[やぶちゃん注:本篇は昭和二九(一九五四)年一月発行の『別冊小説新潮』初出で、後の昭和三四(一九五九)年に刊行した作品集「拐帯者」(光書房)に収録された。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。
今回は思うところあって敢えて或る核心に踏み込んだ注は附さないことにした。その〈意味〉は恐らく、凡そ、また一ヶ月後ぐらいには判るであろう。お待ちあれかし。文中に軽く割注を入れた。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今日の午前中に1,500,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年2月22日 藪野直史】]
その夜のこと
僕はその時、玄関の土間につっ立っていた。僕は怒りに燃えていた。婆さんは帳場の火鉢のそばに中腰になっていた。右手は火箸の頭をにぎりしめていた。そして婆さんは早口でなにかを言い返した。言い返したというより、それはもう口汚い罵声に近かった。
次の三十秒ほどの間、僕の記億はぶっつりとぎれる。憤怒(ふんぬ)が頂点に達し、ついくらくらと分別を失ったのだろう。
婆さんの顔が急に変って見えた。右の眼の上の部分が、見る見る青黒くせり出してきたのだ。
婆さんは畳に尻餅をついた姿勢になっていた。顔はゆがんで、まっさおだった。灰から引抜いた火箸で僕を指しながら、乱れた声でわめきたてた。
「こいつが。この極道者。ゴクツブシが!」
帳場の台の上にあった糊(のり)の壺を、僕の手が無意識につかんで、婆さんの顔にたたきつけたらしいのだ。それが右眼の上に命中して、その部分はごく短い時間に、急速に団子状にふくれ上ってきた。それを見て僕はますます兇暴な気持にかき立てられた。婆さんはさらに声を高めてわめいた。
「ああ、誰か来て。この極道者があたしを殺す!」
「黙れ、クソ婆あ」
と僕も怒鳴りかえした。
「わめくなら、もっとあばれてやるぞ!」
僕は土間を見廻した。土間のすみに小さな椅子があった。僕は急いでそこに行き、その背を摑(つか)んだ。両手でふり上げた。破滅するなら破滅しろ。僕はもう気ちがいじみたかけ声と共に、その椅子を力いっぱい帳場のガラスに叩きつけた。痛快な破裂音と共に、三尺四方もある大ガラスは無数の三角形に砕け散って、畳や台の上に散乱した。框(かまち)に残った部分は、するどい牙状になって、深夜の電燈の光にギラギラと光った。
大きな叫び声といっしょに、廊下をどたどたと走ってくる音がした。
「クソ!」
僕はも一度椅子の背を握りしめた。勢いよく別のガラスめがけて投げつけた。
乱れた人声や跫音(あしおと)が、またたく間に玄関に集ってきて、そこら中が人だらけになった感じだった。皆寝巻姿だ。酒の酔いと極度の亢奮(こうふん)のために、眼がちらちらとして定まらない。茫然と土間につっ立っている、と他人眼(はため)には見えたかも知れない。玄関にうろうろと出てきたその中の一人が、足袋はだしのままそっと土間へ下りてきて、へんにやさしい猫撫で声で僕にささやきかけてきた。僕と同じ年頃のこの下宿の止宿人らしい、眼鏡をかけた男だった。
「ねえ、もうこれで、気がすんだでしょう。だからね、もう乱暴はよしなさいね」
「うん」
と僕は割合素直にうなずいた。こう沢山集ってきては、もうあばれてもムダだし、それに婆さんがお岩みたいな顔になったので、すこしは気の毒にもなってきたからだ。
しかしまだ僕の身体は、余憤のためにぶるぶるふるえていた。男は僕の肩にそっと手をかけた。
「ね、お互いに最高学府の学生なんだから。暴力なんかふるうのは――」
