南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7
予現に參考書を缺くを以て、歐州「シンダレラ」物語の最古きは、何時代に記されたるを詳かにせず、隨て、此譚の早く筆せられしは、東西孰れに在るを斷ずる能はずと雖も、兎に角、千餘年前に成し酉陽雜俎に、此特色ある「シンダレラ」物語を書付たる、唐の太常卿、段成式の注意深かりしを感謝する者也、この人相國文昌の子、詩名高く、宏學博物、殆ど張華「プリニウス」の流也、(尉遲樞の南楚新聞に、今より千四十八年前、咸通四年六月、卒せる後、其靈書を友人溫庭因筠に贈る由載たり)、平素好んで書を藏し、又下問を耻ず[やぶちゃん注:「はぢず」。]、天上天下、方内方外の異譚奇事を錄して、酉陽雜俎二十卷、續集十卷を撰せり、唐代の事物、是れに據て初て見るべき者頗る多し、然るに楊愼の丹鉛總錄卷五、段成式好張虛大之言、其著酉陽雜俎、亦似郭子橫洞冥記、唐人杜陽雜編全構虛誑、殊無一實也[やぶちゃん注:「中國哲學書電子化計劃」の原本影印本の当該部を確認し、一部の漢字の誤りを訂した。]と評し、江村北海も亦雜俎を丸啌[やぶちゃん注:「まるうそ」。]也と排せり、こは後世支那人が、書籍の穿鑿のみに腐心して、實際に迂なると、吾邦の儒者が、世界の廣き事を知らざる僻言[やぶちゃん注:「まるうそ」に応じて「ひがごと」と読んでおく。]にて、成る程段氏の記述に怪異の事多きも、是れ却つて、當時唐土に行はれたる迷信、錯誤の實況を直筆せる者なれば、其頃支那に於る一汎人智の程度を察するに最も便利有る事、歐州にも、遠く「アリストテレス」「プリニウス」より、中頃天主敎諸大德を歷て、近く「ゲスネル」「アルドロヷンヅス」に至る迄、牛屍を埋れば蜜蜂に化し、人の脊髓死して蛇となり、露[やぶちゃん注:「つゆ」。]海に入て眞珠と變じ、航魚(タコフネ)[やぶちゃん注:底本は「タコウネ」。初出は「タコフ子」(「子」は「ネ」の漢字型表記)。初出に従い、「子」をカタカナ表示した。]を見れば凶事有り、印魚(コバンフネ)[やぶちゃん注:底本は「コバンネ」。初出は「コバンフ子」(「子」は「ネ」の漢字型表記)。初出に従い、同前の仕儀で示した。]は訴訟事件を長引かし、印度の象は每度龍と鬪て相討ちて果る、其外、人魚山男抔、呆れ返つた事共を飽く迄夥く書連ねたるに異ならず、段氏が智識を求る用意極て周到なりしは、卷十八に、諸外國の植物を載せたるに、啻に記文の詳きのみならず、多くは其本國名稱を添たり、紫鉚の眞臘名勒佉(ラツク)、波斯棗[やぶちゃん注:「ペルシアなつめ」。]のペルシア名窟莽(クルマ)、偏桃の波斯名婆淡(バダム)、無花果のペルシア名阿駔(アンジル)、拂林名底珍(「アラビヤ」名テイン)等也(De Candolle, ‘Origin of Cultivated Plants,’ 1890, passim.)、從來「エゴノキ」に宛てたる齊墩果如き、其記載の正確なるが上え[やぶちゃん注:ママ。]、雜俎に波斯名齊墩、拂林名齊虛[やぶちゃん注:「虛」は「選集」では「虛」に「厂」を懸けた字。]と擧げたるはペルシア語 seitun ヘブリウ語 sait に恰當[やぶちゃん注:「かふたう(こうとう)」。相当。]すれば、實は「オリヴ」樹の事也(明治四十年十二月、東洋學藝雜誌、拙文「オリヴ」樹の漢名に出)、其卷十九に見ゆる、梁の延香園の異園の如き、詳細の記載、明かに「コムソウダケ」の或種を眼前に想見せしむ、(予の “The Earliest Mention of Dictyophora,” Nature, vol. 1, 1894) 其驗仙書、與威喜芝相類と云るは、偶ま、以て、支那の古道士輩が、自然に、窒素分多き菌類の、畜肉と等く滋養分に富るを覺て[やぶちゃん注:「さとりて」。]、之を嗜み重んじ、隨て菌類に就て智識廣かりしを、諒するに足れり(仙書に、上帝肉芝を某仙に賜ふと有るは、紀州抔に多き Fistulina hepatica ならん、形色牛肉に酷似し、且つ鮮血樣の紅液を瀝る[やぶちゃん注:「たれる」。]故、英語に牛肉蔬(ヴエジタブルビーフステーキ)と呼ぶ)同卷に見ゆる、昆明池水網藻の記は、支那人が歐人に前て[やぶちゃん注:「さきだちて」。]、「アミミドロ」(英語 waler Net)を識りしを證す、(予の ‘The Earliest Mention of Hydrodictyon,’ Nature, vol. lxx, 1904)、又松下見林の異稱日本傳卷上にも引る如く、雜俎三に[やぶちゃん注:以下の引用は「酉陽雑爼」及び「異称日本伝」を閲するに脱字があったので特異的に訂しておいた。]、國初、僧云玄奘往五印取經、西域敬之、成式見倭國僧金剛三昧、言甞至中天、寺中多畫玄奘麻屩及匙筯、以綵雲乘之、蓋西域所無者、每至齋日、輙膜拜焉と有り、見林之を評して、眞如親王羅越にて遷化し給ひけるを、師鍊賛して曰、自推古、至今七百歲、學者之事西遊也以千百數、而跂印度者、只如一人而已、蓋不考金剛三昧事也と言り、件の千餘年前に渡天の壯行を遂げたる日本僧は、其姓名すら本國に傳存せざれども、吾邦曾て斯る偉人を出せしを知り得るは、一に親しく之に遇せし話を、雜俎に載たる段氏の賜物也(予の ‘The Discovery of Japan,’ Nature, vol. lxvii, p. 611, 1903 參照)、
[やぶちゃん注:「太常卿」「たいじやうけい」。天子の宗廟の祭礼を職掌とした。
「張華」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)。彼の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻はよく知られる。
