでもある。

「惣模樣」小袖模様の一形式。肩裾模様とか褄(つま)模様など、小袖の限られた部分にのみ模様を置き、他を無地のままに残した形式に対して、小袖全面に模様を配したものをいう。広義には亀甲とか格子などの比較的単純な型を繰り返し、小袖全体をくまなく埋め尽くした形式も含まれるが、一般には小袖をあたかも一枚の画布に見立て、これに御所解(ごしょどき)模様(四季の草花を細かく密に表わし、その間に御所車・扇・柴垣など「源氏物語」等の王朝文学や能に頻出する事物を配するのを特徴とした模様)や風景模様など、絵画的な性格の濃厚な模様を表した観賞的な小袖模様を指す(小学館「日本大百科全書」他に拠る)。

「あき人」「あきんど」と読んでおきたい。

「はめ所」推測であるが――流行りの廃れた古いタイプの売れないものを買って呉れる「嵌め所」――都合のいい格好の「上客」のいるところ――の謂いではあるまいか?
「御とゝのへ被ㇾ遊とぞ」「御調へ遊ばさるとぞ」。お買い揃えになられたとのことであります。

「橘家【橘隆庵樣、公儀御醫師。桑原家の師なり。】」橘隆庵元常(もとつね)。遊の父である仙台藩医桑原隆朝(りゅうちょう)の医号に「隆」があるのは、彼の弟子であるからであろう。医学誌・盲人史・東洋医学をメインの研究とするサイト「香取研究室」の「江戸幕府医療制度研究室」のこちらの「4」にある香取俊光の論文「元禄時代の鍼・灸・按摩・医学史料―附『隆光僧正日記』医師・医事索引―」(『理療の科学』一九九七年発行・20-1掲載)に、元禄時代(一六八八年~一七〇四年)に活躍した新義真言宗の僧護持院(知足院)の住職であった隆光(りゅうこう 慶安二(一六四九)年~享保九(一七二四)年:五代将軍綱吉の生母桂昌院の信任厚く、柳沢吉保とともに側近として文治主義を徹底させ、「生類憐れみの令」の発案者としても知られる)の「隆光僧正日記」が引かれてあるが、その元禄一四(一七〇一)年四月末のこと、隆光が「食中り」に罹患した際の記載の中に、心配した綱吉が、御殿医である『宋仙院(橘元常)被参』と記されているのを見つけた。不謹慎だが、香取氏も述べておられる通り、『読み手のこちらにとっては』、『その情景がリアルに想像できて』、『滑稽な記事』として読め、たいそう面白い。必見である。

「なぞや、世の人の笑ぐさになる物よ」「なぞや」は副詞「なぞ」+係助詞「や」で疑問・反語を表わす。「どういうわけかしら?」、或いは反意・不服を含んだ意だが、ここは後者で「どうしたのかしら? 世の人の笑い草になるばかりだわ……でも、そんな扱いを受けるの……おかしい……厭だわ!」の意でとるべきであろう。

「父樣、御物好にて」お父上さま(真葛からの謂い。遊からは夫である)のご趣味で。

「すそ模樣」「裾模樣(すそもやう)」。和服の模様付けの一種で、裾にのみ模様がアクセントとして置かれたものを指す。女性の礼装用で、全体に模様を施した「総模様(そうもよう)」に対するもの。]

2021/02/02

怪談登志男 十三、望見の妖怪

 

   十三、望見の妖怪(もちみのやうくわい)

Motiminoyoukai

[やぶちゃん注:ずっと後の離れた位置にある本篇の挿絵を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして示した。]

 國々、所々にて、さまざまの風俗ある中に、信濃國千町(せんちやう)が沖(おき)、鶴牧(つるまき)の縣(あがた)、松代(まつしろ)の城下には、正月十五日の夜、「望見」とて、爰かしこの蔀(しとみ)のあたり、塀際(へいきは)・門のほとりに、ひとり、ふたりづつ、しのびやかに彳(たゝずみ)、人の家を、のぞき見て、其眼(め)にふるゝ所に從ひ、年中(ねんぢう)の吉凶(きつきやう)をはかり占(うらなふ)、とあり。

 爰に、ある人、用事ありて、紺屋(こんや)町といふ所より、代官町へ通りしに、しのびやかにたゝずみ居たる人、こゝかしこに見ゆれば、

『誠に。今宵は望見とやらん、一とせのよしあしを見るといふなる。さらば、我も見て、通らばや。』

と、思ひて、立寄たるに、門の戶びらに、顏、さし付て、餘念なく見る躰(てい)のもの、あり。

 かしらに、ぼうし、かふむり、羽織(はおり)着(き)たるは、女とも、男とも、いぶかしさに、近く寄て見れば、いとうつくしき女なれば、『いかゞ』と思ひ、立のかんとする袖をひかへ、

「あれ、見給へ。」

と、いふにまかせ、少(すこし)のすき間より、さしのぞけば、淺黃(あさぎ)と白き羽二重(はふたへ)に、「諸行無常是生滅法(しよぐやうむじゃうぜしゃうめつほう)」の四句の偈(げ)、書(かき)て押立、紗(しや)にて張りたる燈籠、ともし立、男女、はしり𢌞るさま、

「これは、いかに。」

といふに、彼女がいふやう、

「是は、足下(そこ)の、ことし、三、四月をこへずして、憂(うれい)を見給はん瑞(ずい)なり。我等(ら)は、おもて村の親の方へ參り候。此町のうち計(ばかり)、通りがてらに望見せんと思ひ候。殿(との)も、いざ、させ給ヘ。」

と、彼男の手をとらへ、はしり行(ゆき)、息も切るゝばかり、五、六町[やぶちゃん注:凡そ五百四十六~六百五十五メートル。]も、おもはず、はしりつる間、

『是は、あるべくもなき、ふるまひかな。』

と心付たる時、うつ伏(ふし)に、ころびたるに、女は、いづち、うせけるや、形も、なし。

 立(たち)あがりて、前後の事をおもふに、さまで放心したる事はなかりしが、

「扨は。いぜんの女は、狐にてありしにや。」

と、あたりを見れば、空は曇(くもり)つれども、月の、最中(もなか)なれば、心のうちに、

『口惜き事。』

とおもひ、立て見、居(い)て見、山のかたちを見るに、淸㙒(きよの)の鞍骨(くらぼね)の城山(しろやま)、みえけり。

「西條(でう)へは行とも、鞍骨の峯(みね)の見ゆる迄、遠くも、來つるものかな。」

と、そろそろと、東へ向て、たどり、なめ澤(ざは)のはた迄出、それより、北にむかひて、漸(やうやう)、どう嶋の道に出たり、とかや。

 「其間、さばかりの道を、手を取て、はしりたらんに、誰か、つかれざるべき。思へば、狐・狸(きつね・たぬき)程、おそろしきものは、なし。」

と、其所の老人の、かたり侍りし。

 

[やぶちゃん注:「望見(もちみ)」こうした占い法があるというのは聴いたことがないが、しかし甚だ腑に落ちる。何故なら、正月十五夜望月というのは、その年のたった一度しかない月の特異点という、総てが初回であってしかも一年で一回ぽっきりの完全に精神的に限定された「晴れ」の時空間であるからであり、その夜に、たまたま覗き見たシークエンスを解釈して何かを占うというのは、民俗社会に遍在する占術法と合致するからである。最も相応するのは「辻占(つじうら)」である。「逢魔が時」(=昼夜が入れ替わるところの境界的特異的時間)に村落の外れにある「辻」(=他界からの別な気が澱み交じり合う辺縁的特異的空間)に出向いて、そこを偶さか通過して行く人々の会話やモノローグなどを聴取して、そこからある予知的内容を読み取る(恣意的選択的なものではなくて偶発的自然的な無作為的聴取対象物を組み合わせる点で超自然的呪術となる)方法である。これは正に、満月という「晴れ」の妖しい冷たい青白い光の中で、偶然に覗いた赤の他人の家の人間という無選択的なその様態から、向後の未来の自分に齎される出来事を占うというのと、何ら変わらぬ相同的呪的システムであるからである。覗きだろうが何だろうが、民俗学的な超自然的な「呪(じゅ)」的システムは枠組みさえ同じであれば、何時でも起動するものだからである。

「信濃國千町(せんちやう)が沖(おき)」以下の現在の松代町を含む広域地名でなくてはならないが、全く分からない。「千」と「沖」とからは、千曲川を基準とした氾濫原の中に形成された古広域地名ではないか? という推理は出来るものの、よく判らない。

「鶴牧(つるまき)の縣(あがた)」同前。以下に見る通り、当時の松代は旧埴科(はにしな)郡であるが、当該旧郡域に「つるまき」に近似する旧村を見出せない。

「松代(まちしろ)の城」信濃国埴科郡海津(現在の長野県長野市松代町松代)にあった松代城(グーグル・マップ・データ)。元は「海津(かいづ)城」「貝津城」「茅津(かやつ)城」であったとも言われ、秀吉によって「待城(まつしろ)」へ改名され、江戸前期に「松城」に改名後、正徳元(一七一一)年に再び幕命により「松代城」と改名している。