そこまで言いかけた時、帳場の中から婆さんがふたたびいきり立った。火箸をにぎりしめて、立ち上ろうとしている。その婆さんをこの下宿の女将が必死にはがいじめにして、しきりになだめているらしい。婆さんの顔はすっかり形相(ぎょうそう)が変り、双の眼はぎらぎらと憎悪に燃え立っていた。それはもう人間の顔ではなかった。
「あ、あの悪党を、つかまえて。ぶ、ぶっ殺してやる」
向うが逆上したので、かえって僕は平静になって来た。平静になってくると、急に寒さが身に沁みてきた。僕は肩をすくめて、しょんぼりした形になった。婆さんはなおもはげしく怒号している。
そこへ道路の方から、霜多が玄関に顔をのぞかせ、僕を見て低いあわてた声で言った。
「巡査が来たようだよ。静かにしてた方がいいよ」
僕はうなずいて見せた。しかし静かにしていたって、もう遅い。僕が静かにしても、婆さんがさかんに騒ぎ立てているではないか。僕は観念した。
やがて巡査が二人、のっそりと玄関に入って来た。深夜のパトロールをしていたのらしい。その巡査の一人の眼がキラリと光って、射るように僕の顔を見た。コメカミがぎりぎり痛み出すのを感じながら、僕はそっぽ向いた。
その夜、その夜というのは、今から十六年前、昭和十二年の一月八日のことなのだが、僕は霜多という友人といっしょに、浅草に遊びに行ったのだ。とにかくそれは寒い夜だった。
浅草で常盤(ときわ)座の『笑いの王国』にワリビキから入り、それが終って二人は、バスで本郷に戻ってきた。その頃、僕も霜多も『東京帝国大学』という学校の文学部学生で、霜多は中野、僕は駒込千駄木町の『愛静館』という下宿に止宿していた。三十か四十ぐらい部屋がある、通りに面したかなり大きな二階建ての下宿屋だった。僕があばれたのは、その下宿の玄関先だが、そのことはまたあとで書く。[やぶちゃん注:「常盤(ときわ)座の『笑いの王国』」浅草公園六区初の劇場・映画館として明治一七(一八八四)年十月一日に開業したのが常盤座で、大正六(一九一七)年一月二十二日に「歌舞劇協会」のオペラ「女軍出征」を上演して大ヒットし、これが「浅草オペラ」の濫觴とされ(「浅草オペラ」自体は後に「金龍館」が主な舞台となった)、かのエノケン劇団もここの舞台に立っている。大正十二年九月一日の関東大震災で関東大震災で常盤座は大打撃を受けたものの、松竹傘下に入って興行は繋がれ、大正一三(一九二四)年三月以降、常盤座は帝国キネマ演芸の封切館となった。昭和八(一九三三)年四月一日には古川緑波(古川ロッパ)・徳川夢声らが常盤座で、軽演劇劇団「笑の王国」の旗揚げ公演を行ない(絶頂期のエノケン一座への対抗馬という意味合いが強かったらしい)、それ以来、戦時下の昭和一八(一九四三)年六月の同劇団解散まで、同劇団は常盤座を根城にしていた。参照したウィキの「常盤座」に、まさに作品内時制と完全に一致する昭和一二(一九三七)年一月の写真が載る(右手前が常盤座とあり、その上によく見ると「笑の王國」の幟(のぼり)もまさに見えるのだ)。序でにYouTube の「東京節」(作曲:添田啞蟬坊・唄:大工哲弘)を視聴されたい。その2:50のところの「浅草」とテロップの出る動画内(カラー・着色か)に「WARAINOOKOKU」の看板と、次いで切り替わった画像にも「笑いの王國 公演 常盤座」の幟が見える(その少し後にも同一場所を少し引いた画像が出る。これらの画像は太平洋戦争前のものと思われる。必見!)。「ワリビキ」というのは劇場や映画館などで早朝や深夜その他の客入りの少ない一定時間内に於いて通常の値段よりも安い料金で客を入れることを指す。「駒込千駄木町の『愛静館』という下宿」現在の東京都文京区千駄木に実在した。駒込千駄木町はバス停として今も残る(グーグル・マップ・データ)。