「プリニウス」古代ローマの将軍で博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二三年~七九年)。大百科全書「博物誌」三十七巻を編み、古代科学知識を集大成した。ベスビオ火山噴火の際、調査に行き、遭難死した。甥の政治家ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus 六二年頃~一一四年頃)と区別して「大プリニウス」と呼ばれる。
「尉遲樞の南楚新聞」底本は「南楚紀聞」であるが、調べたところ、誤字であることが判ったので、特異的に訂した。「尉遲樞」(生没年未詳)は晩唐の人で、この「新聞」とは「風聞」の意で、そうした南楚の風聞を記した随筆。完本は伝わらないようであるが、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで引用文の集成が読め、そこに「太平廣記」卷三百五十一からとして、
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○段成式
太常卿段成式、相國文昌子也、與舉子溫庭筠親善、咸通四年六月卒。庭筠居閒輦下、是歲十一月十三曰冬至、大雪、凌晨有扣門者、僕夫視之、乃隔扉授一竹筒、云、「段少常送書來。」庭筠初謂誤、發筒獲書、其上無字、開之、乃成式手札也。庭筠大驚、馳出戶、其人已滅矣。乃焚香再拜而讀、但不諭其理。辭曰、「慟發幽門、哀歸短數、平生已矣、後世何云。況複男紫悲黃、女靑懼綠、杜陵分絕、武子成卷君。自是井障流鸚、庭鐘舞鵠、交昆之故、永斷私情、慨慷所深、力占難盡。不具、荊州牧段成式頓首。」。自後寂無所聞。書云卷君字、字書所無、以意讀之、當作群字耳。溫段二家、皆傳其本。子安節、前沂王傅、乃庭筠婿也、自說之。
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とある。
「咸通四年」唐末期の八六三年。
「溫庭筠」(おんていいん 八一七年?~八六六年?)は晩唐の知られた詩人。娘は段成式の子の段安節の妻となり、宰相であった温彦博(びんはく)の末裔に当たる。晩唐を代表する詩人の一人で、同時代の妖艶にして唯美的な詩風で知られる李商隠(八一二年又は八一三年~八五八年)とともに「温・李」と並び称される。優れた才人であったが、彼のウィキによれば、『試験場で隣席の者のために詩を作ってやったり、遊里を飲み歩いて警官と喧嘩をしたりするなど、軽率な行為が多く、科挙には』結局、『及第出来なかった。宰相の令狐綯』(れいことう)『の家に寄食したが、令狐綯を馬鹿にしたので追い出された』。八五九年頃、『特に召し出されて試験を受けたが、長安で任官を待つ間、微行していた宣宗に会い、天子と知らずにからかったので、随県の県尉に流された。襄州刺史の徐商に招かれ、幕下に入ったこともあるが、満足せず、辞職して江東の地方を放浪し、最期は零落して死んだ』。『詩風は六朝時代の宮体詩に近く、同年代の李商隠に比べてやや退廃的。また、温庭筠の性格も相まって少々』、『軽薄な美しさがある。李商隠と共に、宋代初期の西崑体に強く影響を残している』。現在、「温飛卿詩集」九巻が残る、とある。
「楊愼の丹鉛總錄卷五、……」(一四八八年~一五五九年)は明の学者・文学者。一五一一 年に進士に及第して翰林修撰となった。後に世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について帝に反対したため激怒を買い、平民として雲南永昌衛に流され、約三十五年間を配所で過して、没した。神童の呼び名高く、十二歳の時に書いた「古戦場文」は人を驚かし、詩は政治家で詩壇の大物として一時期を作った李東陽に認められた。博学で、雲南にあって奔放な生活を送りながらも、多くの著述を残した。その研究は詩・戯曲・小説を含め甚だ多方面に亙るが、特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料となっている。著作は「升庵全集」全八十一巻に収められている。以下、訓読しておく。
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段成式、虛大の言を張るを好む。其の著「酉陽雜俎」、亦、郭子橫が「洞冥記」、唐人の「杜陽雜編」に似て、全く虛誑(きよきやう)を構へ、殊(とりわ)け、一つの實(じつ)も無きなり。
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この『郭子橫が「洞冥記」』は後漢の郭憲の撰になる道教系の志怪小説集。「杜陽雜編」は晩唐末期の進士蘇鶚(そがく)の撰になる伝奇小説集。
「江村北海」(えむらほっかい 正徳三(一七一三)年~天明八(一七八八)年)は江戸中期の儒者・漢詩人。彼のウィキによれば、福井藩の儒者伊藤竜洲の第二子であったが、『明石藩士であり母の兄にあたる河村家で生まれ、そこで養育された。はじめ学問には無関心だったが、北海の俳諧を見た梁田蛻巖に激励され』、『勉学に専念。父の友人である丹後宮津藩の儒者・江村毅庵の養子となる。藩主・青山幸道は北海に吏才があることに気づき』、『次第に重用』された。宝暦八(一七五八)年、『美濃郡上藩に移封の際、病を理由に辞任を願ったが許されず』、『郡上に同行』している。宝暦十三年には『許されて京都に帰ったが、その後も時々郡上に行』って『教授し、または藩の諮問に応じた』。安永四(一七七五)年、『幸道が隠居したのを機会に致仕し、京都の室町に対梢館を建て隠居』した。
「實際に迂なる」現実の事実に疎いこと。
「段氏の記述に怪異の事多きも、是れ却つて、當時唐土に行はれたる迷信、錯誤の實況を直筆せる者なれば、其頃支那に於る一汎人智の程度を察するに最も便利有る」私は「酉陽雜俎」の愛読者であり、博物学的民俗学的観点から熊楠に完全に同感である。
