譚海 卷之三 京師の送り火
○每年七月盆に京都の山に火をともすは、大もんじ山・妙法字山・船岡等也、十六日の夜の事也。大文字山は禁庭より見ゆれば叡覽に入(いる)事なり、そのよの山は禁裏より見えがたし。十六日夕より山下の民たきぎをになひて山にのぼり、文字の鑿(うがち)たる山穴へ薪(たきぎ)を埋(うづ)め、油松明(あぶらあたいまつ)をなげ込(こみ)にげ歸る事也、踟躊(ちちゆう)[やぶちゃん注:「躊躇」に同じい。]すればうはゞみ出ると云傳へて、いそぎにげ歸る事也。京都よりのぞむに、始めは螢火の如くちらちら火(ひ)見ゆるが、一遍に火つら成(なり)起(おこり)て大文字の筆勢火光あざやかにみゆる、いつも十六日夜戊の刻一時[やぶちゃん注:午後八時前後二時間。]ばかりを壯觀とする事なり。此大文字の跡平日山に入(いり)て見れば、大きなる穴をいくらも掘つゞけたるものにて、文字の形勢分ちがたし、火を點ずる時も穴一つを壹人づつ請取(うけとり)て、薪を穴へうづむ事也。火の盛成(さかんなる)時火勢つらなりて大の字の形(かたち)鮮(あざやか)に見ゆる也。往古弘法大師創立ありし文字なれども、星霜をへて文字の畫(かく)わろく成しに、近世相國寺(しやうこうじ)の橫川(わうせん)和尙筆勢を直されたりといへり。
[やぶちゃん注:ウィキの「五山送り火」を読まれたい。私は見たことがない。
「相國寺の橫川和尙」同ウィキの「大文字の起源・筆者に関する諸説」を見られたいが、「相國寺」京都市上京区にある臨済宗萬年山相国寺。「橫川和尚」は室町中期から後期にかけての臨済僧横川景三(おうせんけいさん 永享元(一四二九)年~明応二(一四九三)年)。後期五山文学の代表的人物で、室町幕府第八代将軍足利義政の側近で外交や文芸サロンの顧問格であった。横川は道号で、法諱が景三。]