譚海 卷之三 諸大名公家緣邊有事
○諸大名大かた公家衆に内緣なきは少(すくな)し、淺野家などは代々川鰭殿(かはばたけどの)緣者にて、息女を簾中(れんちゆう)に定(さだめ)らるゝ事時々たえず、佐竹家なども高倉殿緣者也。佐竹の一門の者在所に有(ある)には、烏丸殿(からすまるどの)より息女を妻に下さるゝ事也。
[やぶちゃん注:「川鰭殿」「河鰭家」(かわばたけ)。藤原北家閑院流滋野井(しげのい)支流の公家。平安末期の権大納言滋野井実国の次男参議藤原公清(きんきよ)を祖とする。家格は羽林家。家学は神楽。戦国の頃に一時、中絶したが、江戸時代に持明院基久の子基秀が入って再興された。家禄は始めは百石、後に百五十二石。
「淺野家」宗家は安芸広島藩(当初は紀伊和歌山藩)主。ウィキの「浅野氏」を参照されたい。
「佐竹家」江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続した。ウィキの「佐竹氏」を参照されたい。
「高倉殿」高倉家。藤原北家藤原長良の子孫である南北朝時代の従二位参議高倉永季を祖とする堂上家。家格は半家。江戸時代の家禄は八百十二石、分家に堀河家・樋口家の両羽林家がある。
「烏丸殿」烏丸家(からすまるけ)。藤原北家日野氏流の公家。家格は名家。室町時代の権大納言日野資康(裏松資康)の三男豊光を祖とする。家業は歌道。江戸時代の石高は千百五十三石。豊光の子資任は准大臣で、室町幕府第八代将軍足利義政の生母日野重子の従弟に当たり、義政の養育に努め、成長後は、その寵臣となった(この時、義政が成長するまでは資任の屋敷である「烏丸(からすま)殿」が将軍の御所として用いられた)。今参局(いままいりのつぼね:通称「お今」。義政の乳母)・有馬持家(義政寵臣)とともに権勢を振るい、「おいま・ありま・からすま」の三人で「三魔」と呼ばれ、恐れられた。江戸初期の光広は、歌人・能書家として知られた文化人で、細川幽斎から古今伝授も受けている(以上はウィキの「烏丸家」に拠った)。]