「ゲスネル」スイスの博物学者で書誌学者コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner 一五一六年~一五六五年)。医学・神学を始めとしてあらゆる分野に亙って博覧強記で、古典語を含めた多言語に通じ、それを活用して業績をあげた碩学。著書「動物誌」全五巻 (一五五一年~一五五八年)は、近代動物学の先駆けとされ、植物学にも長じた。また、書誌学の基礎を築いたとされる「世界書誌」(一五四五年~一五五五年)を著わし、「書誌学の父」とも呼ばれる。当該ウィキによれば、『世界的な博物学者である南方熊楠はゲスナーに感銘を受け』、『北米時代の日記に「吾れ欲くは日本のゲスネルとならん」と記している』とあるのは、熊楠ファンの間では有名なエピソードである。
「アルドロヷンヅス」イタリアの博物学者ウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi 一五二二年~一六〇五年)はである。「Aldrovandus」という名を用いることもある。、ボローニャ大学で医学と哲学を教授した。研究対象は多岐に渡り、昆虫・動物・植物・科学一般などあらゆる分野に精通した。ゲスナーの「動物誌」を参考にした「怪物誌」(Monstrorum historia)はそのモンストルム・ワールドの強烈な一冊である。
「航魚(タコウネ)」頭足綱八腕形上目タコ目アオイガイ上科アオイガイ科アオイガイ属タコブネ Argonauta hians の美しい貝殻様の卵保護の殻を成形する♀(♂は作らない)の異名。私はビーチ・コーミングで採取した三個を持っている。但し、同種は太平洋及び日本海の暖海域に分布するので、ここでは、西洋の古博物書を含むので、他に似た殻をやはり♀のみが持ち、分布も広汎(全世界の熱帯・暖海域。太平洋・インド洋・大西洋・地中海)の表層に棲息するアオイガイ属アオイガイ Argonauta argo も挙げておく必要がある。但し、以下のこれを「見れば凶事有り」という伝承は私は寡聞にして知らない。原拠が何か、非常に興味があるところだ。なお、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子」(ブログ版)や、サイト版の「栗氏千蟲譜 巻十(全) 栗本丹洲」の最後のそれ(画像多数。まず、失望させないと自負する)や、「和漢三才圖會卷第四十七 介貝部【蚌類 蛤類 螺類】」の「貝鮹(かひたこ たこふね)」もよろしければ、読まれたい。
「印魚(コバンフネ)」条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属 Echeneis のコバンザメ類のことであるが、「フネ」は不審。前の「タコフネ」に引かれて熊楠が誤った可能性が高い気がする。或いは紀州で「サメ」を「フネ」と呼ぶのだろうか?(形が舟に似てはいるけれど) 私の「栗本丹洲 魚譜 白のコバンザメ」を参照されたい。以下、「印魚」「は訴訟事件を長引かし」については、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 2魚類」(一九九四年平凡社刊)の「コバンザメ」の項の「博物誌」の最後に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『この魚をもっていると、裁判に勝つことができるという俗信がある。これは裁判を長びかせれば、結局勝つことができるという考えによるらしい(谷津直秀《動物分類表》)』(引用書は一九一四年刊)とある。これは、少し意味が判りにくいが、要はコバンザメのその吸着力を以って裁判相手から決して離れないで訴訟闘争を続けることで勝つという覚悟の意味が元であろうと私は解釈している(他意味があるとなれば、是非、お教え戴きたい)。私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(3)」も参照されたい。
「印度の象は每度龍と鬪て相討ちて果る」これも原拠が判らない。但し、インドでは蛇或いは大蛇が象の天敵とされてはいる。大蛇(ナーガ)は中国では龍とは成ったが、これも原拠が知りたいところ。
「段氏が智識を求る用意極て周到なりしは、卷十八に、諸外國の植物を載せたるに」「酉陽雜俎」の「卷十八」は「廣動植物之三」。
「紫鉚の眞臘名勒佉(ラツク)」「紫鉚」は「しりう(しりゅう)」と読んでおく。同字の音はネットで調べると、一応、呉音が「ル」で、漢音が「リュウ(リウ)」である。納得のゆく読みだが、しかし、所持する「東洋文庫」(一九九四年刊)の今井与志雄氏の訳注の中では「鉚」に『こう』とルビされておられ、また、サイト「和漢薬・生薬の読み方」のこちらでは『紫鉚(しきょう)』である。しかし現代の拼音では「liǔ」で、これは「リ(ォ)ウ」であるからして、私は最初の読みでゆく。さても「紫鉚」とは、マメ目マメ科マメ亜科インゲン連ブテア属ハナモツヤクノキ Butea monosperma (紫鉚樹・紫柳)或いは同じく紫鉚樹・馬鹿花と漢字表記する同属の別種 Butea suberecta を指す(これは植物では最も信頼のおけるサイト「跡見群芳譜」のこちらに拠った)。ブテア属はインドから東南アジアにかけて広く分布する。最初に示したハナモツヤクノキは、当該属のウィキによれば、『ラックカイガラムシの宿主としてしられる。ラックカイガラムシの分泌する樹脂を採取して、花没薬(はなもつやく)という生薬や染色の臙脂に用いられる』とある。虫体被覆物質と虫体内色素の両方を利用する Lac に代表されるラックカイガラムシ科 Kerriidae については、解説が非常に面倒なので、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」の私の注を参照して戴きたい。今村氏の「酉陽雑俎」の訳によれば、カンボジア(原本では「眞臘國」)に産出し、現地では『勒佉(ローキア)と呼んでいる』。『子(み)を結ばない』が、『濃霧、露および雨が樹の枝々にかかってぬらすと、その樹から、すぐ紫』鉚(原本自体で段成式が字を誤っている)『が出る』とある。まさにラックカイガラムシの体を覆う樹脂状の物質で、精製して塗料・接着剤などに現在も普通に用いられているところの「ラック」のことである。
