譚海 卷之三 東福門院御入内
○東福門院關東より御入内ありしかば、いかゞにやとうちうちに禁中にて申(まうし)あへるに、何事も覺束(おぼつか)なき事なくたがはせ給はで、みなおどろきかんじ奉りしとぞ。御歌の道もことに愚(おろか)ならずましまして、さくをまち得えては又散ぞうき花はおもひのたねにやはあらぬなどと云(いふ)御歌、口碑に申傳へたる事也。諸道に立入せ給ひ、香の方にも御流儀とて世に傳へもてあそぶ事多し。佛法にも殊に歸依ましまして、御一生涯御建立の佛像あまた有、御染筆の經卷等も寺々に傳へたるものおほくあり。
[やぶちゃん注:「東福門院」前条を参照されたいが、ウィキの「徳川和子」の「人物」の項によれば、『気が強い夫』『後水尾天皇と』、『天皇家を押さえつけようとする幕府の間を取り持つことに奔走する気苦労の多い生涯であった』とし、『修学院離宮を建てた費用の大半が和子の要請により』、『幕府から捻出された物とされる』。『後光明天皇の崩御直後にその弟の後西天皇の即位を渋る(後西天皇が仙台藩主伊達綱宗の従兄弟であったため)幕府を説得して即位を実現させたのも』、『彼女の尽力によるとされる』。『夫』『後水尾天皇は後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くしたことで知られるが、妻の和子自身もかなりのセンスの持ち主であった』とあり、『茶道を好み、千利休の孫である千宗旦を御所に招き茶事を行い、茶道具に好み物も多く、野々村仁清に焼かせた長耳付水指(三井記念美術館所蔵)が現存する』。『宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだのは和子といわれ、尾形光琳・乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立てたとされる』。『和子の注文した小袖のデザインは後に年号から』「寛文小袖」『と言われるようになった』という。慶安三(一六五〇)年には、『二十二社の上七社の一つである平野神社の「接木の拝殿」として知られる拝殿を寄進している』。『手先が非常に器用な女性であり、特に押絵を得意とした。現在』、『日本現存最古の押絵は和子の作成の物と言われる。また、京の文化人にとっては和子の押絵を拝領することは一種のステータスであり、現在千家では和子作の押絵を多数所蔵しているという』とあった。]