大正六(一九一七)年刊の萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の挿絵(刊行は田中の死後)で知られる和歌山市出身の版画家田中恭吉(明治二五(一八九二)年~大正四(一九一五)年:やはり同詩集の挿絵を描いている恩地孝四郎と友人であった。惜しくも結核で夭折した私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」ヴァーチャル正規表現版始動 序(北原白秋・萩原朔太郎)目次その他 地面の底の病氣の顏)』他(ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」)を見られたい)が上京直後に下宿としている。]
で、本郷に戻ってきても、二人はひどく寒かった。そこらあたりがしんかんとつめたく、いわゆる霜夜というやつだ。そこで屋台のオデン屋で、コップ酒をかたむけることにたちまち相談がまとまった。酒を飲むのは、しかし寒かったからだけではない。他にもう一つ理由があって、つまり初めからの予定でもあったわけだ。
屋台に入り、酒がなみなみと注がれると、霜多はコップをちょいと持ち上げ、僕の顔を見て、
「おめでとう」
と笑いながら言った。いたわるような、からかうような、そんな妙な調子だった。そしてつけ加えた。
「ほんとによかったな」
「うん」
僕はコップに目をつけた。何箇月ぶりかのその酒は僕の食道をじりじりとやき、しずかに胃の方におちて行った。その味は、旨いとか不味いとかいうものでなく、言わばその彼方のものの味だった。しかし僕はすこしヤセ我慢のような気持で、
「うん。酒というものは、やっぱり旨いもんだな」
などと答えたりした。久しぶりの酒に、そんな照れかくしを言わねばならないほどに、僕には複雑な感懐があったのだ。しかしまあ、あの頃だったから複雑なので、今だったら複雑でも何でもない、カンタンな話なのだが。
その筋道をちょっと言いておく。
その前年の七月の末、当時二十一歳の僕はある種の病気にかかったのだ。ある種の病気というのもへんだから、この病名を仮にXということにしておこう。このXは現今においては、注射の一、二本でカンタンに治癒するらしいけれども、当時は当時、医業医薬の未発達のため、なかなか難治の病気とされていた。その難治なるXに不運にも僕がとりつかれたというわけだ。僕は夏休みの帰郷をも取止めて、大急ぎで医者に飛んで行った。
こうして僕の憂鬱な口々が始まった。
Xという病気ははなはだ面白くない病気で、酒はいけない、刺戟物はいけない、あまり動き廻ることもよくない、とにかくあらゆる欲望をつつしまなければならない病気なので、そこで僕は毎日下宿にごろごろして、そして医者に通う。その医者は町医者で、僕が学生だからというので、特に治療費を月極め二十五円にして呉れた。当時にしてもこれは安い方だったと思う。医院は千駄木町にあった。僕が弓町の下宿を引払い、この愛静館に引移ってきたというのも、そんな事情からだった。毎日通うのに遠くでは都合が悪いのだ。
ところが次にむつかしい問題があった。愛静館の下宿代が一月二十五円、医者代と合わせると、月に五十円となる。それなのに僕が仕送りを受けている学資が、月額五十円なので、下宿代と医療費にまるまる消えてしまうのだ。あとは何も出来ないというわけだが、僕だって人間だから、何もしないというわけには行かない。本も読みたければ、タバコもすいたい。そんなことをするにはどうしても金が要る。
それではも少し余計に仕送りさせればいいじゃないか、と思う人もあるだろうが、そういう訳にも行かない。Xのことは故郷には秘密になっているし、夏休み不帰郷のことは学術研究ということにしてある。だからどうしてもその範囲でやらねばならなかったのだ。僕ははなはだしく憂鬱だった。