「波斯棗のペルシア名窟莽(クルマ)」私は本文内で「ペルシアなつめ」と当て読みしたが、今村氏は「ペルシア『そう』」と読んでおられ、「窟莽」には「くつもう」とルビされる。訳によれば、『形は、バナナに似てい』て、『花に二つの甲があり、徐々に開花する。裂け目に十余、種子の房があ』って、『核が熟するとき、朱氏は黒である。形は乾した棗(なつめ)に似ている。味は甘く』、『食用になる』とあって、今井氏はこの「窟莽」について、『ナツメヤシ』『のペルシア名という』と注されておられる。ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera である。実はデーツ(Date)と呼ばれ、北アフリカや中東では現在も主要な食品の一つである。
「偏桃の波斯名婆淡(バダム)」「偏桃」はバラ目バラ科モモ亜科サクラ属ヘントウ Amygdalus dulcis で、ご存知、種子の殻を取り除いた仁の部分が生の「アーモンド」である。
「無花果のペルシア名阿駔(アンジル)」底本は「駔」の(つくり)が「貝」であるが、中文ウィキの「無花果」によって特異的に訂した。バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica 。同ウィキにはペルシャ語のラテン文字表記で「anjir」と確かに出る。「酉陽雑俎」では第十八巻の最後に「阿驛」として登場する。
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阿驛、波斯國呼爲阿馹拂林呼爲底珍。樹長丈四五、枝葉繁茂。葉有五出、似椑卑麻。無花而實、實赤色、類椑卑子、味似甘柿、一月一熟。
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但し、今村氏の注で、「阿驛」については、『案ずるに、『本草綱目』三一「果」部「夷果類」の「無花果」』に『引』かれる『「阿駔」』と字注され、訳注では、その漢字表記について『新ペルシア語で、無花果を示す語は、anjir であるが、中国語の転写は、それとは無関係で、ペルシア語のより古い段階、中世ペルシア語とかかわりがあるらしい』と解説しておられる(今村氏の解説はもっと詳しい(もっと複雑である)ので、より詳しくは必ず引用書を参照されたい)。その「拂林」(アラビア)「名」が「底珍」「テイン」であるという点についても、今村は詳しい注を附しておられ、『アラビア語』では『tin, tine, rina』とある。
「De Candolle, ‘Origin of Cultivated Plants,’ 1890, passim.」フランス系のスイスの植物学者アルフォンス・ルイス・ピエール・ピラム・ドゥ・カンドール(Alphonse Louis Pierre Pyrame de Candolle 一八〇六年~一八九三年)。「国際藻類・菌類・植物命名規約」(ICBN)の制定に功績があった。この原本は一八八二年に刊行されたフランス語で書かれた「Origine des plantes cultivées 」(「栽培植物の起原」)である。
「エゴノキ」ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属エゴノキ Styrax japonica 。本邦で全国の雑木林に多く見られる落葉小高木であるが、果皮に有毒なエゴサポニンを多く含むことはあまり知られているとは思われない。それから果汁を絞ったりしたら、飲むどころか、触っただけでも炎症を起こすぞ(溶血作用もあるという)! 当該ウィキによれば、『「齊墩果」が漢名とされる場合があるが、これは本来はオリーブの漢名であ』り、『現代中国語では「野茉莉」と呼ぶ』とある。
「齊墩果」(さいとんくわ)「如き、其記載の正確なるが上え、雜俎に波斯名齊墩、拂林名齊虛[やぶちゃん注:「虛」は「選集」では「虛」に「厂」を懸けた字。ここで「※」としておく。]と擧げたる」これは、やはり、第十八にある、
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齊暾樹、出波斯國。亦出拂林國、拂林呼爲齊※【音「湯」兮「反」。】。樹長二三丈、皮靑白、花似柚、極芳香。子似楊桃、五月熟。西域人壓爲油以煮餅果、如中國之用巨勝也。
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である。この記載を見ても判る通り、これは明らかに、シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea である。
「ペルシア語 seitun ヘブリウ語」(ヘブライ語に同じい)「sait」今村氏の「齊暾樹」の注に「齊暾」は『オリーヴ』で、『ペルシア語の zeitum の転写である』とされた後、熊楠が以下で挙げる、論文を引かれて詳述されておられる。その今村氏の熊楠の以下の論文の引用部を恣意的に正字化して以下に示しておく。