「蔀(しとみ)」蔀戸(しとみど)。町屋の前面に嵌め込む横戸。二枚又は三枚からなり、左右の柱の溝に嵌める。昼は外しておく。

「紺屋(こんや)町」旧町名の復活が行われていることから、現行の地図でも確認出来るが、サイト「京都芸術大学通信教育課程 芸術教養学科WEB卒業研究展」の岡沢裕子の論文「城下町松代 歴史をつなぐ水のネットワーク」に添えられた「資料1」の左下にある「長野市歴史的風致維持向上計画 2013」(岡沢氏による加筆有り)の地図が町屋と武家の仲屋敷地区が色分けされていて非常に分かり易く、松代城の南の地図の中央左寄りに東西にあることが判る(現在の復活した町名では方形を成しており、当時の町域とは違うことも判る)。

「代官町」紺屋町のさらに南の岡沢氏の打ったオレンジの丸の下方、水色の丸の左手に認められる。

「諸行無常是生滅法(しよぐやうむじゃうぜしゃうめつほう)」「涅槃経」の頭の部分から「諸行無常」偈と呼ばれる「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」の四句の偈の二句。「この世の諸々の万物の事象は、とどまることなく転変し、生まれては、また、消滅する運命を繰り返すだけで、永遠に変わらない恒常なるものは一切存在せず、そこにあるところの人の一生もまた、儚く虚しいものでしかない」ということ。

「足下(そこ)の、ことし、三、四月をこへずして、憂(うれい)を見給はん瑞(ずい)なり」「あなたが、今年、三月(みつき)か四月をも越えることなく、甚だ悲しい目をご覧になる(「死ぬ」の隠語)であろうという兆しです」。

「おもて村」表村という旧村は見当たらないが、先の地図で水色の丸印の南東部に「表柴町」を見出せ、さらに「スタンフォード大学」の旧日本地図の「長野」(大正元年・昭和十二年参謀本部作成)の松代町の市街地の南端の部分に「表組」という地名を打たれてあるのを見出せる。怪しい女の謂いからは、紺屋町及び松代の町屋から一定以上の距離を持った離れた「村」(地方では「村」の代わりに「組」と称するのは現在でも普通に地名として幾らもある)であるから、後者と捉えてよかろう。

「淸㙒(きよの)の鞍骨(くらぼね)の城山(しろやま)」まず、前の「スタンフォード大学」の旧日本地図の「長野」の松代町の東の町外に「淸野村」を認めることが出来る。現在、この地名は残っていないが、小学校その他に「清野」の名を見出せる(グーグル・マップ・データ航空写真)が、その画像を見れば判る通り、ここの南側には丘陵から山塊へえ連なっており、画像を南に下げると、そこに「鞍骨城跡(鞍骨山)」(標高七百九十八メートル)を見出せるのである(国土地理院図も添える。同ピークから東北方向に尾根を下ると、松代町郊外に達するが、その貼り出した尾根のピーク「象山」の南側に「表組」の地名が現在も見出せることが判る)。因みに、紺屋町からこの清野小学校附近までを実測して見ると、二キロメートルほどある。

「西條(でう)」松代町の中に旧西条村が存在した。今も西条小学校の名が残る。紺屋町の真南の、先に挙げた「表組」をも越えた場所である。

「なめ澤(ざは)」不詳。千曲川南岸の沢の名であろう。

「どう嶋」「スタンフォード大学」の旧日本地図の「長野」で見ると、清野村北側の千曲川南岸は「道島」と二箇所に地名が記されてあり、「国土地理院図」では、西方に「道島」、東側に「中道島」とある。ここを北に行くというのは、この男の家は川中島或いは対岸の西寺尾辺りにあったもののようである。]

只野真葛 むかしばなし 電子化注始動 / 序・(1)

 

[やぶちゃん注:只野眞葛の「むかしばなし」の電子化注を始動する。彼女については、私の「只野眞葛 いそづたひ」のブログ版、或いは、同縦書ルビ附PDF版の私の冒頭注、及びウィキの「只野真葛」を参照されたい(長男早逝の脱落以外はよく書けている)。

 本書は所持する現在の最新の校合テクスト(但し、新字体)である一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂)所収の東北大学附属図書館医科分館蔵底本ものを用いたが、恣意的に漢字を概ね正字化し、読み易さを考え、句読点や記号を補い、適宜、段落を成形した。また、殆ど読みがないので、底本の読みは《 》示し、甚だ難読或いは誤読し易しと判断した部分は、私が( )で読みを添えた踊り字「〱」は正字化した。【 】は原本の傍注・頭注・割注である(その違いはそこで示した)。ストイックに注を附した(纏めて段落の後に附したものの後は一行空けた)。標題などはないので、通し番号でソリッドな部分と判断した箇所で切って分割して示す。なお、疑問の箇所は、所持する底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の中山栄子氏校訂(正字版)と校合した(正字正仮名のこちらを底本としなかったのは、本篇には漢字の使用が少ないこと、大形本であるため、OCR読み込みに少し面倒であったからに過ぎない。また、個人サイト「伝承之蔵」で画像化されている「仙臺叢書」第九巻(仙台叢書刊行会編大正一四(一九二五)年九月刊)の「昔ばなし」(正字正仮名。底本明記がないが、底本と同一(以下に示した)と鈴木氏は推定されておられる)も参考にした。

 底本解説によれば、底本の親本は文化九(一八一二)年序で、文政二(一八一九)年筆写になる六巻三冊本の佐々城直知編「朴庵叢書」所収で東北大学附属図書館医科分館所蔵のものが使用されている。なお、標題は冒頭で「昔ばなし」と出るが、底本の総表題に従った。

 同じ鈴木氏の解説に従うと、本篇の執筆は真葛(本名あや子)が『仙台へ移ってから』(寛政九(一七九七)年あや子三十五歳の時に仙台藩上級家臣只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称、只野伊賀)と再婚することとなったが、その頃、行義の江戸定詰が終わっていた)『十四年後の文化八年辛未』(かのとひつじ)『(一八一一)、四十九歳の冬から書き始められ、翌年春』に『完成した』とされ、『当時』は、仙台藩江戸詰の医師であった父平助も、父が工藤家の将来を託した弟源四郎も亡くなっており、『工藤家は母方桑原』(くわはら)『家のいとこが養子になって相続していた』。当初の『執筆の動機は、母の思い出を妹のために書き残すためであった』『が、しだいに父の実家長井家や養家工藤家の先祖のこと、また工藤家と桑原家の紛争や、その原因として〆(しめ)という』『母方の』『叔父の乳母の怨念が書かれるようにな』り、『そして自分自身の江戸での思い出や聞き書き、さらに巻五・六で奥州での聞き書きも加わり、膨大な内容になっていく。そのうち』の『奥州での聞き書きは、後年『奥州ばなし』に発展する。なお、どうしたわけか系譜と相違し、母方祖父が孤児であったという話を書いている』とある。ここに出る実録怪奇談集「奥州ばなし」はこの前に本カテゴリ「只野真葛」で既に電子化注を終えている。]

 

 

昔ばなし 壱

 

 此「むかしばなし」を書し故は、おてる、其地に有し時、そなた樣として、

「故御母樣の御氣質、いかなるや、少しもしらず。」

とて、なげきあはれしと聞し故、

『實(げに)。我ならでしる人もなし。おもひいづるまにまに、書つらねて、みせ參らせん。』

とは思ひしかど、とかく、まぎれて有しが、去(さる)冬の頃より、おもへたちて[やぶちゃん注:ママ。「仙台叢書」では「おもひたちて」とある。]、かたはしを、物に書付おきしを、この春、書あつめて奉るなり。

 桑原家のことより書出(かきいだ)しは、もはら、故母樣のことを、いはんためなり。

○御樣などの事、わづらはしければ、おほくは略す。私には「ワ」を印とす。

 さて、萩君のために「むかしばなし」をあやなして、有し世のことをおもひまわせば、人の代のみじかきをなげき、我代のながきにあまり、あや子寶曆十三年癸未(みづのとひつじ)に生(うまれ)て、この文化九年申にいたりて、五十のよわひをたもてり。母は今年をへて世をさり給ひし。ワは、今いく年をか、へぬらん、末遠くぞおもはるゝ。

 工藤家の、たえはてたるを、「〆《シメ》があく念なり」といふは、この文をあやなすによりて、おのづから、世がたりに聞(きき)ふれしあく念の、あだをなすかたちに似たる故、しか、おもひよれり。

「人の念ほど、おそろしきもの、なし。佛者はことにおそるゝもの。」

と、父君の被ㇾ仰(おほせられ)しをおもひ出られたり。

 

[やぶちゃん注:「おてる」長女であった真葛の末の妹(五女)照子(撫子:彼女の兄弟姉妹は両親によって「秋の七草」の草花に喩えた別称を持っていた)。中目家に嫁した。真葛より二十三も年下であった。

「故母」父平助の妻は同じく仙台藩医であった桑原隆朝の長女遊(ゆう 元文六/寛保元(一七四一)年?~寛政四(一七九二)年:名は不明ともされる)。彼女の死後、平助は奥野氏の娘を後妻に迎えている。

「桑原家」ウィキの「只野真葛」によれば、『母方の祖父は、仙台藩医桑原隆朝』(りゅうちょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年)で、元文五(一七四〇)年に二〇〇石で『仙台藩に召し抱えられ、第』六『代藩主伊達宗村(吉村四男)の』時、四百『石に加増された』。彼の『妻桑原やよ子(生没年不詳)は『うつほ物語』の紀年(年立)を考察し、安永年間』(一七七二年~一七八〇年)『に研究書』「宇津保物語考」を著わすほどの『高い教養の持ち主であり、両親に厳しい家庭教育を施されたあや子の母』もまた、「古今和歌集」「新古今和歌集」「伊勢物語」などを暗唱し、「大和物語」を『繰り返し読むなど』、『古典文学に造詣の深い女性であった』。『なお、母の弟』『純の娘で、あや子からは従妹にあたる桑原信(のぶ)は伊能忠敬の後妻となっている』とある。