ところがその憂鬱にまた輪をかけることが起きて出たのだ。病状は順調に回復におもむいていると思っていたのに、九月に入ったとたん、Xがある種のこじれ方をして、大いに痛みを発し、僕はどっと床についた。痛くて痛くて動けないのだ。退屈なものだから、バスに揺られて浅草にレビューなどを見に行ったのが、覿面(てきめん)にたたったらしい。
それから下宿に寝たっきりの三週間、医者は毎日往診して来る。動けないのだから、付添いの女を派出婦会からやとう。どうにでもなれと思って、僕はヤケッパチな安静をつづけていた。将来のことを考えると、眼の先がまっくらになるような気がするので、一日中もうひたすら無念無想とつとめている。八方ふさがりだから、僕とてもそういう擬態をとらざるを得ないのだ。
こういう僕に対して、下宿側はどう考えていたか。それを想像すると、僕は今でも舌打ちしたくなるような面白くない気分になる。
Xのことはもちろん下宿側には秘密にしてあった。しかし事態がこうなれば、向うは感づくにきまっていた。そうそう僕もかくし立ては出来ない。
無論感づかれたって一向かまわないのだけれども、事情が事情だから、いろんな支出の関係上、どうしても下宿料がとどこおってくる。下宿料のたまった止宿人ほど肩身のせまいものはない。経験のある人には判って貰えると思うが、そうなれば女中だって鬼みたいに見えてくるものだ。
そんな絶対安静のある日、付添いの女が食事から部屋に戻ってきて、僕に言った。ひどく不快そうな表情だった。
「御飯どきにあたしをいじめるんですのよ」
付添いは二十四、五の素直な女だった。もちろん食事代は僕持ちのわけだが、下宿ではその食膳を僕の部屋に持って来ず、初めから女中部屋で食事をするように命じたらしい。これは僕を踏みつけにしたやり方なのだが、宿料がとどこおっているのだから仕方がない。だから付添いは食事毎に女中部屋にかよっていたのだ。
僕は訊(たず)ねた。
「誰がだい。オカミかね?」
「いえ、オカミさんじゃない。あの婆さんです。とてもひどいことを言うのよ」
「どんなこと言った?」
「あなたのことなど、学生のくせにXなんかにかかって、仕様のないダラク学生だって」
「ダラク学生?」
「あんなのを産んだ親御の顔が見たいなんて、わざと聞えよがしに話すのよ」
僕は寝床にじっとあおむけに横たわり、大げさに言うと、歯をかみ鳴らして悲憤の涙を呑んだ。こんなにも日常は憂鬱なのに、八方ふさがりでどうしていいのか判らないのに、何も開係のないあのババアから、なんでこんなことまで言われねばならないのか。
ここでこの婆さんのことを、ちょっと説明をして置く必要がある。この婆さんというのは、この下宿の経営者ではない。はっきり言えば一介の雇い婆に過ぎないのだ。つれあいの爺さんと一紺にこの下宿に住みつき、それも相当古くから居付いているらしく、相当の実権と発言権を持っている風(ふう)で、仕事と言えば炊事や掃除の指図など、ちょっと女中頭みたいな地位にあるようだった。年齢はその頃五十五、六ぐらいだったかしら。色の黒い、説がぎろぎろして、いかにも頑固一徹そうな風貌だった。これに反してつれあいの爺さんは全くの好々爺だったが、婆さんの尻にしかれて影のうすい存在だった。
僕は初めからこの婆さんから好意を持たれていないらしかった。
今思うと、この婆さんの止宿人に対する好悪あるいは価値判断は、しごくハッキリしていたと思う。学校に毎日真面目に出席し、そして下宿代もキチンキチンと払う、そういう止宿人に婆さんは好意を持ち、その反対のものに悪意を持ったというわけらしい。彼女は雇い婆だから、下宿代を溜めようが溜めまいが関係ない筈なのに、そこが価値判断のひとつの基準になっている。つまり彼女の好悪は、彼女独特の倫理観から出てきているようだった。
この下宿に入った早々、僕はハガキを出しに、玄関にあった誰かの古下駄をつっかけて出かけ、そしてこの婆さんにがみがみ叱られたことがある。僕も反撥した。
