只野真葛 むかしばなし (5)
○をぢ樣ほどの才人なれども、此〆が息にふかれて、工藤家がにくまるゝとは、御心つかざりしぞ、くやしき。よく御心をたぎれなば、かやうには有まじきを。
すべて親里といふものは、誰(たれ)も心のこびるものといふうち、ばゞ樣も御長屋にて氣つめがち故、年に、一、二度、高田へ御出(おいで)、御逗留を、何分、氣ばらしと思召れしなり。母樣にも、ひろびろと、田はた・野山を御覽、心のまゝにあそびありくを、
「おもしろく、うへなき氣のべ。」
と、おぼしめししみて、折々ごとの御はなしにも、
「高田、高田。」
とて、御したひ被ㇾ遊しなり。
源四郞は、とり分(わき)て、御ひぞうの上、そなたの乳《い》迄御のませ被ㇾ成し故、御懷(おんふところ)の中(うち)の寢ものがたりにも、高田のことを被ㇾ仰しなるべし。
源四郞、末期(まつご)にいたり、このみて、高田へゆかれしは、母樣の御いきのはしなり。
母樣には、御心ばせ、おとなしく、ぎやうぎよきにいたりては、似るものなし。誠に觀靜院とはうらはらの御人がらなりし故、かれと是とを、おもひくらべ、ふと、昔、しのばしくなられしものと察しられたり。
人、御乳母《ちおも》のならはしによるといふは、則(すなはち)、是なり。
[やぶちゃん注:「たぎれなば」意味不明。「滾れなば」で「激する気持ちを盛んに沸き起こしたならば」か。にしても、普通の言い方ではないし、文脈に合わない。「仙台叢書」では、清音で『たきれなば』であるが、ますます判らぬ。或いは、「なされなば」の誤記か?
「氣つめがち」「氣詰め勝ち」。
「高田」不明。現在の高田馬場を含む江戸の辺縁に当たった旧高田周辺か。江戸時代は現在の豊島区高田や西の中野区上高田に至る広域を「高田」と呼んでいたし、明治中期の地図を見ても(今昔マップ)、丘陵と田圃が広がっていることが判る。
「御出」お出でになり。
「御逗留」当時、泊まることは考えられないので、ここは、高田辺りをぐるりと巡って帰ってくる(「御出」)だけでなく、そこを目的地として、例えば、昼の半日をそこに滞在して過ごしたことを言っていよう。
「氣のべ」「氣延べ」。気晴らし・気散じ。
「源四郞」真葛(あや子)の次弟(周庵(平助)の次男)。例の七草のそれでは「尾花」と呼ばれた。真葛より十一年下であった。既に述べたが、長弟で長男であった長庵元保(幼名は安太郎。七草名「藤袴」。真葛より二歳下)は早逝している。「日本ペンクラブ」公式サイト内の「電子文藝館」の門(かど)玲子氏の「只野真葛小伝」によれば、亡くなった時、『嫡男長庵』は、『まだ二十二歳の若さであった』とある。
「そなたの乳《ち》迄」四女拷子(たえこ・七草名「萩」)を産んだ後の母乳をまで。
「源四郞、末期(まつご)にいたり」源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、ウィキの「只野真葛」他によれば、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで急死した。源四郎は『江戸に風邪が大流行し』、陸奥仙台藩第九代藩主伊達周宗(ちかむね:寛政八(一七九六)年に特例の生後一年足らずで藩主となり、親族であった幕府若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)の後見を受けたが、疱瘡のために文化九(一八一二)年に十四で夭折した。一説に死去は十一歳であったともされる)『の重要な縁戚である堀田正敦』(当時は近江堅田藩藩主で幕府若年寄。第六代藩主伊達宗村の八男。周宗は曽孫)『夫人も罹患したので』、『源四郎は常にその傍らにいて看病した。夫人はその甲斐なく亡くなっている。公私ともに多くの患者をかかえていた源四郎は、休まず患家をまわって診療したあげく、自らも体調を著しく衰弱させてしまったのであった』。『真葛は、みずからのよき理解者でもある大切な弟を亡くし、また、源四郎を盛り立てる一心で』、『みずから江戸から仙台に嫁したことがむなしくなったと悲しんだ』とある。
「母樣の御いきのはしなり」「母樣の御意氣の端なり」。母さまのご気性の繋がりであります。
「觀靜院」遊の母桑原やよ子の戒名か。
「乳母《ちおも》」乳母(うば・めのと・ちも)の別読み。]
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