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其邊[やぶちゃん注:今村氏によって『東羅馬帝国の亜細亜領』とある。]の諸氏がオリーヴを呼ぶ名に、齊暾に合ひ又は近き者多し。ヘブリウの Sait 又は Zeit、波斯の Seitun、アラビヤの Zaitun、土耳其人[やぶちゃん注:「トルコじん」。]及びクリメヤ脫脫[やぶちゃん注:意味不明。クリミア半島に勢力を持った元のチンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配して興亡した遊牧政権の言語、或いはタタール語ということか?] Seitun、アラビアの Jit、ヒンスクニ[やぶちゃん注:ヒンズークスのことだろう。]の Zeitun 等なり……[やぶちゃん注:このは今村氏の中略であることを、サイト「私設万葉文庫」のこちら(ここで当該論文は一応(表示文字に不全があるが)読める)で確認した。]因みに言ふ。古アラビヤ人はジェルサレムをオリーヴに因んで齊暾邑 Aaituni-yah と呼び、又、七八世紀の頃より、支那の泉州をも齊暾と呼り、當時の唐人が泉州府を楚桐城 Tseu-tung-ching と綽名せしをオリーヴのアラビヤ名と混じての事也
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『明治四十年』(一九〇七年)『十二月、東洋學藝雜誌、拙文「オリヴ」樹の漢名』こう表記しているが、国立国会図書館の書誌データの「目次」(本文画像は閲覧出来ないので御注意あれ)を見る限りでは、「オリーヴ樹の漢名」である。
「其卷十九」「酉陽雑俎」のそれは「廣動植之四」で「草類」が続く。
「梁の延香園の異園」梁の第二代皇帝簡文帝蕭綱(五〇三年~五五一年:武帝蕭衍の三男。土嚢を身体の上に積まれて圧殺された)の作った庭園名らしい。以下は、著者段成式の自分の屋敷の竹林を手入れしていたところ、不思議な菌(きのこ)が生えてきたことを記した後に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認した)、
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又、梁簡文延香園、大同十年、竹林吐一芝、長八寸、頭蓋似雞頭實、黑色。其柄似藕柄、内通幹空【一曰柄幹通空】、皮質皆純白、根下微紅。雞頭實處似竹節、脫之又得脫也。自節處別生一重、如結網羅、四面同【一曰周】、可五六寸、圓繞周匝、以罩柄上、相遠不相著也。其似結網衆目、輕巧可愛、其柄又得脫也。驗仙書、與威喜芝相類。
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と出るのを指す。今村氏の訳文を参考に訓読してみる。
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又、梁の簡文が延香園にて、大同十年[やぶちゃん注:五四四年。]、竹林、一つの芝(くさびら)を吐(はきい)だす。長(たけ)八寸、頭の蓋(かさ)は雞頭の實に似て、黑色たり。其の柄、藕(ぐう)[やぶちゃん注:蓮根。]の柄に似、内は幹に通じ、空(くう)たり【一つに曰はく、「柄幹は通空たり。」】。皮質、皆、純白にして、根の下、微かに紅(あか)し。雞頭の實のやうなる處は、竹の節に似て、之れを脫(は)がせば、又、脫(は)がすを得るなり[やぶちゃん注:同じようなものを剝さなくてはならない。]。節の處より、別に一重(ひとえ)のもの生ぜしに、網羅(まうら)を結べるがごときにて、四面、同じくして【一つに曰はく「周(まは)り」。】、五、六寸ばかり、圓(まる)く繞(ねう)して周匝(しうせう)し[やぶちゃん注:丸く纏わってぐるりと取り囲み。]、以つて柄の上を罩(おほ)ひて、相ひ遠(はな)れて相ひ著(つ)かざるなり。其れ、結べる網の衆(おほ)くの目に似て、輕く巧(たくみ)なること、愛すべく、其れ、柄と又(とも)に脫(は)がし得たりしなり。仙書を驗(けみ)するに、「威喜芝(いきし)」と相ひ類(たぐひ)せり。
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「仙書」は道教の仙術書。その代表作は以下にも語られる晋代の葛洪(二八三年~三四三年)の著「抱朴子」(ほうぼくし)である。「威喜芝」については、今村氏が、『案ずるに、『抱朴子』内篇一一「仙薬」でいう木威喜芝であろう。同書によると、「そもそも木芝とは、松柏(はく)の脂がしずんで地に入り、千年たつと茯苓(ぶくりょう)にかわる。茯苓が一万年たつと、その上に小さな木が生ずる。形は蓮(はす)の花に似ている。名づけて木威喜芝という。夜、みると、光がある。持つと、たいへん滑らかである。焼いてももえない。これを身に帯びると武器をよける。雞につけて、他の雞を十二羽まぜ、一緒に籠にいれて、十二歩離れたところから箭(や)を十二本射ると、他の雞はみな傷つくが、威喜芝をつけたのは、ついに傷つかないのである」。それであろう』とある。文中で「木」を外して「威喜芝」と言っているのは所持する原本でも確認した。これは恐らく、「霊芝」(レイシ Ganoderma lucidum )に代表される菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属 Ganoderma の茸類の仲間であろうとは推定される。なお、「森林微生物管理研究グループ」サイト内の「キヌガサタケとスッポンタケ」にここを簡略記載した記事が載る(脱字を補った)。