「ちょっとそこまでだから、いいじゃないですか。穿いて減るものじゃなし」
「だってあんたさんは、自分の下駄を持ってなさるんじゃろ」
と婆さんは僕をにらみつけた。僕としては、ついそこらのポストまで行くのに、わざわざ下駄箱から下駄を出すのは面倒くさい。だからちょっと無断使用したわけだ。それはもうすっかりすり減って、捨てても惜しくないようなよごれた古下駄だったのに。
「ケチケチするなよ、婆さん」
僕は捨ぜりふを残して、一気に階段をかけ上った。僕の部屋は二階の一番外(はず)れの、北向きの日当りの悪い四畳半だった。愛静館の中でも最も悪い部屋のひとつだったと思そう。
その四畳半の部屋で、面白くない明け暮れをむかえ、そして僕の病気がやっと治(なお)ったのは、翌年の正月に入ってからだった。七月の末からのことだから、五箇月を越える計算となる。一夜の歓の代償としては、若い僕にとって犠牲が少々大き過ぎた、と言えるだろう、現今なら何でもない話だから、僕は十五年ばかり早く生れ過ぎた。しかしこの五箇月の忍苦の生活の中で、僕は人の世のいろいろのことを学び、またさまざまな考えや態度を身につけた。すなわち少しは図太くなってきたとも言うわけだ。図太くなったとしても苦しく憂鬱な条件にはかわりなかったのだが。
その僕に、霜多がいつかこんなことを言ったことがある。
「君の生活が僕には大変うらやましいな。だって、君は、酒は飲めないんだろ。コーヒーも飲めないだろ。女も抱けないだろ。そうなってしまえば、勉強がいくらでも出来るじゃないか。うらやましい身分だよ。それに君の生活の全目的は、Xの治癒ということにかかっているから、つまり生活の大義名分というものがハッキリしてるというわけだ。それだけでも大したもんだよ。今の青年たちを見なさい。皆生活の目的を失って、右往左往してるだけじゃないか。この僕だってそんなもんだよ。ほんとに君がうらやましい」
しかしこれが霜多の本音であったかどうか。後年霜多が同じくこの病にとりつかれて憂鬱な顔をしていた時、僕はわざと今の言葉をそっくり彼に言ってやった。こんな言葉は、傍観者にとって本音であるとして、当事者にとっては全然的外れの、むしろじりじりと腹が立って来るような言葉なのだ。やはりこんなことは当事者同士じゃないと判らない。そこで僕は今でも、どんな種類の病人に対しても、しかつめらしい同情や激励の言葉は絶対に出さないことにしている。
本郷のオデン屋で霜多がコップを上げて、おめでとうと祝福して呉れた時も、だから僕は必ずしも調子を合わせて嬉々とするわけにも行かなかったのだ。と言って全然嬉しくないということはない。嬉しいにはきまっている。医者から、もう酒でもコーヒーでもいくらでも飲んでもいい、と言われた時の嬉しさはちょっと形容を絶するようなものだった。ただそれが他人から祝福されるところからは、少しずれていたというだけの話だ。それに完全に癒(なお)ったとしても、まだ色々の問題が残っている。この五箇月間の気持のムリ、生活のムリ、ことに経済上のムリは、全部現在にシワヨセになって来て、それはもうどうしようもない程度に達していたのだ。医者の払いも半分近く残っているし、親類や知友たちにも不義理の借金、下宿代にいたっては三箇月分以上もとどこおっている。前年の大みそか、つまり十日ほど前のことだが、愛静館のオカミは僕の部屋にでんと坐りこみ、是非ともここで片をつけて呉れ、片をつけねば正月から食事も出さぬとの強(こわ)談判に、僕はひたすら哀願の一手で、年があけたら必ず金を調達してお払いする、と堅い約束までさせられている。ところが今日となっても、調達のメドすらついていないのだ。
