譚海 卷之三 石川丈山閑居地
○石川丈山閑居の地は、北山一乘寺村にありて、詩仙堂とて今に殘れり。今は尼寺となりて丈山の器物など、什物にてその寺に傳へたり、國初(こくしよ)[やぶちゃん注:江戸幕府開府の初め。]學者の翹楚(げうそ)といはれたる人也。又牡丹花老人の隨身(ずいじん)の器は、今に攝州池田に傳へて、一とせ諸人に見せたる事有、自然の机などあり隱者の興多しといへり。
[やぶちゃん注:「石川丈山」(天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての武将で文人。十六歳で徳川家康に仕えたが、三十三歳の「大坂の陣」で、手柄を立てながら、軍令に背いたことから、論功を受けることが出来ず、それを契機に退官して浪人となった。一時は浅野家に仕官したが、致仕し、京都郊外に隠棲して丈山と号した。江戸初期における漢詩界の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。幕末の「煎茶綺言」には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、「煎茶の祖」ともされる。洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に凹凸窠(おうとつか)を寛永一八(一六四一)年)に建て、終の棲家とした。現行では「詩仙堂」と呼ばれる。これは屋敷内の一間の、中国の詩家三十六人の肖像を掲げた「詩仙の間」に由来する。この詩仙は日本の三十六歌仙に倣って、林羅山の意見を求めながら、漢・晋・唐・宋の各時代から選ばれたもので、肖像画は狩野探幽によって描かれたものである。現在は曹洞宗の寺院でもあり、丈山寺(グーグル・マップ・データ)という。京に冥い私が、唯一、親しく訪れて、非常に惹かれたところである。
「翹楚」「翹」は「高く抜きん出る」、「楚」は「高く伸びた雑木」の意。才能が衆に抜きん出て優れていること、また、その人を指す語。
「牡丹花老人」室町中期の連歌師・歌人牡丹花肖柏(ぼたんか(げ)しょうはく 嘉吉三(一四四三)年~大永七(一五二七)年)。公家の中院通淳(なかのいんみちあつ)の子。和歌を飛鳥井雅親(あすかいまさちか)に学び、連歌を宗祇に師事して、古今伝授を受けた。宗祇・宗長と吟じた「水無瀬三吟」で知られる。
「隨身」ここは「常に傍に置いた遺愛の物」の意。
「攝州池田」現在の大阪府池田市(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「肖柏」によれば、『宗祇から伝授された「古今和歌集」、「源氏物語」の秘伝を、池田領主池田一門や、晩年移住した堺の人たちに伝え、堺では古今伝授の一流派である堺伝授および奈良伝授の祖となった』とあり、また、十六世紀、永正(一五〇四年~一五二一年)の『初期に摂津国池田を訪れ、大広寺後園の泉福院に来棲し、これを「夢庵」と称し、次の句を詠んでいる』。
呉服(くれは)の里に隱れて
室を夢庵と號して
笹の葉の音も賴りの霜夜かな
この『「呉服の里」とは、中世の池田地方に呉庭荘という荘園があったことに拠り、現在も町名や呉服神社に名を残している。「夢庵」の肖柏は以後、自らを「弄花」と号し、連歌を詠んだ。同地の国人領主池田充正の次代の正棟が肖柏を庇護し、これを通じて連歌に親しみ、池田一門の連歌流行をもたらしたため、「連歌の達人」と呼ばれた。こうして後世になって大広寺苑内には、肖柏の遺跡が残されることとなった』。『その後』も『度々』、『上洛したが』、永正一五(一五一八)年に『和泉国堺に移り、その地の紅谷庵に住み』、『没した』とある。]