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2021/02/17

怪談登志男 廿四、亡魂通閨中

 

   廿四、亡魂通閨中(ばうこん、ねやにかよふ)

 慶長の頃、成田治左衞門と云武士ありけり。京都に住し頃、あてやかなる女をかたらひぐして、深く契りけるが、三年餘りありて、女、死しぬ。末期(まつこ)におよんで、成田が手を取、淚を流し、

「形は煙(けふり)ともなれ、土ともなれ、魂(たましゐ)は、君が傍(そば)を、はなれじ。」

と云しが、死後、數(す)十日の後、夜ふけて、亡妻、來りて、成田が枕もとに居寄て、打しほれたる姿なり。

 成田、起(おき)上りて、

「一度[やぶちゃん注:「ひとたび」。]死たるものの、二度[やぶちゃん注:「ふたたび」。]來るべき理なし。汝は、定て、妖魔(ばけもの)なるべし。然れども、女房が姿なれば、斬(きる)に忍びず。立さるべし。」

と、刀を取て、白眼(にらみ)ければ、

「うらめしき殿の御詞(ことば)かな。最後に申置し言葉は、はや、思召忘れ給ひしか。形はむなしくなれども、魂は朽やはてなん、いつまでも、君があたり、立はなれずあるべし。斬(きり)たまふとも、形、なければ、疵つく事、なし。三年[やぶちゃん注:「みとせ」。]が程、契りし事は、おもひ出し[やぶちゃん注:「いだし」。]たまはずや。」

と、うらみかこち、泣しが、あけ方近くなりて、立さりぬ。

 是より、疾風甚雨(しつふうちんう)といへども、かならず、來りける程に、後は、馴れて、生前のごとく、打かたらひしが、何とやらん、心、解(とけ)ず。

 俄に、

「駿府へ下りて、これを遠ざけん。」

とせしに、駿府にいたりし夜、又、來りて、

「生を隔(へだつ)れども、心は、へだてぬ物を、何とて、嫌ひ給ふや。」

と、うらむ。

 斯て[やぶちゃん注:「かくて」。]、此所に、一兩月、暮しけるが、

『海路(かいろ)をへだてなば、來らじ。』

と思ひ、豐後の國に所緣あれば、大坂より、舩に乘り、順風にて、六、七日が程に、いたり着ぬ。

 女房、又、來る事、まへのごとく、

「千万里の波濤(はたう)はおろか、盡大地(ぢんだいぢ)の内、日月の照らし給はん所迄は、はなれはせじ。」

と云に、治左衞門、今は、術計(じゆつけい)盡(つき)て、此所に、一兩年を送りける。

 成田は、心ばへ、やさしきものにて、相親む人[やぶちゃん注:「あひしたしむひと」。]、おほかる中に、毛利・舩橋・石田・尾關・村井何某(かし)、此五人は、別(べつ)して入魂(じつこん)なれば、云合て[やぶちゃん注:「いひあはせて」。]、日暮より來りて、

「今宵、斯(かく)連立(つれだち)來るは[やぶちゃん注:「きたるは」。]、常に貴殿に不審なる事あるを、見屆(みとゞく)べき爲なり。夜あくる迄は、歸るまじ。」

と、酒くみかはし、遊び居たり。

 亭主治左衞門も、せんかたなく、物語して居たるが、夜の更(ふく)るに隨ひ、睡(ねふり)入て、前後もしらぬ躰[やぶちゃん注:「てい」。]なり。

 推(おし)うごかせど、鼻息ばかりありて、死したるごとく、五人の侍、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、心得ず、打守りたる所に、俄に、そゞろさぶく、齒の根もあはず、身の毛、彌立(よたち)、戰々慄々(せんせんりつりつ)として、互(たがい)に拳(こぶし)を握り、膝に當て、目を見合たる斗なり[やぶちゃん注:「みあはせたるばかりなり」。]。