下宿の玄関を出入りする度に、オカミや婆さんや女中たちが、じろりと僕を険をふくんだ白い眼で見る。背中に汗が滲み出るような気持で、僕は寒空に飛び出す。飛び出したが最後、下宿がすべて寝しずまってしまうまでは、全然戻る気持になれないのだ。今にして思えば、どうも僕はいくらか神経衰弱的な、強迫症状みたいなものにおち入っていたのかもしれない。
で、その屋台のオデン屋で適当に祝杯をあげ、有り金もすっかり使い果たし、そこで中野へ帰ろうとする霜多を懸命に引き止めたのは、僕の方だった。霜多の外套(がいとう)の袖を、僕はつかんで離さなかった。
「ねえ。も少し飲もうよ。まだ早いんだから」
「だって金がないんだろ」
「紫苑に行けば、ツケで飲めるよ。とにかく飲んでしまって、金は明日持って来ると言えばいい」
紫苑というのは、愛静館の近くにある小さなうらぶれた喫茶店の名だ。病気中時間つぶしに僕はほとんど毎日そこに行き、紅茶をのんでレコードを聞いてばかりいたのだ。
しかし霜多はなおも渋(しぶ)った。終電を逸(のが)すと困るというのだ。
「僕の下宿に泊ればいいじゃないか」
「一緒に寝るのは寒いからイヤだよ」
「心配するな。ちゃんと客蒲団を出させるよ」
「へえ、大丈夫かい」
霜多はそう言ってニヤリと笑った。信用がおけないという表情でだ。僕と下宿との現在の状況をうすうす知っているものだから、そんな笑い方をしたのだろう。僕は強引に彼の外套の袖を引っぱった。霜多はしぶしぶ眼いて来た。
実のところ僕も、こんな状況において、下宿に客蒲団を出させる事が出来るかどうか、はなはだ心もとなかった。心もとないと言うより、それは不可能だと言ってよかった。しかし一旦保証した以上、戦後的表現で言えば不可能を可能としないわけには行かないのだ。そのためにも、もっとアルコール分を入れて酔っぱらう必要があった。酔ってしまえばどんな厚顔な申し出だって出来る。それで失敗すればそれまでの話だ。――そしてその時の僕の胸に、いわば破滅的な予感とでも言ったものが、たしかにあったように思う。
屋台を出て僕らは追分の方に歩いた。半年ぶりの飲酒だから、生酔いなのかしたたか酔っているのか、自分でもはっきりしない。身体の芯(しん)はグニャグニャしている感じだが、夜風は頰にひりひりとつめたい。それはへんに確かなつめたさだった。そして僕らは横町に折れ込んだ。紫苑はその静かな横町にぽつんとあるのだ。僕らはその扉を押した。マダムが僕を見て目顔であいさつした。部屋の中はストーブでむっとあたたかかった。僕らはすみの卓に腰をおろした。卓と言っても三つか四つしかないのだから、たかが知れている。
そして僕らはビールを注文してどんどん飲み始めた。部屋中があったかいから、ビールはひとしお旨(うま)かった。つまみものは南京豆。つまみもの付きでビール一本が五十銭だ。思えば当時は物価が安かったものだ。僕らはここでビールをきっかり十本飲んだ。後日紫苑でこの夜の借金として五円支払った記億がある。一人当り五本だから、あの年齢にしては相当な酒量だと言えるだろう。もっとも僕としては祝い酒かヤケ酒か、よく判らないような状態だったけれども。
向うの卓でもビールをじゃんじゃん飲んで騒いでいる四、五人連れの一組があった。マダムがそっと僕らの卓に近づいて、小声で教えて呉れた。
「あれが川崎長太郎よ。その横が浅見淵。立ってるあのノッポが檀一雄よ」[やぶちゃん注:「川崎長太郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和五〇(一九八五)年)は小田原出身の小説家。小田原中学校中退(図書館の本を盗んで退学処分を受けた)。初期にはアナーキズム・ダダイズム系の詩を書いていたが、関東大震災後、それらの動きを離れ、私小説に転じた。「無題」(大正一四(一九二五)年)や、郷里小田原の私娼窟に材をとった「抹香町(まっこうちょう)」(昭和二五(一九五〇)年)などで一時期、ブームを呼んだ。