「萩君」平助四女の拷子(たえこ)のこと。未婚で通した。真葛とは年齢が近かったようである。「日本庶民生活史料集成」の中山氏の注によれば、当初は』『田安家』の娘の侍女として『仕えたが、姫君が松平定信に輿入されたのでその御付人となって松平家に仕え』、侍女筆頭職である『御老女となった。その姫君が死去されたため』、文化九(一八一二)年に剃髪し、『「離性院」と号して引続き同家に仕えた』(底本の鈴木氏は「萩尼」と号したとするが、これは出家前の通称を用いたものであろう)。曲亭馬琴に特異な論考「独考(ひとりかんがへ)」(文化一四(一八一七)年完成)や「奥州ばなし」・「磯づたひ」(孰れも電子化注済み)を姉から頼まれて届けたのは彼女である。中山氏の注では最後に、『筆蹟の巧さは姉よりもすぐれていると馬琴も批評し』、『世にも稀な姉妹であると才能をたゝえている』とある。序のこの部分から、本書の執筆動機が彼女に母遊の思い出を語り伝えるためであったことが、ここで判る。ただ、ここにはテクスト上の問題点がある。底本は「萩君のたあめに」なのだが、「日本庶民生活史料集成」では『萩君失のために』で、中山氏は注で『萩のお仕え申し上げていた奥方の君が亡くなられたためにの意である』とされ、「仙台叢書」では、『萩君失のために』となっているのである。中山氏の解釈は、まあ、親しく侍したお方の死を前に失意の底にある彼女のために懐かしい母の思い出話をという気持ちは判らぬではない。しかし、それを『萩君失のために』と記すかというと、私にはやや書き方が省略に過ぎて不審に思われるのである。しかも、「君」と「失」は崩し方によっては、酷似して見える。ここは私は底本通りでよいと考えている。

『私には「ワ」を印とす』「私」と書くのが煩わしい(漢字表記の「私」を好まなかったか)示すのに省略した「ワ」を用いるとしたもの。「日本庶民生活史料集成」では、ひらがなで「わ」となっている。しかしこれは読み難い。こちらを選ばなかったのもそのためである。

「〆《シメ》」冒頭注の鈴木よね子氏の引用を参照されたい。以下の冒頭から、ガッツリ語られてゆく示準化石の如き因業婆である。]

 

 

むかしばなし

 

 桑原のぢゞ樣・ばゞ樣は、ぎやうぎ、あくまで、よく、めぐみふかく、召使はるゝ人をも、末々まで、よく御せわ被ㇾ成(なされ)り。かゝ樣には、乳母ありしや、手そだてに被ㇾ成(なされられ)しや、しらず。をぢ樣のうばは「〆」にて、御ぞんじなるベし。

 末に妹子壱人有しが、五ツの時、「ほうそう」おもく、ぢゞ樣は仙臺御供にて留守の時、なくなられしとなり。

 此妹、分(わき)て「はつめい」なる生(うまれ)にて、四(よつ)のとし、百人首を、一ペんよめば、せんべい一枚、御ほうびいづるを、一度(ひとたび)よみしまひて、

「今一ぺん、よみませう。」

といひしを、かか樣、ふびんにおぼしめされしと、御はなしなり。

 其妹のうば、しごく孝子にて、わづかいたゞく小づかひの内を、半(なかば)分(わき)て、母におくりしとなり。其こゝろざしを御哀みありて、妹子なくなりて後も、御せわ被ㇾ成て、御やしき内のやどもりに被ㇾ成しとなり。

 はじめは、隨分、實ていなりしが、不仕合(ふしあはせ)には、夫(をつと)をなくし、後ぞひを入(いれ)しに、其夫、わるものにて、母をあしく仕出(しいだ)せしに、

「夫の心にしたがふは、習ひ。」

といひ、つひつひ[やぶちゃん注:ママ。]、おなじ心に、母をつらくあたりて、末後【終時。】[やぶちゃん注:傍注。]などには、ろくに介抱もせずして終らせたり。

 さやうのあく夫(ふ)、やど守をも、自欲にしくじりて、御やしきをも、おひはらはれ、其後、おともせで有しが、五、六年過て、誠に袖ごひ・こぢきのごとくのていとなりて、御やしきに來り、

「今更、御はづかしく候へども、夫もなくし、いたし方なし。何卒御じひに御めぐみ戴(いただき)たし。」

と、ねがひしとぞ。さすがふびんにおぼしめし、錢二百文、被ㇾ下しを、よきことゝおもひ、度々、願(ねがひ)に來りしが、

「餘り、人目もいかゞし。」

とて、御門をとゞめて、いれぬやうにしたりしが、ほど有て、

「是が一生の願おさめなり。こぢき尼に成て、人にものもらふ爲、衣の奉加。」

と願しとぞ。「此後たしかに御ねだりごと申上まじく」といふ證文とりて、金百疋被ㇾ下しが、其後のこと、しらず。

 この、なりさがりたるていたらくを御覽有し故、

『こぢきになりさがる程の人は、其所業(しよぎやう)、さぞ、あらん。』

と察しられて[やぶちゃん注:ママ。「日本庶民生活史料集成」も「仙台叢書」も同じ。]、ものとらすること、御きらひにならせられしと、母樣、つねに被ㇾ仰(おほせられ)し。

 〆は、あのごとくの氣かさもの、仕こなしよく、上々の首尾なりし内、中元淸兵衞と、不義有て、身重(みおも)になりしを、右淸兵衞も不事なるもの故、〆が爲に御とりたてとなりて、だんぼうに被仰付、夫婦、つとめに、いやまし、いきほひ、よかりしなり。

 桑原御二方(おふたかた)は女の子御好(おこのみ)にて有しうへ、母樣は、はじめの御子(おこ)にて、殊に御ひぞう、をぢ樣は男にて、

「いふことを、きかぬ。」

とて、不首尾にて有しとぞ。一(ひとつ)家内のこと、一(ひとつ)として、〆が心にまかさぬことはなけれど、只、是ばかり、あかぬことゝや、おもひけん、工藤・桑原、何となく不快のもとは、〆が、せしことなり。

[やぶちゃん注:「桑原のぢゞ樣・ばゞ樣」真葛の母の父である仙台藩医桑原隆朝(りゅうとう)と、その妻やよ子(生没年不詳)。

「をぢ樣」遊の実弟の純。その乳母が「〆」である。

「〆」「日本庶民生活史料集成」の中山氏の注に、『桑原家に仕えた乳母の名前。しめとよぶ悪女で、工藤家―真葛の生家――と桑原家の不仲の原因をつくり、工藤家を滅』ぼ『したのもこの女の悪念によるものであると、文中各所に〆の名が見える』とある。

『末に妹子壱人有しが、五ツの時、「ほうそう」おもく、ぢゞ樣は仙臺御供にて留守の時、なくなられしとなり』誤読し易いが、ここは遊には末の妹が一人あったけれども、五歳の時に疱瘡(天然痘)が重くなり、爺様(桑原隆朝)はこの時、丁度、仙台へ藩主様のお供を成されて留守であったが、その間にその妹は亡くなったということである、の謂いである。

「百人首」[やぶちゃん注:ママ。]「を、一ペんよめば、せんべい一枚、御ほうびいづるを、一度よみしまひて」『「小倉百人一首」の百首を総て間違えることなく、落とすことなく、一遍でそらで詠んだら、煎餅一枚を褒美に出しましょう』と言われて、見事に百首をすらすらと詠み終えた後に。

「やどもり」桑原家の屋敷の下女としての留守番役。

「自欲にしくじりて」「自(おのづ)と、欲(よく)にしくじりて」(自然に、我欲のために大きな失敗をしてしまい)であろう。

「衣の奉加」「ころものほうが」で、「せめても襤褸ならざる着衣を求めんがために、どうか、御寄附を」の謂いであろう。ここまで堕ちて行くこの妹の乳母も、以下、語られてゆく弟の乳母「〆」とともに、ある意味、凄絶ではある。

「いかゞし」は「いかがしならん」の後略として、強意の副助詞「し」ととっておく。「日本庶民生活史料集成」では「し」はない。

「中元淸兵衞」不詳。

「不事」思いがけない出来事。しかし、妊娠をかく言うかね?

