只野真葛 むかしばなし (10)
○母樣、氣質も、このたぐひにて、萬(よろづ)を察せらるゝこと、明かにて、すみのぼりし所、俗に、あわず[やぶちゃん注:ママ。]。
「げん」といひし、「おてる」が乳母は、大のねぼうにて、いねぶりをしても、中々、めつたに、目をさまさぬ生(しやう)なりし。
夏、ひとつ蚊帳(かや)に入て寢(いね)しが、ねぞうも、あしく、ふみぬきて、橫筋かいに成(なり)てねるを、よなかに、二、三度づゝ、御手づから、枕させ、足をなほし、きる物、かけてつかはされしを、每夜のことなるに、終に一度も、「かく」すると、御言葉だして被ㇾ仰し事は、なかりし。
ワ、夜《よる》、めさめてみれば、餘り、もつたいなきやうなる故、
「おこして、ねなほさせん。」
と申せば、
「いやいや。それではやかましゝ。此ねぼうを、ひとり、おこさば、内中(うちぢゆう)のものゝ目も、さむべし。すておきて、寢びへ・かぜ引(ひき)などすれば、やはり、おてるが、めいわくになる。」
と被ㇾ仰て、病身の御人の介抱、おこたらず、被ㇾ遊しを、かくべつの御慈悲心と感じて見あげたりし。
さやうに被ㇾ遊し故にや、「げん」も、殊の外、したひ奉りて、神佛のごとくに有難がりて有し。
おてるなどのそだてやうも、誠に御慈悲の行屆(ゆきとどき)しことなりし。
其かたはしを語きかせる間(ま)もなく、はなしといへば、其身の病(やまひ)をかぞふるばかりにて、はてしぞ、口おしき。
[やぶちゃん注:「母樣、氣質も、このたぐひにて、萬(よろづ)を察せらるゝこと、明かにて、すみのぼりし所、俗に、あわず」なかなかに複雑な謂い方である。まず、母遊の気性もこの類い――どんなことでも事前に察することに明らかであるという特異な能力を持つ――という点に於いて――前の長庵の病いと早逝を見切った不思議な僧と同じであった、というのである。「すみのぼりし所」は「濟み昇りし所」或いは「角上りし所」で、「突き詰めたところに於いて」の意で、「究極に於いて世俗一般の考え方や習慣とは合わなかった」というのであろう。
「おてる」遊の五女で真葛の末の妹照子。
「もつたいなきやうなる」「勿體無き樣なる」。一介の乳母の毎夜の寝相の悪さを一家の主婦が、何度も直してやることは、確かに、勿体ないことと見える。
「寢びへ・かぜ引」「寢冷え・風邪引き」。老婆心乍ら、但し、誰がそうなるのを恐れるかと言えば、乳母の「げん」がそうなっては面倒を見ている「おてる」の迷惑になるから、と主婦の遊が気を使っているという迂遠な謂いなのである。
「病身の御人の介抱、おこたらず」これは広く遊の様子を言っているのであろう。病身の御方があれば、どのような相手であれ、その人を、怠ることなく介抱されたというのである。
被ㇾ遊しを、かくべつの御慈悲心と感じて見あげたりし。
さやうに被ㇾ遊し故にや、「げん」も、殊の外、したひ奉りて、神佛のごとくに有難がりて有し。
「其身の病をかぞふるばかりにて、はてしぞ、口おしき」母遊自身の病いと闘病を語るばかりで、話の果てに、母さまの果てられたことに及ぶのは、何んとも口惜しいことなのです、の謂いか。]