譚海 卷之三 淸水谷家廊間櫻
淸水谷家廊間櫻
○淸水谷殿(しみづだにどの)御庭にらうまと云櫻有、もと禁中より移されたる花にして、後水尾院勅命の花也。御所の廊の間に生じたる櫻ゆゑ、かく名付させ給ふと云。又近衞殿にも八重櫻とて名木有、今は枯てなきよし、其木の枝を祕し置れて器物に造るといへり。
[やぶちゃん注:「淸水谷家」私の知るところでは、西園寺家一門である。それは、「耳囊 卷之九 淸水谷實業卿狂歌奇瑞の事」で知り得たことである。そちらの主人公は公家・歌人であった清水谷実業(さねなり 慶安元(一六四八)年~宝永六(一七〇九)年)で、信濃飯田藩初代藩主堀親昌(ちかまさ)の子で元は武士であったが、母方の叔父三条西公勝(さんじょうにしきんかつ)の養子として三条西家で育った。二十五の時、公勝次男で清水谷家を継いだ従兄の公栄(きんひさ)の養嗣子となった。陽明学者熊沢蕃山に学び、元禄元(一六八八)年には霊元院(第百十二代天皇)から古今伝授の初段階とされる『和歌「てにをは」口伝』を受け、中院通茂(なかのいんみちしげ)・武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ)とともに霊元院歌壇の中心的歌人の一人として活躍した。作品・著書としては元禄一五(一七〇二)年の「百首歌」、宝永二(一七〇五)年の「到着百首歌」、寛文一二(一六七二)年の「高雄紀行」などがある、と注しておいた。時代的に本篇はこれよりずっと後のことであり、彼は以下の後水尾天皇の存命期と一部重なるから、取り敢えずは無意味ではあるまい。
「後水尾院」(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年/在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)は江戸初期の天皇。幕府開府は慶長八年二月十二日(一六〇三年三月二十四日)。
「廊の間」内裏内の廊下に囲われた坪庭か。
「近衞殿」五摂家の一つ。通称「陽明家(ようめいけ)」。藤原北家近衛流嫡流。摂関家には二流あるが、近衛流は藤原忠通四男を、九条流は同六男を祖としている。五摂家の中で初めて藤氏長者を務めたのも、この近衛流である。]