「浅見淵」(あさみふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年)は。兵庫県神戸市生まれの小説家・評論家。早稲田大学国文学科卒。中学時代から『文章世界』に詩などを投稿し、早大在学中に『朝』同人となり、大正一四(一九二五)年に「山」を発表。以後、『文芸城』『新正統派』などの多くの同人雑誌に参加して創作・評論を多数発表した。昭和一一(一九三六)年に「現代作家研究」を出版、翌年には創作集「目醒時計」を刊行している。近代文学史の研究でも知られる。「檀一雄」(明治四五(一九一二)年~昭和五一(一九七六)年)は山梨県生れの小説家。東京帝国大学経済学部在学中、太宰治らを知り、佐藤春夫に師事した。芥川賞候補となった「張胡亭塾景観」(昭和一〇(一九三五)年)などを収めた処女作品集「花筐 (はながたみ) 」(昭和十二年) を刊行後、約十年間の沈黙の後、「リツ子・その愛」・「リツ子・その死」(昭和二五(一九五〇)年)で文壇に復帰、「長恨歌」「真説石川五右衛門」で同年下半期の直木賞を受賞した。しかし、三人とも梅崎春生(大正四(一九一五)年二月十五日生まれ)の先輩作家でありながら、彼よりも長生きしていることが何とも言えない。]
マダムは三十過ぎの小柄な女で、ドイツ人か何かと関係があるとかあったとか、そんな噂のある女性だった。年甲斐もなく文学少女(?)で、そういう高名な文士たちがやって来たことが、なかなか嬉しいらしいのだ。そしてその嬉しさを僕ら大学生たちにも分けたかったのだろう。
僕も東京に来てまだ一年足らずだから、文士飲酒の光景に接するのは、これが始めてだ。ちょっと珍しいことだから、時に横目でそちらを眺めながら、こちらもピッチを上げる。俺もいつかは文士となりあんな具合に酒を飲んでやろうと、僕がその時思ったかどうか、十六年も前のことだから覚えていない。そのうちに座が乱れて、酔える川崎長太郎はビール瓶をぶら下げ、ひょろひょろとこちらにやって来て、いきなり僕の肩をがしりと摑(つか)み、
「やい、大学生、ビールを飲め!」
ビール瓶の口を僕の口にあてがい、ごくごくと注(そそ)ぎ入れた。僕は突然のことだから、ビールにむせて泡を宙にふき出したりした。
かれこれしてカンバンになり、僕らが外に出たのは、もう午前二時を過ぎていたと思う。正確に言うと、一月九日ということになる。月が出ていた。月はつめたく本郷の家家の瓦を照らしていた。
もちろん僕らは相当に酔っていた。愛静館まで二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]足らずしかない。僕らはよろめきながらその道を歩いた。
客蒲団の交渉をしてくるから君はここで待ってろと、霜多を表の電信柱の下に待たせ、僕は勢いよく愛静館の玄関の大ガラス扉をがたがたと押しあけた。
帳場にはれいの婆さんがひとり火鉢にうずくまっていたが、その音を聞きつけて顔を上げた。ぎろりと僕の顔を見た。
僕はつかつかと帳場の台まで行き、その仕切りのガラス障子を押しひらいた。
婆さんは極端につめたい眼付きで、僕をにらんでいる。僕も負けずに婆さんをにらみつけながら、押しつけるような声で言った。
「客が泊るんだから、客蒲団を出して呉れ」
「蒲団を出せって、あんた今何時だと思ってんだね」
「何時だって、時計を見りゃ判るだろ」
と僕は大玄関の大時計の方をあごでしゃくった。婆さんは少しむっとしたらしかった。
「こんなに遅く帰ってきて、そんなムリはお断り!」
「なに。ムリだと?」
僕もむっとした。ムリは最初から承知はしているが、僕は承知していても、僕の酔いがそれを承知しなかったのだ。それに霜多も表で待っている。
「ムリだとは何だ。ここは客商売だろう。そんなら客の言うことをきけ!」