「だんぼう」正しい歴史的仮名遣は「だんばう」で「なんばう」とも称し、「男房」と書く。「女房」に対する語で、本来は局 (つぼね) を与えられて宮中に仕えた男子、特に蔵人 (くろうど) を指した。ここは「貴人に仕える男子」の意で、藩方の藩主家系の側役となったのであろう。]

 

○おぢ樣、五、六ばかりのことゝぞ。母樣と、ほうせん花の苗を、鉢植にて手々(てんで)に御持(おもち)、日ごとのなぐさみに、

「どちらが、そだち。」

と、御あらそひ被ㇾ成しに、をぢ樣のかた、かくべつに、葉色こくて、莖、ふとくそだち、母樣のかたは、色うすく、やせやせとして有しとぞ。

 然るに、母樣のかた、丈(たけ)ひくゝて、つぼみ、いでしに、をぢ樣のは、木づくろひばかりして、花、さかず、

「おれがのは、花が、さかぬ、さかぬ。」

と被ㇾ仰しを、〆、はらだちて、引ぬきて、すて、外より、おほきなほうせん花の、おほく咲たるをもらひて、うゑたりしとなり。〆が、たしかに、かくして、やしない[やぶちゃん注:ママ。「仙台叢書」も同じ。]をせし故のことなるべし。かやうに、かりそめごとにも、いどましき心有しとなり。

[やぶちゃん注:「そだち」ママ。「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は「そだつ」。

「やしない」ママ。「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」も同じ。ここは叔父の養全般の意で通る。

「いどましき心有し」「挑ましき」で、叔父(ひいてはその乳母たる〆)は何事にも異様な競争心を持っていた、の意。]

 

○桑原の家ふうは、あくまで行儀高(ぎやうぎだか)にて、朝夕の膳の時も御子たちは、きらいの物有ても、やわり、膳に付たるまゝにて、くはず、他の菜《さい》も、たとめぬことなり。をぢ樣には、とふふなす・さゝげなど、きらいにて、常に菜なしに上りしこと、おほし。

 〆、内心に、是を『にくし』とや、おもひつらん、夜食には香の物か、さなくば、ひしほ・醬油のみなど、二方(ふたかた)とも、御齒(おんは)、あしければ、なめものにて上(あが)るなり。其なめ物の皿に、折々、とうがらしの粉《こ》、いりて、母樣へばかり、上(のぼ)りしこと有しを、母樣、

「ひしほが、からい。」

と被ㇾ仰(おほせらるれ)ば、御二方は、

「何、からいことが有ものだ。やかましく、いはぬもの。」

と、御しかり有れば、〆は、罷出(まかりいで)て、

「私が、あらつて、つけて上(あげ)ましたもの。どうして、からい、はづが、ない。」

と、申上れば、母樣の「からい」と被ㇾ仰しが「わるい」になる故、後には、『からき』と思へば、あがらずに、只、おかせられし、となり。一しなの菜が、からければ、素(す)めしを上(あげ)んきわめ故、をぢ樣、常々、菜なしにて、意趣に、〆が入て上しを、其ほどは、『何故にからき』といふ御心付(おこころづき)もなかりしが、後(のち)、御考(おかんがへ)被ㇾ遊(あそばさる)るに、

「〆が惡事に、たがひなし。」

と被ㇾ仰し。

 かりそめのことにも、『をぢ樣、よかれ、母樣、あしかれ』と、のろふ心たらざりし故、工藤家へいらせられし初(はじめ)より、『墨付のあしきやう、家ものするやうに』とおもふ、惡、心底に有て、喧嘩づらにてかゝりし故、便(たより)の有(ある)度(たび)に、母樣、氣の毒におぼしめすやうなこと有しと被ㇾ仰し。されど、桑原御二方も、其通(とほり)、ぎやうぎたかく、人がら、よし。工藤のばゞ樣、たぐひなく、さばけたる御人なりし故、ことなく、すみしなり。

 〆がために、母樣、御くろう被ㇾ遊しこと、おほし。

 父樣・をぢ樣の、何となく、『けち付(つけ)たし』とおもはれしも、〆が懷(ふところ)に、そだてられし故なり。

[やぶちゃん注:「行儀高」日常の行儀に厳しいこと。

「やわり」「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は「やはり」。

「たとめぬ」ママ。「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は「もとめぬ」。

「とふふ」ママ。豆腐。

「きらい」ママ。

「のろふ心たらざりし故」「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は「たえざりし故」。但し、「足らざりし」でも、呪う心に際限がなく、満足することがなくて、でもおかしくはない。]

芥川龍之介書簡抄7 / 明治四四(一九一一)年書簡より(3) 山本喜譽司宛(ヴェルレーヌの「僕の心に雨が降る」(Il pleure dans mon coeur)を英訳で紹介し感激し称揚する龍之介)

 

(年次推定)・山本喜譽司宛(転載)

 

   It rains in my heart

  As it rains o'er the town.

  What languorous art

  Sends a chill to my heart ?

 

  Oh, sweet sound of the rain

  On the roof and the street,

  For the heart's weary pain.

  Oh, the song of the rain!

 

雨がふつてゐる あのしめやかな音は僕にこの句を思ひ出させる嘗てよんだ佛國詩の中で最も僕の心を動かした詩である。

   OH, THE SONG OF THE RERAIN!

ほんとうにいいと思ふ 序だからしまひまでかく

 

  It rains without cause

  In the feverish hearts,

  Does it answer no laws,

  This grief without cause ?

  This the worst of all Pain,

  Without hatred or love,

  But to question in vain

  Why my heart has such pain.

 

多くら知らないデカダンスの詩人の中でこの位 すきな人はない この人の詩の中で僅しかしらないこの人の詩の中でこの詩ほどすきな詩はない 願はよんでくれ給へ きつと君もすきになると思ふ。

 

[やぶちゃん注:「o'er」は「over」の省略形。フランス象徴派の詩人ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine  一八四四年~一八九六年)が一八七四年に刊行した(彼はこの時、前年のブリュッセルでのランボー銃撃事件で二年の禁錮刑を受けて収監されており、友人の手で出版された)「Romances sans paroles」(「言葉なき恋歌」)の中の「Ⅲ」に「Il pleut doucement sur la ville (Arthur Rimbaud)」(「街にしめやかに雨が降る(アルトゥール・ランボー)」のエピグラフを持つ有名な詩篇が元である。ここで龍之介が示した英訳が誰のものであるか判らないが、英文サイト「All Poetry」のこちらに英訳「It Rains in My Heart」と「Il pleure dans mon coeur」の原詩が載る。また、ブログ「ボエム・ギャラント」のhiibou氏の『ヴェルレーヌ 「巷に雨の降るごとく」 Verlaine « Il pleure dans mon cœur », Ariettes oubliées III 日本的感性?』には原詩の朗読へのリンクもあり、本詩の音韻上の優れて新しかった技巧をよく解き明かされていて素晴らしい。必読必聴である。また、各種の邦訳は、Mrs.modest氏のブログ「わたしの心」の「巷に雨の降るごとく」に堀口大學・鈴木信太郎・金子光晴・渋沢孝輔の訳が載る。私個人は、中学二年の時に買って貪るように読んだ中込純次氏の「ヴェルレーヌ詩集」(一九七〇年三笠書房刊)の訳が懐かしい。ストレス言語でない非音楽的な現代日本語で奇体な似非物を作ったり、勝手に自分の詩想に引きずり込んで変成させたものよりも(上に出る金子光晴のそれはそう感じないけれども、ランボーの金子訳の「一番高い塔の歌」なんざ、大学でフランス語を学んで原詩を読み、「嘘つき! 騙された!」と激憤して以来、金子は大嫌いになった)私はこうしたストレートなものが好きだ。特に引用しておく。

   《引用開始》

 

  ぼくの心に雨が降る……

         街にしめやかに雨が降る(アルチュール・ランボー)

 

ぼくの心に雨が降る

都に雨が降るように。

ぼくの心にしみとおる

この悩ましさは伺だろう?

 

おお、雨の静かなひびき、

辿上にも屋根のうえにも!

やるせない心のために、

おお、雨の歌よ!

 

こみあげるこの胸に、

ゆえもなく雨が降る。

裏切られもしないのに、

いわれないこのなげき。

 

その由を知るよしもなく、

このこころただいたむ、

恋も恨みもないものを、

悲しみでいっぱいなぼくの胸!

          Il pleure dans mon Coeur…

   《引用終了》

因みに、私の「夜更の雨――ヹルレーヌの面影―― 中原中也」も参考になろう。]

2021/02/01

芥川龍之介書簡抄6 / 明治四四(一九一一)年書簡より(2) 五通

 

明治四四(一九一一)年四月三日・本所區相生町三丁六番地 山本喜譽司宛(葉書・横書き)

 

 3. 4. 1911

敬啓

 如何に御暮しなされ候や.

三日の試験完りてより. 僕は每日乱讀と懶睡とに耽り居り候へども春風屢〻夢を吹いて. 湘南の地に落すを覺え候

皆々樣にもよろしく願上候

   とろとろととけゆく蠟の心よく靜に春の夜はふけにけり

   枝垂れ咲けり春の雨ふる僧院の庭の隅なる老木の椿

去年の今頃の旅にてよめる歌二首

   濁りたる渚に浮ぶ海草に日の光さす午後のはかなさ.