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特異な形のため記録に残っている。唐代の随筆集である酉陽雑俎には、「梁の簡文帝の延香園では、大同十年(五四四年)、竹林からきのこが出た。長さは八寸、頭の傘は鶏頭に似て黒く、その柄は中空であった。皮質はみなとても白く、根の下は、わずかに紅色だった。鶏頭の実のところは竹の節に似ている。節のところから、別に一重に網のような物が生えていた。四面は周囲が五、六寸ばかり、円形にぐるりととりまき、柄の上にかぶさって、互いに付着していない。それは網の目を結ぶのに似ていて、軽く巧妙なことは愛らしく、柄とともにはずすことができた。」とあり、割合正確な描写をしている。著者の段成式は、竹林の手入れをして、病気で枯れた竹を伐ったところ、三年後(八三八年)の秋に枯根からキヌガサタケが発生した。高さは一尺余で、昼頃には黒ずんでしおれてしまったという。
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これは間違いなく、菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科キヌガサタケ属キヌガサタケ Phallus indusiatus である。私は偶然、京都嵐山の竹林を散歩している最中に実見した。まことに妖艶で美しいものであった。しかし、当初、――「熊楠にしてどうしたものか? 彼は『「コムソウダケ」の或種』と言っているが?」と甚だ腑に落ちなかったのだが? 菌蕈綱ハラタケ目フウセンタケ科フウセンタケ属ショウゲンジ Cortinarius caperatus という茸の異名として「コムソウ(ダケ)」が一般に知られていたからである。――しかし、以下の、「“The Earliest Mention of Dictyophora,” Nature, vol. 1, 1894」(題は「デイクティオフォラ属に関する最古の言及」)については、幸いにして、「Internet archive」のこちらで原文を読むことが出来(左ページ右段の中央)、さらに私は邦訳された「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊)を持っていることから、苦労せずに熊楠の記している内容を理解出来た。しかも、そこでは、まさにこの「酉陽雑俎」を英訳して、これは「コムソウダケ」世界最古の記録ではないか? と述べているのである。而してやおら、「Dictyophora」を調べると、キヌガサタケのシノニムに Dictyophora indusiata があったのであった。
「仙書に、上帝肉芝を某仙に賜ふと有る」出典不詳。「抱朴子」に無論「肉芝」は出るが、こうした内容は記されていない。
「Fistulina hepatica」真正担子菌綱ハラタケ目カンゾウタケ(肝臓茸)科カンゾウタケ属カンゾウタケ Fistulina hepatica である。当該ウィキによれば、『全世界に広く分布し、欧米では広く食用にされている。アメリカなどでは"Beefsteak Fungus"・「貧者のビーフステーキ」、フランスでは「牛の舌」(Langue de boeuf)と呼ばれている』。『梅雨期と秋に、スダジイ、マテバシイなど(欧米ではオークや栗の木、オーストラリアではユーカリ)の根元に生え、褐色腐朽を引き起こす。傘は舌状から扇型で、表面は微細な粒状で色は赤く、肝臓のように見える。裏はスポンジ状の管孔が密生し、この内面に胞子を形成する。他のヒダナシタケ類と異なり、この管孔はチューブ状に一本ずつ分離している』。『カンゾウタケ科に属するキノコは、世界中で数種類しかない小規模なグループを形成している。現在、カンゾウタケ属は本種を含む』八『種が命名されている』。本種は『近年の分子系統解析において』、同科の『ヌルデタケ』属 Porodisculus 『やスエヒロタケ科』Schizophyllaceae『の菌類と近縁であることが示されている』。『肉は、霜降り肉のような独特の色合いを呈しているうえ赤い液汁を含み、英名のBeefsteak Fungusの名の通りである。生ではわずかに酸味があるが、管孔を取った上で、生のまま、またはゆでて刺身や味噌汁にしたり、炒めて食べたりする』とある。
「ヴエジタブルビーフステーキ」Vegetable beefsteak。英文ウィキの「Fistulina hepatica」には「beefsteak fungus, also known as beefsteak polypore, ox tongue, or tongue mushroom」の異名が並ぶが、英文サイトのこちらには、「The Vegetable Beefsteak. The Beefsteak Mushroom. Fistulina Hepatica」がしっかりあった(太字は私が附した)。
「昆明池水網藻の記」「酉陽雑俎」の巻十九には、「昆明池」二箇所で出て、水草と水藻が語られてある。二つ並べて示す。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認した(前者がここ、後者がここ)。ここで熊楠が問題にしているのは後者であるが、私はヒシが大好きなので、敢えて挙げた。
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芰、一名水栗。一名薢茩。漢武昆明池中有浮根菱、根出水上、葉淪沒波下、亦曰靑水芰。玄都有菱碧色、狀如雞飛、名翻雞芰,仙人鳧伯子常採之。
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芰(し)、一名、水栗(すいりつ)。一名、薢茩(かいこう)。漢の武が昆明池中に浮根菱(ふこんりやう)有り。根、水上に出で、葉、波下に淪沒す。亦、「靑水芰」と曰ふ。玄都に菱の碧色なる有り、狀(かたち)、雞の飛ぶがごとし。名づけて「翻雞芰」、仙人鳧伯子(ふはくし)、常に之れを採れり。