 斯(かく)すること、しばしありて、漸[やぶちゃん注:「やうやう」。]、心落付たるに、外より、障子をあくる音、あり。

 これを見れば、十七、八には過じと見ゆる女の、色白く、髮、うるはしく、長きが、閨の内にあゆみ入を、石田・舩橋、跡に付て、入り、先、戶を閉(とぢ)たり。

 毛利・尾關・村井、手に手に、燈を持て、葛籠(つゝら)・挾箱(はさみばこ)などの、隈々(くまぐま)まで、尋、搜(さぐ)りけれど、何もなし。

「今は。これまでぞ。」

と、五人の侍は立出て、各、私宅に歸り、翌日、成田に具(つぶさ)に語りければ、

「今は、何をか包むべき。京都より、是まで、付そひ、一夜も、はなれず、つきしたふ亡妻が㚑(れい)なり。我、此事を他人に漏さば、命、あるまじ。」

と、いゝし。

「斯(かく)、露顯せし上、各へ、つゝむべきやうもなし。是非におよばず、語り侍る。」

と云しが、果して、成田は、五、三日、打惱(なやみ)けるが、終(つゐ)に、空しく成りぬ。

「をそろしきは、女の一念なりけり。」

と、ある人の語りき。

[やぶちゃん注:標題は「亡魂、閨中に通ず」。ところが、である。試みに主人公「成田治左衞門」の名で検索をかけたところが、肥前国平戸藩藩士熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳六(一七一六)年に刊行されたとする「武將感狀記」(ぶしやうかんじやうき(ぶしょうかんじょうき):戦国時代から江戸初期までの武人について著された行状(ぎょうじょう)記。全十巻二百五十話。熊沢淡庵は諱は正興で、号を淡庵又は砕玉軒とも称し(本書は別に「砕玉話」とも呼ぶ)、備前国岡山藩藩士で著名な陽明学者熊沢蕃山の弟子とされている。但し、『東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということ』で、『これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない』と参照したウィキの「武将感状記」にあった)の巻之八の二話目に、「成田治左衛門契二亡妻事」(成田治左衛門亡妻(ばうさい)と契(ちぎ)る事)という話をこちら(PDF)の版本に見出した68コマ目)。その内容たるや、お読みになれば判るが、本篇と酷似しており、細部の描写などで完全に一致する箇所もあった(本篇よりも実録的雰囲気を高める工夫が成されてはいる)。本「怪談登志男」は寛延三(一七五〇)年刊であるから、四十四年も後であり、これはどう考えても、原著者とする慙雪舎素及子或いは編者静観房静話が、「武將感狀記」のそれをほぼ丸ごとお手軽に援用したとしか思われないことを言い添えておく。なお、宮負定雄(みやおいやすお 寛政九(一七九七)年~安政五(一八五八)年:下総香取の人。名主の家に生まれたが、三十五歳の時、その仕事に嫌気がさし、酒食に溺れ、生家を逐われ、遊女と駆け落ちをするなど、漂泊放浪の人生を送るが、後に平田篤胤の門人となり、多くの民俗採集を行い、「太神宮靈驗雜記」「幽現通話」「農業要集」などを著した人物)の「奇談雜史」(これは柳田国男の論文「山の神とヲコゼ」を生み出す素材を与えたものとしてとみに知られる)にも、酷似したものが載るサイト「日本古学アカデミー」のこちらで、清風道人氏の現代語訳が読めるが、こちらは、享保年中(一七一六年~一七三六年)と時制を引き下げ、成田治左衛門は浪人で、『大阪谷町』辺りに住んでいたとし、『元来は西国の方の侍で』あったが、わけ『有って国を立ち退き、大阪へ来て』、『新蔭流の武術を指南して生計を立て、後妻を迎え』たとする変更が加えられあるものの、展開の基本はほぼ同じであることが判る。これはまず、都市伝説の変容過程をよく伝えてるものと思う。

「慶長」一五九六年~一六一五年。

「成田治左衞門」不詳。というより、冒頭注の通り、以下に出る彼の友人らも、実在を調べること自体、著しく空しい気になったので、それらも検索もしないし、注もしないことにした。悪しからず。

「盡大地(ぢんだいぢ)」総ての大地。全世界。

「入魂(じつこん)」「昵懇」に同じい。

「葛籠(つゝら)」「つづら」。調度品の一種で、衣服などを入れる、蔓性植物や竹や檜で編んだ蓋付きの箱。「衣籠」「葛羅」などとも書く。古くはオオツヅラフジ(キンポウゲ目ツヅラフジ科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum )のつるを用いて、縦を丸蔓、横を割った蔓で編み、四方の隅と縁は、鞣(なめ)し革で包んだという。後には竹や檜の剥片を網代に編んで作り、近世に至ると、さらにこれに紙を張って、柿渋や漆などを塗るものも現れたが、形は、概ね。長方形であった。

「挾箱(はさみばこ)」近世の、道中の着替えの衣服などを中に入れて棒を通して従者に担がせた箱。二枚の板の間に衣服を入れてそれを竹で挟んだ戦国期の「竹挟(たけばさみ)」から転じたものとされる。]

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