フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 只野真葛 むかしばなし (9) | トップページ | 怪談登志男卷第四 十七、科澤の强盗 »

2021/02/11

只野真葛 むかしばなし (10)

 

○母樣、氣質も、このたぐひにて、萬(よろづ)を察せらるゝこと、明かにて、すみのぼりし所、俗に、あわず[やぶちゃん注:ママ。]。

 「げん」といひし、「おてる」が乳母は、大のねぼうにて、いねぶりをしても、中々、めつたに、目をさまさぬ生(しやう)なりし。

 夏、ひとつ蚊帳(かや)に入て寢(いね)しが、ねぞうも、あしく、ふみぬきて、橫筋かいに成(なり)てねるを、よなかに、二、三度づゝ、御手づから、枕させ、足をなほし、きる物、かけてつかはされしを、每夜のことなるに、終に一度も、「かく」すると、御言葉だして被ㇾ仰し事は、なかりし。

 ワ、夜《よる》、めさめてみれば、餘り、もつたいなきやうなる故、

「おこして、ねなほさせん。」

と申せば、

「いやいや。それではやかましゝ。此ねぼうを、ひとり、おこさば、内中(うちぢゆう)のものゝ目も、さむべし。すておきて、寢びへ・かぜ引(ひき)などすれば、やはり、おてるが、めいわくになる。」

と被ㇾ仰て、病身の御人の介抱、おこたらず、被ㇾ遊しを、かくべつの御慈悲心と感じて見あげたりし。

 さやうに被ㇾ遊し故にや、「げん」も、殊の外、したひ奉りて、神佛のごとくに有難がりて有し。

 おてるなどのそだてやうも、誠に御慈悲の行屆(ゆきとどき)しことなりし。

 其かたはしを語きかせる間(ま)もなく、はなしといへば、其身の病(やまひ)をかぞふるばかりにて、はてしぞ、口おしき。

[やぶちゃん注:「母樣、氣質も、このたぐひにて、萬(よろづ)を察せらるゝこと、明かにて、すみのぼりし所、俗に、あわず」なかなかに複雑な謂い方である。まず、母遊の気性もこの類い――どんなことでも事前に察することに明らかであるという特異な能力を持つ――という点に於いて――前の長庵の病いと早逝を見切った不思議な僧と同じであった、というのである。「すみのぼりし所」は「濟み昇りし所」或いは「角上りし所」で、「突き詰めたところに於いて」の意で、「究極に於いて世俗一般の考え方や習慣とは合わなかった」というのであろう。

「おてる」遊の五女で真葛の末の妹照子。

「もつたいなきやうなる」「勿體無き樣なる」。一介の乳母の毎夜の寝相の悪さを一家の主婦が、何度も直してやることは、確かに、勿体ないことと見える。

「寢びへ・かぜ引」「寢冷え・風邪引き」。老婆心乍ら、但し、誰がそうなるのを恐れるかと言えば、乳母の「げん」がそうなっては面倒を見ている「おてる」の迷惑になるから、と主婦の遊が気を使っているという迂遠な謂いなのである。

「病身の御人の介抱、おこたらず」これは広く遊の様子を言っているのであろう。病身の御方があれば、どのような相手であれ、その人を、怠ることなく介抱されたというのである。

被ㇾ遊しを、かくべつの御慈悲心と感じて見あげたりし。

 さやうに被ㇾ遊し故にや、「げん」も、殊の外、したひ奉りて、神佛のごとくに有難がりて有し。

「其身の病をかぞふるばかりにて、はてしぞ、口おしき」母遊自身の病いと闘病を語るばかりで、話の果てに、母さまの果てられたことに及ぶのは、何んとも口惜しいことなのです、の謂いか。]

« 只野真葛 むかしばなし (9) | トップページ | 怪談登志男卷第四 十七、科澤の强盗 »