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水網藻、漢武昆明池中有水網藻、枝橫側水上、長八九尺、有似網目。鳧鴨入此草中、皆不得出、因名之。
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水網藻(すいまうさう)。漢の武が昆明池中に水網藻有り、枝、水上に橫側(わうそく)し[やぶちゃん注:水面に突き出して水面上に広く広がっていて。]、長さ、八、九尺[やぶちゃん注:唐代の一尺は31.1㎝であるから、約2.49~2.80m。]にして、網の目に似たる有り。鳧鴨(のがも)、此の草中に入れば、皆、出づるを得ずと。因りて之之れに名づく。
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「アミミドロ」(英語 waler Net)」網深泥。緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目アミミドロ科アミミドロ属 Hydrodictyon 。種は当該ウィキによれば、Hydrodictyon africanum・Hydrodictyon indicum・Hydrodictyon patenaeforme・Hydrodictyon reticulatum の四種を挙げるものの、本文内では『種の同定にはやや疑問があるようである』と記す。以下、同ウィキから引用する。『淡水性の藻類で、網の目のような形をしている』。『大きいものは全体で30cmにもなり、淡水藻では大型の部類に属する。全体は細長い袋状で、五角形か六角形の網目構造からなっている。つまり、金網を円筒形の袋の形につなげたような形である。その長さは1cm足らずのものから前述のように大きなものまで様々である。ただし大きいものは全体の形が壊れてしまっている場合も多い。固着のための構造はなく、浅い水域で浮遊するか、何かに引っ掛かって固まっているだけである。色は鮮やかな黄緑』。『網目の各々の辺が1個の細胞からなっている。個々の細胞は円柱形。それぞれが当初は単核であるが、成長に伴って次第に多核になる』。『その姿に特にまとまりが感じられないこと、あまりに大きいことから、この藻類はアオミドロなどと同じように簡単ながらも』、『多細胞藻類であるように見えるが、実は違っている。アオミドロなど多細胞藻類は細胞分裂によって細胞を増やしながら、全体が成長して行くのであるが、アミミドロの場合、小さい藻体も大きい藻体も細胞数は変わらず、個々の細胞の大きさが異なるだけである。成長は、細胞それぞれが大きくなるだけであり、したがって、小さい藻体では網の目も細かく、大きい藻体では網の目は粗い』。『つまり、この藻類は非常に大柄ながら、クンショウモ』(アミミドロ科クンショウモ属 Pediastrum )『やボルボックス』(緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科ボルボックス属 Volvox )『と同様に、細胞群体である。群体全体の細胞数は一定で、細胞数が増えるのではなく、細胞が育つことだけで成長する。ただし、大きくなる間に破れるようにして藻体の形がくずれることがある。網が破れても細胞の壊れていない部分は生きているから、群体全体の形を止めない場合もままある』。『なお、細胞群体のことを別名を定数群体と言う。これは、群体を構成する細胞の数が一定(たいていは2の階乗、群体ができる時の細胞分裂回数による)なためであるが、アミミドロの場合、細胞数は約2万個で必ずしも一定しない』。『主として無性生殖で増える。暖かい時期には、大きく成長した群体において、細胞内がすべて鞭毛を持つ遊走子に分かれる。遊走子は泳ぎ回る余裕がないぐらい密生し、細胞内側の表面に並ぶ。やがてそれらが群体を構成する細胞に変わり、網目を形成する。やがて細胞壁が壊れると、新しい群体が放出される。つまり、親群体の個々の細胞から、それぞれ新しい群体が作られる。群体が円筒形をしているのは、もとの細胞の形を反映したものである』。『有性生殖は細胞内に多数の配偶子が形成され、それが泳ぎ出して接合することで行われる。配偶子は先端に2本の等長の鞭毛を持つ、同型配偶子である。接合子は発芽するとポリエドラ』(polyedra:藻類の生活環上の特定形態期の名)『となり、その内部に多数の遊走子を形成し、それが網状の群体を作る。接合核は発芽時に減数分裂を行う』。『ごく浅い、富栄養な水域に生育する。水田にもよく見られる。その他、河川のよどみのごく浅いところなどにも出現する』。『特に役に立つ場面はない。迷惑することもほとんどない。まれに増え過ぎて水路の邪魔になったり、金魚などの養魚場で増えて、小魚が藻体の網の目に引っ掛かって死ぬ、などという話がある程度である』。『アミミドロは細胞群体を形成することや、その繁殖法がクンショウモと同じで、これらは同じ群に属する』。『従来はクロロコックム目』Chlorococcales『とすることが多かったが、現在では、遺伝子解析などからヨコワミドロ目』Sphaeropleales『に分類されることが分かっている』とある。
「The Earliest Mention of Hydrodictyon,’ Nature, vol. lxx, 1904」標題は「アミミドロ属に関する最古の言及」。「Internet archive」のこちらで原文が読める(左ページの左下段から)。見ると、先の「ネイチャー」への投稿と同じく、「酉陽雑俎」の「水網藻」のの英訳を示して、現在のアミミドロの生態を誇張して描写したものと思われるとし(但し、「長八九尺」という寸法は巨大に過ぎると退けている)、これはアミミドロに関する最古の記述であろうと記している。