   春まひる菜の花咲ける丘の道をひとりゆきつゝ潮鳴りを聞く

                龍生拜

 

[やぶちゃん注:「乱」はママ。「はかなさ.」のピリオドもママ。新全集の宮坂年譜を見ると、この二日前の四月一日から一週間の二学期終了に伴う試験休暇に入っており、『二学期の成績は五番だった』とある。本文中に「湘南」とあるから、この休暇に入って直ぐに湘南へ遊んだものらしい(年譜には記載なし。但し、この三日後の六日の条に親友『西川英次郎とともに、赤城山に登り、この日、山頂に達する』とあるから、湘南へは或いは日帰りのトンボ返りであったものと思われる)。

「枝垂れ咲けり春の雨ふる僧院の庭の隅なる老木の椿」は、

 枝垂(しだ)れ咲(さ)けり

  春の雨ふる

      僧院の

     庭の隅なる

       老木(おいぎ)の椿

で、初五が字余りのようである。

「去年の今頃の旅」龍之介は前年の三月(この月に三中卒業)の末に茨城県の水郷として知られる潮来(いたこ)に遊んでいる。]

 

 

明治四四(一九一一)年七月二十四日・本所區相生町三ノ六 山本喜譽司樣(絵葉書)

 

先夜伺ひし君の番号は、一二に候や なめちやんが「七〇より八○までの間の番号ださうだけれどもどうしても敎へない」と申し居り候ひしより七二だつたかしらと大に疑はしくなつて參りに 間違ふと少々大變ゆえ念の爲御たづね申し候

昨日クラス會ヘ一寸まゐり候 近藤や靑山や竹下やめづらしい人にあひ候ひしも 琵琶やら磯節に恐縮して途中から失敬致候

淺草の鰻屋の雨は新宿の雨より音高くひゞき候 匆々

    二十四日朝          龍

 

     Les chanson du Kirishitan.

 

   うすやみを沈の香ほのにたゞよひぬ

   Santa Maria を繪にする堂に、

 

   淚して

   陀羅尼誦しつゝ祈りにき

   我目見靑き Dominika 人は、

 

   七八人邪宗の僧の黑き袈裝

   靜にゆきぬ、長崎の夕、

 

   醉ひぬれば泣きて誇らく

   「佛手柑黃ばまむ國ぞ我ふるさとは」

 

   角を吹く Madoros なきぞ淋しけれ

   天草じまの無花果の森、

 

   我夢はうすき月さす西斑牙

   茴香の野の靄にさまよふ、

 

   黑船の Sinngoro は悲し、薰り濃き珍酡に醉へば

   Rabeika を彈く、

 

[やぶちゃん注:詩篇の第三連の一行目末の「袈裝」はママ。「袈裟」の誤字。「西斑牙」はママ(底本岩波旧全集にはママ注記はない)。「スペイン」で「西班牙」が正しい。

「先夜伺ひし君の番号……」何の番号か一向に思いつかない。「間違ふと少々大變」というところを見ると、電話番号か? 十二年前の明治三十二年には全国の電話加入者数は一万人を超えている。

「なめちやん」共通の友人らしいが、不明。

「近藤」三中時代の同級生で近藤為次郎がいる。海軍兵学校に進学した。

「靑山」同前で青山新次郎(?~昭和四八(一九七三)年)がいる。

「竹下」同前で竹下泰一(?~昭和五〇(一九七五)年)がいる(以上の三人のデータは新全集「人名解説索引」に拠った)。

「磯節」(いそぶし)は茨城県の漁師の民謡のそれであろう。「教育芸術社」公式サイトのこちらによれば(コンマを読点に代え、読みは一部を参考にしたに留めた)、発祥は『那珂川河口近くの大洗や那珂湊の辺りで、漁師たちが古くから歌っていた歌が元になっている』らしいとあり、『いつごろから歌い始められたかははっきりし』ないものの、『明治時代の初めごろになって、俳人でもあった渡辺竹楽坊』(わたなべちくらくぼう)なる人物が『歌詞や囃子言葉を補足したといわれて』おり、『ほかに』も、『藪木萬吉やその娘たちが三味線の伴奏などを加えて歌ったともいわれてい』るとする。当初は『水戸や大洗などの限られたところでしか』、『歌われてい』なかったのだが、『その磯節が』、『全国に広まった理由の一つに、水戸出身の横綱である常陸山』(横綱在位は明治三六(一九〇三)年から大正三(一九一四)年六月)『と、美声の持ち主であった関根安中』(せきねあんちゅう 明治一〇(一八七七)年~昭和一五(一九四〇)年:茨城県磯浜町(現在の大洗町)生まれで、本名は関根丑太郎。十九歳の時に盲目となり、郷里茨城県であんまを業とする傍ら、同地の民謡である磯節を修業し、名手と称せられるようになった。後、横綱常陸山から贔屓にされ、その巡業に随行して磯節を披露して評判となった。大正初期には磯節のレコード録音にも従事した。独特な節回しを持ち、その磯節は特に「安中節」と呼ばれた、と「日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」にあった)『との出会いが挙げられ』、『水戸に帰ったあるときに、常陸山は関根安中の歌った磯節をきいて、たいそう気に入り』、『常陸山は安中を相撲の巡業に連れて行き、行く先々で磯節を歌わせた』という。『いろいろな場所で歌われて、磯節の名はしだいに広まっていき』、『やがて、「安中の磯節か、磯節の安中か」とまで評判になり、安中の独特の歌い回しから「安中節」とも呼よばれ』た。『現在では、県内の各市町村の文化芸術祭や地域のお祭りなどで歌われて』おり、『毎年』二『月には磯節全国大会も開かれ、全国から多くの参加者を集めてい』るとある。常陸山の横綱昇進年と関根安中の事蹟とを照らすと、この磯節とみて、まず、よいと私は思う

「淺草の鰻屋」浅草の鰻屋は老舗が複数あり、これがどこかは判らない。

「Les chanson du Kirishitan.」この詩篇(フランス語で「切支丹の唄」)は言わずもがな、この書信の二年前の明治四二(一九一〇)年に発行された、北原白秋(龍之介より七つ上で、書簡当時二十四歳)「邪宗門」を確信犯でインスパイアしたもので、芥川龍之介のオリジナリティがある詩篇とは言い難いし、龍之介もそれを承知で悪戯っぽい気持ちから作った戯れの詩であると私には思われる。特に、詩集「邪宗門」の長々しい冒頭パートの本来の詩篇部の序詩とも言うべき「邪宗門秘曲」(リンク先は函・表紙・背・裏表紙・天・見返し・扉・献辞・「邪宗門扉銘」・序・「松の葉」所収小唄・例言・散文詩(長田秀雄)・「邪宗門秘曲」を一括して電子化してあるので、探されたい)を題名からしてが、パロっていることが判る(私は昨年、「北原白秋 邪宗門 正規表現版」の全電子化注を終わっており、一括縦書PDFも公開している)。而して、「邪宗門秘曲」の第一連と第二連を見るだけでも十分である(読みは一部を除いて除去した)。

   *

われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。

黑船の加比丹を、紅毛の不可思議國を、

色赤きびいどろを、匂鋭(と)きあんじやべいいる、

南蠻の棧留縞を、はた、阿刺吉(あらき)、珍酡(ちんた)の酒を。

 

目見(まみ)靑きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも語る、

禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔(くるす)、

芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔(けれん)の器、

波羅葦僧(はらいそ)の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。

   *

なお、白秋の第二詩集「抒情小曲集 おもひで」(同じくカテゴリ「北原白秋」で全電子化注済み)がこの書信の前月の六月五日に刊行されているが、その影響は殆んど見られない。後で注する「茴香」を野の花として読むのは「おもひで 散步」に「日は光り、いまだ茴香(ういきやう)の露も苦く、」とあって、それらしく見ようと思えば見えなくもないが)。

「佛手柑黃ばまむ國ぞ我ふるさとは」「佛手柑」は生物種としては、ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis を指すが、北原白秋はこれではなく、変種ではない原種のタイプ種である被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica を指していると考えている。「シトロン」は和名を「丸仏手柑(マルブシュカン)」とも呼ぶからで、この私の比定考証は「北原白秋 邪宗門 正規表現版 君」を見られたく、その詩篇を一読されるや、この龍之介の一行が、白秋のこの「君」の三行目の「佛手柑の靑む南國」のパロディであることが明白となるであろう。

「角を吹く Madoros なきぞ淋しけれ/天草じまの無花果の森、」龍之介は無論、天草に行ったこともない。「邪宗門」の「天草雅歌」パートの「角を吹け」を嘯いたものである。

「茴香」(ういきやう)セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare 。花期は七~八月で、枝分かれした草体全体が鮮やかな黄緑色のその茎頂に、黄色の小花を多数つけて傘状に広がる。若葉や種子がハーブとして古くから使われ、酒の香りづけなどにもなる。ここも恐らく私はやはり「邪宗門」由来であろうと思う。同詩集にはリキュールの「アプサァント」が「茴香酒(アブサン)」(フランス語:absinthe)として何度も出るからである。

「Sinngoro」不詳。因みに参考までに、川口敦子氏の論文「ポルトガル国立図書館所蔵1627年の殉教に関するフェレイラ報告書の日本語表記」(『三重大学日本語学文学』二〇一〇年発行・第二十一号・PDF)によれば、「Xingorō Thome(新五郎 トメ)」と記されてあるとある。

「珍酡」先に示した私の「邪宗門秘曲の注の中で、吉田精一氏の引用を引いた中に、『珍酡(Vinho-tinto)の如き、オランダ、ポルトガルより渡來したといふ古渡りの洋酒の名を列擧してゐる。珍酡はポルトガルの赤葡萄酒の名、阿刺吉はオランダの火酒の類で、吉井勇の歌などにも愛用されてゐる』とある。

