只野真葛 むかしばなし (15)
「奧より茶の間迄、引とほしの緣側にて、下は崖にて、むかふは、皆、田なり。殊の外、見はらしよく、田植などは、庭にみる如くなりし。」
と被ㇾ仰し。
「螢おほく、しかも袖ケ崎は並より大きなほたるなり。夕やみにとびちがふはすゞしくてよかりし。」
と被ㇾ仰し。子共の時分、つねに御はなしを伺(うかがひ)て、
「袖が崎へ行(ゆき)て見たし。」
と申せしに、
「其御長屋は借地(かりち)にて、今は御返しになりし故、あとかたもなし。」
と被ㇾ仰し。
「庭のむかふの崖ぎわは、三尺ばかり、薔薇垣なりしが、其ばら、春、花咲て、ちるやいなや、又、つぽみ、いでゝ、二度(ふたたび)、花、咲(さき)たりしが、はじめの花は、ひとへにて白大輪、あとは一めんに極紅(きよくこう)の八重小輪なり。其時は、父樣にも、御とし若(わか)にて、餘りおほく有もの故、めづらしきものともおぼしめさゞりしが、とし經て考へるほど、よき花にて、たぐひなきものなりし、其後、終に見しこともなし。」
と折々被ㇾ仰し。誠(まつこと)、此御代は御富貴(ふうき)のさかりにて有し故、そのふしの御はなしは、何を聞ても、心いさましきことなりし。
唐鳥のわたりを、「無益のこと」ゝて、公儀より、とゞめられしに、御富貴の餘りには、珍らしき鳥などかわせらるゝを[やぶちゃん注:ママ。]、このませられしに、『あやにくのこと』ゝ思召(おぼしめさ)れしを、御出入(おでいり)の町人、いのちにかえて、いろいろの鳥を、長崎より獻上したりしを、御悅(およろこび)被ㇾ遊て、御そばちかく召され、御酒(ごしゆ)など被ㇾ下、
「あたひは、のぞみ次第なり。いかほどにも、とらるゝほども、もちて行べし。さりながら、御門をいづる迄に、つまづきころびなば、みな、御とりもどしなるぞ。」
と、被ㇾ仰るかとひとしく、廣蓋《ひろぶた》にうづたかく金をつみて、二人にて荷なひいづること、片側に三(みたり)づゝなり。廣ぶたに六(むつ)の金を左右におきて、
「いざ、とれ。」
と、御意なり。町人、立上りて、袂に入(いれ)、懷に入、いろいろのことして取しが、一(ひとり)、廣ぶたも、とらざりしとなり。手ぬぐひをいだして、金をとりいれ、よくつゝみ、鉢卷にしたるが、殊にをかしくて、御意に被ㇾ遊しとなり。餘り、袂へ入過(いれすぐ)して立(たち)かねて、のこしなどするてい、殊の外、御興(ごきやう)なり。やうやう、御門をいでしが、御地輻(じゆふく)をまたぐと、腰が、ぬけし、となり。かごをよびて置し故、すぐすぐ、のりて下(さが)りしが、あとにて御しらべに成(なり)しが、
「七百兩ばかり取りし。」
と、なり。包(つつみ)がねならば、今少しも取らるべきを、みだし重(がさね)故、結句《けつく》とりかねしなり。
其頃、名代(なだ)のおごり、細川樣もおなじ御心にて、つねに御あそび御出入有しとなり。細川樣御もてなしのためにばかり、凉月亭の下一町[やぶちゃん注:百九メートル。]餘(あまり)兩がわを商人屋《あき》(んどや)に作らせられて、武具・馬具・大小の小道具、其外吳服物、すべての賣物を「ひし」とかざりて、人なしにして、
「御通筋、御意に入(いり)し物、何にても御とゝのへ被ㇾ遊べく。」
と申上(まうしあげ)しに、細川樣、御座に付せられて、
「さやうなら、其かたがわ[やぶちゃん注:ママ。]の品、のこらず、御かい上(あげ)。」
と仰られしとなり。
「其世の御あそびは格別なるものぞ。」
と、御はなしに伺(うかがひ)し。
[やぶちゃん注:以上の話の後半は、「七百兩」という大金を惜しげもなく遣わすことや、お仲間の名代の太っ腹の「細川樣」(「日本庶民生活史料集成」の中山氏の注に『九州の細川家の一族か』とされ、『名代のおごり人でその遊興振りの素晴らしかったことが書かれてある』とある)買い上げざまから見て、これは袖ヶ崎の下屋敷に隠居するに際して工藤丈庵を侍医として召し抱えた仙台藩第五代藩主伊達吉村(寛保三(一七四三)年七月に四男久村(宗村)に家督を譲った。宝暦元(一七五二)年没)の、丈庵が親しく実見したエピソードと読める。
『唐鳥のわたりを、「無益のこと」ゝて、公儀より、とゞめられし』中国やオランダとの貿易の中で、西洋から渡来した異鳥の取引を無益な取引として、公儀が表向き禁じたということであろう。徳川家重の治世で何となく腑に落ちる。
「廣蓋《ひろぶた》」縁のある漆塗りの大きな盆。
「一(ひとり)、廣ぶたも、とらざりしとなり」誰一人として広蓋ごと取ろうとはしなかったとのことである、の意であろう。
「地輻(じゆふく)」歴史的仮名遣は「ぢふく」が正しい。ここは下屋敷の門の最下部に地面に接して上方に突き出て取り付けてある横木のこと。
「包(つつみ)がね」包金銀(つつみきんぎん)。江戸幕府への上納や公用取引のために所定の形式の紙を用いて包装・封印された金貨・銀貨のこと。対するのが「みだし重(がさね)」で、バラのそれらを捻りに投げこんだものであろう。
「凉月亭」不詳。仙台藩下屋敷にあった離れか。
「商人屋《あき》(んどや)」商店のように拵えさせ。
「人なしにして」無人にしておき。]
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