只野真葛 むかしばなし (18)
ぢゞ樣の多藝なるも、みな、このやうな人はづれなる御まねびやうと察しられたり。
御家へ、めしかゝへの頃は、ぢゞ樣、三十四、五にもあらんに、あまたの藝、御きわめ被ㇾ成しは、凡人ならず。
父樣には書物御をしヘ被ㇾ成しのみにて、醫の道は少しもつたへなく、たゞ藥こしらへにいとまなくて有しとなり。中年にて御病死故、其身にも、あとのこと、つたふる御かくごもなかりしは、惜しきことなりし。
父樣、醫業は、實家のぢゞ樣、又は、其世にすぐれたる醫師などにたよりて、みづから御くふうも被ㇾ成しことなり。
父樣、數寄屋町(すきやちやう)より袖ケ崎へ御かよひ被ㇾ遊し時、さる町の茶屋に御休被ㇾ遊しに、老人壱人、やすみ合(あひ)て有しが、
「あなたは工藤丈庵樣の御あとにて。」
と聞(きき)かけし故[やぶちゃん注:底本は「かけ故」。「仙台叢書」も同じ。「日本庶民生活史料集成」で補った。]、
「左樣。」と御こたへ被ㇾ成しに、
「さて。丈庵樣はかくべつの御名醫にて有し。私が、わかい[やぶちゃん注:ママ。]時分、松坂屋の手代と懇意にて候へしが、其者、いたつて、丈夫の人なりしが、ふと、小用不通じにて、『はれ病(やまひ)』となりて、いろいろ、療治いたしても、さらにしるしもなし。諸(もろもろ)の醫も斷(ことわり)申せしを、私がたのまれて、丈庵樣へ上(あが)りまして、やう子(す)を申上(まうしあぐ)るを御聞被ㇾ成、
『それはかねて淺葱《あさつき》を好(このみ)ておほく食(くひ)はせぬか。』
と、おたづね被ㇾ成し故、私、隨分、存じてをること、
『成程。左樣にてござりました。』
と申上たれば、
『それなら、行(ゆき)て見るにもおよばぬ。藥をひかへて、生姜のしぽり汁を一日に茶わんに一ぱい、三度(みたび)ばかりに用(もちひ)よ。平癒すべし。』
と被ㇾ仰ましたが、其通りにいたしましたれば、たちまち、通じ付(つき)、誠に、よく成(なり)まして、御禮に上りました。御名の、たかきほど有て、きめう[やぶちゃん注:「奇妙」。神妙。]の御療治でござりました。」
と、いひしとぞ。
「御紋所(ごもんどころ)を見おぼヘて居(をり)し故、ふと、ぞんじ出(いだ)しました。」
と、いひてわかれしが、何の故といふこと、しれず。」
と、御歸り後(のち)、はなしなりし。
一を聞(きき)てさへ、かやうのことなるを、少しも、御つたへにならぬは、口惜しきことなり[やぶちゃん注:底本は「のなり」。「日本庶民生活史料集成」で除去した。]。
父樣、御實家のことは、よく御傳へも有て御存(ごぞんじ)なれども、養家のことは、一向御傳へなき故、御ぞんじなし。
いつも知れたことゝおもひすごすうちに、傳へもらすものなり。
「是もおぽへよ、かれもこうよ。」
と、源四郞へ被ㇾ仰しを、それもかひなきことなりと、思ひ出づれば、かなしき。
[やぶちゃん注:「數寄屋町」現在の中央区八重洲一丁目・日本橋二丁目(グーグル・マップ・データ)。ただ、ここから周庵(平助)が通ったという意味がよく判らない。
「小用不通じにて、『はれ病(やまひ)』となりて」急性腎不全による浮腫か。
「淺葱《あさつき》」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属エゾネギ変種アサツキ Allium schoenoprasum var. foliosum。但し、それと腎不全の関係はよく判らない。普通のネギ属ネギ Allium fistulosum は大蒜(ネギ属ニンニク Allium sativum。ネギ属の属名はラテン語で「ニンニク」の意)の主成分であるアリシン(allicin)を多く含み、強い殺菌作用で、多食すると腹痛は起こすが、腎臓に悪さしたり、浮腫は起こさないように思う。
「松坂屋」当該ウィキ等によれば、慶長一六(一六一一)年に、織田信長の小姓であった伊藤蘭丸祐広の子である『伊藤蘭丸祐道』(すけみち)『が名古屋本町で 呉服小間物商「いとう呉服店」創業』した。『祐道は』後の慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」で『豊臣方について戦死し、呉服店は一旦』、『閉店とな』ったが、万治二(一六五九)年に『祐道の遺児』『伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を再開』した。元文元(一七三六)年、『呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達とな』った。元文五(一七四〇)年には『尾張藩の呉服御用とな』り、延亨二(一七四五)年に『京都室町錦小路に仕入店を開設』、寛延二(一七四九)年、『新町通六角町に移転』したとある。無論、現在の「松坂屋」である。]