「Rabeika」この綴りを龍之介がどこから引っ張ってきたかは定かでないが、これは「ラベイカ」で「レベック」(Rebec・Rebeck)と呼ばれ、現在のヴァイオリンの起源ともなったとされる弦楽器の一つとされる。ウィキの「レベックによれば、『一般的にはアラブ人の楽器ラバーブがもとになっていると考えられており、外観は洋ナシ形をしている。おそらく中世中期にスペイン経由でヨーロッパに広まったとされている。ラベイカとも』呼ぶとある。十六『世紀から』十七『世紀のレベックはフレットがなく』、二弦或いは三弦で五度『調弦である。高い技術を要する楽器ではなかったため、特にダンスの際によく使用された』とある。これらと、同ウィキに添えられてある、その楽器の西洋人の演奏風景を描いた絵を見るに、これは胡弓とそっくりである。胡弓はまた、本邦で古くに独自に発展して日本胡弓(しかもそれは異国風の幻想を文字通り、掻き立てるものであった)もあるからして、そうした複合幻想をこの単語に纏わせてよいと私は思う。]

 

 

明治四四(一九一一)年十月十四日・本所區相生町三ノ六 山本喜譽司樣(塩原の絵葉書)

 

黃昏 白い幌をかけた乘合馬車につのて、角笛のやうなラツパの聲をきゝながらこの淋しい村をすぎました 所々の黃葉した樹の下には黑い鷄が遊んでゐます 雨は漸やんで濁つた雲の間からうす靑い空が見えて居ります

十四日                龍

 

[やぶちゃん注:この十月十日に龍之介は友人西川英次郎(こちらの「Rosmersholm」の注で既注)と那須塩原の塩原温泉(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に出かけている。なお、この前に生活に大きな変化が起こっている。則ち、この前月の九月に、一・二年次全寮制であったのが、特別許可が切れ、南寮の中寮三番に入寮している(十二人部屋)。龍之介は寮生活に馴染めず、土日には自宅に帰っており、寮の風呂にもなかなか入らなかったという。しかし、ここで同室となったのが、後に彼の親友となった井川(後に婿養子となって恒藤に改姓)恭であった。]

 

 

明治四四(一九一一)年十月十七日・新宿発信・中塚癸巳男宛

 

敬啓 鹽原からは一昨日かへつて來た足の裏が兩方とも豆で一ぱいになつてしまつた寢ても坐つてもづきづき痛む步いては猶更痛む煙草の吹がらと飯粒とを一緖にねつて貼つて見たがどうも一寸癒りさうではない

豆は第一日に鹽原へついた時にもう足のうら一面に蔓延してしまつたのであるそして西川と目をきくのが面倒臭い程痛む仕方がないから手紙を二三枚かいたなり寢ころんで「こゝの宿屋は椎たけばかり食はせる」とか「女中がいやに丁寧ぶつてゐやあがる」とか獨りで勝手な不平をならべて見たさうすると西川が「中塚へは僕からハガキを出しとくぜ」と云つた西川は少し前からせつせとヱハガキヘ萬年筆を走らせながら「この吼哮瀧のヱハガキは寮の始終寮歌ばかりうたつてる友達へ出してやらう」とか「明日は栗ようかんをおみやげに買つて行かうかな」とかくだらない獨語を云つて嬉しがつてゐたのであるもとより豆に恐縮してゐる際だから「よろしく賴むよ」とすぐに許可してやつたが西川は少し考へながら今度は「中塚はまたのんきぢやあないかな」と疑問のやうな疑問でないやうな事を云ひ出した外の奴がこんな事を云つたなら「俺は知らないよ」と答へてやるのだが西川だけに此方も眞面目な答をしなければならなくなつた何故眞面目な答をしなければならなくなつたときかれると少し說明が入る元來西川はあんまりこんな事を云はない男である眞鍮を金に見せようとするけちな了簡がないだけに決して顏だけ泣きつらをして腹の中では舌を出しながら笑ふやうな事をしない男である世の中には隨分おひやらかし半分に心配さうな顏をして見たりさも驚いたやうな顏をして見たりする奴がどこへ行つてもうぢやうぢやゐるだからこんな奴をあつかふ時には僕も正當防衞として冷かすかさもなければおひやらかして追拂つてしまふ唯西川にはこれがない藥にしたくもこんな下劣なづうづうしい所がないこれだから僕は眞面目になつたのである此時ばかりではない何時でも僕は眞面目になるのである

そこで「俺ものん氣になつては困ると思つてるんだ」と答へたそしてその上に「ことによると少しのんきになつてるかもしれないな」とつけ加へたさうすると西川は「どこか豫備校へでも行つてゐるのかね」と尋ねたそれから西川と僕との間には大體下のやうな對話が交換された

A「どこへも行つてゐないのだらう」

N「それで勉强する氣かな」

A「さうだらうと思ふ」

N「獨りで勉强するには餘程意志が强くないと怠けるからな往意しないといけない」

A「來年は是非はいらなくつちやあいけないんだからね俺も何時でものん氣ならざらむことを祈つてるんだ」

西川はだまつて「小梅業平町五十」と君の宛名を書いたそれから僕は寢ころんで十分ばかモーパツサンの短篇をよんだら眠くなつて來た少し早かつたが二人共床へはいつて花のやうな赤い灯をながめながら話をしてゐると又西川が「中塚のとこから手紙でもくるかね」ときゝ出した

A「うむ幽靈の木像の繪はがきと病氣見舞のはがきとがきた」

N「勉强をしてゐるやうかい」

A「してるんだらうと思ふ」

N「來年ははいらなくつちや駄目だからな」

A「○○君のやうに四年目に補缺ではいるなんと云ふんぢやあ心細いからな」

N「さうなつちやあ大變だ」

A「無精とのん氣さへ祟らなけりやあはいれるんだが」

N「のん氣になつてはいけないな」

それから話しがクラスの人物評になつたが二十分も話してゐる中に御互に眠くなつたので「これから以後に口をきくものは寢言と見倣す」と西川が宣言したそして寐てしまつた

甚くだらない事を書いたと思ふかもしれないしかしこれは僕等二人が正しく感じた事を正しく口にしたものである僕はあの箒川の水音のきこえる溫泉宿で豆だらけの足を重ねながら肅然として「何處へも行つてゐないんだらう」と答へた時の惑じを何時までも忘れないだらうと思ふそして今でもあの人の事に頓着しない西川が二度まで自分から切出して話を君の上に移した事を思ふと我しらず眼のうるむのを感ぜざるを得ないのである

僕は今新宿の君のしつてゐる二階の書齋でこれを書く書きながら淚が二つ落ちた僕たちは唯君が正しい努力の步を一步づゝ進めることを祈る君が君の前に始終母上と祖母上とのいますことを忘れないやうに祈る獨り母上と祖母上とのみならず君の父上も亦君の慰めを待たれる事を忘れないやうに祈るこれさへ忘れなければそれで澤山だ一高の寄宿舍に君の上を祈るものの少くも三人はあるのも忘れていゝ何も彼も忘れていゝ唯これだけを忘れるなと云ひたい君の爲に捧げた君の家族の銀の如く美しい犧牲を忘れるなと云ひたい

くだらない事を長々とかいた夜がふけたから筆を擱く讀み返さないでこのまゝ封じるから御判讀をねがひたい 不惡

    十七日夜       芥川龍之介

   中塚癸巳男兄 案下

 

[やぶちゃん注:「中塚癸巳男」(なかつかきしお 明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年)は三中時代の同級生。芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録「槍ヶ岳紀行」(リンク先は私のサイト版)に同行した他、当時の龍之介の旅にしばしば同行しており、西川英次郎・山本喜誉司などとともに、非常に親しい仲間であった。ここで龍之介と西川が盛んに彼のことを心配している通り、彼は結局、二浪し、明治四十五年に一高の第二部甲類に入学することになる。

「吼哮瀧」「こうかうだき」で、既注の共通の友人上瀧嵬(こうたきたかし)の綽名のようである。

「小梅業平町」(こうめなりひらちやう)。洒落た地名だが、消滅した。現在は墨田区吾妻橋三丁目及び東駒形四丁目。この中央附近

「箒川」(はうきがは)は那須塩原温泉を貫流する川。]

 

 

明治四四(一九一一)年 十一日(年次推定)・山本喜譽司宛(写し)

 

雨の中を十一時まで獨りでぶらついた。君の家の前も二度通つた。たゞ何となく氣がいらいらする、このいらいらする思ひを君にしらせたいと思ふ。君より外にきいてくれる人はないと思ふ。

前に大きな陷穽があつて、僕の通る道が唯一すぢ其陷穽にどうしてもおちなくてはならぬやうについてゐたとしたら、どんなだらう。すべての力もぬけてしまふぢやアないか。病軀を抱いて痛飮する尾城の心もちになつて見れば、隨分氣の毒なものだと思ふ。しかも僕自身もこの憫むべき人間ぢやアないか。

レルモントフは「自分には魂が二つある、一は始終働いてゐるが一つは其働くのを觀察し又は批評してゐる」といつた。僕も自己が二つあるやうな氣がしてならない。さうして一つの自己はもう一つの自己を、絕えず冷笑し侮辱してゐるンだもの、僕は意氣地のない無價値な人間なンだもの、それはボルクマンもよみ、ノラもよんだのだから、何故自己の生活に生きないといはれるかも知れない、けれども僕は到底そんなに腰がすゑられない、僕は醉つてゐる一方においては絕えず醒めてもゐる。僕は囚はれてゐる一方に於ては、常に解放せられてゐる。生慾と性慾との要求を同時に一刻も空虛を感じないことはない。まるで反對なものがいつも同時に反對の方向に動かうとしてゐる。僕は自ら聰明だと信ずる、唯其聰明は呪ふべき聰明である。僕は聰明を求めて却つて聰明のために苦んでゐるのだ、其相搏つてゐる大きな二つの力の何れかゞ無くつてくれゝばいゝ。さうしなければいつも不安である、かうまで思弱るほど意氣地のない人間なんだもの。君は嗤ふかもしれないけれども嗤はれてもいゝ、しみじみかう考へこむのだから。