「松下見林」(まつしたけんりん 寛永一四(一六三七)年~元禄一六(一七〇四)年)江戸前期の医師で儒者・国学者。本姓は橘、名は秀明・慶摂。大坂の医師松下見朴の養子。儒医古林見宜(けんぎ)に学び、京で医業の傍ら、「三代実録」を校訂し、ここに出る「異称日本伝」の外、「公事根源集釈」「習医規格」などを著わしている。後年、讃岐高松藩主松平頼常に仕えた。
「異稱日本傳」外交史書。全三巻。元禄元(一六八八)年に書き上げ、同七年に板行された。中国や朝鮮の歴史書から、日本関係の記事を抜粋し、これに見林が考証と批評を加えたもの。外交関係史としては日本初の試みである。国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧』」のここが当該部。「酉陽雑俎」の巻三「貝編」(ばいへん:仏教経典のこと。貝多羅樹(ばいたらじゅ:現在ではインドのそれは単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科パルミラヤシ属オウギヤシ Borassus flabellifer に同定されている)の葉に経典を書写したものの意である)訓読を試みる。
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國[やぶちゃん注:唐。]の初め、僧玄奘、五印[やぶちゃん注:天竺を東西南北と中に分けた五天竺全部でインドのこと。]に往きて經を取(もと)めたり。西域、之れを敬す。成式[やぶちゃん注:著者の自称。]、倭國の僧金剛三昧(こんがうざんまい)[やぶちゃん注:熊楠が述べる如く、現在も、この名の日本人僧が誰だったのか、全く判っていない。]に見(まみ)ゆるに、言はく、「甞(かつ)て中天[やぶちゃん注:上記の中天竺。中部インド。]に至りしに、寺中、多く、玄奘が麻の屩(くつ)及び匙(さじ)[やぶちゃん注:「異称日本伝」では「カイ」とルビ。]・筯(はし)[やぶちゃん注:音は「チヨ(チョ)」。箸。]、綵雲(さいうん)を以つて之れを乘せて畫(ゑが)けり。蓋し、西域には無き所の者なればなり。齋日(さいじつ)の至る每に、輙(すなは)ち、膜拜(もはい)す。」と。
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最後の「膜拜」は「跪いて両手を挙げて礼をすること」を指す。仏教に於ける最高無条件の礼式である。
「眞如親王」澁澤龍彥最後の名作で知られる高岳親王(たかおか 延暦一八(七九九)年~?(貞観七(八六五)年とも元慶五(八八一)年ともされるが不明))、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、「薬子の変に」より廃された。後に復権して四品となるが、出家し、僧侶とななったその法名が「眞如」であり、空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)の十大弟子の一人となり、仏法を求めて六十四という老齢で入唐を決意、貞観六(八六四)年に長安に到着して在唐三十余年になる留学僧円載の手配により、西明寺に迎えられた。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(「会昌の廃仏」)の影響により、仏教は衰退の極みにあったことから、親王は長安で優れた師を得ることが出来なかった。そこで、遂に天竺行を決意し、貞観七(八六五)年、皇帝の勅許を得て、従者三名とともに、広州より海路、天竺を目指して出発したが、その後、消息を絶った。なお、在原業平は甥に当たる。
「羅越」羅越国はマレー半島の南端にあったと推定されている国。ここで元慶五年に亡くなったというのは、「日本三代実録」の元慶五年十月十三日の条にある、当時、在唐していた留学僧中瓘(ちゅうかん)らの報告によるものである(前の注とここは概ね当該人物のウィキに拠った)。
「師鍊」不詳。「自推古、至今七百歲」という時代がまた訳が判らない。松下見林はどこかで空海が高岳親王の天竺行を讃嘆したという、トンデモ記事を読んだものか? にしても「七百歲」が合わない。空海は親王在日中に遷化しており、彼も看取っている。【同日夜削除・訂正追記】いつも御指摘を頂くT氏よりメールを頂戴し、私のトンデモない誤りであることが判った(「師鍊」とあるのを「師」のみで誤認した致命的なもの)。これは、鎌倉後期から南北朝時代にかけての臨済僧で五山文学の代表者の一人である虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)のこと。元亨二(一三二二)年に白河済北庵で優れた仏教史の史書「元亨釈書」を著したが、そのこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの永禄元(一五五八)年の写本の当該箇所の画像。左頁の後ろから三行目以下)に、この叙述が出ることを御指摘戴いた。いつも乍ら、T氏に心より御礼申し上げるものである。
「自推古、至今七百歲、學者之事西遊也以千百數、而跂印度者、只如一人而已。蓋不考金剛三昧事也」「推古より今に至るまで七百歲。學者の西遊を事(こと)とするや、千百を以つて數ふ。而れども、印度に跂(つまだちてむか)ふ者は、只、一人のみのごとし」。と、けだし、金剛三昧のことを考えざりしなり」
「‘The Discovery of Japan,’ Nature, vol. lxvii, p. 611, 1903」「日本の発見」。「Internet archive」のこちらで原本が読め、その第二段落後半に以上の「酉陽雑俎」の内容が短く記されてある。]
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