譚海 卷之三 宇治黃檗山
○宇治黃檗山(わうばくさん)は、代々唐山(たうざん)の僧にて法嗣を傳ふる寺也。今時(きんじ)大鵬和尙と申(まうす)は、嶺南の人なる由。一旦隱居有けれども、後嗣の唐山僧なきにより再任有、終(つひ)に淸朝に請へども來る僧なき故、遷化後本朝の僧を住持に任ぜらる人事(じんじ)に成たり。大鵬までは稀に本朝の僧住持有といへども、唐山の僧絕(たえ)ず連綿して住持せしが、二代此邦(このくに)の僧住持續きたるは、此時始(はじめ)也。是まで例とせし公儀拜借金なども許しなく、六箇敷(むつかしく)なりたりといへり。
[やぶちゃん注:「宇治黃檗山」京都府宇治市にある黄檗宗黄檗山萬福寺(グーグル・マップ・データ)。寛文元(一六六一)年に明末清初の禅僧で渡来僧であった隠元隆琦(いんげんりゅうき 一五九二年~寛文一三(一六七三)年)によって開創された。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅くに開宗した黄檗宗の大本山で、建物・仏像様式・儀式作法・精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を持つ。
「唐山」中国。
「大鵬和尙」大鵬正鯤(たいほうしょうこん 一六九一年(福建泉州)~安永三(一七七四)年(宇治))清の黄檗僧で「長崎派」の画僧としても知られる。本姓は王、名は正鯤、号は笑翁。享保六(一七二一)年に来朝し、長崎の福済(ふくさい)寺の全巌広昌の法嗣となり、後の延享二(一七四五)年には黄檗山萬福寺のそれを嗣いだ。宝暦八(一七五八)年に再び同寺の住持となった(これが本文の「再任有」の謂い)。力強く品格の高い墨竹図で知られる。本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞奇譚であるから、示寂した後である。
「嶺南」普通は現在の広東省及び広西チワン族自治区の全域と湖南省・江西省の一部に相当する地域を指す語で、彼の生まれた福建泉州は含まれない。]