いつまでたつても僕はひとりのやうな氣がする。淋しい巡禮のやうな、悲しさが胸にわくよ、唯同じやうな(多少なりとも)感情を持つてゐる君が賴みになるばかりなのだもの。

君がゐなくなつたら僕はどうしていゝかわからないのだもの、いつか君にわかれる日がくるンぢやアないかと思ふと、わけもなくつまらなく感じられる、見はなされるやうな氣さへするよ君。

何をやつても同じ事だ、結局は同じ運命がくるのだし、誰でも同じ運命にあふのだから。

しみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだんだんとうすくなる。種の爲の生存、子孫をつくる爲の生存、それが眞理かもしれないとさへ思はれる。外面の生活の缺陷を補つてゆく觀樂は此苦しさをわすれさせるかもしれない、けれども空虛な感じはどうしたつて失せなからう。種の爲の生存、かなしいひゞきがつたはるぢやアないか。

窮極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどうにかなりさうな氣がする、死なずともすみさうな氣がする。卑怯だ、未練があるのだ、僕は死ねない理由もなく死ねない、家族の係累といふ錘はさらにこの卑怯をつよくする、

何度日記に「死」といふ字をかいて見たかしれないのに。

さういへば其日記ら此頃はやめてしまつた、過去何年の日記は、皆噓ばかりかいてある。唯あとで讀んで面白い爲なら、何も日記をつける必要はない、何故あんな愚にもつかない事を誇張して日記なんていつたらう。

どうしていゝかわからない。唯苦笑して生きてゆくばかりだ、さうしたらいつか年をとつて死んでしまふだらう。死なないまでも今の思想とはまるでかはつた思想を抱くだらう、どうせ「忘却」のかなしみはいつか僕を掩ふんだらう。

氣狂ひじみた事を長くかいた。けれども實際こんな考が起つてとめどがない。よみかへすと君に見せるのが嫌になるかもしれないからかきはなしで君の所へあげる。

誤字や脫字はよろしく御判讀を願ふ。

切に試驗をうまくやるのをいのる。

    十一日夜十二時蠟燭の火にて  龍生

 

[やぶちゃん注:この年次推定は現在も変わらない(その証拠に二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」(石割透編)も同年に入れてある)。これが未だ芥川龍之介満十九歲のものであることに私は強く撲たれる。何度読んでも、激しい衝撃を受ける一篇である。「(写し)」というのは、底本の『(寫)』から。これは底本の「後記」に、『從來の全集において他から轉載したものと思われが、その出典を明らかにし得なかったので(寫)を踏襲した』と説明されてある。

「陷穽」(かんせい)原義は「動物などを落ち込ませて捕獲する落とし穴」で、転じて「人を陥(おとしい)れる策略や罠」を言う。

「尾城」不詳。昭和四六(一九七一)年刊「筑摩全集類聚」版も『不詳』。最新の岩波文庫「芥川龍之介書簡集」には注さえない。

「レルモントフ」帝政ロシア時代の詩人・作家ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ(Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов,/ラテン文字転写:Mikhail Yurevich Lermontov 一八一四年~一八四一年)。出典不詳。

「ボルクマン」ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)の戯曲「ヨーン・ガブリエル・ボルクマン」(John Gabriel Borkman )は一八九六年に書かれ、一八九七年にヘルシンキで初演された。梗概は本作のウィキを読まれたい。

「ノラ」同じくイプセンが一八七九年に書いた戯曲「人形の家」(Et dukkehjem )をその主人公の名ノーラ(Nora)で呼んだもの。

「錘」「おもり」。

 なお、岩波の旧全集の翌明治四十五年の四月十三日(月推定・封筒欠)の書簡の末尾に、『最後に御願がある 一昨年の九月にあげた手紙は破るか火にくべるかしてくれ給へ どンな事を書いたか今になつて考へると殆取留めがない さぞ馬鹿々々しい事が書いてあつたらうと思ふ』(改行)『何となく氣まりが惡いからどうかしちやつてくれ給へ 切に御願する』と記している。ここに最後に掲げた明治四十四年の沈痛な芥川龍之介書簡は月が定まらないために、前の十月七日中塚宛書簡の後に置かれているが、これは編集上の機械的仕儀に過ぎない。だからと言って、これがここで破棄を求めた書簡であると断定することは出来ない。しかし、破棄を懇請する手紙を残しておき、かの重い告白書簡をその通りに焼き捨てたというのも私は妙に思う。しかし、翻って、前年の九月十一日に読み返しもせずに投函した書簡を、七ヶ月も経過してから思い出したように破棄要請を出すというのも、ちょっと解せない気もする(その間にも残存する山本宛書簡は日付確定のものだけでも四通あるのにである)から、全然、別の実際に山本によって破棄された書簡なのかも知れぬ。取り敢えず、気がついた事実として、言い添えておく。その書簡は後に掲げる。]

怪談登志男 十二、干鮭の靈社

 

怪談登志男卷第三

 

   十二、干鮭の靈社(からさけのれいしや)

 「近江路や美濃・飛驒・信濃・甲變の國」と讀(よみ)て、童子(わらべ)も知りたる海魚(かいきよ)の拂底(ふつてい)、山中に「もち繩(つな)[やぶちゃん注:原本の当て読み。]」と云(いふ)物、引わたして、鳥をとる、れうし、おほき。飛驒山の奧にて、例の「もち繩」に、鴈(がん)一羽、かゝりてありし所へ、越後より通ふあき人、四、五人、通りかゝり、此つなに鴈のかゝりたるを、

「幸の事や。」

と思ひ、綱(つな)より、放(はなち)て取て去りしが、一人がいはく、

「其かはり、なくしてとらんは、盜賊の仕業なり。價(あたい)を置べし。」

といふ。

「げに。尤。」

と、馬に付たる、から鮭(さけ)壱本、取出し、鴈のかゝりたる綱にかけ置て、通り過ぬ。

 其後へ、獵師(れうし)、來りて、此躰(てい)を見て、大に驚き、

「ふしぎや。此山中に、から鮭の來りて、綱にかゝるべき樣こそ、なけれ。」

と、いそぎ、所のおとなしきものゝ方に持行(もちゆき)、

「かうかう。」

と語る。

 村の長(おさ)も不審はれず、遠近(おちこち)、打寄、せんぎするに、誰(た)が了簡にも、ふしん、さらに、はれやらず。

「たゞことには有べからず。いかなる怪しき事あらんか。まつたく、生土(うふすな)の告(つげ)成べし。」

と、

「巫女(みこ)をよびて、生土の宮居にて神樂(かぐら)を奏し、御託宣を聞べし。」

と、頓(やが)て、巫女・神主をまねき集め、神をすゞしめ奉れば、きねがつゞみの音、御子(みこ)が袖ふる鈴のこゑに、

「めでたや、たくせんし給ふ。」

とて、みこ、

「わなわな」

と、ふるい、聲を上て、

「我は是、『天(あま)のからざけの尊(みこと)』とて、當社一躰、分神(ふんしん)の神なり。むかし、天孫、あま降(くだ)り給ふ時、さはり有て、天上に、とゞまりぬ。今年、時、至りて、此所に降臨(かうりん)して、蒼生(あをひとくさ)を守るなり。はやく、やしろを建(たて)て、當所に祭り、『からざけ大明神』と、あがむべし。七福を卽生(そくしやう)し、七難をめつし、氏子、はんじやうと、まもるべし。」

と。

 神は、あがらせ給ひけり見えて、ねぎが肩へ、引かけて這入(はいる)が、御託宣の定格(しやうかく)、百姓ども、皆々、手を合せて、

「南無からざけ大明神。」

と三拜して、いぞぎ、やしろを造營し、朱(あけ)の玉垣、てりかゞやき、參詣の老若(らうにやく)、ひきもきらず。

 かゝりしかば、近里遠境(きんりゑんきやう)の土民、聞傅(きゝつた)へて、詣(まふで)來り、さまざまの願望(くわんほう)、おもひおもひに、ねぎ祈りけるに、金(かね)こそ、埓(らち)あかね、其餘(よ)の願は成就せずといふことなければ、日々に、宮居、はんじやうしける。

 其年も暮て、立かへる春の頃、彼(かの)越後の商人共、

「故鄕へ歸る。」

とて、又、此所へ差(さし)かゝりしが、

「不思議や、去年、通りし時、かゝる宮居はあらざりけるが。いかなる神にておはしますらん、まづ、何にもせよ、おがみ奉れ。」

と、一同に拜して、傍(かたはら)に居たる人に、

「そもそも、當社はいか成神にて、かく參詣もおほく、社頭もあらたに見えさせ給ふらん。過し年、我々、爰を通りし迄は、社もなかりしが、わづかの間(ま)に、斯(かく)おごそかなる宮柱(みやはしら)ふとしき建(たて)て、みづがきのかげも長閑(のとか)にわたらせ給ふや。」