「うちでは客蒲団は十二時までですよ。それ以後は出せません。皆寝てるんだよ」
「寝てるって、婆さんがそこに起きてるじゃないか。骨惜しみもいい加減にしたらどうだね。なんだい、俺の付添いをいじめたりしやがって!」
「おや、あたしが何時誰をいじめました?」
「付添いだよ。それに俺のことをダラク書生とか何とか、カゲ口をきいたそうだな」
「何だね、あんたは」
婆さんは急に鎌首をもたげて、中腰になった。
「真夜中に帰ってきて客蒲団を出せとか、カゲ口をきいたとかきかんとか、そりゃちゃんと下宿料を払ってから言うもんだよ。第一あたしゃあんたに雇われちゃいないんだ」
僕はたちまち逆上した。この一夜の酔いが一時に顔に燃え上るようで、くらくらと何もかも判らなかった。帳場の台の上には、どういうわけか小さな糊壺が一つおかれてあった。反射的に僕はそれを摑(つか)んで、婆さんめがけて力一ぱい投げつけたらしかった。
「おまわりさん。おまわりさん。その悪党をひっくくって下さい。死刑にして下さい。なんだい、あんなの、死刑にしたっていいんだ。くたばってしまえ」
巡査たちが来ると、婆さんは更に狂乱状態になって、大声でわめき、しきりに罵り続けた。今考えると、おでこのコブがあまりにも痛いので、それをまぎらわすためにわめいていたのではないかとも思う。それならば気の毒なことをした。
一方僕は土間にしょんぼりと佇(た)ち、小刻みにがたがたと慄えていた。巡査が恐いからではなく、寒さがひしひしと身に沁みてきたからだ。糊壺を投げ椅子をふり廻した、それだけの運動で、あれだけの酔いが一時に発散してしまったらしい。しらじらとしたものが、そのかわりに僕の胸をいっぱいに充たしてきた。
巡査は婆さんの怒声にあまり耳もかさず、寝巻姿の連中に事情を聴取したり、糊壺を証拠品として押収したり、そんなことばかりをしている。僕のことも、逃亡のおそれなしと見たのか、あまりかまわない風だった。僕ももうジタバタしたって仕様がないので、そこにつっ立って、巡査の動作をぼんやりと眺めているだけだった。その時僕が感じていたのは、悔悟の念というよりも、むしろ開放感というものに近かったかも知れない。
(これでとにかく一応の決着がついたというわけかな)
僕はぼんやりと、そして呑気にもそんなことを考えた。今思っても、これで決着がついたと考えたのは、呑気も甚だしいことだった。実際新しい苦労がそこから始まったようなものだったからだ。そして僕は考えた。
(俺は俺を取巻く現実を憎んでいた。ところが現実一般を漠然と憎悪するわけには行かないので、この婆さんを代表に立てて、唯一の仮想敵だと思ってたのかも知れないな)
事件もそろそろ終ったと見極めたのか、それとも寒いのか、そこらにうろうろしていた寝巻姿の止宿人たちは、一人減り二人減り、そして皆部屋に戻ってしまったらしい。やがて婆さんもいくらか落着いて、くどくどと巡査の一人に何か訴えている。
もう一人の巡査が急に僕に近づいて、僕の肩をごくんとこづき、そして険のある声で言った。
「おい、一緒に来るんだ」
その巡査と一緒に、僕は表へ出た。霜多があとからついて出た。表へ出ると巡査はぶるっと身ぶるいをした。
「やけに寒いな、車でも拾うか。おい、お前、金あるか?」
「持ち合せありません」
と僕は出来るだけおだやかに答えた。巡査は舌打ちをした。そして霜多の方をふりむいた。
「あんたは少し金ないですかね?」
霜多に対しては言葉使いがていねいだった。そういうことかも知れないけれど、実のところ僕はあまり愉快な気持ではなかった。
「ないです」と霜多がカンタンに答えた。巡査はフンといった顔をした。
そして僕の腕をつかんで、不機嫌な声でうながした。
「さあ、さっさと歩くんだ。手間をとらせやがって!」
そして僕ら三人は、各々の月の影を平たく地面に引きずって、駒込警察署の方にむかって歩き出した。