と、問へば、

「さることの侍る。去歲の事にて候が、此所に鳥を取『もち綱』といふもの、引はへて置しに、いづくより飛來るとも、はかり難き、『からざけ』一つ、綱にかゝりて、さふらひぬ。御覽のごとく、此あたりは深山(みやま)にて、海魚(かいぎよ)は勿論、鮭・鱒なんどの川魚もまれなるに、いはんや、『越路(こしぢ)にこそ澤山(たくさん)なれ、爰には見るもたまさかなる乾鮭(からざけ)の、繩(なは)にかゝりてあるべうもなし』と、生土(うふすな)の祠(やしろ)にて、御湯(みゆ)まいらせてさふらへば、み子に、乘(のり)うりらせ給ひ、『此所を守り給はん』との神託ありし故、斯(かく)は祭り侍りしなり。神號(じんがう)は『からざけ大明神』。」

と、語るを、商人等(ら)、聞もあヘず、目と、めを、見合、

「くつくつ」

と吹出して、

「そのからざけは、われわれ、去年(きよねん)、此所にて、綱にかゝりし鳥の代(しろ)に、もちづなへ、はさみ置て、通りしなり。何條(なんじやう)、天下(あまくだ)りし神ならん。」

と、同音に、

「どつ」

と笑(わらひ)、

「せんなき所に、ひまどりし。」

と、つぶやき、つぶやき、過行(ゆけ)ば、里人共、これを聞、信仰の心、忽(たちまち)、さめ果(はて)、俄(にはか)に小祠(ほこら)を打崩し、元の山路(し)の峯のしら雲、跡なくなりしぞ、おかしかりける。

 他(そと)の國にも、「鮑神君(ほうじんくん)」とて、是に似たる物語あり。和漢ともに、同じく愚(おろか)なるは、片田舍の人のこゝろなりけり。

 

[やぶちゃん注:これは……懐かしいな……私が漢文の授業でやったことがある、宋の劉敬叔の志怪小説集「異苑」(但し、一部は明末に発見されたものの増補と考えられている)の「卷五」に載る「鱣(うなぎ)の社(やしろ)」が最も知られた原拠である。実はこれは既に「柴田宵曲 妖異博物館 乾鮭大明神」の私の注で電子化してあり(原文・訓読)、宵曲は本篇にも梗概で言及しており、本篇最後に出る「鮑神君」(これは鮑(あわび)ではなく「鮑魚」で「ほしうを」と訓読し、即ち、前話と同じ干魚のことであるので、注意されたい)についても述べていて、やはり私がその原拠である、後漢末の応劭の「風俗通義」(諸制度・習俗・伝説・民間信仰などに就いて記したもの)の「怪神」の中の「鮑君神」を原文のみ電子化してあるので(こちらも八島五岳著の「百家琦行傳」(ひゃっかきこうでん:天保六(一八三五)年自序・弘化三(一八四六)年刊)の「卷之四」の「田中丘隅右衞」で本邦のインスパイアされている。同話は国立国会図書館デジタルコレクションへのリンクも張ってある)、是非、そちらを読まれたい。四年前二月の私よ、遂に「怪談登志男」も電子化注しているよ……

「近江路や美濃・飛驒・信濃・甲變の國」一種の童訓歌(五・七・五となっている)で、海に接していない国尽しである。

「もち繩(つな)」「黐綱(もちづな)」。「黐網」。本来は粘着性の鳥黐(とりもち)を塗った鳥を獲るための網や綱である。ここは一貫して「つな」としているので、それでよいと思うが、広義には鳥黐を使わない霞網(かすみあみ)のようなものも同様の効果を持つから、それも含まれるかとも私には思われなくもない。中・大型の鳥は黐でないと暴れて逃げてしまうが、小型の鳥では黐がべたべたに張り付き、外すのも面倒で、食用はまだしも、江戸時代に流行った愛玩用の野鳥としては全く商品にならなくなるからである)。

「鴈(がん)」広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱 Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas )より大きく、ハクチョウ(カモ科亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba  属の一種の全七種)より小さい種群の総称である。狭義には本邦ではマガン属マガン亜種マガン Anser albifrons frontalis を指す。詳しくは、「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」の私の注を見られたい。

「あき人」「あきびと」或いは「あきんど」とも読める。原本本文には一切、「人」にルビがない。

「おとなしきもの」年配の思慮分別がある者。

「生土(うふすな)」「產土(うぶすな)」。小学館「日本大百科全書」の丸山久子氏の解説を主文として説明すると、産まれた土地の守り神を「うぶすな神(がみ)」と呼ぶ。「うぢ(うじ)がみ」と称する姓氏の同族の守り神と、多くの場合、混同していることが多く、双方とも、守護を受ける側の人を「氏子」と呼んでおり、その呼称が混同の源かも知れない。生児の誕生後三十二日から三十三日目に行われる「宮参り」には、産土神に詣でる風習があり、この場合、土地の守護神に参詣するのであるが、その対象とする神を「産土様」と呼ぶのが通例である。今一つ、しばしば同一のものとされる「産神(うぶがみ)」と称する神があり、「産土神」と紛れやすい。しかし、「産神」の方は出産の守護神であって、「赤不浄(あかふじょう)」と呼ぶ「血の穢れ」には関係がなく、寧ろ、「産神」は産室に勧請して祀っているのに対して、「産土神」は「血の穢れ」を忌み、生児の「宮参り」の時も、本来は母親は「忌み」の期間にあるとされて、姑と或いは仲人親(なこうどおや)又は産婆などが生児を抱いて参詣するのが本来である。地方によっては、生児も「ひがかり」(「忌み」の期間)と称して、鳥居より内には入ることができず、鳥居の外で参詣を済ませるケースもある。これを「とりいまいり」と称する。そして、この後、母の「忌み」の明ける七十五日を待って、母子ともども、「宮参り」をするという。かくの如く、「うぶすな」は「産神」とは異なった性格の神であることがこれでも判る。「うぶすな」は「鎮守」という別称もあり、土地・村落などの運命共同体にとっての地域的な守護神であって、「氏神」のように個々の家庭や家族にまで深く関わってくるような神ではないと考えられる。現在の鎮守の祭神には、諏訪・八幡・熊野など、国内の大きな神社の祭神を勧請してきて祀っているものが多く、遠く離れた土地の神を祀っているということは、「うぶすな」の感じとは印象が異なるようではあるが、地域に「氏」を異にした住人が多くなり、単純な組織も崩れてしまって、従来の祭神では飽き足りないも感覚が生じてしまったためであろう。また外部的には「御師(おし)」などの神人(じにん)の活躍もあったであろうが、原点は住民の信仰意識の変化であろう。

「すゞしめ」「淸しめ」「涼しめ」で「心を静め慰め」の意であるが、特にここは「祭事を行って神を慰め」の意である。

「きねがつゞみの音」「杵が皷の音」。棒状で両端が太くなっている竪杵は歴史が古く、手杵(てぎね)或いは兎杵(うさぎきね:月で兎が搗くのに用いる形と言えば腑に落ちよう)とも呼ばれるが、これはそれを圧縮すれば、皷の形とミミクリーである。恐らくは米の豊饒の祈りに掛けた謂いかと私は思う。

「蒼生(あをひとくさ)」「蒼生(さうせい)」の当て訓。多くの人々。人民。あおひとぐさ。「七福を卽生(そくしやう)し、七難をめつし」仏教用語の「七福卽生」(しちふくそくしやう)。七難が滅することに拠って得られる七種の幸福。多く「七難即滅」と対になって用いられる。神仏習合であるから、巫女が口走っても問題ない。

「はんじやう」「繁昌」。

「神は、あがらせ給ひけり見えて、ねぎが肩へ、引かけて這入(はいる)が、御託宣の定格(しやうかく)」干鮭大明神は天へお昇りなされたとみえて、巫女は黙って禰宜の片に手を掛け、そのまま神殿をそろそろと這うように出た。これが、確かな神の御託宣の終了を意味する御約束事としての仕儀である、というののである。

「朱(あけ)の玉垣」神域の内外を区切る結界をはっきりと示すために斎垣(いがき)を赤く塗ったもの。

「ねぎ」「勞ぐ」「犒ぐ」などと書く。「神の心を慰めて加護を願う」の意。神職の「禰宜」はこの動詞の連用形が名詞化したもので、漢字は当て字である。

「金(かね)こそ、埓(らち)あかね、」我欲ばかりの金の無心は、これ、成就せぬが。

「みづがき」「瑞垣」。古くは清音「みづかき」。神社や神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした玉垣のこと。

「かげ」様子。

「去歲」「さるとし」。昨年。

「引はへて」「引き延(は)へて」長く引き延(の)ばして。

「御湯(みゆ)」巫女が神前で熱湯に笹の葉を浸し、身に振りかけて祈ること。「湯立(ゆたて・ゆだて)」「湯立神楽(かぐら)」「湯神楽」とも言う。私はルーツは「盟神探湯(くかたち)」と同じで、神と会話出来る証しを示す仕儀と思うている。

「見合」「みあはせ」。

「代(しろ)」代わりの品。

「何條(なんじやう)」「何(なに)と言ふ」の変化した語。「なでふ」とも。感動詞。「何を言うか!」「とんでもない!」で相手の言い分を否定する語。「條」は当て字。当て字でも歴史的仮名遣は「なでう」でなくてはならず、原本のルビは誤りである。

「片田舍の人のこゝろなりけり」こういう地方人差別は「徒然草」同様、実に厭な感じがするので、附して欲しくなかった。寧ろ、最後に相応しいのは、人々が干鮭を分け合って食べてしまうシーンでよかろうに。]

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